矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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過去の記事(20)

2024年09月02日 03時40分58秒 | 過去の記事

⑳ 日本人、琉球人、アイヌ人etc.・・・日本に民族問題はあるのか? 回転ドアは大嫌い! ド・ゴールと毛沢東・・・右と左の核武装主義者。 昭和天皇が靖国神社への“A級戦犯合祀”に強く反発。 「二大政党制」のどこが良いのか!? 

日本人、琉球人、アイヌ人etc.・・・日本に民族問題はあるのか?

1) 以前(調べてみたら、1993年だった)、NHKテレビの大河ドラマ「琉球の風」(原作は陳舜臣さん)を見た時に、私は強烈な衝撃を受けたことを覚えている。 もとより私は、沖縄(琉球)の歴史については素人であり、知っていないことが多い。

 しかし、かつてそこに「琉球王国」があったことぐらいは知っていた。 その「琉球王国」が17世紀初頭(江戸時代初期)、薩摩藩の軍勢によって無惨にも征服されていく過程が、ドラマに実に印象的に描かれていたのである。 要するに、琉球は日本人(和人)によって侵略され制圧されたのだ。

 私は個人的に、仕事や観光で何度も沖縄に行ったことがある。何度行ったか覚えていないくらいだ。 沖縄にいると「ここは日本なのだろうか?」と、よく思ってしまう。特に石垣島など八重山列島に行くと、気候も風土も何もかも、本土とはまるで異なるのだ。 日本にも、こんな所があるのだと実感する。

 言葉の違いも著しい。 現地の人が琉球語(琉球方言)を話すのを聞いていると、何がなんだかさっぱり分からない。本土でも東北弁など分かりにくい方言は多いが、琉球語に比べればまだ理解しやすいだろう。

 沖縄の人はよく、自分達のことを「ウチナンチュウ」と言い、日本本土の人を「ヤマトンチュウ」と呼ぶ。 同じ日本国民でありながら、そこには微妙な心理が働いているようだ。かつて琉球が、日本人によって征服されたという屈折した思いが潜んでいるのだろうか。 それとも、単なる識別の意味なのだろうか。

2) 1972年の「沖縄返還・祖国復帰」の時にも、現地にはごく少数とはいえ、「沖縄独立」を求める人達がいた。 最近、インターネットで調べてみると、今でも沖縄独立を唱える人がいることを知り、やや意外な感を覚える。

 しかし、沖縄の歴史を知り、あの「琉球の風」というドラマを思い起こす時、沖縄独立という想いを“妄想”と決め付けるのは、ヤマトンチュウの驕り(おごり)ではないのか。 もとより、沖縄独立を本気で願う人は極めて少ないと思うが。

 民族学的に、沖縄の人達を“琉球人”と呼べるのかどうかは分からない。 しかし、先程も述べたように、沖縄の言語(琉球語)を始め民俗、風習などは独特のものがある。要するに、文化と伝統が本土とは異なるのだ。その点を忘れてはならない。

 沖縄の話しが続いてしまったが、日本には北海道を中心に“アイヌ人”がいる。彼らも文化と伝統においては、日本人と大きく異なる。 かつて、中曽根総理大臣が「日本は単一民族である」と誤って発言した時、アイヌの団体が激しく抗議して大問題になったことがある。 さらに言わせてもらえば、朝鮮人や中国人などで日本国籍を取得した人達(帰化人)も相当数いるのだ。日本は「多民族国家」なのである。

3) さて、民族主義の立場から国家というものを考えてみよう。なぜなら、国家はおおむね民族を原則として成り立っているからである。 琉球人(一つの民族として見た場合)やアイヌ人は、日本においては少数民族ということになる。他方、日本人は圧倒的な多数民族ということだ。

 どの国家でも、少数民族の処遇は重要な課題である。民族紛争で揺れ動く国家は、世界中に枚挙にイトマがない。 幸いにして日本では今、この“民族紛争”というものがほとんどないに等しい。 しかし、紛争がないからといって、民族問題が解決されているとは限らない。

 先程も触れたように、ごく少数とはいえ沖縄の独立を志向する人達がいる。また、アイヌや日本国籍を持つ朝鮮人らの人権問題等、考えるべき点が少なからずあるのではないか。 そこで、日本における民族問題を考えてみよう。日本には民族問題など存在しないと、思っている人が多いだろう。果たしてそうだろうか。ここからが、21世紀を見据えた私の“勝手な”推測となる。 

 『民族自決』という権利は、今や普遍的な原理となっている。しかし、この原則がスムーズに生かされないため、多くの国で民族紛争が起きているのだ。 仮に将来、“琉球人”が民族自決にのっとって独立を求めたらどうなるのか(沖縄県議会での決議等)。

 そんなことは予想も出来ないと思う人が多いだろうが、私は真剣に考えたい。なぜなら、私は民族主義者(自称・左翼的民族主義者)だからである。 もちろん現時点では、沖縄独立を本気で考える人は極めて少ない。しかし、夢想や妄想と思われるものが、50年後、60年後に現実になることは幾らでもあることだ。

 もとより私は日本人として、『琉球共和国』や『アイヌ自治国』などを望んでいるわけではない。 琉球人やアイヌ人の日本人への同化は進んでいると思うし、経済的、政治的、社会的な諸条件から、彼らのほとんどは「日本国民」であることに納得していると考えたい。

 しかし、民族の夢・ロマンというものは、その民族でなければ分からないものである。 仮に将来、彼らが『共和国』や『自治国』といったものを望んだ場合、日本人としてはそれを承認するかしないか、決断を迫られるだろう。なぜなら、民族自決の原理は普遍的で、侵してはならないものだからだ。

 どうやら私は、民族の夢やロマンに傾倒し過ぎているのかもしれない。しかし、あのドラマ「琉球の風」を思い起こす時、平和な“海洋国家”で豊かであったろう「琉球王国」のイメージが、はっきりと脳裏に浮かぶのである。

 民族の栄枯盛衰は歴史の必然である。 日本人(和人)による征服や制圧によって、琉球人やアイヌ人は「日本国民」になった。それが善かろうと悪かろうと、歴史的必然だったのだ。 ただし、われわれ日本人は、“民族の心”が不変であることを決して忘れてはならないと思う。(2004年3月11日)

 

回転ドアは大嫌い!

1) 先日、東京の六本木ヒルズ「森タワー」で、6歳の男の子が回転ドアに頭を挟まれて死亡するという痛ましい事故が起きた。 このタワーでは昨年4月の開業以来、丸1年も経たないのにそれまでに32件もの回転ドア事故が起き、救急車が11回も出動したというから驚く。警視庁は業務上過失致死容疑で、森ビルなど関係7カ所の家宅捜索に入った。安全対策など、いろいろな面で問題点があると思う。しかし、私がここで問題にしたいのは、「回転ドア」そのものについてである。 このドアは、人間にとって本当に好ましいものなのか。

 今回の死亡事故がなかったなら考えようともしなかったが、この回転ドアは実に忌々しいものだと思っていた。一体、回転ドアの利点は何なのか。 冷暖房の保温のためには有効で経済的だという。しかし、それ以外に何の利点があるというのか。金がかかって、ビルの“ステータスシンボル”にでもなるというのか。冷暖房の保温のためなら、開閉式の自動ドアを二重にすれば充分ではないか。そうしている所も多いと聞く。 技術的、機能的な面については、私は門外漢だからこれ以上言及しないが、常日頃、回転ドアに強い不満を持っている者として、とにかく言わずにはおれない。

2) 昔、ある所の銀行で、お年寄りの女性が“手動式”回転ドアに自ら突き飛ばされ、大ケガをするという事故があった。これを老女の不注意だと、笑う人は勝手に笑えばいい。 しかし、私には笑い事とは思えなかった。若い頃の私は、勢いよく押した手動式回転ドアで、後ろから突き飛ばされそうになったことがあるから。 しかし、手動式は人間個人の手加減でやれるから、まだ良い。これが自動式回転ドアになると、そうはいかない。 ドアが勝手に動き、人間はそれに合わせて通過する単なる“物体”になってしまうのだ。こう言うと読者諸子は笑うかもしれないが、それが実に不愉快なのだ。そこには、人間性を無視されたような余韻が残る。 まるで、狭い関所を恐る恐る通過する感じなのだ。

 それに比べると、開閉式自動ドアは実に気持が良い。 心の中で「開けゴマ!」と呟きながら近づくと、ドアが左右に開いて「さあ、お入り下さい」といった感じで通してくれる。 この場合、通る人間が主(あるじ)であって、ドアは主の言うことを忠実に聞く僕(しもべ)という役割である。我々は堂々とドアを通る。 ところが、自動式回転ドアはまったく逆である。この陰気なドアは「俺の言うとおりに通れ」と言わんばかりに、人間の歩行速度を制約し、自分の回転に合わせて我々を通させるのだ。 この場合、人間とドアの主従関係は逆転し、ドアの方が主となって、我々は僕になってしまうのだ。これが実に不愉快である。 開閉式ドアが人間に対して忠実で、思いやりがあるのに比べて、自動式回転ドアの方は人間に少しも優しくなく、威張っているのだ。「さあ、通れ」と言わんばかりである。

3) マスコミが伝えるところによると、自動式回転ドアによる事故は至る所で起きているという。さも有りなんと思うばかりだ。 これほど、我々の人間性を無視し、自分勝手に回転して人間を服従させている代物はないからだ。 ほとんどの人は、自動式回転ドアに入る前に立ち止まったり、躊躇(ちゅうちょ)したり、戸惑ったりするだろう。 普通の大人でも事故に遭っているのだから、幼児やお年寄りが突き飛ばされたり、挟まれたりして当然である。

どうして、こんなに陰気な“地獄門”のようなドアを残しておくのか。 ドアの中を通過する時も、密閉されたような錯覚に陥る。このままドアが停まってしまうと、幽閉されてしまうのかと思う。なんとなく不安になってしまうのだ。少し敏感すぎるだろうか。 とにかく、人間を不安にさせ、安全対策を講じなければならないというドアは“欠陥品”である。 センサーの感知能力を信頼するとしても、感知してから25センチも動くというではないか。センサーが完璧に作動すると、ドア自体がしょっちゅう停まったりするようでは、何の役に立つというのか。

人間性を無視した、こんなに危険で不便なドアは要らない。 それとも、巨大高層ビルの“ステータスシンボル”として残そうというのか。金ばかりかかって、ほとんど何の役にも立たない自動式回転ドアを考えていると、私はふと「戦艦大和」を連想した。 「戦艦大和」はかつて、大日本帝国のステータスシンボルだったが、ほとんど何の役にも立たず撃沈され、海の藻屑と消えていった。結果的に“無用の長物”だったのだ。 六本木ヒルズの巨大高層ビルが、なぜか「戦艦大和」のように見えてきて、“主砲”である自動式回転ドアと運命を共にするのだろうか。 私の不吉な連想をお許し願いたい。(2004年3月31日)

追記・・・森ビルが大型自動式回転ドアの撤去を決めた由、6歳の男の子の命は戻らないが、その判断に慎んで敬意を表する。(2004年4月25日)

 

ド・ゴールと毛沢東・・・右と左の核武装主義者

1) ド・ゴール(1890年生れ)と毛沢東(1893年生れ)・・・共に20世紀を代表する世界的な政治家だが、両者の生い立ちや経歴、活躍した環境などは余りにも違いがある。 フランスのド・ゴールは軍人出身で、右派の代表のような存在だが、中国の毛沢東はマルクス主義者で、左派の代表のような革命家である。 しかし、この二人には妙に似通う点があるように思われる。 それは何だろうか?

 まったく異質に見える二人なのに、共通項が大いにあると思えてならない。 ド・ゴールは第二次大戦中に、ナチスドイツに対して徹底的な抵抗(レジスタンス)を呼びかけて戦った。毛沢東も同じく大戦中に、大日本帝国に対する徹底抗戦を完遂した。 そこには、思想・信条を乗り越えた“民族の魂”のようなものが感じられる。

 ナチスドイツと大日本帝国を倒して、二人は“救国の英雄”となった。 その後、それぞれの辿った道はもちろん異なるが、両者とも「民族と国家」の運命を担うという強烈な自負には、いささかも違いはなかったように思う。それぞれが、フランスと中国の栄光と国際的地位の向上に邁進したのである。

 二人の業績を詳しく述べる時間はないが、ただ一つ強調しておきたいのは、両者とも自国の「核武装」に全力で取り組んだことである。 その善し悪しは別として、フランスと中国の国際的地位は結果的に向上し、両国とも他国から侮られることのない軍事力、政治力を確保したのである。

2) まず、ド・ゴールの場合から見てみよう。 彼は第二次大戦の終結直前に亡命先のイギリスから帰国し、臨時政府を組織して首相となったが、小党乱立のフランス政界の“渾沌”から下野せざるを得なくなり(1946年)、以後12年間、髀肉(ひにく)の嘆をかこつことになる。

 ところが、1958年になって、フランスは「対アルジェリア戦争」をめぐって国家分裂の危機を迎える。 これは、今の私たち日本人には到底想像も出来ないほどの危機で、植民地・アルジェリアの独立問題をめぐり、現地のフランス軍とコロン(白人系入植者)が“反乱”を起こし、中央政府と軍事対決する事態となった。(実際に、コルシカ島は反乱軍によって占領された。)

 フランスは内戦に突入するのか・・・全世界が固唾を呑む緊迫した情勢の中で、現地軍やコロンは第二次大戦の“救国の英雄”ド・ゴールを擁立し、「フランスのアルジェリア」を確保しようと動いた。 これに対し、共産党や社会党などの左派は、右派の大物であるド・ゴールの登場を阻止しようとした。

 しかし、ド・ゴールを除けば、誰もフランスの内乱を止めることは出来ない。 議会はついに、国家分裂を防ぐためにド・ゴールの政権復帰(当初は首相、後に大統領)を認めたのである。 ところが、驚くべきことにド・ゴールは、植民地・アルジェリアを確保しようという勢力に推されたにもかかわらず、政権を取るやいなや「民族自決」の理念から、アルジェリアの独立を認めてしまったのである。

 20世紀の国際政治の中で、これほど“劇的”な展開を私はほとんど見たことがない。ド・ゴールとは何と凄い人だろうかと思ったものである。 しかし、彼を擁立した軍部やコロン、右派の陣営の一部は、完全に裏切られたと激昂し、復讐を誓ってド・ゴールの暗殺を執拗に企てるのである。(フレデリック・フォーサイスの有名な小説「ジャッカルの日」を読んでもらえれば分かるだろう。)

 話しが少し逸れてしまったが、政権に復帰したド・ゴールが直ちに行なったのは「アルジェリア問題」の解決だけではない。 復帰早々、フランスの「核武装」を宣言したのである。以後、2年も経たないうちに原爆実験を、8年後には水爆実験を行なうのである。

「フランスの栄光」を目指したド・ゴールは、核実験だけでなく、米英主導の(特にアメリカ主導の)国際政治を嫌い、西側先進国では初めて「共産主義・中国」を承認し、ソ連との関係改善、NATO軍からの脱退等、東西冷戦時代に異色の独自外交を展開していった。

 歴史上の評価はいろいろあるだろうが、真の民族主義に裏打ちされたド・ゴールの政治は、フランスだけでなく、今でも多くの国の指針になると思うのである。 軍人出身の右派の大物と言われたド・ゴールは、しばしば左派も呑み込むスケールの大きさを示した。 このような政治家は、100年に1人現われるかどうかといった逸材であろう。

3) 次に毛沢東の場合だが、この人はド・ゴールと違い、隣国・中国の大革命家だっただけに、多くの日本人が知っているだろうから、詳しく述べる必要はないと思う。 しかし、共産主義者・毛沢東ではなく、“民族主義者”としての彼の側面を見ていきたい。

 1920年代以降の国際共産主義運動は、ソ連の影響力が圧倒的だった。 コミンテルン(第三インターナショナル)の総本山はモスクワにあり、事実上スターリンの指令によって、各国の共産主義運動は展開していったと言ってよい。

 中国の場合も、モスクワ詣でをして帰国したコミュニストが運動を指導するケースが多く、それは概して“都市型”の革命戦略であったが、毛沢東は中国本土の農民に根ざした“農村型”の戦略を取り、「農村によって都市を包囲する」という戦術で「モスクワ派」と鋭く対立した。

 結局、毛沢東路線が中国共産党内で勝利し「モスクワ派」は退くことになるが、農村重視の戦略自体が、極めて民族主義的側面があったと言える。 これは、都市労働者(プロレタリアート)を主体とするレーニン主義のソ連の革命戦略とは、大きな隔たりがあったからである。(ちなみに、毛沢東自身も中農の出身であった。)

 1949年、内戦で国民党に勝利した共産党は「中華人民共和国」を成立させ、ほどなく毛沢東は国家主席に就任した。 建国後10年ほどは中国とソ連の関係は良好に推移したが、やがて政治路線(“平和共存路線”をめぐる論争)や国益の対立から、中ソ関係は急速に悪化していく。

 こうした経緯の中で毛沢東は「核武装」に全力を傾注していくが、中ソ対立が表面化した直後の1964年、ついに初の原爆実験に成功する。 奇しくもこの年は、中ソ対立が決定的となり、ド・ゴールのフランスが中国を承認した画期的な年にも当たるのである。

 中ソ関係はその後、国境での武力紛争が相次ぐが、その間、中国は1967年に初の水爆実験に成功、ミサイル実験等も重ねて「核大国」への道を突っ走る。 当初はアメリカを主要な仮想敵国にしていたのに、この頃はソ連の“覇権主義”を第一の敵とするまでになった。 この国際共産主義運動の大分裂の背景に、毛沢東の強烈な「中華民族主義」があったことは言うまでもない。

4) 21世紀の現在に至って、ド・ゴールや毛沢東の評価は低くなっているかもしれない。 私は上記の短い文章で、ド・ゴールの方を高く評価したようだが、実際に、毛沢東の方は「文化大革命」の発動で中国を大混乱に陥れた責任から、国内でも「功績第一、誤り第二」と評価が落ちているようだ。

 しかし、毛沢東が全力で取り組んだ「核武装」について、中国当局は“誤り”だとは言っていない。 同様にフランス国内でも、ド・ゴールの「核大国化」政策を間違っていたと批判する声は、ほとんど聞こえてこないようだ。 両国とも核を廃絶していないのだから、二人が推進した「核武装」は、両国民の支持をおおむね受けていると思われる。

 ここで私は、日本も自国の安全のために直ちに核武装すべきだとは言わない。 但し、いつでも「核武装」が出来る態勢を取っておくべきだと言いたい。これは、日本の栄光やステータスの問題ではなく、まさに「安全」のためである。

 朝鮮半島の動静(北朝鮮、韓国の核武装の恐れ)を見極める必要はあるが、私が言いたいのは、国の安全のための「核抑止力」ということである。 この“言い古された言葉”は、言い古されているだけに真実である。 核兵器があるから、大戦争が起きるのではない。核兵器があるから、大戦争は起きないのである。 核の恐怖が戦争を抑止しているのだ。 

 アメリカが日本に原爆を二度投下した後、核兵器は世界中の軍事大国に広まったが、あれから60年近くも経っているのに、一度たりとも核兵器は使用されていない。大国同士の力の均衡(バランス オブ パワー)という事態もあったが、いつでも使われそうなのに、核兵器は使われなかった。

 逆に、通常兵器の方が著しい発達を遂げ、ありとあらゆる戦争で使われている。 この事実は、核を使えば全てが終りになるという恐怖感が人類を支配しているからである。核の抑止力が、戦争の拡大と破滅的結果を防いでいる。

 インドとパキスタンが好い例だ。 両国とも核兵器を持ったから大戦争は起きにくくなった。これが通常兵器だけだったら、もっと激しく戦争を繰り返すだろう。 言い方は悪いが、通常兵器だと、人間は「一定の範囲」だという“安心感”から戦争を起こしてしまう。 ところが核兵器があると、決定的破滅を招くのではないかという恐怖心から、自制せざるを得なくなるのだ。

 話しが戦争論になってしまったが、どの核保有国も、自ら先に核兵器を使うとは言っていないし、現に諸々の戦争で核を(先制攻撃を含めて)使っていない。 しかし、自国が攻撃を受けて破滅寸前になったら、使うことになるだろう。この最後の“切り札”が、戦争の拡大と決定的破滅を防いでいるのである。

5) 話しを元に戻すが、ド・ゴールは「核抑止力」の意味を最もよく理解していたと思われる。核武装をすることによって、通常兵力を削減することもできたし、NATO軍から脱退することもできたと言えるだろう。 毛沢東の方は、お粗末な通常戦力ではとても米ソの軍事力には敵わないので、核武装に踏み切ったのだ。

 今から30年も40年も前の話しで、21世紀の今日とは、国際情勢も安全保障のあり方も随分変ってしまったから、参考にならないと言う人がいるかもしれない。 しかし、「国家」というものが存続する限り、また「核抑止力」が現実に生きている限り、われわれは核開発と核武装の可能性を“なおざり”にするわけにはいかない。

 唯一の被爆国として、核廃絶を唱えるのはもちろん結構だが、核を廃絶しただけで「安全」と「平和」が実現すると思ったら大間違いだ。 核兵器を廃絶すれば、“発達した通常兵器”による戦争が一段と増えるだろう。悲しいことだが、それが人類の現実である。

 もし、本当に戦争を止めさせたいなら、通常兵器や核兵器の他に、原潜、空母、戦闘機、戦車はもちろんのこと、全ての武器を廃絶しなければならない。 また、世界中の軍隊も廃止しなければならない。(それでも、民兵やゲリラ、テロリスト集団などは残ってしまう。) そういうことが、現在の人類に出来るだろうか。とても無理だろう。(何百年後には、それが実現することを期待して・・・)

 21世紀中も、もちろん「国家」は存続するだろう。そこには、われわれ国民が生きている。 国民の生命と安全は守られなければならない。“具体的に”どのようにして守るのか。 そう考える時、「核抑止力」を真剣に追求したド・ゴールと毛沢東の戦略を、われわれは改めて検証する必要があるのではないか。 (2004年9月21日)

 

昭和天皇が靖国神社への“A級戦犯合祀”に強く反発

1) 靖国神社への“A級戦犯合祀”問題で重大な事実が明らかになった。 過日、この問題について昭和天皇が「だから私はあれ(合祀)以来、参拝していない。それが私の心だ」と語っていたことが、日本中に伝わった。これは1988年(昭和63年)4月28日、当時の宮内庁長官であった故富田朝彦氏のメモ帳(日記)に記されているのをマスコミが報道したものだ。

 昭和天皇が靖国神社への参拝を控えていた理由として、A級戦犯の合祀を不快に思われていたとする説が有力だったが、今回の富田メモの公表によって、それは決定的になったと言える。 ところが、この報道について一部の右翼的な知識人や言論人は、「富田メモの信憑性は疑わしい」「富田氏の恣意が入っているのではないか」などと勝手な憶測を披瀝している。

 どういう根拠があって、そのような揣摩(しま)憶測を流すのか。 そこには、富田メモを信じたくないという感情だけが“むき出し”になっていて、科学的な根拠は微塵もない。報じられた昭和天皇のお言葉を素直に受け止めれば、A級戦犯の合祀にはっきりと不快感を示されていることは明白である。 天皇の御心をねじ曲げて解釈しようというのは、右翼的な立場から考えても、これこそ“不忠者”と決めつけて良いだろう。

 また、こういう勝手な憶測を立てるのは、昭和天皇のお側に絶えず仕えていた故富田朝彦氏に対する重大な侮辱である。 メモを残した富田氏の人格を云々する前に、「お前達のねじけた心と不見識を恥じろ!」と右翼的な知識人らに言いたい。


2) A級戦犯合祀という本題に入る前に、何の根拠もないのに、デタラメな憶測を振りまく一部の知識人に我慢が出来ないので不満をぶつけた。 彼らが「富田メモ」の信憑性を疑うのなら、これから科学的な検証を行なってその信憑性を覆すように努めれば良いのだ。いつまでも一部の知識人を非難していても始まらないので、本題に入っていく。

 昭和天皇は更に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが・・・松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と述べられたという。

「松岡」は松岡洋右元外相、「白取」は白鳥敏夫元駐伊大使を指すと見られる。(二人ともA級戦犯で靖国神社に合祀されている。) 問題は「A級が合祀され その上」という箇所である。「その上」という言葉は「それに加えて」とか「さらに」という意味である。松岡や白鳥以外の12人のA級戦犯の合祀が、昭和天皇の不快の原因に始めから含まれていたことは間違いない。

 また「松平の子の今の宮司」というのは、その当時の靖国神社宮司・松平永芳を指すことは事実関係から考えて間違いない。この男が1978年(昭和53年)10月17日、東條英機らA級戦犯14人を「昭和殉難者」として遺族にも知らせず、靖国に密かに合祀したのである。(この事実が一般に知られるようになったのは、翌年の4月19日に初めて新聞報道で伝わってからである。 詳しくは「靖国神社から“A級戦犯”を撤去せよ」を参照して頂きたい。)

 昭和天皇は松平永芳について「親(松平慶民氏)の心子知らず」と悪し様におっしゃっている。彼は1978年に靖国神社の第6代宮司に就任するやいなやA級戦犯の合祀に踏み切ったから、天皇は「今の宮司がどう考えたのか 易々と」と述べられたのだろう。 このように、昭和天皇は時の松平宮司を厳しく批判されている。

 この松平永芳は昨年(2005年)7月10日に死去したが、問題のメモを残した富田朝彦氏はそれより前の2003年11月に亡くなっている。 従って、富田氏が他界してから2年8ヵ月もの間は「富田メモ」は公表されなかったことになる。松平が亡くなってから丁度1年を経て、富田メモの内容が一般に知らされたのだ。

 つまり、松平の「一周忌」が済んでからメモは公にされた。これを私なりに“人道的”に推し量ると、昭和天皇から厳しく批判されている松平元宮司の存命中に、彼を傷つけないようにする配慮があったのではないかと推察する。

 なぜなら、靖国神社の元宮司が昭和天皇から名指しで非難されていると分かったら、松平の“精神的苦痛”はいかばかりであったろうか。想像も出来ないほどの苦痛であったに違いない。 そういう意味で、どういう経緯があったかは知らないが、松平の一周忌が終わって富田メモが明らかになったことは、人道的にも“極めて良いタイミング”であったと考える。

 これこそ私の勝手な推測だが“武士は相身(あいみ)互い”である。たとえ不忠の者であろうとも、昭和天皇の御心を無視した松平であろうとも、存命中の彼に傷がつかないようにとの思いやりが働いたと見るべきである。

(注・天皇の御心を踏みにじった松平については、「元宮司」の肩書き以外には敬称を付けないことにした。最も“忠臣”であるべき者が、結果的に“逆臣”になったからである。 2・26事件の時の昭和天皇の怒りを思い出す。)


3) 以上、A級戦犯の合祀問題、富田メモの内容と松平元宮司の関係などについて考察したが、肝心なことはA級戦犯の分祀が可能なのか、靖国神社に代わる国立の新たな追悼施設が必要なのか、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の拡充整備をすれば良いのかなどの問題が残っていることだ。

 これらの問題については様々な検討が求められるが、ただ一つ言わせてもらいたいのは、外国の賓客らが訪日した際、快く参拝してもらう追悼施設がどうしても必要だということだ。 今の靖国神社にどれほどの外国の賓客が参拝してくれているだろうか。最も近い国である韓国・中国はもとより、その他の外国人の参拝もほとんど無いだろう。

 国の追悼施設は徹底的に「無宗教」でなければならない。全ての人に受け入れられるものでなければならない。 しかし、靖国神社のような神道に根ざした「宗教法人」では、国際性も普遍性もあったものではない。更に先の大戦を「自存自衛の戦い」と位置づけていることから、これに反発する外国の賓客は靖国には絶対に参拝しないだろう。

 しかも、靖国自身のためにA級戦犯の分祀を求めても、神社側は教学上の理由で拒絶するばかりだ。 昭和天皇の御心は今上天皇にも受け継がれている。現天皇もA級戦犯が合祀されている靖国には絶対に参拝されないだろう。

「富田メモ」が明らかになった直後、小泉総理は「(参拝は)心の問題であり、強制されるものではない。誰でも自由だ」と語ったという。 それならば一方に「政教分離」の問題を抱えているが、小泉総理は行きたければ靖国神社に個人(私人)として参拝すれば良いだろう。どうせ9月には総理大臣の職務を離れるのだから、勝手に参拝すれば良い。“個人の自由”だと言うのだから。

 しかし、昭和天皇の御心が明らかになったことで、靖国問題は決定的な段階に入ったと思う。この問題は解決を迫られている。逃げようにも逃げられない段階に入ったのだ。英知を結集して解決策を見いださなければならない。 私の考えは既に幾つも述べているので、本日はこれ以上の論及を控えるが、今後も折に触れて意見を表明していきたい。(2006年7月27日)
 
付記・・・なお、昨年「靖国問題」については幾つかの小論を載せたので、参考までにそれらを以下にリンクしておいた。読んで頂ければ幸いである。 「靖国神社よ、御霊を拉致・監禁するな!!」(2005年6月11日) 「靖国問題の唯一の解決策とは?」(2005年6月16日) 「A級戦犯は“敗軍の将” 泣いて“馬謖”を斬れ!」(2005年6月29日)

 

「二大政党制」のどこが良いのか!?

1) 二大政党制が良いのではないかという議論が、もう随分昔から出ている。しかし、現代の日本において、本当に二大政党制が良いのだろうか。 率直に言って、私はそんなことはないと思っている。 いや、むしろ民主主義の多様性からいって、「多党政治」の方が好ましいはずである。

 二大政党制を主張する人達は、政権交代を可能にするシステムとして、しばしばこれを推奨してきたが、二大政党でなくとも政権は交代してきた。 1993年には自民党政権が崩壊し、7党1会派による細川連立内閣が誕生している。

 また、昨今では、自民党による単独政権はとても無理な状況で、社会・自民・新党さきがけによる村山連立内閣が出来たり、最近では、自民党を軸にした連立内閣が続いている。 このように、二大政党でなくとも、政権交代や政権の改造はいくらでも可能なのである。

 現実の日本の政治をよく見ようではないか。 大政党ではないが、例えば公明党や共産党、社民党といった政党がなくなるとでも、誰が思うだろうか。ほとんどの人達はそうは思っていないだろう。 それとも二大政党論者達は、衆議院に小選挙区制を導入することで、これらの中小の政党を解消しようとでも考えたのだろうか。

 そんなことは、現実には無理である。 現に比例代表制を併用することによって、中小の政党は生き残っている。保守陣営には、自由党や保守党までが誕生してきたのだ。 二大政党制どころか、逆に中小の政党が増えているではないか。

 本来、小選挙区制を導入した時、将来の二大政党制を夢見た人は多かったはずである。 ところが、事態はまったく別の方向に進んでいるようだ。こうした現実を、二大政党論者はどう見ているのか。

2) 私はもう一度、民主主義の多様性という視点から、一般的な選挙制度の問題に触れていきたい。 9年前、非自民の細川連立内閣が誕生した時、日本は“政治改革”の熱に浮かされていたようだ。 小選挙区制になると金がかからなくなり、国会議員の汚職も減るだろうと真面目に議論されていた。(政界浄化のためには良いことだが)

 たしかに選挙運動の面から見れば、選挙区が小さいほど金はかからないはずだ。 それは良いのだが、政治資金の問題の方をなおざりにしていた側面があった。しかし、ここでは政治資金のことを論じるつもりはないので、小選挙区制の問題に切り込んでいきたい。

 小選挙区制だけでは、民意は完全に反映されない。「死票」があまりに多く出てしまうからだ。 だから得票数による比例代表制を併用するわけだが、日本では衆議院の場合、政党名を書く「並立制」が取られている。 各政党の党利党略があるものの、日本ではそれなりに工夫している。

 完全小選挙区制だけだと、いかに酷いかといえば、憲政の“模範国”と言われるイギリスの場合だ。 ご承知のように、イギリスでは労働党と保守党という二大政党があるが、自由民主党という有力な第3党もある。

 自由民主党は現在、イギリス下院(定数・650人)で52の議席を持っているが、かつては総得票数が全体の15%から20%あっても、議席が10台ということもあった。 これなどは、いかに「死票」が多いかを示すものである。

 こんな選挙制度が良いと言うのか。全然、良くない。 イギリスを民主主義の模範のように言う人が多いが、なんでも先進諸国を拝みたがる、日本人の“奴隷根性”と言う他はない。 ついでに言うが、イギリスには未だに貴族院(上院)があって、選挙もしない世襲貴族が議員として頑張っている。しかも、定数もないというのだ。 これが、民主主義の模範だと言えるのか!

 イギリスのことを悪し様に言ったのは申し訳ないが(各国にはそれぞれの事情があるので)、日本人は、自分の国の方がずっと民主主義的だということを自覚すべきである。 我が国の民主政治体制に誇りを持つべきである。

3) 次に、二大政党制の問題を考えてみよう。 二大政党と言うと、いかにもカッコ良く思われるだろうが、私に言わせれば民主主義を軽視しているような印象を受ける。 民主主義の多様性から言えば、本来、政党は多ければ多いほど良いはずである。

 ただし、政局の不安定や混乱は良くないし、各議員が自分の主張を実現していくために、一つの政党に収れんされていくのは当然かもしれない。 また、選挙を戦うためにも、大きな組織に入る方が有利である。このため、より大きな党が生まれて微小な党は自ずと減っていく。

 それはそれで良いのだが、本来はもっと多くの政党があって当然である。 私は二大政党というものに、なにか民主主義の形骸化を見る思いがするし、どこか活性化が失われていくような気がしてならない。

 例えば、アメリカの場合は、共和・民主の二大政党にはっきりと分かれている。 あれほど多くの人種や階層を有しているというのに、どうして政党は多くないのか。私にとっては、不思議である。 大統領制を採用しているから、そうなるのだろうか。(日本も首相公選制を導入したら、二大政党化が進むのだろうか。)

 アメリカ人の知恵が、二大政党化を実現したのだろうか。 しかし、昨今では、この二大政党制に疑問を持つ人達が増えているという。選択の余地が、二つの政党しかないのだ。 分かりやすいと言えばそれまでだが、まるで「白か黒か」の世界である。

 余談ではあるが、アメリカ人の中にも、日本のような議院内閣制の方が良いと考える人達が多いそうだ。 それにしても、国民や役人は勿論だが、裁判官までが共和党か民主党に色分けされるというのが、はたして良いことなのだろうか。 他の選択の余地はないのか。どこか、民主主義が硬直化している気がしてならない。

 この前の大統領選挙の時は酷かった。 ブッシュ候補(共和党)対ゴア候補(民主党)の戦いだったが、何時までたっても大統領が決まらないのである。 事実上、世界のナンバーワンを決めるというのに、世界中が注目しているというのに、新大統領が決まらないのだ。

 フロリダ州の開票の遅れも酷かったが、私が最も驚いたのは、海外の相当数の不在者投票の到着が開票日に間に合わないということだった。 いくらアメリカ人が大らかとはいえ、これは酷すぎる。これは民主主義を否定するものだ。 日本ではまったく考えられないことである。

 あまりに酷いので、ロシアのプーチン大統領がたまりかねて、選挙監視団を送りましょうか、と言ったほどだ。(これは、相当な皮肉が込められている。あの大ざっぱなロシアが言うのだから。) フロリダ州の開票結果については、共和党の支持者が多い連邦最高裁の決定で、結局、ブッシュ候補が大統領に当選する道が開かれた。 その間、実に1ヵ月以上ももめたのである。

 大体、裁判官までが共和・民主両党に色分けされるというのは、完成された二大政党制の弊害以外の何ものでもない。 このように、アメリカは世界に醜態をさらけ出したのだが、こんな二大政党制になるとは、“民主主義の父”でもあるトマス・ジェファーソン(彼は少数意見を尊重した)ら、アメリカ建国の偉人達は想像もしていなかっただろう。

4) アメリカの例を出してしまったが、民主主義は硬直化してしまったらお終いである。そのためには、政党はできるだけ多くあった方が良いし、選択の余地を広げて欲しい。 ただし、20も30も政党があると混乱するから、10ぐらいもあれば民意は大体反映されるだろう。(実際は、5つか6つの政党が、政権担当能力を持つことになろう)

 多くの政党が切磋琢磨する方が、民主主義にとってはプラスである。 かつての日本の55年体制、つまり自民党対社会党という二大政党制が良いなどと思っている人は、どのくらいいるのだろうか。 今や、ほとんどいないのではないか。

 それと違った二大政党制を、その論者達は考えているのだろうが、民主主義の活性化のためにも多党政治の方が有効である。 いろいろな要素を組み合わせた連立政権の方が、一党独裁的になりかねない単独政権よりはマシである。

 もっとも、現実の日本政治を見れば、二大政党制にはなりえないだろう。 先述したように、公明党や共産党、社民党は党名が変わろうとも、なくなるとは思えないからだ。

 以上、二大政党制について考えてきたが、こういう問題はどうしても選挙制度と係わりがあるので、いずれはその問題についても考えたい。 ただし、現時点では、今の衆参両院の選挙制度は複雑で分かりにくく、国民を当惑させている面がある。 もっとすっきりした選挙制度になれないのだろうか。

 私自身はむしろ、小選挙区制よりも、かつての中選挙区制の方がずっと良かったと思っているし、また完全比例代表制などの方がすっきりしていると思うが、機会があれば後日考えていきたい。

 いずれにしろ、二大政党制などというものは、民主主義の多様性、その活性化のためにはむしろ有害であり、今や世界の民主主義の模範、手本になろうとしている日本にとっては、まったくの“幻想”“妄想”に近いものだと考える。 (2002年12月5日)


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やまとぅんちゅーと うちなんちゅー! (ゴリラ00)
2012-05-16 12:19:22
  沖縄で 「やまとぅんちゅー」と 言うのは
何の 感情も、利害も無く
単なる 呼び名で 普通名詞に すぎない。
元来 「やまとぅ(本土)」と 言う 言葉は
昔の 人たちの 使ってた 物だ。
戦後育ちの 50代60代の 我々の 時代は
単に 「本土の人」言うのが 極 一般的だった。
  ところが 最近 若い 人たちの 間で
「やまとぅんちゅう」とか 「ナイチャー」と 頻繁に 言ってる!
私は とても 不自然に 聞こえて しょうが無い!

特に 「ナイチャー」と 言う 言葉には
くれぐれも 気を つけなければ 成らない!
それは 陰で 日本人に 対して
沖縄から 逆差別語として 使われる 事が しばしばだった!
例えば 「ナイチャーたーや くんじょう わっさん」
日本人は 根性が 腐ってる」と!
返信する
やまとぅんちゅー、ナイチャー (矢嶋武弘)
2012-05-16 18:02:24
ゴリラ00さん、「ナイチャー」などは逆差別語ですか。大いに気を付けるべきですね。
ただし、沖縄の人たちが「本土の人」に複雑な気持を持っているのは事実でしょう。また「民族自決」の理念も無くなったわけではありません。
基地問題の他にもいろいろな課題があるので、十分に理解を深めなければならないと思います。
返信する
民俗自決と 基地問題! (gorira00)
2012-05-26 08:17:37
谷島さんが 沖縄県を 訪れた 事が
どのくらい 有るか 分からないけど イメージが
ちょっと 違うと 思います。
一般的に 自決などと 思ってる 人は 殆ど いない。
自決と 言ってる 人に 私は 会った 事が ない。
それは あくまでも がちがちの 左翼主義者と
沖縄の マスコミの 言葉に すぎない!


基地問題にしても 本土の マスメディアが 報道してる 事と
沖縄県民の 現状とは 全く 雰囲気が 違う!
アメリカの 軍事基地容認も
基地反対者と 同数ぐらい いるのだ!
何処でも、 どんな時でも 反対者の 声は 大きい!
報道機関は その 部分だけを 切り取って
報道するから 国民に 勘違いさせて しまった!
但し かの 有名な 鳩山発言は
我々 沖縄県民の 心に 多大なる 変化を もたらし
大きな 期待と 希望を もたらし、
失望と 不満の 海に 投げ込まれたのは 事実!
返信する
沖縄について (矢嶋武弘)
2012-05-26 11:54:37
gorira00さん、私は仕事も含めて沖縄には何回も行きましたよ。本土返還前にも行ったことがあります。嘉手納基地も見学しました。
たしかに基地反対の声が大きく報じられるのは事実ですね。その一方で、基地に依存している事実もあります。おっしゃる通り鳩山発言は大きなインパクトがあったと思います。期待と失望が交錯しました。ただし、基地を何とかしようという気運にはなったと思います。そこから新たなスタートでしょう。

この前、民族自決のことを言いましたが、沖縄はやはり日本国です。日本国の一員として進んでいくしかないと思います。地理的な特殊性を考えれば、21世紀に大いに発展していく可能性があると信じたいものです。
返信する
平和で 豊かな 琉球王国! (gorira00)
2012-05-26 22:02:51
この タイトルが
沖縄の 一部の 人たちが
自決とか 独立とかと 言って
勘違いする 原点に 成ってる!
それは 大きな 間違いで
地球上の 何処にも
そんな 王国は 存在しない!
沖縄史の 年表を
作って 見れば よく 分かる。
戦いと 侵略の 歴史だ!
特に アマミ諸島は
繰り返し繰り返し 琉球から
侵略を 受けた!
ミヤコ ヤエヤマ クメ島も しかり!

長い期間 平和だったのは
1572年から 1609年までの 期間が
完全な 平和と 言えるだけなのだ!

もう一つ 沖縄県民が
勘違いを 抱く 原因は
バジルホールが ナポレオンに 対して
「武器無き平和琉球王国」なる
ほら話を した ことを
沖縄県民は 真実として 信じ切ってる!
返信する
沖縄について (矢嶋武弘)
2012-05-27 10:01:16
goriraさん、過去のことより今後のことを考えていくべきです。そうでなければ進歩も発展も考えられない!
返信する
言語と 風習! (gorira00)
2012-05-30 15:01:27
谷島さん! 私も ミヤコ ヤエヤマの
言葉は 全く 理解出来ない。
特に ミヤコ諸島の 言葉は
沖縄本島の 人たちには
本とに 理解不可能なんですよ!
まるで 朝鮮語を 聞いてる 感じです!
本当人から 見ると ミヤコは
全く 外国人ですよ。

それでも 本島の 人と
ミヤコ島の 人が
理解し合えるのは 幸いにも 我が日本には
美しい 「標準語」が 有った!
その おかげで お互いに 話が 出来る!

しかし 沖縄本島から すると
その 気質 風習からして
彼らは 異民族にしか 見えない!
彼らは 優秀な 人が 多い!

しかし ミヤコ島の 人たちは
沖縄本島 人たちから
激しい 差別を 受けつずけて
悲しい 歴史の 持ち主だ!
ミヤコ人との 結婚は
絶対に 赦されない 事が
つい 最近まで つずいた!
朝鮮人と ともに 差別されて 来た!
その事は 今でも くっきりと
彼らの 心の 傷と なってる!
返信する
同じ日本人である。 (矢嶋武弘)
2012-05-30 15:24:48
goriraさん、沖縄の歴史に詳しいですね。私はむろんそこまで知りませんが、今や宮古も八重山も同じ日本国です。
昔、宮古にも石垣島にも行きましたが、風土は全く違いますね。驚きました。
しかし、同じ日本人です。差別や偏見があってはならんのです! 同じ日本人として、21世紀を生き抜くように助け合って行きましょう!
返信する
前向き! (gorira00)
2012-06-12 18:12:15
谷島さんは 常に 前向きな 発送と優しい 発言で 心が ほっとします!
それに 反して 私は
やや 否定的で 後ろ向きかなー?
谷島さんを 見習いたいと 思います!
返信する
どうも有難う。 (矢嶋武弘)
2012-06-12 20:37:47
goriraさん、ありがとうございます。
同じ日本人ですから、心を割って話し合っていけば必ず理解し合えると思います。
過去は過去であって、未来へ向かって進みましょう。
返信する

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