八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

高橋和巳と魯迅~〝時代に杭を打つ!〟第二講について

2020-06-19 21:56:00 | 〝歴史〟茶論
 先週からスタートした講座は、この21日(日)で第二講目を迎えます。第二講は文学者「高橋和巳」についてのお話しです。

 高橋和巳といっても、ある時代、ある世代の人びとにはよく知られている文学者だと思いますが、若い世代には、なじみが薄い人物のように思います。
 高橋和巳は、いわゆる1960年代後半から70年代にかけての「全共闘」世代には、絶大な感化力のあった小説家であり、学者であり、それらを統合して「文学者」でした。
 1968年から69年にかけての京都大学学園紛争のなか、政治権力の不正と強制に憤り、その縛りからの解放をはかろうとした学生の視座に沿いながら、高橋和巳は学問と文学の真実の意味をひたすら追い求め、わずか三十九歳で病魔に冒され夭折します。
 どのような「文学者」であったかは、21日の講座で具体的にまた現代的意味を交えてお話しすることになるかと思いますが、すくなくとも言えるのは、破滅的衝動につねに駆られながらも、身を賭してそこにある現実にひたむきに、また彼が好んだという「まっさらなシャツ」のように、清冽な抒情をたたえて表現をなそうとした「文学者」だったと思います。
 京大の学園紛争時に高橋和巳は京都大学助教授として中国文学を講じていました。専攻は3~4世紀の中国六朝文化でしたが、9世紀の詩人である李商隠という、ときに変節漢とされ不遇を託った詩人にも惹かれ、さらに近代人であった魯迅にも深くひきこまれていきます。
 李商隠については講座で触れるかと思いますが、いうまでもなく魯迅とは、近代中国の悲哀と悲惨を、まさに十字架を「血債」のように背負って生きた文学者でした。その魯迅について高橋は痛切かつ哀情をこめた一文を草していますが、その一部分を引きます。

 ・・・魯迅の作品は暗い。限りなく暗い。「阿Q正伝」のように風刺的な諧謔筆致によって一つの典型が描かれている場合も、「故郷」のように回顧的な発想に伴なう抒情によってうるおいをもって事件や人物が浮彫りにされる時も、その基調には常に癒しえぬ悲哀と寂寞が底流する。・・・中略・・・いったい魯迅は人間のうちに何を見、自己の内部から何を発掘しようとしたのだろうか。彼が属した中国民族(略)は、どういう運命にあるものとして映っていたのだろうか。(『民族の悲哀ー魯迅』)

 魯迅についてのこの冒頭の一文を読むだけで、高橋和巳にとって、文学とはいかなるものか、その姿勢が読み取れるように思います。
 少年時代に「超軍国主義」「国家主義」の洗礼を受け、大阪全域をなめ尽くした1945年3月の「大阪大空襲」を着の身着のままで逃げ出し、やっとの思いで死を免れたこと。その後、あわただしい教育制度改革で、旧制高校を一年経ただけで、新制大学に移ることになり、朝鮮戦争、共産党の分裂など大学ではさまざまな政治運動、文学運動を経て、戦後の軽薄で片々とした時代の変化に不器用にしか振る舞えない自分への自覚。そして、貧しさから安逸への堕落。
 そのなかにあって、批評家や社会運動家、政治家らは、自らを無垢な被害者として加害者を呪詛し、被害者の団結を促して政治変革を声高に叫ぼうとする。
 高橋和巳は、それに対峙するように魯迅の言葉を引きます。・・・魯迅はそうはしなかった。外なるものは内にあり、そこに一つの悲惨があるとき、自らもその悲惨を分有するとともに、また加害者の一員でもあると、魯迅は感じた。(前掲)
 世の中の矛盾、悲惨さ、狡猾で尊大な、そして卑劣なありよう。それらは、なにも自分以外のところにあるのではなく、自らのなかにも存在するのだ。だからこそ、自らの内面を抉り出すようにしてでなければ、真実の文学は生まれない。
                  

 いまどきの文学ならびに出版のありようは、そうした本来、切れば血の出るような自己内面性を追求せず、どこかで脱色し、緩く脱力してみせるところでのみ価値を見いだそうとしている。
 その意味で、高橋和巳はあまりにも重く、あまりにも硬質な問いかけをする作家でした。それがある時代の若者にはしたたかに響き渡り、その若者がその後、老いていくなかで高橋和巳はいつしか忘れ去られ、あるいはノスタルジーのなかに消化され、老いたかつての若者は消費社会の富裕を謳歌する。そして、その後の若者は、いつしか「net」社会の肥大化や人間関係のささくれ立つ希薄さに世の矛盾や悲惨は視野から遠ざけられ、生きていくという重さそのものに耐えられなくなっていった。
 
 今回の〝時代に杭を打つ!〟第二講は、そうした日本戦後の意識の変化を、高橋和巳という地表軸を中心に考えていきたいと思います。
 
 生きていれば今年でちょうど八十九歳になる高橋和巳ですが、もし生存していたなら、彼の眼にはたして現代はどのように映っているのだろうか。
 思うに彼の眼には、現代の人びとがいかに自分以外の他者に対して、忌み嫌うように差別し、分断によって不可視化してきている。そんな風に映っているのかもしれません。
 さもなければ、真摯な苦悩や葛藤から逃げ、糖衣で包もうとばかり、家族だの愛情だ絆などと、これ見よがしに披瀝して、自らの虚弱な安全と安心を得ようとしている。すでに、家族は空疎なものになっているのだし、愛情は慣れ合いに溶かされて心を通わすものになってはいない。絆は虚偽と欺瞞に満ちているのではないか。むしろ、その矛盾や悲惨さは肥大化し、そうした人びとが見えなくてはならない悲哀や懊悩を、誰一人として内面化しようとしない。

 ところで、前回の講座では、さまざまな悪条件のなか、思いがけず多くの方々の参加がありました。
 講座をやる意味は、講座を通じて、目には見えないけど、言葉で感知できる双方向の「対話」のネットワークができることにあります。それは一方通行的なやりとりに制限されるSNSといったネットワークとは違い、会場自体がおおきな「対話」空間になることを意味するのだと思っています。
 というわけで、お時間がありましたら、ご参加ください。いろんな方々との質疑に、なにか感じるところがあればとこころから思っているしだいです。

 まずは、今回はこれまで。

 

 


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〝権威〟を身に纏うな!~講座のお知らせも含めて~

2020-06-10 16:27:13 | 〝歴史〟茶論
 しばらく隠遁者のようにブログも更新せず、薄暗い穴蔵に迷い込んだように本ばかり読んでいました。
 それでも、本を読むのと並行して、住んで20年近くなり、汚れてきた自宅の一部を自力で塗装したりもしていましたが、外出が億劫になり、というのもマスクをしていないことで〝非国民〟あつかいされかねない厳しい他者の眼差しにどうも抵抗があり、ならば外出しない。
 思うに、よく起こっている子どもたちの〝ひきこもり〟とは、こんなふうに他律的なことから起こるのだろうなどと考えながら、そのためか〝不要不急〟ではない用件で久しぶりに電車に乗ったりすると、とにかく疲労困憊という情けない気分。やはり、本でも読んでいたほうがと思う。そこでますます引きこもってしまう。そんな日々でした。 <ささやかな空中庭に咲く花>
            
 でも、今週末の14日日曜日から、〝時代に杭を打つ!〟の講座が、「池ビズ」会場からの許可が出て、講座自体は縮小したものの、なんとか開講できることになりました。
 そんなわけで、このままでいいわけがないと思い定め、やっと動き出したところです。まずは14日からの講座について、遅ればせながら連絡させていただきます。
 <講座「時代に杭を打つ!」フライヤー>
 
 内容は以前お知らせしていたとおりです。
 6月14日(日)の初講日では、丸山眞男の現代的読み直しをはかっていきたいと思っています。
 丸山眞男は、戦後の進歩的知識人の旗手とされていますが、その一方で1960年代後半の全共闘運動の渦中、学生との団交では、丸山が醸し出す理知的で高踏的な態度からでしょうか、「へん、ベートーヴェンなんか聞きやがって!」などの罵詈を投げつけられ、丸山が保管していた日本思想史上の貴重な図書も学生らによって研究室が破られ、大部分が盗難に遭うという禍を被っています。それはそのあとに古本屋にそれらの書物が数多く出回っていたことでわかったことです。
 ではなぜ、丸山はかくも批判されたのか?
 それは一つに「知識人」という位置づけが、日本では〝権威〟に依存するということに起因するからではないかと思われます。
 日本における「インテリ」いわゆる知識人・文化人とは、本来的には大学や学問的派閥である「学会」に帰属しているかいないかにかかっていて、〝在野〟であることははじめからその範疇には入らない。〝在野〟とは、〝浪人〟とほぼ同じように胡散臭いもの、貶め軽んじられるもので、それは思想的に右翼であろうと、むしろ左翼のほうが顕著に現れてくるものなのですが、いずれにしても〝権威〟に結びつかない存在は、「インテリ」とは言わない。それは民衆にも隅から隅まで満ち満ちていることなんだと思います。
 丸山自身が小田実の話しを引用している文があります。それは小田実がアメリカで聞かれたことだそうですが、
 〝Is he just a university professor or an intellectual?〟
 これは「彼はたんなる大学教授なのか、それとも知識人なのか」と訳せます。つまり、制度としての「大学教授」と学問教養を持つ「インテリ」とは同じじゃない。それが大意です。言い換えれば、職業や制度としての「大学教授」の価値は「知識人」と等位ではない。「知識人」である意味は、「大学教授」の価値に優越するということです。
 その認識は、哲学や芸術・思想に長い歴史をもつ西欧ではあたりまえだと言えるでしょう。
 かつてわたしがスペインの南部の街グラナダで暮らしていた際、おまえはどこの大学で教えているのかなどと聞かれたことはなく、何を研究しているのかと聞かれ、わたしが〝Historia y filosofía japonesas contemporáneas現代日本の歴史と哲学〟と答えると、〝Moderno?〟なのか。そうなんだ。それとスペインの歴史や哲学は参考になるのか? と話は進みます。
 しかし、島国日本はどこまでも権威に縋る体質です。「大学教授=知識人」の枠を超えてくる問いはほとんどありません。
 丸山眞男は、東大教授であることで、その〝権威〟だけ切り取られて全共闘の学生らに罵倒されたのでしょう。〝東大教授〟という権威への嫌悪。けっして学生たちは、碩学な「政治学者」として丸山を見ようとしなかったのでしょうね。あるいは丸山のマルキシズムという〝権威〟の位置から離れた地点での思想の組み立てを、かれら学生が、理解できなかったとも言えるように思います。

 丸山眞男の業績は、岩波新書の『日本の思想』という、比較的わかりやすい本を読んでもわかるように、明治以降の「翻訳」権威に対しての戦いだったように思います。
 その権威は、徳川時代のものは丸ごと〝古くさい封建〟だとして何もかも否定し、たらいの水を捨てるとともに、行水していた赤ん坊も捨てちゃった明治政府によって強制的に打ち立てられ、そこに日本の思想の断絶(crevasse)が起こってくるのですが、丸山眞男の仕事は、その修復と見直しにあったように思います。
 日本近代の発達史観の権威から見れば、丸山の思想は、封建そのものに映ったのでしょう。当時学生は、自らの思索と思考でモノを考える術を放棄していたようにも見えます。そんな状況はいまもあんまり変わっていないだろうし、ますます肥大化しているのかも知れません。 
 いずれにしても、当時の学生たちのありようは、手っ取り早く普遍の〝権威〟を手に入れて、優位に立つ。そのためにはマルキシズムのような演繹的手法がなによりも手際のいいものに見えたのかも知れません。

 そんな流れでいうと、この「コロナ禍」の日本にあって、おおよそつかめたことは、政府と官僚のダメさぶりをまずはおくとして、〝権威〟とされていた「専門家会議」なるものが、薬一つにしても、わからないと言えばいいのに、あれだこれだと言い立て、あげくのはてには1983年に公開された森田芳光監督作品の『家族ゲーム』のように(わからない人も多いでしょうから、ぜひDVDなどでごらんください。松田優作が不気味な家庭教師をやっています)、横並びで食事しろといった「新しい生活様式」を言い出す始末になっていることです。
 先日、家のキッチンの検査に来た業者の人は、会社の方針だとして、自分の体温の2時間毎の検査表を見せ、家に入る前に手を消毒するようすを確認してもらうなど、ほんとに微に入り細に入りの状況。
 街を歩けば、防御シートにマスク。まるで宇宙人に囲まれている気分でもあります。やり過ぎ? でも、専門家会議の方々は、そうした生活がいいのだと宣うわけで、「コロナ禍」が起こってから数ヶ月。出てきた内容は、そんなものです。しかもそれが〝新しい生活様式〟の権威として揺るがない。
  <映画『家族ゲーム』1983年>

 しかし、それが「コロナ禍」にはたして有効なのか。〝オオカミ騒ぎ〟じゃないのか。そうでなくても、「新しい生活様式」なるものの科学的な証拠(evidence)が曖昧でしっかりとした説明抜き、もとよりこの「専門家会議」の議事録も取っていないという責任逃れいっぱいの杜撰さ、そう考えると「専門家会議」という〝権威〟も、科学的というより、しょぼい日常的なものに堕していないか。
 でも、自分で決められない日本人は、この〝権威〟なるものの前で跪くしかない。一方で、それをご威光として、水戸黄門の印籠よろしく、それに従わない者に対して、〝自粛正義〟を振りかざす。
 このありさまはいつか見てきた、〝竹槍で闘え!〟〝一億火の玉!〟を叫んだアジア太平洋戦争のときと、言い方は好きじゃないのですが、いま風にいうと一ミリも変わっていない。

 というわけで、初講日での講座は、丸山眞男の思想がいかに〝権威〟に傾斜した時代と切り結ぶ性質のものだったのかということと、丸山が没して四半世紀が経つなかで、この国がいかに変わり映えのしない〝権威〟主義のままでいるのかを、みなさんとの対話も含めて深めていきたいと思っているところです。
 いまもさかんに行われているnetでの出来事のように、自らを「正義」の立ち位置におき、匿名という卑怯で高い目線から、〝誹謗中傷〟と〝決めつけ〟〝レッテル貼り〟が繰り返されるのも、こうした〝権威〟への凭れかかりと見て取れます。
 だれでも、認められたい。それだけ見れば、承認欲求があまりにも強すぎると見えますが、それよりも、深い観察力や歴史的思索をないがしろにして、とにかく〝権威性〟を求める愚かさが、こうしたnetでの他者への誹謗中傷につながっている事実。それだけは、しっかりと確認しておきたいところです。

 講座の第二回は、文学者として清冽な生き方を貫こうとした高橋和巳について、第三回は、わたしも高校生のとき、その謦咳に触れたむのたけじについて、第四回は、わたしが東京に出てくる契機となった鶴見俊輔との出会いについて、鶴見俊輔のバネのような思想の在処について、それぞれお話し対話を積み上げていきたいものだと思います。

 いまからでも申し込みは大丈夫です。また一回だけの受講でもかまいません。東京・池袋に日曜日の朝お出かけできるかた、リモート出勤に息苦しさを感じている社会人の方、zoom授業に飽き飽きしている大学生諸君も、ぜひおいでください。
 とりあえずわたしのメール(yagashiwa@hotmail.com)に連絡をいただければ、返信させていただきます。

 じつは今回のブログは、もっと本格的なテーマを用意していたのですが、それはまた講座のときかまたの機会にお話ししていきたいと思います。
 お読みいただきありがとうございました。
 ついでに数日前、路上に捨てられていた「アベノマスク」を見つけました。 


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☆☆東日本大震災の記憶といま起こっていること。〝災殃〟は何をもたらすのか?☆☆

2020-05-23 23:15:37 | 〝歴史〟茶論
 東京は、もうすこしで「非常事態宣言」から解放されるとのことです。

 4月から約2ヶ月、いちばん心配しているのは、学校が開かれず、しかもその途中で大人や政治家たちの勝手な言葉に振り回されて、「9月入学論」まで喧伝され、戸惑わざるをえなかった子どもたちのいまの姿です。
 まさに、この数ヶ月におよぶ、「学び」からの疎外はなんのためだったのか?

 じっさい、子どもたちに感染するリスクはあまり高くないこと。感染しても重症化するケースがほとんど報告されていない。また、学校での感染の事例は、まったくなかった。むしろ家庭内での感染が、事実としてあったこと。
 これらの状況をふまえ、電車での通学を行う高等学校や私立などの学校生徒はおくとして、地元の小中の学校にあって、「学校封鎖」は必要だったのか。そして「学校封鎖」の効果は、どのように科学的に証明されていくというのか。そのことを含め、「9月入学論」の必要性は考えていくべきものではないかと思うわけです。

 
 それにしても思い起こしてほしいのは、2011年3月の東日本大震災のときのことです。
 この震災とそれにともなう原発事故、もはやこれは「原発犯罪」というべき問題であったかと思いますが、いずれにせよ東北地方の学校の多くが、校舎に甚大な被害をうけ、なかには津波で流されてしまった校舎があり、児童生徒が津波に呑み込まれて亡くなったり、またこうした子どもたちの多くの親や親族が、死亡したり行方不明になって、生活の術さえ失われていたにもかかわらず、そのとき「9月入学」などという話しは議論されたものだったのか。記憶にある限り、そうしたことはなかったように思います。
               
 震災と原発による困難で劣悪な状況のなか、親を亡くし兄弟姉妹を亡くし、また仲良しだった友達を喪った多くの子どもたち、そして未来への〝夢〟や〝希望〟を自身の可能性とまだ純白な時間のなかに描いていた中学生や高校生は、校舎を喪い、クラスメートにも会えず、長期にわたって授業も受けることもできず、楽しみだった部活もできず、多くの人びとに祝福される卒業式や入学式もできないまま、ほとんどが瓦礫の処理や生活のためにさまざまな労苦のなかに置かれていたはずです。
 ならば彼らの学業や生活のために、そのときいったいいかなる、また何らかの猶予がなされたのかというと、それはまったく顧みられないまま、彼ら彼女らは、目の前にある過酷な状況に、身を任せるしかなかったように思います。

 いや、あれは東北地方の一部の太平洋沿岸部の不幸なのだ。日本全体のものではないのだ。震災のときには、そんな〝切り捨て〟の論理が、まちがいなく大手を振ってのし歩いていたのではないのか。
 あのとき、子どもたちの、彼ら彼女らの「教育権」について、誰が、あるいはどの政治家が為政者が、思い遣ったのでしょうか。

 震災後、仙台のとある居酒屋で、その店の大将がわたしに、「ボランティアをやると東京の大学では単位くれるそうですね。それってどういうことなんだ?」「そんなボランティアって、いいんですかね? オレたちは単位のネタってことでしょうかね?」と真顔で聞いてきました。
 肉親を喪い、家も流され溢され、生きた心地もせずに日々を送っている人びとが多かったなか、ふつふつと吹き出すやりきれない思いで胸がいっぱいであったのだと思います。
             
 北東北の出であるわたしには、この大将の言葉が、抑えつけられた者の深部から飛び出してきた憤怒の声に聞こえました。
 「たしかに震災はひどかった。でも、哀れんでほしくない」「バカにするな!」 
 東北人は、おおくはにかみ屋であり、無口といっていいかと思います。ときには、じつにとっつきにくい印象を与えます。それは長い歴史のなかで培われてきた身の処し方とでも言ったらいいのか。人びとの感情の底部に、目立つこと、批判や怒りを表に出さない性格を良しとする「痼り」みたいなものを宿しています。そのなかで、絞り出すように口をついた疑問と悔しさ。
 子どもたちの学びの疎外と単位をもらえるボランティアの、麻痺している奇妙な差別のありよう。 

 そこで話を戻します。
 では、なぜ震災のときではなく、この「コロナ禍」の時期に「9月入学論」が出たのか。それは、勉強が遅れる。受験に間に合わない。そんな都市部の親と子どもたちの、自己中心的な、あるいは誰かが出し抜いて「有利」になっちゃ困るという、〝エゴイズム〟〝悪しき平等主義〟から出てきたものにすぎないと思います。受験そのものは、自分自身の問題に過ぎません。
 加えるに〝ポピュリスト〟政治家が、これは人気とりになるとして乗っかってきた。それ以外のなにがあるのか。

 もし「コロナ禍」が、東京や大阪などの大都会ではなく、北東北の一部や九州南部の一部での蔓延だったら、「9月入学論」は出たのか。それははなはだ疑わしいでしょう。
 もちろん、「9月入学論」を言い出した首長には、宮城県知事も含まれていますが、おおかたは安倍内閣の官邸官僚、彼らは「コロナ禍」で手詰まり感がぬぐえず、経済活動ともっとも関係の薄いところから手を着けて、なんか〝やった感〟を演出したかったように見えます。結構なことです!
 それに、時流に乗る「維新」といった党派の政治屋の口吻で高まっていったと見ていいでしょう。 

 それとともに思うのは、「コロナウイルス」の発生が、首都圏や関西圏の大都市での発生が膨張したことで、感染者が「インフルエンザ」ほどの流行もなかった地方でも、いっせいに「非常事態」の網にかけられ、大都市なみにする。地方でもパンデミックが起こるのだと、あたかも〝脅迫〟めいた状況におかれたのではということです。
 そのなかで一部を除いて多くの地方自治体は、状況や感染状況を精査して、予防や医療体制を整えるいとまもないまま、大都市の厄災は、地方でも起こるという「一元化」のもと、いっせい「非常事態」に呑み込まれた。わたしにはそのように見えます。
 たしかに、いまどきの日本において、地方は弱体化して、中央のもたらす恩恵にあずかろうとばかり、中央の指示命令には、ほとんど逆らう気概もないように見えさえします。しかも、地方官僚も、中央官庁の若手キャリアが出向してきて、その頭の回転について行けない。「グズグズできない。なあなあじゃ、どうしようもない。どうすりゃいいんだ?」
 そんなときズバッと切り込んで、中央の意向を実現する若手出向官僚に頭が上がらない。前回のブログで触れた「権威」と「権力」ではありませんが、首長が「権威」として「よきに計らえ」のポーズを取って、若手キャリアに「権力」を丸投げしている自治体もあったように思います。
 そして国家的な〝脅迫〟のまえで、人びとは過剰に怯え、少なくない自治体が、具体的な方針をそれぞれの地方・地方で組み立てる「勇気」と「態度」を喪ってしまっていた。そのようにも見えてきます。
 ただひたすら政府なり大都市の首長の、過剰でポピュリズム的なパフォーマンスに振り回された。そうとも見えてきます。

 ところで、「9月入学」の話に戻します。
 よく知られたことだと思いますが、近代日本においての「9月入学」という制度は、1886年に帝国大学令が発布されたときに定まった制度でした。当時の帝国大学は、ほんのひとにぎりのエリートが入学するものであって、その学生は、庶民にとって、まさに「雲の上」といった存在でした。
 ですから、帝大に入学する者たちも、それなりの矜恃を持って入学するわけで、むしろ入学したことよりも、その後の学業をまっとうすることが難しい。それは学問においてだけでなく、学問を保障する学費や生活費用、親の負担など、さまざまな困難の待ち受けるものでした。つまり、入学にさほどの意味はなく、むしろ卒業して、いかなる役割を果たすことができるのか。それが当時の大学生のありようでした。
 それがいまは逆転し、大学入学が、世の「勝ち組」になったような傲りとなり、入学後は、ろくに教養も積まず学問を放棄し、ただ「プライド」と「収入」を満足させる、いい就職先ばかりを探し求める。
 そうなると受験難関大学に入学したことだけが、内実のない空疎な〝愉悦〟となる。たとえばそれは、東大などに合格したとき、合格発表の掲示板の前で〝胴上げ〟されるような、バカげた騒ぎとなっていくわけです。大学生としての矜恃がなくなるに従い、入学したという倒錯した価値だけが重んじられていく。

 ちなみに、かつての帝国大学は、東京帝大法学部をのぞくと、原則、無試験で、そのまえに旧制の高等学校に入学する必要がありました。
 それが現在の大学の教養課程に相当するものですが、この高等学校は秋入学であり、旧制中学などを卒業してから、秋の入試に向けて夏をはさんで受験勉強を行うというふうになっていました。
 しかし、当時の高等学校、それに準じる高等師範学校の進学者にはすでに20歳となっているものが少なくなく、徴兵令では20歳以上の男子が4月に兵役に就くことになっていて、9月入学では、丈夫で優秀な人材を軍隊に取られてしまうなどの事情が生じました。
 そこで、学生の確保を優先させる私立の大学予科や専門部が4月入学に移行する事態となって、官立の高等学校、高等師範学校も4月入学に変更したというわけです(この時代の大学生など高等教育を受ける者には、徴兵猶予がなされていた)。

 言ってみれば、軍隊との絡み、それから4月から年度予算が施行されるということで、それにあわせての4月からの新学期であり、都市部での中間市民層が形成されることで、彼らの子弟の上級学校への進学者が増え、また高等教育の社会的要請の高まってきた時代。ちょうどその1921年から、ほぼいっせいに4月入学に統一されていきます。
 ということは、そこにはなにも教育的な意図があったのではない。
 いまになって、あたかも教育的配慮のように、諸外国の大学なり高等教育機関が9月から新学期だから、それに合わせる必要がある。それが、「グローバリズムglobalism」なのだ。
 いったいどこまで「グローバル」に付き合うのか?
 まずはそんな意見がありますが、それであっても、「グローバリズム」はどれほど初等教育や中等教育にとって影響があるのか。教育的な関連性はいかほどなのか。
 世界に合わせるのなら、いまの高校を卒業したあと、ゆっくり受験勉強をはじめ、大学だけが9月入学、卒業もそれに準じて行う。そうすればいい話で、その4月からの数ヶ月の猶予期間は、学費のためのアルバイトをするなり、勉強するなり、むしろ自由な時間として若者に持ってもらうのもありだと思います。
 となると、経団連や企業あたりが、4月から入社してほしいから、いっせいじゃないとダメだ、などと言い出すでしょうね。
 しかし、大卒予定者が4年生になるかならないかで、いっせいに「就活」をし、その期間も長い。これはまさにおかしな横並びで、しかもそれ自体、まったくもって学業を妨害しているとしかいいようがない。
 そもそも新卒者だけに就職機会を保障するのは、企業にとって、どれだけ意味があるのか。企業は、あたかも多様な「人材」を求めているのではなく、いっせいに働ける「人数」を求めているのだと見えてきます。そこもあわせて考えていくべきかと思うわけです。
 また、いまの高等学校も、3年生になっての2月・3月の大学受験シーズンは、部活や体育祭、文化祭などの活動を保障するには、あまりにも日程が詰まっていると言わざるをえません。だから、大学合格者を多く出したい進学校では、3年になったら部活引退だの、文化祭は実施しないなどという学校も出てくるわけです。なんのための高校生活なのか。
 
 思うに、わたしは、いまこの「コロナ禍」の時期に〝論議〟を必要とする「9月入学」などを問題化する必要はないと思っています。またその〝論議〟の本位も、大学などの状況から、考えていくべきことと思います。

 さて最後に一言。
 「非常事態宣言」が解除になっても、まだ「コロナ禍」は、終熄したわけではありません。
 そもそも、「コロナウイルス」の出現には、過去のエイズ、エボラ出血熱、SARSなどの伝染病の出現とともなって、人間がもたらした地球環境への警鐘ととらえる科学者が多くいます。その意味でも「コロナウイルス」の問題は、ワクチンができたからといってすますことのできない、より根本的な問題が存在しているように思います。
 それは、この3月4月、そして5月にかけて、中国やアメリカなど「公害国家」の大気が、産業活動の停止により、劇的に浄化されていったこととあわせて、ただに「ウイルス」の厄災として狭く見るのではなく、世界の成長経済の陥穽として見ていくべきことでもあるかと思います。
      

 その意味で考えなければならないのは、いったいどこまで、わたしたちは「富」と「財」を求めていけばいいのかということです。
 一部の富裕者が、自らの富と安心安全のため、風光明媚な場所を占有し、防犯と侵入を阻止すべくガードマンとポリスに防衛させる「Gated community」で快適な生活を独占的に占領する。そのなかで使い切れない財産をもって「地位」「権力」を維持する状況。そうしたいまの世界の〝富の偏在〟をわたしたちは、いかに考えたらいいのか。

 この「コロナ禍」のあと、まだ人びとは、そうした「富」と「財」に執着するのか。
 いやそうではなく、だれもが気持ちのいい風の吹く青空の下で背を伸ばし、生存の糧を得ながら、いい音楽を聴き、楽しい会話を重ね、いろいろな過ぎにしこと、そしてやってくることを想いながら暮らしていく。そうしたことを静かに受け入れていこうとするのか。

 この「コロナ禍」のなかで、富と覇権を競う中国とアメリカの為政者の相互の中傷合戦、WHOの無責任さや独裁的な政治家の失政がよく見えてきたように思います。
 これまでの「歴史」を見ていくと、どんな悲劇であろうと、災厄の前で、政治指導者や政治エリートが怖じ気づき、自己保身をはかり、ほとんど機能しなくても、社会の統制は、人びとによって苦難をともないつつ自然に創られていったように思います。
 そして、こうした災厄は、歴史の流れを変えるというよりも、むしろこれまで隠されていた矛盾や亀裂、欠落を明るみにさせて、それを経験することで、人びとをより賢くすると、「歴史」は教えてくれています。
 
 それらのことは具体的に、折々にこのブログでお伝えしたいと思っていますが、そうした「歴史」について思うにつけ、そろそろわたしたちは、いまの「コロナ禍」のあとの自分自身のことを考えていく時期を迎えているのかもしれません。
 と言うことで、まずは、今日はここまで。

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明るい方向とは何か?~2020年夏学季「講座」を緊急開講します!

2020-05-18 15:01:44 | 〝歴史〟茶論
 高校生のころ、「人はなぜ生きるんだろう?」などという厄介なことを考えて、人知れず悩んでいたことがあります。
 それは思春期特有の一過性の〝憂鬱〟ってやつだったかもしれません。
 そんなとき「哲学者」と陰で呼ばれていた友人から、サルトルJean-Paul Charlesでも読んでみろと言われ、入門書的な『実存主義とは何か』という本を借りて読んでみることになりました。            
                       

 読んでみるとそこには、たとえばハサミはものを切るという「本質」があるのだけど、人間にはそもそもそうしたものはない。あるのは人間としての「実存」だけであるとありました。
 つまり人間とは、ハサミのようになんらかの目的によって存在しているわけではなく、生きるなかでさまざまなハサミが持つような「本質」を身につけたり、選び取ったりする。まさに「実存が本質に優先する」。人間には、生きるなかで多様で予期できない可能性が内在している。その「実存」にこそ意味がある。
 フランス人であるサルトルは、第二次世界大戦中、巨大なナチスに対抗し苦難をともなったレジスタンス運動を行っていた哲学者で、そうした苦闘のなかから全体主義に対峙する人間の自由の意味を、「実存」という思想に昇華させた哲学を打ち立てました。
 そしてサルトルの哲学は、田舎の高校生にすぎなかったわたしに、未来性、いまの思いを込めた言葉で述べるなら、未来に〝投企される自己〟といった、あたかも一条の光がさしてくるような期待感を抱かせるものだったように思います。

 その後しばらくして、友人の「哲学者」は、デカルトRené Descartes について語りはじめました。
 いまは違う名称になっているでしょうが、わたしたちの世代の高校の教科には「倫理・社会」という教科がありました。とりわけ、わたしの通った高校には、哲学科出身の熱っぽい授業をする教師(いまも尊敬している)がいて、彼の授業で友人の「哲学者」もわたしもおおいに刺激を受けたものですが、それもあってデカルトの名前も〝我思う故に我あり〟という言葉も知っていました。
 でも デカルトが、スペイン帝国の支配から独立をはかろうと長い戦争を闘った「オランダ独立戦争」のなかにあって、この思想を確立したこと。
 〝我思う故に・・・cogito ergo sum 〟の意味は、これまで世界では、神の恩寵や摂理、または絶対的王権や権威のもとで人間の思考や方向性は制約を受け迷信に囲まれていたけれど、デカルトは、そうした神や権威に凭りかからず、また阿ることなく、人間とは自らが思考して行動することに意味があると説いたこと。
 そして、デカルトから以降の哲学では、人間はドグマ(教義や教条、宿命や運命)といった外的な桎梏(手枷足枷)から解放されるべきとされ、自ら自由にものを考え行動するところに存在の意味があるのだと確信されたということ。
 友人の「哲学者」はそんな風なことを、訥々とした秋田弁で話してくれました。この会話もわたしには思春期の憂鬱を晴らす意味で、大きなものでした。

 以上の事柄は、いまでは「存在論」といった哲学的なカテゴリーのなかに括られ、わけしり顔な人びとに、もはや過ぎ去ってしまった哲学論のように扱われるのが落ちだと思います。でも、高校生のころ、サルトルを知り、デカルトの語る真理を聞いたときの新鮮な感動は、はなかなか忘れられるものではありません。

 もちろん、ほかにもいま『ペスト』のときならぬ流行で脚光を浴びているアルベール・カミュAlbert Camus が『シシュポスの神話 Le Mythe de Sisyphe 』などで表現した人間における〝不条理absurde 〟の悲劇。またチョムスキーNoam Chomsky の説く「生成文法」、つまり人間は、天気のいいことを、「です、天気いい、今日は」とは言わない。「今日はいい天気です」と言う。そこには言語文法が人間の〝生得的a priori〟な能力として内在されている。いわゆる言語と人間の相補的な可能性など、さまざまな哲学や思想に出会うたび、人間存在の寄る辺のなさ、哀しみも含みながら、その一方での人間の明るい可能性の所在を感じ取ったりしたものでした。

 そんななか、ここ数日の「コロナ禍」のなかで、なにか大事なことが抜け落ちてしまっているのではないか。そんなことに気がつきました。いや思い出したといってもいい。
 というのは、先日、政府から10万円の「特別定額給付金」が出た人びとのインタビューを聞いていて、腑に落ちないことに遭遇したからです。
 インタビューされた地域は、さほど「コロナ禍」の影響を受けていない地方の町村でしたが、そこで給付金をもらった人びとの口から、「政府からお金をいただいて、ありがたい」「安倍首相には感謝しています」という言葉が出てきたのです。
 べつに首相からお金をもらっているわけじゃないのになぁ、とそのときは思いました。理屈では、この給付金は自分たちの納めた税金を、「コロナ禍」で行動の〝自粛〟を強いられ経済的にも困難な生活を強いられているため、取り戻したという性質のものです。
 でも、ありがたいと言う。お上から下賜されたかのようなお金の意識。しかも、なぜ首相に感謝しなきゃならないのか?
 それは、日本人の「大に事える」、「事大主義」の隷属根性からのものだ。そう言って了えば、ことは簡単です。でも、どうしてそう思うのか。その疑念は残りました。と同時に、なんでこうにも〝お上〟、いわば「権威」や「権力」に弱いのか。もう民主主義国家となって、ずいぶん経つのに、です。

 歴史学では、よく「権威」と「権力」の相互補完性について語られることがあります。かんたんにお話しすると、昭和前期の軍部の台頭の仕組みは、天皇という「権威」を隠れ蓑にして軍人たちが暴慢な「権力」を行使したわけで、天皇という「権威」と戦争遂行者である軍官僚の「権力」関係は、相互に補って、あの戦争を起こしたということになります。
 しかし、そうした〝しくみ〟は軍組織にも浸透していて、実権を握っていたのは参謀本部や軍令部に属していた少壮の軍官僚(だいたい中佐か少佐)で、かれらは大将や中将といった軍首脳部がその「権威」をひけらかすため、鷹揚に大物ぶって「よきに計らえ」と無責任な態度を取ることを補完するように、その「権力」を行使していきました。
 そして「権力」をもった軍官僚は、作戦遂行は自分たちで独占するものの、その失敗については、軍首脳部もしくは天皇の「権威」に隠れて、ないことにしてしまう。つまりは責任逃れをはかるという術を身につけていました。それはまさに「黒子」に隠れる狡猾さというやつです。
 そのありようが、戦後に露見した開戦および敗戦の「戦争責任」を誰も取ることのない体制、いわゆる〝無責任体制〟となり、ちょうど「天皇」を頂点に、責任追及のため、むいてもむいても皮ばかりで、タマネギのように芯が出てこない。そんな体制を作り上げました。
 これはいまも会社などで、社長の「権威」を借りて、側近である社長室長などが「権力」を行使する。あるいは社長夫人などが「権力」をふるう。体育会系の協会でも、名誉職である会長の「権威」を背景に専務理事などが好き勝手に「権力」をふるう。どれもよくある話しです。
 それは国家体制からはじまって、地元の商店会や政党、労働組合などにもよく見られるものでしょう。
 つまり、「権威」と「権力」は相互補完をし合いながら、支配体制および支配機構を強め、狡猾にまた永続化させるものだというわけです。

 こうした話しも、じつは高校生のとき、たしか歴史の教師から聞きました。この教師は、東大の学生だったとき学徒出陣の最後の年にあって、20歳で本土決戦の特攻隊として、身体に爆弾を結びつけて蛸壺のなかに潜み、九十九里浜に上陸する米軍の戦車に体当たりする訓練をしていたのですが、そのさなかに戦争が終わったと語ってくれた人でした。
 その後、中途で終わった大学に戻り、日本の中世史を学び直して田舎の高校教師として赴任し、戦争体験をふまえてか、校長や管理職の誘いに乗らず、ずっと一介の教師として、わたしたち高校生に学問のすごさを教えてくれた人でした。

 そこで、話しを戻します。すこし単純化した話しとなりましたが、わたしたちの周りには、たしかに「権威」と「権力」の相互補完的な体制があり、これが為政者の権力を強いものにしています。では、そうした「権威」と「権力」の関係は、すべて悪なのか。
 歴史が教えるところでは、近代民主国家のありようとは、どうしても起こってしまう「権威」と「権力」の補完関係を、反対に有効な制度に変える〝制度転換〟にあったと語っているのです。

 「権力」とは、政治を執行し、民衆の生活をサポートするためには、どうしても必要なものです。今回の「コロナ禍」にあっても、〝自粛〟ということではありましたが、公的機関の閉鎖を行い、一方で協力ということでホテルなどに要請して医療業務の拡張をはかる。また海外との入国出国のなどの禁止や制限といったことは、まさに「権力」の行使と考えられます。
 その意味で、「権力」はときに有用なものです。しかし、「権力」は、今回の「検察庁人事」の問題にしろ、すぐに暴慢になりやすく、その濫用は厳しく監視されていかなくてはなりません。
 その場合、そうした「権力」の監視や統制は、相互補完的な関係にある「権力」を超える「権威」に担保させる。そういう「仕組み」が近代になって生まれてきているのです。ならばその場合の「権威」とは何かということです。

 1789年7月、バスティーユ監獄の襲撃を契機にフランス革命が起こりました。そのときの人権宣言とその後の1791年の憲法では、「権力」を行使する政府に対して、それを監視統制するものとして、「国民」を「権威」として位置づけているのです。
 つまり、近代国民国家および現代の民主国家とは、「権力」である政府や為政者はあくまでも「権威」である国民のもとにおかれている。それによって、君主制でも王政でも、独裁体制でもない現在の民主制の正当性は担保される。言葉を重ねると、「国民」こそが「権威」であり、「至高」であるわけで、国民主権とは、政府を統制抑制する「権威」の役割を担うというわけです。

 でも、いつの間にかそうした理論や理屈は朽ち落ちている。それが給付金をもらった人びとのインタビューで、わたしが気づいたことなのです。
 どうも人びとは、いま自分たちが立っている世の中のありように、その根っこに何があるのか。これまで人間が築いてきた「歴史」を見落としてしまっている。あるいは知らないでいる。
 たしかにいま盛んにやりとりされているNETやSNSで放出される毀誉褒貶のあれこれを眺めていると、さまざまな言説があり、さまざまな意図やたくらみが溢れています。でも、子細に見ると、どうにもその言葉が軽いのは、物事の背景をふまえることなく、また「歴史」の意味を正面から問うことをしない。もしくは軽薄な知識に振り回されていることにある。まずは〝流行(はやり)〟に乗ってこう! 攻撃するには「いい気になるな」的な言辞をぶちかましておこう。
 それはまさに「歴史」への視座が欠けていることでもあるように思います。

 それと相まって、また違う視点で「歴史」を見ていくと、もう一つ浮かんでくるのは、多くの人びとが、いつもどこかで明るい方向を目指して生きてきたということです。
 それが自己自身だけのことであっても、またいろんな人びと、または恋人や家族などとともにでも、人びとは、猜疑や嫉妬、憤怒や悲哀に沈むより、できるだけ明るいところ、陽の当たるところに「こころ」の置き場を求めるように歴史を刻んできたように思います。
 もちろん、なかには明るいところの在処がどこにあって、陽の当たる場所の意味がわからず、失意に暮れ、曇った眼差しで世の中や他者を見てしまったり、暴虐な君主や独裁者に身を任せてしまったこともあるでしょう。
 この「コロナ禍」のなかでも、他者を差別したり、悪の在処を言挙げしたり、あたかも正義である〝自粛〟の執行人みたいに告発や密告にいそしんだ人びともいたかと思います。正しいことはかならずしも人びとを救うことにならないのですが・・・。
 
 そんなとき、かつて新鮮に感じたサルトルの説く「実存」がもたらす人間自身の可能性を思い出します。またはデカルトが述べた、どこにも頼らず縋らず、神や絶対者にひれ伏すのでもなく、いつも自分で考え行動する。〝我思う故に我あり〟という精神のひろがりを想います。
 加えるに、フランス絶対王政を終わらせたフランス革命で宣言された国民こそが「権威」「至高」であるという、自身が主人公であるという考え方。そうしたことが、現在のわたしたちの「歴史」に息づいている意味を思うわけです。やはり、そうした事柄は、「歴史」を通じて感知されるものなのです。

 とは言うものの、いつまでも若造じみたことを言っていて、恥ずかしくも思うのですが、しかし「歴史」を訪ねて知ることで、まるで眼に光が注がれるように視野が開かれていくってことも確かですし、「歴史」を知ることで、物事が遠くまで見通せたように思うことは気分のいいことなのです。
 給付金は、なにもありがたがってもらう筋合いではないのです。そういうふうにわたしたちは「歴史」を重ねてきたものなのです。

 さて、長い話しは、これくらいにして、最後に講座についてお知らせがありますので、お読みください。
 2020年夏学季の講座ですが、当初、二講座を準備していたものの、「コロナウイルス禍」によって会場の確保が困難になり、また自粛規制によって、二講座ともに開講は難しいと覚悟を決めていました。
 しかし、講座をこの秋、あるいはそれ以降にやろうとしても、この災厄は、またいつ第二波、第三波とやってくるかわからず、またいま現在、人との会話が切断され、相手の表情や言葉に含み込まれる情感などが脱色され、「対話」が喪失された状況になっていることに、わたし自身、強い危惧を持ちはじめてきたこともあり、やれるうちにやっておこうと決断しました。
 結果、実施できるのは会場の関係もあり、四講だけで、『時代に杭を打つ!』partⅢのみを縮小して開講することにいたしました。
 この講座は、以前もお知らせしましたが、質疑応答も含め、対話を考えた講座にしたいと思っています。

 日程については、下記にフライヤーを貼っておきますが、6月14日(日)午前10時から(質疑応答含めて約100分)を初講とし、6月21日(日)、6月28日(日)、そして7月12日(日*この日ばかりは13時~)に池袋にある「としま産業振興プラザ」(通称池ビズ)で行います。会場は大きな場所を確保していますので、お互いに間隔を置いて、お座りいただけます。
 もし、このブログをご覧になり、参加したい方がいらっしゃましたら、yagashiwa@hotmail.comにご連絡ください。

 というわけですが、日々、ざわざわと落ち着かないことかと思います。この先の不安、どうのように生きるべきか。さまざまな思いが交錯する毎日かとも思います。
 講座は、いちおう日本の戦後の思想家をテーマにしますが、それぞれの時代で語られた思想といまのわたしたちのありようを照射するお話になるかと思います。いまのわたしたち自身の足元を照らすものにしたいと考えています。
 まずはわたしたち自身、まだまだ〝未来に投企された存在〟であるべきですし、その意味で、自身で考え行動する大切さを共有できればと思います。

 

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厄災を前にしていかに生きるか!

2020-05-10 22:43:38 | 〝歴史〟茶論
 物議を醸した「アベノマスク」はいつになれば届くのか? 
 「アベノマスク」の配布率は日本全体で5%にもならないそうで、いまでは近くのコンビニやなぜか中華料理屋やタピオカミルティーのお店でも、ふつうにマスクは販売されていて、簡単に手に入るようになりました。そして一部では「値崩れ」しているともいわれています。
「アベノマスク」は必要なのか? いったいどうしたものでしょう。

 これはあきらかに〝失政〟なのでしょう。「見栄え」だけをよくする、小手先の民衆愚弄の政策とも言えます。これでわかったのは、東大出の頭がいいとされた「官邸官僚」が、いかに出来が悪く、人びとと乖離した存在なのかということです。かれらは処理能力には長けているけど、物事を深く考えられる質ではないし、空疎な口舌にこそ自分の出番だと思っている節があります。でも、これはわたしがこれまで東大に限らず、いわゆる一流大学に進学していった学生たちを見ていて、いつも危惧していたことです。
 そして、彼ら彼女らは、ぜったいに〝間違い〟を認めたり、〝謝る〟ことをしない。ケチな「学歴」といったプライドしか持ち合わせていない。

 そんな「アベノマスク」が届く前に、といってもわたしのところには届いているのですけど、もう5月です。「田植え」の季節になってしまいました。
              
 わたしは農業の盛んな北東北の地方都市の出身で、もちろん、わたしの両親はともに農家の生まれです。
 父は、神秘的な湖ということで知られる秋田県田沢湖から北に向かった寒村の生まれであり、母も県南の平野部のふつうの農家の出です。
 父の実家は岩手県境に近いこともあるのか、いわゆる「南部曲屋」の構えをしていた農家で、祖父は、ロシア製の銀色の猟銃で熊や鹿を仕留めてくる猟師でもありました。
 子どものころ、父の実家に行くと、熊を仕留めてきた祖父が、熊の皮の裏についている脂肪を石匙のようなへらでそぎ落とし、近くを流れる清浄な沢水に熊の毛皮を何度も浸して、ゆっくりゆっくりと丁寧に皮をなめしていた姿を思い出します。
 祖父は、当時としては背の高いがっしりとした偉丈夫であり、おおいに大酒する人でした。
 農家の仕事が終わって夕方ともなれば囲炉裏の前にどんと坐って、小さなわたしを祖父は股の間に坐らせて、大きな茶碗に酒をいっぱい入れて、ごくりごくりと、じつにうまそうに呑んでいる人でした。
  なにも語りもせず、ただにこにこしながらお酒を飲む人でした。

 その長男であったわたしの父は、理由はわかりませんが、農家を継ぐことなく、妹さんにお婿さんをとって家を継がせ、自身は農業技術者として県庁に勤める道を選びました。そこで農家の三番目の娘であった母と見合いして結婚したと聞いています。もし父親が農家を継いでいたら、わたしもきっと継いでいたことでしょう。
 ときに父の祖父は、わたしが八歳のとき、大酒が原因で、脳溢血であっけなく亡くなりました。ですから、わたしの父方の祖父の記憶は、物静かで大酒し、銀色につやつや光るまで猟銃の手入れをし、また根気強く熊の毛皮をなめしている姿です。

 母の実家。そこには子どものころよく行きました。夏休み、冬休みだけではなく、田植えや稲刈りの時期にも、母が手伝いに行くついでに、よく連れて行かれました。
 母の実家は、北東北でも大きな河川である雄物川流域にある広々とした平野のなかにあり、田んぼのほか、祖父は一山をすべてりんご畑にしていて、リンゴ農家として暮らしていました。
 母方の祖父は、若いころ競馬のジョッキーだったという話しでしたが、わたしが知っている祖父は、書をよくする人であり、リンゴ山の中に庵を結んで、そこでいつも墨を擦って難しい文字を書いていた印象があります。

 そうした祖父の朝は、ひどく早かったのを記憶しています。
 朝、子どもであるわたしが空想でいっぱいになった夢を見ている時間、まだ夜の空が明けきらないころに、祖父はすでに田んぼに出ていました。
 いちど眠い目をこすりこすりしながら、祖父といっしょに田んぼに行ったことがあるのですが、祖父は田んぼに出ると四方の水路を確認し、水に手を入れて田んぼの水温を確かめ、まだ暗い田んぼ全体を眺めながら、あるところでは水を抜き、また水入れをして、その上で稲を一つ一つ確認するように手を添えてその生育の状況を観察し、そしてそれが終わると稲たちに向かって、声かけをして、またつぎの田んぼに移って、同じことをしていました。
 そして、夏の陽射しが強く田んぼの水面を照らす時期、きつい照り返しのなか田んぼに群生した雑草取りをするのですが、そのときはまるで稲を励ますように「エイエイ」と声をもらしながら、雑草を取っていく。
 それは稲の生育を願い、あたかも稲とともに生きていこうとするように見えました。いま思うには、それは稲とまさに〝連帯〟しているような風情だったように感じられます。
 リンゴの撰定、袋がけ、その作業も祖父は、じつに丁寧に慈しむようにリンゴの木に語りかけながらやっていて、それは一つのきまりきった日常的所作であったのでしょうが、じつに手際がよいもので、そうした日々の所作が「無形の作品」のようにも見え、じっと眺めていた記憶があります。

 よく作家や学者などの文章や語りには、農作業の手際のよさや畑の畝の盛り上がり、あるいは整然ときれいに規則正しく稲穂がならんでいる田んぼを見て、これが「日本人の美意識」だとか、「日本精神」のあらわれだとか書いていたり記されていたりすることを目にします。
 でも、そんな言葉に出くわす度に、わたしにはなにか疑わしいものに触れた気持ちの悪さにとらわれます。
 じっさい、わたしが子どものころ見ていた祖父たちの仕事ぶりは、そんな浮ついたことではない。すくなくとも、祖父たちは「日本人の美意識」や「日本精神」を表現するために、農家の仕事をしていたのではなかったように思います。
 そんな高ぶった賞賛の言葉やおだてとは無縁な地味な所作があるだけだった。それのみが祖父たちにとって、なによりも大切なことであったように思います。
 土や水、空や雨、そして野生の熊や鹿、あるいは稲やリンゴとの長いつきあいのなかで、そうした自然に生きていることに対して謙虚であって、自然から一歩引いたなかで生きる。
 都市のなかで何ほどにもならない地位や富しか誇ることができない人びと。いわば、実体験や生活感の希薄な人びとが、みずからの〝不十分さ〟〝不安さ〟を覆い隠すために、上からの目線で「名付け」をする。「美意識」だの「精神」だのの仰々しさ、そうした言葉や解説などとは、見事なまでにも遠くにある実直な〝暮らし〟・・・。そうしたなかに祖父たちはいたのだと思います。

 そんなことをいまに思い出すと、たしかに実体験や生活感が希薄ななかで起こった、実効性が乏しく矮小なガーゼ仕立ての「マスク」騒動のドタバタ。
 もしかすれば、それはたんにいまの安倍政権の〝失策〟というだけではなく、わたしたちの生きている「現代」という現実とかけ離れた空疎な時代が生みだした〝瑕疵(かし)〟のようにも見えてきます。

 ところで、ここで歴史について、すこし書きます。
 前回は鎌倉幕府の飢饉への対応について、危機回避の最終手段としての〝奴隷〟のありように絡めて、すこしだけ触れましたが、奈良時代の正史というべき『続日本紀』には、いまは撲滅されたといわれる天然痘の猖獗(しょうけつ)に苦しんだ聖武天皇の治世についての記述があります。

 高校で日本史を学んだ経験があれば、藤原不比等の息子たち「藤四子」が、天平9年(737年)にあいついで天然痘で没したことを知っている方も多いかと思います。
 日本列島は「島嶼国」であるが故に、疫病はたいがい外から流入する傾向があり、このときも新羅で疫病が大流行であることを知らず、遣新羅使が派遣され、遣新羅使の一行百人余りのうち、この天平9年正月に帰国した時点で、大方は天然痘に倒れ、一行のうち帰国できたのは40人だったとされています。
 そうした状況にもかかわらず、天然痘への防御や臨床的知識がなかったことで、生き残った一行が復命のため参内することになり、そのため朝廷の役人の間でまずクラスターが起こり、不比等の子である房前、麻呂、武智麻呂、宇合が順番に没し、廟議を司る役人の大方も病に死すという事態となります。そして、それが瞬く間に庶民まで感染する惨憺たる状況になります。

 ところで、疫病とはおもに貧困層のなかで発生し、手当のないまま多くの死者を出すと思っている方も少なくないでしょうが、じっさいいまの「コロナ禍」もシンガポールやブラジルでは下層生活者の地域で感染拡大を起こしている傾向があるものの、皮肉なことに、そうした貧民を大量に搾取し、その上で富を重ねている富裕層も、一旦疫病がおこると、疫病はそこに留まりません。あっというまに富者にも襲いかかっていきます。
 歴史が教えるところでは、疫病が起こった際には、貧民はつねにこうした災厄のなかで最大の〝弱者〟とはなりますが、それだけではなく彼らを虐げ搾取して、不可視な存在として放置した者たちも、ある意味〝平等〟に災厄を浴びるということです。〝権力者〟もうかうかしてられないのです。
 
 話しを聖武天皇の奈良時代に戻します。聖武天皇は、この事態にどういった対応を取ったのか。まず天皇は、聖徳太子の施療事業を参考に、興福寺内に薬草を栽培・手配し、薬を施すための「施薬院」を置き、一方で飢えを取り除き、病を救済するための「悲田院」を建てます。
 さらに養老律令で定められていた「医疾令(いしつれい)」をもとに、医療職や内薬司(宮中)、典薬寮(宮外)の組織拡充をはかり、また医学教育を強化します。
 そして、医術習得に秀でた者を「国医師」とする制度を確立し、その医師らは薬嚢(やくのう)をもって都を回り、困窮した病人に薬を与え、重症な病人を悲田院に収容させ、病が拡大しないように隔離したと記されています。
 くわえて、光明皇后も都の東西に「悲田院」を置き、施療のため、いまのお風呂にあたる「湯室」を造作し、病人を不潔から解放したといいます。
 鎌倉時代に書かれた仏教史である『元亨釈書』には、そこで慈悲深い仏心を持つ皇后は、病人の身体に浮き出た醜悪な膿を自ら吸い取ったという話が記されているのですが、それは疑わしいものの、皇后自ら陣頭に立って、病者の世話をしたというのは事実のようです。
 さて、その際の財源です。まずは聖武天皇自ら各地の朝廷財政を投入していきます。そしてそれだけではなしに、光明皇后には父の不比等から相続した封戸(稲などの収穫)があるのですが、そのあわせて四千戸あまりを投入したといいます。それはちょうど、いまでいう東京を除く関東六県の年間予算のすべてを投入する規模だったようです。さらに貴族たちも俸禄や私財をも含めた財産をいっせいに放出し、これらに当てる。
 これは鎌倉時代に、執権の北条泰時が飢饉に際し、自分の知行国の収入の大部分を当てて救済に乗り出したのとよく似ています。まずは為政者が自らの財産を供出し、率先して財源確保をはかる。
 
 こんなふうに見ていくと、古代からの為政者は、疫病や災厄に際し、まず厄災と対峙するための病院をはじめ薬や医師などの医療制度を打ち立て、病人の隔離などを迅速に実行する政策を行う。
 その一方で、疫病で生活できなくなった貧民救済のための、悲田院設立などの社会政策を行う。
 さらにその財源については、朝廷財産の供出を率先して行うとともに、富者や貴族の出資を徹底し、とにかく早急に疫病や災厄の苦しみから人びとを救済するという施策を行っていることがわかります。
 その意味で、現在の「コロナウイルス禍」への対応のありようは、医療確立、社会政策の拡充、それにともなう財政政策の策定が柱となっているわけで、古代から大方は変わっていないということができます。
 しかし、聖武天皇や鎌倉幕府の対応で注目すべきは、疫病や災厄に対して時間を置かず、身分格差や差別を乗り越えて、つぎつぎに迅速かつ徹底して行っている状況が見えてきるということです。それも、医療の進んでいない時代にあってです。
 またそれ以上に注目すべきは、こうした為政者の疫病や災厄への態度に見られる姿勢です。
 紙量もあるので、一つだけ聖武天皇の例をあげれば、天皇は自ら「自分が君主になって数年経ったが、徳によって人民を教え導くことが十分でなかったために、人民を安らかに暮らさせることができない。そのため、わたしは日夜憂いている。・・・春以来の災厄によって、天下の人民が多数死亡している。まことにわたしの不徳によってこの災厄が生じたのである。いま天を仰いで慚愧(ざんき)にたえない。そこでみなが生活の安定を得るために努力させてほしい」と述べていることです。
 つまり言い換えれば、この疫病・災厄は天皇自身に〝徳〟がないから起こったのであり、申し訳なく思っているということなのです。
 ここにはもしかして、このあと平安初期に最澄によって伝来した「天台仏教」における「悔過(けか)」、いわば人は自らを省みることで自らの不足と不徳を悟り、そこからでないと新たな救いはないとする考え方が、影響を与えているのかもしれませんが、大切なのは、聖武天皇自らが自身の〝薄徳〟〝不徳〟を詫び、〝仁徳〟が為政者にとっていかに大切かを説いていることです。
 このときの聖武天皇は、疫病のなか、神道や仏教への祈りや願い、さらに身を清らかにして、仏道に励むといったことを再三行っていますが、まずは、自分の至らぬさが災殃を招いているという地点に自らを置き、そこから救いを模索しているというわけです。

 もう翻って考えるまでもないでしょう。
 もちろん、いまの時代の為政者に〝徳〟など求めるのは古すぎるのかもしれません。しかし、欧米の為政者や首長が、自身の言葉で、冷静かつ事態の深刻さを科学的・医学的知見を交え、プロンプターなど見ずに直接的に人びとに語りかけているようすを眺めるなら、〝徳〟とはなにか。〝仁徳〟は、ごく自然にその人の品格ないし言葉のなかに現れるものだと思わざるをえません。

 疫病や災厄は、だれの身にもふりかかるものです。そのなかで、いかに「言葉」のもつ意思と人びとに向かい合う「態度」が問われるのか。
 このたびの「コロナウイルス禍」が、このあとどんな展開になるのか、わたしにもよくはわかりません。そうしたなか、いまのこの〝自粛〟の風潮に、どうしようもなく急に怒りが吹き出てくるときもあります。
 でも、この事態に対して、寄せ集めた知識やSNSの恣意的な流言で、一喜一憂してもなにもはじまらない。それだけは確実です。いくら「名付け」てみても「解説」されてみても、この先行きはなかなか見通せません。
 ならば、わたしの祖父たちがそうだったように、日々のなかでそれぞれの時間に意味を見いだしながら、何事かの「仕事」に意識を傾注し、丁寧に過ごしていくしかない。わたしにとって、それは書くことかなと思うしだいです。

 とはいうものの、思い出すのは教師としての初任校であった農業高校での5月の晴天のことです。この学校では〝さなぶり(早苗饗)〟といって、全校で田植えをする行事がありました。
 今年は、もしかして休校となって、この行事はできないのかもしれませんが、いまになって、何十年ぶりかに田んぼに入って、泥のぬかるみのなかで「田植え」がしたくなってしかたがない。困ったものです。 


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2019年秋学季「池ビズ講座」のお知らせ!

2019-08-20 10:41:39 | 〝歴史〟茶論
 今年の夏は、本当に〝酷暑〟ですね。
テレビじゃ「命の危険」だとかいいながら、なぜ暑いのかにはまるで触れないで、ご注
意くださいの一点張り。CO2の問題だとか地球温暖化の危機だとか、もっとも根本にある問題を素通りして、問題の在処をごまかしている。
 マスメディアは批判意識も問題意識も、ぜーんぶシュレッターにかけるかデリートしてしまったんだろうね。

 さてそんななか、新人会・宏究学舎の講座「八柏龍紀の歴史講座」秋学季を開講します。今回も「講外講」として東京にある歴史的「銅像」を巡る〝お散歩〟を予定しています!
 詳細は、下記の通りです。

◆◇歴史と人物◇◆ 時代に杭を打つ!<partⅡ>
~日本近代に点った良心の〝灯火〟~

 *期間:2019年9月21日~12月14日(全6講)
 *曜日・時間:土曜日(毎月)<午前10時~12時>
 *定員・受講料:約20名 9000円(全6回分)
 *会場:としま産業振興プラザIKE・Biz   (JR池袋南口徒歩4分)       http://www.tosima-plaza.jp

【講座内容】
 日本の近代は、けっして顕官政治家や富豪に支配された時代ではありませんでした。ときには「国家」と対峙し、民衆の力を信じ、社会の変革を企図した多くの思想家、文学者の出現を見てきた時代でした。 世の中は、なにやっても変わらない。そういった〝絶望〟から優しく離脱を唱え、明るい時代へ希望を失わなかった人たちも多くいました。そこで今回の講座「時代に杭を打つ!」partⅡでは、そうした光を放った人びとに焦点を絞って、日本の「いま」の虚無に対峙しようと思います。一人一人がどう生きるか? そのテーマにこだわりつづけながら、お話しを進めていきます。

 第1講(9月21日)明治の精神
           ~「中江兆民」が見た〝日本の行方〟とは?
 第2講(10月5日)黒髪と「日露戦争」
           ~「与謝野晶子」が対峙した明治国家とは?
 *「講外講」(11月9日・自由参加)<街歩き~東京の銅像を探訪する!>
  西郷隆盛、太田道灌、北白川宮能久、勝海舟、小村寿太郎、楠木正成な  
  どの銅像を訪ね、それぞれ時代に思いをはせる!

 第3講(10月26日)〝平民〟の源流
           ~「堺利彦」の不屈の抵抗心。その源泉とは?
 第4講(11月2日)〝民本主義〟とアジアの解放
           ~「吉野作造」が描いた理想郷
 第5講(11月30日)「雨ニモ風ニモ負ケナイ」精神とは?
           ~「宮澤賢治」の漂流する心
 第6講(12月14日)女性だからの理由で従わう道理はない!
           ~「山川菊栄」の受容と反逆
***お問い合わせ・お申し込み***
    NPO新人会代表:岡田大成 E-mail:taiokadrink@gmail.com
            講師:八柏龍紀 E-mail:yagashiwa@hotmail.com
***********************************

 今回の講座は、前回の<PartⅠ>に続くものですが、前回の講座が国際的な活動を行った人びとを取り上げたのに対し、今回は与謝野晶子や宮澤賢治など日本の近代のありかたに感性や情念で立ち向かった人びとについて考えていきたいと思っています。
 〝抒情〟や〝感情〟は、ともすれば不満や嫌悪をともなって時流に寄りかかった姿で発散されていきます。しかし理知的で自己内批判を経て発露される〝抒情〟は、人びとの心の静寂な奥底にある〝感情〟にはじめは囁きかけ、そのあと心を震わせ浄化し、ひとつの精神に結実することがあります。
 そうしたお話しが出来ればと考えています。

 今回の講座は、会場の関係で土曜日の午前中(10:00~)に開講されます。土曜日の朝、寝ていたい人も多いかと思いますが、思いきって秋のいい空気を吸う気分で、おいでいただければ幸いです。
 なお最終講の時間は、午後からを予定し、そのあと「打上げ」を予定しています。
 〝教養〟って大事です! 知っているか知らないかではなく、まずは世の中を鋭く透視する力と自分自身への心の栄養を与える意味でも、多くのみなさんが集まってくれることを歓迎いたします。     八柏龍紀 


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2019夏学季講座のお知らせ

2019-03-21 15:11:58 | 〝歴史〟茶論

  2019年夏学季の「新人会・宏究学舎」講座のお知らせです。

 ほんとは、台湾紀行の記事を、と思っていましたが、まずはこちらの方を先にお知らせします。
今回の講座は、「時代に杭を打つ!」というのがテーマです。
あまり目立つ人物ではなく、みなさんもなじみの薄い人でしょうが、いろいろ学ぶところがあるかと思い、今回は以下の人たちを取り上げることにしました。
多くのみなさんのご参加をお待ちしています。

おもしろいと思います!

***NPO新人会・宏究学舎主催
  2019年夏学季講座-日本の近代を考える!***

◆◇歴史と人物◇◆ 時代に杭を打つ!~日本近代史にともった灯火~
*期間:2019年4月20日~7月13日*予備日7月20日(全6講)
*曜日・時間:月二回土曜日<午後1時30分~15時>
*定員・受講料:約20名 9000円(全6回分)
*会場:としま産業振興プラザIKE・Biz
     (JR池袋南口徒歩4分) http://www.tosima-plaza.jp  
【講座内容】 後世に人は何を残しうるのか? それは富や
     財産、
そして名誉などではなく、後世の人びとの
    〝こころ〟のなかに何を残すかという「問い」とし
     てお考えください。

     今回の講座でお話しする人たちは、歴史上目立つ
    人たちではありません。むしろ、その残した「遺産」
    も、どう生きるべきか、いまどうあるべきか、
    そんな想いを持ち続けて日々を暮らしている間に、
    その意識が蓄積して、あるいは時間に沈殿して、
    のちの時代の人びとの〝こころ〟に、
    結果として「遺産」となったとされるものです。
    それは〝レガシーlegacy〟などといった小賢しげで
    浮ついた言葉なんかじゃなく、ときに
    時代に杭を打つようにして残されたと
    言っていいかと思います。
     近代日本において、後世にそれぞれおおきな
   「遺産」を残してくれた人びと。
    そういった人たちの「どう生きるべきか?」
   「いかにあるべきか?」を探ります。

第1講(4月20日):
   近代日本の〝陥穽〟~朝河貫一に見えた「禍機」とは?
第2講(5月4日):
   人道主義の〝意味〟~「命のvisa」と杉原千畝の問いかけ

  「講外講」(5月18日・自由参加)
  <街歩き~横浜と日本の庭園美を探る一日!>

     原三渓造作の横浜「三渓園」を訪ねながら、
      さまざまな時代と空間に遊ぶ!

第3講(6月1日):
   美意識は海峡を越える!~浅川巧と〝朝鮮の美〟

第4講(6月29日):
   後世に何を残すべきか?~八田與一と「烏山頭ダム」

第5講(7月6日):
   理想としての〝ナショナリズム〟とは?~橘樸と〝中国〟

第6講(7月13日):
   巨大権力と対峙した動かざる表現者~亀井文夫の「映像世界」

***お問い合わせ・お申し込み***
NPO新人会代表:岡田大成 E-mail:taiokadrink@gmail.com

 講師:八柏龍紀 E-mail:yagashiwa@hotmail.com

  

  


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9月開講の講座の案内とちょっとした話!

2017-09-18 23:15:03 | 〝歴史〟茶論

 今年は、じつに憂鬱な天気と政治状況の年だった。
 そんな気分で、9月まできてしまったという感じです。

 とくに北朝鮮のロケットがどうの、核がどうのってときに、
 総選挙かぁ・・・。いやはや・・・。

 よく知られている話だとは思いますが、
 第二次世界大戦中のお話しです。

 電撃作戦で、ほぼヨーロッパを軍事制圧したナチス・ドイツですが、
イギリスは頑強に屈服せずに戦っていました。
 なんとかイギリスを打倒すべく、ナチス・ドイツは
最新鋭の無人ロケットV2を雨あられと首都ロンドンに打ち込みます。

 その被害は甚大で、
どこから飛んでくるかわからないこのロケットに、
ロンドン市民は恐怖と憂鬱な日々を
おくっていました。

 そんなある日、ロンドンの老舗デパートのハロッズに
ロケットが命中し、デパートのエントランスを大破させます。

 ところが、ハロッズは翌日も営業すると決定します。

不屈さを見せてやる。そこでハロッズは広告を出すことにしました。

 大々的に打った広告には、
「本日は特別に間口を広くしてみなさんをお待ちしています」

 やりますね。北朝鮮のロケット攻撃?
Jアラートとかで、逃げてください! 窓には近づかないでください!
ロケットが飛んできます!

 こんな大騒ぎを演じている、どこかの政府や首相って、
なんなんでしょうかね? 必要以上に恐怖を喧伝しているわけは?

 戦時独裁体制への嗜好を隠そうとしない政府と首相とそのお友達側近たち。
そもそも政府とは、国民の苦痛や恐怖を取り除こうとするのを仕事としている
はずです。
 まさに真逆のことをやっている。ひどいものです。
 その内閣と首相が、秋の国会冒頭解散をはかろうとしている。

 とんでもないですね!

 さて、9月からの秋の講座の参加をお願いします。
 絵を描くことの困難さと、だからこそ表現に生きようとした
 画家たちの物語のお話しです。
 いろいろなお話しをしていきたいと思っています!


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菅原道真左遷事件(その2)です!

2016-08-10 23:35:10 | 〝歴史〟茶論

京都学講座 『動乱と文芸復興の京都』 

 <その2> 菅原道真の左遷事件~「漢詩」と『古今和歌集』~
[表現としての「漢詩」と「和歌」、そして菅原道真の敗北]
<流謫、流離、死霊>
 大宰府にむかう途中、菅原道真は播磨国の明石駅で、道真の流謫の事実に驚き、それを嘆く駅長をみて、つぎの詩を詠んだという。

   駅長莫驚時変改     駅長驚くこと莫かれ 時の変り改まること 
    一栄一落是春秋              一たびは栄え一たびは落つる これ春秋

 「時変」と「栄枯盛衰」の習い。「是春秋」(これこそが時代であり、年月の奥義である)という言葉にすべての感慨がじつに簡潔に詰め込まれている。
 この詩文は院政期の歴史物である『大鏡』に載っているものだが、道真が死の直前に盟友紀長谷雄に贈ったものとされる『菅家後集』には、これは僧侶の書き記したもので真偽ははっきりしないとしている。『源氏物語』にもこの詩は引用されていて、そこでは「くし=口詩」いわば口頭で詠んだものをだれかが書き取ったと記されている。しかし、この漢詩はいかにも道真らしい、毅然とした無常感が現れたもののように読むことができる。そしてさらに道真は、配流の苦しみをつぎのような言葉で綴る。
   嘔吐胸猶逆     嘔吐して胸もなほし逆ひぬ
   虚労脚且萎     虚労して脚も且萎えにたり
   肥膚争刻鏤     肥膚争(いか)でか刻(き)り鏤(ちりば)めむ
   精魄幾磨研     精魄幾ばくか磨研する
 おのれの肉体に刻み込まれた痛苦と疲弊。彫琢された言葉に内在する忿怒と憤り。しかし、それでも道真は主上(ミカド)への思いを重ねて詠ずる。
   去年今夜侍清涼   去(い)にし年の今夜 清涼に侍りき
   秋思詩篇独断腸     秋の思ひの詩篇 独り腸(はらわた)を断つ
   恩賜御衣今在此        恩賜の御衣は今此に在り
   捧持毎日拝餘香      捧げ持ちて日毎に餘香(よきよう)を拝す
 清涼殿にあって、右大臣兼右大将として醍醐天皇に近侍していた自分。それから流謫へと転じたことの悲しみ。心を切り刻む痛切さと哀切さ。
 あわせて「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 此秋独作我身秋」という詩句。意訳するなら、我が無実を訴えたいというはげしい願望がある。風のすさまじい鋭さはまるで刀で突き刺すようであるが、それでも我が愁いを破ってはくれない。月の照らすのを見ても風のすさぶのを聞いても、我には身の毛がよだつように凄まじく感じられる。天下の秋の愁いは、我が身にことごとく集中して、我れのみ愁いが限りなく深い。
 道真には、政争で放逐される以上に、無実であること、自らの潔白がまったく無視される現実に、狂おしいばかりの怒りと絶望があった。道真が左遷される際に詠んだといわれる和歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はよく知られるが、こうした抒情的な情緒とは異質な、いわば漢詩文がもつ〝現実の裂け目〟。それらが肉体の深い根の底から絞り出されるように詠じられている。
 それとともに配流後、道真には、都から遠く離れた文化とはほど遠い人びとのくらす姿をとらえている漢詩がいくつもある。塩を焼く苦労。その一方で不正の儲けをする輩。軽々しく人を殺傷し、群盗が肩を並べて横行している状況。漢詩という表現で描き出される「現実」。しかし、官吏はそれを無視して無聊に釣り糸を垂れているばかりである。道真は、漢詩の対句・対比という表現でそうした「現実」の苛烈さを浮き彫りにする。
 道真が流謫地大宰府で没したのは、延喜三年(903年)旧暦二月二十五日であった。享年五十九歳。梅のほころぶ季節と言いたいところだが、じっさいは現在の三月下旬であるため、桜咲く季節であった。貴人の多くはその死を憤死と受け取った。そしてそれが猛威を振るう〝祟り〟への恐れとなった。
 そこで気になるのは、道真の死とその直後に勅撰された『古今和歌集』の関係である。左大臣藤原時平は、道真没の知らせを受けると、ひそかに紀貫之らを呼び集め和歌集の編纂事業をはじめたと思われる。紀貫之の私家集である『新撰和歌』などによると、和歌の詞書に「延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る」とある。これによると『和歌集』は延喜五年四月六日に完成したように思われるのだが、となると編集の準備は、少なくともその一年以上前にははじめられ、選者を集めて作業に取りかかっている必要があろう。
 するとこの『古今和歌集』は、道真没後のかなり早い段階で企画されたのはまちがいがない。プロデュースしたのは藤原時平とされているが、ではなぜこの時期に「和歌集」の編纂がなされたのか。文章博士である道真と和歌集の勅撰。その間に何があるのか。

<「寒早十首」の詩興>
 平安時代に入って日本の漢詩文にもっとも大きな影響を与えたのは、八世紀の盛唐時代活躍した杜甫や李白ではなく、唐の衰退期に居合わせた白居易(白楽天)だった。白居易は九世紀半ばまでに活躍した詩人だが、その『白氏文集』は日本の貴族社会の中で広く読まれ、鎌倉初期の歌人藤原定家の「紅旗征戎非吾事」という文言も、『白氏文集』の一節から切り取ったものだった。それはともかく、時代は違うが、白居易が菅原道真に与えた影響もまた大きかった。
 白居易の漢詩は、士大夫の「左遷」をテーマのひとつとし、それとともに社会批評とも言うべき「諷諭詩」というスタイルが基本となっている。白居易の経歴を軽くなぞると、現在の河南省に生まれた白居易は、子どもの頃から頭脳明晰であり五歳のころから詩を作ることができ、九歳で声律を覚えたとされる。彼の家系は地方官として生涯を送る地元の名望家といったものであったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれ、彼は二十九歳で科挙の進士科に合格し、地方官の上席に累進し、その後は翰林学士、左拾遺などの高級官僚の仲間入りを果たしていく。しかし、四十四歳にして社会批判や政治批判が咎められ、官吏としての越権行為があったとして現在の江西省の司馬に左遷される。その後、再び中央での活躍を嘱望されるが、それを倦み、地方官を願い出て杭州・蘇州の刺史となり、最後は刑部尚書の官を七十一歳まで務めた。
 つまり白居易の生き方には、けっして権勢に媚びない、それが故の「左遷」があり、地方官としての生き方があり、それを発条として天下国家に対しての「諷諭」があった。気高い倫理性と「長恨歌」に代表される滅びゆくものへの同情と哀惜、それを歴史的な叙事詩として雄渾に詠いあげる。それが日本の貴族たちに愛唱されてきた理由である。そしてしばしば道真はこの白居易と比較されうる詩人だとされていた。
 道真の漢詩として、讃岐の国司時代の漢詩に「寒早十首」がある。

     何人寒気早 寒早走還人    何れの人にか 寒気早き 寒は早し 
                                                 走り還る人
  案戸無新口 尋名占舊身    戸(へ)を案じても 新口無し 名を
                                                   尋ねては舊身(そうしん)を占ふ
  地毛郷土瘠 天骨去来貧    地毛(ちぼう) 郷土瘠せたり 天骨
                                                 去来貧し
  不以慈悲繋 浮逃定可頻    慈悲を以て繋がざれば 浮逃 定め
                                                   て頻りならむ
  何人寒気早 寒早浪来人           何れの人にか 寒気早き 寒は早し
                                                 浪(うか)れ来(きた)れる人
      欲避逋租客 還為招責身    避けまく欲(ほ)りして租を逋(のが)るる
                                                   客は 還りて責めを招く身となる
  鹿裘三尺弊 蝸舎一間貧    鹿の裘(かわごろも) 三尺の弊(やぶ)れ
                 蝸(かたつむり)の舎(いえ) 一間の貧しさ
    負子兼提婦 行々乞與頻     子を負い 兼ねて婦(つま)を提(ひさ)ぐ
                   行く行く乞與(きよ)頻りなり
      ・・・・略・・・
  何人寒気早 寒早夙孤人        何れの人にか 寒気早き 寒は早し
                                                    夙(つと)に孤(みなしご)なる人
     父母空聞耳 調庸未免身   父母は空しく耳にのみ聞く 調庸は身を免れず
   葛衣冬服薄 蔬食日資貧   葛衣(かつい) 冬の服薄(きものうす)し 
                  蔬食 日の資(たす)け貧し
   毎被風霜苦 思親夜夢頻         風霜の苦しびを被る毎に 親を思ひて
                                                   夜(よわ)の夢頻りなり
                                                    (「寒早十首」1・2・4首 前掲『菅家文集』)

 ここに描かれる十分な食糧もなく骨を削るように生き、凍えるような寒さと過酷な租税に苦しめられている貧者たち。その状況を克明に描写するなかで立ちのぼる抒情。まさに絶望や悲惨という事を伝える詩魂。詩は根本において「述志」であるとはある詩人の言葉だが、菅原道真の漢詩には寒さやひもじさからの黙しがたい訴え、救済への叫び、そして祈り、そうした情感があたかも出口をもとめてせめぎ合うように描かれている。
 もともと形象文字に源をもつ漢字には、文字の一つ一つにつねに現実がつきまとう。だから漢詩には、現実を内包し告発する叙事詩としての性質が内在しているのかも知れない。では、それにたいして和歌はどうか。

<『古今和歌集』について~和歌に内在する「気配」とは?>
 短詩のなかに恋情や抒情を含ませる。匂い立つ気配を表現する。和歌の特徴については、これまで多くの解説がなされてきた。それをここで解説してみてもあまり意味がない。ただ和歌という短詩系の文芸における「気配」についてだけは触れておかねばならない。
 『古今和歌集』の選者紀貫之を歌壇に推薦したのは、紀貫之よりも四十歳ほど年長だった「三十六歌仙」の一人で醍醐天皇時代に従四位上・右兵衛督藤原敏行だとされている。その敏行の歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」がある。目には見えない。であるが気配は濃厚である。そもそも情緒や抒情というのは、目には見えないものである。それを言葉で感じ、映像化する。
 『古今集仮名序』にも、
  やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。・・・中略・・・さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎ、たのしみ心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。また、春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き、あるは、年ごとに鏡の影に見ゆる雪と波とをなげき・・・。
 とあるように、歌に現れるのは〝実景〟ではなく、その気配である。そしてその気配は、目前にあるものではない。すでにこの世から喪われたもの、存在する事は認知されるが見た事のないもの。「美しいもの見たければ目をつぶれ」といった文学者がいたが、むしろじっさいの景物ではなく、情緒のなかにある景物、より踏み込んでいけば、死出の世界を思いおこすことにもつながる。貫之の歌を詠む。

   桜花散りぬる風のなごりには 水無き空に波ぞたちける
   人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける  
   桜花疾(と)く散りぬとも思ほえず 人の心ぞ風に吹きあへぬ
   世の中はかくこそありけれ吹く風の 目にも見ぬ人も恋しかりけり

 ここには投影の構図ともいうべき美意識がある。自然界の現象と人生一般の命題を節合させ、目の前の景物から連想を展開して見えない世界への〝幻想〟を詠うのである。

<『古今和歌集』について~死者の「鎮魂」の意味> 
 それと和歌集が編まれた背景には、死者への鎮魂があるということをわれわれは考えておかねばならない。さらに死者への鎮魂には多くの人びとの哀情を重ね合わすことが出来る。そしてそれを和すことで、より鎮魂の思いを深める。
 大伴家持の私家版とされる『万葉集』は、軍事氏族である大伴氏が戦火に倒れた多くの兵士の鎮魂集ではなかったか。多くの防人の歌が集められ、たとえそれが、さきの戦争の際の「特攻兵士」のように、死を覚悟させる意味で一カ所に集められて書かされたものであっても、白村江の戦いや壬申の乱での兵士の死を悼むものとして編まれたという想像は、それほど間違ったものではない。『新古今和歌集』も、世に源平の争いとして知られる治承・寿永の大乱で多くの戦死者を出したことへの鎮魂。南北朝期の南朝の宗良親王が編んだ『新葉和歌集』も、南朝の正統性を誇示するといった性格はあるというものの、多くの悲歌が集められ、これも南北朝期に倒れた武士や兵士らの鎮魂を無視することは出来ない。
 その意味で慌ただしく編纂された『古今和歌集』も、その背景にあるものとして、菅原道真の死を無縁とはしがたい。もちろん『古今和歌集』の部立ては、春夏秋冬、賀、離別、羇旅、物名(もののな)、恋、哀傷、雑などになっていて、花鳥絵巻としての賑わいがある。だがこの時期、まだ名誉も回復されていない菅原道真の和歌が二首採られている意味を考えたい。
   秋風の吹きあげに立てる白菊は 花かあらぬか波の寄するか
 詞書きには、道真と素性法師のそれぞれ一首、紀友則(病にあった友則は延喜五年、『古今和歌集』が世に送り出された秋に没している)の二首を括る言葉として、「おなじ御時(宇多天皇のころ)せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌」と述べられている。そしてもう一首。
   このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに
 詞書きには、「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる」とある。二首とも、宇多天皇とのかかわりの和歌である。宇多天皇と菅原道真。二首とも道真の死に手向ける意味があったと考えていい。
 漢詩と和歌について、その違いはおおよそつぎのようなことになるだろう。和歌とは、花鳥絵巻として〝情緒〟を掻きたてる世界観がある。景物をまえにしての「小世界」に耽溺する風流韻事と言える。そしてたがいに和すことで「予定調和」の世界を意図するという性格をもつ。だから鎮魂という役割が古くから意識されていたのだと思う。
 それに対して漢詩とは、情緒というよりは〝条理〟を説き、そのなかで世相の不条理を告発する働きをなす。合理への希求がまずあり、非合理なものへの憤りが表現される。景物は現実に見える景色であり、〝幻想〟を詠い込むことは少ない。

<結語:漢詩と和歌、そして〝祟り〟の発生>  結局、菅原道真の敗北とは「漢詩」的合理性にあったのではないか。しかし、その合理性はそれを否定するものにとって、正しさを否定したという後ろめたさをともなうものではなかったか。〝祟り〟という恐怖は、口には出せね後ろめたさという情感を深く宿したものである。
 このように菅原道真の左遷から死を見ていくなら、この時代が唐から流入した合理的な教養主義の時代を終えて、ミウチやウチワでの情緒的な、そして景物までもが幻想的な見立てのなかに置かれる緩やかさの時代へと転換していった過渡期であることを思わずにはいられない。   


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