いちはらアート×ミックス2014
連休明けの休日を利用し兼ねてから宣伝中のイベントに行って見た。
車で初発点の上総牛久駅に行き公式ガイドブックスを購入、最初に「内田未来学校」次は「旧里見小学校」、「市原湖畔美術館」、「旧月出小学校」などを見て回った。
これらを企画・デレクトした北川フラムさんの「空き家が美術館になった!あるものを使って新しい価値をつくりだす」というテーマを見て楽しんだ。
被災地のいいおかに例えれば「空き地を花と緑で埋め尽くす!流す汗と楽しみを商いという価値を生み出す!」と実感した。
その手始めに2年後に移転する飯岡中学校の利活用が地域の将来に道筋を決めるように思えた。
①旧内田小学校

②旧里見小学校

③月出小学校

連休明けの休日を利用し兼ねてから宣伝中のイベントに行って見た。
車で初発点の上総牛久駅に行き公式ガイドブックスを購入、最初に「内田未来学校」次は「旧里見小学校」、「市原湖畔美術館」、「旧月出小学校」などを見て回った。
これらを企画・デレクトした北川フラムさんの「空き家が美術館になった!あるものを使って新しい価値をつくりだす」というテーマを見て楽しんだ。
被災地のいいおかに例えれば「空き地を花と緑で埋め尽くす!流す汗と楽しみを商いという価値を生み出す!」と実感した。
その手始めに2年後に移転する飯岡中学校の利活用が地域の将来に道筋を決めるように思えた。
①旧内田小学校

②旧里見小学校

③月出小学校

今日の新聞各紙に「日本創生会議」が試算した人口推計データが掲載された。各自治体の名前を挙げ数字で示されると「消滅」が現実的になって来た。
放っておけばという前提だが例えば銚子市では総人口が36、950人(減少率65,4%)になるという。旭市では減少率45,1%であるが震災を受けた飯岡地区に限れば銚子市を上回ることも考えられる。
例えば私の住む西下町では震災前に80数世帯であったが現在では50世帯を下回ってきている。減災に強いまちづくりは同時に生活力のある地域であることを考えれば人口減加速化に向けての策を必須になって来た。
飯岡中学校の現校舎は昭和36年、木造の校舎からコンクリートに新築、46年に改築、その後、増改築して現行の校舎・体育館に至っている。
私の家族、家内・子供二人は飯岡中で世話になり生涯の友を得ている。そして、この町で生まれ少年期を辿った人は何れも掛けがえのない時間を過し生涯を辿る経路となっている。他所からこの地に居を定めた者には得がたいものである。
平成23年3月の震災で海岸に面する飯岡地区の街並みと歴史的な資料はほぼ消滅してしまった。後になって当時を知る必要に迫られたとき膨大な労力と想像力が必須となる。例えば元禄津波の記録は数点の資料と貧困な想像力に依存しているのが事実である。
明治から今日まで小学校・中学校は地域の様々な共同性の中核を担って来た。言い換えれば消滅に向う地域の共同性の再編にとって学校の有り様が唯一手がかりと考えられる。
を少年期をているが唯一の2年後には飯岡福祉センターの近くに新築され移転される。
先月末から仮設住宅の撤去作業が始まっている。本日時点で内部の設備がほぼ終了し本体の解体作業に入るようである。
3年間、被災者は止む無く住まいをこの仮設に定め先月にはそれぞれの地に居を移した。
震災の記録を辿るものはほとんどが<ガレキ>として霧消し、残るものはJA時計など両手で数えるものになっている。
よくよく考えると震災の生活痕を辿る唯一のものは仮設住宅ではないか、昨年末からこの仮設住宅を何とか残す道はないかと労を重ね、所有者である㈱三協フロンテアへ譲渡の手続きに入った次第である。
幸い㈱三協フロンテアの代表者は私どもの意向を汲み取って頂き無償の譲渡となり今日、現場責任者と移設の段取りとなった。
順調にことが運べば今月中旬には被災地に仮設住宅の設置が行なわれる。