じゃっくり

日常をひたすら記すブログ

夜勤明けでプール、バド

2006年04月20日 | 雑記
夜勤明けでたいした睡眠も取らず、無茶をしてきました。

 まず十八時からプールで一泳ぎです。お友達と鬼ごっこをしたら、それが後々響いてきて、もうちょっとセーブしておけばよかったと後悔。周りはのんびり歩いているのに、やんちゃな僕らですから、もう腕を振り振り駆け回らせていただきました。すいません。歩いていた人。

 泳ぎの方は百五十メートルが精一杯でした。前は五百は泳げたんだけど、これで限界。水泳って普段使わない筋肉を使うので、なかなかの筋肉痛です、現在。たまに通うことにします。ちょいぽちゃだしね。

 二十時からはバドミントン。今日は試合を抑えて、初心者の面倒を見てあげました。彼は横、下の羽ならなんとか打てるのに、一番肝心な頭上の羽にうまく当たらない。「もうちょっと気持ち早めに振ってみて」「もうちょっと前で打つんだよ」「左手でタイミングをとって」などアドバイスしても、かえってアドバイスした後の方が悪くなってる。僕も教えるのは素人なので、今度指導者の父に聞いておこうと思います。

 さて、筋肉痛がすぐやってきたので、まだまだ僕も若いんだな。いい痛みだよ、これは。

いい女

2006年04月20日 | 雑記
僕の職場には誰もがうらやむような「いい女」がいて、何がいいかと言われれば、「全部がいい」と言ってしまうほどの魅力的な女性なのだ。
 すらっとした体格に、出るところはでていて、適度にエロくて、美しくもあり、かわいくもある顔立ちに男性職員のみならず、女性職員もメロメロなのである。「欠点がない」と彼女に惚れている女性職員が言ったが、たしかに、見つからない。
 そんな彼女に医師が握力計を手渡した。本人も、「私、だめなんです。こういうの」と言っているし、握力はないのだろう。そう思っていたのだが、まさかのまさか、矢印が五十キロを指している……。医師は飛び上がるように驚いていたが、内心僕はもっと驚いていただろう。開いた口が塞がらなかった。そういえば、あんなに細いのに軽がると老人を車椅子からベッドへ移乗するし、それを考えると頷けるかも。
 やっぱり彼女は「いい女」だった。

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読書量が少ない、それも極めて少ない(三ヶ月に一冊程度)なので、これからは一週間に一冊を目標に読んでいきたいと思います。この前の小説家の講演で、実感しました。良い文章を書くためには、まず読まなくてはいけません。読めよ、自分。まずは山下康代さんの「トビラノムコウ(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4837670547/249-0337268-1414730)」を読み終えたいと思います。

二人の作家に触れて

2006年04月17日 | 雑記
松江文学祭、山陰文学学校の講義に参加してきた。会場は松江であるからして、車でだいたい二時間の距離だ。この会に参加しようと思ったそもそもの理由は、単純に小説がうまくなりたいからであったが、それが直前になって、小説を書き始めるにはどうしたらいいのかに変わっていった。僕はここ数ヶ月、小説のようなものが書けなかったのだ。

 二人の作家が紹介される。車谷長吉。知らない。高橋順子。知らない。この時点でこの勉強会に参加する資格がないような気がするが、二人に接して今のスランプから逃れられることができようものなら、そんなことはどうでもよかった。

 二人が話したことを箇条書きにしてメモしておこう。

車谷長吉氏
・えとうじゅん先生が師匠である。近松を読めと教わる。
・二十五歳から小説を書き始めた。
・四十八歳で結婚。相手は高橋順子氏である。
・家は農家である。百姓である母にも分かるような小説を書こうとずっと思ってきた。
・まずは読むことから始まる。その後、書くのだ。
・夏目漱石を読んで「これはかなわないな」と思った。
・大学時、目がつぶれるほど本を読みたいと思い、大学図書館に貯蔵されている三百万もの本を全部読みたかったが、計算上無理なことで途方に暮れる。
・大学の講義のとき以外は図書館にひたすらこもった。八時半まで、追い出されるまでいた。
・図書館に年がら年中いる盲人の五十歳程度の男性がいた。彼の傍には奥さんとおぼしき人がついて、目が見えない彼のために小さな声で読み聞かせていた。ローマ法についての本だったらしい。
・かむら磯多の「業苦」を読んだとき、自分も作家になれるかもしれないと意識した。
・文学とは、人間とは何かである。状況設定をして、それに人間を交わらせるものである。
・小説とは、人間とは何かの答えを書くことである。
・人間の大部分はお金のために生きているが、死ぬために生きている人もいる。
・人間だけが死ぬことを知っている唯一の生物である。それは悲しみである。そして、それを書くべきだ。
・人は死ぬことを恐れている。
・人の寂しさを感じとることが大切である。
・食欲と性欲が人間を不幸にしている。高度成長期の到来で食欲は大分克服できたが、性欲は難しい。
・小説には「虚」と「実」を入れなければならない。そこに面白みが生まれるのだ。私には三対七程度がちょうどいい。
・小説家になるためには覚悟がいる。陰口を表口でもきくということだ。悪人にならなくてはいけない。
・今まで五十冊ほど書いてきたが、命と引き換えにしてもいいというものが五つある。「鹽壺の匙」「漂流物」「赤目四十八瀧心中未遂」「灘の男」だ。特に「鹽壺の匙」は思いいれが強く、八十二枚の作品が出来上がったのだが、それまでに二千枚も書いていた。削りに削った。

高橋順子氏
・小説は事実に基づくが、必ずしても事実ではない。事実そのままだと作文になる。小説や詩にはならない。
・車谷は他人のみっともなさだけではなく、自分のみっともなさも書く。
・ここ十年ほど本を出版していない。十年ほど単独で詩の出版会社をしていた。
・冬に車谷と一緒に世界一周の旅に行った。船の中でスペイン人と会った。「アサッテサーナ」とは「ありがとう」の意だが、「あさって、サウナ」と覚えたらいい。
・詩とは日常とは違うところにある。日常に風穴を開けるものである。その風とは谷川俊太郎曰く、「この世とあの世を結ぶもの」である。
・小説は右手と左手が喧嘩しているようなものである。
・詩には人間であることを越えていきたいという思いがある。日常ではない、あるところに出られたものであるべきだ。虚だけである詩が多い。しかし、土台が虚だと詩にはならない。
・小説は実の中に虚が含まれていて、詩は虚の中に実が含まれている。
・車谷は小説を書き終えると、葛藤が始まるという。私は達成感を感じる。
・詩人の茨木のりこさんが今年の二月に他界した。遺書があった。「この世とおさらばします」の「おさらば」が茨木さんっぽくていいなあと思った。
・相手がいない、他者がいない詩を書いている人が多い。
・パソコンで書いた詩は見当がつく。変換して、あ、これいいかもと簡単に選んでいる。
・他のことが見えていない人が多い。自分に沈んでいく詩が多い。
・詩は分からなくていいものだ。

 僕にとっては、まるで長年溜めこんできた荷物を一斉に除去したような開放感を感じることができた講演であった。小説とは人間を書くことである。なんというストレートさ。風景描写や比喩などに惑わされ、何を書いていいか迷っていた自分に与えた影響は大きい。
 
 また、小説は架空のことで、全部嘘なんだよと思ってきた僕としては、実を書いていいんだよと言う車谷氏の言葉は、おそらく懺悔をして救われたカトリックの様であったであろう。

 書けないスランプに陥っていた僕は、あまあまのあまちゃんなのだろう。車谷氏は「鹽壺の匙」を二十九歳で書き始め、四十六歳で書き終えた。その間十七年。とてつもない歳月である。あきれて、ちょっと目が潤んだ。

 書き急いでいる。急ぐな、読め、読め。書くのは後でいいのだろう。

山陰文学学校

2006年04月16日 | 雑記
追記①

 暇な時間をどう過ごすか考えた。地図をみてみると、近い場所に松江城があるじゃないか。どれくらいの距離か正確にはわからないが歩いていこうと思った。

 案内板が見えた。三キロか。ほどよい距離だ。一キロをおそらく十分ペースで歩くので、三十分。ほどよい、ほどよい。

 松江城は桜祭りの最終日であった。桜は満開とはいかなかったが、まだ魅せる力を十分に備えていた。写真を次から次へと撮るが、いまいち納得のいくものが撮れない。帰りの石段を降りる途中に撮ったものがベストショットであった。

 帰りの三キロは思ったよりも辛い。思ったより時間配分がうまくいかず、講義の開始時間も近づいてきて、僕は焦ってちょっと小走りになる。くにびき大橋の上は、気を抜いたら飛ばされそうなほどの強風が吹いており、着ていたブルーのジャケットが大げさに翻る。髪が割と短めだったのが良かった。長髪だと髪が風の思いのままに操られて、ぐわんぐわんに流され、見た目的にかなりみっともない。加えて肌に当たる回数も増えるので、迷惑この上ないのである。

 講義については、マイミクの「彼」で報告する。かなりの影響を受けてしまった。感銘を受けた。

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 今山陰文学学校の第一講義に参加するため松江にきている。ふと立ち寄った書店で劇団ひとりの小説が売り上げ一位になっているのに驚愕した。買おうか迷うが買わないでおいた。

 この講義を機にスランプから抜け出すことはできるだろうか。その前に今の暇な時間をどうするべきか考えなくてはいけない。開始まで二時間もある。

九品山の桜~足湯

2006年04月13日 | 雑記
九品山の桜が満開で、露天も出ていたのでいってきました。姫路からやってきたという、たこ焼き屋のおばさんがやたらと威勢が良かったので、つられて二箱買っちゃいました。

  

参拝所になっていて、おじいさんおばさんは賽銭箱にチャリンチャリン小銭を投げ入れ、パンパンと手を叩き、何かを祈っていました。僕は五円を入れ、でもそれじゃあ心もとないので、五十円を足しました。「世界平和」という語句がぱっと浮かんできたので、それを祈っておきました。



次いで近所の足湯につかりにいきました。老婆がこぞっていらっしゃると思いきや、誰もいなかったので、知り合いとコーヒーを飲みながら足湯を満喫しました。本とか持ってきて読んでもいいですね。今度小説でももってきて読もっと。