彼が抱いた不審な気持ちは 朝食の匂いでそらされた
キンピラ牛蒡 ひじきの煮たの だし巻き卵 よくある冷たいものでなし 湯気たてている
大体に仕上がったものを小鍋で温め出すようになっているのだった
蜆の味噌汁が胃に優しい
「洗濯物出して下さいね」智夜子は言う
バナナとリンゴと黒砂糖入りのヨーグルトドリンクを勧めた
「少しいった先に小さな沼があります ずっと木陰を行く道なので歩きやすいですよ」
運動することも勧めるのだった
彼はだが森に今日は知らず陰鬱なものを覚える
森の奥に何か感じる
しかもそれは彼を呼ぶのだ
ざわざわ枝葉が揺れる
びっしりみっしりと頭上に茂ったものの中を何かが渡っていく
踏む土の中で動いているものがある
歩きながら彼は頭の中で繰り返していた
「美味しい血 美味しい血 美味しい血」
何故だろう 確かに世は健康ブームだが
森の奥に祠があり彼は素直に入っていく
扉は閉ざされた
中で何があったのか
よろよろと彼はでてきた
何やら不思議な歩き方をしている
それでも部屋へ戻っていった
風呂の中で彼は気付く―自分は何をしていたのだろう―と
散歩していたのでは なかったろうか
目眩を覚え 風呂を上がると 智夜子が待っていた
「疲れのとれるマッサージいたしますよ」
指の動きが眠気を誘い 彼は又眠る
「お食事の時間ですよ」
痺れたような体を何とか動かし 起き上がる
焼き肉の用意がしてあった
「後で片付けにまいります」
智夜子は元気だった
大皿に盛られた肉 野菜を一人焼いていく
みはからっていたように 食べ終わった頃 智夜子は戻ってきた
宿特製の薬用酒を勧める
不思議な匂いに奇妙な味
それが体の中を流れていくのを感じる
急速に彼の中では{自分}が 失われつつあった
幾日経ったか 智夜子が言う
「お客さん 随分痩せられましたよ」
鏡を見せられた 確かに以前はあると思わなかった鎖骨が あばらが判る
彼は夢を見た
巨大な何かが のしかかってくる
智夜子の声がする
「がつがつしては駄目よ 長持ちしないから
加減しないと」
奇妙な笑い声
布団が波打つ 畳が揺れている 波のように ひたひた押し寄せてくる
なんだろう と 思ううち倦怠感に呑まれ 意識は消えていく
それでも彼は帰ることを思い始める
働かねば 生活が成り立たぬ
智夜子は止める 「もう少し お元気にならなくてはね」
そしてまた飲み物を勧める
―何なのだろう これは―思うのに彼は逆らえずにいる