八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

拙書についてです。

2016-12-22 22:57:51 | エッセイ

 また自分のことで恐縮です。

 じつは拙書『日本人が知らない「天皇と生前退位」』がkindle版で昨日から発売されています。

 いつかアメリカの「TED」という番組で、本の表紙をデザインしている著名なデザイナーが、なぜ本には表紙があるのか。それは気まぐれにあるのではない。その表紙を見ることで本の中身を想像する。そこからすでに読書ははじまっているのだ、と言っていたのを思い返しています。そして本棚にならぶ背表紙を観て、深く心に残った本、すぐ内容を忘れてしまった本、そのさまざまなありようから、人は自己の歴史と対面するのだとも言っていました。
 そう思うと簡便だとか場所を取らないというkindle版の利便性は、ある意味で、その人の歴史をどこかで損なってしまっているのではないかなぁ、とも考えてしまいます。つけ加えるに、わたしはkindle派ではありません。本をモノとして、大切にしたいタイプです。書き手の気持ちは、書籍になることで実現されると、信じています。

 でも拙書のkindle版が出版されたことは、書店まで足を運べない方、本を持ち続けることが体力的に無理な方、そんな方々にも読んでいただける機会を増したことは事実です。そして2割ほど値段も安いわけで、もって慶賀とすべしかとも思います。まずは、多くの方にお読みいただけることを願っています。

 


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この17日に「淑徳大」で浜口雄幸の講義をします。

2016-12-15 18:09:57 | お知らせです!

 いつもやっていた淑徳大学のエクステンションセンターの講義も、あと4回を残すのみになりました。
淑徳大学の経営の都合で、エクステンションセンターは閉講と決断されたようです。この講座では、北野大氏や竹田青嗣氏、西部邁氏なども講義されていたのですが、残念ですね。

 わたしにとって、これまでこうした閉講にともなう講座や授業の停止は、三回目になります。
一回目は、秋田県立十和田高等学校定時制課程の閉鎖。このときは本校の分校である大湯校舎は存続したのですが、転勤を命ぜられ県立能代北高等学校(現能代松陽高等学校)に行くことになりました。
二回目は、二年前に予備校の大規模な校舎縮小に伴い、これはいきなりだったので驚きましたが、いずれにしても首都圏の校舎がほとんど閉校になって大いに影響を受けました。
 そして今度が三度目というわけです。淑徳大の講座は、日本の「中世・近世の芸術精神史」と「近現代の政治精神史」といった講座をほぼ毎週二講座を設定し、講義を行っていました。
 すでに「中世・近世の芸術精神史」はpartⅣを数え、3年間にわたって講義を行ってきました。そして、その講座はこの12月12日で終講となってしまいました。
 そこで、来年一月まで残っているのが「明治維新から昭和までの6人の政治家」シリーズで、その第三講として「浜口雄幸の国家観」の講座が17日(土)にあるというわけです。

 そんなわけでここ数日、この講座のための下調べをしていたら、浜口雄幸の『随感録』に、気にとまった一節がありました。そこで、それについてすこし書きます。
 というのは最近、若い人がほとんど本を読まないし、それは若い人に限らず大人も本を読まなくなったことへの一つの提言ともいえるもののような気がしたからです。

  本は読むべし、本に読まるるなかれ。・・・書を読め、而して思索せよ。書を読んで思索せずんば散漫に陥り易く、思索して書を読まずんば空想に陥り易い。
 之を食物に譬うれば、書を読むことは食物を摂取することであって、思索することは其の咀嚼である。二つのもの相伴わなければ頭脳の栄養とはなりがたい。正確なる知識、正確なる判断力とはなり難い。 

 たしかにいまの日本人は、本を読まなくなって、人びとは携帯端末の情報にばかり吸い寄せられている感があります。しかも、その情報もあまり考えもせずに、つまり「思索」せずに、「ああそーなんだ」的に信じ込んだり、検証もせずに盲目的に、自分の狭い嗜好でのみ処理して、金科玉条のように信じ込んでしまうようすが痛い感じになっています。
 それは、じつは携帯端末のない時代でも同じだったようなんです。

 たしかに、これまでの時代を振り返ってみると、考えることなしに安易に本を乱読し、左翼や右翼思想にかぶれていった世代が何と多いことかということです。主義主張に簡単に丸め込まれ、自分で一生懸命考えようとしない。その結果、権威ばっかり追い求めたすがたを、秋田で教員をしているときに、切ない気持ちで見ていました。
 簡単に言えば、教員組合でも県の教育委員会の研修でも、中央、つまり東京から来る人たちを崇め奉り、地元で地道な活動をしている人びとを「バカ」にする習性です。そんなことを考えると、最近百歳を越えて亡くなったむのたけじさん、この人は秋田の横手で長い間、「たいまつ」という新聞を発刊していたのですが、その苦労は並大抵ではなかったと思います。

 大切なのは、いつの時代も考えること、思索することだ。この提言は、小さくはないですね。

 いまの時代とは、ふわふわしてとりとめがなく、日々なんとなく過ぎているといった印象です。電車で行き会う人びとの表情も優れた表情はなく、高校生もずいぶん暗く沈んだ印象です。勉強にばっかり、せっつかれているか。でなければ、いまの時代に無気力というポーズで抵抗しているか。

 たしかに、トランプが出てくれば株が上がった、円安だと盛り上がり、カジノ容認の法律は、お上というか幕府(わたしは現安倍政権を政府とは呼べなくなっています)の強行採決で決まってしまう。でも、多くの人びとは日々のなんとなく過ぎていく感覚の中で、目先の仕事や労働に追われ、思索する考えるいとまもない。なにか世の流れにそのまま迎合しているしかない。
 一方で、「ヘイトスピーチ」や通称「ネトウヨ」と呼ばれるサイコパス的な人びとも、じっくり「思索」するでもなく、すぐ結論を急ごうとする。バカボンのパパのように「これでいいのだ」式の短絡さ。桜井女史、稲田のねーさんが言うんだからいいことだ。いいですね。そんな風に思えて。

 「思索せよ!」「思索とは其の咀嚼である」
 この言葉を目にしたとき、むしろ、本を読まなくなったことを嘆くのではなく、もっと深刻な状況が、いまの日本にはあるのかと思いました。
 つまり、人びとがものを考えなくなった。如何に生きるべきか。どういった人間になろうとしているか。自分のそして家族や子どもの人生って、何なんだろう。「思索」する大切さを、いまからちょうど85年前に兇弾に倒れた政治家浜口雄幸の言葉から、感じとったしだいなのです。現状を変化させ、自身の停滞感も打ち破るのには、やはり「よく考える」しかないし、「思索」するしかない、ということです。

 そんなわけで、浜口雄幸の言葉を紹介するついでに、淑徳大学エクステンションセンターでの最後の講座へ思いをはせたというわけです。

 ちなみに淑徳大エクステンションセンターの講座は、途中からでも入れます。残りの講座は、浜口雄幸のあとは犬養毅、東條英機、吉田茂です。淑徳大エクステンションセンター(池袋駅すぐです。03-5979-7061)まで、聞いてみて下さい。

 いま考えているのは、この講座が終講になっても、わたし自身、かつて「宏究学舎」という私塾で、哲学や歴史、それと芸術などの自主講座を行っていたわけで、できれば「宏究学舎」を再建して、講座を展開できないかということです。場所や資金面などハードルは高いのですが、2017年度には実現すべく、がんばってみよっと。そんな気でいます。  
 

 

  

 


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