よく武道では、心技一体が大事だといわれる。
これは武道の一つの到達点を示した言葉であるが、どうすれば心技一体が得られるのかはあまり語られない。
多くの場合、技は技で磨きながら、心はある種の経験や場数を踏んで、自然に鍛えられるのを待つようなアプローチがなされているように思う。
しかし、これでは心技一体の本質が見えてこない。
たとえば、早気などの場合、往々にして精神的な問題、すなわち心の問題として扱われ、そちら側のアプローチがとられがちである。
しかし、心技一体ということを考えれば、心だけでその問題が解決するはずもなく、むしろ技を高めていくことで自信がつき、結果として心が安定するということもありうるはずである。
逆に、技術的にはそれなりのレベルに到達した人でも、心の動揺や不安、あるいは場の雰囲気によって、昨日今日始めたような射になってしまうことも多々ある。
そういう意味では、技を極めていくだけでもダメで、どんな場面でも、いつもと変わらず、平然と弓を引けることが求められる。
つまり、重要なことは、技と心を切り離して考えるのではなく、そのつながりを意識することである。
基本的には、初心のうちは心よりむしろ技を拠り所(よりどころ)として稽古を進め、技をある程度修めたならば心を磨いていくという段階を踏むとよいだろう。
これは心がそもそも不安定なものであり、揺れ動きやすいという性質を持っているからである。
その心を、まずは技の面から安定させるよう努め、土台ができたら心と直接向き合いながらこれをさらに安定させることを目指していくというのが、本当の意味で心を磨く稽古ということになろう。
これは武道の一つの到達点を示した言葉であるが、どうすれば心技一体が得られるのかはあまり語られない。
多くの場合、技は技で磨きながら、心はある種の経験や場数を踏んで、自然に鍛えられるのを待つようなアプローチがなされているように思う。
しかし、これでは心技一体の本質が見えてこない。
たとえば、早気などの場合、往々にして精神的な問題、すなわち心の問題として扱われ、そちら側のアプローチがとられがちである。
しかし、心技一体ということを考えれば、心だけでその問題が解決するはずもなく、むしろ技を高めていくことで自信がつき、結果として心が安定するということもありうるはずである。
逆に、技術的にはそれなりのレベルに到達した人でも、心の動揺や不安、あるいは場の雰囲気によって、昨日今日始めたような射になってしまうことも多々ある。
そういう意味では、技を極めていくだけでもダメで、どんな場面でも、いつもと変わらず、平然と弓を引けることが求められる。
つまり、重要なことは、技と心を切り離して考えるのではなく、そのつながりを意識することである。
基本的には、初心のうちは心よりむしろ技を拠り所(よりどころ)として稽古を進め、技をある程度修めたならば心を磨いていくという段階を踏むとよいだろう。
これは心がそもそも不安定なものであり、揺れ動きやすいという性質を持っているからである。
その心を、まずは技の面から安定させるよう努め、土台ができたら心と直接向き合いながらこれをさらに安定させることを目指していくというのが、本当の意味で心を磨く稽古ということになろう。