笹川繁蔵の首洗の井戸「飯岡山不動院定慶寺縁起」
予てより常慶寺境内に笹川繁蔵の首洗の井戸があったという話を聞いていた。墓参りの度に何処かなと探して見たが某の井戸らしきものは無かった。
先ごろ寺に出向きことの経緯を説明し笹川繁蔵の首洗の井戸について住職から直に話を聞くことが出来た。住職は古びたチラシを探し出して話をしたのが笹川繁蔵の首洗の井戸「飯岡山不動院定慶寺縁起」であった。
それによると昭和30年代の初め頃までは首洗の井戸があり、観光客にこのチラシを配っていた。そのうちに訪れる人も少なくなりいつの間にか井戸も埋められてしまったようだ。掘り起こせばありますと当時の場所を案内して頂いた。
常慶寺境内「笹川繁蔵の首塚」
笹川繁蔵の首洗の井戸があったという道路脇の三角形のところ
笹川繁蔵の首洗の井戸「飯岡山不動院定慶寺縁起
この定慶寺縁起は字は小さく読みにくい。笹川繁蔵の最後のところを引用すると弘化4年7月4日夜半飯岡方の堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田の甚蔵の3名が計画し繁蔵が女房お豊の実家へ行く途中びやく橋田浦に於いて襲撃、胴体は利根川に流し首は飯岡へ持ち帰った。
3人は繁蔵の首を砂子寮(現在の常慶寺)の井戸にて洗い清め、助五郎が之を手厚く取扱い砂子寮の小高き場所に埋葬、乾分達には大切な客分の墓故香華を絶やさぬ様にと申し渡したのであると書かれている。
予てより常慶寺境内に笹川繁蔵の首洗の井戸があったという話を聞いていた。墓参りの度に何処かなと探して見たが某の井戸らしきものは無かった。
先ごろ寺に出向きことの経緯を説明し笹川繁蔵の首洗の井戸について住職から直に話を聞くことが出来た。住職は古びたチラシを探し出して話をしたのが笹川繁蔵の首洗の井戸「飯岡山不動院定慶寺縁起」であった。
それによると昭和30年代の初め頃までは首洗の井戸があり、観光客にこのチラシを配っていた。そのうちに訪れる人も少なくなりいつの間にか井戸も埋められてしまったようだ。掘り起こせばありますと当時の場所を案内して頂いた。
常慶寺境内「笹川繁蔵の首塚」
笹川繁蔵の首洗の井戸があったという道路脇の三角形のところ
笹川繁蔵の首洗の井戸「飯岡山不動院定慶寺縁起
この定慶寺縁起は字は小さく読みにくい。笹川繁蔵の最後のところを引用すると弘化4年7月4日夜半飯岡方の堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田の甚蔵の3名が計画し繁蔵が女房お豊の実家へ行く途中びやく橋田浦に於いて襲撃、胴体は利根川に流し首は飯岡へ持ち帰った。
3人は繁蔵の首を砂子寮(現在の常慶寺)の井戸にて洗い清め、助五郎が之を手厚く取扱い砂子寮の小高き場所に埋葬、乾分達には大切な客分の墓故香華を絶やさぬ様にと申し渡したのであると書かれている。