八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆☆〝脆弱な国と厄災〟~「アベノマスク」到着☆☆☆

2020-04-26 12:26:24 | 思うこと、考えること!
 いろいろ曰く付きの「アベノマスク」が、わたしにも届きました。
 見た瞬間、〝ちっちゃ!〟の一言でした。

 まさに安倍晋三氏の顔に、ちょこんと乗っている「給食マスク」さながらのもので、安倍氏も、かなりの大顔ですけど、大顔では引けをとらないわたしにとっても、どうにも情けないマスクでした。
 こんな「アベノマスク」に大金を投じた意味はあるのか?

 たしなめ顔、したり顔の某東京キー局の局アナは、せっかく作ってくれた人への感謝を持てとのご意見(Twitterかなんか)でしたが、このマスクはそもそもとある東南アジアの国で作られたそうで、その国でマスク作りの作業をしている労働者が、はたして日本へのものであるとかコロナ禍への援助の気持ちがあったかとなると、そのこと自体を慮るのは無理筋ではないのか。この「感謝云々」は、まさに「アベノマスク」批判封じの効果しか生まない。すこしでも考えてみれば、わかることのように思います。
 日本人が、よく陥りがちな〝杜撰〟〝不出来〟〝欠陥〟なことがあっても、「一生懸命」であれば許されるという無定見な情緒は、まさに欺罔です。それを押しつけられるウザさすら感じます。ましてやそれが現政府・政権が行ったことであるなら、政策の失敗だと厳然と批判されてしかるべきでしょう。

 ところで、マスク到着でさらに驚いたのが、マスクに添付されていた文章でした。
 わたしは長い間、身過ぎ世過ぎで、大学受験生の論述問題の添削を生業としているのですけど、こんな文章で、よく東大などの入学試験を通過できたもんだと、あきれるくらい不出来で、これほど拙い文章を見たことがありません。
 ランクわけしてもしようがありませんが、A/B/C/Dランクでは、DかよくてCレベルの文章です。わたしだったら落第点しかありません。ちなみに、わたしの論述の授業に出た者の少なくない数が、官僚になっているのですが、今回はなんか怖いと感じざるをえませんでした。

 いきなり冒頭で「現下の情勢を踏まえて・・・」という書き出しです。まるでうしろで軍歌でも流れているのかなと思わざるをえない書き出しに驚かされます。旧軍人が戦時中よくこの文言を多用していました。
 まずもって「現下の情勢」とやらに具体性がありません。わかっているだろう!といった威圧がここにあります。知らないのなら〝非国民〟だという声がすぐ近くにあります。
 ここは、すくなくとも「新型コロナウイルスの流行によって、多くのみなさんがお困りのことかと存じます」といった書き出しでしょう。
 そこで「政府としては、この新型コロナウイルス撲滅のため、緊急事態宣言を出して、みなさんとともにたたかっていきたいと思っています」とでも書けばいいのに、いきなり「不要不急の外出を避け」ろって文に移る。どこまでも〝指示伝達〟意識から抜けていない。
 そのつぎには、いきなり「他の地域でも感染が拡大する可能性」と述べているのですが、まずこの「マスク」の配布がどこになされ、「他の地域」とはどこなのか。こんな適当な文はないでしょう。
 ここは少なくとも「首都圏ならびに主要都市での感染のみならず、全国的な拡大を防止するため・・・」といった流れでしょう。
 それよっかひどいのは、そのあとで「人と人との接触を7割から8割削減することで、感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる・・・」の一文で、ここで「ピークアウト」という言葉が必要かってことです。
 なにも横文字を使う必要などない。ましてや「ピークアウト」という言葉自体、本来は「頭打ちになる」の意味ですが、それを感覚的につかめてもよくわからない人も多いと思います。
 体験的なお話しをすると、むかし定時制高校の教師をやっていたとき、「ワンパターン」という言葉が流行ったことがあります。〝意味は?〟と生徒に聞くと、〝繰り返し〟と答える。ちがうよ。ほんとの意味は、「ひとつの型」なんだ。それを言ってもピンときていない様子。
 「スリム」の意味はと聞くと、〝痩せる〟と答える。「細い」って意味だといっても、まぁいいじゃねーって感じ。
 英文で「・・・center in the ground」の訳の部分で、訳させると、生徒はグランドの〝うしろ〟でと訳す。〝いや違うだろ!〟というと、「だって先生、野球でセンターは、ライトとレフトの〝うしろ〟にいるじゃねーの?」
 それほど、横文字言語は意味をもたないものだと言えます。
 ですからその意味で、この「ピークアウト」も人びとの理解にそぐわない、意味のない、余計な言葉でしかないように思います。おそらく、この文章を書いた官僚くんは、いまどき流行っている横文字言葉を気取って入れ込んだとしか思えない。浅薄なヤツとしか言いようがありません。ここは「・・・感染者の増加を抑える」でいいわけでしょう。
 さらに最後には、このマスクは使い捨てでなく「洗剤を使って洗うことで、何度も再利用可能」とある。これまでの検証によれば、一回洗っただけで80%近くに縮小するそうで、「再利用可能」は事実に基づいていない。

 これが厚労省の添え書きの内容です。悪文というより、どう考えても、実態にそぐわない、強いて言えば、「官許のマスク」「恩賜のマスク」的な上から意識が透けて見える気がします。
 じっさい、この文章は、書き手とそれを確認する何人かの手を経てのものでしょう。だとすると、厚労省という組織の不出来さが、なんとなくわかるように思います。水俣病のとき、薬害エイズのとき、ハンセン病裁判のとき、それらの事件での厚労省のありようは、たしかに杜撰で非人道的でした。
(わたしの教え子にも厚労省官僚はいます。彼、彼女らでないことを祈ります!)

 ところで、戦後の日本について、ずいぶん前ですが、『戦後史を歩く』という本を書きました。
 その本の中でも、またその本を書いたあとも、日々の暮らしや人びととのつきあいのなかで持続的に思い考えてきたことは、わたし自身が生きた戦後の日本という国が、いかなる国だったのかということでした。
 そしてその問いのなかで、いつも〝痼り〟のように浮かんできたのは、一言で言い表すと、この国の〝拙さ〟という感慨でした。
 対中国、アジア、英米戦争の長い戦争の時代のことはまずおくとして、〝戦後史〟という時代の括りで日本の歴史を眺めてみると、それは見かけだけは美装されているものの、丘陵を切り崩し、海を埋め立て地盤の脆弱な場所に拙速に造られた安普請の欠陥住宅のイメージでした。そこには歴史性や精神性が疎外された〝根ざす〟もののない空虚さが浮き出たものでした。
 たしかに戦後「昭和」の時代は、疫病や飢饉、天災は局地的なものですみました。また戦後の「東西冷戦」の狭間のなかで、日本はアメリカの下請け工場として力をつけ、そのうちにその技術を取り込み、短期にめざましい経済的成長を遂げました。
 しかしそのため、経済的恩恵だけを追い求め、〝豊かさ〟に身を委ね、美食やブランドの獲得に優越的な価値しか認めず、その思想や精神の〝拙さ〟〝脆弱さ〟を真正面から捉えることを、わたしたちは長く怠ってきたと思わざるをえませんでした。
 それは、すぐ以前の歴史である超軍国主義国家だった時代。武力に頼り、「日本精神」だとか「神州皇国」だとか雲をつかむような言葉で自身を鼓舞し、驕りに狂奔しアジア諸地域に覇権を唱えた時代のことを、この国の「罪責」として受けとめることなく、戦後になって、いつしか免責されたとばかり深く考えることを忌避して忘れ去ってしまおうとした。そのことの〝合わせ鏡〟のように、日本の戦後史は過ぎてきました。

 そして、バブル崩壊、阪神大震災、オウム真理教事件、東日本大震災、福島第1原発事故、さらに熊本での地震と大水害、中国地方の壊滅的な水害、そして現在のコロナウイルスによる惨禍・・・。
 こうした事態に立ち入ったときの、エリート官僚の不出来さ、器量の乏しさ、政治家の無責任でいい加減なありよう、SNSで騒ぎ立てている識者という者たちのはしゃぎよう、加えていまどきで言えば、安倍晋三氏を中心とする政権の統治力の低さと後手に回った政策能力の欠落。それらがあまりにもくっきりと露骨に目立ってきています。
 星野源さんのu-tubeでの安倍晋三氏の姿は、まさに冗談かと思うほど、犬にしろコーヒーにしろ、テレビのリモコンにしろ、その扱いはまったく落ち着きのない稚拙なものでした。
 そのなかで、多くの罹患者が、ろくに検査も受けられないまま、死に追いつめられ、医療現場の人びとの疲弊はすでに頂点を超え、さらに飲食業や旅行業など、本来わたしたちに喜びと楽しみを与えて、さらに明日への活力を生みだしてくれるはずの多くの事業者が、危機に陥っています。
 そして、教えることとは知識を伝えるのではなく、その人の心の扉をたたくことであるというインドの詩人タゴールの言葉から乖離するオンライン授業の教育現場。
 そのなかでいま、わたしたちはなにをすべきか。

 わたしはここにまずもって、「戦後」のこの国のいい加減さ、拙さ、安普請さを感じざるをえません。いつかも述べましたが、歴史性を喪失した国、人びとは、どう華美に繕っても〝根無し草〟でしかありません。そのわずかに土塊にまとわりついている根は、もはや腐っているとしか言いようがないかもしれない。ですが、このままでいいわけはありません。

 いまわたしたちは、まずこの惨状をきちんと見据える眼を持ちたいものです。そして、自分だけではなく、他者への思いを作り直し、足下の不安に打ち勝ち、明日にはどう生きればいいのか考えぬくこと、そのために、まずは自身の精神を養うこと。そんなことをわたし自身に課したいと思っています。
 精神を養うこととは、ある意味で、売るための謀略史観や嫌韓・嫌中といった安易で杜撰な歴史書ではなく、通史を読み込むことでも得ることができます。いわば正面から歴史に対することでもあります。または、読書を通じて感動を得ることでもあると思います。または、ネットを通じて友人にメールを送って、交歓することでも得ることができるでしょう。
 
 というわけでつらつら書きつらねてきました。拙い雑感をお読みいただいてお礼を申し上げます。また、お時間を取らせてすみませんでした。
 いつか、どこかでこの経験を踏まえて、いろんなお話しができることを願っています。ともに生き延びましょう!


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☆☆コロナウイルス禍と「池ビズ」講座の変更のお知らせです!☆☆

2020-04-20 14:44:31 | 思うこと、考えること!
 歴史をふりかえると人類は何度も、疫病に苦しんできました。
 しかし科学が進んだはずの21世紀も20年が過ぎたこの時期のコロナウイルスのもたらした禍。いままさに、まさかと思う大惨事が人類を覆っているわけです。
 この厄災についての原因からそれへの対応、そして独裁体制がいいのか民主的体制がいいのかといったありようについては、のちのち検証されることだと思いますが、それまでわが身が安全であるのか。不安と恐怖に憤りを感じているのが現実だと思います。
 もしかして人類は、気候変動しかり、遺伝子組み換えしかり、クローンや人工頭脳に至るまで、すべてが利便性と富を生み出だけの「科学」の一側面に目がくらみ、途方もない錯誤や瑕疵を生んでしまったのではないか。あるいは、あまりにもわれわれは、無頓着で無邪気にも開発と破壊を重ね、自己と少しばかりの係累との閉域に閉じこもり、動植物や微生物が主人公である〝自然界〟を痛めつけてきたのではないのか。

 いずれにせよ、いまコロナ禍で苦しんでいる方々。病魔の前線で身を削って対応している医療関係の方々。さらに仕事や職を失い、やりがいを失い、わたしをも含めて収入が途絶えた人びと。医療が進まず、ウイルス禍が野放し状態となっているアフリカ諸国や南米諸国の人びと。都会で人知れず罹患して死を受け入れざる状況になっている人びと。いまを生き延びていくしかない寄る辺のない人びと。そうした人びとの前に立ち塞がる「格差」の現実、くわえて権威と見せかけだけの政治権力・・・。そうしたすべての現実の前で、いまなにをすべきか。
 まずはその悲哀と貧困、困難を心に刻み、ひたすら頭を垂れて、そうした人びとの苦痛と慟哭の声を聞くしかないのかもしれません。
 むろん、薄っぺらな政治家や著名人と自惚れている者たち、芸能人がするように、やたらとSNSで発信し、自己顕示欲を高め、怒号と批判、中傷と焦燥を爆発させることはしたくはない。そうした品性には与しない。
 まずは沈黙と落ち着きを、しっかりと身に纏うこと。
 いま求められているのは、そうした過剰に蔓延する空虚な言説に、不安を募らせたり快哉をあげたりすることではないでしょう。とにかく自分自身いまどうあるべきか、そしていま、そして生き延びたあとで、何を語り、何をすべきなのかを練っていくべきときかと思います。
 もちろん口先だけの言説を弄する政治権力やその周りを取り巻く子どもじみた官僚の姿は、しっかりと見詰め、記憶に留めるなかで、抗う怒りとともに未来に生かす「精神の種子」を、いまはできるかぎり育てていくしかない。わたし自身は、そんなふうに考えています。

 それはさておき、2020年の夏学季講座について、お知らせいたします。
 こんな時代だからこそ、なんとしても今年の講座は実施したいと努力を重ねています。ただし、会場である「池ビズ」(としま産業振興プラザ)が、5月6日まで閉鎖となり、その後の目処もはっきりせず、そのため講座日程をたてること自体が、厳しくなりました。
 そこで、夏学季は『時代に杭を打つ!partⅢ』だけを開講し、『哀しみの系譜』は、秋学季以降に設置すると決断をしました。

 『時代に杭を打つ!partⅢ』の講座日時については、下記にフライヤーを添付しておきますが、会場の関係もあり、先に延ばして、初講日は5月24日(日)午前10時からとし、たいへんタイトな日程となりますが、初講日のほか、5月が31日(日)、6月は14日(日)、21日(日)、28日(日)、ここまではすべて午前10時開講です。そして7月12日(日)を第六講・最終講として、この日だけは午後13時開講と変更させていただきました。
 7月分までの会場はすべて、池ビズ第三会議室で開講するよう押さえております。

 講座の内容については、できるだけ受講するみなさんとの対話を考え、テーマとしては戦後日本の〝困難〟を自覚した思想家・文学者6名の事跡を通じて、いかにわれわれの住むこの国が、危うげで拙いものであったのか。コロナ禍のなか、いまこそこの国の現実を見返すという内容にしたいと考えています。

 日本の近代をながめると、福澤諭吉の言葉で「一生を二世の如く」生きた時代が二回ありました。ひとつは明治維新を一期として、それ以前とそれ以降。もう一つは1945年の敗戦を一期として、それ以前とそれ以降でした。
 明治維新のことはいつか触れるとして、1945年の敗戦を期に、比喩としてカーキ色の国防服を身に纏っての超軍国主義体制の時代とお仕着せの体格に合わない背広を着だし、外からやって来た民主主義を享受した時代と、このころの日本人は、まさに「二世」を生きたと言えます。
 しかし、昭和天皇が象徴するように、戦前まで軍服姿で、膨大な人びとを死に追いやる戦争を、仮に〝傀儡〟だとしても行った人物が、戦後は平和の象徴の如く背広姿で現れ、戦前のありようを無かったかのようにした虚偽性は、戦前は参謀本部詰めのエリート軍人、戦後は戦略産業商社の取締役幹部。戦前は有無を言わせない軍国主義者であり強圧的だった教師、戦後は組合活動に奔走し民主主義を体現したかのような教師。戦前は軍国主義・天皇主義のイデオローグ、戦後は反体制・共産主義のイデオローグとなった思想家と変わることのない、まったく同じ質の〝罪責〟そのものだったのではないのか。
 そしてそれは、ほかの多くの「二世」を生きた人びとに、「戦前」をあたかも無かったものとして、その歴史性の否定を強要したことで「歴史という根」を失わせ、「戦後」そのもの自体の虚妄を生み、同時に歴史の事実や真実に対しての後ろめたさをおぼえさせることではなかったか。
 その結果、戦後を生きる人びとは、その後ろめたさを隠蔽あるいは粉飾、忘れ去るために、東西冷戦の奇禍を好景気に変換させ、経済、いわば金儲け奔走し、自ら「経済大国」だと嘯いて納得させるしかなかったのではないのか。そう考えていくなら、わたしたちのいまにつながる「戦後」は、いったい何だったのか。あたかも根の腐った土壌のうえの禍々しい花畑だったのではないか。それを踏まえ、本講座では、そういった課題性を中心において、考えていきたいと思っています。

 とはいうものの、コロナウイルス禍のなか、講座をはたして開講できるか。それ自体、おぼつかないのですが、かねてお知らせしたように、じゅうぶんな「ソーシャルデスタンスsocial distance」が取れる広い会場をご用意しています。まずは5月24日から無事に講座がはじめられますことを、願っているしだいです。
 また講座日程がタイトですので、一回での参加もできます。ぜひ、ご参加ください。「三密」を防ぎつつ、みなさんが講座に参加できますことを願っています。




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☆☆「夏学季講座」延期のお知らせ☆☆

2020-04-07 14:08:05 | 思うこと、考えること!
  2020年は予測ができにくい、とんでもない春を迎えています。

 新型コロナウイルス禍は、これからもますます地球上のさまざまな地域と人びとを苦しめることになるだろう。その漠然とした予想は、少しでも想像力のある人びとには、暗澹とした気分とともに、見えてきているかと思います。
 以前のブログでも触れましたが、ちょうどいまから100年前、1918年から1920年までアメリカが発生源だった「スペイン風邪」が起こっていますが、これは第一次世界大戦中だったこともあり各国政府が感染を隠し、さらに医学も現代のものとはちがって、ウイルス性のものとの判断ができず、三回の大きな感染の波が世界を呑み込んで、やっとおさまった大規模感染となりました。
 今回のコロナ禍も、ワクチンが開発されない限り、何度も集団感染や国家を呑み込む感染が波のように押し寄せてくるようにも考えられます。

 ウイルスは、ちょうどキリスト教における「天使」に対する「悪魔=サタン」の位置づけなのかもしれません。サタンはもともと神のもとで働いていた天使であり、「ルシファー」の別名が示すように、光の使徒でした。しかし、神が「善なる存在」となってゆくと、ここは一種の疎外論の領域ですが、一方で「悪」の部分を受け持つ存在が必要となります。言い換えれば、 人間が生み出す嫉妬、怒り、冷酷、嫌悪、排除、差別、暴虐など内的外的なさまざまの邪悪さが「サタン」を生み育て、その邪悪さの肥大化とともに 「サタン」はその威力を強めます。

 ふと現代世界を見渡してみれば、それぞれ国で、民衆と乖離した「特権階級」に属する者たちが政治権力を握り、巨大資本がそれら政治権力者と結託する中で、ナチスばりのプロパガンダ政治、ポピュリズム政治が横行しているように見受けられます。
 〝国益優先〟〝ディール至上主義〟〝威圧と監禁、暴力〟〝あんな人たちに負けるわけにはいかない〟〝排外主義〟〝ヘイト〟などさまざまな〝悪〟が横行していて、それに追いつめられた人びと、寄る辺のない人びと、自己以外の人びとの存在に無自覚な人びとが、ときにそうした〝悪〟に狂喜し、喝采を送っていると言ってもいいのかもしれません。

 古代中国の戦乱期にあって、その時代に生きた智者たちは、戦乱や混乱、貧困や狂気に向き合うために「徳」という概念を生み出しました。そのひとつが儒教であり、儒教では、原則的に人間関係に「徳」の生まれるありようについて説くものであり、また権力者・指導者に「徳」という〝鉄の檻〟を纏わせるものでした。
 「徳」のあるものが権力を握るに値する。そして歴史の興亡も、「徳」ある王が権力者となり、それが何代もつづき、子孫に「徳」が尽きると、新たに「徳」を身につけた王が出現する。いわゆる〝徳治〟にもとづく「易姓革命」の運動として、歴史を見通すものでした。
 では、その「徳治」の概念の中で、現代の世界は、いったいどんな時代として映っているのか。
 「ディール」しかないトランプにしろ、「皇帝然」と強権と人気とりに終始するプーチンにしても、また「覇権」にしか権力の行使を見いだせない習近平にしろ、安倍氏も金正恩にしてもドゥテルテ 、ボルソナーロなどの世界に簇生するそれらの亜流政治家にしても、そこに「徳治」という相貌は見えてきません。

 新型コロナウイルス、サタン、「徳」を喪った現代の政治家。何もそこに明瞭な因果関係を見いだしているわけではないにしろ、ある意味で強い暗喩(=メタファーmetaphor)を感知することはできるかと思います。
 今日から、一ヶ月ほどわたしの住む東京は、非常事態宣言下に置かれることになります。テレビ画像に写る小池東京都知事のパフォーマンス、不自然な力こぶの入れ方のまえで、なにか素直になれない感じがしてなりませんが、このコロナ禍が過ぎたあとの世の中は、一体どうなっていくのか。
 コロナと闘ったとばかり、すごい強権政治がやってくるのか。相互の助け合い、人類の希望を再認識するなかで、リベラルで差別のない世界の構築に近づくか、それはわかりません。
 しかし、マスクの供給の現実でもわかったように、ここ二十年以上の日本のありようは、中国からの安い輸入材と安い労働コストによって、20年以上給料が変わらず、国民所得が低いままでも耐えられてきた。皮肉を込めていうならば「ユニクロ国家」であり、「100円ショップ国家」でした。
 言い換えるなら、アジアの中で、日本は活力ある生き方を放棄し、これまでの貯えを原資に生活を送っていて、経済的にも劣位にある自身に気がついていない国家、国民ではなかったか。
 ヴェトナム、台湾、韓国、もちろん中国などの国々を旅し、インテリも商売する人も、若者も新聞記者も、いろんな人びとと会って話してみて、日本が優等などと思い上がっている手垢のついた自尊心は、もう捨てる時期かと思います。
 ましてや国家主義者や愛国者も含め、自分たちがアメリカの属国である現実に気がつかないふりをし、アメリカ人と同等、現代版「脱亜入米」意識、別格意識にとらわれ、「youは何しに日本へ」といった番組に、安心感を見いだしている状況は、一種滑稽でもあります。
 はたして真に日本の美術や芸術を鑑賞しうる力量を日本人は持っているのでしょうか。うすっぺらなアニメブームとコスプレブームと「富士山」「芸者」「おもてなし」は表裏一体の、とても文化と呼べない代物ではないのか。
 三島由起夫は生前、「愛国心を教えようという思想そのものが唾棄すべきもの」だと述べています。〝薄徳の時代〟の中にいる。その風景が、目の前に広がっているように思います。

 であっても、もう少しで非常事態宣言下に入ります。
 そこで、4月19日と26日に初講日を迎える予定だった『時代に杭を打つ!part3』と『哀しみの系譜part1』の講座をそれぞれ5月開講というふうに延期いたします。
 いまのところ5月は3日と9日、21日と31日の会場を押さえています。6月も7日を除き、毎週日曜日の会場を押さえています。
 どちらも大教室で、2メートル以上の間隔をおいても十分に着席できる広さの会場です。5月の時間は9日だけは土曜日で、ほかは日曜日です。これも含めてすべて講座の時間は午前10時から12時までです。時間の変更はありません。
 詳しくは、また20日ころ、7月の会場を押さえた時期に、当ブログで発表しますが、まずはさしあたって初講日が5月開講だということをお知らせいたします。
 また、札幌で開講予定の「what,s」すすき野講座も、開講は5月からとなります。
 これも詳細が決まり次第、お知らせいたします。いましばらく、お待ちください。また、すでに講座をお申し込みの方には、別途メールで連絡をいたします。
 という状況ですが、いまコロナ禍で参加しようかどうか決めかねている方々には、上記の件を考えいただき、ぜひ5月からの講座にご参加いただけたらと存じます。
 よろしくお願いいたします。

 こんな時だからこそ、「学び」が大切です。いま学ばなくて、いったい何時学べるのでしょうか。そのために全力を傾けたいと思っています。

<わたしが一番最初に出版した書籍です>

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