八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第二部>[再録]

2020-09-11 20:28:30 | 〝哲学〟茶論
<お知らせ> 前回の[第一部]とこの[第二部]は、過去に京都商工会議所主催「京都講座」での講演記録をre-writeしたものです。 
  流謫と流離
                  
 大宰府にむかう途中、菅原道真は播磨国の明石駅で、道真の流謫の事実に驚いて深く嘆く駅長をみて、つぎの詩を詠んだという。
  駅長莫驚時変改
    駅長驚くこと莫かれ
     時の変り改まること 
  一栄一落是春秋
          一たびは栄え一たびは落つる
     これ春秋
 「時変」と「栄枯盛衰」の習いは、これこそ「春秋」である。つまり、時代における栄枯盛衰は、これこそが年月の奥義であるということである。その言葉に、菅原道真のこのときのすべての感慨が簡潔に詰まっている。
 この詩文は院政期の歴史物である『大鏡』に載っている。しかし、道真が死の直前に盟友紀長谷雄に贈ったものとされる『菅家後集』には、これは僧侶の書き記したもので真偽ははっきりしないとしている。
『源氏物語』にもこの詩は引用されていて、そこでは「くし=口詩」いわば口頭で詠んだものをだれかが書き取ったと記されている。
 しかし、この漢詩はいかにも道真らしい、毅然とした無常感が現れたもののように読むことができる。そしてさらに道真は、配流の苦しみをつぎのような言葉で綴る。
  嘔吐胸猶逆
    嘔吐して胸もなほし逆ひぬ
  虚労脚且萎
    虚労して脚も且萎えにたり
  肥膚争刻鏤
    肥膚争(いか)でか刻(き)り
    鏤(ちりば)めむ
  精魄幾磨研 
     精魄幾ばくか磨研する
 おのれの肉体に刻み込まれた痛苦と疲弊。彫琢された言葉に内在する忿怒と憤り。しかし、それでも道真は主上(ミカド)への思いを重ねて詠ずる。
  去年今夜侍清涼
   去(い)にし年の今夜清涼に侍りき
  秋思詩篇独断腸 
   秋の思ひの詩篇独り
    腸(はらわた)を断つ
  恩賜御衣今在此
   恩賜の御衣は今此に在り
  捧持毎日拝餘香
   捧げ持ちて日毎に餘香を拝す
 清涼殿にあって、右大臣兼右大将として醍醐天皇に近侍していた自分。それから流謫へと転じたことの悲しみ。心を切り刻む痛切さと哀切さ。
 あわせて「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 此秋独作我身秋」という詩句。意訳するなら、我が無実を訴えたいというはげしい願望がある。風のすさまじい鋭さはまるで刀で突き刺すようであるが、それでも我が愁いを破ってはくれない。月の照らすのを見ても風のすさぶのを聞いても、我には身の毛がよだつように凄まじく感じられる。天下の秋の愁いは、我が身にことごとく集中して、我れのみ愁いが限りなく深い。
 道真には、政争で放逐される以上に、無実であること、自らの潔白がまったく無視される現実に狂おしいばかりの怒りと絶望があった。
 道真が左遷される際に詠んだといわれる和歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はよく知られるが、こうした抒情的な情緒とは異質な、いわば漢詩文がもつ「現実との裂け目」、それらが肉体の深い根の底から絞り出されるように詠じられている。
 それとともに讃岐国司のとき詠んだ『寒早十首』のほか、配流後の道真には、都から遠く離れた文化とはほど遠い人びとのくらす姿をとらえている漢詩がいくつもある。
 塩を焼く苦労。その一方で不正の儲けをする輩。軽々しく人を殺傷し、群盗が肩を並べて横行している状況。漢詩という表現方法で道真はそうした世の矛盾を抉出する。
 しかも、そんななか凡俗にも官吏はそれらを無視し、無聊に釣り糸を垂れているばかりなのである。道真は、漢詩の対句・対比という表現でそうした「現実」の矛盾・苛烈さを浮き彫りにする。

 道真が流謫地大宰府で没したのは、延喜三年(903年)旧暦二月二十五日であった。享年五十九歳。梅のほころぶ季節と言いたいところだが、じっさいは現在の三月下旬であるため、桜咲く季節であった。先にも触れたが、貴人の多くはその死を憤死と受け取った。そしてそれが猛威を振るう〝祟り〟への恐れとなった。

 なぜ『古今和歌集』は編まれたのか?

 そこで気になるのは、道真の死とその直後に勅撰された『古今和歌集』の関係である。左大臣藤原時平は、道真没の知らせを受けると、ひそかに紀貫之らを呼び集め和歌集の編纂事業をはじめたと思われる。紀貫之の私家集である『新撰和歌』などによると、和歌の詞書に「延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る」とある。
 『古今和歌集』は、これによると延喜五年(905年)四月六日に完成したように思われるのだが、となると編集の準備は、少なくともその一年以上前にはじめられ、選者を集めて作業に取りかかっている必要がある。
 するとこの『古今和歌集』は、道真没後のかなり早い段階で企画されていたのはまちがいがない。プロデュースしたのは藤原時平とされているが、ではなぜこの時期に「和歌集」の編纂がなされたのか。文章博士である道真と和歌集の勅撰。その間に何があるのか。

 『寒早十首』に何が託されたのか?
 
 平安時代に入って日本の漢詩文にもっとも大きな影響を与えたのは、八世紀の盛唐時代に活躍した杜甫や李白ではなく、唐の衰退期に居合わせた白居易(白楽天)だったという。
 白居易は九世紀半ばまでに活躍した詩人だが、その『白氏文集』は日本の貴族社会の中で広く読まれ、鎌倉初期の歌人藤原定家の「紅旗征戎非吾事」という文言も『白氏文集』の一節から切り取ったものだった。それはともかく、時代は違うが、白居易が菅原道真に与えた影響もまた大きかった。
 白居易の漢詩は、士大夫の「左遷」をテーマのひとつとし、それとともに社会批評とも言うべき「諷諭詩」というスタイルが基本となっている。
 白居易の経歴を軽くなぞると、現在の河南省に生まれた白居易は、子どもの頃から頭脳明晰であり五歳のころから詩を作ることができ、九歳で声律を覚えたとされる。彼の家系は地方官として生涯を送る地元の名望家といったものであったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれ、彼は二十九歳で科挙の進士科に合格し、地方官の上席に累進し、その後は翰林学士、左拾遺などの高級官僚の仲間入りを果たしていく。しかし、四十四歳にして社会批判や政治批判が咎められ、官吏としての越権行為があったとして現在の江西省の司馬に左遷される。その後、再び中央での活躍を嘱望されるが、それを倦み、地方官を願い出て杭州・蘇州の刺史となり、最後は刑部尚書の官を七十一歳まで務めた。
 つまり白居易の生き方には、けっして権勢に媚びない。それが故の「左遷」があり、地方官としての生き方があり、それを発条(バネ)として天下国家に対しての「諷諭」があった。気高い倫理性と『長恨歌』に代表される滅びゆくものへの同情と哀惜、それを歴史的な叙事詩として雄渾に詠いあげる。それが日本の貴族たちに愛唱されてきた理由である。そしてしばしば道真はこの白居易と比較されうる詩人だとされていた。
 さきに触れた道真の讃岐国司時代の漢詩『寒早十首』をあげてみる。

 何人寒気早 寒早走還人
  何れの人にか 寒気早き寒は早し 
   走り還る人 案戸無新口 尋名占舊身
  戸(へ)を案じても 新口無し 
  名を尋ねては舊身(そうしん)を占ふ
 地毛郷土瘠 天骨去来貧
  地毛(ちぼう)郷土瘠せたり
     天骨去来貧し
 不以慈悲繋 浮逃定可頻
  慈悲を以て繋がざれば
     浮逃定めて頻りならむ
 何人寒気早 寒早浪来人 
  何れの人にか寒気早き
  寒は早し浪(うか)れ来(きた)れる人
   欲避逋租客 還為招責身
  客は 還りて責めを招く身となる
     避けまく欲(ほ)りして租を逋るる
   鹿裘三尺弊 蝸舎一間貧
     鹿の裘 三尺の弊(やぶ)れ
     蝸(かたつむり)の舎(いえ)
        一間の貧しさ
  負子兼提婦 行々乞與頻     
      子を負い 兼ねて婦を提(ひさ)ぐ
      行く行く乞與(きよ)頻りなり
    ・・・略・・・ 
  何人寒気早 寒早夙孤人
   何れの人にか 寒気早き寒は早し
      夙(つと)に孤(みなしご)なる人
  父母空聞耳 調庸未免身
   父母は空しく耳にのみ聞く
   調庸は身を免れず
 葛衣冬服薄 蔬食日資貧
  葛衣(かつい) 冬の服薄し
     蔬食 日の資(たす)け貧し
 毎被風霜苦 思親夜夢頻 
     風霜の苦しびを被る毎に
  親を思ひて夜の夢頻りなり
  (「寒早十首」『菅家文集』)
 
 十分な食糧もなく骨を削るように生き、凍えるような寒さと過酷な租税に苦しめられている貧者たち。その状況を克明に描写するなかで立ちのぼる抒情。まさに絶望や悲惨という叙事を悲痛に歌い上げる詩魂。詩は根本において「述志」であるとはある詩人の言葉だが、菅原道真の漢詩には寒さやひもじさからの黙しがたい訴え、救済への叫び、そして祈り、そうした情感があたかも出口をもとめてせめぎ合うように描かれている。
 もともと形象文字に源をもつ漢字には、文字の一つ一つにつねに現実がつきまとう。だから漢詩には、現実を内包し告発する叙事詩としての性質が生来的に内在していると言える。では、それにたいして和歌はどうなのか?
        
      <古今和歌集>

 『古今和歌集』について
   ~和歌に内在する「気配」とは?

 短詩のなかに恋情や抒情を含ませる。匂い立つ気配を表現する。和歌の特徴については、これまで多くの解説がなされてきた。それをここで解説してみてもあまり意味がない。ただ和歌という短詩系の文芸における「気配」についてだけは触れておかねばならない。
 『古今和歌集』の選者紀貫之を歌壇に推薦したのは、紀貫之よりも四十歳ほど年長だった「三十六歌仙」の一人で醍醐天皇時代に従四位上であった右兵衛督藤原敏行だとされている。その敏行の歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」という秀歌がある。目には見えない。であるが気配は濃厚である。そもそも情緒や抒情というのは、目には見えないものである。それを言葉で感じ、映像化する。
 『古今集仮名序』にも、
 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。・・・中略・・・さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎ、たのしみ心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。
 とあるように、歌に現れるのは〝実景〟ではなく、その気配である。そしてその気配は、目前にあるものではない。すでにこの世から喪われたもの、存在する事は認知されるが見た事のないもの。
 「美しいもの見たければ目をつぶれ」といった文学者がいたが、むしろじっさいの景物ではなく、情緒のなかにある景物。より踏み込んでいけば、死出の世界を思いおこすことにもつながる。貫之の歌を詠む(『古今和歌集』)。
 桜花散りぬる風のなごりには
   水無き空に波ぞたちける
 
桜花疾(と)く散りぬとも思ほえず
   人の心ぞ風に吹きあへぬ
 世の中はかくこそありけれ吹く風の
   目にも見ぬ人も恋しかりけり

 ここには投影の構図ともいうべき美意識がある。自然界の現象と人生一般の命題を節合させ、目の前の景物から連想を展開して見えない世界への〝幻想〟を詠うのである。
 それと和歌集が編まれた背景には、死者への鎮魂があると考えておかねばならぬ。和歌を詠むこと、みんなで唱和することは、黄泉の世界に住む人びとへの現世からの交信であった。
 さらに死者への鎮魂は、同時に死者に縁のある多くの人びとが「哀情」を重ね合わすことのできる交流板のようなものであった。集団で唱和することによって、より鎮魂の思いを深めることができる。ある意味それは仏教の「音声」に通じるものでもある。

 大伴家持の私家版とされる『万葉集』は、戦火に倒れた多くの兵士の鎮魂集として編まれたとする説がある。そもそも大伴氏は軍事氏族なのである。
多くの防人の歌が集められ、たとえそれが、さきの戦争の際の「特攻兵士」のように、死を覚悟させる意味で一カ所に集められて書かされたものであっても、白村江の戦いや壬申の乱で、どうしても避けられぬ死を前にした兵士の、その「死」そのものを悼むものとして編まれたという想像は、それほど間違ったものではない。
 『新古今和歌集』も、世に源平の争いとして知られる治承・寿永の大乱で多くの戦死者を出したことへの鎮魂。南北朝期の南朝の宗良親王が編んだ『新葉和歌集』も、南朝の正統性を誇示するといった性格はあるというものの、多くの悲歌が集められ、これも南北朝期に倒れた武士や兵士らの鎮魂を無視することは出来ない。
 その意味で慌ただしく編纂された『古今和歌集』も、その背景にあるものとして、菅原道真の死を無縁とはしがたい。もちろん『古今和歌集』の部立ては、春夏秋冬、賀、離別、羇旅、物名(もののな)、恋、哀傷、雑などになっていて、花鳥絵巻としての華やぎがあるのだが、それすらも、この時期、まだ名誉も回復されていない菅原道真の和歌が二首採られている意味を考えるなら、道真の鎮魂を想像してもあながち外れたものではないだろう。
  秋風の吹きあげに立てる白菊は
    花かあらぬか波の寄するか 
 詞書きには、道真と素性法師のそれぞれ一首、紀友則(病にあった友則は、延喜五年『古今和歌集』が世に送り出された秋に没している)の二首を括る言葉として、「おなじ御時(宇多天皇のころ)せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌」と述べられている。そしてもう一首。
 このたびは幣もとりあへず手向山
  もみぢの錦神のまにまに
 詞書きには、「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる」とある。二首とも、宇多天皇とのかかわりの和歌である。宇多天皇と菅原道真。二首とも道真の死に手向ける意味があったと考えていい。

 結語:漢詩と和歌、
        そして〝祟り〟の発生

 そろそろ紙面が尽きた。最後に漢詩と和歌について考えてみたい。その違いはおおよそつぎのようなことになる。
 和歌には、花鳥絵巻として〝抒情〟を掻きたてる世界観がある。それは「気配」の美学であり、景物をまえにしての「小世界」に耽溺する風流韻事の世界に遊ぶ美学と言えよう。さらに唱和することで情緒的な〝親密圏〟を形成し、幻想のなかでの親和性や情緒を高め、それが鎮魂にもつながっていく。
 それに対して漢詩とは、情緒というよりは〝条理〟を説くものであろう。雰囲気を共有するというより主観的な視座を起点にする美意識である。そのなかで世相の不条理・不合理を告発し、格調高い音律と事実描写の的確さのなかでの悲痛や慟哭を表現する。また漢詩に映し出される事物や景物の多くは存在それ自体の現実性が表現され、あくまでも叙事詩的である。
 そこで菅原道真の敗北の意味するものを見ておきたい。
 道真の敗北には、彼が最も得意とする「漢詩」的合理主義があったのではないか。それは言葉を換えるなら、教養主義の敗北のようにも見える。
 道真は、つねに合理的道徳性を政治に求めた。しかしその一方で、道真を左遷し政治的に追放した側には、合理性に対する厭離が見て取れる。つまりは情の勝る「ミウチ」意識、「ウチワ」意識、物事への「忖度」が、政治の多くを占めていたのだ。
 ただし、そうした親密な意識には、一方で後ろめたさを生む要因にもなる。〝祟り〟という恐怖には、合理性が身に纏っている正しさを、非合理的なやり方で毀損した後ろめたさがあると言っていい。
 菅原道真の左遷からその死を通じて、歴史的な目で見ていくと、「平安」という時代が、中国文明の合理主義的な教養主義の正義性を喪失し、情緒的で親密的な閉域、もっと安逸な貴族社会における「ミウチ」主義や「ウチワ」意識に傾斜していった時代だった見ることができる。
 そもそも貴族政治とは、「ミカド」とその取り巻き親族らが権力と富を分かち合っていた時代であった。叙位と除目、一族内の調和と祭祀、そして荘園の分配以外、たいした政治力を必要としなかったこの時代は、地方の貧困やその現状を、無視しつづけた時代でもあった。たしかに、中央貴族や皇族の住む閉域世界では、柔和で保温が効いていて、美しい幻想に身をゆだねていればよかった。
 しかし一方で、現実に眼を向け、治世者として周囲を見渡してみると、それはあまりにも荒涼たる景色であったはずである。そうでありながら、現実を見るものは、貴族や皇族にとって破壊者であり、恐怖をもたらす者でしかない。
 しかし、いつしか恐怖は肥大する。これまでの安逸は、いつか巨大な跳ね返りになって、大きな厄災をもたらすかもしれない。安逸の世界の閉域にいればいるだけ、その怖れは募ってくる。菅原道真の怨霊への怖れは、じつにそのあたりに宿されたものであったのだろう。
 そして、それはそんなに遠くない時代に、大地震と飢饉、それに武力でのし上がってきた武士の台頭というかたちで現出した。
 
 漢詩がもたらした合理的教養主義は、日本社会に大きな影響を与えたものであったことはまちがいない。でありながら、その一方で、合理性と合理主義のもたらす正当性は、なかなか根付かなかったことも事実であるように思う。日本の歴史をたどっていくと、いつの時代もいつのまにか「気配」や「情緒」が勝り、「思想」や「精神」が厭われていった。もちろん、隠者や世捨て人の「思想」や「精神」は残ったと言えるかもしれないが・・・。
 非業の死を遂げた菅原道真の〝祟り〟とは、安逸に流れている社会への警鐘であったことはまちがいない。それとともに思うのは、いまの日本の社会にあっても、警鐘であり続けるものと考えていいのかもしれない。


          
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