武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

過去の記事(22)

2024年04月16日 03時25分25秒 | 過去の記事

㉒ ドン・キホーテよ、現われよ!  “やまとなでしこ”は消えない! 田中耕一さんのノーベル賞受賞に思う。 『援助交際』とは、良い意味なのか? 日米安保問題とマスコミの怠慢。

 ドン・キホーテよ、現われよ!

1) 真夏の暑い日が続くので、家の中で何か本でも読もうと思い、図書館へ行って本を借りることにした。 いろいろ物色していたら、スペインの作家・セルバンテスの「ドン・キホーテ」が目に付いたので借りてきた。 50年ほど昔の少年時代に、たしか子供向けの「ドン・キホーテ物語」というのを読んだ記憶があるが、本物を読むのは初めてである。
「ドン・キホーテ」(岩波書店発行・牛島信明訳)は膨大な分量があり、涼しいエアコンの下でじっくりと読むには相応しい大長編小説である。 今から400年ほど前に書かれたこの小説は、世界文学の中でも最も有名な作品の一つに挙げられている。

ストーリーは、“騎士道物語”を読み過ぎて頭がおかしくなった初老の男が、自分も騎士になることを決意し、この世の不正と戦い、悪者を退治しようとスペイン国内を遍歴するというものだ。 オンボロの鎧兜に身を固めたドン・キホーテは痩せ馬にまたがり、従士・サンチョ・パンサを引き連れて数々の戦いに挑んでいく。
ところが、風車や羊の群れ、商人や修道士などをことごとく敵と間違え、荒唐無稽で滑稽きわまりない戦いをしていくので、全編これ腹を抱えて笑うようなパロディーとなっている。 数多くの冒険に挑戦しては失敗し、やがてドン・キホーテは失意の内に故郷に帰るという物語だ。
しかし、数多くの失敗を繰り返しながらもドン・キホーテは颯爽としている。毅然とした“騎士”の精神を貫いていく。 どのような嘲笑、失笑、冷笑を買おうとも、騎士の誇りを堅持していくのだ。この辺が、大笑いのパロディーになっていても、ドン・キホーテの魅力なのである。

2) 人間の性格、人格を分析する時に、よく「ハムレット型」と「ドン・キホーテ型」という言葉が出てくる。これは非常にポピュラーなものだ。 シェークスピアの戯曲の主人公で有名なハムレットは、優柔不断でなかなか決断出来ない人間の典型となっている。 これに対しドン・キホーテは、現実を無視し独りよがりの正義感から、向こう見ずな行動に走るタイプと言われている。
人間を2つのタイプに分けるのは、もとより乱暴であり無理がある。しかし、ハムレット型とドン・キホーテ型は典型的な区分としては分かりやすいものだ。 我々が見る限り、この世にはハムレット型の人間が多過ぎるのではないか。 逆に言えば、ドン・キホーテ型の人間は少ないように見える。
特に現代の管理社会では、企業でもどんな組織でも、自分勝手な判断で独走するなどということは出来るはずがない。 組織の中では独りよがりの行動は出来ないのである。 従って、ドン・キホーテのように行動するとなれば、フリーの人間か、フリーの集団でなければ不可能である。このため、ドン・キホーテ型の人間は益々少なくなってきたのだろう。

 ハムレットのように高貴な精神を持っていようがいまいが、優柔不断でグズグズしている人間は多い。こんな例は我々の周りにいくらでもある。 逆にドン・キホーテのように、他人から何と言われようとも、毅然として我が道を突き進むという人は滅多にいない。 ということは、ドン・キホーテ型の人間は希少な価値があると言えるのではないか。
また日本では、明治維新から第2次世界大戦の終了までは、善し悪しは別として「男子志を立てて郷関を出づ」とか、「少年よ大志を抱け」といった勇壮な気概が充溢していたと思うが、戦後は時が経つにつれて、偏差値教育などの影響からか、気宇壮大な志というものはだんだん影が薄くなってきたように見受けられる。
勿論、少数の若者達には、高邁な理想や大志といったものが生き続けているだろうが、戦前のようなダイナミックで勇壮な気概は、一般的に失われてきているようだ。 戦後は全体的に“小市民的”な風潮が根強くなってきたと言える。

3) 私はなにも、戦前の方が善いなどと言っているのではない。 戦後民主主義の成熟の中で、平和で穏やかに小市民的に暮らしていくのも結構なことだ。 しかし、そうした風潮が“事なかれ主義”と“惰性”を助長してきたのも事実である。最近の雪印食品や日本ハムの「偽装隠ぺい事件」などを見ていると、多くの日本企業がそういう体質に堕落してしまったのか、と思わざるをえない。 関係者の誰かが、どうして偽装工作の最中に何らかの適切な措置を講じることが出来なかったのか。 これでは、会社ぐるみで偽装隠ぺいに走ったと見られても仕方のないことだ。
事件が発覚して、雪印食品や日本ハムはかえって大打撃を蒙っている。 事件が発覚すればこうなるだろうということは、大方の役員や社員は予測できただろうに実に愚かなことである。 なぜ目先の利益だけに捕われて、会社の将来的な大局の利益を見失うのだろうか。

 こうした場合、その会社の関係者は偽装工作の途中で、なぜ勇気ある行動が取れなかったのか。“勇気”と言ったが、別に大層なことをするわけではなく、当たり前のことを会社の上層部に言えば済むことなのだ。 当たり前のことすら、会社の中で言うことが出来ないなら、その企業はもう終わりだ。
会社自体が潰れてしまった雪印食品の某社長は、事件発覚当時の記者会見で、「うちの社員は真面目だから、(上司の)言う通りにするしかなかった」と発言した。 冗談ではない! 真面目だから不正をするのではなく、不真面目だからするのだ! 事ほど左様に、企業倫理は崩壊してしまったのだ。
今の日本の企業の中には、ドン・キホーテのようにはっきりと物を言う人間はいないのだろうか。 ここで“ドン・キホーテ”の名前を挙げたこと自体が、(創作上の人物とはいえ)彼に対して失礼でさえある。ドン・キホーテのように勇気がなくとも、企業の中で当たり前のことを言う人間は、もっと大勢いていい筈だ。

4) 現代がいかに管理社会であろうとも、事なかれ主義と惰性が蔓延してしまっては病弊以外の何物でもない。 取るに足りないつまらない事で、クヨクヨと思い悩む“小ハムレット”は沢山いる。 私自身だって小市民だから、そんなようなものだ。
であるからこそ、現代においては益々ドン・キホーテのような人物が求められるのだ。 小心翼々としてケチ臭い人間はいくらでもいる。目先の利益だけに汲々として、さもしい事ばかり考えている人間も沢山いる。 だからこそ、今やドン・キホーテのような人間が必要なのだ!
企業でも社会でも、本気で改革をしようとなれば優柔不断は許されない。 ハムレットのような人間では、改革をやり抜くのは困難である。 必ず何人、何十人かの“ドン・キホーテ”が必要となってくる。どんなに嘲笑や冷笑を受けようとも、そういう人間が必要となってくるのだ。

 先日、どこかのテレビを見ていたら、今の日本の子供達は「疲れる」とか「疲れやすい」と大勢が言うそうだ。 一体、どうしてそんなになってしまったのだ! 大人が疲れるのは分かるが、子供までが疲れるとはどういうことなのか。 我々の子供の頃には、想像もつかなかったことである。 世の中が余りに管理社会化してしまって、子供までが疲れてしまうのだろうか。 だから教育でも「ゆとり、ゆとり」と言うのだろうか。現代の病弊には分からないことが多い。
古来、偉大な指導者、改革者、創造者にはドン・キホーテ型が多かった。誇大妄想と言われようとも夢を持ち続け、その夢を実現しようと戦った。 これは現代にも通じることである。政治や産業の面だけでなく、芸術や文化の創造においてもドン・キホーテ型の人間が不可欠なのである。
以上、セルバンテスの「ドン・キホーテ」を読みながら、私のような“老境”に入りつつある人間にとっても、その精神を大切にしていかねばと思うのである。「ドン・キホーテよ、現われよ!」と叫びたい。 (2002年8月12日)


 “やまとなでしこ”は消えない!

1) 2年ほど前だったが、民放テレビのドラマで「やまとなでしこ」というのを放送していた。「人生は金なり」という松嶋菜々子さん扮するスッチーが、やがて真実の愛に目覚めて、最後に魚屋の独身男性と結ばれるという話だったと思う。
その時、久し振りに大和撫子(やまとなでしこ)という言葉を聞いたような気がした。なにか新鮮な感じがした。 というのは、「大和撫子」という言葉自体が、化石か死語になってしまったと思っていたからだ。
若い人達は「やまとなでしこ」とは何か、国語辞典をひもといただろう。 そして「大和撫子」とは、日本女性の美しさ、清らかさを讃えた言葉であることを知ったに違いない。 これは、日本の男性が永遠に憧れるものなのである。そういう意味で、「大和撫子」の言葉が一般的に復活したことは嬉しい。

ところで、現実の日本を見ていると、時々「やまとなでしこ」はどこにいるのだろうか、と考えてしまう。 多分いるはずなのだが、なかなか眼前に現われない感じがするのだ。 実は“茶髪”に姿を変えて、そこにいるのかもしれない。しかし、どうも見えにくい感じがしてくるのだ。
「やまとなでしこ」なんていう言葉は、戦前の国是といった“良妻賢母”の名残りみたいなものだろう。 戦争に敗れて、昔の美名は風化してしまったのだ。しかし、それが復活してくるということは、単に懐古趣味というだけでなく、日本の男性が胸の奥底深くに抱く夢なのかもしれない。

2) 昔、原節子さんという女優がいた(ご本人は今でも健在だという)。 清楚で美しく、しとやかで慎ましく、日本女性の典型のような存在だった。 イメージとしては、こういう人が「やまとなでしこ」なのだろう。
映画などの「宮本武蔵」に出てくる“お通”もそうだ。 昔、八千草薫さんが演じたそれは、純朴でひたむきで、無私で真実な“お通”を見事に体現していたと思う。(若き日の八千草薫さんの可憐さは、未だに脳裏に焼き付いている) タイプとしては、こういう人が「やまとなでしこ」なのだろう。
現実の日本では、こういう女性は稀(まれ)のように思われる。時代の変化によって、こういう女性を望むことは困難であろう。 現代の「やまとなでしこ」は、もっと形を変えた存在としているはずだ。
しかし、現代の日本では、先程も述べたように、「やまとなでしこ」を見るのは難しいようだ。 逆にそうでない現象を、我々はあまりに多く見せつけられているのだ。 極端な例かもしれないが、テレビ等で自分の下着を1万円で売りつける少女などを見ていると、なんと破廉恥なことかと、ほとんどの人達が嘆くだろう。

 勿論、マスメディアはそれを批判的に取り上げているが、どこか興味本位に扱っている節もうかがえる。 プチ家出の少女が東京の夜の街を徘徊し、ビルの屋上で寝泊まりしているのを、厳しく諭すわけでもなく、まるで現代の“風物詩”のような感じで放送しているのもあった。
社会環境が、昔とまるで変わってしまったのは事実である。特に都会での激変は凄まじい。 それは仕方のないことだが、少年少女達の自堕落な生活振りを、さも現代風だと言わんばかりに取り上げたとすれば、マスメディアも落ちたものである。
こんな社会環境、こんな低俗なマスメディアの下では、「やまとなでしこ」どころか、逆に不良少女ばかりが生まれてきそうだ。 いかがわしい男に少女が売春することを、“援助交際”などと馬鹿げた命名をしたのは誰か。日本のマスメディアではないか! まるで、売春や買春を奨励しているように聞こえるではないか。 恥を知れ!と言いたい。

3) テレビのCMを見ていると、お父さんら中年の男性が馬鹿にされたり、揶揄されているものが非常に多い。 これが現代風というものだろうが、その場合、中年の男性をからかったり皮肉ったり、馬鹿にしているのは、おおむね女性である。
普通は微笑ましく見られるのだが、中にはキワドイものもある。さすがに老人(男性)をからかったり、馬鹿にするようなCMは皆無と言ってよい。 しかし、中年の働き盛りの男性が、やたらに馬鹿にされているようなCMを見ていると、還暦を過ぎた私などは腹が立つこともある。
戦後、あらゆる面で女性が強くなり、男性が弱くなったことは事実である。 これは相対的なものだが、戦前、女性の地位があまりに低かったことを思えば、仕方のないことだと言えるかもしれない。 しかし、悪い例になるが、犯罪の面でも女性による凶悪な事件、殺人事件などが増えていることも事実だ。 これも現代風と言えるのだろうか。

 こうしたことを考えると、昔風の「やまとなでしこ」というのは、現代においてはほとんど絶望的と思われる。 これは、日本の男性の恣意的な願望ということで片付けられそうだ。しかし、我々日本の男性は「やまとなでしこ」に憧れ続けるだろう。
ところが、その日本の男性は、戦後どうなったのか。 弱くなったと言ってしまえばそれまでだが、かつての凛とした「日本男児」「ますらお(益荒男)」は、ほとんど姿を消してしまったのではないのか。 実は日本の女性は、そういう「りりしい」日本の男性に憧れているはずだ。 そういう意味では、お互いさまである。
(私が若い頃、ある有名な独身の女性評論家が次のように言った。「日本には、男らしい男がいなくなった。立派で勇敢な男性はみんな戦場で死んでいった。 残ったのは、どうしようもない男(クズ)ばかりだ」と。 非常に厳しい見方だが、日本の男性は心して聞いた方がいいかもしれない。)

4) さて、日本の男女が、お互いに嘆いているばかりでは仕方がない。「やまとなでしこ」も「日本男児」も姿を消したとなれば、それだけ希少価値が出るというものである。 ダイヤモンドや、絶滅寸前の生物を探し求めるようなものだ。
私は男だから、どうしても「やまとなでしこ」に憧れる。 今年6月、友人から「日本には“やまとなでしこ”はいないが、モンゴルには沢山いる」と甘い言葉をささやかれ、勿論それだけの理由ではないが、モンゴルへ旅行したことがある。(別稿「モンゴルで感じたこと」を参照) そして、私なりに現地で「モンゴルなでしこ」を発見したつもりだ。(別稿『モナ・リザ』を参照)
できれば、「やまとなでしこ」は日本にいて欲しい。「日本男児」も是非いて欲しい。 しかし、強くてわがままな“猛女”が羽振りを利かし、柔弱でメソメソした“優男(やさおとこ)”が持てるような日本ではないか。 こんな日本に誰がしたのか! 戦後民主主義のせいなのか。

 話しは少し変わるが、一昨日、北朝鮮に拉致されて死亡したといわれる横田めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさん(15)のインタビューをテレビで見た。多くの日本人が見たと思う。 他の人はどう感じたか知らないが、私には、ヘギョンちゃんは純粋で飾り気がなく、素直そのものに見えた。
これは、北朝鮮が拉致事件の幕引きを計るためのプロパガンダとか、したり顔の識者らがコメントしていたが、そんなことは勿論分かっている。 それはそうだが、私はヘギョンちゃんの顔を見ているうちに、わが「やまとなでしこ」のことを連想し、この文を書く羽目になってしまった。
北朝鮮の体制が悪いことは百も承知だ。 そんなことはいくらでも書いてきたが、私が感じたことは、北朝鮮には、ヘギョンちゃんのような「朝鮮なでしこ」が無数にいるのではないか、ということである。
「将来の夢は?」と聞かれ、ヘギョンちゃんは「朝鮮労働党の活動家になること」と、愛くるしい笑顔を浮かべて誇らしげに語った。 党と国家への忠誠心に輝いているように見えた。 今の日本に、このように答える少年少女がいるだろうか。勿論いないだろう。
ということで、私が考察するところ、民主主義国家には「なでしこ」は育ちにくいという考えに達した。「なでしこ」は全体主義国家に生まれやすいのではないか。 日本も戦前は、天皇を現人神(あらひとがみ)として崇め、君に忠、親に孝といった「教育勅語」があり、忠君愛国の精神に貫かれていた。(事の善し悪しは別として) こうした中から、無数の「やまとなでしこ」「ますらお」が誕生してきたのである。

5) これを色彩に例えると、全体主義国家は「原色」で、民主主義国家は「混色」なのである。 なぜなら、全体主義では唯一絶対の価値観しかないが、民主主義では様々な価値観が認められているからである。
ところで、原色と混色では、どちらが美しく清々しく見えるかといえば、勿論それは「原色」である。 原色の方が、人間の視覚にはるかに強く、鮮やかに映るからである。 先日の釜山でのアジア大会でも、北朝鮮の若い女性の応援団は実に美しく、鮮やかに映っていた。 みんな「朝鮮なでしこ」のように見えたではないか。 北朝鮮が得意とするマスゲームも、一糸乱れぬ原色的な美しさを誇示している。
戦前と違って、民主主義の「混色国家」となった今の日本では、もはや「やまとなでしこ」は見つけにくいのだ。 我々日本の男性が憧れる「やまとなでしこ」は、茶髪のお嬢さん達の中に潜んでいるかもしれないが、それを見つけ出すことは容易ではないのだ。

 勿論、政治体制から見れば、独裁統制の全体主義国家・北朝鮮よりも、民主主義の日本の方がはるかに良いと言える。我々はそれを誇りにすべきだ。 しかし、あまりの価値観の多様性が、文化の面でも社会の面でも、玉石混交というか混在というか、ミソもクソも一緒くたにしてしまったのである。
このように考えると「やまとなでしこ」も「ますらお」も、もはや戦前の遺物になってしまったのかもしれない。 しかし、清楚で美しく、ひたむきで純粋な“日本女性”に我々は憧れる。日本の若い男性諸君は、これからも「やまとなでしこ」を探し求めていくだろう。 
「やまとなでしこ」よ、永遠であれ!と叫びたい。 (2002年10月27日)

 

田中耕一さんのノーベル賞受賞に思う

1) 深刻な経済不況、少年の凶悪犯罪、倒産、リストラ、自殺等々・・・暗いニュースが続く中で、10月に入ってなんと言っても明るいニュースは、小柴昌俊さん、田中耕一さんの2日連続ノーベル賞受賞だった。
特に、一介のサラリーマンで弱冠43歳の田中さんが、ノーベル化学賞を受賞したことは、御本人ばかりか日本中の人達が驚いた。「シンデレラ・ボーイ」という言葉はよく使われたが、「シンデレラ・サラリーマン」の誕生である。
テレビ・新聞が連日、田中さんの話題を取り上げていたが、御本人は至って朴訥で飾り気がなく、その辺にいる平凡なサラリーマンと外見はまったく変わりがなかった。 日頃着ている作業服を脱ぎ、慌ててスーツとネクタイ姿に着替えてテレビの前に登場するなど、見ていて誰もが微笑ましく思っただろう。

 田中さん本人は、役職が島津製作所の「主任」だという。 企業によって役職名はいろいろ違うものだが、「主任」というのは、どこの企業でも大方、平社員のちょっと上程度のものである。 そういう人がある日突然、ノーベル賞受賞というのは、愉快この上もないニュースだった。
失礼な言い方に聞こえたら申し訳ないが、43歳で「主任」というのは、サラリーマン世界では、相当出世が遅れているということだ。 田中さんの話題をいろいろ聞いていると、明らかに研究一筋で、出世にはどうも無頓着らしい。 御本人は自分のことを“変人”と言っているのだから、出世には縁のない人なのだろう。 そこが又、今回のノーベル賞受賞を際立たせている。

2) 戦後間もなく、日本人を勇気づけた出来事が2度あったと思う。 いずれも昭和24年のことで、一つがその年の夏、全米水上選手権大会に出場した“フジヤマのトビウオ”古橋広之進選手が、長距離レースで驚異的な世界新記録を打ち立てて優勝したことだ。 日本人もアメリカ人もびっくり仰天したものだ。 もう一つがその年の秋、湯川秀樹博士が日本人として初めて、ノーベル賞(物理学賞)を受賞したことだ。
当時の日本は敗戦後のどん底にあり、食うものも食えず、凄まじいインフレが吹き荒れ、倒産や合理化(リストラ)で失業者が街にあふれていた。 そればかりでなく、下山事件、三鷹事件、松川事件など奇々怪々な事件が多発し、世の中は真っ暗であった。 日本は世界的に見ても“4等国”に転落し、その悲惨さは、今の若い人達にはとても想像できないだろう。(当時のエンゲル係数は、明治時代末期の水準にまで転落していた。)
こうした真っ暗闇の中で、古橋選手と湯川博士の快挙は、どれほど日本人を勇気づけたか、完全に自信を喪失していた日本人に、どれほど明るいニュースとして受けとめられたか、私がここで的確に述べるのは、ほとんど困難なことである。
勿論、それ程までではないが、今回の田中さんのノーベル賞受賞は明るいニュースだった。 下積みのサラリーマンは沢山いる。能力があるのに、なかなか認められない人も大勢いる。 私自身は“落ちこぼれ”のサラリーマンだったが、その辺の事情は良く分かっているつもりだ。

3) 本当に従業員を大切にする企業は伸びるだろう。 現代の日本では、どうしてもリストラ第一になってしまう。 これほど経済環境が悪化してくると、リストラもやむを得ない面があるだろうが、「企業は人なり」というのは真実だ。
田中さんのノーベル賞受賞で、島津製作所は一躍有名になって株も上がり、御本人も「役員待遇」に昇進するという。大変結構なことだが、こういう素晴らしい快挙がないと、企業もなかなか思い切った人事はできないだろう。
信賞必罰は重要なことだが、その前に「従業員を大切にする」という精神が、最も重要ではなかろうか。 そんなことは言われなくても分かっていると、経営者から叱られそうだが、利益第一の企業では、なかなかそうなっていないのが現実ではないのか。

 優秀な人材がアメリカなど海外に出てしまうと、「頭脳流出だ」と騒ぎ立ててから久しい。 何もかも、日本が一番優れた研究施設を持つのは難しいだろうが、「企業は人なり」の精神からいけば、その点で最大限の努力が必要となる。
田中さんの場合は極めて異例のケースだが、今回の件で、島津製作所が予想もつかない得をしたことは間違いない。 もっとも、企業は雇用の問題から、最近「ワークシェアリング」に真剣に対応しなければならなくなった。
「ワークシェアリング」などというのは、本来、企業の論理から言えば、これまでの方針にまったく逆行するものである。 生産性の向上と、合理化を追及し続けてきた企業にとっては、たとえ社会の趨勢とはいえ、もともと考えられないことであった。 これも従業員を大切にする一つなのだろうが、高度経済成長時代にはあり得なかったことだ。 そういう意味では、現代の企業経営者は大変なんだと思わざるをえない。
話しが企業のことにまで及んでしまったが、「主任」田中耕一さんのノーベル賞受賞は、近来にない愉快な、清々しい話題であった。 日本の若い働き手の人達が、今後の躍進と成果をものにすることを願わずにはいられない。 (2002年10月15日)


『援助交際』とは、良い意味なのか?

1) 「援助交際」という言葉が、やたらに使われている。週刊誌や民放テレビなどに氾濫している。 一体、この言葉はいつ頃から使われるようになったのか。私にはよく分からないが、何年も前から聞くようになった。
最初に聞いた時は、なにか良い感じがした。「援助」も「交際」も悪い意味ではない。「援助交際」という語感は、“人道主義的”で素晴らしい印象を与える。世事に疎い私は、これは良いことだと初めに直感した。 ところが、これは『売春』や『買春』を意味する言葉だと知って、愕然としたのである。
世の中は、悪いことでも“善”であるように取り繕おうとするのだろうか。もしそうなら、それこそ悪しき虚飾である。 ところが、この「援助交際」という言葉はその後、平気で使われるようになった。マスメディアでは、堂々たる現代用語になっている。
現代の日本ではこういうものかと諦めたが、私は何年も複雑な思いがしてならなかった。 「援助交際」という人道主義的で洒落た言葉には、なにかこれを奨励するような響きを感じる。なんにも悪いイメージが湧いてこないのだ。むしろ、善行といった印象を受ける。 しかし、実態は売春、買春以外の何ものでもない。

2) 2~3年前、私が東京の某テレビ局に勤めていた頃、大分県の某テレビ局が、この「援助交際」という言葉を使わないことに決めた。 理由は、売春や買春を“美化”するような印象を与えるからだろうが、私は極めて妥当な判断だと思った。
ところが、その後も、東京のキー局を始め大多数の民放テレビ局は、この言葉を平気で使っている。なんら恥ずかしいとは思っていないようだ。 私に言わせれば、破廉恥とか厚顔無恥とはこのことだと思う。 なぜ、はっきりと「売春」「買春」と言えないのか! まさか、売春や買春を奨励しているのではないと思うが。
世事に疎い子供達は、「援助交際」という耳障りの良い(?)言葉を聞けば、きっと善い事だと思うに違いない。世事に疎い大人の私自身が、最初にそう感じたのだから。「援交」をする“いかがわしい男”は、まるで「足ながおじさん」のような素敵な人を連想させる。
これこそ虚偽であり“まやかし”である。虚飾以外の何ものでもない。臭気ふんぷんたる汚物を、綺麗なものだと表現しているようなものだ。 これほどまでにミソもクソも一緒にするならば、敢えて言わせてもらおう。現代のマスメディアは、汚いクソを美味しいミソやカレーライスと言っているようなものだ。

3) 表現の自由は尊重されなければならない。 私も“もの書き”だから、いわゆる「言葉狩り」には大反対である。むろん、差別用語などは良くないし、その点については十分に気を付けなければならない。 しかし、過度の「言葉狩り」は真実を隠蔽しかねない危険があり、「言葉狩り」を好んでする人は嫌いである。
マスメディアは、なによりも真実を明らかにする責務がある。従って、表現の自由は最大限、保障されるべきだろう。否、むしろ、表現の自由を拡大していって欲しいと思うのだ。 しかし、表現が“真実”と異なっていたらどうなるか。それは虚偽、まやかしと同じものになってしまう。
「援助交際」という言葉は、悪を善にすり替えるような表現である。一部のテレビ局がすでに使わなくなったのは当然だろう。 一体、誰がこんな破廉恥な用語を発明したのだろうか。「援助交際」を好ましいものとして、推進しようという下心があったのだろうか。これが現代風だと思って、悦に入っていたのだろうか。

 先日、小学6年の女の子4人が、渋谷でいかがわしい男に騙され、赤坂のマンションに数日監禁されるという事件が起きた。 4人は幸い無事(?)保護されたが、この事件の関連で、渋谷の「少女売春」の問題がマスメディアに大きく取り上げられていた。
その後、あるテレビ局(某キー局)の夕方のニュースを見ていたら、堂々と「援助交際」という名のもとに、売春の実態が報じられていた。 勿論、テレビ局は少女売春を批判的に報道していたが、なぜ「援助交際」という“美名”を使うのか。
なぜ「売春」「買春」とはっきり表現できないのか。真実を覆い隠そうとでもいうのか。 私は直ぐにそのテレビ局に電話を入れ、「援助交際」という馬鹿げた言葉遣いは止めて欲しいと陳情した。 表現の自由は尊重すべきであるから、どうしても「援助交際」という言葉を使いたいなら、その後に誤解のないように、( )付きで「売春」「買春」と書いて欲しいと陳情した。

4) 売春する女を俗に売女(ばいた)とか、淫売と言う。従って、売春少女も売女であり淫売である(これこそ表現の自由である)。売女!と怒鳴りつけてやりたいくらいだ。 テレビのコメンテーターも憤慨した面持で「大人が怒鳴りつけてやればいい」と述べていたが、いかんせん、「援助交際」などと美しい言葉を使っていては、示しがつかないだろう。
表現の自由も、真実を覆い隠すようなものになれば、なんの意味があるのだろう。悪を善にすり替える表現の自由なら、そんなものは無い方がマシだ。 いくら現代でも、例えば誇大な広告や宣伝は注意されることがある。それは国民や消費者に誤った判断を植え付けるからだ。
それと同じように、ミソもクソも一緒くたにしたような馬鹿げた表現は止めてもらいたい。 マスメディアは芸術や文学とは違う。“真実”を最も重要な指針としている仕事のはずだ。芸術や文学では問題がなくとも、マスメディアでは許されない場合がある。 マスメディアの猛省を強く促すものである。 (2003年7月24日)

 

日米安保問題とマスコミの怠慢

沖縄の普天間基地移設問題がクローズアップされているが、これは基地問題全般、ひいては日米安保条約について考えさせられる良い切っ掛けになった。
 ところが、マスコミは普天間の移設先がどうなるか、鳩山政権の命脈が尽きるのかといった報道ばかりで、根本的な日米安保条約の問題を全く取り上げようとしない。これは恐るべき怠慢である。全国の基地問題や日米安保を取り上げるのは“タブー”なのか。
 それはどう考えてもおかしい。日本のマスコミは問題意識がないのだろうか。あるいは「日米安保条約」は100%正しいと思っているのだろうか。マスコミ出身の私でさえ非常に疑問に思う。
 
少し身近な話をしたい。私が住んでいる所沢市(埼玉県)というのは、実は“基地の街”である。所沢市なんて知らない人が大勢だろうが、西武ライオンズの本拠地と思ってもらえればいい。
 その中心地に在日米軍の「通信基地」がある。私もここへ引っ越してくる前は全く知らなかったが、旧日本陸軍初の飛行場があった所だ。それが戦後、アメリカ軍に接収され空軍の通信基地になった。
 ところが、昔のような“田舎”の所沢であればまだいいが、50年ほど前から東京に通う人達が住み着くようになり、人口がどんどん増加していった。当然、基地は邪魔だから返還運動が起きる。
 こうして3度にわたって基地の一部が所沢市に戻ったが、未だに7割ぐらいしか返還されていない。残りの3割はなかなか返してもらえないのだ。
 この基地は横田基地(東京・多摩地域西部)と米軍機を結ぶ通信業務を行なっているが、最近は通信機能の強化が図られているため所沢への返還は相当に難しいという。
 市の“中心地”にある基地だから、もし全面返還されれば東西を結ぶ県道が開通し、ものすごく便利になる。そうなれば余談だが、建物や住宅が一挙に増え地元の土建屋も不動産屋も大儲けするはずである(笑)。地元経済が活性化するのは間違いない。
 
私はあえて地元の話をしたが、戦闘機や爆撃機などが飛ばない静かな基地とはいえ、返還されれば地元の経済や交通運輸にとって大きなプラスになるのだ。
 まして、米軍機の爆音、騒音などに悩まされている各地の基地は、返還されれば多大な有益性をもたらすことは間違いない。
 私は具体的なことを言ったのだ。こうした具体性のあることを、マスコミはなぜ取り上げないのか。米軍基地は“永久”に日本に返還されないとでも思っているのか。
 つまり、基地問題は「日米安保条約」の問題なのである。この条約が日本の安全にとって不可欠だと思うなら、堂々と論じたらいいではないか。 逆に、この条約が無くても日本の安全を保障する手立てがあると思うなら、堂々と主張したらいいではないか。
 普天間の問題は単に沖縄のものだけではない。日本中にある在日米軍基地の問題なのである。そのことに“頬かぶり”して、知らん顔をしているのはマスコミの重大な怠慢だと言わざるを得ない。マスコミよ、しっかりしろ! (2010年4月20日)


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