八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

この〝憂鬱〟から、いかに考えていくか?―「コロナ禍の時代」―

2020-07-30 23:29:39 | 〝哲学〟茶論
   21世紀がちょうどその五分の一を過ぎようとしているこの時代、「コロナウイルス禍」による重い憂鬱さに、多くの人びとは暗く沈んでしまっているようです。

 いったい出口はどこにあるのか? こうした人びとの息遣いすら塞いでしまう、じっとり湿った暗鬱さは、おそらくこの数年は続いていくように思えてなりません。いったいそのあいだ、わたしたちは、どのように過ごしていけばいいのか。

 20世紀の二度の世界大戦を経て、その後の世界を二分する〝冷たい戦争〟を過ぎてきたものの、人びとは戦禍の反動から、あるいは苛烈な時代的悲劇からの逃避のためか、戦禍や悲劇のなかで学んだはずの生きる意味や倫理観など、人びとが持つべきだとした価値意識を、〝Post war〟のなかでしだいに忘失し、その代わりにこの半世紀あまりにわたって、あからさまな富貴と権力だけへの欲望をたぎらせてきたかのように見えます。
 搾取や収奪の現実が、「市場資本主義」という疑わしい富と権力の価値基準によってないがしろにされ、「資本」が「自然」を無視して肥大化する状況をいつしか呼び込んでしまいました。 
 その結果、あきれるほどの地球環境の破壊を重ねていって、有害な核物質・化学物質を大量に放出し、地球という〝青い水惑星〟に茶色の多くの焼傷をつけてきた。いまとなって、おぞましい気分に不安と相伴するように、だれもがはっきりそれを認識せざるを得なくなっているように思います。
 しかし、富貴や権力に居座る人びとは、その事態を不可視の閉域に追いやり、まだ大丈夫だろうといまの繁栄と冨を捨てることを嫌い続ける。と同時に、自分たちが滅した後の時代、いわば〝未来〟も見ないようにしている。
 他方で、多くの無辜とされる民衆は、繰り返し、〝家族〟〝子ども〟〝絆〟といった言葉を繰り返し、それはいまの安心をせいぜいで家族の安逸のなかに見いだすしかない恐怖の現れのようにも見えて、しかも、それもまた自覚されることもない・・・。

 もしかして、気候変動という言葉で表されている脅威に人びとは手垢にまみれたような慣れを感じているのかもしれません。あるいは、いつのまにか忍び寄っている恐怖の圧倒的な高さのまえで、人びとはあり合わせの根拠のない科学的と称する不可知論に逃走を決め込んでいるのかもしれない。
 見るところ、後ろめたい背中に張り付くような恐れ。いまの「ウイルス禍」とは、そうした恐怖の不気味に膨れ上がった象徴として現れ出てきているようにも感じられます。それも含めて、人類がこれまで経験したこともない〝ウィルス〟の出現は、自然環境と人類の関係の不均衡がもたらしたものだとする科学者の指摘は、大きく的を外したものではないように思います。
 それが21世紀を五分の一過ぎようとしているいまのありさまです。
  
  <異常なまでの降水量によって崩壊が危惧される中国三峡ダム>
           
 
 ふと身の回りに戻って考えてみると、ここ数週間の「コロナウイルス禍」の感染者の急増のなかで、とりわけ日本の政府は、まるでなすべきを喪っているのか。まさに〝No Idea〟の判断停止状態に追いつめられている印象です。
 ふりかえって、「コロナウイルス禍」が起きてから、これまでの安倍政権と政府の動きを順不同に列挙してみるだけでも、その悲惨さは、じつに目も当てられない状況というべきでした。
 まずは意味不明で唐突な学校閉鎖からはじまり、「東京オリンピック」の開催が頭に引っかかって身動き取れずにいたくせに、強制する法律がないからと逃げ回り、やっとIOCからオリンピックが延期とされたら、手のひら返しで「緊急事態」だと大騒ぎをし、それでも四の五の言い出してなんらの保障もなしに休業要請をする。
 人びとはその間に、さかんに〝自粛警察〟化して、それに都知事をはじめ自治体の長も冷静な判断を停止し、中国武漢、パチンコ屋、若者、夜の街関連を叩く。そしていまは東京を「トンキン」と名指してウィルスの恐怖を煽る。
 くわえて、安倍政権と政府は中抜きだらけの各種給付金を配る。この杜撰さは、思わずここまで非道いのかと思わざるをえないありさまで、それにつけても、この間に電通などの中抜き関連企業はウハウハだったようですが、さて最近では、感染者が異常に増えてるっていうのに、医療現場からの警戒や反論を無視して利権の絡みついた「Go To Travel=Go To Trouble」を東京抜きで実施してしまう。
 さすがに「アベノマスク」の再配布はやめたみたいですけど、それで思い出すのは、すでに遙か昔の感もあるのですが、やはり面白かったのは、小さな小さな「アベノマスク」の配布。これもまた業者による中抜きが公然となされ、これには「Stay Home」の安部氏の動画も加わって、まさに幼稚な醜態を曝してくれました。
 じつにこの政権と政府の、こうした笑いぐさの提供にはこと欠かなったのですが、感染者が急増したいまになってさらに、官房長官の会見はしばしばトンチンカンなことをいい出し、「ワーケーション」なんぞと言いだし、しかも首相の安部氏は記者会見にも応ぜず国会は閉会のまま、厚労大臣はどこに行ったものなのか。
 そうしたなかで、厚労関係の当事者でもある政務官と審議官、くわえて副大臣と女性議員の不適切な(?)関係がジャーナリズムによって暴露される。
 しまいには、なんかあると担当相の西村氏はじめ、なんとかの一つ覚えのように声をそろえて、「ただちになになにする状況ではない!」と根拠も示さず、脅しと見得を切る。その根拠を問うと官房長官の菅氏は、暗い眼としんねりと陰鬱な表情を浮かべだんまりを決め込む。

 それに歩調を同じくしたのか、給付金をもらってうれしがっている人びとのなんと多いことか。いささかうがったたとえをするなら、それはオレオレ詐欺で得た金で、犯人が自分の子どもに回転寿司を食べさせ、子どもがうれしがって甘えていることを、なんの問題もないと居直る風景と似ているのではないか。こうした給付金には、どこか問題の本質をはぐらかす、卑怯な風景が見えてくる印象です。

 言うならば、給付金とは小泉改革とその後継である安倍政権の経済政策の乱暴極まる切り捨て施策が、大量の〝非正規・就職氷河期〟世代を生み出し、その結果、社会の構造的な歪みをつくりだしたところに、この「コロナウイルス禍」でどうにもならないくらいに彼ら彼女らが困窮に陥った事実を隠し立てする施策のように思えてなりません。
 いわば全国一律全員に〝お上〟の思し召しともいうべき10万円を給付するとは、それで民衆に恩を売り、文句を言わせない口止め料だったのではないか。
 それはたしかに、育児の一方で仕事を失いかけたシングルマザーの救済にもなったことは認めるものの、それならば、上げたばかりの消費税の撤廃や軽減についてなぜ思考をめぐらせなかったのか。あるいは、「コロナウイルス禍」の影響の甚大な地域や人びとへの集中的な給付がなぜできなかったのか。はたして全国一律の給付に意味はあったのか。
 ドフトエフスキーは、施しは、施すものも施されるものも、ともに一つの退廃に沈むことになると述べていますが、「コロナウィルス禍」は人間相互の生の交流を阻害するだけではなく、金銭を媒介にして退廃を呼び込んでしまったようにも見えてきます。
 たしかに消費税をいじると政府の制度設計そのものへの錯誤が指摘されるのだろうと思います。その点、地域を区切らず10万円の給付金をすべてに配れば、政府の失策にはならないし、感謝もされうる。
 言い換えれば、政治とは、かくも計算高いものであることは、何度も歴史が教えてくれているところでもあると言っていい。

 こうしたいまの安倍政権とその幕僚・官僚の〝やった感〟だけを売りにする無策ぶりや〝ポンコツ感〟って、いったいどうすればいいのか。そこには、〝なるようになれ!〟といった薄ら寒々とした〝捨て鉢〟感すら漂っているようにも感じられます。
 かつての「旧民主党政権」を評した安倍晋三氏の言葉を借りれば、これこそ〝悪夢のような「安倍政権」〟とでもなるのでしょうか。じっさい、「コロナ禍」への一貫した制度も体制も取れていない。経済が経済がと騒ぎ立てている割に、消費や失業に有効な手を打てていない。

 昔からよく言われていることですが、「軍人はいつも過去の戦争しかできない」。
いわば過去の栄光やマニュアルに沿ったものの考えしかできないのが軍人の頭脳の限界だと言われます。
 <開戦の詔勅~帝国議会で演説する東条英機~>

 それは狂信的な超軍国主義時代を経験した20世紀初頭の日本のありようを見るだけでも明らかなのですが、歴史的に見ても、軍人は過去から未来を見通せる多様な思考性がなく、ひたすら見たままの現状しか目に入らない。軍の学校での秀才は、秀才であればあるほど、そうした教条主義的視野狭窄に陥りがちだといいます。たしかに先の戦争での軍人エリートはそうでした。
 だから、こうした軍人の暴走を防ぐために、シビリアンコントロールが必要という社会的経験をわれわれは歴史のなかで学んでいるわけです。
 それが、いまどき日本の官僚群を見ていくと、軍人の資質が伝染したのか、マニュアル取得の受験勉強が得意な小才と処理能力だけ身につけた官僚たちは、せいぜいで20世紀止まりの思考力と論理しか持ち合わせていない。過去からの惰性と踏襲に縛られ自由で闊達な発想や論理を生み出せないでいる。
 あえて言えば、わたしがこれまでの出会った官僚諸氏の多くは、一様に抜きがたいエリート意識が強く感じられる人に占められていたように見受けられます。その振る舞いはたとえば、彼ら彼女らが批判に対してはきわめて敏感でしかも猛烈に弱いこと。すぐ言い返す性癖があること。まさに小才の限界を露呈することがしばしばというわけです。

 それは、そもそも他者から抜きん出ること出し抜くことばかりしか考えていない、また勝つための学歴、出し抜くための海外留学だとかの箔をつけるといった発想しかできない政治家も同じなのかもしれません。
 いまの政治的な状況は、そんな空虚さだけが目につきます。

 でも、こうした状況をどうすればいいのか。おそらく、それには明確な答えなどはないのかも知れません。ですが、それでも過去の歴史を見ていくと、さまざまな知恵があったことがわかります。
 一般に、江戸時代の農民は地主の収奪がひどく、とんでもなく搾取されていたとわたしたちはよく歴史の授業などで教わります。しかし、最近の研究では、かならずしもそうでもなかったことがわかっています。
 たとえば能登における「時国家」の例などでは、時国家のもつ膨大な富にたいして、能登のその地域の農民はそれほどの富を蓄積はしていない。むしろ時国家の富だけが突出しているのです。
 ではなぜ「時国家」が図抜けて富を集中してるのかと言えば、それは飢饉が起こったり、天変地異が発生して農民が甚大な被害を受けたとき、「時国家」が自身の富を農民に広く分配し、困窮や餓死から農民を救済するという機能を持っていたからではないかとされているのです。
 つまり、農民はつねひごろの生活を維持するけど、時国家は海運や交易によって富を蓄積し、いざとなったら農民を救済する。そのための機能を富裕な時国家に負わせていた。それは、けっして幕府や藩主、いわば「お上」に頼るものではなく、自分たちでそうした慣習を常識のなかに内在させていたということです。
   <能登 時国家>
   
 
 そう考えると、いまの世界の富裕層がほとんど社会的役割を果たしていなことがわかります。世界的IT企業などの膨大な利益を、より広範になぜ分配しないのか。それを考えると、いかに世界の富裕層がエゴイステックであるのか、また公的な存在から乖離しているかがわかります。
 そもそも古代から王は富を集約するとともに、それを平等に分配する存在として歴史には多く記憶されています。それを、文化人類学では「互酬」的関係性として説明するのですが、たしかにそのようにして、人びとはお互いを守り合った。
 言い換えれば、手にした富は、多くの人びとの支えのなかから生み出されたものであって、どんなに才覚のある個人であっても、その個人が独占する性質にないということなのです。

 そして、以前もこのblogでお話ししたかと思いますが、仏教における天台の教えには、「苦」から逃れるには、「悔過」をはかるという考えがあります。
 「悔過」とは、平たく言えば、〝反省〟ということです。自らのこれまでの行いをよく見詰めて、傲りや不遜、他者への攻撃や差別、脅迫をはかったことがないのかを、それぞれ時系列で、または言説の空間をいくつかに分けて、たとえば、過去・現在のなかで、あるいは友人に接する場合、仕事場での振る舞いについて、家庭での配偶者や子どもに対して、それぞれカテゴライズして考えてみる。
 すると他者に対して自己がいかに閉じていたのか、どうしてそのとき開かれた態度を取らなかったのかが、記憶のなかで再現されていきます。
 そのなかで、自らがどのようにあるべきかの指針が、自然に浮き彫りにされる。
 
 いまは、世界中、自らへの「反省」に向かう力が希薄になった印象があります。それは倫理観と哲学を失っている「新自由主義」などの市場経済への偏倚に沿ったものと見ることができます。
 またそれは、世界の指導者が醜くも誹謗や恫喝を他国に繰り返すありようを見ればじゅうぶんに知れることなのかもしれません。ただし、そうした例をとるまでもなく、つい最近の〝自粛警察〟にしても、自らが恬として恥じず、他者を無自覚に傷つけて、その痛感を欠いていることを見ても、「反省」への薄さは、あきらかのように思います。
 他者に手を差し伸べることを躊躇する。あるいは拒絶する。他者の困難を見ないようにして、場合によっては、それ見たことかと快哉をあげる。
 そもそも、人間とは、ともに「苦」であり、「悲」の存在だと仏教では説かれます。もちろん、宗教とは、人間が「自らの死を納得できる」ように説く教えですので、「苦」や「悲」の意味を重視するものの、人間とは、そうした存在だと、人間の根幹を意識するならば、「悔過」というありようは、思想の大きな転換を導く思想として再提起されていいように思います。
 まずは、自らを「内観」する。「悔過」の第一歩はそこからはじまります。

 いずれにしても、今回は数週間ぶりにblogを更新したのですが、この間なぜ更新できなかったのかと言われると、やはり現在の「コロナウィルス禍」の憂鬱がわたし自身を深く覆っていたことにあるのかなと思わざるを得ません。
 
 言うまでもないことですが、政府や政権の杜撰さを歎いてばかりでは、なにも動けません。最近になって、そう思い付いて、どうにかblogを書こうと思い立ったわけです。
 ところで、今日で関東地方は梅雨明けだそうです。暑い夏がきます。この間に、しっかりと読書をはじめさまざまな刺戟を吸収して、まずは自らの思想と精神(=態度)の体幹を強めていくしかないなと、思っているしだいです。
 それにしても、海外のニュースを見ていると、日本の政治家や官僚はひ弱ですね。ドイツやイングランド、フランスなどヨーロッパの政治家や官僚がいかにタフか、その政治手法はさまざま問題はあるというものの、官僚も含めて、この「コロナウィルス禍」のなかにあってもひるんではいない。あきらかに体力が違う印象です。
 と同時に、この国のことばかりに目が点になっていてもしかたないことも道理です。世界を見ていく。その世界のなかに、わたしたち自身もいるわけですから・・・。

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