八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆東日本大震災の記憶といま起こっていること。〝災殃〟は何をもたらすのか?☆☆

2020-05-23 23:15:37 | 〝歴史〟茶論
 東京は、もうすこしで「非常事態宣言」から解放されるとのことです。

 4月から約2ヶ月、いちばん心配しているのは、学校が開かれず、しかもその途中で大人や政治家たちの勝手な言葉に振り回されて、「9月入学論」まで喧伝され、戸惑わざるをえなかった子どもたちのいまの姿です。
 まさに、この数ヶ月におよぶ、「学び」からの疎外はなんのためだったのか?

 じっさい、子どもたちに感染するリスクはあまり高くないこと。感染しても重症化するケースがほとんど報告されていない。また、学校での感染の事例は、まったくなかった。むしろ家庭内での感染が、事実としてあったこと。
 これらの状況をふまえ、電車での通学を行う高等学校や私立などの学校生徒はおくとして、地元の小中の学校にあって、「学校封鎖」は必要だったのか。そして「学校封鎖」の効果は、どのように科学的に証明されていくというのか。そのことを含め、「9月入学論」の必要性は考えていくべきものではないかと思うわけです。

 
 それにしても思い起こしてほしいのは、2011年3月の東日本大震災のときのことです。
 この震災とそれにともなう原発事故、もはやこれは「原発犯罪」というべき問題であったかと思いますが、いずれにせよ東北地方の学校の多くが、校舎に甚大な被害をうけ、なかには津波で流されてしまった校舎があり、児童生徒が津波に呑み込まれて亡くなったり、またこうした子どもたちの多くの親や親族が、死亡したり行方不明になって、生活の術さえ失われていたにもかかわらず、そのとき「9月入学」などという話しは議論されたものだったのか。記憶にある限り、そうしたことはなかったように思います。
               
 震災と原発による困難で劣悪な状況のなか、親を亡くし兄弟姉妹を亡くし、また仲良しだった友達を喪った多くの子どもたち、そして未来への〝夢〟や〝希望〟を自身の可能性とまだ純白な時間のなかに描いていた中学生や高校生は、校舎を喪い、クラスメートにも会えず、長期にわたって授業も受けることもできず、楽しみだった部活もできず、多くの人びとに祝福される卒業式や入学式もできないまま、ほとんどが瓦礫の処理や生活のためにさまざまな労苦のなかに置かれていたはずです。
 ならば彼らの学業や生活のために、そのときいったいいかなる、また何らかの猶予がなされたのかというと、それはまったく顧みられないまま、彼ら彼女らは、目の前にある過酷な状況に、身を任せるしかなかったように思います。

 いや、あれは東北地方の一部の太平洋沿岸部の不幸なのだ。日本全体のものではないのだ。震災のときには、そんな〝切り捨て〟の論理が、まちがいなく大手を振ってのし歩いていたのではないのか。
 あのとき、子どもたちの、彼ら彼女らの「教育権」について、誰が、あるいはどの政治家が為政者が、思い遣ったのでしょうか。

 震災後、仙台のとある居酒屋で、その店の大将がわたしに、「ボランティアをやると東京の大学では単位くれるそうですね。それってどういうことなんだ?」「そんなボランティアって、いいんですかね? オレたちは単位のネタってことでしょうかね?」と真顔で聞いてきました。
 肉親を喪い、家も流され溢され、生きた心地もせずに日々を送っている人びとが多かったなか、ふつふつと吹き出すやりきれない思いで胸がいっぱいであったのだと思います。
             
 北東北の出であるわたしには、この大将の言葉が、抑えつけられた者の深部から飛び出してきた憤怒の声に聞こえました。
 「たしかに震災はひどかった。でも、哀れんでほしくない」「バカにするな!」 
 東北人は、おおくはにかみ屋であり、無口といっていいかと思います。ときには、じつにとっつきにくい印象を与えます。それは長い歴史のなかで培われてきた身の処し方とでも言ったらいいのか。人びとの感情の底部に、目立つこと、批判や怒りを表に出さない性格を良しとする「痼り」みたいなものを宿しています。そのなかで、絞り出すように口をついた疑問と悔しさ。
 子どもたちの学びの疎外と単位をもらえるボランティアの、麻痺している奇妙な差別のありよう。 

 そこで話を戻します。
 では、なぜ震災のときではなく、この「コロナ禍」の時期に「9月入学論」が出たのか。それは、勉強が遅れる。受験に間に合わない。そんな都市部の親と子どもたちの、自己中心的な、あるいは誰かが出し抜いて「有利」になっちゃ困るという、〝エゴイズム〟〝悪しき平等主義〟から出てきたものにすぎないと思います。受験そのものは、自分自身の問題に過ぎません。
 加えるに〝ポピュリスト〟政治家が、これは人気とりになるとして乗っかってきた。それ以外のなにがあるのか。

 もし「コロナ禍」が、東京や大阪などの大都会ではなく、北東北の一部や九州南部の一部での蔓延だったら、「9月入学論」は出たのか。それははなはだ疑わしいでしょう。
 もちろん、「9月入学論」を言い出した首長には、宮城県知事も含まれていますが、おおかたは安倍内閣の官邸官僚、彼らは「コロナ禍」で手詰まり感がぬぐえず、経済活動ともっとも関係の薄いところから手を着けて、なんか〝やった感〟を演出したかったように見えます。結構なことです!
 それに、時流に乗る「維新」といった党派の政治屋の口吻で高まっていったと見ていいでしょう。 

 それとともに思うのは、「コロナウイルス」の発生が、首都圏や関西圏の大都市での発生が膨張したことで、感染者が「インフルエンザ」ほどの流行もなかった地方でも、いっせいに「非常事態」の網にかけられ、大都市なみにする。地方でもパンデミックが起こるのだと、あたかも〝脅迫〟めいた状況におかれたのではということです。
 そのなかで一部を除いて多くの地方自治体は、状況や感染状況を精査して、予防や医療体制を整えるいとまもないまま、大都市の厄災は、地方でも起こるという「一元化」のもと、いっせい「非常事態」に呑み込まれた。わたしにはそのように見えます。
 たしかに、いまどきの日本において、地方は弱体化して、中央のもたらす恩恵にあずかろうとばかり、中央の指示命令には、ほとんど逆らう気概もないように見えさえします。しかも、地方官僚も、中央官庁の若手キャリアが出向してきて、その頭の回転について行けない。「グズグズできない。なあなあじゃ、どうしようもない。どうすりゃいいんだ?」
 そんなときズバッと切り込んで、中央の意向を実現する若手出向官僚に頭が上がらない。前回のブログで触れた「権威」と「権力」ではありませんが、首長が「権威」として「よきに計らえ」のポーズを取って、若手キャリアに「権力」を丸投げしている自治体もあったように思います。
 そして国家的な〝脅迫〟のまえで、人びとは過剰に怯え、少なくない自治体が、具体的な方針をそれぞれの地方・地方で組み立てる「勇気」と「態度」を喪ってしまっていた。そのようにも見えてきます。
 ただひたすら政府なり大都市の首長の、過剰でポピュリズム的なパフォーマンスに振り回された。そうとも見えてきます。

 ところで、「9月入学」の話に戻します。
 よく知られたことだと思いますが、近代日本においての「9月入学」という制度は、1886年に帝国大学令が発布されたときに定まった制度でした。当時の帝国大学は、ほんのひとにぎりのエリートが入学するものであって、その学生は、庶民にとって、まさに「雲の上」といった存在でした。
 ですから、帝大に入学する者たちも、それなりの矜恃を持って入学するわけで、むしろ入学したことよりも、その後の学業をまっとうすることが難しい。それは学問においてだけでなく、学問を保障する学費や生活費用、親の負担など、さまざまな困難の待ち受けるものでした。つまり、入学にさほどの意味はなく、むしろ卒業して、いかなる役割を果たすことができるのか。それが当時の大学生のありようでした。
 それがいまは逆転し、大学入学が、世の「勝ち組」になったような傲りとなり、入学後は、ろくに教養も積まず学問を放棄し、ただ「プライド」と「収入」を満足させる、いい就職先ばかりを探し求める。
 そうなると受験難関大学に入学したことだけが、内実のない空疎な〝愉悦〟となる。たとえばそれは、東大などに合格したとき、合格発表の掲示板の前で〝胴上げ〟されるような、バカげた騒ぎとなっていくわけです。大学生としての矜恃がなくなるに従い、入学したという倒錯した価値だけが重んじられていく。

 ちなみに、かつての帝国大学は、東京帝大法学部をのぞくと、原則、無試験で、そのまえに旧制の高等学校に入学する必要がありました。
 それが現在の大学の教養課程に相当するものですが、この高等学校は秋入学であり、旧制中学などを卒業してから、秋の入試に向けて夏をはさんで受験勉強を行うというふうになっていました。
 しかし、当時の高等学校、それに準じる高等師範学校の進学者にはすでに20歳となっているものが少なくなく、徴兵令では20歳以上の男子が4月に兵役に就くことになっていて、9月入学では、丈夫で優秀な人材を軍隊に取られてしまうなどの事情が生じました。
 そこで、学生の確保を優先させる私立の大学予科や専門部が4月入学に移行する事態となって、官立の高等学校、高等師範学校も4月入学に変更したというわけです(この時代の大学生など高等教育を受ける者には、徴兵猶予がなされていた)。

 言ってみれば、軍隊との絡み、それから4月から年度予算が施行されるということで、それにあわせての4月からの新学期であり、都市部での中間市民層が形成されることで、彼らの子弟の上級学校への進学者が増え、また高等教育の社会的要請の高まってきた時代。ちょうどその1921年から、ほぼいっせいに4月入学に統一されていきます。
 ということは、そこにはなにも教育的な意図があったのではない。
 いまになって、あたかも教育的配慮のように、諸外国の大学なり高等教育機関が9月から新学期だから、それに合わせる必要がある。それが、「グローバリズムglobalism」なのだ。
 いったいどこまで「グローバル」に付き合うのか?
 まずはそんな意見がありますが、それであっても、「グローバリズム」はどれほど初等教育や中等教育にとって影響があるのか。教育的な関連性はいかほどなのか。
 世界に合わせるのなら、いまの高校を卒業したあと、ゆっくり受験勉強をはじめ、大学だけが9月入学、卒業もそれに準じて行う。そうすればいい話で、その4月からの数ヶ月の猶予期間は、学費のためのアルバイトをするなり、勉強するなり、むしろ自由な時間として若者に持ってもらうのもありだと思います。
 となると、経団連や企業あたりが、4月から入社してほしいから、いっせいじゃないとダメだ、などと言い出すでしょうね。
 しかし、大卒予定者が4年生になるかならないかで、いっせいに「就活」をし、その期間も長い。これはまさにおかしな横並びで、しかもそれ自体、まったくもって学業を妨害しているとしかいいようがない。
 そもそも新卒者だけに就職機会を保障するのは、企業にとって、どれだけ意味があるのか。企業は、あたかも多様な「人材」を求めているのではなく、いっせいに働ける「人数」を求めているのだと見えてきます。そこもあわせて考えていくべきかと思うわけです。
 また、いまの高等学校も、3年生になっての2月・3月の大学受験シーズンは、部活や体育祭、文化祭などの活動を保障するには、あまりにも日程が詰まっていると言わざるをえません。だから、大学合格者を多く出したい進学校では、3年になったら部活引退だの、文化祭は実施しないなどという学校も出てくるわけです。なんのための高校生活なのか。
 
 思うに、わたしは、いまこの「コロナ禍」の時期に〝論議〟を必要とする「9月入学」などを問題化する必要はないと思っています。またその〝論議〟の本位も、大学などの状況から、考えていくべきことと思います。

 さて最後に一言。
 「非常事態宣言」が解除になっても、まだ「コロナ禍」は、終熄したわけではありません。
 そもそも、「コロナウイルス」の出現には、過去のエイズ、エボラ出血熱、SARSなどの伝染病の出現とともなって、人間がもたらした地球環境への警鐘ととらえる科学者が多くいます。その意味でも「コロナウイルス」の問題は、ワクチンができたからといってすますことのできない、より根本的な問題が存在しているように思います。
 それは、この3月4月、そして5月にかけて、中国やアメリカなど「公害国家」の大気が、産業活動の停止により、劇的に浄化されていったこととあわせて、ただに「ウイルス」の厄災として狭く見るのではなく、世界の成長経済の陥穽として見ていくべきことでもあるかと思います。
      

 その意味で考えなければならないのは、いったいどこまで、わたしたちは「富」と「財」を求めていけばいいのかということです。
 一部の富裕者が、自らの富と安心安全のため、風光明媚な場所を占有し、防犯と侵入を阻止すべくガードマンとポリスに防衛させる「Gated community」で快適な生活を独占的に占領する。そのなかで使い切れない財産をもって「地位」「権力」を維持する状況。そうしたいまの世界の〝富の偏在〟をわたしたちは、いかに考えたらいいのか。

 この「コロナ禍」のあと、まだ人びとは、そうした「富」と「財」に執着するのか。
 いやそうではなく、だれもが気持ちのいい風の吹く青空の下で背を伸ばし、生存の糧を得ながら、いい音楽を聴き、楽しい会話を重ね、いろいろな過ぎにしこと、そしてやってくることを想いながら暮らしていく。そうしたことを静かに受け入れていこうとするのか。

 この「コロナ禍」のなかで、富と覇権を競う中国とアメリカの為政者の相互の中傷合戦、WHOの無責任さや独裁的な政治家の失政がよく見えてきたように思います。
 これまでの「歴史」を見ていくと、どんな悲劇であろうと、災厄の前で、政治指導者や政治エリートが怖じ気づき、自己保身をはかり、ほとんど機能しなくても、社会の統制は、人びとによって苦難をともないつつ自然に創られていったように思います。
 そして、こうした災厄は、歴史の流れを変えるというよりも、むしろこれまで隠されていた矛盾や亀裂、欠落を明るみにさせて、それを経験することで、人びとをより賢くすると、「歴史」は教えてくれています。
 
 それらのことは具体的に、折々にこのブログでお伝えしたいと思っていますが、そうした「歴史」について思うにつけ、そろそろわたしたちは、いまの「コロナ禍」のあとの自分自身のことを考えていく時期を迎えているのかもしれません。
 と言うことで、まずは、今日はここまで。

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明るい方向とは何か?~2020年夏学季「講座」を緊急開講します!

2020-05-18 15:01:44 | 〝歴史〟茶論
 高校生のころ、「人はなぜ生きるんだろう?」などという厄介なことを考えて、人知れず悩んでいたことがあります。
 それは思春期特有の一過性の〝憂鬱〟ってやつだったかもしれません。
 そんなとき「哲学者」と陰で呼ばれていた友人から、サルトルJean-Paul Charlesでも読んでみろと言われ、入門書的な『実存主義とは何か』という本を借りて読んでみることになりました。            
                       

 読んでみるとそこには、たとえばハサミはものを切るという「本質」があるのだけど、人間にはそもそもそうしたものはない。あるのは人間としての「実存」だけであるとありました。
 つまり人間とは、ハサミのようになんらかの目的によって存在しているわけではなく、生きるなかでさまざまなハサミが持つような「本質」を身につけたり、選び取ったりする。まさに「実存が本質に優先する」。人間には、生きるなかで多様で予期できない可能性が内在している。その「実存」にこそ意味がある。
 フランス人であるサルトルは、第二次世界大戦中、巨大なナチスに対抗し苦難をともなったレジスタンス運動を行っていた哲学者で、そうした苦闘のなかから全体主義に対峙する人間の自由の意味を、「実存」という思想に昇華させた哲学を打ち立てました。
 そしてサルトルの哲学は、田舎の高校生にすぎなかったわたしに、未来性、いまの思いを込めた言葉で述べるなら、未来に〝投企される自己〟といった、あたかも一条の光がさしてくるような期待感を抱かせるものだったように思います。

 その後しばらくして、友人の「哲学者」は、デカルトRené Descartes について語りはじめました。
 いまは違う名称になっているでしょうが、わたしたちの世代の高校の教科には「倫理・社会」という教科がありました。とりわけ、わたしの通った高校には、哲学科出身の熱っぽい授業をする教師(いまも尊敬している)がいて、彼の授業で友人の「哲学者」もわたしもおおいに刺激を受けたものですが、それもあってデカルトの名前も〝我思う故に我あり〟という言葉も知っていました。
 でも デカルトが、スペイン帝国の支配から独立をはかろうと長い戦争を闘った「オランダ独立戦争」のなかにあって、この思想を確立したこと。
 〝我思う故に・・・cogito ergo sum 〟の意味は、これまで世界では、神の恩寵や摂理、または絶対的王権や権威のもとで人間の思考や方向性は制約を受け迷信に囲まれていたけれど、デカルトは、そうした神や権威に凭りかからず、また阿ることなく、人間とは自らが思考して行動することに意味があると説いたこと。
 そして、デカルトから以降の哲学では、人間はドグマ(教義や教条、宿命や運命)といった外的な桎梏(手枷足枷)から解放されるべきとされ、自ら自由にものを考え行動するところに存在の意味があるのだと確信されたということ。
 友人の「哲学者」はそんな風なことを、訥々とした秋田弁で話してくれました。この会話もわたしには思春期の憂鬱を晴らす意味で、大きなものでした。

 以上の事柄は、いまでは「存在論」といった哲学的なカテゴリーのなかに括られ、わけしり顔な人びとに、もはや過ぎ去ってしまった哲学論のように扱われるのが落ちだと思います。でも、高校生のころ、サルトルを知り、デカルトの語る真理を聞いたときの新鮮な感動は、はなかなか忘れられるものではありません。

 もちろん、ほかにもいま『ペスト』のときならぬ流行で脚光を浴びているアルベール・カミュAlbert Camus が『シシュポスの神話 Le Mythe de Sisyphe 』などで表現した人間における〝不条理absurde 〟の悲劇。またチョムスキーNoam Chomsky の説く「生成文法」、つまり人間は、天気のいいことを、「です、天気いい、今日は」とは言わない。「今日はいい天気です」と言う。そこには言語文法が人間の〝生得的a priori〟な能力として内在されている。いわゆる言語と人間の相補的な可能性など、さまざまな哲学や思想に出会うたび、人間存在の寄る辺のなさ、哀しみも含みながら、その一方での人間の明るい可能性の所在を感じ取ったりしたものでした。

 そんななか、ここ数日の「コロナ禍」のなかで、なにか大事なことが抜け落ちてしまっているのではないか。そんなことに気がつきました。いや思い出したといってもいい。
 というのは、先日、政府から10万円の「特別定額給付金」が出た人びとのインタビューを聞いていて、腑に落ちないことに遭遇したからです。
 インタビューされた地域は、さほど「コロナ禍」の影響を受けていない地方の町村でしたが、そこで給付金をもらった人びとの口から、「政府からお金をいただいて、ありがたい」「安倍首相には感謝しています」という言葉が出てきたのです。
 べつに首相からお金をもらっているわけじゃないのになぁ、とそのときは思いました。理屈では、この給付金は自分たちの納めた税金を、「コロナ禍」で行動の〝自粛〟を強いられ経済的にも困難な生活を強いられているため、取り戻したという性質のものです。
 でも、ありがたいと言う。お上から下賜されたかのようなお金の意識。しかも、なぜ首相に感謝しなきゃならないのか?
 それは、日本人の「大に事える」、「事大主義」の隷属根性からのものだ。そう言って了えば、ことは簡単です。でも、どうしてそう思うのか。その疑念は残りました。と同時に、なんでこうにも〝お上〟、いわば「権威」や「権力」に弱いのか。もう民主主義国家となって、ずいぶん経つのに、です。

 歴史学では、よく「権威」と「権力」の相互補完性について語られることがあります。かんたんにお話しすると、昭和前期の軍部の台頭の仕組みは、天皇という「権威」を隠れ蓑にして軍人たちが暴慢な「権力」を行使したわけで、天皇という「権威」と戦争遂行者である軍官僚の「権力」関係は、相互に補って、あの戦争を起こしたということになります。
 しかし、そうした〝しくみ〟は軍組織にも浸透していて、実権を握っていたのは参謀本部や軍令部に属していた少壮の軍官僚(だいたい中佐か少佐)で、かれらは大将や中将といった軍首脳部がその「権威」をひけらかすため、鷹揚に大物ぶって「よきに計らえ」と無責任な態度を取ることを補完するように、その「権力」を行使していきました。
 そして「権力」をもった軍官僚は、作戦遂行は自分たちで独占するものの、その失敗については、軍首脳部もしくは天皇の「権威」に隠れて、ないことにしてしまう。つまりは責任逃れをはかるという術を身につけていました。それはまさに「黒子」に隠れる狡猾さというやつです。
 そのありようが、戦後に露見した開戦および敗戦の「戦争責任」を誰も取ることのない体制、いわゆる〝無責任体制〟となり、ちょうど「天皇」を頂点に、責任追及のため、むいてもむいても皮ばかりで、タマネギのように芯が出てこない。そんな体制を作り上げました。
 これはいまも会社などで、社長の「権威」を借りて、側近である社長室長などが「権力」を行使する。あるいは社長夫人などが「権力」をふるう。体育会系の協会でも、名誉職である会長の「権威」を背景に専務理事などが好き勝手に「権力」をふるう。どれもよくある話しです。
 それは国家体制からはじまって、地元の商店会や政党、労働組合などにもよく見られるものでしょう。
 つまり、「権威」と「権力」は相互補完をし合いながら、支配体制および支配機構を強め、狡猾にまた永続化させるものだというわけです。

 こうした話しも、じつは高校生のとき、たしか歴史の教師から聞きました。この教師は、東大の学生だったとき学徒出陣の最後の年にあって、20歳で本土決戦の特攻隊として、身体に爆弾を結びつけて蛸壺のなかに潜み、九十九里浜に上陸する米軍の戦車に体当たりする訓練をしていたのですが、そのさなかに戦争が終わったと語ってくれた人でした。
 その後、中途で終わった大学に戻り、日本の中世史を学び直して田舎の高校教師として赴任し、戦争体験をふまえてか、校長や管理職の誘いに乗らず、ずっと一介の教師として、わたしたち高校生に学問のすごさを教えてくれた人でした。

 そこで、話しを戻します。すこし単純化した話しとなりましたが、わたしたちの周りには、たしかに「権威」と「権力」の相互補完的な体制があり、これが為政者の権力を強いものにしています。では、そうした「権威」と「権力」の関係は、すべて悪なのか。
 歴史が教えるところでは、近代民主国家のありようとは、どうしても起こってしまう「権威」と「権力」の補完関係を、反対に有効な制度に変える〝制度転換〟にあったと語っているのです。

 「権力」とは、政治を執行し、民衆の生活をサポートするためには、どうしても必要なものです。今回の「コロナ禍」にあっても、〝自粛〟ということではありましたが、公的機関の閉鎖を行い、一方で協力ということでホテルなどに要請して医療業務の拡張をはかる。また海外との入国出国のなどの禁止や制限といったことは、まさに「権力」の行使と考えられます。
 その意味で、「権力」はときに有用なものです。しかし、「権力」は、今回の「検察庁人事」の問題にしろ、すぐに暴慢になりやすく、その濫用は厳しく監視されていかなくてはなりません。
 その場合、そうした「権力」の監視や統制は、相互補完的な関係にある「権力」を超える「権威」に担保させる。そういう「仕組み」が近代になって生まれてきているのです。ならばその場合の「権威」とは何かということです。

 1789年7月、バスティーユ監獄の襲撃を契機にフランス革命が起こりました。そのときの人権宣言とその後の1791年の憲法では、「権力」を行使する政府に対して、それを監視統制するものとして、「国民」を「権威」として位置づけているのです。
 つまり、近代国民国家および現代の民主国家とは、「権力」である政府や為政者はあくまでも「権威」である国民のもとにおかれている。それによって、君主制でも王政でも、独裁体制でもない現在の民主制の正当性は担保される。言葉を重ねると、「国民」こそが「権威」であり、「至高」であるわけで、国民主権とは、政府を統制抑制する「権威」の役割を担うというわけです。

 でも、いつの間にかそうした理論や理屈は朽ち落ちている。それが給付金をもらった人びとのインタビューで、わたしが気づいたことなのです。
 どうも人びとは、いま自分たちが立っている世の中のありように、その根っこに何があるのか。これまで人間が築いてきた「歴史」を見落としてしまっている。あるいは知らないでいる。
 たしかにいま盛んにやりとりされているNETやSNSで放出される毀誉褒貶のあれこれを眺めていると、さまざまな言説があり、さまざまな意図やたくらみが溢れています。でも、子細に見ると、どうにもその言葉が軽いのは、物事の背景をふまえることなく、また「歴史」の意味を正面から問うことをしない。もしくは軽薄な知識に振り回されていることにある。まずは〝流行(はやり)〟に乗ってこう! 攻撃するには「いい気になるな」的な言辞をぶちかましておこう。
 それはまさに「歴史」への視座が欠けていることでもあるように思います。

 それと相まって、また違う視点で「歴史」を見ていくと、もう一つ浮かんでくるのは、多くの人びとが、いつもどこかで明るい方向を目指して生きてきたということです。
 それが自己自身だけのことであっても、またいろんな人びと、または恋人や家族などとともにでも、人びとは、猜疑や嫉妬、憤怒や悲哀に沈むより、できるだけ明るいところ、陽の当たるところに「こころ」の置き場を求めるように歴史を刻んできたように思います。
 もちろん、なかには明るいところの在処がどこにあって、陽の当たる場所の意味がわからず、失意に暮れ、曇った眼差しで世の中や他者を見てしまったり、暴虐な君主や独裁者に身を任せてしまったこともあるでしょう。
 この「コロナ禍」のなかでも、他者を差別したり、悪の在処を言挙げしたり、あたかも正義である〝自粛〟の執行人みたいに告発や密告にいそしんだ人びともいたかと思います。正しいことはかならずしも人びとを救うことにならないのですが・・・。
 
 そんなとき、かつて新鮮に感じたサルトルの説く「実存」がもたらす人間自身の可能性を思い出します。またはデカルトが述べた、どこにも頼らず縋らず、神や絶対者にひれ伏すのでもなく、いつも自分で考え行動する。〝我思う故に我あり〟という精神のひろがりを想います。
 加えるに、フランス絶対王政を終わらせたフランス革命で宣言された国民こそが「権威」「至高」であるという、自身が主人公であるという考え方。そうしたことが、現在のわたしたちの「歴史」に息づいている意味を思うわけです。やはり、そうした事柄は、「歴史」を通じて感知されるものなのです。

 とは言うものの、いつまでも若造じみたことを言っていて、恥ずかしくも思うのですが、しかし「歴史」を訪ねて知ることで、まるで眼に光が注がれるように視野が開かれていくってことも確かですし、「歴史」を知ることで、物事が遠くまで見通せたように思うことは気分のいいことなのです。
 給付金は、なにもありがたがってもらう筋合いではないのです。そういうふうにわたしたちは「歴史」を重ねてきたものなのです。

 さて、長い話しは、これくらいにして、最後に講座についてお知らせがありますので、お読みください。
 2020年夏学季の講座ですが、当初、二講座を準備していたものの、「コロナウイルス禍」によって会場の確保が困難になり、また自粛規制によって、二講座ともに開講は難しいと覚悟を決めていました。
 しかし、講座をこの秋、あるいはそれ以降にやろうとしても、この災厄は、またいつ第二波、第三波とやってくるかわからず、またいま現在、人との会話が切断され、相手の表情や言葉に含み込まれる情感などが脱色され、「対話」が喪失された状況になっていることに、わたし自身、強い危惧を持ちはじめてきたこともあり、やれるうちにやっておこうと決断しました。
 結果、実施できるのは会場の関係もあり、四講だけで、『時代に杭を打つ!』partⅢのみを縮小して開講することにいたしました。
 この講座は、以前もお知らせしましたが、質疑応答も含め、対話を考えた講座にしたいと思っています。

 日程については、下記にフライヤーを貼っておきますが、6月14日(日)午前10時から(質疑応答含めて約100分)を初講とし、6月21日(日)、6月28日(日)、そして7月12日(日*この日ばかりは13時~)に池袋にある「としま産業振興プラザ」(通称池ビズ)で行います。会場は大きな場所を確保していますので、お互いに間隔を置いて、お座りいただけます。
 もし、このブログをご覧になり、参加したい方がいらっしゃましたら、yagashiwa@hotmail.comにご連絡ください。

 というわけですが、日々、ざわざわと落ち着かないことかと思います。この先の不安、どうのように生きるべきか。さまざまな思いが交錯する毎日かとも思います。
 講座は、いちおう日本の戦後の思想家をテーマにしますが、それぞれの時代で語られた思想といまのわたしたちのありようを照射するお話になるかと思います。いまのわたしたち自身の足元を照らすものにしたいと考えています。
 まずはわたしたち自身、まだまだ〝未来に投企された存在〟であるべきですし、その意味で、自身で考え行動する大切さを共有できればと思います。

 

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厄災を前にしていかに生きるか!

2020-05-10 22:43:38 | 〝歴史〟茶論
 物議を醸した「アベノマスク」はいつになれば届くのか? 
 「アベノマスク」の配布率は日本全体で5%にもならないそうで、いまでは近くのコンビニやなぜか中華料理屋やタピオカミルティーのお店でも、ふつうにマスクは販売されていて、簡単に手に入るようになりました。そして一部では「値崩れ」しているともいわれています。
「アベノマスク」は必要なのか? いったいどうしたものでしょう。

 これはあきらかに〝失政〟なのでしょう。「見栄え」だけをよくする、小手先の民衆愚弄の政策とも言えます。これでわかったのは、東大出の頭がいいとされた「官邸官僚」が、いかに出来が悪く、人びとと乖離した存在なのかということです。かれらは処理能力には長けているけど、物事を深く考えられる質ではないし、空疎な口舌にこそ自分の出番だと思っている節があります。でも、これはわたしがこれまで東大に限らず、いわゆる一流大学に進学していった学生たちを見ていて、いつも危惧していたことです。
 そして、彼ら彼女らは、ぜったいに〝間違い〟を認めたり、〝謝る〟ことをしない。ケチな「学歴」といったプライドしか持ち合わせていない。

 そんな「アベノマスク」が届く前に、といってもわたしのところには届いているのですけど、もう5月です。「田植え」の季節になってしまいました。
              
 わたしは農業の盛んな北東北の地方都市の出身で、もちろん、わたしの両親はともに農家の生まれです。
 父は、神秘的な湖ということで知られる秋田県田沢湖から北に向かった寒村の生まれであり、母も県南の平野部のふつうの農家の出です。
 父の実家は岩手県境に近いこともあるのか、いわゆる「南部曲屋」の構えをしていた農家で、祖父は、ロシア製の銀色の猟銃で熊や鹿を仕留めてくる猟師でもありました。
 子どものころ、父の実家に行くと、熊を仕留めてきた祖父が、熊の皮の裏についている脂肪を石匙のようなへらでそぎ落とし、近くを流れる清浄な沢水に熊の毛皮を何度も浸して、ゆっくりゆっくりと丁寧に皮をなめしていた姿を思い出します。
 祖父は、当時としては背の高いがっしりとした偉丈夫であり、おおいに大酒する人でした。
 農家の仕事が終わって夕方ともなれば囲炉裏の前にどんと坐って、小さなわたしを祖父は股の間に坐らせて、大きな茶碗に酒をいっぱい入れて、ごくりごくりと、じつにうまそうに呑んでいる人でした。
  なにも語りもせず、ただにこにこしながらお酒を飲む人でした。

 その長男であったわたしの父は、理由はわかりませんが、農家を継ぐことなく、妹さんにお婿さんをとって家を継がせ、自身は農業技術者として県庁に勤める道を選びました。そこで農家の三番目の娘であった母と見合いして結婚したと聞いています。もし父親が農家を継いでいたら、わたしもきっと継いでいたことでしょう。
 ときに父の祖父は、わたしが八歳のとき、大酒が原因で、脳溢血であっけなく亡くなりました。ですから、わたしの父方の祖父の記憶は、物静かで大酒し、銀色につやつや光るまで猟銃の手入れをし、また根気強く熊の毛皮をなめしている姿です。

 母の実家。そこには子どものころよく行きました。夏休み、冬休みだけではなく、田植えや稲刈りの時期にも、母が手伝いに行くついでに、よく連れて行かれました。
 母の実家は、北東北でも大きな河川である雄物川流域にある広々とした平野のなかにあり、田んぼのほか、祖父は一山をすべてりんご畑にしていて、リンゴ農家として暮らしていました。
 母方の祖父は、若いころ競馬のジョッキーだったという話しでしたが、わたしが知っている祖父は、書をよくする人であり、リンゴ山の中に庵を結んで、そこでいつも墨を擦って難しい文字を書いていた印象があります。

 そうした祖父の朝は、ひどく早かったのを記憶しています。
 朝、子どもであるわたしが空想でいっぱいになった夢を見ている時間、まだ夜の空が明けきらないころに、祖父はすでに田んぼに出ていました。
 いちど眠い目をこすりこすりしながら、祖父といっしょに田んぼに行ったことがあるのですが、祖父は田んぼに出ると四方の水路を確認し、水に手を入れて田んぼの水温を確かめ、まだ暗い田んぼ全体を眺めながら、あるところでは水を抜き、また水入れをして、その上で稲を一つ一つ確認するように手を添えてその生育の状況を観察し、そしてそれが終わると稲たちに向かって、声かけをして、またつぎの田んぼに移って、同じことをしていました。
 そして、夏の陽射しが強く田んぼの水面を照らす時期、きつい照り返しのなか田んぼに群生した雑草取りをするのですが、そのときはまるで稲を励ますように「エイエイ」と声をもらしながら、雑草を取っていく。
 それは稲の生育を願い、あたかも稲とともに生きていこうとするように見えました。いま思うには、それは稲とまさに〝連帯〟しているような風情だったように感じられます。
 リンゴの撰定、袋がけ、その作業も祖父は、じつに丁寧に慈しむようにリンゴの木に語りかけながらやっていて、それは一つのきまりきった日常的所作であったのでしょうが、じつに手際がよいもので、そうした日々の所作が「無形の作品」のようにも見え、じっと眺めていた記憶があります。

 よく作家や学者などの文章や語りには、農作業の手際のよさや畑の畝の盛り上がり、あるいは整然ときれいに規則正しく稲穂がならんでいる田んぼを見て、これが「日本人の美意識」だとか、「日本精神」のあらわれだとか書いていたり記されていたりすることを目にします。
 でも、そんな言葉に出くわす度に、わたしにはなにか疑わしいものに触れた気持ちの悪さにとらわれます。
 じっさい、わたしが子どものころ見ていた祖父たちの仕事ぶりは、そんな浮ついたことではない。すくなくとも、祖父たちは「日本人の美意識」や「日本精神」を表現するために、農家の仕事をしていたのではなかったように思います。
 そんな高ぶった賞賛の言葉やおだてとは無縁な地味な所作があるだけだった。それのみが祖父たちにとって、なによりも大切なことであったように思います。
 土や水、空や雨、そして野生の熊や鹿、あるいは稲やリンゴとの長いつきあいのなかで、そうした自然に生きていることに対して謙虚であって、自然から一歩引いたなかで生きる。
 都市のなかで何ほどにもならない地位や富しか誇ることができない人びと。いわば、実体験や生活感の希薄な人びとが、みずからの〝不十分さ〟〝不安さ〟を覆い隠すために、上からの目線で「名付け」をする。「美意識」だの「精神」だのの仰々しさ、そうした言葉や解説などとは、見事なまでにも遠くにある実直な〝暮らし〟・・・。そうしたなかに祖父たちはいたのだと思います。

 そんなことをいまに思い出すと、たしかに実体験や生活感が希薄ななかで起こった、実効性が乏しく矮小なガーゼ仕立ての「マスク」騒動のドタバタ。
 もしかすれば、それはたんにいまの安倍政権の〝失策〟というだけではなく、わたしたちの生きている「現代」という現実とかけ離れた空疎な時代が生みだした〝瑕疵(かし)〟のようにも見えてきます。

 ところで、ここで歴史について、すこし書きます。
 前回は鎌倉幕府の飢饉への対応について、危機回避の最終手段としての〝奴隷〟のありように絡めて、すこしだけ触れましたが、奈良時代の正史というべき『続日本紀』には、いまは撲滅されたといわれる天然痘の猖獗(しょうけつ)に苦しんだ聖武天皇の治世についての記述があります。

 高校で日本史を学んだ経験があれば、藤原不比等の息子たち「藤四子」が、天平9年(737年)にあいついで天然痘で没したことを知っている方も多いかと思います。
 日本列島は「島嶼国」であるが故に、疫病はたいがい外から流入する傾向があり、このときも新羅で疫病が大流行であることを知らず、遣新羅使が派遣され、遣新羅使の一行百人余りのうち、この天平9年正月に帰国した時点で、大方は天然痘に倒れ、一行のうち帰国できたのは40人だったとされています。
 そうした状況にもかかわらず、天然痘への防御や臨床的知識がなかったことで、生き残った一行が復命のため参内することになり、そのため朝廷の役人の間でまずクラスターが起こり、不比等の子である房前、麻呂、武智麻呂、宇合が順番に没し、廟議を司る役人の大方も病に死すという事態となります。そして、それが瞬く間に庶民まで感染する惨憺たる状況になります。

 ところで、疫病とはおもに貧困層のなかで発生し、手当のないまま多くの死者を出すと思っている方も少なくないでしょうが、じっさいいまの「コロナ禍」もシンガポールやブラジルでは下層生活者の地域で感染拡大を起こしている傾向があるものの、皮肉なことに、そうした貧民を大量に搾取し、その上で富を重ねている富裕層も、一旦疫病がおこると、疫病はそこに留まりません。あっというまに富者にも襲いかかっていきます。
 歴史が教えるところでは、疫病が起こった際には、貧民はつねにこうした災厄のなかで最大の〝弱者〟とはなりますが、それだけではなく彼らを虐げ搾取して、不可視な存在として放置した者たちも、ある意味〝平等〟に災厄を浴びるということです。〝権力者〟もうかうかしてられないのです。
 
 話しを聖武天皇の奈良時代に戻します。聖武天皇は、この事態にどういった対応を取ったのか。まず天皇は、聖徳太子の施療事業を参考に、興福寺内に薬草を栽培・手配し、薬を施すための「施薬院」を置き、一方で飢えを取り除き、病を救済するための「悲田院」を建てます。
 さらに養老律令で定められていた「医疾令(いしつれい)」をもとに、医療職や内薬司(宮中)、典薬寮(宮外)の組織拡充をはかり、また医学教育を強化します。
 そして、医術習得に秀でた者を「国医師」とする制度を確立し、その医師らは薬嚢(やくのう)をもって都を回り、困窮した病人に薬を与え、重症な病人を悲田院に収容させ、病が拡大しないように隔離したと記されています。
 くわえて、光明皇后も都の東西に「悲田院」を置き、施療のため、いまのお風呂にあたる「湯室」を造作し、病人を不潔から解放したといいます。
 鎌倉時代に書かれた仏教史である『元亨釈書』には、そこで慈悲深い仏心を持つ皇后は、病人の身体に浮き出た醜悪な膿を自ら吸い取ったという話が記されているのですが、それは疑わしいものの、皇后自ら陣頭に立って、病者の世話をしたというのは事実のようです。
 さて、その際の財源です。まずは聖武天皇自ら各地の朝廷財政を投入していきます。そしてそれだけではなしに、光明皇后には父の不比等から相続した封戸(稲などの収穫)があるのですが、そのあわせて四千戸あまりを投入したといいます。それはちょうど、いまでいう東京を除く関東六県の年間予算のすべてを投入する規模だったようです。さらに貴族たちも俸禄や私財をも含めた財産をいっせいに放出し、これらに当てる。
 これは鎌倉時代に、執権の北条泰時が飢饉に際し、自分の知行国の収入の大部分を当てて救済に乗り出したのとよく似ています。まずは為政者が自らの財産を供出し、率先して財源確保をはかる。
 
 こんなふうに見ていくと、古代からの為政者は、疫病や災厄に際し、まず厄災と対峙するための病院をはじめ薬や医師などの医療制度を打ち立て、病人の隔離などを迅速に実行する政策を行う。
 その一方で、疫病で生活できなくなった貧民救済のための、悲田院設立などの社会政策を行う。
 さらにその財源については、朝廷財産の供出を率先して行うとともに、富者や貴族の出資を徹底し、とにかく早急に疫病や災厄の苦しみから人びとを救済するという施策を行っていることがわかります。
 その意味で、現在の「コロナウイルス禍」への対応のありようは、医療確立、社会政策の拡充、それにともなう財政政策の策定が柱となっているわけで、古代から大方は変わっていないということができます。
 しかし、聖武天皇や鎌倉幕府の対応で注目すべきは、疫病や災厄に対して時間を置かず、身分格差や差別を乗り越えて、つぎつぎに迅速かつ徹底して行っている状況が見えてきるということです。それも、医療の進んでいない時代にあってです。
 またそれ以上に注目すべきは、こうした為政者の疫病や災厄への態度に見られる姿勢です。
 紙量もあるので、一つだけ聖武天皇の例をあげれば、天皇は自ら「自分が君主になって数年経ったが、徳によって人民を教え導くことが十分でなかったために、人民を安らかに暮らさせることができない。そのため、わたしは日夜憂いている。・・・春以来の災厄によって、天下の人民が多数死亡している。まことにわたしの不徳によってこの災厄が生じたのである。いま天を仰いで慚愧(ざんき)にたえない。そこでみなが生活の安定を得るために努力させてほしい」と述べていることです。
 つまり言い換えれば、この疫病・災厄は天皇自身に〝徳〟がないから起こったのであり、申し訳なく思っているということなのです。
 ここにはもしかして、このあと平安初期に最澄によって伝来した「天台仏教」における「悔過(けか)」、いわば人は自らを省みることで自らの不足と不徳を悟り、そこからでないと新たな救いはないとする考え方が、影響を与えているのかもしれませんが、大切なのは、聖武天皇自らが自身の〝薄徳〟〝不徳〟を詫び、〝仁徳〟が為政者にとっていかに大切かを説いていることです。
 このときの聖武天皇は、疫病のなか、神道や仏教への祈りや願い、さらに身を清らかにして、仏道に励むといったことを再三行っていますが、まずは、自分の至らぬさが災殃を招いているという地点に自らを置き、そこから救いを模索しているというわけです。

 もう翻って考えるまでもないでしょう。
 もちろん、いまの時代の為政者に〝徳〟など求めるのは古すぎるのかもしれません。しかし、欧米の為政者や首長が、自身の言葉で、冷静かつ事態の深刻さを科学的・医学的知見を交え、プロンプターなど見ずに直接的に人びとに語りかけているようすを眺めるなら、〝徳〟とはなにか。〝仁徳〟は、ごく自然にその人の品格ないし言葉のなかに現れるものだと思わざるをえません。

 疫病や災厄は、だれの身にもふりかかるものです。そのなかで、いかに「言葉」のもつ意思と人びとに向かい合う「態度」が問われるのか。
 このたびの「コロナウイルス禍」が、このあとどんな展開になるのか、わたしにもよくはわかりません。そうしたなか、いまのこの〝自粛〟の風潮に、どうしようもなく急に怒りが吹き出てくるときもあります。
 でも、この事態に対して、寄せ集めた知識やSNSの恣意的な流言で、一喜一憂してもなにもはじまらない。それだけは確実です。いくら「名付け」てみても「解説」されてみても、この先行きはなかなか見通せません。
 ならば、わたしの祖父たちがそうだったように、日々のなかでそれぞれの時間に意味を見いだしながら、何事かの「仕事」に意識を傾注し、丁寧に過ごしていくしかない。わたしにとって、それは書くことかなと思うしだいです。

 とはいうものの、思い出すのは教師としての初任校であった農業高校での5月の晴天のことです。この学校では〝さなぶり(早苗饗)〟といって、全校で田植えをする行事がありました。
 今年は、もしかして休校となって、この行事はできないのかもしれませんが、いまになって、何十年ぶりかに田んぼに入って、泥のぬかるみのなかで「田植え」がしたくなってしかたがない。困ったものです。 


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〝コロナウイルス禍〟と〝特攻〟とは?~戦時下と現在の日本人~

2020-05-02 18:56:22 | エッセイ
 5月になりました。一年で一番いい季節と言っていいでしょう。

 ツツジにサツキにバラ、黄菖蒲に藤、芍薬に杜若、ライラックの紫もきれいだし、赤やローズピンクのカーネーションも咲き誇っています。
    
 そして鳥たちも活発です。
 近くに多摩川が流れ、森の多い地域であるので、わたしの家の近くまで、メジロやホオジロ、センダイムシクイにコゲラやウグイスがやって来て、運がよければカワセミの姿も見ることができます。
             
 そんないい季節でありながら、〝STAY HOME〟のかけ声と呪縛(?)に、誰もが従わざるを得ない。みんな「コロナウイルス禍」のせいだ。そうあきらめざるを得ない。

 テレビもネットも、マスメディアには連日、ネット著名人からコメディアン・芸能人、スポーツ選手が、入れ替わり立ち替わって〝STAY HOME〟を呼びかけています。
 それら著名人のなかには、もともと閉域であるネット世界のなかで自己実現を遂げた人もいて、その人にとっては〝STAY HOME〟がなにも苦にならないのでしょうし、呼びかけに賛同している芸能人もスポーツ選手も生活に困る人たちとは思えず、だからこそ「家に籠もろう!」と問題意識も持たず自信を持って呼びかけたりできるのでしょう。
 しかし、テレビやネットで呼びかけているこうした人たちに、はたしてそれを語る資格ってあるのか? もしかしてボランティア風に見えて、勘ぐると、これはいい儲け話ではないのか。そんなことへの自責とかはないの?

 じっさい「STAY HOME」と言われても、多くの人びとは、そんなことで済ませる状況の人ばかりではありません。自殺者と思わしき人びとも出てきました。失業率が1%増加すると、これまでの統計だと2400人程度の自殺者が出るとされています。もうかなりの失業状態に人びとは置かれているのではないか。
 最近では飲食店ばかりがテレビなどで取り上げられますが、スポーツクラブのインストラクター、学費を稼ぐために必死にバイトしている学生、派遣、パートの主婦、工場での非正規労働者、いろんな事情で風俗系の仕事をせざるをえなくなった女性、とにかく仕事を失った、補償はなにもない、やりがいを失った、そんな人の前で、こうした彼ら彼女ら著名人の訴えは、むしろ〝脅迫〟〝恫喝〟のようにも聞こえてくるのではないかと思います。

 ところで、そんな状況のなかで、これまで「歴史」を生業にして、さまざまなことを語ってきたわたしが、どうしても実感としてつかめなかったことがあったのですが、それが今回の「コロナウイルス禍」の世相を見ることで、酷薄なまでに見通すことができた感じがしています。
 それは1930年以降の「アジア太平洋戦争」のなかで、あれだけ無謀な戦争、あまりにも理不尽な戦いに、なぜ容易に日本人がのめり込んでいったのかということです。日本人が全体主義(=ファシズムfascism)に雪崩を打って突入した理由はなになのか。
 その理由については、言葉や理屈ではわかっていたつもりでしたが、実感では理解できませんでした。しかしそれが、今回の「コロナウイルス禍」のなかで、おおよそが肌感覚として実感できたように思います。
 一言で述べるなら、それは〝日本人の弱さ・脆さ〟に起因する何かということです。
 関東大震災で行われた自警団(民衆による自主警察)らによる朝鮮人虐殺の惨状をまのあたりにした詩人金子光晴は、「日本人の上っ面がひんめくられて、オラオラといった地金が出てきた」と述べているのですが、その言葉に沿うならば、その地金の根に、日本人の〝脆弱さ〟があるということ。そんなことが、今回の「コロナウイルス禍」のドタバタのなかで見えてきたように思います。
 言い換えるなら、〝困ったときはお互い様〟などという上っ調子な情緒がメリメリと剥がされて、弱さゆえの強情で傲慢、自分さえよければいい、人を傍若にも小馬鹿にして差別排除する下卑た品性が表通りを闊歩する。それが実感されたと言ってもいいのかもしれません。
 
 「コロナウイルス禍」は世界の人びと、もう少し狭く見て、日本人にとっても「全体的」な〝危機〟と言っていいでしょう。つまり、阪神大震災や東日本大震災のように、ある意味、地域的に限られた危機とは性質を異にして、戦後初めて、日本人は世界とともに「全体的」な〝危機〟に直面したと言えます。
 そのなかで、いかに日本人が〝危機〟にたいしてタフじゃないのか、耐性がないのか。
 たしかに21世紀に入ってからの、ここ数年の日本人の姿を見るならば、ことさらに「恐怖」に弱かったように思います。たとえば、すぐ〝絆〟などという情緒的な言葉を持ち出し、原発の被害に真っ正面から取り組もうとしなかった。日本の形骸化した社会体制や教育制度に変革のメスを入れるのに怖がって、そのまま何十年も放置してきた。言い換えれば、日本人は、いまどきの若者の姿を見るまでもなく、社会変革や自身が傷つく可能性のあることに、臆病でずっと〝怖がり〟だったふうにも見えます。
 そのなかで、今回の「コロナウイルス禍」の〝危機〟を前にして、そのツケが、とりわけ気持ちの弱い者、心の脆い人びとのなかから、情緒的にまた過激にも浮き上がっている。そう思えるのです。

 そのひとつが、昨日今日には〝自粛警察〟などともいわれるようになった、人びとの視野狭窄的で異常なほど悪意となって肥大化した〝攻撃性〟です。とにかく人を攻撃して安心したい。正義に身を寄せたい。
 他県ナンバーに目を光らせ、見つけるとその車に傷をつけていやがらせをする。高速道路での監視。余所者、とりわけ東京からなどというと、ほぼ〝ウイルス〟〝ばい菌〟のように扱う。
 さらにパチンコ屋やライブハウスを目の敵(かたき)にする。飲食店に〝自粛〟しろと張り紙や無言電話、恐喝するなどして圧力をかける。
 宅配便の人に、いきなりアルコール消毒液を噴射したり、マスクをしない子どもはコロナをまき散らす元凶だと騒ぐ。スーパーに人がいっぱいだという理由で〝三密〟だと騒ぎたてる。
 これには、政治的な〝ポピュリズム〟のなかで権力を得た小池東京都知事をはじめとする神奈川、大阪、千葉などの首長の、自身への〝強権的ヒロイズム〟に対する抑制の効かなくなったあざとい行動が、大きく影響していると考えてもいいでしょう。
 なんの科学的根拠もなく、〝ロックダウン〟などといった激しい言葉をさらりと言いのける。自身の立ち位置の高みを取るのがうまいとしか言いようのない振る舞い。
 そして、補償を不言にして営業しているパチンコ店を「悪」と決めつけ、名前を公表するとまでする。一見「正義」に見える「私権」への抑圧を強権が行う。どこまで事業者を説得したのか。
 結果として、そうした振る舞いが〝脆弱〟な人びとの心の皮膚に粟粒を浮き出させていく。
 事実、先日スーパーで、子どもを連れた母親が、店員に正論を振りかざすように、〝三密〟じゃないの、どうにかしてよとヒステリックに大声で叫んでいるのを見かけました。老人がマスクをしない子どもを、お前らが「コロナ」まき散らしているんだと騒いでいる姿も見ました。 
 状況はともあれ、「三密」を防ぐことが、何よりの正義だ。若い人が無症状でウイルスをまき散らしている。年寄りはそのウイルスで重篤になって死に追いやられる。だから、子どもを叱る。
 このように、あまりにも短絡的な言説がまき散らされ、脆弱な心性のなかで不安に膨れ上がった〝攻撃性〟がのさばっている状況がここにはあります。

 二つめに、危機に弱い人びとは、〝嫌中〟や〝嫌韓〟にうつつを抜かす人びと同様に、容易に「仮想敵」をつくって排斥し安心しようとする。中国が悪い! 武漢ウイルスだ! 忖度官僚が悪い! アベノマスクが悪い! 
 その情緒的な上っ調子さは、まさに何かの〝金科玉条〟的なお墨付きをえようとする卑しさが後ろに控えていて、悪いのは「WHO」のテドロスだ! まさにそれはトランプ米大統領のやり口ですけど、そんな「正義正論」に自身の身をおきたがる。それで安心したいという〝脆弱〟さが透けて見えてきます。
 はたして相手を「仮想敵」とする根拠はどこにあるのか。おそらくはネット記事や書き込みを故意に鵜呑みにする。あるいは流行っているもの時流に乗っているものに乗っかって、安易に溜飲を下げようとする。
 しかも、そうした「仮想敵」への批判や恨みを、濾過されていない猥雑で暴力的なネット空間のなか、矯激な言葉でSNSでまき散らす。それで安心しようとして、自己検証などは考えない。
 すくなくとも政治家が一方的なTwitterで発信することは止めるべきかと思います。政治家は自身の地の言葉で、相手に語るところに価値があってしかるべきではないのか。言葉への責任の厳格性をTwitterは削ぎ落としてしまうと言ってよく、またSNSの短文では、なにを根拠に、どう調べてその言論が担保されているのか。まるでつかめない。結局、物議を醸し出す派手な立ち回りと見せ方だけの、あるいはネット炎上での効果しかない。

 たしかにいまの安倍晋三政権の、マスクにしろ、10万円の補償にしろ、そうしたもたつきは、もともとは習近平の来日、オリンピックの実施、インバウンドなどという浮ついた小金儲けに目がくらんで、「コロナウイルス禍」の対策に腰が引け、さらに誰からも文句の出にくい「学校一律封鎖」に無理矢理突っ込み、「緊急事態宣言」を出しながら、自分らの金でもないのに、その補償を渋り、とにかく〝見栄え〟ばかりを意識した政策と運営そのものに原因があります。
 おまけに「アベノマスク」は怪しげなもので、「アサヒノマスク」への的外れの攻撃、すぐムキになるありよう。そしていまもまだその状況が続いていることに辟易とさせられていますし、もっと言えば、今すぐでいいから「政権交代」すべく、すべての組織が動き出すべきではないかと思いますが、しかし、まずそれはここではおくとして、いま必要なのは、勢いや時流に乗るのではなく、また絶対自分に跳ね返ってこない、安心できる「遠い敵」への攻撃に快哉を叫ぶのではなく、立ち止まって、自分自身のなかにこそ、ほんとうの「敵」が存在しているのではないかという内省だと思うわけです。 

 そして最後に、人びとの〝脆弱〟さが見て取れるのは、過剰な同情や無定見を計算高く隠蔽した〝寄り添う〟というありようです。
 よく言われるようになったのは、医療看護を担っている人を「リスペクト」しろ! 彼ら彼女らは、命がけでやっているんだ! 感謝しろ!
 医療現場の現実を聞きかじっただけで、すぐに「正義」の御旗に掲げる。とりあえず、そう言っておけば、だれからも批判されない。それを口にすることで、自分を「正義正論」の立ち位置に置けるという爽快な気分。
 よく周りを見渡してみると、わたしたちもそうした薄っぺらな情緒で、自分自身を安全なところに置いている可能性があります。ほんとうに現場を知っているのか。安易なより添いだけでなく、過酷な現実をどのように痛みとしてわかっているのか。もしかして、批判からの隠れ蓑と自己保身、それとまさに自分こそが、正義なのだという過剰な振る舞いをしてはいまいか。
 
 そうしたいま現在の様子と「アジア太平洋戦争」のなかで見えてくるのは、ひとつに「現下の情勢」だの「時局」だと言いつのり、国家の方針に不服従だったり、違背したとみなした人びとに、いまどきの「自粛警察」さながらに、「あいつはアカだ!」「敵性音楽を聴いている!」「非常時なのに高そうな服着てる!」「供出物を出さない!」「男、女と話している!」・・・。
 そうやって、「国家」のありようや自身の言説に疑いをまったく持たない。ただひたすらに「国家」の方針、時流に添って、他者の権利や自由、それぞれが、どんな事情だったのか、それを見ない考えない考慮しないで「正義正論」を振りかざす。じぶんの〝脆弱〟さを隠すためにも優位に立つこと狙う。
 そして、よく知りもしない「英米」を仮想敵国としてでっち上げ、アメリカ人はみんな享楽的で根性ができていないなどといった根拠の乏しい、いわば観察もせず不確かな理由をとってつけて、周囲を惑わし、自らの過ちや欠落を誤魔化し、嘘をつく人びとのありよう。
 さらに、若者が戦闘機に、あるいは魚雷に乗って、ほとんど効果のない「特攻」を仕掛けたとき、それを起案し実行した無謀で愚鈍でのさばり返っていた軍幕僚や政府官僚、権力を批判せず、〝裂帛の精神〟だの、〝滅私奉公の極み〟などと、権力に迎合し、それを恥じもせず、特攻隊の若者を指嗾し無駄死にさせた人びとの存在。
 そして戦後生き残ったののはいったい誰だったのか。それは一切責任をとらず、安全なところにいて、後ろ手を組んでいた日本人でなかったのか。

 
 脆弱な人びとは、なによりも自身が〝安全〟で、〝危機〟を逃れることを考えます。そのため国家権力の言うなりに、まさに〝自粛警察〟のような攻撃に血道を上げて、「仮想敵」をでっち上げて溜飲を下げ、過剰な同情や同調、鼓舞することで、「命がけ」などという言葉をまき散らし、自分の立ち位置を高めて、浅薄な「正義正論」に身を委ね、苦しさから逃れようとします。
 そして、物事が済んでしまうと、そうした自己をふりかえることなく、さっさと忘れてしまう。その意味で、この「コロナウイルス禍」のなかでいま見えてきている状況は、まさにさきの「アジア太平洋戦争」での〝地金が剥き出し〟になった日本人とじつによく似てきていると言えます。

 はたして歴史上、〝危機〟に対して日本人は、こんなにご都合主義的で脆弱だったのか? わたしが見るに、それはもしかして「近代」「現代」になってより顕著になってきたのではないかという気もします。
 それとともに、現在に生きるわたし自身も、もしかしてそも三つの〝脆弱〟のどれかに引っかかっているのじゃないか。考えなくてはなりません。
 
 今回のブログは、これで終わりにしますが、最後に長めの一言。

 さいきん時間に任せて、鎌倉時代の幕府の正史ともいうべき『吾妻鏡』をつらつら読んでいて、ふと気がついたことがあります。

 この鎌倉からの中世という時代は、飢饉に疫病、天変地異、戦乱が、それこそ頻繁かつ連年続いている時代でした。とりわけ、「コロナウイルス禍」と同様な疫病の流行で、多くの人びとは死に絶え、ニューヨークの「コロナウイルス患者」の死亡者の如く、疫病の拡大が怖れられ、それぞれの遺体は選別や区別されることなく、みんなまとめられて地中や荒野に投棄されるような状況でした。
 しかしながら、そのなかで人びとが生き延びることができるよう、ほんらい奴隷制は幕府の禁ずるところだったのですが、生きる手段として、裕福な者が飢餓に瀕した人びとを奴隷として買い取って、労役を課す一方で、生き延びさせ、食うための手立てをすることを幕府は「養育の功労」として許しているのです。
 そして飢饉が終わり、人びとが奴隷となった家族を取り戻したいときは、買い取られた金銭を幕府が援助することで、奴隷の身分から解放するといったことが記されているのです。
 詳しくは、つぎの機会にまたお話ししますが、そうした飢餓からいかに生き延びるかについて、ときの政治権力は、なにも傍観していたのではない。むしろ、その状況下やその時々の通念から、さまざまな手立てを生み出していたと言えます。

 長くなりました。まずは〝生き延びること〟が大事なことだと思います。この反省を、のちの時代に伝える意味でも、〝生き延びる〟ことが大切で、世界もまた、いまそれが急務になっているかと思います。
 人類は、これまでこうした〝危機〟をどのように生き延びたのか。そこには為政者によるさまざまなな施政や手立てもありましたが、それとともにその悲惨さを乗り切る民衆の〝覚悟〟もあったこと。現在もいずれ「歴史」となります。
 そう考えると、いまの日本人の〝脆弱〟なありよう、恐怖からの安易な出口探し、政治権力へのすり寄り、情緒的な正義の振りかざしは、困難から脱却する意味でも、また歴史的に考えてみても、けっして正しいありようではないと言わざるを得ません。
 とりあえず、もう一度、わたしたちは自らの〝脆弱〟さにきちんと向き合うことが必要なのかもしれません。それがのちの時代に歴史として伝わる意味のように思います。

 一年でもっともいい季節、美しい季節のなかで、ひたすら思うことは、なんとかわたしたち自身がこの〝危機〟の前で、無駄な攻撃性を排除し、苦しみを苦しみと感じつつ、他者に優しくなって、ともにこの困難に向き合おうという姿勢にあるかと思います。
 外出自粛のいま、せめて自身の家の周りの風景や町並みに、小さいながらも草花や鳥たち、そして自然や人びとのありように新たな発見があるといいな。そう思っているところです。

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