新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

口述試験α

2008年02月29日 01時31分19秒 | 教育・研究
本日は博士課程入試の口述試験であった。
けっこう楽しませてもらった。全員内部からの進学であったので、だいたい修論審査から見て知っている。その上での口述試験なのだから、格好の学びの場とするべきだな。大学院ではめったに指導教員以外のセンセから指導を受けることはないし、研究について議論することもない。ほんとうは研究についてふだんから議論をしておく必要があるのだが、実際には自分の殻に閉じ籠もって研究に関する議論はしていないのではないか。殊に教育システム専攻の学生については言えそうだ。心理学や人類学、都市計画学といった分野は方法論をぶつけ合って議論ができるのかもしれない。教育学だけが取り残された感が拭えないが、それは教育学という分野の問題ではなくQ大の教育システム専攻の問題なのではないかと思ってしまう。教育システム専攻内で議論をしていないのではないか、ということだ。例えば比較教育でアメリカの学校教育を研究している人がアメリカ教育史をやっている人や日本の学校教育をやっている人と議論しているだろうか。していないだろう。それは人環という学際大学院を鳥瞰してみればすぐにわかる。コロキウムなどでは露見するのではないかな。
まず、教育学は現場の学であると心得よ。教育現場というものがあっての教育学だ。純粋教育学などというものは意味がない。まず、それを勘違いしている。
それと、教育学の方法論はない。教育学は教育を対象とする学問だ。だから現場があるのだ。その意味では医学と似ている。純粋医学なんていうのはない。それは生物学であったり、化学であったりする。そこに病人がいて、治療があって、はじめて医学という学問が登場する。基礎医学、生理学にしたって応用学だ。基礎は生物学や化学なんかだろう。
しかし、医学はえらそうだ。それは現場から信頼を得ているからだ。そこには現場や他の基礎科学との議論があるからだ。
教育学はどうだろうか。現場を離れているのではないか。もしくは現場に埋没しているのではないか。どっちもまずい。必要なのは日々の異分野とのディスカッションなのだ。それは現場との対話であるだけでなく、教育○○学どうしの対話が一番重要なのだ。
口述試験はその意味では格好の対話の場だ。ここでいろんなセンセの話をまとめて聞くことができる。しかも、自分の研究に関してだ。
幸い教育学には社会学、歴史学、哲学、行政学、法学という世界とつながった分野がある。つまり、教育学自体が学際研究なのだ。ところが現実には最も学際が苦手ときている。
我が郷土の先達は「boys be ambitious」と言った人がいる。それが教育学という学際研究の真骨頂なのだが、ambitiousの精神に一番欠けているのが教育学になってはいないか。もしそうなら教育学はいらない。無用の学として葬られてしまう。哲学は役に立たないようだが哲学は有用なのだ。しかし、教育学は教育という現場を失ったら無用の学なのだ。諸君の卒論、修論、学位論文を有用の学にするには……もう少し視野を広げろや。




私の男
桜庭 一樹
文藝春秋

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