武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

過去の記事(21)

2024年04月16日 03時24分31秒 | 過去の記事

㉑ 国際正義に反する不条理なNPT・核拡散防止条約。  秩父あれこれ。 デフレのどこが悪いのか!? 100円ショップ万歳!! 仮に自衛隊が“合憲”なら、憲法9条を改正する必要はない!! 辻元清美さん“ドタバタ劇”に思う

国際正義に反する不条理なNPT・核拡散防止条約

1) 北朝鮮の衝撃的な核実験(10月9日)から間もなく1カ月になるが、この出来事は核の問題についてさまざまなことを考えさせてくれた。とりわけ、北朝鮮が脱退した核拡散防止条約(以下、NPTと言う)については、これが現在の世界にとって有効なのか、あるいはその存在意義がどうなのかといったことが問われたと思う。
私もNPTについて少し調べたが、考えれば考えるほど空しい気持になるとともに、憤りさえ感じてくるのである。 この条約は1970年に発効され、日本もその年に署名し1976年に批准している。それはそれで良いのだが、発効後36年経ってさまざまな矛盾や問題が生じている。
ご承知のように、北朝鮮は2003年にこの条約から脱退して核武装への道を突き進んできたが、非加盟のインド、パキスタンはその間に核保有国となった。同じく非加盟国のイスラエルも核兵器を持ったという。 一方、初めから核を保有している国々の核軍縮はまったく進展していない。核拡散を防止しようというのに、現実は拡散が進行しているばかりだ。

 もとより、新たな核保有国の誕生に際してはいろいろな制裁が実施されてきたが、効果はほとんど上がっていない。 それどころか、インドやパキスタンに加えられていた制裁はその後、国際情勢の変化によって緩和されたり解除されたりして、核兵器の保有は不問に付されている。インドは今やアメリカとの間に、原子力協力を結んでいるというのだ。
これでは、何のためのNPTなのか? 疑問に思う人は大勢いるはずである。核兵器を縮小しようというのに、現実は核がどんどん拡散している。NPTに対する不信が高まる中で、日本の隣国である北朝鮮までが、とうとう核兵器保有国になったのだ。


2) 私はここで、NPTそのものへの疑問を呈示したい。 そもそも、この条約は「核兵器国」と「非核兵器国」を峻別し、核兵器国をアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国(米露英仏中)の5カ国とし、その他の国を非核兵器国と規定している。アメリカなど5カ国は核兵器の保有を認められ、それ以外の国は核兵器の製造も取得も禁止されている。
これは1967年1月の時点で核兵器の保有国と認められた5カ国が、そのまま優位な地位を確保していくことを保障するもので、それ以外の国は核兵器を保有してはならないというのだ。 どのような政治的理由があるにせよ、これではまるで優等国と劣等国に仕分けしたみたいではないか。こんな不平等で差別的な条約が他にあるだろうか。
北朝鮮の核保有は、近隣の日本にとってまったく許し難いものではあるが、こんな不公正で差別的な内容の条約であれば、脱退して核兵器を持とうと思う国が出てきても何ら不思議ではない。 国際政治というのは平等、公正が原則ではないのか。国と国との間に差別があってはならないはずだ。そういう視点から考えると、北朝鮮の核実験は“暴挙”と言うよりも、むしろ「よくやった」と評価したいくらいだ。

 こう言うと「何を馬鹿なことを言うのか」とお叱りを受けそうだが、国際政治の原則とは、どのような超大国であろうともどのような弱小国であろうとも、平等・公正な関係でなければならないと考える。それが「国際法」の精神ではないのか。従って、国連加盟の192カ国は平等で公正な立場から国際政治を進めているはずだ。
核の廃絶を唱えるのであれば、全ての国が核兵器を放棄すべきである。核の保有を認めるのであれば、全ての国が核兵器を持って良いはずである。これが平等・公正というものだ。「天は国の上に国をつくらず、国の下に国をつくらず」というのが原則である。独立国というのは“大小強弱”に関わらず、国家の自立と尊厳を保持しているのだ。そうでなければ、植民地や属領になってしまうだろう。
そう考えると、自分の国は有り余るほど核兵器を持っているのに、「お前の国は一切持ってはならない」と規定する権利がどこにあるだろうか。これこそ「核保有国」の醜いエゴイズムである。 他者に対して「持ってはならない」と言うのなら、自らまず核を放棄してから言うべきである。それが道理というものだ。


3) 核保有国の醜いエゴイズムによって、核軍縮はまったく進展していない。悲しいかな、これがNPTの現実である。 しかし、もう少し考えれば、NPTそのものが不平等と不公正の“典型”のような条約であるから、こういう事態になったのも当然と言えるかもしれない。
核の廃絶は、人類の祈りであり悲願だろう。悪魔のような核兵器を地球上から一掃することは、誰でも願っているに違いない。 それならば、米露英仏中の5カ国はなぜ「核軍縮」を真剣に行おうとしないのか。米中両国も核実験全面禁止条約(CTBT)を早期に批准して、5カ国で年次計画を立てて核兵器を削減していくプロセスを明らかにすべきではないか。
それも出来ないようであれば、他の国々がどうして5カ国を信用するだろうか。自分らだけが「核大国」であり続けようという意図が見受けられる限り、そんな姿勢は誰も容認しないだろう。 こんな5カ国がNPTの優等国になっているのだから、核軍縮などは“お先真っ暗”だ。第二、第三の“北朝鮮”が現れてきて当然である。
こういう現状では、私はNPTそのものの「改廃」が必要だと考える。先ほども述べたように、この条約は不平等と不公正の典型である。第2次世界大戦の戦勝国(連合国)の優位性を、未来永劫にわたって保持しようというものである。

 しかし、国際社会において“未来永劫”というものは一つもない。未来永劫とは「神の世界」のものであり「人類の世界」には有り得ないものだ。 まして矛盾や問題に満ちあふれたNPTには、永続性などは考えられないことだ。国際社会は今こそ、このNPTの「改廃」について真剣に議論していくべきである。
核保有国の醜いエゴイズムがある限り、核の廃絶などは絶対に有り得ない。まして現実には「核抑止力」というものが厳然として存在しているのだから、将来、核兵器を超える“光線兵器”といったものが出現してこない限り、核は必ず存在し続けるだろう。
国際政治の上で、NPTは一定の役割を果たしてきたことは間違いない。それは認める。しかし、戦後60年以上が経って、NPTが持つ不平等で不公正な本質が“あからさま”になった。それは諸々の矛盾や問題が契機となって顕在化したのである。
私ははっきりと言いたい。政治的にはある時期に有効な条約であっても、不平等で不公正、差別的な内容のものであれば、必ず見直されるようになるだろうと。 いま私は哲学的な一つの言葉を思い出した。それは「不条理」である。NPTほど不条理な条約は他に無い。これは国際正義に反するものだ。(2006年11月7日)

 

 秩父あれこれ

1) 私は時たま秩父へ行くのが好きだ。 もちろん全ての所に行っているわけではないが、ひなびた風情がとても良い。 都会の生活に疲れたり飽き飽きしてくると秩父に行く。 山あいや田舎の景色が心をなごませてくれるし、季節の移り変わりが新鮮に感じる。
40年以上も前になるが、大学1年だった私は、極左過激派の闘争や思想についていけずに挫折し、転向を余儀なくされた。 挫折・転向というのは苦しく切ないもので、それを味わった人でないとなかなか理解できないと思う。 悶々たる気持に苛まれていた私は、とにかくどこかへ行きたい、逃げたいという心境になっていた。
当時は旧浦和市(現在のさいたま市)にいたが、金もないので同じ埼玉県の秩父へ行ってみることにした。 秩父のどこへ行くという当てもなかったが、足の向くままに三峰山に登った。 それからニ、三日、安宿に泊まりながら山麓をぶらついてきたのが、秩父との出会いだったと思う。

2) 社会に出てから、若い頃はほとんど秩父に行くことはなかったが、年を取るにつれて行くことが多くなってきた。 私のいる所沢から西武線の特急に乗ると、秩父まで1時間ほどで着いてしまう。これがとても便利だ。 途中の正丸峠や伊豆ヶ岳、顔振峠などに行く時は、普通の電車に乗っていく。 いずれもそれほど時間がかからないのに、別天地に来たような感じになってしまうのだ。
秩父市内は本当にひなびた街だ。はっきり言って、うら寂しい街である。 しかし、町中を散歩しているとなぜか心が落ち着いてくる。出歩くことがあまり好きでない私だが、秩父の町中を歩いていると一向に飽きないし、あまり疲れも感じない。 歩けるだけ歩いてしまうのだ。路地から路地へと歩くのがとても気持が良い。
どうしてここは、こんなに気持が良いのかと思ってしまう。 所々に秩父34カ所めぐりのお寺があるのも趣がある。 しかし、静かで侘びしくてひなびているのが良いのだろう。 最近は喫茶店の数も少し減ってきたようだが、散歩中に喫茶店にぶらりと入るのがまた楽しみである。

3) もう10数年も前だったと思うが、さすがに歩き疲れて、私はある古びた喫茶店に入ったことがある。 コーヒーを注文して店内を見ると、書棚にいろいろな本が並べられていた。 その中に「存在の詩(うた)」という分厚い本が目に付いた。何気なくその本を取り出して見ると、著者はバグワン・シュリ・ラジニーシという人だった。
ラジニーシに出会ったのは初めてだった。 このインドの瞑想家の書物は、秩父の雰囲気にぴったりだったと思う。 行動を斥けて“無為”の覚醒を説くこの本は、のんびりと秩父を散策する自分にとって、その時はあまりにフィットしたものだった。私はその喫茶店で「存在の詩」に読みふけってしまった。 これが縁で、その後暫くはラジニーシの本を読むようになった。
町中を散策していると、イノシシ鍋をやっている店をよく見かける。 ある店に入ってイノシシ鍋を注文したら、ミソ味が効いていてとても旨かった。 店の人に聞くと、本物のイノシシではなくイノブタの肉だというが、さくさくとしていて歯切れが良い。 私も酒が好きなので、地酒を飲みながら鍋を味わった。 秩父は地酒も良いがワインも美味しい。地酒やワインをよく買って帰る。

4) なんだか秩父の観光案内みたいになってきたが、とにかく秩父は山が良い。 どこの山も良いだろうが、ここの山並を見ていると特に心が安まる。最近はリゾート施設も増えてきたが、やはり山を見るのが一番だ。
山には霊気があるのだろう。その霊気で心が癒されるのではないか。 「山に籠る」という言葉があるが、これは単に山野で修行するという意味だけでなく、山の霊によって呪力を修めようという意味があるらしい。それで、修験者(山伏)の誕生ということになるのだろう。
私は山で修行するつもりはないが、山を仰ぎ見ることによって、ストレスや心の傷を癒そうとしているのだろう。 それを意識してやっているわけではないが、山並を見ると心が安まるということは、無意識の内にそうしているのかもしれない。
広々とした海を見るのも良いが、山の有難さはまた格別である。多くの人が山に惹かれるわけだ。 これからも秩父の山々を愛していきたい。 (2002年4月19日)


デフレのどこが悪いのか!? 100円ショップ万歳!!

1) この2~3年、テレビなどを見ていると、エコノミスト(経済学者)が出てきて盛んにデフレの悪口を言っている。 正確に言うと、デフレスパイラルが良くないということだ。 経済語事典などによると、デフレスパイラルとは、物価が下落しているにもかかわらず、消費や投資などの需要が回復せず、売り上げや所得が減少し、それが需要を一層減少させて、更なる物価下落を招く“悪循環”を言うのだそうだ。 
つまり、物価下落と景気後退が繰り返されるので、経済は縮小し不況になるというわけだ。 確かに景気後退は良くない。失業者も増えるので悪いに決まっている。そんなことは、経済の専門家でもない私にも分かる。 しかし、物価の下落自体は、消費者にとって実に素晴らしいことである。 要は物価も安定し、景気も上昇してもらえれば、これほど良いことはないのである。(いやしくも「エコノミスト」を自称するなら、そのくらいのことはやってみろ!と言いたくなる。)
景気を良くするために、物価が上がってもよいというのは、実に乱暴な考えだ。 エコノミストとは、その程度のことしか言えないのかと呆れてしまう。そんなことは小学生でも言えることだ。 インフレ目標(ターゲット)だとかいろいろ言われているが、デフレよりインフレの方がはるかに怖いというのは、大方の国民が感じていることだ。
こんな経済状況で、物価が上がれば、消費や投資が更に落ち込むことは目に見えている。 物価だけが上昇し、景気が回復しないというスタグフレーションの恐れが出てくる。 いやしくも経済の専門家というなら、エコノミストはもっと説得力のある方策を示して欲しい。

2) 水は高きより低きに流れるように、消費者は高いものより安いものの方に流れる。 ブランド品は別として、同じ(ような)品質であれば、当然安いものの方を買うに決まっている。 こういう厳しい経済状況であれば、消費者の財布のヒモはますます締まってくるのだ。
私は昨年、テレビ局を定年退職してから、よく「100円ショップ」へ行くようになった。 テレビに出ているエコノミスト達は小金持だから、100円ショップなどにはほとんど行ったことがないだろう。 
私も昨年までは、100円ショップなどには行ったことがなかった。 そんな所に行かなくても充分に生活できたし、男としての見栄や外聞、プライドもあったので行く気にはなれなかった。 しかし、退職してから面白半分に100円ショップをのぞくようになって、ガラリと変わった。今ではしょっちゅうそこへ行くようになった。
100円ショップに行くと、なんと多くの品物が置いてあることか!! それも、以前は5~600円もしたであろう物が、消費税込みでみんな105円で買えるのだ! 私はその品物の多さと安さに驚いた。 日本はなんと豊かで暮らしやすい所だろうか、と思ってしまった。
別稿でも述べたことがあるが、戦後(第2次大戦後)の凄まじい貧困と物不足の中で育った私にとっては、物が安くて有り余っている100円ショップを見ると、天国か極楽に来たかのような錯覚に陥る。 しかも、100円ショップは“雨後の竹の子”のようにどんどん出店しているのだ。 どうして、日本はこんなに豊かになったのだろうか。

3) インフレよりも、デフレの方がはるかに良いと言ったが、年金生活者にとっては尚更である。 完全失業者で年金生活の私にとっては、物価の安定、下落は最大の恵みである。 私と同じような立場の人は増えつつある。 こうした状況を、エコノミスト達は本当に理解しているのだろうか。 テレビで彼等の言っていることを聞いていると、とても理解しているようには思えない。
彼等は、目先の景気回復だけを言っているようだ。冗談ではない! 私の知っている某宗教関係者が、「経済とは、消費するためにあるのではない」と言った。 消費を拡大させるために、経済があるのではない。 経済とは、国民生活の安定のためにあるはずだ。企業の収益のためにあるのではない。
企業に参画していない人達が、どんどん増えていることを忘れてはならない。年金生活者も確実に増えているのだ。 これから高齢化が進むと、その数は一層増えるだろう。こうした人達が近い将来、大きな政治勢力になることも予想される。 現にアメリカでは、高齢者が一つの政治勢力になりつつある。政治はそれを無視してはならないし、また無視することはできないだろう。
「成長の論理」だけから、経済を見てはならない。そんなものは、ひと昔もふた昔も前の話である。 経済の構造改革が叫ばれているのに、一方では、目先の景気回復ばかりに気を取られて“デフレ対策”などと言っている。 私のような立場の人間から見ると、「デフレのどこが悪いんだ!」と叫びたくなる。

4) 10数年前のバブル経済と、その後の破綻を顧みると、日本の経済政策は明らかに失敗したのだ。 政府もエコノミストもなんの責任も取らず、今度は「デフレ退治」を口にしだした。 これでは、国の経済政策など信頼できるわけがない。庶民は自分だけを頼りに、日々の生活を守っていかなければならない。
インフレになって一番困るのは、我々のような年金生活者だ。 物価スライド制と言ったって、どこまで生活を防衛できるのか分からない。我々にとっては、デフレよりもインフレの方が“ゴキブリ”のように嫌なのだ。
最近、私は1600円の理容室へ行くようになった。 ちょっと前までは、4300円の高級理容室や、カットだけで2000円の所へ行っていたが、出店したばかりの1600円のディスカウント理容室を利用することに決めたのだ。 勿論、生活防衛のためである。
この理容室は、大人の調髪が1800円だが、60歳以上のシルバー代金は1600円である。 支払いは図書券でもビール券でも、テレカでも商品券でもOKである。それでカット、シャンプー、顔剃り、セットを全て含んでいる。 これほど便利で安価な理容室は滅多にない。しかも、とても感じが良いのだ。
こういう理容室を、誰が悪いと言えるだろうか。我々年金生活者にとっては、実に有難いと言う他はない。 私達がそういう理容室を利用するようになると、他の理容室は当然影響を受けるだろう。 しかし、どんな乱暴なエコノミストでも、料金の高い理容室の方へ行けとは言えないだろう。

5) こういう生活の実態を、エコノミスト達はどれほど知っているのだろうか。小金持の彼等には多分、分からないだろう。「100円ショップ」の乱立、生活のユニクロ化はとどまる所を知らないだろう。
我々の下着類は、今や中国製、韓国製、台湾製、ベトナム製、タイ製などで占められている。 それほど品質が変わらないのに、庶民がどうして高価な(純粋)国内製品を買うだろうか。 しかも、安価な製品は余っているのだ。
主婦は1円でも安いものに殺到する。全て生活防衛のためである。 消費者の目は厳しい。安価で良質な商品だけが勝ち残るのだ。 それこそ、市場経済の原理である。

景気の回復や企業の論理だけを重視して、安易にインフレを云々するのは止めて欲しい。その場しのぎの経済政策はゴメンだ。 大体この10年以上、政府やエコノミスト達は、どれほどいい加減な経済政策を繰り返してきたというのか。「失われた10年」などと言われて、恥ずかしくないのか。
挙げ句の果てに、多額の不良債券を処理するために、国民の膨大な血税(公的資金)を投入する羽目に陥るとは、失政もここに極まれりである。 どうして、政府やエコノミスト達を信頼できるだろうか。 しかも、無能な彼等からほとんど反省、陳謝の言葉もない。まったく無責任である。
こうなっては、我々国民は自分自身の生活を防衛するだけである。 それぞれの立場から、言うべきことをはっきりと主張し、生活を防衛しなければならない。 年金生活者の1人である私としては、インフレに断固反対する。 (2002年6月23日) 

 

仮に自衛隊が“合憲”なら、憲法9条を改正する必要はない!!

1) 自衛隊の存在について、いまだに憲法9条に違反していないと考えている人が大勢いる。 先の読売新聞による国会議員アンケート調査(2002年3月実施)によると、自衛隊を合憲とするものが59%、違憲とするものが22%という結果になっている。(3月22日の読売新聞朝刊を参考) 5年前の調査に比べると、合憲論が9ポイントも減ったが、相変わらず6割近い国会議員が合憲の立場を取っている。 ところが、憲法9条の改正を求める意見が55%と過半数を超えてしまった。 これは前回調査の41%を、実に14ポイントも上回るものである。

 安全保障の実態を考えて、憲法9条をなんとかしなければならないという気持は良く分かるが、私はこの結果に大きな矛盾を感じる。 端的に言えば、自衛隊を合憲と考えるならば、なにも9条を変える必要はないのである。 しかし、自衛隊の存在と9条の条文があまりに乖離を生じているので、このような結果になったのだろう。 国民の生命と安全を日々守っている自衛隊を、できるだけ温かく見守ろうという気持は分かる。 生死の危険にさらされることもある自衛隊を、憲法に違反しているとは見たくないという気持も分かる。 私も自衛隊の存続に大賛成だし、これからも存続して欲しいと願っている。 独立国であれば、自衛のための軍隊を持つことは当然である。 しかし、そうした思いと憲法9条と自衛隊の存在との矛盾は、まったく別に考えなければならないことだ。

2) 私はこれまでに、今やものすごい戦力を保持している自衛隊は、戦力の保持を認めていない憲法9条に明らかに違反していると何度も言ってきた。その点では、共産党や社民党などとまったく同じ“認識”である。 ただし、そこから物事を考えていって、自衛隊の存在を認め憲法9条の方を改正すべきだというのが、私の“論理”なのである。 先の読売新聞の調査で、そうした考えを持つ国会議員が10%(47人)に達したことを非常に心強く思うものである。(若干、名前を挙げさせてもらうと、鳩山邦夫氏、衛藤征士郎氏、御法川英文氏、高市早苗氏らである。) 

 自衛隊が憲法に違反しているからと言って、自衛隊を責めているのではない。自衛隊が悪いのではない。 そうした矛盾を長い間放っておいた国政の怠慢を非難しているのである。 現実と憲法の条文がこれほどまでに乖離しているのに、解釈を拡大させたり詭弁を弄したり、こじつけ、ごまかし、まやかしを続けてきた虚偽と偽善が許せないのである。 だから私はあえて言う。 自衛隊が合憲だと認識する人は、一言でも憲法9条の改正を口にするな!、と。 それは論理の矛盾である。後生大事に現在の憲法を守っていくべきである。

3) なぜ、現実を素直に見ることができないのか。なぜ、白を黒と言い黒を白と言うのか。 現在の自衛隊が戦車や戦闘機、大砲は勿論のこと、イージス艦や潜水艦、ミサイルなど、最新鋭のものすごい戦闘機能を大量に持っていることは事実だ。 これは明らかに戦力であり、憲法9条第2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条文に抵触することは間違いない。 こんなことは、小学生が見ても分かることだ。 

私は別稿でも述べているが、創設当初の自衛隊は、極めてお粗末な軍事力しか持っていなかったので「戦力なき軍隊」と言われた。 政府もそのように国民に説明し、なんとか憲法違反でないことを認めさせてきた。 しかし、それから約50年が過ぎて、今や自衛隊は世界有数の軍事力、戦力を保持するに至ったのである。(自衛隊の年間予算は、5兆円に近い巨額なものである。) これほど明確な事実を、なぜ素直に見ようとはしないのか。 それとも、核兵器や航空母艦がないと「戦力」ではないとでも言うのか。 

4)「認識」というのは恐ろしいもので、一旦頭の中に誤って入って既成概念になると、なかなか変えることが難しい。 また、「真理」というものは始めは少数、いやごく少数の人にしか認識されない。 ガリレオ・ガリレイは17世紀初頭、地動説を唱えたが、ほとんどの人に無視され、宗教裁判にかけられて自説を撤回するよう命じられたほどだ。当時は、よほど天文学などに通じていないと、地動説など信じることはできなかっただろう。 朝起きれば太陽は東から上って、やがて夕方には西の空に沈んでいく。 太陽だって星座だって天の方が動いている。地球は少しも動こうとはしない。 天動説の方が正しいと誰もが思ったにちがいない。 私も当時生きていれば、勿論そう思ったであろう。

 しかし、長い長い歳月を経て、やっと地動説が科学的に正しいと実証され、人間の「認識」の方が変えられてしまった。 このように「認識」というのは、ちょっとやそっとのことでは変えられないのである。 まして、人間の実感からほど遠い地動説などは、そう簡単に受け入れることはできなかったに決まっている。 地動説は容易に信じられなかったとしても、素直な心と正しい目を持っていれば、今の自衛隊が明らかに戦力を保持しており、これが憲法9条に抵触(違反)していることぐらいは、よほど心も目も暗くなければ、誰でもすぐに理解できるだろう。 私はもうこれ以上、何も言いたくない。 ただし、なお虚偽と偽善を続けていこうとする人達がいるのなら、その人達に、以下のイエス・キリストの素晴らしい言葉を贈ることにしたい。

「自分の目には梁(はり)があるのに、どうして兄弟に向かって、あなたの目から塵(ちり)を取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁(はり)を取りのけるがよい。 そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から塵(ちり)を取りのけることができるだろう」(山上の垂訓より) (2002年4月14日)

 

辻元清美さん“ドタバタ劇”に思う

1) これほどパフォーマンスが豊かで、これほど自分勝手な、また往生際の悪い政治家も珍しい。 社民党の辻元清美さんが、元政策秘書の給与不正流用疑惑の責任を取って、議員辞職した。
 疑惑が発覚してから1週間、テレビ、新聞などマスコミは完全に彼女に振り回されていた。 また、社民党自体も、最後の方は彼女にキリキリ舞いさせられていたようだ。 予定されていた記者会見はすっぽかすし、土井党首ら党幹部の説得も蹴飛ばして、自分勝手にテレビに二度も出て、言いたい放題なのだ。 こう言うと叱られそうだが、テレビを見ている方としては、おもしろいと言うか、痛快と言うか、“笑劇”を見ているようだった。 さぞや、関係者は苦労しただろうと察する。
 議員辞職願を衆議院議長あてに提出した後、辻元さんは記者会見をしたが、ものすごい数のテレビカメラを前にして、彼女は議員バッジを自ら外してみせた。 これなどは、パフォーマンスの最たるものだ。普通の議員だったら、こんな真似はできない。 テレビを意識しての行動以外の何ものでもない。

2) 辻元さんと言えば、大阪弁を織りまぜながら歯切れの良い口調で、政府を鋭く追及していく姿が、実に印象に残る。 先の鈴木宗男代議士の証人喚問でも、「なぜ、ウソをつくのか」と厳しく追及していた。まことに見映えのする、颯爽たる女性議員である。 まさに、テレビ時代に打ってつけの“役者”という感じがする。
 つい最近、私はテレビ局時代の友人達と会食していたら、こういう人達が活躍するのを、「テレポリティックス(テレビ政治)と言うんだ」と教えられた。 そう言えば、田中真紀子さんも小泉総理もそういう感じがする。小泉内閣は最初の頃、「ワイドショー内閣」と呼ばれていた。
 テレビというのは、どうしても“人気者”を作ってしまう。 これは意図的に作ることが多い。 私はここで、古巣のテレビ局の話をするつもりはない。テレビ局の問題やあり方については、後日じっくりと述べたいと思う。 ただ一つだけ言っておくと、辻元さんのような政治家は、「視聴率が取れる」ということだ。
 どうやら、辻元さんはテレビにハマってしまったようだ。 25日夜には某民放テレビに出演し、自分の違法行為は棚上げにして、証人喚問に呼んでくれとか、議員辞職勧告決議案を出してくれとか、言いたい放題の始末である。 要するに、テレビを利用しているのだ。 疑惑の真相には触れようとしないで、問題をすり替えてばかりいる。 これでは、筋違いもはなはだしい。与野党がこぞって怒るわけだ。

3) 彼女は大ウソがバレたというのに、「間違っていた」「ミスがあった」と言うだけで、「ウソをついた」とは決して言わない。 「反省しています」と何度も言うが、あれでは本当に反省しているのか、と疑いたくなる。
 辻元さんの往生際の悪さにも、呆れるほどだ。 なんとしても、鈴木、加藤両代議士を始め、その他の国会議員を“道連れ”にしようと、もがいていた。 本人は「七転八倒した」と言うが、要するに議員を辞めたくないから、あがき苦しんだだけだ。 あんまり往生際が悪いので、心配した両親が大阪から駆けつけたほどだ。 “じゃじゃ馬”だか“鬼っ子”だか知らないが、なんとも世話のかかる女性である。
 一週間におよぶ“ドタバタ劇”は終わった。 こう言うとまた叱られそうだが、テレビを見ていると、正直言って結構おもしろかった。彼女の一挙手一投足が、ブラウン管を通じて手に取るように分かる。 笑劇というか喜劇というか、永田町のドタバタ劇だった。 社民党の関係者や記者諸君は、さぞや大変だったと思う。

4) 問題はこれからだ。 辻元さんには詐欺の疑いもあるわけだから、どうなるか分からない。 秘書の制度や兼任問題などは、これから国会が考えればいいが、彼女が再び国会を目指すとしたら、そちらの方が俄然注目される。
 かつて、故田中角栄氏は、ロッキード疑惑もなんのその、逮捕されても有罪判決が出ても、圧倒的な最高得票で国会に返り咲いてきた。 今の日本の政治家の中では、テレビで最も“人気”のある辻元氏が、返り咲くかどうかが焦点となる。
 辻元氏が、詐欺罪で立件されるかどうかで情勢は変わってくるが、彼女には確かに“魅力”がある。 もちろん今は、政治倫理が厳しく問われる時代だから、どんなに魅力があろうとも、違法行為をしたり逮捕された人間が復帰するのは、容易なことではない。
 しかし、日本人というのは“同情”に弱い。“判官びいき”でもある。 また、熱しやすく冷めやすくて、忘れっぽい。物事を“水に流す”ことが好きだ。 彼女が詐欺罪で立件されなかった場合、国会に復帰してくることは大いにありえると思う。 まして、彼女の選挙地盤は大阪だ。 大阪は、あの横山ノックのような“問題の男”を、府知事に楽々と当選させた所である。 反権力、反権威の風潮が強い所だ。辻元氏の返り咲きも、あながち不可能とは言えないようだ。 (2002年3月28日)

 


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2 コメント

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Unknown (おキヨ)
2020-03-14 15:18:37
私も秩父の山々(山なみ)が好きですね。
シンボルの武甲山は別として、これ見よがしの山というのはなく(両神山も風格がありますが・・・)親しみやすい山々が続く風景はいかにも秩父らしく好きな街です。
まぁ近くて出かけやすいというのが一番の理由ですが・・・(^_-)-☆
秩父の山々 (矢嶋武弘)
2020-03-15 09:58:48
秩父には浅間山のような山はありませんが、山並みが良いですね。
しかし、年をとったのと、脳梗塞で倒れてから秩父にはほとんど行っていません。
本当は登山が良いのでしょうが、僕は秩父市内の侘びた感じが好きです。

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