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憲法の危機と民主主義と近代(3)~民主主義の基礎は何か

2015年05月10日 00時00分52秒 | Weblog
 現在の日本の右傾化=ナショナリズムの高揚と軍事国家化には、もちろん世界史的同時性の側面もある。それこそグローバル化した世界では世界中のどこかの国の問題が、別の国の政策に大きな影響を与えるざるをえない。ヨーロッパにおけるネオ・ナチ勢力の伸張、中東やアフリカ、中央アジアに広がるイスラム原理主義武装勢力、極東と東南アジアにおける領土・領海問題の激化と軍事的緊張の高まり、米国におけるキリスト教原理主義とネオコンの再浮上、中南米での根強い反米主義、そしてその背景にあるグローバル企業による世界支配と、格差と貧困の究極的な激化、地球環境=人類の生息環境の加速度的壊滅。そうした世界的な政治・経済・環境・軍事的状況に引きづられて日本の右傾化が進んでいることは否定できない。

 とは言え、ただ歴史に流されていくだけだとしたら人類に未来はない。近代以前の時代においては、人類は状況に流されていくだけでも何とかなった。隣の国が戦争の準備をしていたら、自国が先に攻めていって相手を滅ぼす。収穫(獲)が少なくなったら、別の場所へ移ったり、活動範囲を広げたりする。そうした過程を経て各国、各民族は栄枯盛衰を繰り返しながらも、人類全体としての発展を少しずつ進めてきた。そこでは人類も地球環境の一部としてとりあえずバランスを取ることができていたから、人々はいわば自然に身を任せていても最終的な地球全体規模、人類全体規模での収支は合うようになっていたのだ。
 ところが近代の産業革命は、人類に地球史上空前の圧倒的に巨大な力を与えてしまった。それは巨大な生産力というプラスの力と同時に(少なくとも人類の尺度では)永遠に取り返しのつかない破壊というマイナスの力を含んでいた。それまで地球上のどの生物も持たなかったような、一瞬にして人類および地球上のあらゆる生態系をも滅ぼすことの出来る力である(この場合の「一瞬」も地学的スケールにおける一瞬と考えていただいてもよい)。
 人類はこれまでの歴史とは全く違う次元に突入したのである。子供のケンカはせいぜい擦り傷・たんこぶ程度で済むけれど、大人が得物を持ってケンカをしたらただでは済まない。人類はまさに今そのステータスに上がったのである。しかも一番危ない、身体は大人、精神は子供という状況にあると言えるだろう。もはや、これまで許されてきたからこれからも許されるなどと甘いことは言っていられないのだ。

 当然ながら、政治の質もそれにあわせて変化させていかねばならない。近代以前の政治や軍事は、特定の個人やグループや民族の繁栄のために行われれば良かった。近代に入るとそれが国家に替わり、今ではグローバル企業の利益になった。しかし、もはやそれで良いと言える時代ではない。否応なく現代の政治は誰かの繁栄よりも全体の存続を目的に行われねばならなくなったのである。

 それではその政治の質の保証、責任は誰が負うのか。
 一般的に言えば、それは政治家の責任である。おそらく誰もがそう言うだろう。しかしそれは本当にそうなのか。民主制だから人々から選出された政治家が責任を持って政治を行うのだ、人々はそれを選挙を通じて採点すればよいのだ、それが現代日本の「良識」である。その際、政策を提示し実行するのは政治家という業者であり、消費者としての民衆は並べられたメニューを見て自分に一番都合の良い業者を選ぶ。ただし品質は保証してくださいね、ということだ。
 ところが多くの業者は小ずるく、なるべく安く質の悪いものを高くたくさん売ろうとする。それはその分、自分の利益になったり、自分にとって楽だったりするからだ。そのためメニューはきれいに見栄え良く、いかにも素晴らしいもののように飾り立てる。消費者はそのことを知ってはいるけれど、結果的に問題があったら業者の責任にすればよいのだから、信じた振りをすればよい。騙される者より騙す者が悪いのだから。気楽なものである。
 しかし、それでよいのだろうか? 政治は店頭で選ぶ商品と同じなのだろうか。
 民主主義がイコール代議制なのではない。民主主義の理念は言ってみれば、その共同体に所属する人全てが同等の権利を有する共同経営者であるというものだ。そうであるなら政治の責任も全ての成員が負うべきである。

 現在の安倍極右政権は、猛烈な圧力とスピードで戦後日本の平和と民主主義を破壊しようとしている。連休明け国会では、いよいよ安保法制に関する議論が始まった。評論家たちは、こうした安倍自民党に対して野党が戦略を練って闘わないと厳しいと言う。しかしそれは本当に野党の問題なのだろうか。
 現実に起こっていることは、選挙制度のまやかしで生じた国会議員比率によって、国民の意思とはかけ離れた改憲派の絶対優勢状態になっているということである。改憲反対の世論と改憲派議員の割合は全く逆転している。
 街頭インタビューでは多くの人がマスコミの受け売りで、「野党が弱い」「野党がふがいない」と言う。しかし本当に弱く、ふがいないのは有権者なのだ。このような歪んだ選挙制度を容認し、国会審議の行方を政治家の責任にして済ましている国民こそが、最も無責任だと言うべきではないだろうか。
 代議制の正当性を保証するのは、有権者が政治家にかける圧力である。政治家に圧力を与えられない有権者という構造の下では民主主義は成立しない。それこそそれは明治憲法のようなニセモノの形骸化した民主主義という装いでしかない。
 代議員が意向に沿わないことをするなら、自分自身がデモなどの直接行動を通して政治参加するということ=直接民主主義こそが民主主義の基本であり、普段は隠されているが実はそれこそが代議制を支える本当の基礎なのである。それがあるからこそ代議制に正当性が与えられるのだ。
 ところが前述したとおり、自民党政権の教育政策で頭の中を「洗濯」されてしまった日本人は、今や全く逆にデモや直接行動、批判精神、反権力を、反社会行為であるかのように思い込まされてしまっているのである。
(つづく)