函館の街は市電でのんびり、ガタゴトと回るのがいいみたいです。
朝、さっそく一日乗車券を買い、歩く旅に出発。
可愛い市電ですよね。そう言えば、長崎居留地も市電が便利でした。
まずは函館の旧イギリス領事館に行ってみることにしました。
函館どっく前行きの市電に乗って、末広町で降りました。
すぐ目の前の建物が⬇
創業は文久3年(1863年)相馬哲平氏が米穀商として開業した北海道屈指の老舗企業だそうです。
現在の若草色の建物は大正2年竣工、今も相馬株式会社の社屋として使われているそうです。
基坂を元町公園の方に上っていくと、途中にイギリス領事館があります。
最初の領事館は安政6年(1859年)にできたそうですが、
その後、残念なことに何度か火災に遭い、
現在の建物は大正2年(1913年)のものだそうです。
領事館の中は現在『開港記念館』になっていて、函館開港当時にタイムスリップできるとのことですが、、、。
例えば、こんな感じ、、、。⬇
顔を出しているのは私です。
第3代のリチャード・ユースデン領事は函館を愛し、彼のできる範囲で精一杯の貢献をし、市民に愛された領事として有名です。
初めて函館に着任したのは文久1年(1861年)でその後、慶応3年に再度函館に着任、明治13年(1880年)まで滞在しました。
ユースデン夫妻は、函館駐在中、公園の必要性を説き、理解させ、函館公園の開園に力を尽くしたそうです。
函館市民がのびのびと休める場所を整備しようとしたのですね。
当時、公園は日本全国、どこにもあまり見当たらなかったのではないでしょうか。
「公園とは病人に病院が必要なのと同様に、健康な人にも養生所が必要である」というのが領事の強い気持ちだったようです。
公園の工事は資金難で中断の恐れもありましたが、函館の役人、市民、近郊の農民等がボランティアとして工事に参加し
明治12年11月3日、函館公園開園しました。
きっとユースデン領事の信念が周りの人々に次々と伝わっていったのでしょう。
明治10年、友人の渡辺熊四郎が経済的に学校へ行くのが難しい子どもたちのために
無月謝の鶴岡学校を開設した際もユースデン夫妻は協力し、毎年25円の維持費を寄付し、
函館駐在が満期となって帰国した後も、2年間送金を続けた、ということです。
渡辺熊四郎はもともと九州の人でしたが、長崎貿易に係わっていたことから北海道に移住。
海産物の商売から始めて、一代で北海道一と言われるほどの身代を築いた人です。
しかし、彼はお金を稼ぐことだけに自分のすべてを注いだわけではなく、
学校や公園、病院等の公共事業にも非常に熱心でした。
そんなところがユースデン領事と気があったところなのでしょうね。
写真は領事の事務机です。
⬇の写真はユースデン領事が執務室から函館の街を見渡す様子です。
等身大であるこの像は身長160センチ。
ちょっと小柄なことから、『豆領事』というあだ名がついていたそうです。
領事が見たであろう、執務室から見た函館の街並です。⬇
領事館の中にはユースデン夫妻の居室もあったそうです。
アンティークなデスク。⬆
さて、聡明な領事には似たような奥さんがそばにいました。
明治時代、洋服の普及に伴い、西洋式の洗濯技術が入ってきました。
函館では「女紅場(じょこうば)」という遊郭で働く女性のための技術指導と学業の場を目的として
明治11年函館蓬莱町に開設された施設です。
和洋裁や和洗濯などと共に西洋洗濯が指導の科目とされましたが、指導者がいないためほとんど行われなかったということです。
この様子を知ったユースデン夫人は自宅(領事館)で西洋洗濯の方法を教えました。
その後、明治13年1月26日、会所町(現・元町)に「西洋洗濯伝習所」を開所し、
ユースデン夫人に西洋洗濯の手ほどきをしてもらうこととなりましたが、
同年10月領事と共に函館を離れ、この伝習所も翌14年1月で閉鎖されてしまうのです。
しかしわずか1年足らずの西洋洗濯講義の開講でしたが、この伝習所は次の女紅場へと引き継がれていったそうです。
さて、明治の大実業家の一人であった渡辺熊四郎は明治25年にロンドンの郊外に住むユースデン夫妻を訪ねたということです。
ユースデン夫妻の住まいの扉には『ホッカイドウハウス』と英語で書かれていたそうです。
ユースデン領事夫妻はもちろんイギリス政府の命令で日本に着任したのだと思いますが、
その仕事とは別に、強い意思を持って日本にイギリス文化を伝えたのだと感じました。
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最初の写真はイギリス領事館の紋章