八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

『あしたのジョー』がいた時代

2018-02-26 16:27:48 | エッセイ

 いまデモクラTVで、『八柏龍紀のモダーン・ヒストリー』という番組をやっています。
もう、ご覧いただいた方もいらっしゃるかと思いますが、日本の近代・現代史の人物と事件をフォーカスして、
その時代の色彩や匂い雰囲気、そして人物の真実の生き方を考え直してみようという番組です。

 すでに第一回『西郷隆盛と「革命神話」』、第二回『2・26事件~青年将校は何を誤ったのか?』の2編を撮り終え、
第三回『「あしたのジョー」と全共闘~1969年の軌跡』の準備に入っているところです。
「あしたのジョー」は1968年から講談社発行の『少年マガジン』に掲載されたボクシング劇画で、とりわけ全共闘世代に人気のあった漫画です。

 いちおう今年は、月一回の間隔で今年の12月まで12編、『モダーン・ヒストリー』は進行される予定です。

 私事ですが、20年ほど前、東京mxテレビで『アングル』という20分番組をやったことがあります。
この番組は、神宮や上野動物園、渋谷109や原宿竹下通り、池袋などを訪れて、その地にまつわるさまざまな歴史的な事柄を読み解いていくという番組でした。
 番組の流れは、ひとりで歩きながら語るというものでしたが、ただし、その際インタヴューアーがいて、それに応える形のものでしたので、さほど苦労はありませんでした。
でも今回は、スタジオでキャスター兼解説者といった流れになるので、うまく話せなくて、苦労しています。
でもそのうち回数を重ねると慣れると思いますが・・・。

 それはともかく、第三回目の『「あしたのジョー」と全共闘』の下調べをしながら、どうしても蘇ってくる記憶があり、それを少しばかりここで書いてみたいと思います。

 わたしはいわゆる「団塊の世代」には属してはいません。たしかに「あしたのジョー」は、『少年マガジン』の連載中はずっと読んでいましたが、
「団塊の世代」が主体となった「全共闘」世代でもありません。しかし、日本の1960年代の時代の色彩や匂いは充分に感じながら育った世代だと思います。

 1960年代は、ちょうど日本が高度成長期をむかえ、右肩上がりで経済発展をとげたといわれる時代でした。1964年にはアジアで初めての「東京オリンピック」が開催され、
高速道路が伸び、新幹線も開通しました。巨大な人口流出がおこり、そのため東京には巨大団地ができ、どんどん拡張していった時代でもありました。
1968年には、日本のGNP(いまはGDPなんでしょうが)、それが当時の西ドイツを抜いて、アメリカに続いて第二位だったときです。

 でも、北東北の地方都市で生活していたわたしたちの生活は、カラーテレビをもっている家は〝ブルジョワ〟だと呼ばれ、あこがれの対象だったし、車などは高嶺の花だった。
そんな時代。もちろん、給湯器などはなく、高校生だったとき米国政府の招聘でアメリカ留学をしてきた友人に、
「ヤガシワぁ、アメリカはすごいぞ! 蛇口をひねるとお湯が出て来る」と聞かされたときには、「はぁ~、すごいな・・・」とカルチャーショックだったのを覚えています。

 話しは、わたしの小学校5年生の時代へと遡ります。いま考えると、小学生のわたしは、身体があんまり丈夫ではなく、なにかあると学校を休みがちでした。
すると当然、勉強にはついて行けず、授業中は窓の外をいつもぼんやり見ているといった、よく先生には叱られる劣等生、ダメダメの子どもでした。
 そうなると一緒に遊ぶ子どもも、クラスの優等生ではなく、どっちかといえばさえない連中、そんな連中とぼんやりと過ごすっていうのが定番でした。
 わたしの父は、公務員でしたが、わたしがよく病気したことなどあって、さほど裕福な家ではなく、いま思うと、みんな似たり寄ったりだったかも知れませんが、
着ている服などは、継ぎの当たったものや、誰かのお下がりだったりして、その意味でも、裕福な家で育ったクラスの優等生たちの着ている服とは違っていました。
ですから、そんなわたしの周りには、どちらかといえば貧しい、ちょうど「あしたのジョー」に出て来る東京下町・山谷界隈の貧民の子どものように、
何日も同じ貧しげな服を着て、袖口が鼻水をこするのでテカテカに光っていたり、穴のあいたセーターなどを着ている子が多かったように思います。

 そのなかでS君という子がいました。彼の家は、わたしの家、これは県の下級職員のための官舎だったのですが、そのそばにある廃品回収を生業にする人びとの暮らすバラックの一角にありました。
いつも帰る方角が同じだったので、彼とはあちこち寄り道したりして、よく一緒に帰った記憶があります。

 S君は、同学年の割には身体が小さく、ランドセルもお姉ちゃんのお下がりだったらしく赤いランドセルで、それもあってかよく周囲にいじめられていました。
子どもは、いつの時代でも親の歪みをそのまま受け継ぐ鏡であるとともに、残酷ですよね。
 あんな貧乏で、「くずや」かなんかやってるのかわからない家の子とはつきあうな!

 そんなこんなでS君は、クラスの悪童どもに休み時間などは平気で頭をぼかすか殴られたり、腹をけられたりしていました。
いまでいう「いじめ」ですが、そんなものは、昔からあったことです。それで自殺する子どもが出てきたことで、問題化しただけのこと。
 実際わたしも、画鋲を椅子の上に置かれ、おしりに刺さったこともあるし、体育の時間などでは、先生の目の届かないところで、ふざけた振りしてプロレスの技をかけられたり、
ものを隠されたり、ひどい悪罵を投げつけられたり、かつての日本陸軍・海軍のリンチの〝伝統〟は、いまの日本に脈々と受け継がれているだけの話です。

 しかも、いじめた悪童らには、「みんなでやったから」といって、ほぼ罪の意識がない。
その一方で勉強ができてスポーツができたりする優等生らには、けっして手を出さない。
彼らの後ろには、先生や権力のある親が控えていることを、子どもながらに敏感にわかっているわけで、
まさにこの権力に阿る醜悪な事大主義(大に事う)は、子どもであろうと大人であろうと階級社会の腐臭漂う桎梏とでもいうべきものでした。

 ちなみに、S君はあまり親にかまってもらえてないのか、頭を洗わないようで、短い髪の毛でしたが、頭部にはいつも大きなフケが一杯たまっているような子でした。
ですから担任の女教師も、あからさまに不潔という顔をして、S君の近くにさえ寄ろうとしませんでした。

 でもS君はひょうきんなところがあり、これは彼の一種の擬態だったと思われるのですが、
いくら殴られても、おちゃらけて「痛くねーな」とか「うぐ、きいたぜ、いまのパンチ」などといいながら、

打たれ強いんだとばかり、「かかってこいよ」なんて笑いながらいっていました。
 そんなとき、臆病で大して勇気もないわたしでしたが、もういいんじゃないとか、先生が来るよとかいって、

なんとか、S君のそばで、はらはらしながら見ていました。
 帰り道が一緒のとき、痛くないかと聞くと、「平気だよ」「でも、何人も束にかかってくるのは無しだよな」・・・。

「なぁ、こんど一緒に釣りに行こうか。運河に行くと、これっくらいの鯉が釣れることがあるんだぜ。海辺に行くとフグが掛かってさ、プーッと腹を膨らまして釣れるのさ・・・」
「じゃいこう!」と話はまとまりますが、ちょうどそんな話をするころには、わたしの家と彼の家の分かれ道のところに来ていて、じゃ、また明日!
結局、S君と一度も釣りには行けませんでした。

 そんな、ずいぶん寒くなった11月のことでした。北東北のわたしたちの住んでいる地方都市は、11月になると毎日鈍色の雲が重くたちこめ、暗い地平線の彼方から、冷たい風が頬を刺すようになります。
数日もの間、S君は学校に来ませんでした。S君は病気だということでしたが、わたしには、いつかいじめで殴られたお腹が痛くなったのかな、そんなふうに思っていました。
 担任の女教師は、給食のパンと連絡のプリントがいっぱいある。だから誰かS君の家にいって届けてくれないかと、クラスのみんなに聞きましたが、だれも手を挙げません。
わたしより近い家の子もいたけど、下を向いて避けている感じでした。で、わたしがおそるおそる手を挙げました。

 そんなわけで、その日の放課後、わたしはS君の家に布袋に詰まったパン、もう堅くなっていましたが、それと先生から押し込まれた給食費の支払い、学級費の支払いなどの紙などをもって、
S君の家まで行きました。といっても、じつはS君の家は行ったことがなくて、川縁にあるバラックの集まっているところに、S君が住んでいることを知っているだけで、
その中のどこの家かわからないまま、その辺りまで行って、大きな声でS君の名前を呼ぶ作戦でいきました。
 そして、ありったけの大声でS君の名を呼ぶと、ほどなくS君は、「わー!」と言って、走って出てきてくれました。

 病気と聞いていましたが、S君は病気っぽくない。なぜ学校に来ないの。
 S君の返事は、やっぱ殴られるの厭だし、学校じゃ、馬鹿にされるし・・・。

 そのあとは、流行の漫画の話。ちょうど途中で『少年マガジン』をお小遣いで買っていたので、それを二人で見ながら、まだこのときは『あしたのジョー』は連載されてなかった。
このとき僕らが好きだったのは『丸出だめ夫』『紫電改のタカ』でしたが、それを夢中で二人で読みながら、なんだかんだと言い合って、笑い転げていました。

 するとしばらくして、S君はジャングルジムのある公園まで行こうって僕を誘いました。今日はありがとうな。
で、おれジャングルジムから、一回転して降りてみせる、といい出しました。
「危ないから、いいよ」
「いや、おれ絶対うまいから、一回転できる」といって、するするとジャングルジムに登ると、一番上に立って、そこからダイブして一回転しようとしました。
 体操選手じゃあるまいし、そんなうまくやれるはずはないのです。
 S君は、背中からもんどり打って、地上に落ちてきました。
「だいじょうぶか?」 慌ててわたしは駆け寄ります。S君は、苦痛に顔を歪めていました。
「立てるか?」・・・「平気だよ」といって立ち上がろうとしましたが、よほど痛かったのか、S君の目には涙が浮かんでいました。
 でもしばらくすると、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」といって、今度はもっとうまくやるよ。
そしたらまた見せる、かならず見せるからと何度も繰り返しいって、笑いながらその日は分かれました。
いま思えば、そのとき小遣いで買ったばかりの『少年マガジン』を渡しておけばよかった。

 それから数日後、それでもS君は学校に来ませんでした。あのときジャングルジムから宙返りしようとして失敗したとき、大けがでもしたのかな。
わたしは、担任の女教師に、S君のことを聞きました。すると担任は、いともあっさりと、S君が転校したと告げました。
 なんで教えてくれなかったのか、わたしは担任の女教師にくってかかりました。
「へー、きみはS君の友達だったわけ・・・」

 その日、学校が終わると、すぐにS君の家族が暮らしていた、あの川縁にあるバラックに行きました。
そして、大声でS君の名前を呼びましたが、S君は出てきてくれませんでした。
 このあたりの記憶は、曖昧なのですが、そのとき近くの家で「ごめんください」といったら、
人が出てきてくれたので、S君のことを聞いたら、どこに行ったかわからないと言われた記憶があります。

 S君は、きっと外の土地に行くことを前もって知っていたんだと思います。
だから、これまでの友達のしるしに、無理な宙返りをしてみせたんだ。わたしにはそうしか思えませんでした。
でも、離ればなれになることを告げられなくて、あんなにも、つぎはかならず成功するって、なんどもいったのだろうと思います。

 1960年代の日本。急速に経済発展をとげ、人びとの暮らしは急速に向上し、貧しさは社会から消えたようにみえました。
しかし、その一方で、都市で流民化した人びとは、自分自身や家族だけの利益と欲望に取り憑かれて、差別や選別、あるいは疎外や人びとの苦しみや辛酸に、
知らないふりを決め込んでいった時代でもあったように思われてなしません。

 S君は、その後、どこでどんなふうに暮らしているのか。はたして、一緒に笑い転げて読んだ『丸出だめ夫』や、
かっこいいなってあこがれた『紫電改のタカ』の滝城太郎一飛曹の勇姿を覚えていてくれているのでしょうか。
 滝城太郎は、最高の戦闘能力と飛行術をもっていたのに、最後は帝国海軍の将官らによって、〝十死零生〟の〝特攻〟にかり出され、
出撃するところで、漫画は終わっています。
 子どもながらに、この理不尽な権力上層部の驕りと強制には、どうしようもないほどの怒りを感じて、
ラストシーンでは悔しくてたまらなかった記憶があります。

 時代は、いつの時代でもそれぞれの色彩と匂い、それと喜びと辛苦の折り重なった地層を描くものです。
そのなかで、いかに人びとの「共苦」を感じることができるか。
その事こそが、未来を見渡せず、先が不透明な時代にもっとも求められていることではないか。
1960年代の時代を思いつつ、またフケまみれだったS君の姿を思いつつ、それこそがわたしの課題だと思わざるをえません。

 

 


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石牟礼道子さんの言葉

2018-02-12 00:07:15 | エッセイ

 石牟礼道子さんがお亡くなりになりました。九十歳だったそうです。
 年齢的に、ちょうどわたしの母の世代の方でした。
 わたしの母は、もっと以前に亡くなっていますが、
 母と同世代であること、女性として戦前に生まれ、青春期に戦争をむかえ、
戦争への人びとの狂奔を目の当たりにし、そして戦後の動乱と高度成長期という、まさに時代の変容に木の葉のように振り回された世代であったこと。
 生前の母の言葉を記憶の糸から拾い出すとともに、
いま石牟礼さんの言葉をひとつひとつ思い返しているところです。

 『苦海浄土』。石牟礼さんのこの本に出会ったことは、その後のわたしの生き方を大きく変えることになったと思っています。
いま古いノートを取り出して、『苦海浄土』で記された言葉を読み直していますが、
ノートには1973年5月と記録していますから、『苦海浄土』が講談社文庫になって、ほぼすぐにこの本と出会ったのでしょう。

 『苦海浄土』にはつぎのような言葉がありました。

 ・・・突然、戚夫人の姿を、あの古代中国の呂太后の、戚夫人につくした所業の経緯を、私は想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壺にとじこめ、ついに息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。
 水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にはいまだ立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレミアニズムを調合して、近代への呪術師とならればならぬ。

 この文章に遭遇したときの衝撃は、いまも鮮明に覚えています。
 「・・・呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録している」
その一文は、歴史とはけっして過去の事象を並べ立てているものではなく、記録することで、その後に生きる人びとに、その意味を伝える。言い換えれば、歴史というものが、まさに未来と密接に繋がっていることを瞬時に悟らせる言葉としてわたしの心に突き刺さりました。
 そして、・・・水俣病のありようは、けっして「独占資本のあくなき搾取のひとつの形態」などと、したり顔に分析解釈してみたりするものではない。
 人びとは、ともすれば時代や事象を解釈し、分析することで足りてしまい、その結果むしろ、時代や事象に内在している痛苦や辛酸をやり過ごし、自らの肉体や精神を傷つけないで済まそうとしている。石牟礼さんの言葉には、わたしたちが陥りがちな事物からの逃避を静かに諫めているものが多くあります。

 ところで、この本に出会った1973年といえば、それまで各大学で繰り広げられていた学園闘争や全共闘運動は衰退し、セクト間の〝内ゲバ〟(党派闘争)が激化していたころでした。
大学生だったわたしは、そうした時代のなかで、高校生だったときから、弟のように思っていた友人を半ば失いました。
 彼はあるセクトに属していたのですが、その敵対するセクトの学生に頭部を鉄パイプで割られ、その後彼が中年で没するまで、深く障害が残り、生来の快活で饒舌な性質を取り戻すことの出来ないまま世を去ることになってしまいました。
 そうした時代のなかにあって、「・・・私の故郷にはいまだ立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレミアニズムを調合して、近代への呪術師とならればならぬ」と石塊に刻み込むように記された一文に、わたしは深く打たれたのを記憶しています。そしてその感動が、その後のわたしの思考の芯となっていったように思います。

 ・・・意識の故郷であれ、実在の故郷であれ、今日この国の棄民政策の刻印をうけて潜在スクラップ化している部分を持たない都市、農漁村があるであろうか。このような意識のネガを風土の水に漬けながら、心情の出郷を遂げざるを得なかった者たちにとって、故郷とは、もはやあの、出奔した切ない未来である。
 地方に出てゆく者と、居ながらにして出郷を遂げざるを得ないものとの等距離に身を置きあうことができれば、わたくしたちは故郷を再び媒体にして、民衆の心情とともに、おぼろげな抽象世界である未来を、共有できそうに思う。その密度の中に彼らの唄があり、私たちの詩もあろうというものだ。

 「共苦」という心情こそが、わたしたちの故郷ではないのか。
 いまあらためて、この一文を前にして、そんな想いが湧いてきます。
 むしろわたしたちは、人びとと共にする「苦」を無視し、そこから逃れようと足掻くあまりに、他者との関係性を希薄化させ、それとともに自らの未来そのものを閉ざしてしまっているのではないか。
 ともにある苦しみや切なさをたがいに通わすこと。それこそがこの社会を豊かにする糧となるのではないか。

「他者の死は、わたしの死ではない。・・・そこには覆いがたい荒廃が見えてくる」とわたしは、のちに石牟礼さんの言葉に導かれるようにして拙書『セピアの時代』に記しましたが、他者の死とはむしろ自らの死の意味を問い直すもののように思っています。
 人間とはだれもが、あらかじめ存在していた「世界」に参入して、時間が来て死ぬことで、その「世界」から離れていく。そして、「世界」とは、わたしたちが去ったあとも依然として存在し、あらたに参入してくる人びとがまた加わってくる。それがわたしたちの宿命です。
 ならば、そうして加わり、去って行くという循環の「現実」を見据えることなく、その事実から目を閉ざそうとすることは、反対に自らの存在そのものを否定していることになるのではないか。同じように、人びとの痛苦や辛酸を侮辱し無関心であるならば、自らの存在を侮辱することにつながっていくのではないか。
 石牟礼さんの言葉は、そんなふうにして、わたしに多くの示唆を与えてくれる呪文のようでもありました。

「・・・猫を愛撫する気持ちがあれば、そのような手に、健常、障害という差はない」・・・根源的な言葉の重さ。 

 石牟礼さんの紡ぎ出す言葉には、たんに土俗的だとか民衆主義などの概念でとらえられない、いやむしろそうした一切の概念化を破壊する、人間が本性的に持っている、命の叫び、あるいは慟哭というものが脈打っているように思います。混乱と熱狂、衰退と高揚・・・。時代がさまざまに様変わりするなかにあって、不変であるもの、まさに言葉の根源といったものをわたしは石牟礼さんに教えていただいたように思っています。

 石牟礼さんの言葉を何度も噛みしめながら、この「世界」に残っているものの一人として、もう少しの時間を生きていくことになります。

 その意味も含めて、石牟礼さんにこころからお礼を申し上げますとともに、まずは深く深くその死に哀悼の想いを捧げたく存じます。



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