武弘・Takehiroの部屋

日一日の命

昔の公明党の幹部たち

2024年08月25日 14時42分01秒 | 政治・外交・防衛

<以下の記事は2020年6月~7月にかけてまとめたものです>

〈前書き〉

前書きが長くなるかもしれないが、お許し願いたい。
コロナ禍で国民に1人当たり『10万円の給付』が行われているが、これは公明党の山口代表が安倍首相に強く要請したのが大きな要因だったという。これによって、先の「閣議決定」が覆(くつがえ)ったのだ! こんなことは滅多にない。 

もしこれが実施されなければ、公明党は自民党との連立政権を解消するかのような覚悟で、山口代表は詰め寄ったと言われている。
その詳しいことは分からないが、私は公明党の決意と態度を高く評価したい。私自身、国民の1人として10万円の給付を“ありがたく”受け取ったのだ。(受け取らない人も一部にいるが)

そんなことを考えていると、私は50年前(1970年)、フジテレビの記者として初めて公明党を担当したことを思い出す。それは懐かしい思い出だ。何人もの公明党幹部の面影が脳裏に浮かんでくる。
その中で特に、当時の竹入義勝委員長や矢野絢也書記長らのことは忘れられない。お二人はその後だいぶ経って、党や支持母体の創価学会といろいろなトラブルを起こし、今は完全にこの陣営から離れている。それを思うとまことに“今昔の感”があるのだ。
なお、竹入氏は現在94歳、矢野氏は88歳でご存命だという。そこで、あの頃の公明党を振り返ってみよう。(2020年6月23日)


1)公明党・創価学会による言論出版妨害事件

1970年2月、私は人事異動で警視庁の記者クラブから国会の「野党クラブ」へ移った。当時の野党は社会党、公明党、民社党、それに共産党だったが、その頃、世間の関心を最も集めていたのが野党第2党の公明党だった。
というのは、前の年から公明党とその支持母体である創価学会が、藤原弘達氏の『創価学会を斬る』という著作に対し、出版の中止などを求めて大がかりな介入をしていたからである。これが明るみに出て、一般に「公明党・創価学会による言論出版妨害事件」と呼ばれたが、私が野党の担当を始めた時は、正にその騒ぎの真っ最中だった。

このため、公明党を取材することが多くなり、いやでも党幹部らと会う機会が増えた。竹入委員長とは何かの集会のあと、先輩でキャップのT記者が私を彼に紹介してくれた。竹入さんはいたって庶民的な人で、私たちを近くの屋台へ連れていき、一緒に“おでん”を食べたことを覚えている。
安い“おでん”だったから、Tさんと私は特に金を払わなかったが(笑)。とにかく彼は親しみやすく、とても野党第2党の党首とは思えないほどだった。

一方、矢野書記長といえば独特な雰囲気を持っており、どこか“人を食った”ような印象を与えていたように思う。京大卒のエリートだが、ある面では繊細で神経質なところがあったのだろう。しかし、話し合えば率直で飾り気のない人だったと思う。 
30代で党書記長の重責を担っていたから、人には言えない気苦労もあったのだろう。

 

公明党・創価学会による言論出版妨害事件が明らかになると、党と学会の密接な関係が問題になってきた。両者の関係は「政教一致」で、少しも「政教分離」ではないと、他の野党を中心に厳しく問いただす声が高まった。 また、マスコミや一般の知識人、文化人らもその関係を追及するようになったのである。
一方、与党の自民党は、当時の田中角栄幹事長が公明党からの依頼で、藤原弘達氏らに対し出版の中止などを求めたことが暴露され、厄介で微妙な立場に立たされた。自民党としては、できるだけ大事にならず切り抜けようと思ったのだろう。

しかし、世論の後押しもあって、妨害事件騒動は収まるどころかますます拡大していった。他の野党は「政教一致」の疑いがあるとして、池田大作・創価学会会長らの“証人喚問”を求めるまでになったのだ。
私は国会の論戦を間近で取材していたが、例えば民社党の塚本三郎氏の追及などは実に迫力があった。塚本さんは仏教に精通しているから創価学会を“仏敵”と見なしたのか、池田会長の国会証人喚問を大声を張り上げて要求したのである。
余談だが、塚本さんは先月(5月)、老衰のため死去されている。93歳だった。塚本さんは後に民社党委員長などを歴任したので、私はその外国訪問に同行するなどいろいろ縁があった。ここに、謹んでご冥福をお祈りする。

話が少しそれたが、野党の追及や世論の高まりによって公明党は窮地に立たされた。ついに、竹入委員長は責任を取ろうとして“辞意”を表明したのである。これは大変なことになった、公明党はどうなるのかと私は思った。
党首が辞任すれば、執行部もそのままでは済まないだろう。公明党の将来がまったく見えない。ますます忙しくなるぞと覚悟していると、毎日新聞のベテラン記者・Aさん(本名は忘れた)が、面白いことを言った。
「あれは“ポーズ”だよ。竹入が辞めるわけがないじゃないか、ハッハッハッハッハ」

新米記者の私が半信半疑でいると、竹入さんにその話が伝わったらしく、彼は怒ってこう言ったという。
「なんだと? Aの言うことは“ゲスの勘ぐり”だ!」
この応酬を聞いて、私はますます分からなくなった。竹入委員長は本当に辞めるのか、それともAさんが言ったように居座るのか・・・ 私たち記者は、公明党の両院議員総会を固唾(かたず)を呑んで見守ることになった。

 

それから1週間ほどして、議員総会が国会の公明党控え室で開かれた。竹入委員長をはじめ執行部は緊張した面持ちで着席している。報道陣を入れた総会だから、出席した衆参両院の議員も襟を正して会議に臨んでいるようだ。
議長が竹入委員長らの“進退問題”を議題にして、出席者の意見を聞いた。すると、ある若い議員が立ち上がって自分の考えを述べていく。
「竹入委員長も執行部も絶対に辞めないでください! お願いします!」
このあと、議員たちが次々に意見を述べていったが、みんな辞任に反対の声ばかりだ。中には涙声で切々と訴える者もいる。 圧巻は最後に立った小川新一郎議員だった。彼は埼玉1区選出の代議士なので、旧浦和市(今のさいたま市)に住む私は名前や顔を覚えていた。
小川さんは声を張り上げて、竹入氏らの辞職に強く反対した。くわしい内容は忘れたが、最後は哀れな子供が父親にすがるような口調で、泣かんばかりの仕草で辞職を思いとどまらせようとした。

議員総会はこんな模様で終わったが、私はまるで“芝居”を見ているような気がした。現執行部の辞任を阻止するための大芝居ではないか・・・ 他の記者もそう感じたのだろう。キャップのTさんも「いや、参った、参った!」と苦笑いを浮かべて言った。
こうして竹入・矢野執行部は居座ることになったが、あとで考えると、毎日新聞のA記者が言ったように、竹入氏の辞意表明は“ポーズ”だったかもしれない。いや、たとえポーズでなくても、あれだけ熱烈な支持を受ければ辞めるに辞められなかっただろう。あの段階の公明党は、正に危機に瀕していたのだ。

それからしばらくして、今度は野党議員の呼びかけで「議員集会」が開かれ、公明党や創価学会から妨害を受けた著者、出版関係者らが証言に立った。私ももちろん取材に行ったが、会場はある種の“熱気”に包まれ、異様な興奮状態になっていたのを思い出す。
こうして野党側は、改めて池田大作会長らの国会証人喚問を強く求めたが、自民党が公明党に同調し、結局、証人喚問は実現しなかった。公明党と創価学会は、自民党によって救われた形になったのだ。

そう考えると、この時から公明党は自民党に大きな“借り”をつくり、自民党は公明党に大きな“貸し”をつくったのではないか。 政局というのは、その時々で複雑な変化をする。今の「自公連立政権」がそうだとは言わないが、その遠因が50年前に起きていたと私には思えるのだが、果たしてどうだろうか。

 

しかし、自民党も田中角栄幹事長が“妨害行為”に絡んでいたから、証人喚問が実現しなかったことは助かったと言える。他の野党の追及から逃れることができたのだ。 同様に、池田大作会長もそうで、日時は忘れたがわれわれ「野党クラブ」の記者も招いて会見を開いた。

創価学会会長の記者会見は、後にも先にもこれが初めてである。池田さんが何を話されたかは覚えていないが、たしか公明党との「政教分離」などが主だったと思う。会見は和やかな雰囲気の中で行われ、終わると池田さんは個々の記者と挨拶したり名刺を交換したりしていた。
私は“畏れおおくて”近づかなかったが、後で学会の人に「あなたは挨拶しませんでしたね」と注意された。(やっぱり、挨拶した方が良かったか・・・)

ちなみに、野党クラブ担当の3年間に、日本共産党の宮本顕治委員長(当時の職責)の会見に数回は行ったが、挨拶はしたことがない。こちらも“畏れおおくて”近づけなかった。 読売新聞のあるベテラン記者は「宮本と池田は余人をもって代えがたい」と言っていたが、それほど、2人は“カリスマ的”存在だったのだ。

それまでの公明党は「王仏冥合(おうぶつみょうごう)」だとか、「国立戒壇」を建立しようとか非常に宗教色の強いことを述べていたが、言論出版妨害事件が明るみに出て、態度を大きく変えざるを得なかった。 具体的には、党の綱領から「国立戒壇」などのくだりを削除し、宗教政党から普通の国民政党への脱皮を目指すようになったのだ。

池田会長は「言論を妨害する意図はなかった」と弁明しつつも、「結果として関係者に圧力を感じさせ、妨害と受け取られた」と述べ、公式の場で謝罪した。
たしかに、創価学会の“折伏(しゃくぶく)”は凄まじかったし、言論出版妨害は著者や出版社だけでなく、取次店や書店などにも及ぶ異例の事態だったのである。

 

2) 党幹部の群像

言論出版妨害事件が一段落すると、公明党の対応は以前と比べてずいぶん開放的になった。騒動の前はだいぶ“身構えた”感じだったが、騒動後は記者団に対しても友好的な雰囲気になったのである。
私は公明党と民社党の日常活動を主に見ていたので、この変化をとても好ましく思った。事務局の人たちとも仲良くなり、一緒に会食することもあった。こうした中で、政局はにわかに「日中国交正常化」の気運が高まってきた。

公明党も時流に乗り遅れまいと思ったのか、日中関係の改善に積極的な姿勢を見せるようになる。1971年6月だったか、竹入委員長を団長とする公明党の第1次訪中団が北京を訪れ、周恩来総理らと会談した。
実はその時、私も同行記者として行きたかったのだが、フジテレビと産経新聞だけは中国側から入国を拒否された。理由は、両社のトップである鹿内信隆社長が大変な台湾(国民政府)寄りであることから、入国を拒絶されたのだ。

私は非常に悔しかったが、仕方がない。しかし、竹入さんは帰国後、私や産経の記者をとても慰め、いたわってくれた。公明党はフジテレビなどを含む全社の訪中を中国側に強く要請したが、受け入れられなかったのだ。
こうした状況はなおも続く。公明党の第2次、第3次訪中が翌年(1972年)にかけて行われたが、その都度、フジテレビと産経新聞は入国を拒否された。こうしたケースはいくらでもあり、社会党の場合はもとより、自民党の保利茂訪中団の時でさえ、中国側から入国を拒否されたのである。

なんだか“恨めしい”話になってしまったが、フジテレビと産経新聞はよくもここまで中国から嫌われたものだ!(笑)。 フジと産経がようやく訪中ができたのは、田中角栄首相の一行が歴史的な「日中国交正常化」を実現した1972年9月の時である。(その時は私は同行しなかったが)

話が少しそれてしまったが、公明党が日中国交回復に果たした役割は大きかったと思う。その先頭に立ったのが竹入委員長だが、彼は日中双方の“橋渡し”を積極的に行なった。中国側の意図や考えを日本政府に克明に伝えたのだ。それが田中首相の訪中に役立ったことは間違いないと思う。

公明党の第3次訪中の時だったか、羽田空港で面白い場面に立ち会ったことがある。日中国交回復に同じく積極的だった社会党の成田知巳委員長が、竹入訪中団を見送りに来た時にこう言った。
「社会党も日中国交回復に熱心に取り組んだが、公明党さんとは、後(あと)の雁(かり)が先になった感じだ」と。 つまり、遅れて来た者が、先行する者を追い越して行ってしまうという意味だ。
成田委員長はお世辞で言ったのか、少し悔しくて言ったのかは知らないが、竹入訪中団に声援を送ったのは間違いない。

 

竹入委員長のことで忘れられないのが、1971年9月の党大会の最中に、暴漢に襲われ重傷を負った事件だ。 日本は戦後、この種の“政治テロ”が極めて少なく、公明党としても初めての出来事だったろう。
私はその日、党大会の取材を終えて南浦和(現さいたま市)のアパートに帰ると、結婚して間もない新妻が大声を出して言った。 「大変よ、竹入委員長が暴漢に刺されたんですって!」

それを聞いて、私はすぐに党大会の会場に戻った。いろいろ周辺取材をしたが、翌日だったか、党員を前に矢野書記長が入院中の竹入氏の症状などについて報告した。それによると、彼は一命をとりとめたものの重傷だという。
矢野書記長のくわしい報告は忘れたが、犯人は『矢島(やじま)』だと言った。矢島だって? 自分と同じ名字(矢嶋)ではないか! それで、このテロ事件は余計に忘れられないものになった。

後の調べで分かったのは、犯人の矢島孝晃という男は日蓮宗の熱心な信者だが、創価学会に対し異常なほど敵意を持っており、池田大作会長か竹入委員長を殺そうと思っていたという。そう考えると、これは政治テロではなく“宗教テロ”とでも言うのか。 それはともかく、竹入氏は約3カ月の療養生活を経てやっと国政の活動に復帰したのである。

竹入さんの話はそんなところだが、次に矢野絢也書記長の話に移ろう。
実は昨年(2019年)の始めごろだったか、近くの書店で本を物色していたら、矢野絢也著の変わった本が見つかった。『神々の欲望』とかいう題名なので驚いてパラパラとめくると、なんだか奇想天外な(あるいは荒唐無稽な)ファンタジー小説ではないか!

矢野さんは相変わらず人の意表を突くのが得意なのかと思った。50年前の彼は正に当意即妙で機転がきくというか、悪く言えば“人を食った”ような印象があって、私は少し苦手だった。しかし、それは多くの人が思っていることで、別に私だけではない。いや、矢野さんはむしろナイーブで感じやすい人ではなかったろうか。

 

Tさんの後のキャップ・Sさんと、ある日、赤坂だかの議員宿舎に矢野氏の夜回り取材をしたことがある。政局や国会の話を短時間したと思うが、彼はすぐに話題を変えて言った。
「Sさん、あなたは囲碁が強いと聞いているが、どうですか、一局やりませんか」
Sは囲碁が好きなので、断る気にもなれず黙っている。すると、矢野さんはさっさと囲碁盤を持ってきて先手で黒石を打った。私は横で見ているだけで、取材に来たというのに矢野氏にまんまと“してやられた”感じだ。
囲碁に興じる彼の表情はとても楽しそうだ。腕前はSの方が上だが、矢野さんは嬉々として戦っている。こうして1時間ぐらいが過ぎただろうか、勝負はもちろんSが制したが、対局が終わると矢野氏が言った。
「いや、楽しかったよ。今日はこれまで」
それでSと私は議員宿舎を後にしたが、彼の別の一面を見たような気がしたのである。 (余談だが、ある人から聞いた話では、矢野さんはゴルフもやるがマナーは良くなかったということだ。しかし、これは私がじかに見たわけではないので止めよう。)

一つ面白い話がある。 前記の時より10年以上たった頃の中曽根内閣の時代だ。国政のある課題で与野党幹事長・書記長会談が院内で開かれ、矢野氏は公明党書記長としてもちろん出席した。 時の自民党幹事長は金丸信(かねまるしん)氏で、この人は党の実力者として有名だった。
ところで、会談が終わって皆が帰ろうとした時、矢野さんが大切にしていた『眼鏡』がない! 彼はあわてて周辺を探したが見当たらないので、ちょっとした騒ぎになった。

矢野さんと関係者が探した結果、眼鏡は金丸氏が持っていったことが後で分かった。 つまり、金丸さんは他人の物を平気で持っていったわけだが、彼にはそういう“悪いクセ”が日頃からあったという。  
そこにある物が他人のものだと“意識”すれば、人はふつう持ってはいかない。しかし、人は“無意識”のうちにある行動をとってしまうことがある。金丸さんには、そこら辺の物を無意識のうちに持っていくクセがあったのだ。
彼にはもちろん悪意があったわけではないが、矢野氏は彼の悪癖のトバッチリを受けたのだ。金丸さんは矢野さんに謝ったが、これは国会の“笑い話”として残っている。 
なお、金丸氏は後に佐川急便から5億円のヤミ献金を受けたとして議員を辞職するが、人間としては面白い人だった。私も“金丸番”をやったことがあるので、機会があれば話をしていこう。

 

話がそれたが、“眼鏡事件“”から少したった頃だろうか、私は議員宿舎でまた矢野氏に会った。しかし、これは担当記者としてでなく、通りがかりにふと立ち寄ったのだ。その頃 社内で政経デスクをしていた私は、暇を見ては国会や議員宿舎周辺をぶらぶらしていた。
それで矢野さんの所に立ち寄ったのだが、本当は事前に了解を取ってお邪魔するのが筋である。ところが、図々しいというか、記者根性丸出しの“礼儀知らず”というか、私は急に矢野さんに会いたくなってお邪魔したのだ。

しかし、彼は嫌な顔をせず私を迎え入れてくれた。ちょうどその時、地元の大阪からお客さんが2人ぐらい来ていたが、私は矢野さんと1時間近く話し込んだ。何を話したかは覚えていないが(どうせ政局のことだろう)、一つ気になる点があった。
それはお邪魔してから帰るまで、矢野さんは一度も私の顔を見ようとはしなかったことだ。途中でそれに気がついて、彼は私を“忌々しく”思っているのかと案じたが、それなら適当に「お客さんが来ているからもうよそう」と言えばいい。
ところが、矢野さんは私の質問に丁寧に答えるだけで、別に嫌な顔はしていない。突然お邪魔したのだから、「今日は無理だ」とか「10分ぐらいならいいよ」と言われたって、何の不思議もないのだ。
こうして私は1時間近くそこにいて退席したが、結局、帰り際まで矢野さんは一度も私の顔を見ようとはしなかった。図々しい私に対する嫌がらせかもしれないが、その時の模様は今でもはっきり覚えている。

彼と会ったのはそれが最後だが、矢野氏はその後、公明党委員長に就任し明電工事件などいろいろあったが、1993年に政界を引退して今日に至る。その間、創価学会や公明党とも離別し、訴訟問題を起こすなど波乱の後半生を送ったと言えよう。
これは竹入委員長の場合とよく似ているが、竹入・矢野両氏の話はこの辺でやめて、他の元党幹部の話に移りたい。

公明党の副委員長を長く務めた浅井美幸(よしゆき)氏は故人になられたが、いろいろな思い出が残っている。 例の言論出版妨害事件で党が揺れる最中に、先輩のTキャップと初めて取材に行った時は、浅井さんは無愛想でとっつきにくい感じがした。
しかし、その後見る見るうちに友好的な対応をしてくれるようになり、私にとっては最も大切な取材先になったのである。こうして数カ月が過ぎ、個人的な話で申し訳ないが、拙結婚式の披露宴に主賓として浅井さんに出席してもらうことになった。

拙披露宴に出席のお願いをした時、浅井さんは始め大阪での予定が入っているので難しいと言っていたが、最後になってようやく了解してくれた。出るつもりはあっても、わざと焦(じ)らしたのだろうか(笑)。それは分からないが、私は感謝の意を表した。

もう1人、民社党の国会議員・麻生良方(よしかた)さんにも出席をお願いした。私は主に公明、民社両党を担当していたので、どうしてもお二人には出て欲しかったのだ。
麻生さんはすぐに快諾してくれたが、彼は仲人の石川士郎さんの親友だったからそうなったのだろう。もう故人になられたが、麻生さんとの思い出は数多くある。ただし、公明党の話をしているので、ここでは失礼しよう。

浅井さんの次に忘れられないのが、党の政策審議会長を長らく務めた正木良明(よしあき)さんだ。この人は作詞家としても活躍されただけあって、いたっておおらかな親しみやすい雰囲気があった。よく議員会館にお邪魔したが、嫌な顔一つ見せず応対してくれた。
宴席に出て機嫌が良いと、正木さんはよく小柳ルミ子の唄を歌っていた。今でも忘れられないのが『瀬戸の花嫁』だ。当時のヒット曲で私も好きな唄だが、これを歌う時の正木さんはとても幸せそうな表情になるのが印象に残っている。

国会対策委員長を務めていた大野潔さんも忘れられない。この人は明るい性格で、よく周囲の人たちを笑わせていた。少し短気なところがあるが、屈託がないので好かれていたのだろう。
彼の選挙区は東京・多摩地域だが、一度、記者たちを“釣り”に連れていったことがある。大丹波川だったと思うが、われわれはマス釣りに打ち興じた。ところが、私のような不器用な男は一匹も釣れないのだ(笑)。
その点、彼は釣りの名手で、アッという間に40匹ぐらい釣り上げ、獲物がない数人の記者たちに分け与えてくれた。あとは近くのバンガローで楽しく一杯やったが、これも忘れられない思い出だ。

以上の方々はもう故人になられたが、参議院議員を長く務めた黒柳(くろやなぎ)明さんは89歳でご健在だという。この人は巨漢(大男)で、見るからにたくましい風貌をしていた。
党の議員との懇親会で初めて会ったが、自分の若い頃の話をよくしてくれた。なんでもとても貧しい家に育ち、兄は共産党員だったが早世したという。
巨漢だからかもの凄く迫力があった。 ある日、参議院本会議場で、同僚の公明党議員の演説に対し、作家で僧侶の今東光(こんとうこう)氏(自民党)が猛烈なヤジを飛ばした。その時、黒柳氏が立ち上がって今氏に詰め寄りなにやら大声で威嚇したので、さすがの毒舌家・今氏も顔面蒼白になったのを覚えている。
こうした情景を見た野党クラブの某先輩記者が、「あれはクロヤナギ・アキラと言うより、コク・リュウメイ(黒柳明)だね」と言って、大笑いしていたのを思い出した。

夫婦そろって議員だった人も忘れられない。国対委員長などを務めた渡部一郎氏夫妻だが、奥さんの通子さんは非常に“生活実感”のある質問をしていた。たしか予算委員会に大根などの野菜類を持ち込み、時の佐藤栄作首相たちに鋭く迫ったのだ。
大根などを委員会に持ち込むなんて、それまでの国会では考えられないことだった。正に国民生活に根ざした公明党の政治姿勢だったのだろう。

最後に、当時は若手のホープと言われた大久保直彦(なおひこ)さんと二見伸明(のぶあき)さんのことだ。小生にとって、2人とも早稲田大学の先輩である。
大久保さんはすでに他界されたが、当時の矢野書記長にはずいぶん可愛がられたようだ。国会での質問を前に、矢野氏から質疑応答の“模擬試験”をじっくりとやらされたいう(笑)。 彼は私に、同窓だった自民党の河野洋平氏にぜひ会って欲しいと言っていたが、野党担当の私はその機会がなく終わってしまった。

大久保さんは矢野氏が党委員長になった1986年に書記長に就任したが、3年後に起きた例の明電工事件で矢野氏と共に退任している。
一方、二見さんは後に羽田孜内閣の運輸大臣に就任したが、いろいろな曲折を経て公明党・創価学会から離脱し、今は政治評論家として活動されている。85歳でご健在だそうだ。彼が共産党の『赤旗』に寄稿したものを読んだことがある。

〈おわりに〉

以上、昔の公明党の幹部たちについて書いたが、この党は昔は社会党、民社党などとの「社公民路線」が基本で、自民党との「自公民路線」は二義的なものであった。しかし、時代の推移や政局の流動化の中で、今は自民党との協調が基本になっている。
それが良いか悪いかは別にして、いわば“現実路線”が根づいているのだろう。
今回、山口代表が安倍首相と直談判し、国民1人当たり10万円の給付を勝ち取った。閣議決定を覆(くつがえ)すという極めて異例の事態になったのだ。これをどう評価するかは各人の自由だが、私は前向きに評価したい。
エッセイのつもりで書き始めたのが、いつの間にか長文になってしまった。これも、昔の公明党の姿がなつかしく感じられたからだろう。 長文、駄文をお許し願いたい。 (2020年7月22日)


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2 コメント

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1984年だったと思いますが (さすらい日乗)
2022-09-29 16:58:58
この年の統一地方選挙で、公明党は、社公民路線から離れて、民社党との中道路線に立ちました。
この時、横浜市では、それぞれ少しづつですが民社党の議席は増えたのですが、公明党は減りました。
この時、社会党で市会議長だった大久保英太郎氏は言いました。
「公明党も堕落したな」
私は、密かに社会党はどうなのでしょうか、とっくに大堕落しているではありませんかと思いました。

当時は、一応庶民のために頑張っているなという評価は公明党にあったのだと思うのです。

今は、地獄道を自民党と付き合っていると言うことでしょうかね。
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基本的には「中道路線」か (矢嶋武弘)
2022-09-30 07:09:23
公明党は基本的に「中道路線」だと思います。だから昔は「社公民路線」だったのですね。共産党とは一線を画していました。
しかし、今は自民党の補佐役になっています。自公路線ですか。選挙協力が最大のポイントでしょう。両党にとってメリットがあるわけですから。
しかし、政治状況が変われば、もちろんどうなるか分かりません。逆に今のように「宗教問題」が表面化すれば、創価学会との関係から自民党にさらにすり寄ることも考えられます。
それが“地獄道”かどうかは分かりませんね(笑)
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