八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

〝阿Q〟の時代-秋季講座のお知らせ

2020-09-21 09:54:43 | 〝哲学〟茶論
 先の首相が〝病〟ということで、仰々しく車列をなして慶應義塾大学病院を行き来し、そして急きょ辞任する。するといつの間に保守政党のなかをうまく根回ししていた黒子と言うべき官房長官が、その首相の椅子を襲う。
 あたかも下克上のような舞台回しに面白がっていたのが、夏の猛烈な暑さがようやくおさまってきたここ数日のありさまでした。
 それにしてもペーパーメディアの世論調査だと、同情なのか、人びとが〝いい人〟ぶっているのか。対コロナ政策では失策続き、それにあれほど「森・加計・サクラ・河井・IR疑獄」で、支持率を落としていた先の首相が辞任するとしたとたん、支持率が〝バカ上がり〟する。いっぽうで新首相となった先の官房長官の人気も急上昇中・・・。
 先の官房長官とは「森・加計・サクラ・河井・IR」問題で、まさに木で鼻を括るような対応をした御仁なのに、それはなかった如くに、あたかも〝新しい顔〟でマントでも着てさわやかに出現した〝ヒーロー〟のように見える。
 それはまるで魯迅が描いた『阿Q正伝』の阿Qが、あちこちの権力に乗じて世渡りするような、そんなひどい冗談の主人公のように、人びとが踊っている。そんなふうにしか思えてなりません。
 右からの風が強いと思えば、ふらふらと右に依っていき、権力のあるものが左だというと、我先に左に駆け出す。そして、それを恥じたり、後ろめたく思ったり、深く考えたりしない。過ぎたことはいいじゃないか。きまったならきまったで、いいことなんだ。
 過去をふりかえったりしない。愚かさはもみ消して忘れる。世の中の空気は、どんどん澱んでいっても気にならない。

 そうしたなかで、最近ふと思ったのは、ネット社会になって、電車の中で本や新聞を読んでいる人びとが急速に消えていったように思えることです。たまに文庫本に目を落としている人がいると、何を読んでいるのかなと、興味がそそられるとともに、なにかとっても偉いことをしているようにも見えたりする。
 かつて電車の中で新聞をおおきく拡げている人は、迷惑この上なかったのですが、最近は戻りつつあるものの、「コロナ禍」で電車が空いているなか、スマホの限られた画面ではなく、ゆったりと新聞を見ている人などを見つけると、ほほうと頷いてしまったりする。
 以前懇意にしていた新聞人がよく言っていたのは、新聞は紙面でとらえるものだということでした。紙面にはいろいろ異なった記事が、いちおうの作為はあるものの、無秩序にならんでいるのと同じで、読み手は、そのなかでこれと思った記事を読み出すとともに、その近くにある記事も同時に目に入ってしまう。記事を選択して読むというより、いろんな記事をその一日の関連として読んでしまう。そこにペーパーメディアの特質があると・・・。
 しかし、ネットメディアは、ヘッドラインのなかから、自分が興味のあるものを検索して読む。そのほかの情報を共時的に目に入れることは少ない。すなわち自分好みの情報だけ入れて、入れたくない情報、嫌いな政治家や作家、芸能人の情報はカットできる。
 自分にとって興味があるという事は、自分にとって都合のいいこと、耳障りのいいこと、面白がって見れる情報であり、それ以外は自身には関係のないことになって疎外されていく。

 たしかに21世紀になって、わたしのまわりにいる若者や大人たちは、自分にとって興味の湧かないこと、考えさせられたりするのが重く感じる情報、いわば苦手なことや嫌いなことを見ないようにするようになってきたように見受けられます。
 個別の好ましい情報だけをいれてくることで、多くの〝プチオタク〟的な、具体的いえば、とある芸能人の情報にはめちゃめちゃ詳しい、真偽のほどはともかく、やたらに中国の陰謀情報に精通している。古い言葉を使えば、政治学者の丸山眞男の『日本の思想』にあった〝たこつぼ化〟した情報ばかりに人びとが惑溺している。
 その文脈で考えると、いまどきの人びとが嫌いなことには眼を向けない、自己の思慮のおよばない事柄を嫌悪するというのは、ネットの社会の現出がおおきく関わっているからかもしれません。
 右を向くのが大多数であるなら右を向き、流行っているから踊ってみせる。だからといって、失敗したり愚かだったこと、いわばマイナス面に後ろめたさや後悔を生まない。いつも勢いのあるほう、力のあるほう、みんなが向く方向に吸い寄せられて、そうじゃないと不安で怖くてならない。
 まるで〝阿Q社会〟とでもいって世の中が、いまわたしたちが見ている日本社会じゃないか。
 日に日に日が短くなっていく9月の夕空をふと窓から眺めながら、そんな重苦しさが知らないうちにわたしの胸裡を占拠してしまっている。

 とはいうものの、そこで憂鬱になってもはじまらないので、秋からの講座のお知らせをいたします。
 新人会・宏究学舎講座2020年秋学季は、下記のフライヤーにあります通り、10月18日(日曜)午前10時から4講にわたって開講されます。
 今回は、〝時代に杭を打つ!〟PartⅣとして、「昭和」から「平成」の世紀末にかけて日本社会に〝杭を打った!〟思想家や文学・映画作家を取り上げて、21世紀のいまのありようを検証しようという試みです。
 そのため、1960から70年代に若者に大きな影響を与えた寺山修司の今日的な意味をスプリングボードにし、『日本の夜と霧』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などヌーヴェルバーグの映画作家として問題性をつねに発していた大島渚。弱肉強食、自己責任、階層分化の拡大を当たり前とする新自由主義経済に敢然と立ち向かった世界的経済学者である宇沢弘文。そして南九州に土着し、歴史のなかに重く沈殿していく真実を、水俣病という現代性からあたかも巫女が語る言霊のように紡いでいった石牟礼道子の4人に導かれて、いまを考えてみようというわけです。
 詳しくは、下記にフライヤーをあげておきますが、見えにくいかもしれませんので、講座お申し込みは、
<唐澤俊介 E-mail:syunsuke797@gmail.com>か
<八柏龍紀 E-mail:yagashiwa@hotmail.com>にご連絡ください。
 全4講で、一講座でも受講可能です。会場では、前回同様、いろんな方々との〝対話〟を盛り込みながら、お話しを進めていきます。ぜひご参加ください。会場はいつものように池袋南口のとしま産業プラザ(池ビズ)です。

 なお、札幌での現代史講座は、すこし早く10月14日(水曜19時~)を初講日として、全5講(隔週毎)に開催します。こちらの方は、主催者側からの日程確認と会場の確定ができましたら、あらためて詳細を掲載します。
 現在のところ10月は14日と28日が開講予定となっております。
 テーマは日本現代史です。それぞれのテーマは以下の通りです。
第1講:慰霊と鎮魂~空から降ってきた「憲法」
第2講:「植民地」朝鮮と「日本人」の戦後責任
      ~〝戦後平和〟の真実
第3講:60年安保の残像〝二人の美智子〟
      ~「無国家時代」の日本人!
第4講:〝欲望列島〟日本 
      ~ジュリアナ東京からバブルの崩壊へ。
第5講:CIAと日本、USAの手のひらの日本
     ~〝冷戦〟は続く!
 札幌市とその近郊の方々のご参加をお持ちしております。
 近日中にまたblogを更新し、講座関係の情報をお知らせします。よろしくお願いいたします。 
    

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