じゃっくり

日常をひたすら記すブログ

あるサークルの飲み会

2004年07月31日 | 雑記
あるサークルの飲み会にいってきました。兄と一緒に車でいったんです。でも車でいったらどっちか一方が飲めないわけですよね。だって帰りも車だから。僕は最初飲まない予定でしたが、代行を使うということで飲むことにしました。

はじめは4,5人くらいだった人数が少しずつ増えて最終的には13,4人になりました。内、女性は4人だったと思います。男性はおいといて、女性中心にかいていこうと思います。まず、女性の紹介をしておきましょう。Aさんは明るい子で今回の飲み会で2ケタはこけていました。Bさんはお姉さんの色気が漂っていて、とても歌がうまい人です。Cさんは目立たないけどしっかりした人です。Dさんはなんか性格がきつそうです。

僕の近くにいたのはAさんです。その前にCさんとDさんとは一度もしゃべってないと思います。Aさんはしらふでもよくしゃべりますが、お酒を飲むともっとしゃべります。そして、よくつまづいたり転んだりします。友人のM君と彼女と一緒に何かをくっちゃべっていました。そもそもこの3人はみんな同年齢なんですよ。構図的には主にM君とAさんがしゃべっているのを僕が傍で聞いているという感じです。でもこのAさん、たまにこっちにも話を振ってくれたりして気遣いのできる子です。でも、僕はあいかわらずしょうもない反応しかできないわけですが。

なんか記憶がちょっと曖昧で恐縮ですが、Aさんとは一緒に平原綾香の「Jupiter」を歌いました。もちろん高音のところは声がでませんでしたけど。M君はAさんとオレンジレンジの「ロコローション」を歌ったりしていました。この曲いいよなー 特に「パンチラ パンパン」のところが(エロ)。

Bさんはバンドのボーカルも務めているということで、歌がうまく「ハナミズキ」とか聴き惚れてしまいました。兄とM君、そしてBさんがコラボったdragon ashの「greatful days」はなかなかよかったです。それと、兄とやたらに仲がいいのに気がかりでした。兄ちゃんには彼女がいるのにね。

M君はほとんど初対面のDさんに対しても、まるで何度も会ったことがある人のような感じで話します。その適応力を驚きながら見ていました。僕はというと何度も会っている人といまだに打ち解けていません。非社交的だよなあ。Dさんは1度、僕の横にちょこんと座りにきたのですが話しかけずじまいでした。Cさんとは席も離れていたせいか、目さえ合いませんでした。

こういう飲み会ははっきりいって苦手なのです。少しの対人恐怖をもっている僕は、すごく相手との距離が気になって仕方がありませんでした。ほとんどの場合、自分からは声をかけないので相手がこちらに交流をもちかけてこないと進展がありません。よって相手がシャイな人だといっこうにお互いの距離は縮まらないのです。今回は兄もいたし、M君もいたんでなんとかなりましたが、もし2人がいなかったらと思うと恐怖心にかられます。

自分から話せない、話さないとなると相手の話を「聴くこと」が重要になってきます。「聞く」のではなく「聴く」のです。「聴く」とは相手の話をただ端に受け流すというのではなく、相手がどういうことを考えてその言葉を発したのか、裏にはどういう意図が隠されているのか、それを真摯に受け止めるということです。そして、重要なのが適度な相槌です。相槌は相手の気持ちを理解しているという意思表示なのです。理解されたら相手も嬉しい。僕みたいな話す口をもたない人は、他人と交流するための重要な潤滑油になるものです。この2つのことをいつも意識して他人と接しています。

ドキドキしたのは大きく分けて2度あります。一度目はAさんとのことです。彼女はすごく酔っ払っていたせいか、すごく大騒ぎをしています。ちょっとのことで身をよじらせ大笑いです。ふと誰かがギャグをいったときにAさんの体勢が崩れて頭から僕の右下腹部あたりにぶつかりました。まったくもってドキドキです。もう1つはカラオケのときです。左の席にはAさん、右の席にはBさんが座っててどっちもがノリノリでダンスをしていました。それで2人で踊っていたらいいのに、なぜか僕にも踊ろうとせがんでくるから困りました。で、腕をつかんで立たせてきます。左腕からAさん、右腕からBさんの柔らかい手の感触が伝わってきて背中にぞくぞくしたものを感じました。これが一番のドキドキでした。

女性に免疫がないのでちょっとしたことでも大慌てです。それが新鮮にも思えます。恋愛経験に乏しい僕には不倫とか、浮気をしている人の気がわかりません。男と女が付き合うとどうしてもそういう感情が芽生えてくるもんなのでしょうか。僕にはそういうことをする勇気もないし、気持ちもありません。たぶん女性と付き合うことになったら、その人のことだけを考えて一生懸命尽くすんだと思います。

今回のことを経験してみて、やっぱり人は他人と交流していかないと生きれないのかな、と思いました。1人で行動し、よく1人で自問自答してしまう僕は自分の中だけに固定された価値観をもってしまい、硬直してしまっているようです。他人からの干渉が一切ないから純粋だともいえますが、変化がないということは、ときに自分を苦しめ、孤独感を感じさせ、自分を暗くさせます。それが他人と関係をもつことにより洗い流されるというか、新しい考えと交わることにより活性化される感覚を覚えるのです。「脱皮」するという感じなのかな。

1人行動があいかわらず好きなわけですが、これからは他人とも少し積極的に関わっていきたいな、と思わせられた飲み会でした。

女性との関係

2004年07月29日 | 雑記
ほんとに女性と関係を持つのは難しいなあ、と思う。

 まず、女性の前に立つと面と向かって目が見れない。そして、声もでなくなりなんとか声をだそうと意識を外に向けるようにすると、やっとのことで声がでるという感じだ。もちろん声がでないことも多々あるけど。「女性」という存在に対して過剰な意識をもっているんだと思う。

 僕も成人になってから捉え方が変わってきた。女性を見るときにまず、相手を品定めするように見る。この子はかわいいだとか、性格が悪そうだなあとか、明るそうだなあとか、芸能人でいえば誰に似ているなあとか。いろいろと推測してしまう。もう男性をみるように女性を見れない。そして、いつからか女性を性欲の対象として見るようになった。いままでは雑誌のグラビアとか、隠れてこそこそ買っていたちょっとHな雑誌とかビデオでしかみることのなかった女性を目の前にすると、すごく生々しさを感じて息苦しさ、たまに吐き気を感じることがある。

 今までは女って男と違うんだよなあぐらいにしか思ってなかったのが、生殖器の違いに気づき、子を作る機能があることを知って、男性の性欲のはけ口としての女性(逆の場合もあるけど)の存在を知ると、なんか両者の違いが強調されて接することにすごく違和感を感じるようになってきた。

 でも、やっぱり両者は交流して、交わって子孫を残していかなくてはいけないんだ。先人もずっとそうしてきた。子孫を残すということは「自分を後世に残す」ことであり、自分を消さないということだ。自分が死んでも自分により近い子供が自分に代わってこの世で生きてくれる。そして、姿形が変わったもう1人の自分もまた限りなく自分に近い自分を残すために生殖行動をとり、後世に自分を残していく。どうも、自分の存在がこの世から消えるのを人間は極端に怖がるらしい。

 さて、この年になると、女性と付き合うということは性行為をするということにそのまま繋がる。相手もそれを前提にして付き合ってくれてるのだろう。何度もデートを重ねているのに一向に手をつないでくれなかったり、キスを求めてこなかったりすると女性は不安になる。だって、男性の方から女性を求めていくという無言のルールがあるから。いつの時代も恋愛ごとにおいて、男性は「する側」で女性は「される側」ではなくていけないらしい。

 たしかに女性を自分の力で奪いたい、という男性は多いように思える。だからナンパのように自分から声をかけていく。女性は男性を待っているふりをしてちょこんと座っていさえすればいい。この関係がどうも気に食わない。

 僕は自分から女性に声をかけたことがほとんどない。メールでは自分から交流をもちかけるけど、声だとほんとに記憶をたぐってもいまいち思い浮かばない。よって、周りが女性で溢れるなんてことはまったくなく、女友達もほぼ皆無といっていい。この意識をかえないと、結婚なんて先の先の話になるだろうな。最後に個人的な意見をいうと、僕にとって女性とは「安らぎを与えてくれる存在」だ。どうも女性にはそういう要素があるらしい。それを一度味わってみたいのだけど、どうもそこまでの段階にいけない。

漫画、小説、カード

2004年07月27日 | 雑記
バキ(22)、餓狼伝BOY(1)、スティール・ボール・ラン(1)と、田口ランディさんの小説「富士山」をかいました。はい、実は漫画バカなのです。特に格闘技ものには目がなくて、かってしまいます。また、ランディさんの小説ですが、この前開催された直木賞にノミネートしていた作品です。なんか、書評者の評価がかなり悪かったですがいいんです。彼女のコラムをよみまくってて、すごく身近に感じていたのでかったのですから。かえって、受賞に”漏れた”作品だからいいんですね。栄光をかちとっていない、悔しさを感じている作家の作品こそ読みたいのですよ。だから、僕は「バカの壁」も、「世界の中心で愛を叫ぶ」も、「蹴りたい背中」もかっていません。綿谷さんのかわいさに負けて「インストール」はかったけどね。

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 カードの類は好きじゃない。だから、大学生のほとんどがもってる生協カードももってないし、TUTAYAのカードは更新作業が面倒なので持たずじまい。何か、その組織の罠にかかっているような感じがして嫌なんですね。なんかこのごろではレジで「カードはお持ちですか?」ってきいてくるじゃないですか。あれも面倒以外の何者でもないです。いちいち「もってないです」といわなければならないわけです。さらにいうと、たいていの人はカードを持っているから持っていない僕は少数派なわけです。だから、店員の人がたまに「えっ この人もってないの」という表情をするわけです。その度に嫌な気持ちがします。

 その手はコンビニまで侵食してきました。ポプラとかのローカルなコンビニなら尋ねられることはないですが、ローソンなどではたまに「カードお持ちですかあ~」なんてやる気のない女店員さんから聞かれたりします。僕も「ないっすよ~」とちょっとフランクに答えたりしますが、内心は「きくなよ、うざったいなあ、ほんとに」です。

 もう、僕みたいな人は生きづらくなってきました。森林伐採で住処を追われる小鳥のようです。ぽっぽぽっぽ。

サイトばれ

2004年07月25日 | 雑記
海上保安庁の巡視船にのってたら肌が焼けていまだにヒリヒリしています。あと、半年ぶりに髪を切りました。散髪は苦手でお金もかかるので、いつもは妹にきってもらうか自分で切っているんですよ。そういえば、美容師さんがいってました。「あの…これはどこで切られたんですか?」って。やっぱばれますよね。

僕はパソコンを2台もっていまして、ホームページの更新は3年前にかったVAIO君でしているんです。それで、もう1つのパソコン(こっちもVAIO)はもっぱらTV代わりです。文字をうちながら、もう1つのVAIO君でTVをチラ見ですよ。贅沢だよなあって自分でも思います。

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サイトをもっている人が一番恐れることって、サイトばれだと思うんですね。いくつものサイトをみてきましたが、多くのサイトが自分の周りの人に公開していません。ホームページは日本全国、そして海外でもみることができて情報が開示されている印象を受けますが、どうもホームページ運営者、特にテキストサイト運営者にとったらホームページというのは私的、プライベートな色が強いではないでしょうか。

そういう僕もほとんどの身内に公開していません。家族は知っていますが、パソコンをもっていないので僕のサイトをみることはないです。また、学校の知り合いにも公表している人は少ないし、いつも遊ぶような人にもたいてい明かしていません。どうも身近な人に公開するとテキストがかきづらくなるんですね。

僕も文字をかくとき、現実で会っている人のことはあまりかきません。だって、現実での関係がぎくしゃくしたら嫌だから。たぶんこれに共感する人は多いでしょう。身近な人に教えれば教えるだけ、自分のネット上のキャラが固定化され、居場所が少なくなってくるのを実感します。

ようするに結論づけると、現実にあっている人には自分のホームページを教えないほうが無難だということです。

対応の遅れ、施設解体

2004年07月23日 | 雑記
やっぱりなー と思った。新潟、福井の記録的な増水で行政の遅れがまた指摘されたけど、ほんとに遅いんだと今回のことで実感した。

今月5日、受験予定の自治体に公務員採用試験がいつ行われるか、メールで問い合わせた。しかし、1週間、2週間経過しても何の反応もない。そして17日経った今月22日、やっと返信がきた。こんなに時間が経ったんだ。試験内容の細かい詳細もかかれているんだな、そう思ってメールを開いた。でもその内容にぽかーんと口をあけてしまった。

文面には簡単に「まだ詳しいことはきまっていません。8月中には決定すると思います。それまでお待ちください」と書かれていた。こっちはそっちの職場で働くかもしれない、もしかして一生をかけて勤めるかもしれないんだよ。それなのに17日も待たせてこれだけか、と思った。この自治体は今合併問題で忙しい。僕のメールを後回しにしてもかまわない。でもさすがに遅すぎではないか。

思えば、僕が通っている大学の事務にメールをおくったときもそうだった。大学が運営しているホームページの内容に誤字が見つかって、それをメールで報告した。でも何日経っても直らないし、なんの反応もない。ちゃんとメールの内容を見ているのか、いや、たぶんみている。その上で何もしてないんだと思う。一学生のたわごとなんて後回し、それで時間が経過して忘れてしまったんだ。なんというお粗末な対応ぶりなんだろうか。

公務員って身分が保障されているから、ある程度怠けてもいいと思っている人が多いのかもしれない。競争しなくても給与は保障されている、ボーナスもでる。でもプロとしての意識は持っていてほしいもんだ。大学も法人化されて各大学が自立して努力しないと国からお金がもらえなくなるかも、という危機感をもちはじめてきた。これを機会に少しでもメールの対応くらいはやくなってほしい。

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平成14年、宮城県で障害者施設を解体するという宣言が出された。該当施設は「船形コロニー」といわれる500人弱の知的障害者を抱える施設だ。同年11月に発布された施設解体宣言というのも読んでほしい。

面白い動きだな、と思った。重度の障害者は基本的に施設に預けられ、そこで人生の大半を過ごして終わる、というイメージがある。介護員に世話をしてもらいながら面倒をみてもらい過ごす。知能に障害があるから、自分の思っていることも汲み取ってもらえず介護員主導で生活を強いられる。自立して過ごすにはほど遠い環境がそこにはあるのだろう。

宮城県はそんな中、2010年までに船形コロニーに入所している障害者を全て開放するという提案を出した。障害者らは「グループホーム」というところで5~6人ほどの集団生活を送ることになる。今までまかせっきりだった生活から障害者本人の立場を尊重し、自立した生活がそこではまっているのだという。

一番の目的として、「地域社会に溶け込む」ということがある。今まではいわば隔離されていた。地域と関わるのは何かイベントがあるときだけ、それ以外は施設内でしか行動できない閉鎖的な環境だった。自分を「社会」というものの中に置いてみて感じる部分が多くあると思う。1人で散歩にでるだけでも新鮮な感覚を覚えるだろう、地域の人に話しかけるだけでも充実感を味わうことができるだろう。なにより自分1人で何をするかを決め、行動できることが嬉しい。たぶんそんな感じがするんだろう。

…と、最初に紹介されていた施設解体宣言を読むまでは思っていた。でもこの文章をよんでからというもの、どこか不安を覚えた。書いてある内容があまりにも杜撰なものだったからだ。2つの文章を取り上げてみる。

『私たちが運営する施設に入所しているみなさん達の生活は、非常に劣悪な状態にあると思います。まさに刑務所並とさえ指摘をされる建物の中で、大部分の人は20年を越える長い年月、本人の願いや思い、希望、そういうものと違った生活を強いられておられるのではないだろうか、という思いがいたします。』

『長年、生まれ育った故郷から遠く離れて船形コロニーで生活し、本当に辛い思いをされただろうと思います。そういうみなさん達に心からお詫びを申し上げて、船形コロニーの解体を宣言したいと思います。』

まゆをひそめながら見ていた。そして「何いってんの、あんた」と口にだして呆れてしまった。この宮城県の福祉団体の理事長さんとやらは、この船形コロニーでの生活を「刑務所並の劣悪な環境」といい、さらには障害者らに同情し、哀れむような文章を書いていた。「ごめんなさい。こんなやばい施設にいれてしまって」彼はこういっている。

この施設で働いている従業員、また障害者の身内の方々が見たらどう思うだろう。従業員は働く意欲をなくし、身内の方々は呆れてものもいえないだろう。「最悪な障害者施設なんてもうやめて、はやくここから脱獄しようぜ!」そんな風にきこえる。障害者施設は「悪」なのだろうか「墓場」なのだろうか。従業員の方は彼らの後始末をしているのか。とても嫌な気持ちになった。 

障害者がグループホームでお互いに共同しあって生活していくという動きは前からみられた。でも今回は重度な障害者だ。スタッフの方も先行きがみえない不安と戦っている。平成15年には60数人が施設から「自立」の道へと歩みだした。今回の文章で落胆してしまったが、今度この活動がどういう具合に進むか追ってみたいと思う。