じゃっくり

日常をひたすら記すブログ

文章を書きたいんだ

2004年05月18日 | 雑記
 文章を書くのは、嫌いだし、苦手だった。
 小学生のころ、日記を毎日かかされた。先日、ある書類を探していると小学5、6年生当時の日記がでてきて、しばらく読みふけっていた。見て驚いたが、友達とゲームをした話、スポーツをした話だけで半分を占めていた。たしかに、思い出すと小学生時代はゲーム、スポーツで友達付き合いを進めていったような気がする。そこには、思いのまま、素直に文章が書きなぐられていた。でも読んでて同じ文章ばっかりで面白みにかけた。
 そういえば、夏休みの課題で読書感想文というのがあった。夏の友、自由研究につづく、「夏の3大恐怖」の1つだ。夏休みが終わる3日前から開始した。まずは夏の友、カレンダーを参考にし、プラス母の力も借りながらやみくもになって40日分ほどの日記の空欄を埋めた。自由研究は自分で研究するはずもなく、進研ゼミで特集されていた模範研究をそのまま書き写した。今思えばすごいことをしているな、と思う。上記の2つはなんとなかった。でも、最後の読書感想文だけは筆が進まなかった。適当に文章をかいてもだめだから、最低本の要旨は把握しなければいけない。これが面倒で、いらいらしながらページをぱらぱらめくり、本を読んでいた記憶がある。文章をかくのがとんでもなく苦痛で、面倒だった。
 中学、高校は受験勉強特有の「正解を出す勉強」のため、自分の考えを文章としてかく機会に恵まれなかった。でも、それがよかった。面倒な作業に追われることもなく、ただ答えをだせばいい。でも、やはり大学受験になると小論文という面倒なものが突如現れる。それまで、自分の言葉で個性をだして文章をかくことは、ある種「禁止」されていた。みんなと同じ答え、みんなと同じ考え、みんなと同じ行動をすることが重要視され、それから外れた人は「変人」として扱われた。そういった中で、いきなり自分の考えを文章に反映させなさい、か。丈夫そうなグローブをはめ、硬式のボールを使いキャッチボールをしていたら、いきなりグローブは使うなといわれ、素手でキャッチボールをするようなものだ、と思った。
 これまで、自分の考えたことを文章化させるのを避け続けてきた僕に、とうてい小論文などという論理的な思考を伴う文章などかけるはずもなかった。2浪目になってようやく予備校の先生のところにいき添削してもらったが、いつも修正されるばかりで褒めてもらえることは1度もなかった。
 大学にはいったらレポートなどで自分の意見を書く機会が増えた。そこでも苦労した。ある教科でA~Fの6段階で評価されるレポートがあったが、そこでもDとEを連発。Fも1度とってしまった。知り合いの評価をみたら、Bが多い。ときにはAもとっていた。それをみて、やっぱり自分には文章力がないと痛感し、落ち込んだ。
 しかし、大学にはいって変わったことがある。以前として文章をかくのは下手だ。しかし、なぜか文章を書くことが少しずつ好きになってきた。なぜだろう。僕は元々言葉多くしゃべる方じゃない。大学では、とりわけ会話が少なく、1度もしゃべらず家に帰宅する日もあった。いつの間にか自分の中の感情を押し殺してしまった。そんな中ある日、なにか文章をかきたい、と思った。インターネットとの出会いもそれを加速させたのかもしれない。とめどなくあふれてくる言葉、それを素直にかいた。時間も忘れてかいた。借り物ではない、自分の言葉でかかれた文章を見て充実感、開放感を感じている自分がいた。
 気がついたら文章をかくことが少し好きになっていた。いままでは「書かされてきた」のだろう。でもこれからは「書く」んだ。まだありきたりな、稚拙な文章しかかけない。語いも驚くほど少ない。前後のつじつまが合っていないときもある。でも、文章をかくという楽しみ、表現方法を得た今、そんなことたいして気にならない。僕は文章をかきたいんだ。それだけで十分なんだ。

見てはいけないもの ~2つの事例を元に

2004年05月17日 | 雑記
 見てはいけないものを見てしまった気がする。
 1つは、死体画像。「パリ人肉事件」というのをご存知だろうか。犯人、佐川一政は人肉愛好家だった。彼は自宅に思いを寄せているオランダ女子留学生を呼び、彼女を背後から射殺した。殺した後、各部分を分離、切り取り、尻、大腿の一部をフライパンで焼いて食べたりした。
 まったくもって異常な犯行だが、しかし、彼は裁判の結果、無罪になった。理由は犯行当時、彼は精神喪失者だったというのが理由だった。この経緯も面白い。
 この情報をネット調べていくうちに、1つの写真に出くわした。死体画像。なにかの人形かな、と思案していたが、どうも生身の人間らしい。しかも、なんと写真の人物は殺されたオランダ留学生本人ではないか。顔もはっきりと見て取れる。下半身が分離され、各部分がナイフで切り取られたのか、破損している。
 もう1つの事例をだそう。イラク関連のことだ。このごろ、イラク人虐待の映像が公開され、波紋を呼んでいる。自慰を強要したり、箱の上に捕虜を乗せ、そこから落ちたら電流が流れて死ぬと脅したり、非人道的な虐待が明らかになった。
 それの報復か、アルカイダ系のイラク人過激派と思われるマスクを被ったイラク兵数人が、アメリカ人捕虜を殺害した。そして、その映像がイスラム系webサイトで公開された。映像は生々しく残酷なもので、過激派の1人がアメリカ人を地面に横たわらせ、持っていたナイフでぎこぎこと首を切り始める。一気に切り落とさず、アメリカ人の苦痛を増幅させるようにゆっくりと。それがかえって、残酷だった。
 上の文章でかいているように、僕はそれを見てしまった。見たい欲望と、それを抑制する力が衝突しあったが、最後は負けた。でも、やはり恐ろしかったので最小限の音声と最小限の枠に映像を収め、眉間にしわを寄せておそるおそるみた。しかし、やはり途中で気持ちが悪くなり、最後までは見れなかった。
 2つの事例をみてもわかるように、ネットではこういった残虐映像を簡単に視聴できる。日本では比較的規制が厳しいのでなかなか公開されないが、海外では規制が緩く、それを取り込み、日本のwebサイトで紹介する人がいるので、アンダーグラウンドサイトではそういう画像を簡単に見ることができる。
 これはいうまでもなく問題だ。とくに、このごろは小学生でもネットに触れやすい環境になってきている。例えば、小学生がネットで死体写真をみたい場合も簡単に見ることができるし、上記にあげた2つの映像もみることができる。感受性が高い多感期にこれらを見ることが、精神にどういう影響を与えるか、想像に難くないだろう。
 ネットは人の欲望を満たしてくれる。「見たい」ものをすぐに見ることができる。でも、自分に抑制をかけて、見るもの、見ないものを区別することが重要だ。それは、任意の努力に委ねられている。

出会いサイトで本当に好みの人と出会えるの?

2004年05月10日 | 雑記
まず、結論から言おう。「出会い系サイトでは、9割9分、好みの人と会えない。」
いきなり、夢を壊すようで悪いが、出会い系サイトは今のネット状況では利用しないほうがいいだろう。なぜか。
 そもそも、人はネット以外の日常生活、学校であったり、職場、はたまたサークル活動、合コンなどで自分の好みの人を探す。そこでは、リアルの人物が存在する。顔も見れる。言葉の調子、もっと付き合うようになれば性格、人間性も分かるだろう。そこでは、確たる実感をもってその人を見定めることができる。でも、ネットの出会い系はどうだろうか。
 まず、写真入りのサイトもあるが、ほとんどその交流は文字でなされる。その文字で得られる情報のみで相手を判断しなくてはいけない。よく「わたし、顔には自信あります!」「彼氏に振られて今おちこんでるんだ・・・・ 誰か癒してください。」「大人の恋がしたいです。体の関係もOKです。」などといった、男性を誘惑するようなかきこみをしている女性をみかけるが、そのほとんどが悪徳業者のスタッフだろう。その魔の手にかかり、返信すると変なサイトを紹介されたり、アダルト関連のメールが送られてくるだけだ。
 また、性別で見ると、出会い系を利用するのは男性が圧倒的に多いように思える。少し前まで、女子高生が出会い系を利用して被害にあった、などというニュースが世間を騒がせた。しかし、そういった女生徒が出会い系を利用するのは遊び目的であったり、あるいはお金目的で、本当に真剣な出会いを求めて利用する人は少ないのではないか。
 成人した、少しの常識がある女性ならわかるはずだ。出会い系を利用するには、ほとんどの場合、自分のメールアドレスを公表しなくてはいけない。さもすれば、そのメールを伝ってウイルスが送られてくるかもしれない、個人情報が漏れるかもしれない。特に女性はそういうことに敏感だから、利用する人は限られてくる。男性はどうか。出会い系を利用したことがある男性ならわかると思うが、ほんとうにうまくいかない。出会い系の掲示板にかきこまれている女性のかきこみ、その多さに最初は驚き、笑みを浮かべることだろう。しかし、その実、そのほとんどが偽りのかきこみだ。そもそも、出会い系は”女性に飢えている男性”を標的につくられた部分が大きい。ネットは情報が多いから、付き合うことなんて容易だろう、そんな甘い考えで出会い系を利用する。中には会員制のサイトもあり、お金のある30代以上の男性がよく利用している。でも、本当の出会いを経験した人はどれくらいいるだろうか、甚だ疑問だ。
最後に、多少の偏見を含めて意見を言おう。ネットを利用して出会いを求めてきた人の気分を害する意見だと思うがきいてほしい。
 IT革命だとか、情報社会だとかいわれているが、ネットを日常のように利用している人は少ない。出会い系も一緒だ。ネットで出会いを求める人は、実際の生活で出会いがない人が多い。実際の交流、出会いで満足している人はネットまで入り込んでこないのだ。自分の周りの人をみてほしい。ほとんどの場合、彼氏、彼女がいる人は、その相手をネットで得てはいないはずだ。ネットにはいりこんでくる前に、実際の生活で出会いがないという前提がある。ひどいことをいえば、”余りもの”の人が多いのも事実だろう。そういった出会い系サイトで、好みの人とあえるなんて考えをもたない方が無難だ。しかし、最後の最後に希望をもった意見をいって終わることにする。現在急速にネット環境が整備されつつある。個人情報漏洩のニュースが頻繁に流れているが、これからはセキュリティー対策も進み、安全性も増すことだろう。それに加え、パソコン所持者、ネット加入者が増え、その結果出会い系サイトに多くの人が流れ込んでくるだろう。その中に、”真実の人”が増えてくるのは間違いない。

インターネットがメディアに与える影響について

2004年05月07日 | 雑記
 インターネットはメディアにどういう影響を与えるのだろうか。

 メディアというと、TV、ラジオ、新聞、雑誌などが挙げられる。実は、どういう影響を与えるのか、という疑問を投げかける前に、もうすでインターネットは各メディアに多大な影響を与えている。代表的なのは新聞だろう。読売新聞、朝日新聞、日経新聞、その情報をインターネットで公開していない新聞社はない。私的なことで恐縮だが、私も新聞はネットで閲覧することが多い。ネット新聞に依存するようになると、やはり一般的に普及している新聞は、見づらく感じてしまう。そもそも、とるスペースが大きすぎだ。左右に見開くだけでかなり苦労する。その分、ネット新聞はスクリーンの中だけで収まるので、快適に見ることができる。

 ところで、新聞はその情報の伝達スピードが早いことで知られている。その日起きた出来事は、もう翌日の新聞上に掲載される。しかし、ネットの場合だとその出来事が起こったすぐあと、もうその日のうちに情報が分かってしまう。情報を流すメディアの努力次第というのもあるが、そのスピードは、もはや僕らがよく目にする新聞の比ではない。現在、ネット上ではプロバイダにさえ加入していれば、ほぼ無料でネット新聞が購読できる。無料にしているのは、ネット接続者がまだ充実していないからだろう。お金を払ってまでネットで新聞をみない。しかし、将来的な目でみると、新聞はネットで見る、というのが主流になる日は近いのではないか。

 新聞だけではない。誰もが第一メディアで挙げると思われるTVにもその手は及んできている。このごろ、TV機能付きのパソコンが売れている。パソコンがプライベート化する中で、パソコン上でTVを見たい人が増えてきたのか。これからは、自分の部屋で、また外出先でモバイルとして利用する人が増えると予想している。インターネットを利用すると、自分が住んでいる地域だけに限定されない、例えば沖縄にいるのに、北海道限定のTVが見れたりする。そして、それは日本だけに限定されず、世界のニュースもすばやく入手できるようになる。その可能性は計り知れない。

 インターネットはメディアにどういう影響を与えるのか。その情報量、伝達スピード、情報蓄積能力の優秀さはもはや自明の理だ。今後、メディアをより快適に利用する手段として、いっそうその使用が促進されることだろう。インターネット主体の情報構造になるのは時間の問題だ。