浪速おやじのつぶやき日記

川柳・都々逸・詩などでボケ防止

浪速夢見頃>小話3♪ハッカーの金持ち

2015-01-06 15:29:25 | 小話

浪速夢見頃>小話3♪ハッカーの金持ち
1999-7
 小学生の時にパソコンを習い中学高校でインターネットを使い
こなして大学生になったM青年は世界中のハッカー仲間の
最高にランクされており今ではどんな企業や政府機関の
パスワードは簡単に手に入れる事が可能に成った。
 M青年はまず日本国内にパソコンソフト販売の会社を設立して
インターネット販売で実績を上げて世界の5大陸に会社を
設立してまずは第1段階の下準備を1年間で構築した。
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 次に本命の金融ハッカーの手始めに、政治資金の闇送金ルートに
標的を絞って得意のハッカー技術で、数百億円の送金先を
世界に配置した ダミー口座に転送して何カ所も順送りにして
最終的には海外の自分のペーパーカンパニーに振り込ませた。
その資金を元手に海外の商品相場につぎ込んでは資金を
膨らまして資産の分散管理をするシステムを確立した。
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 ハッカー対象も巨大なオイルマネーも標的に加えて2年間で
実質資産も数10兆円を蓄積して、今迄のハッカーの痕跡は
全て消去してしまった。  今度はその資金で世界の優良大企業の
株主になって世界の闇の金融王として成功しているが
誰もその実体を知るものは無い。
 M青年の表面的な日常生活は、ただのパソコン青年として
質素な学生生活を送っている。その青年は貴方の息子さんか
又は近所の青年かも知れないです日頃の付き合いは
大切にする事です
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浪速夢見頃>小話2♪健太の波紋

2015-01-06 15:09:52 | 小話

浪速夢見頃>小話2♪健太の波紋
1999-7
 「健太」少年が湖のほとりを散歩していたときに、ふとした拍子に
小石を蹴飛ばしてしまったら、小石は転がって湖に落ちた。
 すると綺麗な波紋がどんどん広がって行くなんと美しいと見とれて
いると他にも多くの人達が寄って来て同じように見とれていた、
夢の様な出来事だった。
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 「健太」青年が大地震で目覚めると部屋のタンスの隙間に
挟まれていた何とか外に這い出して見ると、周り一面は
瓦礫の山で有った、ふと気付くと両親や兄弟が見あたらない、
あわてて家の瓦礫を取り除いて全員無事に助け出す事が出来た
しばらくすると近所で火災が発生してどんどん燃え広がる、
ほとんどの人はただ呆然と眺めているだけだった
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 健太はバケツを探し出して近くの川から水を汲んで来ては
かけ始めた次第に波紋のように協調者増えて長いバケツリレー
が延々と続き襲って来る火災に勇敢に立ち向かい類焼を
止める事が出来た。
 「健太」親父が大飢饉の時に多くの人がばたばたと
餓死し始めたのを見て少しづつ米の募集をして、近くの
大きな公園で無料の雑炊の炊き出しを初めた、
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 その内に協力者が波紋の様に広がり、雑炊を待つ
長い行列が整然と続き全員が生きる為に食料を
分かち合って食いつなぐ事ができた。
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 「健太」老人は毎朝起きると自分が出来る事をしたいと
思って塵の袋を持って散歩に出かけ塵の収集を始めた
次第に塵の袋を持った 散歩者が波紋の様に広がり
その内にタバコや空き缶を捨て無くなり街は常に
美しくなり全員が気持ちよく暮らせる様になった。
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 「健太」老人の葬式には、波紋のように伝え聞いた
人々が数多く集まって焼香の長い列が出来た、
その後に「健太」を賛美する石碑が建てられ健太の功績が
波紋の様に伝えられ続けている
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浪速夢見頃>小話1♪がま吉

2015-01-06 14:45:09 | 小話

浪速夢見頃>小話1♪がま吉
1999-7
 カエルのがま吉が冬眠からふと目覚めるとそこは
人間のすむ鉄筋コンクリートの大きな住宅団地だった
周りには緑がほとんど無く自分が冬眠に入った時期の
広々とした湿地 草原とは程遠い風景に変わり果てていた。
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 しまった冬眠から目覚めるのが早かったんだ、くすんだ太陽と
濁った水と空気では いち早く再度冬眠に入らないと殺されて
しまう危険を感じる、湿地草原にいた仲間の動植物は今でも
元気に居るのだろうか!
 まあいいや、もう数千年か数万年も冬眠 を続ければ、
この地球にも大きな天変地異が起こり人類も自然淘汰されて
元の緑豊かな湿地草原に戻るだろう、そのとき迄は地中
深い安全圏で、静かに眠っておろう。
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 多分その時は生き残った一人の人間がこの場所で、
昔この湿原に人間団地が 存在した事を懐かしむだろう
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浪速夢見頃>日本の伝説(15)♪桂蔵坊

2014-04-05 09:37:55 | 小話

ウィキペディア日本語版引用参照
浪速夢見頃>日本の伝説(15)♪桂蔵坊
日本の伝説記事リンク
あらすじ
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桂蔵坊(けいぞうぼう)は、鳥取県東部に伝わる伝説。
経蔵坊狐(きょうぞうぼうぎつね飛脚狐(ひきゃくぎつね)とも呼ばれる
昔、鳥取にお城があった頃、池田の殿様に仕える「桂蔵坊」と名乗る
狐がいた桂蔵坊は若侍に化けるのがうまく江戸まで3日で行き帰りできる
すぐれた術を持っているため殿様に大変かわいがられていた
ある時、桂蔵坊は殿様から言いつかった仕事で江戸に出向いた。お城から
ほど近い百谷の村にさしかかったところ香ばしいよい匂いがしてくる
ふと見ると道の脇で焼きねずみを罠に仕掛けている百姓がいたので、侍に
化けてわけを聞いてみたところ、畑を荒らす狐を退治するために
罠を仕掛けているとのことだった 江戸で用事を済ませた桂蔵坊が
その村を通りかかると、あの焼きねずみがよい匂いを放っている。
罠が仕掛けられていると知りつつも匂いに釣られ我慢ができなくなった
桂蔵坊は焼きねずみに飛びつき、挟まれて死んでしまった 池田の殿様は
桂蔵坊をたいそう哀れがりお城に中坂神社を造り桂蔵坊を祀って
やったということである現在では鳥取県鳥取市の久松山の中坂神社に
桂蔵坊が祀られている
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浪速夢見頃>日本の伝説(14)♪九頭竜伝承④]

2014-04-05 09:33:59 | 小話

ウィキペディア日本語版引用参照
浪速夢見頃>日本の伝説(14)
♪九頭竜伝承④]
日本の伝説記事リンク
あらすじ
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葛城二十八宿 犬鳴山の奇瑞譚]役の小角が葛城山系の山々の峰に法華経
二十八品をそれぞれ二十八箇所に埋めたという伝説がある。その法華経に
登場する仏教の守護神・八大竜王が葛城山の山頂に祀られており、
八大竜王の4番目に数えられる和修吉こと九頭龍大神が葛城山に連なり
法華経第八品が埋宝されている犬鳴山内の九頭龍神社で
今も正式に祀られている
宇多天皇の御世(887年 - 897年)の義犬伝説により名付けられた犬鳴山
その山に坐す七宝瀧寺。中興の祖・見滝上人が寛文10年(1670年)この
犬鳴山普住の際役の小角の勧請による 本尊 倶利伽羅大竜不動明王に奉告
勤行のため本堂へ向かわれている時の事だった。天空に向かって昇りゆく
黒竜と白竜、二柱の竜王の類いまれなる瑞祥を目撃した。上人は深く感動、
感激されこの二竜を山の護法神として格別に神明大権現の御神号を呈し奉り
祭祀された。爾来発達繁昌を念ずる参拝者の絶えることがなかったという
。またいつの頃からか頭部を癒す神、中風除けの守護としても霊験ありと
崇信さられるようになったこのように葛城山~犬鳴山は数々の
伝承で彩られている
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[京都 八瀬大原の九頭龍弁才天伝説]1954年(昭和29年)11月24日、
大西正治朗(1913 - 1988)という人へお告げがあり、京都の八瀬
大原にて九頭竜大社が建立されることとなった。現地では、繞道[4]を
通ることを思わせる日本では珍しい参拝の方法を推奨している
後の夢告では、日本へのテロ攻撃も警告されたことがあるという
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浪速夢見頃>日本の伝説(13)♪九頭竜伝承③

2014-04-05 09:30:07 | 小話

ウィキペディア日本語版引用参照
浪速夢見頃>日本の伝説(13)
♪九頭竜伝承③
日本の伝説記事リンク
あらすじ
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阿蘇山 宝池の九頭龍神]九州・英彦山に伝え残されているこの文章は、奥付に
あたるところに「建保元年(1213年)癸酉七月八日九州肥前国 小城郡牛尾山
神宮寺法印権大僧都谷口坊慶舜」がある。この中でも、仏教的な九頭龍伝承が
語られている。大巌窟で千日の伏臥修行の後、諸法は皆 空である旨をその
石室で観じた。かの釈尊が菩提樹で悟ったように。その修めをもって臥験と
いう名となった臥験はやがて九州の肥後国は阿蘇の峰に登り山の嶺嶽をもって
法華経にある七宝の(塔の相を顕す)場所となっており、高い峯が四方に
広がる波羅蜜への)門の扉となって開き、そびえていることを理解した。
八功徳の水は池に清潔さをもって澄みわたり自ら五色の波をたて広がっていた
そのさざなみは四波羅蜜、三解脱門を備えており、奏で出されていた。
南山に落ちる夕日の光が湖池の浜を金色に染め上げ、銀色の砂が敷詰め
られる。樹木の間に間に花の色が重なり交わり、極楽浄土の如き荘厳さを
呈していた。般若宝珠なる信心堅固な至誠を捧げ、凡夫の決して見る
ことは出来ない この宝池の主に拝することを心から願い経を誦した。
法華経の第三巻目に達する前にまず鷹が現れた。しかし、「小鳥の王で
この宝池の主に相応しくない」と言って退けた更に俗人・僧侶・竜が
現れては、その一つ一つを池の主ではないと退けた。そして十一面観音が
現れ光明が赫々と輝くに至った。それでも池の主ではないと退け、
さらに経を唱え続けた臥験は半月にも及んで敢え無く見る物事が無かった
その時、修法に従事していた 池の中から声があって 臥験に告げ言う
「宝池において、主の正体を汝が拝む事あたわず。罪障が重いゆえなり」
と言う臥験は大いに激して言った。「我は是 三界を領有し治める知識や
学問を身につけた聖なる持明者である。悪魔降伏を信じて疑わない
八大童子が随う十二神将よ加護し給え第六天魔王をなお繋ぎ縛れ。
何者が余の状況を評してかように言うか。」と。臥験は経論章疏の要文を
誦し、秘密真言や神咒を唱え、邪も正も一如であると念を凝らし観じて
真俗二諦の法理を修める間 山は動き地は騒ぎ 四方は悉く長い夜の
闇の如くになった。そして、ついに九頭八面の大龍が出現するに至った
その龍は阿蘇の山のように高く嶺のように長く、それぞれの顔面には
三つの目が春の太陽のように出て、あるいは暁の星(金星)の如く
照り輝いていた。龍の口から吐かれる大炎は同じく迦楼羅焔の如く
照るのだったその身は虚空をうめて満ち満ちる程の巨大さだった
その気迫は大風の如く勢いをもっていた。龍に呑まれると思い、
法力を込めて持っている金剛杵を大龍の顔にある三つの眼をめがけて
打ち込んだ。すると、龍は姿を消し四方はあまねく晴れ渡った
臥験は、池の主に会う願いを達したと思い山を下りにかかる。すると、
蒼天 にわかにかき曇り、大雨となり、川は洪水と化した臥験は川を
渡れなくなったので、山中の他の道を探すことにした。ようやく
一軒の小屋が見つかったところ、そこには一人の若い女性がいる
のだった。臥験は、泊めてくれるよう頼むと快く承諾された
臥験が裸になって濡れた着物を乾かそうとしていると、その年若い女性は
裸の臥験に自分の着物を着せようとした。臥験は、修行の身にとって
女性は不浄であるからその着物は羽織れない旨を言い 彼女の好意を断った
すると、女性は怒って「仏様は慈悲平等の心を教えていて、浄、不浄などを
言いません」と言い、臥験が断るのを無理に着せようとした
そうこうしている間に臥験に欲心が起こった。まだ知らない男女の交わりを
試そうと女性を押さえつけた。女性は抵抗して、「まず口を吸って接吻して
下さい」と懇願した。しかし、臥験は「自分は日夜、口で秘密真言を
唱える身だからそれは出来ない」と言う。しかし、女性は「それでは
目的が達せられないでしょう」と言うので、しかたなく口を吸った途端
舌を噛み切られた。臥験は気絶してその場に倒れた女性は大竜となって
天に昇って行った。臥験が意識をとりもどして辺りを見ると、女性も家も
自分の舌までもなく、山中に独り取り残されていた臥験は犯した罪を悔い
不動明王に念じて「舌を元通りにならしめ給え」と一心に念じていると
一四~五歳くらいの童子が出て来て臥験の舌を撫でた。すると舌は
元通りとなり心身ともに安らかになったそのとき天空の高みより
声があった。「我は、汝が修法を施した事に対して、汝が妙に思うとも
種々の身に形を現した。(女性が汝の身体に良かれと思って衣をかけ
ようとしたのと同様に)真実の正しい身体というものには、極楽世界では
阿弥陀と言う衣を被っている。この娑婆世界では十一面観音という
衣を被っている。再び(阿蘇に)登り 重ねて御嶽を拝すべし
宝の身体(躰)を」と仰るのだった 臥験は、ただちに御岳に登る
また、天空より声がして言う。「汝の修法によって楽々示された
種々の身形を観ても、眼根・心根に障りがあるから本地を見抜くことが
出来ないのだ」と臥験は、その場に重ねて座し印を結び凝らして
ただ無性に懺悔の意を尽くした「霊峯の頂で十一面観自在尊が
千の葉の蓮花に坐し 自ずから放たれる大光明に臥験が照らされた
あの瞬間、かの光明は十方世界を遍く照らし、三十二相八十種好を
具足奉る金色相(こんじきそう)と一つとなり音楽・芸術・美を司る
畢婆迦羅の神の身体そのものとなっていた。先ず現れた鷹の身の
ことを言うと、是は霊山において会い法華経が説かれる時の同聞衆の
身形である。次に示された俗な身形を示した者、是は
健磐龍命(タケイワタツノミコト阿蘇大明神)なり。次に僧の
身形を示した者 是は比叡山座主良源(912年 - 985年)
次に現れた龍身は、この宝池の主として契りの無い池の大龍なり。
最後に現れた十一面観音が当山の峯に常に住まわれる本尊で、
大慈大悲の大御心で衆生に利益を与えんとする実体なり汝の眼に
罪障があるから実体を見ぬくことが出来なかったのだ。」
臥験は心から歓喜踊躍し礼の意を表して その場を去った。九頭の龍
から若い女性そして天空からの声として現れた此の大龍者こそ
法華経に説かれている同聞衆、娑伽羅龍王 阿那婆達多羅龍王
第三王子である。是すなわち十一面観音の化身である
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浪速夢見頃>日本の伝説(12)♪九頭竜伝承②

2014-04-05 09:24:34 | 小話

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浪速夢見頃>日本の伝説(12)
♪九頭竜伝承②
日本の伝説記事リンク
あらすじ
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[戸隠の九頭龍伝承]
戸隠山の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である鎌倉中期に記された
『阿裟縛抄諸寺略記』の中に西暦800年代の中盤頃の話として「学門」と
いう名の修行者が法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼を
この地で岩戸に閉じこめたという言い伝えが残されている。悪さをしたため
岩戸の中に封じられた龍である面、山伏たちが九頭龍権現の名で、雨乞いを
して水神として人々を助けた面の両面がある調伏善龍化伝承。雨乞い
縁結びの他歯治療にも霊験があり、好物の梨を供えると歯の痛みを取り除いて
くれるとされている
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[三井寺の霊泉と九頭龍大神]
近江国三井寺(園城寺)金堂の近くには天智天皇・天武天皇・持統天皇の
三帝が産湯に用いたという霊泉が沸いている。この霊泉は
「御井(みい)」と呼ばれ「御井の寺」から三井寺の通称となった。
その霊水は古来より閼伽水として金堂の弥勒菩薩に御供えされてきた
この御井の霊泉には九頭一身の龍神が住んでおられると今に伝わる。
その九頭龍神は、年に十日の間深夜 丑の刻に姿を現わして、黄金の
御器を用い水花を金堂の弥勒菩薩まで供えに来られるという
そのためその期間は泉のそばを通らない仕来たりであった近づいたり、
覗いて見るなどの行為は、「罰あり、とがあり」と言われ禁じられてきた
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[猪名川・五月山一帯の九頭龍伝承]
久々知妙見宮は清和源氏の祖、源満仲(または多田満仲 912年? - 997年)が
開基したと伝わる妙見宮である。天徳元年(957年)源満仲が矢文を放った
ところ岩に当たった。その岩を矢文石と名付けてその地に北辰星(妙見宮)
を祀ったと伝わる。その後、天禄元年(970年)摂津の国守に任ぜられた
とき、源満仲が新しい館をどこに築こうか思い悩み、同国一の宮の
住吉大社に参籠した参籠して二十七日目、『北の空に向って矢を射よ。
その矢のとどまる所を居城とすべし』との神託を受けて、満仲は鏑矢を
放った。家来を引き連れた満仲は、空高く五月山を越え放たれた矢を
追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時、白髪の老人に出会い、矢の落ちた
場所を知ることが出来た。この場所は「矢を問うたところ」として、
『矢問(やとう)』という地名で残っている満仲が老人に教えられた
場所に行ってみると河水をたたえた湖(沼)があり、その湖の主の九つの頭
をもった雌雄二頭の大蛇(九頭龍)の内の一頭の大蛇大龍の目に射た
矢が刺さり暴れまわっていた。一頭はこの地で死に血水跡はまるで
紅の河のようになって流れた。もう一頭は死に物狂いに山を突き
破り飛び出し、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出た。
龍はしばらく鼓ヶ瀧の滝壷の中で生きていたが大水害の度に鶯の森、
(川西市)天王宮と下流域に流されて行き、ついに昇天された。後に、
その地には12以上も鳥居の立ち並ぶ白龍神社が立され祀られることとなる。
湖沼の水は干きよく肥えた土地が残り、多くの田畑が出来ることと
なった。そのため 後に「多田」という地名が付けられる。村人等は
九頭龍の犠牲の御陰で田畑が拓かれた事を甚く感謝し、九頭龍大明神、
九頭龍大権現、白龍大神と崇め御祀りした。満仲は、この地に居城を築き、
多田源氏を名乗った。少なくとも1988年までは、上記の九頭龍が死んだ
場所として「九頭死(くずし)」という地名が残っていた。現在は
「寿久井の地蔵尊」という地名の付近。兵庫県川西市の九頭神社は
九つの霊石を御祀りして首から上の病に効く神として信仰され
頭痛歯痛眼の病等の平癒に効くと伝えられる最近は こっそりと
「頭の良くなるように」と祈る若者の御参りもあるという
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浪速夢見頃>日本の伝説(12)♪九頭竜伝承①

2014-04-05 09:18:51 | 小話

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浪速夢見頃>日本の伝説(12)
♪九頭竜伝承①
日本の伝説記事リンク
あらすじ
九頭龍(大神)伝承
(くずりゅう{おおかみ}でんしょう)
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九頭龍(大神)伝説 (くずりゅう{おおかみ}でんせつ)は日本各地に
残る九頭龍(大神)に関する 伝承・伝説の事である。神社が建立される
こととなった事跡や奇瑞事象の説明する
[ 鹿野山の九頭龍伝承]
千葉の鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には 九頭龍という九頭の巨大な
大蛇が棲みつき 村人を襲い人々を喰らっているという 村の長が都に
使いをたて大蛇退治を願い出たところ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
が大蛇退治に遣わされた。 村人がその恐ろしさをタケルに語ると、
タケルは腰の剣を抜き「必ず この草薙剣で大蛇を退治してみせる」と誓い
村人の案内で小川沿いの道を鬼泪山に分け入ったタケルは懸命に九頭龍を
探すが一向に見つからない。疲れ果てていつしかタケルは眠ってしまった
するとそこに九頭龍が現れタケルを一飲みにしてしまった
三日程たったある日。村の娘が小川で洗濯をしていると、だんだんと川の
澄んだ水が赤く染まっていった。娘はあまりのことに驚き村人を呼んだ。
「タケルノミコト様が大蛇を退治して下さったからに違いない」
「いやもしかしたら、タケルノミコト様の身に・・・」などと話し合っていると
ヤマトタケルノミコトが現れて「つい油断して九つの頭の蛇に一呑みに
されてしまった。幸いにも生きていたので 約束どおり この剣を抜き、奴の
腹の中を滅多斬りに切り裂いて外へ出られた。そして、九つの頭を全部
切り落としてやった」と言った この時流れ出た血が、川を三日三晩
染めたので今でもその川のことを「(血)染川」と呼んでいる。なお、
退治された九頭龍の霊魂は長年を通じて供養され、「九頭竜権現」として
祀られるに至り、今でも神野寺仁王門に鎮座されている また、鹿野山
測地観測所の下には「大蛇作」「蛇堀」などと呼ばれる場所がある。
かつて大蛇の棲息していた場所だと言う。
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[九頭龍川流域の伝承]
寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、
尊像を川に浮かべたすると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くように
して川を流れ下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着きたという。以来この川を
「九頭竜川」と呼ぶようになった。(『越前国名蹟考』福井県郷土誌懇談会著
1958年発行 より)この地方での黒龍大明神の祭祀は、天地の初めから
国土を守護されてきた四方位を象徴する御四柱の神々「四大明神」の
御一柱を祀るものとされた。
東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には
厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年{593年})北の越前国の当地には
黒龍大明神として日本の国家鎮護 及び 黒瀬川(九頭龍)流域の守護神と
して祭祀されてきた。五行思想から黒と水は北方を象徴し北方を守ると
考えられまた、四竜において北方を守護するのは
やはり黒龍だからである
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[箱根の九頭龍伝承と祭祀]
九頭龍神社の縁起は箱根神社と同じ天平宝字元年(757年)九頭龍神社は
箱根神社を開いた万巻上人が調伏した龍を奉る神社である芦ノ湖がまだ
万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代 以前箱根の村には毎年 白羽の矢[2]が
立った家の若い娘を芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供に差し出すという
習慣があったそれを知った箱根山で修行中の万巻上人は娘達を助け村人を
助けるため法力で毒龍に改心してもらうため立ち上った。
万巻上人は御仏に祈り人身御供の代わりに三斗三升三合三勺の赤飯を
21日間の祈祷満願日の前日6月13日(旧暦)[3]に捧げることを誓い
湖畔で経文を唱え 毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を
説いた。毒龍は 姿形を変え 宝珠・錫杖・水瓶を捧げ出現した。
それでも鉄鎖の法を修し、龍を湖底の白檀の大樹に縛り付け、仏法を
説き続けた。後にその木は「逆さ杉」と呼ばれるようになった。
龍は、もう悪事はせず、地域一帯の守り神になる旨を約束をする。
万巻上人は龍の約束が堅いことを知り、九頭龍大明神としてこの地に
奉ることにした その満願の日とは6月14日(旧暦)。そのため
九頭龍神社の祭りは、毎年6月13日が例大祭 毎月の13日が月次祭である
今でも芦ノ湖の湖水祭ではお櫃に赤飯を入れ御供船に載せ逆さ杉の
ところで湖底に沈め捧げる このお櫃が浮かび上がってくると
龍神が受け入れなかったとされ、災いが起きると言われる近年では
大正12年(1923年)の湖水祭でお櫃が浮かんでおり、その数ヵ月後に起きた
関東大地震(大震災)から九頭龍神社の霊験があったとされた
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[平城京の九頭龍伝説]
発掘された平城京の二条大路木簡には奈良の南山に住む九頭一尾の大蛇に
疫病(天然痘)の原因となる鬼を食べて退治してもらい、都での流行
阻止を祈願したとされる文が書かれている ここでは九頭竜が
「悪鬼を朝に三千、夕食に八百食べ給え」という行も含めてほとんどが
九頭竜に対する同じ祈祷文であり ここでは残虐非道な龍ではなく
病気を食べる守護龍となっている
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浪速夢見頃>日本の伝説(11)♪京八流

2014-04-05 09:12:25 | 小話

ウィキペディア日本語版引用参照
浪速夢見頃>日本の伝説(11)
♪京八流
日本の伝説記事リンク
あらすじ
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京八流(きょうはちりゅう)は、伝説上の剣術流派。平安時代末期に鬼一法眼が
京都の鞍馬山で8人の僧侶に刀法を伝えたところを始祖として、現代まで伝わる
全ての剣術の源流となったとされる。源義経が師事した流派という伝説もあり、
様々な人物伝や伝記などの伝承もあるが、どれも具体的な物証などがなく、
伝説の域を出ない。
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吉岡憲法直元が開祖とする伝承もあり、その後戦国時代末期から江戸時代
初期の宮本武蔵と争った吉岡清十郎、吉岡伝七郎を京八流吉岡道場の達人と
伝承もあるが当の吉岡一門が断絶しており、吉岡一門と武蔵の私闘自体、
文献の信用性が薄く検証性が乏しい。吉岡流の他、鞍馬流、中条流などが
京八流に源流を持つとされるが、あくまで伝説上の剣術であり、実在が
疑問視されている。「剣術の源流」「始祖が鬼一法眼」という伝承そのもの
はポピュラーで、現代に至るまでさまざまな文学作品や漫画作品などの
設定に用いられている。
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[鬼一法眼]
鬼一法眼(きいちほうげん、おにいちほうげん)は、室町時代初期に
書かれた『義経記』巻2に登場する伝説上の人物。京の一条堀川に住んだ
陰陽師。『六韜』という兵法の大家でもあり、文武の達人とされる。
源義経がその娘と通じて伝家の兵書『六韜』を盗み学んだという伝説で
有名。また剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として
崇められている[源義経] 源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は
平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、
実名は義經(義経)である河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を
牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより
鞍馬寺に預けられるが後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の
庇護を受ける。兄・頼朝が平家打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)と
それに馳せ参じ一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし
その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を
受けたことや、平家との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、
それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。
全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、
頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた
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[宮本武蔵]
宮本 武蔵(みやもと むさし天正12年(1584年)? 正保2年5月19日
(1645年6月13日))は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる
二天一流兵法の祖。また重要文化財として指定された水墨画や工芸品を
残している
<概要>名字は宮本、または新免、通称は武蔵、本姓は藤原、諱は玄信
(はるのぶ)である幼名は辨助(べんのすけ)号は二天、また二天道楽
著書『五輪書』の中では新免武蔵守 藤原玄信を名乗っている。
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[鞍馬流]
1.日本の剣術の源流とされる京八流の一派 2.源義経が幼少期に学んだ
兵法・剣術 3.日本の剣術流派の将監鞍馬流のこと
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[中条流]
中条流(ちゅうじょうりゅう)とは室町時代初期に中条長秀
(?~弘和4年(1384年))によって創始された武術の流儀である
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<中条流平法>
中条流平法(中條流平法)は、中条長秀を開祖とする武術の流派。
短い太刀を使う剣術で有名であった剣術以外に槍術なども伝えていた
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浪速夢見頃>日本の伝説(10)♪函南のこだま石

2014-04-05 09:00:57 | 小話

ウィキペディア日本語版引用参照
浪速夢見頃>日本の伝説(10)
♪函南のこだま石
日本の伝説記事リンク
あらすじ
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函南のこだま石(かんなみのこだまいし)とは、伊豆七不思議のひとつで、
静岡県田方郡函南町平井の山中にある大きな岩にまつわる、江戸時代から
伝わる伝説である。昔、平井の村に、おらくという母親が息子の与一と
二人で暮らしていた。夫は戦に駆り出されて行方知れずで大変貧しい
暮らしであったが、あるとき村のお寺の和尚の勧めで、峠を越えた熱海の
湯治場へ商いに出かけるようになった。峠道の途中に休むのに格好の
大きな岩があり、二人はよく一休みしては語らうのだった。
母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃おらくは病を得て帰らぬ人と
なってしまった。与一は悲しみのあまり、母と共に語らった大岩に向かい
声をかぎりに母を呼び続けたところ、岩の底から「与一よー、与一よー」と
懐かしい母の声がこだましてきたという。来る日も来る日も懐かしい
母の声を聞きに行く与一に村人は心を打たれこの岩を「こだま石」と
呼ぶようになったという
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