私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

夫妻は函館にイギリスの心を運んだ~旧イギリス領事館

2012年10月07日 | 旧居留地

函館の街は市電でのんびり、ガタゴトと回るのがいいみたいです。
朝、さっそく一日乗車券を買い、歩く旅に出発。



可愛い市電ですよね。そう言えば、長崎居留地も市電が便利でした。



まずは函館の旧イギリス領事館に行ってみることにしました。
函館どっく前行きの市電に乗って、末広町で降りました。
すぐ目の前の建物が⬇



創業は文久3年(1863年)相馬哲平氏が米穀商として開業した北海道屈指の老舗企業だそうです。
現在の若草色の建物は大正2年竣工、今も相馬株式会社の社屋として使われているそうです。


基坂を元町公園の方に上っていくと、途中にイギリス領事館があります。






最初の領事館は安政6年(1859年)にできたそうですが、
その後、残念なことに何度か火災に遭い、
現在の建物は大正2年(1913年)のものだそうです。



領事館の中は現在『開港記念館』になっていて、函館開港当時にタイムスリップできるとのことですが、、、。
例えば、こんな感じ、、、。⬇
顔を出しているのは私です。




第3代のリチャード・ユースデン領事は函館を愛し、彼のできる範囲で精一杯の貢献をし、市民に愛された領事として有名です。
初めて函館に着任したのは文久1年(1861年)でその後、慶応3年に再度函館に着任、明治13年(1880年)まで滞在しました。




ユースデン夫妻は、函館駐在中、公園の必要性を説き、理解させ、函館公園の開園に力を尽くしたそうです。
函館市民がのびのびと休める場所を整備しようとしたのですね。
当時、公園は日本全国、どこにもあまり見当たらなかったのではないでしょうか。

「公園とは病人に病院が必要なのと同様に、健康な人にも養生所が必要である」というのが領事の強い気持ちだったようです。
公園の工事は資金難で中断の恐れもありましたが、函館の役人、市民、近郊の農民等がボランティアとして工事に参加し
明治12年11月3日、函館公園開園しました。
きっとユースデン領事の信念が周りの人々に次々と伝わっていったのでしょう。

明治10年、友人の渡辺熊四郎が経済的に学校へ行くのが難しい子どもたちのために
無月謝の鶴岡学校を開設した際もユースデン夫妻は協力し、毎年25円の維持費を寄付し、
函館駐在が満期となって帰国した後も、2年間送金を続けた、ということです。
渡辺熊四郎はもともと九州の人でしたが、長崎貿易に係わっていたことから北海道に移住。
海産物の商売から始めて、一代で北海道一と言われるほどの身代を築いた人です。
しかし、彼はお金を稼ぐことだけに自分のすべてを注いだわけではなく、
学校や公園、病院等の公共事業にも非常に熱心でした。
そんなところがユースデン領事と気があったところなのでしょうね。



写真は領事の事務机です。
⬇の写真はユースデン領事が執務室から函館の街を見渡す様子です。



等身大であるこの像は身長160センチ。
ちょっと小柄なことから、『豆領事』というあだ名がついていたそうです。
領事が見たであろう、執務室から見た函館の街並です。⬇




領事館の中にはユースデン夫妻の居室もあったそうです。









アンティークなデスク。⬆


さて、聡明な領事には似たような奥さんがそばにいました。

明治時代、洋服の普及に伴い、西洋式の洗濯技術が入ってきました。
函館では「女紅場(じょこうば)」という遊郭で働く女性のための技術指導と学業の場を目的として
明治11年函館蓬莱町に開設された施設です。
和洋裁や和洗濯などと共に西洋洗濯が指導の科目とされましたが、指導者がいないためほとんど行われなかったということです。

この様子を知ったユースデン夫人は自宅(領事館)で西洋洗濯の方法を教えました。
その後、明治13年1月26日、会所町(現・元町)に「西洋洗濯伝習所」を開所し、
ユースデン夫人に西洋洗濯の手ほどきをしてもらうこととなりましたが、
同年10月領事と共に函館を離れ、この伝習所も翌14年1月で閉鎖されてしまうのです。
しかしわずか1年足らずの西洋洗濯講義の開講でしたが、この伝習所は次の女紅場へと引き継がれていったそうです。




さて、明治の大実業家の一人であった渡辺熊四郎は明治25年にロンドンの郊外に住むユースデン夫妻を訪ねたということです。
ユースデン夫妻の住まいの扉には『ホッカイドウハウス』と英語で書かれていたそうです。

ユースデン領事夫妻はもちろんイギリス政府の命令で日本に着任したのだと思いますが、
その仕事とは別に、強い意思を持って日本にイギリス文化を伝えたのだと感じました。



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最初の写真はイギリス領事館の紋章

 
 

函館までの旅の友

2012年10月04日 | 旅日記

日光をあとにして、


明治23年に開業した日光線で


宇都宮へ。



ここで、ささっと宇都宮餃子を食べて、
(とても熱かったので、口の中をやけど、、、ヽ(´o`;

新幹線で仙台へ。
仙台乗り換えの「はやて」で、新青森へ。



新青森でスーパー白鳥に乗り換え、函館へ。
青函トンネルを通りました。



私のお隣の60代の女性は農家のおくさん。
「北海道も暑くなってね、お米がとっても美味しくなったのよ。」
「今度ぜひ試して見てね。」
旅のおしゃべりは楽しいですね。
彼女は大人の休日クラブのチケットを札幌から東京まで、私とは逆に利用したのです。

私が
「北海道の歴史的な建物を見にきた。」というと、
「北海道は歴史がない、本州に比べたら、、、」
彼女は東北の寺院や建物が気に入っているようで、毎年東北に出かけているのだそうです。

「ぜひ、北海道なら自然を楽しんでね。」
とのことでした。

でも、私は北海道の都市の発展はすごいと思うのです。
わずか150年あまりで、100万人の都市まで生まれたのですからね。



一期一会の旅の友と話していたらあっという間に函館に到着。

始めての場所に降りた時は駅そばの宿と決めています。
お宿は駅近格安の「きくや」
一泊3800円で広い部屋、大浴場、無料の朝食付きです。
ただし、ちょっと古いけれど。
大満足で、次に函館に行く時も、この宿にしようと思いました。





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東照宮を外した日光の魅力~日本聖公会日光真光教会

2012年10月03日 | 旅日記


今回の旅で、日光を訪れた一番の理由は
J.M.ガーディナーの設計した日本聖公会日光真光教会を見るためです。
ガーディナーについては以前にもブログに何度か書きました。

日光真光教会は、日光東照宮のすぐそばにあります。
神橋をさらに進んだ西門のそば、国道沿いなので、すぐにわかります。




何回訪れても、素敵ですね。
東照宮で有名な日光は明治の時代から外国人たちにとても人気のある避暑地でした。




明治維新の時には必ず名前の出てくるイギリス領事館の書記官だった
アーネスト・サトウ(日本人ではありません)が
明治8年に出版した「a Guide book to Nikko」は多くの外国人に日光の魅力を伝えました。
ヘボン式ローマ字のヘボン(ジェームズ・ヘップバーン)も日光の自然を愛していました
その他、日光を訪れた外国人の中には、

大森貝塚の発見者E.S.モース、
維新政府の法律顧問として招聘されたG.ブスケ、
フランスのギメ東洋美術館の創設者エミール・ギメ、
更にはわざわざ英国からやって来た紀行作家の第一人者イザベラ・バード
そして、ガーディナーの友人だったフェロノサ(日本の美術界に大きな貢献をした)
などのお雇い外国人もいました。

明治20年代に入ると避暑のために夏の間の数ヵ月間を過ごす外国人が多くなりましたが、
その代表がガーディナーとその家族でした。

明治11年夏、ガーディナー夫人のピットマンはガーディナーよりも先に日光を訪れています。
実はガーディナーは明治14年、日光に避暑に行き、そこでピットマンと出逢い、
翌年5月に結婚しています。
二人にとって日光は忘れられない地となったのです。

宇都宮から日光までの鉄道が開通したのは明治23年8月1日で、それから
外国人の観光客や避暑客はますます増え、幾つかの外国人用のホテルもできました。
ガーディナーは二荒山神社の別当であった安養院に部屋を借り、
夏の間そこに住み、キリスト教の日曜礼拝もおこなっていたそうです。
ガーディナーは建築家とし有名ですが、ミッションアーキテクト、
宣教師だったのですから、当然といえば当然かもしれませんね。

その後、夏の間だけ主に外国人の礼拝を行う、木造の日光変容貌教会が作られました。
もちろん設計はガーディナーです。
しかし、しばらくの間、夏が過ぎればそこは誰もいない教会堂でした。

明治の終わりになり、米国聖公会伝道局より、アイリーン・マン女史が宣教師として
日光にやってきました。
マン宣教師は大正元年10月に、最初の幼稚園・愛隣幼稚園を設立し、日光の人々に喜ばれました。

その後、マン宣教師は日光にふさわしい教会が必要であると感じ、
日本聖公会本部や米国聖公会伝道局始め、多くの聖公会の信徒に働きかけ、資金を集めました。
設計は日光を愛し、聖公会のミッションアーキテクト、ガーディナーが行い、大正2年着工、3年の竣工でした。
事実、日光真光教会はガーディナーの設計として有名ですが、
実はこの建築の裏側にはマン宣教師のひとかたならぬ尽力があったのだと思います。




さて、教会は東照宮で有名な日光にもふさわしいよう、堂々として重厚な造りです。
地元の大谷川の安山岩や鹿沼石を外壁や内壁に使用し、平屋建てで、切妻屋根スレート葺き、
教会を見ていると、どこか外国にいるような雰囲気になってしまいます。



教会堂の中です。




外は石造りなのに、中はとても温かさを感じる丸みのある天井です。
とても素敵なステンドグラスがあります。(題材は新約聖書ヨハネの黙示録から)



どんな音色なんでしょうか。
歴史を感じるオルガン。





忘れてはならないマン宣教師のプレートです。教会の片隅に、でも輝いて飾られています。




来会者の記帳台。




外に出て教会の周りをぐるっと回ってみました。



中世の物語に出てきそうな石の壁とドア




静かな静かな教会です。
1時間半の日光滞在でしたが、とても充足した時間を過ごしました。

最後に、この穏やかな温かみのあふれる教会にはガーディナー夫妻が眠っているそうです。





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参考文献
http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/nikkousinkoukyoukai.htm
http://www.concierge.ne.jp/002_classic/003_nikkokanaya_no01.html
菅原涼子「J・M・ガーディナーと日光」築地居留地研究会 2002『近代文化の原点 築地居留地VOL2』P119