明治19年2月15日から26日にかけて東京師範学校では長途遠足が実施された。修学旅行の先駆けとなるといわれている徒歩旅行である。この時数人の教員が学術研究をするために同道した。そうなのだ、最初は教員の研究が行軍にくっついてきたのだ。しかし、これはいいアイディアであった。文部省の軍事路線に反発していた高嶺秀夫はこれを生徒にやらせたいと思ったとしてもおかしくはない。
明治19年8月19日。高等師範学校の生徒たちは早朝上野駅より汽車に乗り、宇都宮に向かった。ここから鹽原(塩原)まで行軍。途中で4名がダウン。けっこうきつかったようだ。鹽原で数日間兵式体操演習と学術研究に費やす。兵式体操は発火演習と対抗運動をやった。対抗運動は敵味方の二軍に別れて戦争ごっこをするものだ。相当きびしかったと見えて二、三人脱落者が出た。一週間ほど滞在すると今度は日光に向かう。日光では3チームに分かれて中禅寺湖や足尾銅山、男体山登山など主として学術研究(観光を含む)にいそしみ、数日後宇都宮に行軍。そこから汽車で帰京した。着いたのが9月10日。20日ほどの旅程だったが、同じ屋根の下で飲食を共にしたことが教育的に実によかったという思ったらしい。さっそく行軍ではなく修学旅行と命名して高等師範学校の教育のひとつに位置づけることにした。
それで明治20年には修学旅行と銘打った大旅行をやったのだ。
今日はやっとここまで書いた。次はこれを文部省が追認するところを書く。修学旅行の成立史について定説をきちんと作っておかなくてはならないという危機感がさせている仕事だ。ああ、時間が欲しい。
明治19年8月19日。高等師範学校の生徒たちは早朝上野駅より汽車に乗り、宇都宮に向かった。ここから鹽原(塩原)まで行軍。途中で4名がダウン。けっこうきつかったようだ。鹽原で数日間兵式体操演習と学術研究に費やす。兵式体操は発火演習と対抗運動をやった。対抗運動は敵味方の二軍に別れて戦争ごっこをするものだ。相当きびしかったと見えて二、三人脱落者が出た。一週間ほど滞在すると今度は日光に向かう。日光では3チームに分かれて中禅寺湖や足尾銅山、男体山登山など主として学術研究(観光を含む)にいそしみ、数日後宇都宮に行軍。そこから汽車で帰京した。着いたのが9月10日。20日ほどの旅程だったが、同じ屋根の下で飲食を共にしたことが教育的に実によかったという思ったらしい。さっそく行軍ではなく修学旅行と命名して高等師範学校の教育のひとつに位置づけることにした。
それで明治20年には修学旅行と銘打った大旅行をやったのだ。
今日はやっとここまで書いた。次はこれを文部省が追認するところを書く。修学旅行の成立史について定説をきちんと作っておかなくてはならないという危機感がさせている仕事だ。ああ、時間が欲しい。
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