武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

青春流転(1)

2024年03月25日 04時42分28秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

〈前書き〉・・・この小説の時代背景は、1959年(昭和34年)から1964年(昭和39年)となっている。 当時、高校から大学にかけての私自身をモデルにした、自伝的小説である。小説である限り、勿論これはフィクションである。 第一部では恋と革命、第二部『青春の苦しみ』では欲情(リビドー)と煩悩がモチーフとなる。

 第一部

1)恋の芽生え

 敦子の白い二の腕が、月の光でおぼろに浮かび上がってくるように見えた。 二階の彼女の薄暗い部屋は、七月の気だるい暑さで眠っているようである。 窓を開けているのに、外の雑音もほとんど聞こえてこない静けさが、あたりを支配している。

 古びた椅子に身体をもたせかけている敦子を眺めていると、行雄の心は次第に熱い重みに圧迫されてくるようであった。 先程から二人は言葉を交わしていなかった。 敦子が来月留学することになっているアメリカのシカゴのことや、彼女が受験してパスしたAFS、アメリカン・フィールド・サービスの奨学金制度などの話しをしているうちに、二人の会話は途切れてしまった。

 敦子は、あまり多くを語りたがらない様子だった。 行雄がいろいろ質問するのに対して、彼女はうつむき加減で、時々行雄の方を上目づかいにチラリと見ては、細い声で短く答えるだけであった。

 そうはいっても、彼女は退屈しているのではなく、行雄の質問をもてあそぶように軽く受け流している感じで、その瞳は絶えず笑みをたたえていた。 敦子は行雄とのたわいのない会話を楽しみながら、彼と二人きりでいるこの一時に、明らかに満足しているようであった。 

 彼女は二人だけの時間を楽しみたいために、むしろ沈黙と静けさを望んでいるようだ。 そのことに気がついた時、行雄の心は何か熱いどろどろした重みに、押しつぶされるような感じがした。

 それから沈黙が始まった。行雄はもう言葉をかける気にはなれなかった。 彼は敦子の白い顔立と、よく伸びた四肢にじっと目をやるだけだった。 彼女は瞳に笑みをたたえながら、床に視線を投げやっている。

 部屋の中の気だるい暑さを、月の光だけが微かに冷やしているようだ。 敦子がチラリと視線を行雄の方に向けた。 行雄の心をうかがうような、あるいは彼をからかうような、その甘い視線が行雄の視線と合った瞬間、彼は目眩(めまい)に襲われた。

 それでも行雄は、彼女の甘い柔らかな視線を放したくなかった。 次の瞬間、敦子はまた、その潤んだ瞳の矢を床に投げやっていた。 しかし、行雄の心はその時、敦子の甘い愛の視線に射抜かれていたのだ。

「俺は彼女を愛している。彼女が好きだ!」 行雄は心の中で叫んだ。 また敦子が自分を見つめたら、俺はどうなってしまうのだろう。 再び彼女の視線が・・・そう思うと、行雄の心は甘い不安と胸苦しさで震えた。

 耐えられない心の重圧に、彼は目のやり場がなくなった。 彼のうつろな視線が薄暗い部屋の中をさまよう。 そして再び、行雄が敦子を見やると、彼女は目を閉じているようであった。

 行雄はもう部屋から逃げ出したい気持に駆られたが、彼はまるで金縛りにあったように、椅子から立ち上がることができなかった。 沈黙が続く・・・もう耐えられない。 ああ、彼女の足元に身を投げ出し、その足に接吻すればいいのだ・・・しかし、行雄は石像になったように、身動きが取れなかった。

 恐ろしいほどの静けさが部屋の中を支配し、それとは逆に、行雄の心臓は先程から破裂せんばかりに、激しく動悸を打っていた。 ああ、俺はどうすればいいのだ、一体俺はどうなるんだ・・・行雄は喘ぎ、息も絶え絶えになった。

 その時。 ドアをノックするのとほぼ同時に、敦子の母の敏子が部屋に入ってきた。 

「まあ、二人ともぼんやりしたままで、何をしてるの。 敦子はまったく気の利かない子ね。ぼーとしていないで、早く夕飯の手伝いでもして、行雄さんに食事をしてもらわなくては駄目じゃないの。 アメリカへ行くことになってから、まったく気が利かないんだから。 行雄さん、何もありませんが食事をしていって下さいね。 さあさあ敦子、早く」

 そう言うと、敏子は気ぜわしく敦子を立たせ、行雄にもついてくるよう促して、階下の食堂の方へ戻っていった。 行雄は救われる思いがした。あのまま二人で部屋の中で過ごしていたら、一体どうなったことだろう。 それから、敦子の家族と行雄は夕食を共にした。

 行雄の父の村上国義は、敦子の父の森戸徹三にとって、同じ共栄銀行に長く勤務した先輩に当たる。 国義は今はそこを退き、共栄銀行が大株主になっている東和精糖株式会社の役員に転出していた。

 十年ほど前、国義が共栄銀行の名古屋支店長だった頃、徹三はその下で働いていたが、社宅住まいの同学年の行雄と敦子は、父親同士の関係もあって小学生時代幼な友達であった。 約二年の間、少年と少女はランドセルを背負って、毎日同じ小学校へ一緒に通っていた。

 ユキオちゃん、アッコちゃんとお互いに呼び合った仲で、敦子の母の敏子はその頃、行雄のことをとても可愛がってくれた。 学校から帰ると、行雄は数軒ほど離れた敦子の家によく遊びに行った。 敦子には一歳年下の徹郎と、その頃生まれたばかりの信二という二人の弟がいたが、行雄はもっぱら敦子と徹郎の三人で遊んだ。

 森戸の家で夕飯を共にする時、徹三が「ユキ坊は、大きくなったら何になりたいの」と聞いてくると、行雄はよくこう答えたものだ。「僕は野球選手になるよ。 川上や大下のような強打者になるんだ。ホームランを何本でも打つよ」

 そうすると、徹三は笑いながら「ほう、ユキ坊は大したものだ。 頑張って強打者になれよ」と言って、行雄の頭をトントンと軽くたたいてくれた。 すると翌日には、敏子が「ユキオちゃん、これあげるわよ」と言って、軟式の野球ボールを行雄に買ってきてくれたりした。

 

 こうした少年時代の思い出が行雄の脳裏をかすめると、彼は敦子の家族にたまらない親しみを覚えるのだった。 いま、敏子と敦子、それにもう小学校五年生になった信二と夕食を共にしていると、行雄は赤の他人の家に来ているような感じがしなかった。

 つい半年ほど前、行雄がいる埼玉県・浦和市(現在のさいたま市)の隣の与野市(これも現在、さいたま市)に、森戸一家が滋賀県の大津から引っ越してきた。 徹三が共栄銀行大津支店から、浦和にある埼玉第一支店長に栄転して移ってきたのだ。

 敦子の家は、行雄の家から自転車で三十分ほどの所にあった。 彼は敦子に会いたいために、時たま森戸家を訪れるようになっていた。 今日は徹三が会社の仕事で不在、また徹郎は友人と西洋絵画展を見に行っていたのでいなかった。

「敦子はアメリカ行きが決まったとたん、気が抜けたようになって、少しも家の手伝いなどしなくなったんですよ。 甘ったれているのかしら・・・まるで幼稚園児に逆戻りしたみたい。行雄さん、少しハッパをかけて下さいな」 敏子がいつもの快活な口調で話しかけてくる。

「ええ、でもあと一ヵ月もしたら、この家を離れて一年間留学するんですから、敦子ちゃんも寂しい気持になってきたんじゃないですか」

「そうね、あと一ヵ月ね。 向うへ行ったら英語ばかりで、始めは友達もいないし、洋食ばかり食べるんじゃ、考えるだけでもやるせない気持になってしまうわね。 去年留学した女の子で、日本のことを思い出しては、部屋に閉じこもって泣いてばかりいた子がいたんですって。

 まあ、そんな子は珍しいでしょうし、敦子は案外、気のしっかりした所があるから大丈夫とは思うんですけどね。 でも行雄さん、あなたも時々手紙を書いて、敦子を励ましてやって下さいね。 そのうち、この子も向うの生活に慣れてくるでしょうけど。 敦子、一年の辛抱よ。しっかりおやりなさいよ」

 敏子にそう言われて、それまで黙り込んでいた敦子が一言だけ言った。 「私は大丈夫よ」素っ気ない答え方だった。 「そう、大丈夫ね。あんたは結構しっかりしているし、冷たい所があるんだから。 さあさあ、行雄さん、もっと召し上がって下さい。このお肉おいしいでしょ」 敏子がさかんに行雄に食事を勧めた。

 敦子に冷たい所があるのかしら、と行雄はいぶかった。 そんなことはない。彼女は優しいし、この半年ほど付き合っている間、彼女は行雄にいろいろ助言や忠告をしてくれたではないか。

 同じ地域に住むとはいえ、行雄は東京の早稲田大学付属高等学院に通学しているのに対し、敦子は半年前に与野市に引っ越してきた際、編入試験で埼玉県立H高校に入学していた。 二人が会って話せるといっても、たまの日曜日に、行雄が敦子の家に行った時ぐらいである。

 それでも敦子と会っている時、行雄は自分の考えや学校のこと、それに悩みごとなどを素直に話すと、彼女はいつも親切に答えてくれた。 行雄が日教組の勤務評定反対闘争などの社会問題に関心を持って、高校生にしては早過ぎるかもしれないが、学生運動の枠の中で行動してみたいと打ち明けたりすると、敦子は、そんな行雄の短絡的な性向をよく戒めた。

「行雄ちゃん。あなたは社会の仕組みや、複雑な関係をまだ十分に知っていないのじゃないかしら。 あなたは行動力があり、何事にも真剣に取り組む人だと思うわ。 でも、私達くらいの高校生で、そうした教育問題や日教組と文部省の対立関係など、よく理解できるのかしら。

 そうした問題は大人の人達がよく考え、議論して解決することだと思うの。 私達には他に学び、よく勉強することが沢山あると思うわ。 あなたの好きな歴史や文学で、今もっと勉強することが沢山あると思うの。 こう言っては生意気なようだけど、そうした勉強を、今もっともっとすることが大切だと思うわ」

 敦子にそう言われると、何かの行動にしゃにむに突進したいという行雄の気持と情熱は、やんわりと彼女の懐に包み込まれて、治まってしまうようになるのだ。

「ふん、そういうことかな。 アッコちゃんは落ち着いたもんだね。まあ、もう少し考えてみるよ。 じゃ、『エリーゼのために』を弾いてよ」「わたし、まだ下手なんだけど・・・」「いいから弾いてよ」

 行雄にせがまれて、敦子はやむなく、ベートーヴェンの「エリーゼのために」をピアノで弾く羽目になった。 敦子のピアノは上手とは言えない。途中でつっかえたりしながら、なんとか弾き終えた。

「それじゃ、もう一つ。今度は『乙女の祈り』がいいな。 ね、これで終わりだから、弾いてよ」 駄々っ子のように行雄が催促するので、敦子は渋々またピアノを弾き出す。 下手でも真剣にピアノを弾く敦子を眺めているのが、行雄には楽しい一時なのだ。

 つっかえつっかえ、バダジェスカの「乙女の祈り」を弾き終えると、「高校生になってからピアノを習っても、上手くなるわけはないわ」と、敦子はつまらなそうに愚痴をこぼすのだった。

「いや、いいんだ。アッコちゃんのピアノが聴けただけでもいいんだ。 それじゃ、僕帰るよ」 そう言って、行雄は敦子の家を離れていった。 そうしたたわいのない二人の交流が、この半年近く続いてきたのだ。

 

 ところが先月、敦子がAFSの奨学生試験に合格してアメリカ行きが決まってから、行雄の彼女に対する見方が変ってきた。 彼女は大津のZ高校にいた時も、編入試験で埼玉県立H高校に移ってからも、学業成績はいつも学年でトップクラスだった。

 もともと頭が良いのと、誰にも負けたくないという勝気な性格が、敦子をトップの成績にさせていたのだろう。 担任の教師が彼女の抜群の成績に目をつけ、AFSの試験を受けてみないかと勧めた。 敦子はアメリカに行ってみたい気持もあったから、その試験を受けたのだ。

 何百倍という競争率の中で、敦子はものの見事に試験に合格した。(この時代に、アメリカへ高校生が留学できるというのは、夢のような話しであった。) 行雄は高等学院の同期生の何人かが、AFSの試験を受けてことごとく落第したのを知っていたので、敦子が合格したことを聞いた時は、少なからず驚いた。

 アッコちゃんは出来るんだ、と思った。 敦子への親愛感に、尊敬の念が入ってきた。「アッコちゃんはすごい。感心したよ」 行雄が率直に尊敬の気持を敦子に明かすと、彼女はやや面喰らったような顔付きをしたが、満更でもない様子だった。

 それに比べて自分はなんなのだ、と行雄は思う。 文学や歴史、社会問題にばかり心を奪われて、学校の成績は少しも良くならない。 いや良くなるどころか、高校二年の終り頃から成績は落ちていくばかりだ。

 それは彼自身、学校の勉強そのものになんの意味があるのかと、疑問を深めてきたことにもよる。 在日米軍基地への反対闘争、日教組の勤務評定反対闘争など、政治・社会問題に行雄は心を惹かれていたのだ。

 また、「カラマーゾフの兄弟」や「戦争と平和」など、ロシア文学の雄大で深遠な魅力に比べると、学校の授業自体が実に平凡でつまらなく、馬鹿々々しく見えてきたこともあったのだ。

 それに、高等学院の中に一体「早稲田精神」というものがあるのだろうか、と疑うようになった。そんなものは、まったくないのではないか。 自分は小学生の頃から「早稲田精神」に憧れて、高等学院に入ってきたのだ。 ところが、学院の雰囲気というのは、受験勉強の苦労もなしに早稲田大学へ進学できるという、安易で無気力なものだった。

 適当に勉強していれば、大学の好きな学部に進むことができる。だから適当に勉強し、適当にクラブ活動をしているだけだ。 なにか“ぬるま湯”につかっている感じなのだ。「早稲田精神」とは何かを、生徒に真面目に教えてくれる教師もいない。

 教師がいつも言うことといえば、次のようなものだ。 「君達は学部に進学したら、受験を勝ち抜いて入ってくる一般の学生に負けないように、今から学力を身に付けたまえ。 大体、学院出身者は出来が悪いという評判だらけだ。 君達もけっこう難しい入試を通って学院に入ってきたのだから、勉強すれば一般の学生には負けないはずだ」

 学院から大学へ進学した先輩達が、相当学力が低かったのだろう。 だから大学側が、生徒にもっとハッパをかけてくれと学院に指示してきたに違いない。 しかし、教師が「勉強、勉強」と言っているだけでは、「早稲田精神」などというものは、どこかへ消えてしまったように行雄は受けとめた。

 一体、どこに「早稲田精神」があるのだろう。 あの大隈重信が薩摩・長州の藩閥政治に対抗して、自由で在野精神にあふれる人材を育成しようとした、建学の精神はどこに消えてしまったのか。 この学院にあるのは、“エスカレーター”に乗って無事に学部へ進学しようという、無気力で安易な眠ったような雰囲気だけではないか。

 二年生になった頃から、行雄はこうした学院の空気に強く反発するようになった。 二年生の終り頃、行雄は意を決して、家を出て東北地方でアルバイトをしながら、「早稲田精神」とは何かを説いて回りたいという衝動に駆られた。

 彼はリュックサックに二、三冊の書物と下着などを入れて、家を出る準備をした。「早稲田精神」とは何か、それを知っているわけではなかった。 自由で反逆の精神なのか、それとも民族主義の精神なのか、あるいは社会革命の精神なのか分からなかった。

 ただ東北地方を放浪することにより、自分流の「早稲田精神」を身に付けて、それを叫んで回りたかったのだ。 ところが、出発予定日の直前になって、置き手紙を書いている所を母の久乃(ひさの)に見つかってしまった。

 久乃は泣きながら、必死になって行雄をとどめた。 行雄も母の涙に心が動揺し、家出だけは諦めざるをえなかった。 しかし、それによって、高校生活に対する行雄の空しい気持はますます内向し、募るばかりとなった。 

 母には心配をかけたくない。しかし、俺はどうすればいいんだ。 俺はこのまま大したこともせず、日一日と空しく時を過ごしていくのだろうか。 悶々たる気持でどうしていいのか分からないままに、行雄は今まで以上に文学や思想の中に救いを求めていくようになった。

 丁度そうした頃、敦子の家族が与野市に移ってきたのである。 懐かしさも手伝って、行雄は自転車のペダルを踏んで敦子の家を訪れるようになった。行雄は彼女になんでも打ち明け、悩みや不安を聞いて欲しいと思うようになっていた。

 そのうち、ロマン・ロランの「ジャン・ クリストフ」、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」などを持って敦子に会いに行き、文学の素晴らしい魅力について話し込むようになった。 敦子も文学が好きで、二人で気に入った箇所や文章を朗読しあったりしていると、行雄は広い草原を心ゆくまで歩いているような解放感と、安らぎを覚えるのだった。

 こうした二人の交際を、行雄の母も敦子の母も温かく見守っているようであった。 久乃は、息子が放浪の旅に出なくなっただけでも安心していたし、敏子は、娘が行雄と楽しそうに付き合っているのを喜んでいたようだ。

  

 行雄は、もともと聡明で頭の良い敦子が好きだったが、彼女がAFSの試験に合格してから、その思いに尊敬の念が入ってきたことは、先にも述べたとおりである。 それは、学校の勉強を軽視していた行雄にとって奇妙なことだが、成績が低下する一方の自分に比べて、敦子の学業の素晴らしさがあまりに際立ったからだろう。

 彼女は僕の文学や思想、歴史などへの傾倒を理解しながら、学業をおろそかにせずAFSの試験にも受かってしまった。 彼女はなんと心の幅が広い、優秀な女の子なのだろう。彼女は素晴らしい、素敵だという思いが募ってきた。

 行雄がそうした思いを正直に明かすと、敦子は「でも、行雄ちゃんは文学や思想では、私なんか及びもつかないほどよく知っているし、社会問題にも関心があるし、私のやっていないフランス語もよく出来るでしょ」と言って、行雄を慰めてくれた。

 そういう謙虚な態度が、行雄の敦子への思慕を一段と増幅させた。 彼女を敬う彼の気持は、まるで美術家がビーナスに憧れるように、もう崇拝の念にまで高まってしまったようだ。

 敏子が賑やかに座を取り仕切っていた夕食が終わった。 行雄は敦子らに別れを告げると、森戸家を後にした。信二が手を振りながら「お兄ちゃん、また来てね」と言っているのを背にして、行雄は自転車に乗り家路についた。

 夜空の星々が恐ろしいまでに光を強めている。 行雄はできるだけゆっくりと家に帰りたくなった。どうでもいい、回り道して帰ろう。 今夜はまた、なんて素晴らしい星空なんだろう。こんなに光り輝く星空を今までに見たことがあるだろうか・・・

 それに、十五夜に近い月が、星の光に負けるものかと天空の一角を占めている。 敦子の部屋に二人でいた時の重圧感を行雄は思い出した。 それを思い出すと、彼は身の震えるような快感に襲われた。

 あの耐え難い重圧感は何だったのだろうか。 あれは敦子への愛と讃美の念で、自分の胸が潰されるような感じではなかったのか。 夜空を見上げているうちに道端の電柱にぶつかりそうになり、行雄はあわてて自転車のハンドルをきった。

 まるで酔っ払いだな、と行雄は自分が可笑しかった。 ああ、僕は敦子をこよなく愛しているようだ。この思いは、この月、この星々でなければ分かってくれないだろう。 敦子の白い顔、二の腕が幻のように目の前に浮かんでくる。行雄は彼女の幻影を放すまいと目を閉じて、自転車を停めた。

 通りすがりの子供連れの婦人が、いぶかしそうな目つきで行雄を見やった。 かまうものか、僕は敦子を愛しているんだ。こよなく愛しているのだ。 ああ、夜空よ星よ月よ、僕はどれほど君達に感謝したらいいのだ。

 神よ、僕をこの地上に生かしてくれる神よ、僕はどれほどあなたに感謝したらいいのだ。 願わくば、道行く人達がいなければ願わくば、僕はこの大地にひれ伏して口づけしたい。 生きよう、生きるんだ。敦子のために生きるんだ! 行雄は心の中でそう叫んだ。


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