八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

〝阿Q〟の時代-秋季講座のお知らせ

2020-09-21 09:54:43 | 〝哲学〟茶論
 先の首相が〝病〟ということで、仰々しく車列をなして慶應義塾大学病院を行き来し、そして急きょ辞任する。するといつの間に保守政党のなかをうまく根回ししていた黒子と言うべき官房長官が、その首相の椅子を襲う。
 あたかも下克上のような舞台回しに面白がっていたのが、夏の猛烈な暑さがようやくおさまってきたここ数日のありさまでした。
 それにしてもペーパーメディアの世論調査だと、同情なのか、人びとが〝いい人〟ぶっているのか。対コロナ政策では失策続き、それにあれほど「森・加計・サクラ・河井・IR疑獄」で、支持率を落としていた先の首相が辞任するとしたとたん、支持率が〝バカ上がり〟する。いっぽうで新首相となった先の官房長官の人気も急上昇中・・・。
 先の官房長官とは「森・加計・サクラ・河井・IR」問題で、まさに木で鼻を括るような対応をした御仁なのに、それはなかった如くに、あたかも〝新しい顔〟でマントでも着てさわやかに出現した〝ヒーロー〟のように見える。
 それはまるで魯迅が描いた『阿Q正伝』の阿Qが、あちこちの権力に乗じて世渡りするような、そんなひどい冗談の主人公のように、人びとが踊っている。そんなふうにしか思えてなりません。
 右からの風が強いと思えば、ふらふらと右に依っていき、権力のあるものが左だというと、我先に左に駆け出す。そして、それを恥じたり、後ろめたく思ったり、深く考えたりしない。過ぎたことはいいじゃないか。きまったならきまったで、いいことなんだ。
 過去をふりかえったりしない。愚かさはもみ消して忘れる。世の中の空気は、どんどん澱んでいっても気にならない。

 そうしたなかで、最近ふと思ったのは、ネット社会になって、電車の中で本や新聞を読んでいる人びとが急速に消えていったように思えることです。たまに文庫本に目を落としている人がいると、何を読んでいるのかなと、興味がそそられるとともに、なにかとっても偉いことをしているようにも見えたりする。
 かつて電車の中で新聞をおおきく拡げている人は、迷惑この上なかったのですが、最近は戻りつつあるものの、「コロナ禍」で電車が空いているなか、スマホの限られた画面ではなく、ゆったりと新聞を見ている人などを見つけると、ほほうと頷いてしまったりする。
 以前懇意にしていた新聞人がよく言っていたのは、新聞は紙面でとらえるものだということでした。紙面にはいろいろ異なった記事が、いちおうの作為はあるものの、無秩序にならんでいるのと同じで、読み手は、そのなかでこれと思った記事を読み出すとともに、その近くにある記事も同時に目に入ってしまう。記事を選択して読むというより、いろんな記事をその一日の関連として読んでしまう。そこにペーパーメディアの特質があると・・・。
 しかし、ネットメディアは、ヘッドラインのなかから、自分が興味のあるものを検索して読む。そのほかの情報を共時的に目に入れることは少ない。すなわち自分好みの情報だけ入れて、入れたくない情報、嫌いな政治家や作家、芸能人の情報はカットできる。
 自分にとって興味があるという事は、自分にとって都合のいいこと、耳障りのいいこと、面白がって見れる情報であり、それ以外は自身には関係のないことになって疎外されていく。

 たしかに21世紀になって、わたしのまわりにいる若者や大人たちは、自分にとって興味の湧かないこと、考えさせられたりするのが重く感じる情報、いわば苦手なことや嫌いなことを見ないようにするようになってきたように見受けられます。
 個別の好ましい情報だけをいれてくることで、多くの〝プチオタク〟的な、具体的いえば、とある芸能人の情報にはめちゃめちゃ詳しい、真偽のほどはともかく、やたらに中国の陰謀情報に精通している。古い言葉を使えば、政治学者の丸山眞男の『日本の思想』にあった〝たこつぼ化〟した情報ばかりに人びとが惑溺している。
 その文脈で考えると、いまどきの人びとが嫌いなことには眼を向けない、自己の思慮のおよばない事柄を嫌悪するというのは、ネットの社会の現出がおおきく関わっているからかもしれません。
 右を向くのが大多数であるなら右を向き、流行っているから踊ってみせる。だからといって、失敗したり愚かだったこと、いわばマイナス面に後ろめたさや後悔を生まない。いつも勢いのあるほう、力のあるほう、みんなが向く方向に吸い寄せられて、そうじゃないと不安で怖くてならない。
 まるで〝阿Q社会〟とでもいって世の中が、いまわたしたちが見ている日本社会じゃないか。
 日に日に日が短くなっていく9月の夕空をふと窓から眺めながら、そんな重苦しさが知らないうちにわたしの胸裡を占拠してしまっている。

 とはいうものの、そこで憂鬱になってもはじまらないので、秋からの講座のお知らせをいたします。
 新人会・宏究学舎講座2020年秋学季は、下記のフライヤーにあります通り、10月18日(日曜)午前10時から4講にわたって開講されます。
 今回は、〝時代に杭を打つ!〟PartⅣとして、「昭和」から「平成」の世紀末にかけて日本社会に〝杭を打った!〟思想家や文学・映画作家を取り上げて、21世紀のいまのありようを検証しようという試みです。
 そのため、1960から70年代に若者に大きな影響を与えた寺山修司の今日的な意味をスプリングボードにし、『日本の夜と霧』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などヌーヴェルバーグの映画作家として問題性をつねに発していた大島渚。弱肉強食、自己責任、階層分化の拡大を当たり前とする新自由主義経済に敢然と立ち向かった世界的経済学者である宇沢弘文。そして南九州に土着し、歴史のなかに重く沈殿していく真実を、水俣病という現代性からあたかも巫女が語る言霊のように紡いでいった石牟礼道子の4人に導かれて、いまを考えてみようというわけです。
 詳しくは、下記にフライヤーをあげておきますが、見えにくいかもしれませんので、講座お申し込みは、
<唐澤俊介 E-mail:syunsuke797@gmail.com>か
<八柏龍紀 E-mail:yagashiwa@hotmail.com>にご連絡ください。
 全4講で、一講座でも受講可能です。会場では、前回同様、いろんな方々との〝対話〟を盛り込みながら、お話しを進めていきます。ぜひご参加ください。会場はいつものように池袋南口のとしま産業プラザ(池ビズ)です。

 なお、札幌での現代史講座は、すこし早く10月14日(水曜19時~)を初講日として、全5講(隔週毎)に開催します。こちらの方は、主催者側からの日程確認と会場の確定ができましたら、あらためて詳細を掲載します。
 現在のところ10月は14日と28日が開講予定となっております。
 テーマは日本現代史です。それぞれのテーマは以下の通りです。
第1講:慰霊と鎮魂~空から降ってきた「憲法」
第2講:「植民地」朝鮮と「日本人」の戦後責任
      ~〝戦後平和〟の真実
第3講:60年安保の残像〝二人の美智子〟
      ~「無国家時代」の日本人!
第4講:〝欲望列島〟日本 
      ~ジュリアナ東京からバブルの崩壊へ。
第5講:CIAと日本、USAの手のひらの日本
     ~〝冷戦〟は続く!
 札幌市とその近郊の方々のご参加をお持ちしております。
 近日中にまたblogを更新し、講座関係の情報をお知らせします。よろしくお願いいたします。 
    

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『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第二部>[再録]

2020-09-11 20:28:30 | 〝哲学〟茶論
<お知らせ> 前回の[第一部]とこの[第二部]は、過去に京都商工会議所主催「京都講座」での講演記録をre-writeしたものです。 
  流謫と流離
                  
 大宰府にむかう途中、菅原道真は播磨国の明石駅で、道真の流謫の事実に驚いて深く嘆く駅長をみて、つぎの詩を詠んだという。
  駅長莫驚時変改
    駅長驚くこと莫かれ
     時の変り改まること 
  一栄一落是春秋
          一たびは栄え一たびは落つる
     これ春秋
 「時変」と「栄枯盛衰」の習いは、これこそ「春秋」である。つまり、時代における栄枯盛衰は、これこそが年月の奥義であるということである。その言葉に、菅原道真のこのときのすべての感慨が簡潔に詰まっている。
 この詩文は院政期の歴史物である『大鏡』に載っている。しかし、道真が死の直前に盟友紀長谷雄に贈ったものとされる『菅家後集』には、これは僧侶の書き記したもので真偽ははっきりしないとしている。
『源氏物語』にもこの詩は引用されていて、そこでは「くし=口詩」いわば口頭で詠んだものをだれかが書き取ったと記されている。
 しかし、この漢詩はいかにも道真らしい、毅然とした無常感が現れたもののように読むことができる。そしてさらに道真は、配流の苦しみをつぎのような言葉で綴る。
  嘔吐胸猶逆
    嘔吐して胸もなほし逆ひぬ
  虚労脚且萎
    虚労して脚も且萎えにたり
  肥膚争刻鏤
    肥膚争(いか)でか刻(き)り
    鏤(ちりば)めむ
  精魄幾磨研 
     精魄幾ばくか磨研する
 おのれの肉体に刻み込まれた痛苦と疲弊。彫琢された言葉に内在する忿怒と憤り。しかし、それでも道真は主上(ミカド)への思いを重ねて詠ずる。
  去年今夜侍清涼
   去(い)にし年の今夜清涼に侍りき
  秋思詩篇独断腸 
   秋の思ひの詩篇独り
    腸(はらわた)を断つ
  恩賜御衣今在此
   恩賜の御衣は今此に在り
  捧持毎日拝餘香
   捧げ持ちて日毎に餘香を拝す
 清涼殿にあって、右大臣兼右大将として醍醐天皇に近侍していた自分。それから流謫へと転じたことの悲しみ。心を切り刻む痛切さと哀切さ。
 あわせて「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 此秋独作我身秋」という詩句。意訳するなら、我が無実を訴えたいというはげしい願望がある。風のすさまじい鋭さはまるで刀で突き刺すようであるが、それでも我が愁いを破ってはくれない。月の照らすのを見ても風のすさぶのを聞いても、我には身の毛がよだつように凄まじく感じられる。天下の秋の愁いは、我が身にことごとく集中して、我れのみ愁いが限りなく深い。
 道真には、政争で放逐される以上に、無実であること、自らの潔白がまったく無視される現実に狂おしいばかりの怒りと絶望があった。
 道真が左遷される際に詠んだといわれる和歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はよく知られるが、こうした抒情的な情緒とは異質な、いわば漢詩文がもつ「現実との裂け目」、それらが肉体の深い根の底から絞り出されるように詠じられている。
 それとともに讃岐国司のとき詠んだ『寒早十首』のほか、配流後の道真には、都から遠く離れた文化とはほど遠い人びとのくらす姿をとらえている漢詩がいくつもある。
 塩を焼く苦労。その一方で不正の儲けをする輩。軽々しく人を殺傷し、群盗が肩を並べて横行している状況。漢詩という表現方法で道真はそうした世の矛盾を抉出する。
 しかも、そんななか凡俗にも官吏はそれらを無視し、無聊に釣り糸を垂れているばかりなのである。道真は、漢詩の対句・対比という表現でそうした「現実」の矛盾・苛烈さを浮き彫りにする。

 道真が流謫地大宰府で没したのは、延喜三年(903年)旧暦二月二十五日であった。享年五十九歳。梅のほころぶ季節と言いたいところだが、じっさいは現在の三月下旬であるため、桜咲く季節であった。先にも触れたが、貴人の多くはその死を憤死と受け取った。そしてそれが猛威を振るう〝祟り〟への恐れとなった。

 なぜ『古今和歌集』は編まれたのか?

 そこで気になるのは、道真の死とその直後に勅撰された『古今和歌集』の関係である。左大臣藤原時平は、道真没の知らせを受けると、ひそかに紀貫之らを呼び集め和歌集の編纂事業をはじめたと思われる。紀貫之の私家集である『新撰和歌』などによると、和歌の詞書に「延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る」とある。
 『古今和歌集』は、これによると延喜五年(905年)四月六日に完成したように思われるのだが、となると編集の準備は、少なくともその一年以上前にはじめられ、選者を集めて作業に取りかかっている必要がある。
 するとこの『古今和歌集』は、道真没後のかなり早い段階で企画されていたのはまちがいがない。プロデュースしたのは藤原時平とされているが、ではなぜこの時期に「和歌集」の編纂がなされたのか。文章博士である道真と和歌集の勅撰。その間に何があるのか。

 『寒早十首』に何が託されたのか?
 
 平安時代に入って日本の漢詩文にもっとも大きな影響を与えたのは、八世紀の盛唐時代に活躍した杜甫や李白ではなく、唐の衰退期に居合わせた白居易(白楽天)だったという。
 白居易は九世紀半ばまでに活躍した詩人だが、その『白氏文集』は日本の貴族社会の中で広く読まれ、鎌倉初期の歌人藤原定家の「紅旗征戎非吾事」という文言も『白氏文集』の一節から切り取ったものだった。それはともかく、時代は違うが、白居易が菅原道真に与えた影響もまた大きかった。
 白居易の漢詩は、士大夫の「左遷」をテーマのひとつとし、それとともに社会批評とも言うべき「諷諭詩」というスタイルが基本となっている。
 白居易の経歴を軽くなぞると、現在の河南省に生まれた白居易は、子どもの頃から頭脳明晰であり五歳のころから詩を作ることができ、九歳で声律を覚えたとされる。彼の家系は地方官として生涯を送る地元の名望家といったものであったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれ、彼は二十九歳で科挙の進士科に合格し、地方官の上席に累進し、その後は翰林学士、左拾遺などの高級官僚の仲間入りを果たしていく。しかし、四十四歳にして社会批判や政治批判が咎められ、官吏としての越権行為があったとして現在の江西省の司馬に左遷される。その後、再び中央での活躍を嘱望されるが、それを倦み、地方官を願い出て杭州・蘇州の刺史となり、最後は刑部尚書の官を七十一歳まで務めた。
 つまり白居易の生き方には、けっして権勢に媚びない。それが故の「左遷」があり、地方官としての生き方があり、それを発条(バネ)として天下国家に対しての「諷諭」があった。気高い倫理性と『長恨歌』に代表される滅びゆくものへの同情と哀惜、それを歴史的な叙事詩として雄渾に詠いあげる。それが日本の貴族たちに愛唱されてきた理由である。そしてしばしば道真はこの白居易と比較されうる詩人だとされていた。
 さきに触れた道真の讃岐国司時代の漢詩『寒早十首』をあげてみる。

 何人寒気早 寒早走還人
  何れの人にか 寒気早き寒は早し 
   走り還る人 案戸無新口 尋名占舊身
  戸(へ)を案じても 新口無し 
  名を尋ねては舊身(そうしん)を占ふ
 地毛郷土瘠 天骨去来貧
  地毛(ちぼう)郷土瘠せたり
     天骨去来貧し
 不以慈悲繋 浮逃定可頻
  慈悲を以て繋がざれば
     浮逃定めて頻りならむ
 何人寒気早 寒早浪来人 
  何れの人にか寒気早き
  寒は早し浪(うか)れ来(きた)れる人
   欲避逋租客 還為招責身
  客は 還りて責めを招く身となる
     避けまく欲(ほ)りして租を逋るる
   鹿裘三尺弊 蝸舎一間貧
     鹿の裘 三尺の弊(やぶ)れ
     蝸(かたつむり)の舎(いえ)
        一間の貧しさ
  負子兼提婦 行々乞與頻     
      子を負い 兼ねて婦を提(ひさ)ぐ
      行く行く乞與(きよ)頻りなり
    ・・・略・・・ 
  何人寒気早 寒早夙孤人
   何れの人にか 寒気早き寒は早し
      夙(つと)に孤(みなしご)なる人
  父母空聞耳 調庸未免身
   父母は空しく耳にのみ聞く
   調庸は身を免れず
 葛衣冬服薄 蔬食日資貧
  葛衣(かつい) 冬の服薄し
     蔬食 日の資(たす)け貧し
 毎被風霜苦 思親夜夢頻 
     風霜の苦しびを被る毎に
  親を思ひて夜の夢頻りなり
  (「寒早十首」『菅家文集』)
 
 十分な食糧もなく骨を削るように生き、凍えるような寒さと過酷な租税に苦しめられている貧者たち。その状況を克明に描写するなかで立ちのぼる抒情。まさに絶望や悲惨という叙事を悲痛に歌い上げる詩魂。詩は根本において「述志」であるとはある詩人の言葉だが、菅原道真の漢詩には寒さやひもじさからの黙しがたい訴え、救済への叫び、そして祈り、そうした情感があたかも出口をもとめてせめぎ合うように描かれている。
 もともと形象文字に源をもつ漢字には、文字の一つ一つにつねに現実がつきまとう。だから漢詩には、現実を内包し告発する叙事詩としての性質が生来的に内在していると言える。では、それにたいして和歌はどうなのか?
        
      <古今和歌集>

 『古今和歌集』について
   ~和歌に内在する「気配」とは?

 短詩のなかに恋情や抒情を含ませる。匂い立つ気配を表現する。和歌の特徴については、これまで多くの解説がなされてきた。それをここで解説してみてもあまり意味がない。ただ和歌という短詩系の文芸における「気配」についてだけは触れておかねばならない。
 『古今和歌集』の選者紀貫之を歌壇に推薦したのは、紀貫之よりも四十歳ほど年長だった「三十六歌仙」の一人で醍醐天皇時代に従四位上であった右兵衛督藤原敏行だとされている。その敏行の歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」という秀歌がある。目には見えない。であるが気配は濃厚である。そもそも情緒や抒情というのは、目には見えないものである。それを言葉で感じ、映像化する。
 『古今集仮名序』にも、
 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。・・・中略・・・さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎ、たのしみ心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。
 とあるように、歌に現れるのは〝実景〟ではなく、その気配である。そしてその気配は、目前にあるものではない。すでにこの世から喪われたもの、存在する事は認知されるが見た事のないもの。
 「美しいもの見たければ目をつぶれ」といった文学者がいたが、むしろじっさいの景物ではなく、情緒のなかにある景物。より踏み込んでいけば、死出の世界を思いおこすことにもつながる。貫之の歌を詠む(『古今和歌集』)。
 桜花散りぬる風のなごりには
   水無き空に波ぞたちける
 
桜花疾(と)く散りぬとも思ほえず
   人の心ぞ風に吹きあへぬ
 世の中はかくこそありけれ吹く風の
   目にも見ぬ人も恋しかりけり

 ここには投影の構図ともいうべき美意識がある。自然界の現象と人生一般の命題を節合させ、目の前の景物から連想を展開して見えない世界への〝幻想〟を詠うのである。
 それと和歌集が編まれた背景には、死者への鎮魂があると考えておかねばならぬ。和歌を詠むこと、みんなで唱和することは、黄泉の世界に住む人びとへの現世からの交信であった。
 さらに死者への鎮魂は、同時に死者に縁のある多くの人びとが「哀情」を重ね合わすことのできる交流板のようなものであった。集団で唱和することによって、より鎮魂の思いを深めることができる。ある意味それは仏教の「音声」に通じるものでもある。

 大伴家持の私家版とされる『万葉集』は、戦火に倒れた多くの兵士の鎮魂集として編まれたとする説がある。そもそも大伴氏は軍事氏族なのである。
多くの防人の歌が集められ、たとえそれが、さきの戦争の際の「特攻兵士」のように、死を覚悟させる意味で一カ所に集められて書かされたものであっても、白村江の戦いや壬申の乱で、どうしても避けられぬ死を前にした兵士の、その「死」そのものを悼むものとして編まれたという想像は、それほど間違ったものではない。
 『新古今和歌集』も、世に源平の争いとして知られる治承・寿永の大乱で多くの戦死者を出したことへの鎮魂。南北朝期の南朝の宗良親王が編んだ『新葉和歌集』も、南朝の正統性を誇示するといった性格はあるというものの、多くの悲歌が集められ、これも南北朝期に倒れた武士や兵士らの鎮魂を無視することは出来ない。
 その意味で慌ただしく編纂された『古今和歌集』も、その背景にあるものとして、菅原道真の死を無縁とはしがたい。もちろん『古今和歌集』の部立ては、春夏秋冬、賀、離別、羇旅、物名(もののな)、恋、哀傷、雑などになっていて、花鳥絵巻としての華やぎがあるのだが、それすらも、この時期、まだ名誉も回復されていない菅原道真の和歌が二首採られている意味を考えるなら、道真の鎮魂を想像してもあながち外れたものではないだろう。
  秋風の吹きあげに立てる白菊は
    花かあらぬか波の寄するか 
 詞書きには、道真と素性法師のそれぞれ一首、紀友則(病にあった友則は、延喜五年『古今和歌集』が世に送り出された秋に没している)の二首を括る言葉として、「おなじ御時(宇多天皇のころ)せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌」と述べられている。そしてもう一首。
 このたびは幣もとりあへず手向山
  もみぢの錦神のまにまに
 詞書きには、「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる」とある。二首とも、宇多天皇とのかかわりの和歌である。宇多天皇と菅原道真。二首とも道真の死に手向ける意味があったと考えていい。

 結語:漢詩と和歌、
        そして〝祟り〟の発生

 そろそろ紙面が尽きた。最後に漢詩と和歌について考えてみたい。その違いはおおよそつぎのようなことになる。
 和歌には、花鳥絵巻として〝抒情〟を掻きたてる世界観がある。それは「気配」の美学であり、景物をまえにしての「小世界」に耽溺する風流韻事の世界に遊ぶ美学と言えよう。さらに唱和することで情緒的な〝親密圏〟を形成し、幻想のなかでの親和性や情緒を高め、それが鎮魂にもつながっていく。
 それに対して漢詩とは、情緒というよりは〝条理〟を説くものであろう。雰囲気を共有するというより主観的な視座を起点にする美意識である。そのなかで世相の不条理・不合理を告発し、格調高い音律と事実描写の的確さのなかでの悲痛や慟哭を表現する。また漢詩に映し出される事物や景物の多くは存在それ自体の現実性が表現され、あくまでも叙事詩的である。
 そこで菅原道真の敗北の意味するものを見ておきたい。
 道真の敗北には、彼が最も得意とする「漢詩」的合理主義があったのではないか。それは言葉を換えるなら、教養主義の敗北のようにも見える。
 道真は、つねに合理的道徳性を政治に求めた。しかしその一方で、道真を左遷し政治的に追放した側には、合理性に対する厭離が見て取れる。つまりは情の勝る「ミウチ」意識、「ウチワ」意識、物事への「忖度」が、政治の多くを占めていたのだ。
 ただし、そうした親密な意識には、一方で後ろめたさを生む要因にもなる。〝祟り〟という恐怖には、合理性が身に纏っている正しさを、非合理的なやり方で毀損した後ろめたさがあると言っていい。
 菅原道真の左遷からその死を通じて、歴史的な目で見ていくと、「平安」という時代が、中国文明の合理主義的な教養主義の正義性を喪失し、情緒的で親密的な閉域、もっと安逸な貴族社会における「ミウチ」主義や「ウチワ」意識に傾斜していった時代だった見ることができる。
 そもそも貴族政治とは、「ミカド」とその取り巻き親族らが権力と富を分かち合っていた時代であった。叙位と除目、一族内の調和と祭祀、そして荘園の分配以外、たいした政治力を必要としなかったこの時代は、地方の貧困やその現状を、無視しつづけた時代でもあった。たしかに、中央貴族や皇族の住む閉域世界では、柔和で保温が効いていて、美しい幻想に身をゆだねていればよかった。
 しかし一方で、現実に眼を向け、治世者として周囲を見渡してみると、それはあまりにも荒涼たる景色であったはずである。そうでありながら、現実を見るものは、貴族や皇族にとって破壊者であり、恐怖をもたらす者でしかない。
 しかし、いつしか恐怖は肥大する。これまでの安逸は、いつか巨大な跳ね返りになって、大きな厄災をもたらすかもしれない。安逸の世界の閉域にいればいるだけ、その怖れは募ってくる。菅原道真の怨霊への怖れは、じつにそのあたりに宿されたものであったのだろう。
 そして、それはそんなに遠くない時代に、大地震と飢饉、それに武力でのし上がってきた武士の台頭というかたちで現出した。
 
 漢詩がもたらした合理的教養主義は、日本社会に大きな影響を与えたものであったことはまちがいない。でありながら、その一方で、合理性と合理主義のもたらす正当性は、なかなか根付かなかったことも事実であるように思う。日本の歴史をたどっていくと、いつの時代もいつのまにか「気配」や「情緒」が勝り、「思想」や「精神」が厭われていった。もちろん、隠者や世捨て人の「思想」や「精神」は残ったと言えるかもしれないが・・・。
 非業の死を遂げた菅原道真の〝祟り〟とは、安逸に流れている社会への警鐘であったことはまちがいない。それとともに思うのは、いまの日本の社会にあっても、警鐘であり続けるものと考えていいのかもしれない。


          

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『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第一部>[再録]

2020-09-10 15:21:29 | 〝哲学〟茶論
菅原道真の〝祟り〟~清涼殿に神火落つ!~

   <『北野天神縁起絵巻』>     
 延長八(930年)の年は、春から夏にかけて京中で疫病がひどく流行した年であった。
 前年の大風洪水の被害は、これもまた目も当てられないくらい過酷なものであったが、この年は雨はほとんど降らず、激しい旱魃がうち続き、その被害は、田んぼが枯れるなどという程度ではなく、牛や馬がつぎつぎに痩せ衰え、人びとはその死にかかった牛馬の生き血にすら一時の渇きを満たすため群がるほど陰惨を極めていた。
 文字通りの天変地異の猛威が、ぱっくりと口を開いて人びとを不安の谷底に吸引する。
 六月二十六日午三刻(午後1時ころ)・・・俄に雷声大いに鳴り、清涼殿の坤(西南)第一柱の上に堕ち、霹雷の神火あり・・・(『日本紀略』)。
 公卿らが旱魃対策を協議していた最中、とてつもない雷火が突如とし清涼殿に落烈した。
・・・殿上に侍るの者、大納言正三位兼民部卿藤原朝臣清貫、衣焼け胸裂け夭亡す。(略)また従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼けて臥す・・・。紫宸殿に登る者、右兵衛佐美努忠包、髪焼け死亡す。紀蔭連、腹燔て悶乱す。安曇宗仁、膝焼けて臥す・・・。(前掲)
 神聖であるべき清涼殿が一挙に〝ケガレ〟の修羅場と化した。
 この突然の災厄に、もっとも畏れおののいたのは醍醐天皇その人にほかならなかった。恐怖と畏れの激しい衝撃のなかで醍醐天皇は、翌日から病の床に伏す。病はいっこうに回復する兆しはない。瘧りと震え、ミカドは日に日に衰弱していった。
 そして、霹雷三ヶ月後の九月二十二日、醍醐のミカドは、慌ただしく八歳の寛明親王に譲位(のちの朱雀天皇)するやいなか、意識混濁のまま、同二十九日に先を何者かにせかされるようにして没した。享年四十六歳。こうして世に聞こえた「延喜親政」は、あっけない幕切れを迎える。
 なぜこの惨事はおこったのか? 殿上人から地下人に至るまで、人びとはこれこそ「菅公」の〝祟り〟だと口々に噂をした。そして、そう語るつぎから、語る者の唇は青ざめていき、小刻みに体を震わせるや激しい恐怖に絡め取られた。

 菅原道真が突然に大宰権帥に左遷されたのは、昌泰四年(901年*7月に延喜改元)正月の二十五日であった。
  ・・・諸陣警固し、帝(醍醐天皇)南殿(紫宸殿)に御したまひ、右大臣従二位菅原朝臣を以て大宰権に任じ・・・又、権帥の子息(高視、景行、兼茂、淳茂)等、各々以て佐降・・・(前掲)。
 この処断はまさに異常であった。権帥とは、大宰府の長官ではなく、その職に擬する位であり、さらに従二位から従三位への降位は、いまどきの会社人事などによくある、不祥事の結果、各部署や管理職の「心得」、例をあげるなら「人事部付」といった閑職に追いやられた状態を意味する。
 では、なぜ道真は左遷されたのか? 
 道真左遷の理由について出された宣命には、「右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収り給へり。而るに止足の分を知らず、専権の心あり。佞謟(ねいてん)の情を以て前上皇(宇多上皇*このときは出家していて法皇)の御意を欺き惑はせり」とあり、そして「然るを、上皇の御情を恐れ慎まで奉行し、御情を敢て恕る(あえておもいやる)無くて、廃立を行なひ(道真女が妃となっている斉世親王のことを指すか?)、父子の志を離間し、兄弟の愛を淑破せんと欲す・・・」(『政事要略』)と述べられている。
 しかし、この宣命はなにひとつ具体的な過失については触れられてはいない。犯罪でいえば状況証拠でしかない。そもそも宣命にあるように、低い身分にあるものが出世したから、それ自体が「専権」だとする論理は、低身分の者を登用した側の責任を問っていない以上、あきらかに「言い掛かり」としか言いようがない内容である。
 後段に付け加えられた宇多上皇の〝御情〟を無視し、〝廃立〟を企てたというのも、ふつうはそのために呪いをかけるといった事実がくっつくものだが、それもない。この宣命は、忠義を尽くしてきた道真にとってとうてい受け入れがたいものだったにちがいない。
 左大臣藤原時平とその取り巻きによる陰謀。過日、歴史家がそう判断したのはおおよそ間違いではない。

〝祟り〟の猛威とは?~藤原時平と道真~

 道真左遷後、道真が擁立をはかったとされる道真女婿の斉世(ときよ)親王は、出家することになる。
 一方で、延喜三年(903年)二月に道真が流謫地大宰府で病歿すると、道真配流に荷担した藤原定国、菅根が相ついで亡くなる。さらに延喜九年四月には謀略の首謀者たる左大臣藤原時平が急逝する。世の人びとは、このあたりから菅公の〝祟り〟の存在をだれも疑わなくなっていった。
 鎌倉時代に描かれた『北野天神縁起絵巻』によれば、時平が瀕死のとき、道真の怨霊は蛇に化身し時平の耳坑から蛇体をくねらせて時平を苦しめたとある。                
 そして、延喜十三年(913年)三月には時平とともに謀議をはかった源光が、狩猟中に乗馬していた馬もろとも泥濘に足を取られて、あっという間に飲み込まれるという怪事件がおこる。光の死体は、その後沼をいくら浚っても、見つかることがなかった。
 さらにその10年後の延喜二十三年。かつて時平が強引に立太子させた保明親王(母は時平妹穏子)が二十一歳で早逝する。また保明親王と時平の女(むすめ)の間に生まれた慶頼王も延長三年(925年)に五歳で急死を遂げる。それからというもの、時平の子孫は二男顕忠のほか、つぎつぎにみな若死するという無残なありさまとなるのである。
 菅公の〝祟り〟の猛威は、廟議に座す公卿にとって、天変地異が招く災殃への恐れなどというものどころか、それ以上に、いつ己の命が消えてしまうか恐怖の絶望の縁まで追いつめていく。そのため菅原道真を左遷に追い込んだ藤原時平といかに自分が無関係であったかを、家に閉じこもり神仏にひたすら誓う日々をすごした公卿も多かった。
 院政期の歴史物である『大鏡』には、「(時平に連なる貴人は)皆三十余り、四十に過ぎたまはず。その故は、他の事にあらず。この北野の御歎きになむあるべき」と時平とそれに連なった公卿は、まさに道真の怨霊で長生きできなかったという運命を、一見簡潔に、だが、故になにかがあったことを強く暗示させるようにして記してある。
 道真左遷後、にわかの病に倒れた醍醐天皇は、病のなかにあって延喜二十三年、道真左遷の過誤を認め道真への復官贈位をはかり左遷宣命も焼き捨てた。しかし、怨霊の脅威の前では、そんなものは、まさに焼け石に水とでも言うべきか。道真の「宿忿」はおさまるべくもなく、先ほど述べたように、累々と死者の数だけ加えていく始末だった。
 そして、その怨霊の恐怖は、関東までにも飛び火することになる。
 承平・天慶年間の平将門反乱の猛威(935~40年)である。平将門は、鬼神のようにつぎつぎと国衙を侵し、国司を絡め取り追放し、関東に一大勢力を築いていった。
 その連戦連勝のさまは、菅原道真の憤怒の荒ぶる魂が将門に取り憑いたためだとされた。将門は「菅原朝臣霊位」の旗印を掲げ、「新皇」と称して関東での覇権を握った。
 なぜにかくまで、菅原道真の霊魂は祟ったのか。そして、菅原道真の経歴とは? すこし歴史をさかのぼる。

 菅原道真は承和十二年(845年)六月、参議菅原是善、母伴氏の三男に生まれた。幼いころから詩歌に才を見せ、十八歳ではやばやと文章生(もんじようせい)となる秀才であったという。
 もとより菅原氏は紀伝道を家学として、祖父菅原清公は大学頭兼文章博士に任ぜられ天子の侍読(じとう)も務めた大学者であったが、道真は一族のなかとりわけ優秀で、その五年後には文章生から二人しか選ばれない文章得業生に選ばれ、さらに難関とされる「方略試」(官吏登用試験)に合格、規定によれば三階位昇進のところを、あまりに早い昇進のため、一階位をさげ正六位上となり留め置かれた。その後、二十九歳にして藤原氏門閥以外では異例の従五位下に上り、元慶元年(877年)には三十三歳にして式部少輔兼文章博士へと累進していった。
 だが仁和二年(886年)正月、道真は四十二歳にして一転、讃岐守に任じられる。この人事は、当時の顕官であった太政大臣藤原基経と親交があり、基経のために五十算賀の屏風絵に詩を献進したばかりの道真にとってあきらかな左遷人事であった。原因はわかっていない。
 道真は「分憂は祖業にあらず」と、「分憂」とは国司職のことだが、それは学問を家学とする家には相応しくないと書き残している。しかしこの讃岐時代の道真は、のちほども触れるが、切々たる漢詩文「寒早十首」を百四十首余り詠むなど、彼の生涯でもっとも多くの詩を残している時期でもある。
 道真にとって、地方への左遷は、都邑ばかりしか目に映ることのない凡俗な貴族と一線を画す意味でも大きかった。
 これはある意味で、『万葉集』を編んだ大伴家持が、越中守時代にもっとも多くの和歌を詠んだことと同じく、この地方補任が道真に地方の風土の美しさ、その一方で農民をはじめとするそこで生活する人びとの厳しい現実などをいやがうえにも感得せしめることとなった。その一方で、都を離れ都を遠望せざるを得ないことで、激しく詩興を掻き立てさせることになったのも事実だろう。
 その道真讃岐在任中、藤原基経が差配する都では、大きな政治問題が発生していた。

 藤原氏の専横とは?
 
 ここですこし、この当時の政治状況をみておきたい。
 いうまでもなく菅原道真の時代とは、藤原北家の権力全盛期と重なる。そもそも藤原氏は藤原不比等の子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂四人によって南・北・式・京の四家に別立していた。そのなかで八世紀を通じて有力だったのは式家だったが、大同五年(810年)の「薬子の変」を契機に藤原北家が台頭する。
 「薬子の変」とは、平城太上天皇の重祚を狙う式家の仲成と薬子が嵯峨天皇の退位を謀ったという事件で、それを嵯峨天皇の側近であった北家の藤原冬嗣が防ぎ、その結果、薬子は毒をあおいで命を絶ち、仲成は東国に逃れて再起を期したが失敗し、捕縛後、射殺されたという事件である。
 事件後、事件解決の功労者、蔵人頭となった藤原冬嗣は、嵯峨天皇の下、廟堂で大きな位置を占めることになる。蔵人頭とは天皇の側近に近侍し、機密文書の取り扱いと上奏を一手に引き受ける、いわば側近中の側近、今風に喩えるなら官房長官といった役回りである。それを起点にして藤原北家はその後、強大な勢力を持つ。
 その冬嗣の息子が良房であった。良房は、嵯峨天皇没後すぐに権力者であり「檀林皇后」とも称された橘嘉智子に接近し、自流の権力を強化するため、まずときの仁明天皇に妹の順子を入内させた。
 そして順子の産んだ道康親王を得ると、このときすでに立太子していた恒貞親王(嵯峨天皇の弟淳和天皇の子)を廃太子し、その道康親王の立太子をはかった。
 良房は、恒貞側に陰謀があったことを捏造して橘嘉智子に密告。そこで恒貞親王側近である伴健岑や橘逸勢に嫌疑をかけ、隠岐や伊豆に配流するのである。これを承和の変(承和9年842年)と言う。
 この事件で配流された橘逸勢は、嵯峨天皇、空海と並ぶ「三筆」の一人であったが、良房の陰謀に激怒し配流途中の遠江で憤死した。
 これが一つの契機になった。以降、京で流行病が猖獗を極めたり、飢饉で餓死者が発生するなどすると、それら政治的敗者が魂魄となって疫病や天変地異をもたらすとの〝祟り〟の思想が人びとの心をとらえていく。そもそも盆地である京は狭い空間であり、人口が密になる。そのため、容易に感染病が蔓延した。しかし、それは〝ケガレ〟と見做され、〝ケガレ〟とは〝祟り〟によるとされたのである。
 とりわけ憤死をとげた〝怨霊〟の祟りを恐れる貴人らは、貞観五年(863年)、ほかに政治的に非業の死を遂げた早良親王(桓武天皇皇太弟*大伴家持らが桓武天皇の側近藤原種継を射殺して、早良親王を皇位に就けようとした事件。しかし、家持自身は事件の前に没していて、死後20日に大伴継人らが実行)や伊予親王(桓武天皇の子で藤原仲成の陰謀で自殺に追い込まれた皇子)らとともに六人の怨霊(人物は不定)を祀り、京都の神泉苑で御霊会を行った。これが後に祇園祭へと発展していくことになった。
 ただし、こうしたなかでも藤原北家の権力強化の手は緩むことがなかった。良房は道康親王を文徳天皇として即位させ、自ら太政大臣という極官に就く。そしてつぎに、この文徳天皇に女(むすめ)の明子を入内させ、明子の産んだ惟仁親王を生後八ヶ月で立太子させる。
 文徳天皇は紀名虎女静子との間の子である第一子惟喬親王の即位を望んでいたとされているが、良房はそれを無視して惟仁親王を九歳で即位させ、これが清和天皇となる。良房はこの清和擁立を機に人臣では初めての摂政に就任することになる。
 その後も応天門の火災を契機に、放火したとして伴善男や仲庸、それに清廉な良吏として知られる紀夏井などを配流せしめ(「応天門の変」貞観八年866年)、その権力を万全なものにした。

 その良房の養子となったのが基経である。基経は良房の兄の長良の子なのだが、良房に男子が無く、それで養子となったとされる。基経は、養父良房同様に天皇との外戚の形成をはかろうとする。妹の高子を清和天皇に入内させ、その間に貞明親王を得ると、貞明は九歳で即位し陽成天皇とされた。
 だがこの皇后の高子には、後世、数々の醜聞が残されている。基経にとって高子は大切な「后がね」だった。その高子を色好みの在原業平がさらおうとして、逆に基経らに奪い返された話(『伊勢物語』「芥川」)、それに五十歳過ぎても高子は若々しかったのか、善祐という東光寺の坊さんと密通したとして皇太后の地位を剥奪されたという話などがある。その醜聞が真実なのかどうかは定かではない。
 たとえ真実であろうとなかろうと、こうしたスキャンダルの発生は、当時の基経の権勢への不満が充満していた様相を知らせてくれるものだとも言える。
 いずれにせよ高子は、八歳も年下の清和天皇に入内し陽成天皇を生んだ。しかし、この息子である陽成天皇は数々の乱行を重ねた。片っ端から小動物を殺したり、乳母子の源益を格殺したり、手のつけられない状態であったらしい。そのときの基経は摂政であったが、太政官に直接かかわる太政大臣の補任は断っている。そして摂政も陽成が十五歳で元服したおりに返上し、陽成天皇がすべて親裁するようにと奏請して、自宅である堀河第にひきこもってしまう。
 結果として政務は滞る。ついに役人が基経の邸宅まで出向いていって庶務を行うという事態となったのだが、これは明らかに不行跡を重ねる陽成への威嚇であったろう。
 ところが、陽成が源益の殺害をおこなった時点で、基経は急遽参内する。そしてすぐさま陽成の廃嫡を断行し、そのうえで摂関家との血縁の濃い「ミウチ」からではなく、従兄にあたるとはいえ縁の薄い五十五歳になった時康親王を光孝天皇として擁立する。
 時康擁立の背景には、権勢をもつ基経に多くの皇族が綺羅に身を包み、基経に気に入られるようにふるまうなか、時康だけは地味で目立たず落ち着いた対応をしたという。それで基経の目にとまり擁立されたともされている。しかし、むしろここは陽成時代の政道の過ちを糺そうとするには、清廉な人柄が要請されたとみるべきで、基経は当初、承和の変で廃嫡になった恒貞親王を擁立しようともされていて、そこに政治権力者としての基経の政治勘があったのかもしれない。

「阿衡(あこう)事件」と菅原道真
 
 光孝天皇擁立後、基経は菅原道真ら八人の博士に太政大臣の職掌について勘奏させている。『三代実録』によると、その職掌は官庁に座して「万政を領(す)べ行い、入りては朕が躬(み)を輔(たす)け、出でては百官を総(す)ぶべし」とされ、関白という文言はないものの、太政官を統括し天皇に裁可を仰ぐ、天皇の輔弼の任として意識された職掌というイメージであろう。
 しかし、そうした職掌への意識は、光孝ののち即位した宇多天皇には無かったかもしれない。これが基経と宇多天皇の間におきる「阿衡の紛議」の原因の一つだった。
 宇多天皇は、光孝天皇の第七子であり、皇位継承からは遠く、源定省(さだみ)とされ臣籍降下(皇族ではない)されていた。当時二十一歳。定省擁立については、基経の妹で、尚侍(ないしのすけ)として宮中で実権をもつ藤原淑子の説得があったといわれるが、宇多擁立について基経の尽力は少なくなかった。
 しかし、事件はおこってしまう。宇多天皇は、基経に政治を後見してほしいということで太政大臣の就任を要請したのだが、その太政大臣の意味を「摂政」のそれとして要請した。基経はすでに成人である宇多にそれは必要ではないとして、むしろ自分の職掌は「関白」の別称でもある唐名の「博陸」と考えていた。そこに両者の食い違いがあった。
 加えて天皇の意を受けた起草者橘広相は唐の名誉の高い宰相の意味を加えようとして、その任に「阿衡」と記したことで事態は紛糾する。「阿衡」という言葉には、取りようによっては位は高いが実権が伴わないという意味も含まれていた。この両者の齟齬と「阿衡」という職称への不満、いやそれだけではなく宇多親政への不満もあったろう、基経はほぼ一年近く出仕しなくなる。
 この事態に菅原道真は動いた。ときに讃岐守だった道真は、任の途中にもかかわらず急遽上洛する。そして基経に「昭宣公に奉る書」(『政事要略』)を送った。
 内容は果断直截で「大府(基経)先づ施仁の命を出し、諸卿早く断罪の宣を停めよ」と文人官僚としての自らの信念を叙述し、小異にこだわって大局を見失うなうのは最高権力者の行いではないと、理詰めで強く諫める内容となっている。
 道真のとった行動はいかにも異例というべきものであった。基経という最高権力者に対し一地方の国司に過ぎない者が「もの申す」というわけで、いくら近侍していたとはいえ、ひとつ間違えば貴族社会からの完全追放もありえた行動だった。
 道真には思い込んだらそれを実行してしまわなければ気が済まないといった、学者特有の一徹な性格があったかもしれない。いくらそれが正しもの、正義であっても、相手によっては通用しない場合が多い。のちに道真が藤原氏の計略によって左遷される背景には、そうした正義を真っ直ぐに信じて止まない性格があったのかもしれない。だとすれば、左遷の背景は、すでにここに胚胎していたと見ていい。
 だが、このときは基経に裁量の広さがあった。基経自身も、どこが落とし処か探っていたのかもしれない。基経は道真の必死ともいうべき諫言に心を動かされた。それとともに宇多天皇側からも和解をはかる動きがあった。天皇自ら「勅書の非を詫び」、基経女温子が宇多天皇に入内することで決着がはかられようとした。
 道真の行動は、結果として宇多の窮地を救ったことになった。菅原道真への宇多天皇の信頼は、このときから急速に高まっていったのは言うまでもない。

 宇多天皇の嘉賞と菅原道真の配流

 菅原道真が四年あまりの讃岐守の任期を終えて帰洛したのは寛平二年(890年)の春であった。
 その翌年の正月に藤原基経は五十六歳で没する。宇多はすぐさま人事の刷新に着手した。基経という重石がとれた開放感が宇多天皇にはみなぎっていた。
 そもそも宇多は、父である光孝が傍流にもかかわらず皇位に就き、さらに彼自身も臣籍降下の身ながら皇位に登った事情があり、つねに傍流意識に鬱々としていた。権力を握った人物にとって、過去にあった負い目はなんとか消したい。宇多は、「帝」(ミカド)としての立ち位置を、自らの血統の正統性のなかに確定したい欲求が強くあった。
 そのためには長らく実施されていなかった遣唐使の派遣こそが、「ミカド」としての正統性を誇示するものだと判断した。
 言うまでもないが、遣唐使を送った天皇として名高いのは嵯峨天皇である。嵯峨は遣唐使のもたらした唐風文化によって、法制を整備し、紀伝道や漢詩文などの学問を奨励して「文章経国」(もんじょうけいこく)の国づくりを行った。宇多は嵯峨の政道の継承者であることを意識し、それとともに学問を重んじ「孝敬の道」を尽くした祖父の仁明天皇の「承和の故事」への回帰をはかろうとした。
 文芸と学問の復興、そのための遣唐使。そしてそのための人材登用。宇多天皇の眼には、漢学の学識、法制・文化の理解に優れ、善政施行にもっとも相応しい官僚として菅原道真が映ってくるのは、至極当然のことであった。
 道真は、基経没後二ヶ月、はやばやと宇多天皇によって蔵人頭に抜擢された。もちろん均衡を保つ意味で基経の子の藤原時平も参議として廟堂に加わっているが、ほんらい学問の家の出身では、せいぜい式部省の上級官僚が精一杯の家格である菅原氏、それにこの抜擢はかなり異例な人事だと、公卿のだれもが思ったにちがいない。
 一方でこの人事は、藤原氏に十分すぎるほど危機感を与えた。藤原氏の氏長者となった藤原時平は、まずはそつなく道真の長男である高視に高価な贈答品を贈りつける。さらに公卿に列し衣袍禁色(いほうきんじき)が許された道真には、きらびやかな玉帯を贈るなどして、台頭してきた道真の取り込みをはかった。 
 そうしたなかでの寛平九年(897年)七月、宇多天皇は退位を表明し、十二歳だった敦仁親王を醍醐天皇に即位させるとした。そしてその一ヶ月前、宇多は藤原時平を大納言とすると同時に菅原道真も権大納言に就任させる人事をおこなった。そして、そのうえで宇多太上天皇は、醍醐天皇に『寛平御遺誡(ごゆかい)』を送って、政道についてさまざまな注意を授ける。

 『寛平御遺誡』の落とし穴

 ただし、この『御遺誡』は他の公卿から猛烈な反発を招くことになった。というのも『御遺誡』には、時平と道真の二人に「一日万機の政、奏すべく請ふべき事」として政治を任せる旨が盛り込まれていたからである。この両者以外のあとの公卿は不要だということか? 
 このためこの文言に不満を抱いた公卿が出仕を拒む事態が発生した。それはすぐに政務停滞を招く。そこで事態を重く見た道真は、なんとか宇多太上天皇に奏請して、太政官制の重要さを説き、事態の収束をはかったのだが、この『御遺誡』はほかにも、物議をかもした。
 時平は功臣の子孫であり、政治に詳しい。先頃女のことで失敗があったが、朕はそれを心に留めずに務めさせた。だから、敦仁親王も顧問役として補導を仰ぐようにせよとあったり、その一方で道真については、事細かに書かれ、敦仁を皇太子に立てる際もただ道真と相談し、また譲位のときも道真に密々にはかった。しかし、道真は「直言を吐き、朕の言に順は」なかったが、この譲位の噂が流れてしまうと、一転して「時期を過たぬ」ようにと忠言をなし、事態を進めた。だから道真こそが「鴻儒」であり「深く政事を知る」者であり、「朕、選んで博士と為し、多く諫声を受け、仍て不次に登用し」てきたと述べ、むしろ「菅原朝臣は、朕の忠臣に非ず、新君の功臣」と称すべきだと醍醐天皇に諭している。
 これはミカドとしては控えるべき文言だった。
 たしかに、『御遺誡』は、宇多がどれほど道真を信頼しているかをこの醍醐に伝えるための書と言えるかもしれないが、道真と相比べるようにして、時平が女のことで失敗したなどと子に伝える必要はない。あきらかに無用な一言である。
 『御遺誡』に示された宇多太上天皇の道真への過剰な信頼は、むしろ道真自身の立場をかなり不安定な状況にしている。どう見ても贔屓の引き倒しにしか見えない。
 言い換えれば、たしかに道真は宇多との個人的な関係でのみ出世したのであって、公卿らの後押しがあったわけではない。宇多のみに依存する道真の地位。不安の極みである。
 したがって道真は出世する度に再三にわたって、辞表を奉った。とくに昌泰二年(899年)二月、当時十五歳の醍醐天皇は宇多太上天皇の意向をうけ、二十九歳の時平を左大臣に、五十五歳の道真を右大臣に任じたが、この昇進は学者出身としては破格のものであり、道真は「臣の地は貴種に非ず、家これ儒林」としてこの昇進を拒んでいる。
 さらに言葉をつなげて「人心すでに縦容せず、鬼瞰必ず睚眦(がいさい)を加へん」「臣自らその過差を知る、人孰(いずれ)れか彼の盈溢を恕(ゆる)さん」(『菅家文草』)と真情を吐露し、まさにこうした昇進は自らと道真の一門家族にも危険であることを鋭く予見している。
 ただし、道真はその危険をただ座視していたわけではない。それなりの手は尽くした。まず道真は長女の衍子を宇多天皇の女御に入内させ、さらに衍子妹の寧子は、醍醐天皇から宮廷では大きな権力をもつ典侍(そのあと尚侍)に任じられるようにはかった。さらに宇多太上天皇と橘広相女義子との間に生まれた斉世親王の室として女子(氏名不詳)を入れるなど閨閥の形成は藤原氏なみにはかっている。
 それ以上に道真にとって心強かったのは、大学寮などでの教授、のちには学塾として左京五条洞院に「菅家廊下」を創建し、そこで多くの有為な官僚を輩出していることだった。道真の五十歳の祝いの席には多数の門下生が駆けつけたし、当時官庁で実務をとっていた門下生は、だいたい百人くらいであったろう。これらは強い人脈として道真を支えた。
 しかし、危機はそれだけでは解消しなかった。ついに左遷という事態になる。左遷の呼び水となったのは、三善清行が道真左遷の二ヶ月前、つまり昌泰三年(900年)十月に道真に送った書簡、いや勧告文からであった。

 三善清行のコンプレックス?
  
 菅原道真と三善清行の角逐は、その根をたどるとなにやら因縁めく。
 ことは、道真が「方略試」の問答博士を務めた際に生じた。受験生の三善清行を推挙した巨勢文雄の推薦状に「清行の才名、時輩を超越す」とあったのを、道真は清行の人物の低さを懲して、「超越」の文字を「愚魯」の字に改めさせて嘲笑したという。
 これは院政期に大学者と称された大江匡房の『江談抄』にある話で、真偽のほどは定かではない。
 三善清行は道真の二歳年下あった。清行の父氏吉はかつての承和の変に連坐したため不遇を囲い、その父の死を目の当たりにしたことで、父の死後清行は奮起して二十七歳でようやく文章生、翌年に文章得業生となり、三十五歳でやっと「方略試」までたどりついたという苦労人でもあった。
 それがため清行は、そうした劣等感を発条(バネ)に上昇志向を募らせ、傍目でも息苦しいほど立身出世に執念を燃やしていた。それに対して菅原道真は秀才であり、順風満帆な学問の世界に住し、学者の地位を手に入れている。年齢的に二歳しか違わない二人。清行にとって道真は、「親の敵」「目の前の敵」以外の何者でもなかったろう。
 そんな清行の背景に道真はおそらく無頓着であった。道真は清行を「不第」、つまりは不合格にしてしまう。
 「方略試」で道真は清行に二題の「策問」を出している。一題目は「文を成し格を結ぶ」。いわば作文の格調を問うというものであった。二題目は天文や暦数・卜占などの方技は「民に施し政に用ゐる」際に長所短所があるが、それをどう考えるかである。いわば政治哲学の作問であった。残念ながら清行がどう答えたかの資料は現存していない。おそらく長い間受験勉強のため努力を重ねてきた清行にとって、これらの策問はお手のものだっただろう。
 受験勉強とは、結局は出題者が喜ぶ解答を導ければいい。内容は二の次である。形式と論理的段取りがしっかりしていればいい。
 余談になるが、戦時中の中学校受験では、口頭試問の際、「日本に生まれてきた幸せは何か?」と聞かれることが多かったらしい。いまに思えば解答には幾通りもあって、そのどれを答えたらいいか。自然が豊かである。日本人の人情が素晴らしい。列強に伍して強国である。どうにでも答えられる。
 しかし、答えはひとつしかない。それは「天皇陛下が居られる国」なのだ。個人の思いなどはどうでもいいし、理論的に考える必要などない。とりわけ受験エリートとされる受験生は、ひたすら模範解答を求める。自身の思想や感情などは忖度しない。
 受験勉強に明け暮れていた刻苦勉励型の三善清行の解答は、おそらくそうした内容に近いものではなかったか。それは二流の秀才のすることである。
 後年、清行は「菅右相府に奉る書」のなかで、それらは「掌を指すが如し」であったと自負しているが、おそらく道真はそういった清行を好まなかった。清行は二流の秀才にありがちな問題処理能力は高いものの、物事に対して自身の真摯さを傾ける精神性になにか欠けたところがあると道真は思ったにちがいない。道真には、清行のそれを〝濁り〟に見えた。
 落第の結果は、清行に不満と忿怒をもたらした。それはいつしか道真の耳にも入ってきた。
 道真は「博士難」に「今年(試験のあった元慶5年)、挙牒を修せしとき、取捨甚だ分明なるに、才無く先に捨る者、讒口して虚名を訴ふ。教授に我れ失無し、選挙に我れ平有り・・・」(『菅家文草』)と書き記し、きちんと講義もやっているし試験にも依怙贔屓などしていない。だけど悪口を言い募る者がいると記している。
 清行はその二年後、やっと「方略試」に合格して、そして待望の文章博士になる。しかし、いつまでも確執は消えなかった。その後も、清行の詩を評価しない道真に抗議を行ったり、この両者はしばしば対立する。結果、昌泰三年に清行は道真に攻撃の文を送りつける。コンプレックスから生じた執拗さは、もつれにもつれる。

 道真弾劾文とは?

 では、清行が送った勧告文の中味には何が書かれていたか。
 内容の一つ目は、明年の昌泰四年(901年*七月に延喜に改元)は辛酉の年であり変革がおこる年回りである。とくに二月の建卯には兵乱がおこるとみられ、その凶禍は誰を襲うかわからない。つぎに儒学者から右大臣まで登った者は奈良時代の吉備真備以外いない。だから道真にこそその凶禍が襲うかもしれないので、「止足、栄分」をわきまえ隠居してはどうかというものであった。
 これは言い掛かりといえば言い掛かりである。道真が清行に職を辞せと言われる筋合いはない。
 実際、道真はなんども右大臣を辞したいといっているわけだし、わざわざここで清行が引退勧告を促す必要はない。だがこの清行の文は、道真左遷の宣命ときわめて近い文言となっている。このとき清行は、藤原時平にも書簡を送り、道真を「悪逆の主」と断じ、さらに朝廷にも『革命勘文』を奉じている。このなかで清行は辛酉の年は革命の年であるので改元すべきだと主張するとともに、それは奈良時代に称徳天皇が「逆臣藤原仲麻呂」を誅伐して「天平神護」と改元したのと同様であると、あたかも菅原道真がいまの朝廷の「逆臣」であるかのように記している。
 しかし、この清行の弾劾文は大きな効果をもたらした。弾劾文が時平の手元につくや、瞬く間に審判は下り、道真は正月二十五日にいきなり大宰権帥に左遷となるのである。
 醍醐天皇は、道真が斉世親王を擁立するという謀叛を企てているとする時平らの使嗾に事を決断したとされる。
 そのとき宇多太上天皇は、高野山や竹生島で仏門に帰依して法皇となる準備をしていた最中であった。この間隙を時平や清行は狙った。
 あわてた宇多は、道真配流の報にとるものもとりあえず駆けつけたが、道真の盟友だったはずの紀長谷雄らにも行くへを阻まれ、道真の助命はあえなく頓挫する。宇多は翌日も陣外で夜通し抗議したとされているが、それもかなわず道真は配流されたのである。(つづく)

 <大宰府に流謫された道真 前掲>       
 

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そもそも政治とは? 『論語』には何が書かれているのか。中島敦『弟子』を読む!

2020-09-04 12:37:49 | 〝哲学〟茶論
 熱暑がいまだ続き、そしてまたまた大型台風の襲来。
 そんな騒ぎのあいまに、持病の悪化だという理由で、首相の突然の辞任があり、それに被さるように、〝かわいそう〟〝よくやってくれた〟といった、どこにも理性的な根拠など見いだせない、砂糖蜜がたっぷりかかった上っ調子の情緒という同情がネットでは飛び交うさまがあって、人はなぜ、こんなときはかったように〝いい人ぶる〟のかなと。いい人ぶる狡猾さは、無自覚ときているから始末におえないのだけども・・・。
 そして、辞任後の政界は、〝森・加計・サクラ〟に〝河井〟の腐臭を消すことに躍起で、「暗黒政治」のような隠蔽工作の勝った〝談合〟政治が〝粛々と〟おこなわれ、〝地味〟が売り物という、しんねりとした顔つきのした宰相が登場しそうな勢いです。
 いっぽう、コロナ感染接触アプリ「ココア」のひろがりもあるのか、「コロナウイルス禍」の波が、身近にも寄せてきている感じがしてならないここ数日、そしてコロナ禍の対策はもう尽きた感のある倦怠感のなか、そんなさまざまな灰色がかった騒動を横目で見ながら、わたしは、その間、思いかえしたようにずっと中島敦の小説を読み続けていました。                 
 なぜ中島敦か。
 よく知られているように中島敦は34歳で夭折した小説家。彼が小説を書き続けていた時代とは、ちょうどカツカツと鳴らす居丈高な軍靴の音が街中に響き渡っていた1930年代から対英米戦の戦時下の時代でした。
 いわば「暗い時代」。そして、1942年(昭和17年)12月、重い喘息のために、中島敦は短い生涯を遂げます。
 ですからその短い生涯を考えると、そんなに知られた作家であるはずはないのに、にもかかわらず、中島敦は比較的多くの人びとに膾炙した作家と言えるように思います。
 その理由は、おそらく戦後の多くの高校の国語教科書などに、彼の『山月記』や『李陵』といった作品が掲載されていて、それがおしなべて退屈である国語教科書のなかで、あたかも雪舟の『秋冬山水図』のように、凜とした風采を醸しだし、じつに厳しく周囲に屹立した印象を与えてくれているからだと思います。
 言葉を換えると、中島敦の小説は、定期試験だの受験勉強でいくら点数を取るかなどといったありきたりの〝狡知〟な俗っぽさを一瞬にして叩きのめすばかりか、その特異な小説世界は異次元に吸引されたような感覚を与え、それと同時に、漢文調の格調高い整った文体が、シャンと背筋が伸びるような「精神」の清冽さを、弥が上にも感じさせてくれるものであるからでしょう。
 それが、聖俗の狭間に揺れている青春期を迎えた多くの若者に、深くどこまでも、中島敦を記憶させている。
            
 そして、そのありようは、魯迅の小説を読むときにも感じさせてくれるものでもあるようです。
 ただし、それは両者に、中国を舞台にする小説があるといったことなどではなく、もっと深くも高くもある意味で、この二人の作家には、一本の「紐帯」があたかも存在しているかのようなのです。
     <魯迅>

 この文学者たちには、格調高い文体も含めて、凜とした「精神」への真摯な問いかけが鮮烈に屹立している印象があります。
 しかもそれが歴史のなかで、「超時代的な文学」として大河のように流れている。それがこの二人の文学者を貫く「紐帯」のように感じられる。あえていえば、孤高である美しさと言ってもいいのかもしれません。
 人はつねに日常の凡悪に囲まれているという憂いを抱いているように思います。その凡悪のケガレから逃れたい。青く澄明な世界に住みたい。
 ですから、世間の不正に倦んだとき、あるいは怠惰に流れるとき、そして意に染まぬことに嫌悪を感じるとき、どうしても高く澄んだ蒼穹を追い求める自分自身を見いだすことがあります。そんなとき、中島敦と魯迅のいずれかの一書を手にしている。
 わたし自身が、中島敦と魯迅を読みたいと思うのは、畢竟そんな心境のときのようです。

 ところで、中島敦の小説群には、まだまだ読まれていない多くの多様な作品があります。
 中島敦は、子ども時代から少年期を、植民地であった朝鮮半島や日露戦争後の租借地であった中国の大連で過ごしています。そして対英米戦争の戦時下に、当時日本の委任統治領だったパラオ南洋庁に赴任したこともあって、私小説の世界や社会主義リアリズムの閉じこもった世界から出ることのなかったこの時代の日本の小説家とは、まったく異質な文学世界を創生しえた土壌がありました。
 しかし、ただいわゆる「外地」経験があるからといって、それで小説を書いても、多くはエキゾチシズムに堕してしまいかねない。中島敦の「文学世界」の驚くべきこととは、この時代にあって、「日本」という箱庭的な次元を越えて、「他者」への眼差しや安易な理解を拒絶する「異者」の不可知性をいかに描き出せるかの問いがつねにあり、それとともにいく時代も貫く人間の意識や思考の〝共時性〟を見いだそうとする「文学思想」が深く内在していることにあるかと思われます。
 中島敦の作品には、一見、善意のような顔をしてのさばる差別の悪意とその愚昧な狡猾さ、あるいは優越感に浸る国家や民族が、いかに無辜な人びとに強圧的に「他者」を押し付けているかといった主題のものがいくつかあります。
 とくに南洋譚には、そうした作品が多いのですが、中島敦はそれをあからさまに告発するものとして描くのではなく、まずは、つねにそうした「他者」の前にあって、自己自身が「他者」であり「異者」としてあることを問うている姿勢が見られます。むしろ、自己に内在するより根深いところ、黒い闇にじっと息を潜めてあざ笑っている卑怯を見詰める視座から、「他者」である自己を問う。そして、その問いのなかから現れる痛みを痛みとする精神の清冽さを文学として表現する。
 とりわけ、日本の朝鮮植民地統治下における若い朝鮮人巡査の懊悩と恨を描いた『巡査の居る風景』は、民族とは何か、国家の意味とは何か。朝鮮半島における支配と差別の鋭い切り傷を描き出した、なかなか衝撃的な作品ですが、そこでも「他者」としての痛みが重く基底低音のように響いています。
 しかもなにより驚くべきことは、この作品が、中島敦がまだ20歳のときに書いた作品だということです。
 なんという感性なのか。そう思わずにはいられません。それはたしかに早熟といえば早熟なのですが、この小説はじつに落ち付いた筆致で描かれていて、じゅうぶんに練り上げられた構想の存在を感じさせます。そこで比較しても仕方がないことかもしれませんが、若さゆえの感性に居座り、才気走った筆致で風俗を描写することに長けた現代の日本の若手作家の内実の薄っぺらさが、この作品を読み込むと、むしろ浮き出てくる。
 言い換えるなら、若かりし中島敦は、つねに〝根柢〟に潜む何かに問いを発し、そこから「文学」を創生しようとしている。それに対して、生きづらさや自傷、性を描くのに熱心な「近ごろ」日本の若手作家には、どこか表層で、流行じみて、〝根柢〟を感知しようとしていないのではないか。そんな気がします。
<1919年三・一独立運動堤岩里事件の碑>

 中島敦には、ほかにも、ラテンアメリカの代表的な作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)のまさに迷宮に彷徨い込んだような怪奇で幻想的な作品にまがう『文字禍』や『憑狐』、『木乃伊』といった作品がありますし、自己への疑問と何故に自己が存在するのかを突き詰めようとする妖怪である沙悟浄(『西遊記』)の思惟の動き動揺を描いた『悟浄出世』と『悟浄歎異』など、怪奇や脅威、奇譚といった世界を、ほぼ同じような年齢で早世した芥川龍之介とは違った、世界的な作品や視覚や聴覚をも駆使したじつに「知性的」な作品が多くあります。
 思うに、戦時下で中島敦は、その感性をどのようにして身に纏ったのか。そのあたりについては、今後、読み込んでいくなかでわかることもあろうかと思いますが、いずれにしても、中島敦の小説はまだまだ読み込まれていくべき作品が数多くあるというわけです。

 そんな中島敦の小説を、ここ数日の灰色がかった憂鬱な日々に、一文一文に目を凝らして読んでいって、なかでもひときわ奥底深くまで入り込んできた作品のなかに『弟子』という小説がありました。
 この小説は、これまで何度も読んでいるはずでしたが、なぜか読んだあとに、さまざま思惟をめぐらすことになっていったというわけです。
 話しは、孔子の弟子である子路の目から見た師である孔子の「思想対話」という形を取った小説と言っていいでしょう。

 小説の話題に行く前に、すこしさかのぼっての話しをします。
 わたしが高校生だったころ、そのころ『論語』などの儒教思想は、固陋な王侯哲学であり、その内容は陳腐で、じつに取るに足りない道徳の強制だと、とりわけ早熟なマルクスボーイたちに大いに批判されたことを思い出します。
 当時のいわゆる中核派や革マル派、秋田には第四インターというセクトもあって、これがこのころ秋田大学自治会を握っていたらしいのですが、わたしたち高校生は、そんな秋田大学のマルクスボーイ学生から、彼らの属する「新左翼」思想の洗礼を受けさせられ、そんなとき『論語』などを持ち出すと、いっせいにその凡俗な封建思想を自己批判しろと大いに叱られ、罵倒されたりしたものでした。
 そんななか、1960から70年代に青春期を迎えていた方々には、覚えもあることかと存じますが、そうした未熟なマルクスボーイたちが憧憬し、おおいに信奉していた作家に高橋和巳がいました。
 高橋和巳はこのとき、京都大学の助教授で中国文学の専門家でしたが、高橋和巳は孔子について、こんなふうに語っていたわけです。
 孔子とは、・・・要するに日々の生活の知恵みたいなものを与えているだけで、大議論は一つも述べていないのです。世界の極楽を描いているわけでも、人類の救済を夢想しているわけでもない・・・。虎に素手で立ち向かったり、河を歩いて渡ったりして死んでもかまわないなどという男には組みすべきではない・・・そんなことが述べられている・・・(『ふたたび人間を問う』1968年)
 いわば当時の人びとの知恵の蓄積がそこにはあるわけであり、たとえば「中庸」という言葉も、左右のいずれではなく真ん中を採るといった浅薄なものではなくて、いかにそれぞれの主張や固執を解きほぐし、均衡を取るものという思想だとする。
<高橋和巳 京大闘争のなか>
                 
 たしかに『論語』は、その後の時代で政治権力によって権威化されていく過程で、その道徳律がきわめて狭隘なものに歪められていきますが、じっさいの『論語』をよく読むとわかると思うのですが、そこには権威も封建道徳もあるわけではなく、せいぜいで「神を媒介とせずに人間同士がうまくやっていこうとすれば、どうしても礼儀なしではしょうがない・・・」(前掲)といった「礼」についても常識的なことが、地中から掘り出したかのように説かれているだけなのです。
 それを思うと、秋田にいた性急なマルクスボーイたちは、おそらくハナからバカにして『論語』などは読んでなかったのでしょう。それで一方的に批判していただけだった。
 それはいまどきのインテリ崩れの小賢しさを誇る、匿名でしか悪意を示せない「ネットの住人」も同じことなのかもしれません。世の中、いつの時代も結局そんなもんなんだと、思わずあの当時を思い出してしまうというわけです。 

 中島敦の『弟子』という小説は、その意味でも、じつに『論語』を読み込んだ上で書かれた小説と言っていいでしょう。
 孔子や子路の生きた中国春秋戦国時代は、まさに裏切り、不信、憎悪、譎詭 、暴虐の乱世そのものの時代でした。
 そのなかで孔子は、為政者に道を諭し、常識に裏打ちされた知恵を語り、乱世の止むをはかるとともに、学の必要を説き、放恣な性情を矯める教えを説いて、しかし、その多くは王侯には受け入れられることなく、そのため不遇を託ち、弟子たちを率いて長い放浪のなかにいた人物でした。
 小説のなかで、子路は師である孔子について、つぎのように語っています。
 ・・・このような人間を・・・見たことがない。力千鈞の鼎を挙げる勇者を・・・見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及無く均衡のとれた豊かさは・・・初めて見る所のものであった・・・。(『弟子』 ちくま日本文学 2008年)

 その孔子の姿は、まさに『論語』に映し出された孔子そのものだと言えます。つねに激化することを避け、極端に傾かず、民衆の生活がそうであるように、貧困や悲哀のなかにあっても「共苦」「共悲」を頼りにしながら、他者とともに暮らしていく。その暮らしに生きる。
 中島敦は、作品のなかで、そうした精神の現れたものを孔子は「中庸」と述べているとし、孔子こそは、優れて「いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする見事な中庸の本能」を持つ人物だとしています。
 孔子が子路に説いた言葉。これも『論語』に述べられていることなのですが、「古の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬゆえんである。とかく小人は不遜をもって勇と見做し勝ちだが、君子の勇とは〝義〟を立つることの謂である」(前掲*〝〟は著者の註)
 ここで述べられている「義」とは、民族や人種、性別や国家に関わりなく、だれにでもどこでも通用する「通義」のことを意味しています。
 いわば理不尽な暴力や金力で相手を黙らせる。事実や真実を虚偽(フェイクfake)で糊塗する。あるいは「全く問題ない」「批判は当たらない」「指摘は当たらない」と問題の本質を隠蔽し不遜にも「通義」を貶める。そしてそれを「勇」と見做して平然としている。
 こうしたことは「小人」のありようであり、「君子」のとるべき姿ではないと孔子は述べているわけです。見事なまでの「常識」論というわけです。

 繰り返しになりますが、孔子の思想は、いわば人びとの知恵によって形作られてきた「常識」から生み出されたものであり、さまざまな事象のなかで、いかに均衡(balance)をとっていくかというものでした。
 中島敦はそれを孔子に備わっていた「超時代的使命」なのだと記して、この小説のラストシーンに話を進めていきます。
 このあとの展開は、ぜひこの作品をお読みいただければと思うのですが、たしかに孔子の思想をたどるなら、歴史のなかで、あるいは幾世代もの重なりのなかで、わたしたち人間が培い集積してきた知恵があるはずだ。それを見据えずして、快刀乱麻の力をあてにしていいものか! この作品を読み返してあらためて再認したのは、そのことであった感があります。

 さて、いまのこの時代は「コロナ禍」のなかにあって、分断と格差に傷つき、苛まれている時代だと言ってもいいように思います。
 いつしか権力者はとてつもなく強大なものとして聳え立ち、富裕者は貧困者を差別こそすれ、彼らの救済に手を差し伸べようとしない。
 「民主主義」という20世紀の政治規律は、結局選挙によって権力を握った多数派が少数者を追いやり、分断を生み出す装置でしかなかったと後世語られるのかもしれない。それだけ、いまの「民主主義」は疲弊している感があります。
 アメリカ大統領選挙にしても、半数近くの投票とその意思はドブに捨てられ、せいぜいで権力を握った側は、「じゃ取引しようぜ。ディールdealだ!」と圧力をかけてくる。わたしたちの国も、小選挙区制になって、半数近くが死票となり、それが分断と憎悪を倍加させている。結局、権力と利権のたらい回しが、いま現実に行われているわけです。
 
 そもそも政治とは何のためにあるのか? 〝経世済民〟とは、どんな政治道徳なのか。
 歴史の事柄を語ると、もはや古いと揶揄され、歴史に根をもたない新奇さばかりが喧伝されていくなかで、わたしたちは21世紀になって、とんでもない混沌にさしかかっているように見えます。
 もしかして、いまの分断と差別、格差は、「民主主義」という制度で克服できるのか。このありさまは、悪意に満ちてばかりの衆愚政治の言い直しではないのか。それもまた歴史のなかでいつか見てきた事柄であるかのような既視感がないでもない。
 そんななかで中島敦の『弟子』を読んだことは、大きかったように思います。
 
 さて、長々書いてしまったのですが、最後に「新人会講座」についてのお知らせです。
 2020年秋学季講座を10月18日(日)午前10時を初講日にして開講いたします。
 講座日は、現在のところ会場である「池ビズ」(としま産業プラザ)を、10月18日、11月15日、11月29日、そして12月13日(予定)のそれぞれ日曜日午前10時からほぼ確保しております。
 秋季講座も、「コロナ禍」のなか夏学季同様に4講座の予定です。
 講座内容は、現代の思想家として寺山修司(詩人)、宇沢弘文(経済学者)、石牟礼道子(思想家)、大島渚(映画監督)の人物とそれぞれの激動の時代について論考しようというものです。
 詳しくは、次回のblog(9月15日)でフライヤーを掲載いたします。それまでしばらくお待ちください。
 なお、11月8日には「講外講」として、よく知られた歴史上の人物に謂われのある寺院を探訪する予定でいます。夏学季は鎌倉の古刹を訪ねましたが、いわゆる江戸時代から明治にかけての寺院を訪ねます。ぜひご参加ください!

 というわけで、まずは今日はここまで。
 台風一過。もう秋です。ここ数年の秋は短いのですけど・・・。
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども
   風の音にぞ驚かれぬる 
    (藤原敏行『古今集』)
                    


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