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新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

修学旅行事始2

2008年01月21日 00時43分41秒 | 教育・研究
 明治19年2月15日から26日にかけて東京師範学校では長途遠足が実施された。修学旅行の先駆けとなるといわれている徒歩旅行である。この時数人の教員が学術研究をするために同道した。そうなのだ、最初は教員の研究が行軍にくっついてきたのだ。しかし、これはいいアイディアであった。文部省の軍事路線に反発していた高嶺秀夫はこれを生徒にやらせたいと思ったとしてもおかしくはない。
 明治19年8月19日。高等師範学校の生徒たちは早朝上野駅より汽車に乗り、宇都宮に向かった。ここから鹽原(塩原)まで行軍。途中で4名がダウン。けっこうきつかったようだ。鹽原で数日間兵式体操演習と学術研究に費やす。兵式体操は発火演習と対抗運動をやった。対抗運動は敵味方の二軍に別れて戦争ごっこをするものだ。相当きびしかったと見えて二、三人脱落者が出た。一週間ほど滞在すると今度は日光に向かう。日光では3チームに分かれて中禅寺湖や足尾銅山、男体山登山など主として学術研究(観光を含む)にいそしみ、数日後宇都宮に行軍。そこから汽車で帰京した。着いたのが9月10日。20日ほどの旅程だったが、同じ屋根の下で飲食を共にしたことが教育的に実によかったという思ったらしい。さっそく行軍ではなく修学旅行と命名して高等師範学校の教育のひとつに位置づけることにした。
 それで明治20年には修学旅行と銘打った大旅行をやったのだ。
 今日はやっとここまで書いた。次はこれを文部省が追認するところを書く。修学旅行の成立史について定説をきちんと作っておかなくてはならないという危機感がさせている仕事だ。ああ、時間が欲しい。

大学とはなにか―九州大学に学ぶ人々へ
新谷 恭明,折田 悦郎
海鳥社

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連続と不連続

2008年01月18日 01時30分48秒 | 教育・研究
教育史研究では連続と不連続ということがしばしば議論の対象となる。歴史というのは基本的にすべてが連続しているのだ。それはまちがいない。時間というのは正確に刻まれており、あらゆる事象はその刻みのレールからはずれることはできない。
しかし、教育史研究で歴史の連続か不連続かが議論されるのは、歴史の転換点を通過していく際に問題が継承されたのか、それとも新しいものが始まったのか、ということが意味を持つからである。連続と不連続が取り沙汰されるのはおおむね近代史上大きな転換の時であった明治維新と第二次大戦の敗北の2大劃期である。政治史的には大きな変化を余儀なくされたこの2つの時期であるが、連続をいう場合は政治的変革とは別に前時代の価値観が後の時代に継承されていることを言い、不連続とは新しい時代の価値観がそれまでの歴史を否定したことを意味する。戦前と戦後の教育に連続性を見出すということは敗戦、戦後教育改革にもかかわらず、継続して残ったものがあるということであり、そこからいろいろな現代教育のありように対する評価ができる。一方、断絶を指摘することは戦後教育の理念が新たな出発理念として教育を支配したということを意味する。
それらは全面的にどちらかということではなく、錯綜して複雑に絡んでいる。そこに微妙な関係と戦後教育のありようがある。
先日の学校教育史のゼミではKさんが職業指導について連続と不連続の2つの潮流を見出していた。そして教師たちは、ん?そう、連続していたようなのだね。
ここは重要な点だ。戦後教育の理念は教育基本法、学校教育法、はたまた社会教育法などの法の理念に凝縮されて登場したし、占領軍による力尽くの指導もあった。頑迷な守旧的人々もいたわけである。そうした中で戦後教育は歩み始めた。その実態が何であったかは戦後教育の実践の中にある。それをきちんと見ていくことが必要だろう。その時連続不連続を物差しとした分析が意味を持ってくるのだ。



不連続殺人事件 (角川文庫)
坂口 安吾
角川書店

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教育情報回路研究会

2008年01月14日 00時15分18秒 | 教育・研究
 仙台でK科研の研究会に行ってきた。ほぼ僕の代理人のdogloverさんも一緒でした。少し冷え込んだようだけど議論はなかなか熱っぽかった、かな。
 感想として。教育会の研究ということもあり、各地域の教育会誌は史料として基本的なものとなる。昨年、僕とdogloverさんとで『福岡県教育会会報』を見つけ出して報告したのはそういう意味がある。
 ただ、忘れてはいけないのはそうした雑誌から何がわかるのか、ということだ。順番が前後した。忘れてはいけないのはわれわれは何のために何を知りたいのか、ということだ。ある年代以上の人たちが異様に燃えていたのはそういうところだろうと思う。殊に教育会と教職員組合の過渡期の議論や教育会の権威性(?)みたいな話になるとかなりいろいろ出ていた。あれはそれぞれの生き方や教育行政等に対する姿勢が出ていたのだと思う。
 dogloverさんは千葉某センセと帰りがけに食事をしたときの話がいちばんよかったんじゃないのかな。ジジイたちの熱を今、受け止めておいて欲しいな。

 そういう中で思うに、歴史に対するまっとうな想像力というものを磨いておく必要がある。その時代の人間が生きるモノの見方、処し方を想像できるか、ということだ。歴史というのは現在につながるものであると同時に異文化でもある。その異文化である部分を理解しないとその時代の歴史を読み解くことなんてできやしない。どんなにいい史料だったとしてもその意味がわからないことになる。教育史をやるから教育のことだけ知っていればいいというものではない。人間の人生にとって教育なんてごくごく一部に過ぎない。他のいろんな生活の中の一部として教育はあるのだから、それらの生活全体に対する人間のモノの見方をつかまなくてはいけないということだ。将軍の奥方は側室にヤキモチを妬いたか、というようなところに出てくる。
 今日は北海道教育会の発表もあった。北海道の奥地はまさに未開の地だったと思う。何もない原生林を開いて町を作っていった。今の札幌なんかを想像してはいけないのだ。ジャングルを切り開いていったのだ。それから20年も経たないうちに教育会は作られる。目の前にそのころの北海道の情景を思い浮かべられるだろうか。そこから始まる。



近代日本教育会史研究 (学術叢書)
梶山 雅史
学術出版会

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国民学校という大転換

2008年01月11日 01時31分03秒 | 教育・研究
今日は夜間の院ゼミ。国民学校特修科について再び考えたが、国民学校制度と職業指導というのが構造的に絡んでいたことが、Kさんの持ってきた史料でよくわかった。国民学校の職業指導のテキストと小学校令下のテキストとでは職業に対する意識が全くちがう。天と地とがひっくり返ったくらいにちがう。これは驚きだった。かつて教育行政史的理解では戦前の教育を教育勅語体制なんぞと一括りにしていたけど、それはてっぺんからまちがい。それまでの小学校高等科で教える職業観は自己実現である。しかし、国民学校が目指す職業指導は御奉仕なのだ。そして就職の徹底管理。自分のために(生きるため、喰うため、自己満足のため…)就職するのと奉仕のために就職させていただくのとではベクトルは全く反対だ。労務調整令と国民学校令、国民職業指導所と国民学校、これらが国家総動員法の中で構造的に結びついている関係が実は特修科だったのだ。村越さんの表現の中にそうした構造的な把握が欠けていたように思う。S本さんが発言していたが、戦時下の緊迫感が薄い感じがしたなあ。
それにしても古本屋はありがたいぞ。Kさん、いい買い物をしましたね。

時刻表復刻版 戦前・戦中編

JTB

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修学旅行事始

2008年01月10日 01時25分27秒 | 教育・研究
 今、修学旅行の成立と普及について簡単な論文をIさんと共同で書いている。修学旅行とはそもそも何かということについてきちんと教育史的定義をしておきたいのだ。そもそも修学旅行は修学旅行として始まったものではない。森有礼の兵式体操による師範教育、師範学校の軍隊化という施策の中で強いられた行軍に対する高嶺秀夫の反発から始まったというのはまちがいのないところである。問題はそこから修学旅行が普及していく過程で修学旅行は世間の批判に晒されていくところにある。その批判を受け止めていく中で修学旅行はひとつの学校行事として定着していくのである。
 おもしろいことがわかってくる。修学旅行という旅行の性格は行軍につきあった教員の学術研究から始まっているということ。修学旅行は結果的に夏休みという生徒の自由時間を制限したという点で評価を得たということ。行軍という形式はすぐに崩れてしまったということ。
 大切なのは文部省はただ、修学旅行という結果を追認し、基本的に教育的意義を見出せないままに現場に振り回されていたこと。文部省が修学旅行について何も先導的に決めることはできなかったということだ。そこには現場の知は政策を凌駕することができるという事実がある。
 今や修学旅行は観光からスキーの練習に至る多様さを示しているが、変わらないのは旅行という非日常の時空の中に学びの機会を持とうとしていることだ。それは知的な学びに限らず、(行軍から始まったということで)体育や徳育を常に内包していることだ。高嶺が行軍という枠から逃げ切れなかったままその精神主義は今も修学旅行につきまとっている。そしてそれは日本の学校を形成しているとても大きな要素でもある。 

上方落語 桂枝雀爆笑コレクション〈1〉スビバセンね (ちくま文庫)
桂 枝雀
筑摩書房

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正確ではないことの意味 歴史的想像力

2008年01月08日 13時38分49秒 | 教育・研究
 本日のゼミで村越純子さんの「国民学校特修科の性格に関する一考察」という論文を読んだ。あまりなされていない対象なのでなかなかおもしろかったし、なかなかの労作であった。当時の学籍簿を素材にいろんなデータを導き出している。発表者は「女子他校生」の進路志望に「家居」が46.8%と異様に多い理由が書かれていないことに疑念を持った。そこで実際にはどういうことなのだろうかと考えてみた。ここは歴史的想像力をかき立てざるを得ない。その練習とも言える。
 生徒実数は本校生42名、他校生94名であり、「家居」は本校生10名(23.8%)、他校生が44名(46.8%)だということだ。村越さんは本校生についてのみ詳細な内訳を別に表示している。「家居」以外には事務員、鉄道員、工員などがいるがそれらの多くは越生町内に勤務している。この少女たちはそれらの職場にずっと勤めようとしていたのだろうか。もしかするとたまたまそういう仕事があるから腰掛けでやってみることとしていい縁談があればそれまでということならば、「家居」とどれだけの質的な差があるのだろうか。越生まで通ってくる地域にはそれだけの職場があるのだろうか。また、この年の数値は毎年そうなのか、波はあるのか。そんなことも想像してみるとおもしろい。100人くらいまでの入学生なら年によってけっこうバラツキがあったりするのではないだろうか。今でも「今年の生徒はねぇ~」というぼやきなんかを聞くこともある。あれだよ。
 数値の波より生徒の実態というのは具体的だよね。小さな町だから役場の事務員だってだいたいみんな顔を知ってる範囲だろうね。コネとかツテとかが今より幅をきかせていたのではないか。どうして役場の事務員になる気になったのか、事務員としてどのレベルまで務めるつもりでいたのか。勤めに出ないで家居するのはどんな娘だったのか。想像してみて欲しい。それは今の自分の周辺の状況ではなくその当時の状況を知って考えることだ。当時書かれた文学作品なんかはいい例になる。
 例えば、交通網の発達の遅れが中等学校への通学に影響した、という記述の確認もしてみた。手元にその頃の時刻表があったからだ。これも楽しい。しかし、貧しい農村だというのなら交通費がかかる方法で通ったかな?なんてことも考えられる。僕の記憶の中に中学の時の先生が隣町の師範学校か学芸大学かに(先生の歳がわからないので)歩いて通ったという話を聞いたことがあるからだ。なにしろ北海道で2番目に古い鉄道があったところなのにだ。
 話は逸れるが、鬼平犯科帳を江戸古地図を見ながら時間を計りつつ読んでみたことがある。人間江戸市中を用務を足しながら一日の移動をどうしたのか、を検証したのだ。池波正太郎という人はすごい。というのが結論さ。歩く文化を実験してみる必要もある。福博の町を歩いてショッピング、遊興、勉学と数日実験的に暮らして見て欲しいな。
 また、学校のこうした統計というのは元々のアンケートがあいまいなものである。学生たちはそれをよく知っている。「就職の希望は?」と学生係かなんかに言われて適当に記入した覚えがあるのだろう。それを集約したものをさらに類型化する。そうすると数字が勝手に一人歩きする。その数字に踊らされてはいけないのだ。村越さんは細かい就職先まで示してくれた。これが重要だったのだ。一人一人の少女たちの顔を想像し、その青春のひとときの人生選択のいくつかのドラマを想像する。これは楽しいゲームではないか。歴史研究に許されたお楽しみなのだ。

時刻表復刻版 戦前・戦中編

JTB

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御用始め

2008年01月05日 12時47分04秒 | 教育・研究
 昨日は御用始め。17時15分より事務方と貝塚地区の部局長が集まっての懇親会があった。教員は人環、ほう、経済、人文の各研究院長と教育学部長が参加。お開きになると教育学部長はそそくさと消えたが、経理一係長のリーダーシップで赤のれんで二次会。既に理学研究院も来ていた。ここで理学研究院長を拉致。また、百周年事業室の某氏もカウンターにいたがまだ口に食べ物をもぐもぐさせたままそそくさと出て行った。僕に会いたくない事情はあるのだと思う。気にしなくてもいいのに。
 目の前に一人若いのがいた。慶応出のルーキーだという。法の事務だというのでいろいろ話題を投げかけたが全然事情を知らない。いつ着任したんだと聞いたら1月1日付。つまり、着任したその日が御用始めだったということ。
 で、三次会は箱崎駅に近い事務方のお偉いがよく行く店。途中、A副学長と遭遇し、合流。新人くんは着任当日に副学長にまで会ってしまった幸運児だ。
 A副学長とだいぶ話した。彼は文書館長なので僕の上司でもあるのだ。百年史が進まないことについてかなり愚痴ったが、A副学長の意見も拝聴した。どうもあるところからA副学長に情報は入っていない。S副学長のほうにアプローチするか、O教授の尻を叩くかしなくてはならないだろう。作戦を立て直さないと。
 だいぶ呑みすぎたので、電車に間に合うように抜け出した。しかし、相当呑んでしまった。そういうわけで朝は少々二日酔い。で、今日は出掛けない。気分が出たくない病だ。
 午前中にゆっくりと入浴しつつ『水平記』を読む。おもしろいな。

水平記 松本治一郎と解放運動の一〇〇年
高山 文彦
新潮社

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まだ出て来ない

2007年12月31日 23時07分08秒 | 教育・研究
昨日、時間ができたので、ジュンク堂に立ち寄って思わず買ったのが、この本。いわゆる教養論から新制大学における一般教育の成立までいろいろ書いてあるので買ってしまった。んで、ここに紹介しようとしたが、帰ってから風呂で読み、寝る前に読もうとしたところまでは覚えているが、見つからない。大騒ぎで小一時間探したが、見つからない。寝る前に読もうとしたのでその周辺まで探したが出て来ない。カミさんに教えを乞うとベッドの下を探してご覧、とのご託宣。……あった。
探している途中で、高山文彦『水平記』を見つけた。見あたらないし、文庫が出たというので文庫版を買ったところだった。

ジュンク堂で『吉原と島原』を手にとって、買ったら出てくるかな、などと考えたが900円という値段にびびって買わなかった。
つまり、『吉原と島原』は出て来ない。




移りゆく「教養」 (日本の〈現代〉 (5))
苅部 直
NTT出版

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『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』をめぐって

2007年12月27日 10時23分57秒 | 教育・研究
先ほど人権研究所から電話があった。送った原稿についてだが、今回の号は職員募集記事で埋まるので、次回に載せたいということだった。宮脇氏の意見が当初本誌掲載を企図して大部のものであったのを「ニュース」用に書き直してもらったというので、僕のもこのまま「ニュース」用にということだった。会員内部の議論がまず大切なのでそれでいいと思う。
今日の新聞でも教科書記載について書かれていた。出ていた意見の要旨を見ても世の常識は暗黙に強制されたというところにあり、「公式に命令書は出していない」というのが史実派(?)だ。「公式に命令書は出していない」と敢えて言うことで何を主張したいのだろうか。曽野綾子氏は日本国家に責任を持っていっている。論理的にそちらに持っていかざるを得ない。それは当時の臣民教育の批判であり、それこそ修身科やら錬成の批判になる。そうすれば国家(大日本帝国)の戦争責任に行くだろう。それは軍国日本を擁護したい人びとにとってはまずいだろう、と思うのだが。
国体か、旧日本軍か、自決した人びとか、戦後民主主義かいずれにしても、いったい何を護りたいのか。それが問題だ。

沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO)
曽野 綾子
ワック

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錬成

2007年12月27日 10時02分02秒 | 教育・研究
清水さんの集中講義に院生諸君はずいぶんと刺激を受けているらしい。「錬成」をなんと英訳するのか。で議論になった。trainingもdrillingもしっくりいかない。心身の鍛錬という考え方が英語圏にはないのだろう。
講義中に見た映画の話も盛り上がっていた。見てない僕はちょっと悔しかったが、映像という資史料は時代を把握する上で重要だと思う。

昨夜は受講生が清水先生を囲む会をしていた。(写真)
それぞれにいい夜であったと思う。

物理学校―近代史のなかの理科学生 (中公新書ラクレ)
馬場 錬成
中央公論新社

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