八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆〝札幌「いまどき日本を考える!」講座〟のお知らせと「学問の自由」って何?☆☆

2020-10-12 11:55:17 | 〝哲学〟茶論
 今回のblogは、札幌で10月14日(水曜日)からおこなわれる講座についてのお知らせです。あと2日ですね。どん詰まりのなかでの再度の知らせとなってしまいました。
 そんなわけなのですが、どうにも最近、暗澹とした気分なっているので、講座の宣伝もかねて、すこしそのお話しを書いてみます。

    <ナチスの焚書>
 
 歴史をすこし眺めるなら、これまでひどい宗教弾圧や思想弾圧をしてきた暴君や政治権力者は、星の数ほどいると言っていいでしょう。
 星に喩えては、夜空に美しく輝く星に申し訳ないのですが、数え切れないほど、またスケールの大小とりまぜて数多くいることだけは事実なので、ついつい喩えてしまいすみません。
 古代ローマ帝国のカリギュラCaligula やネロNeroがおこなった知識人や哲学者への侮蔑と弾圧、秦の始皇帝からはじまった「焚書坑儒」の暴虐さ、それにヒトラーによるユダヤ人への虐殺、それに反ナチス的だとして思想や学問に対しての蔑視と焚書の実施。日本では、古くは一向衆への虐殺と弾圧があり、キリシタンへの殺戮と弾圧があり、近代では京大教授滝川幸辰の罷免、美濃部達吉の天皇機関説への弾圧、矢内原忠雄や河合栄治郎への禁書と地位剥奪など、歴史には「政治」が「学問」「思想」の領域に手を突っ込んで介入し、それを弾圧する。ことによったら学者や思想家の命まで奪う。そんなことは何度も繰り返されてきました。
 そもそも、学問思想や芸術といったものと政治は、向きがまったく違うものです。政治はどう強権を発動し、人びとを弾圧して苦しめても、長い歴史の一場面でしかなく、即物的で永続性に欠き、おおかたは後世の歴史の審判を受けるものです。
 ここで福澤諭吉を引っ張ってきても仕方がないのですけど、福澤曰く、「政治」は風邪を引いたとき、その病の治す処方をおこなうものでしかなく、それに対して「学問」は、いわば風邪を引かない身体を作るための平生の摂生法を授けるものとしています。
 だから、学問がそのときどきの政治権力に密着すれば、忽然としてその党派性に泥んで過激なイデオロギーに転じてしまうことを論じ、学問は「沈深にして静なるもの」であるべきだとしています。ここには幕末期の過激な尊攘運動で沸騰のあげく蒸発してしまった幾人もの知人への苦い経験というものが潜んでいるように思えるのですが、
 ・・・学問の本色において、社会の現事に拘泥することなくして、目的の永遠の利害に期するときは、その読書談論は、かえって傍観者の品格をもって、大いに他の事業者を警しむるの大功を奏する・・・。(『学問の独立』福澤諭吉教育論集 岩波文庫)
 つまり、「政治」と違い「学問」は〝永遠〟を追求するもので、傍観者たるが故の〝品格〟を備えているものだということです。

 そんなとき、菅義偉政権は、政治権力でなんでもできるととでも思ったのでしょうか、日本学術会議の人事に手を突っ込んできました。もちろん、今回の振る舞いは、橋本龍太郎政権から安倍晋三政権まで幾度と試みがなされてきたようなのですが、政府にとって都合の良くない発言をする学者は排除する。いわゆる排除の論理を振りかざしての圧力行使でした。
 そのくせ、その排除の論理が露骨すぎると思ったのか、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」とスーパーで何度も繰り返される宣伝音声のように、ただただ文言が繰り返されるだけで内容には一切触れず、6人の学者の学術会議への参加を有無を言わせず拒絶する。ここには国から金が出てるんだ。文句は言わせねぇといった、なんとまあ倨傲なという印象です。
 政府は、これを「学問の自由」の毀損にあたらないといってますが、ふつう法学部で学ぶ「憲法」の教科書の「学問の自由」では、そんなふうには書いていません。
 「学問の自由」は、ふつう学問研究の自由、研究発表の自由、教授の自由の3つ柱があり、それを保障するために、学問の自由が、国家権力に弾圧・禁止されないこと。それに、その実質的な裏付けとして教育研究機関、たとえば大学などの教育機関、この場合は日本学術会議も入るんですけど、そうした教育研究機関の従事者の職務上の独立を保障し侵犯しないとなっているものです。
 ですから、日本学術会議が6人の学者さんを学術会議に入れたいといって推薦するなら、それを政治権力が邪魔してはいけない。邪魔することそのものが「学問の自由」を侵犯することになるわけです。
 政府にも法律を知っている官僚はいるでしょうから、彼らは政権がやっていることの違法性はよくわかっているかと思うのですが、ダメなんでしょうね。
 思うのは、歴史なんかをやっていると、こうして小さなことがどんどんなし崩しにされ、政治権力の言う「法律に則って」という詭弁がなんとなく通ってくると、世の中はまちがいなくおかしくなってくるということです。
 会社でもそうですよね。出入りの業者との小さな接待やなれ合いが、いつしか積もり積もって不正となり、出張旅費の水増しや経費の小さな使い込みが、歯止めがきかなくなる。そんなときだいたいは、まわりを共犯関係に巻き込んで、うやむやにする。カラ出張問題などや最近のかんぽの不適正販売も、最初は小さなことがあとから肥大化組織化してくる。
 しかも、こんなときマスメディアの論説委員などからフェイクが飛び出す。日本学術会議などにはほぼ加入できない研究成果の低い学者もどきから悪意に満ちた発言が飛び出す。ネットでは、なかなか大学の職にありつけない不満からか学術会議への嫉妬が沸騰する。
 
 ほんとに嫌な渡世になっちまいました!
とは言うものの、そんなのどうでもいいと思いがちなふつうの人びとの無関心の囲いがとりわけキツくなってきている昨今では、やり過ごしていい問題ではけっしてありません。ここはやはり、強権勢力である菅政権に対して、パンケーキになんか欺されない、〝時代に杭を打ち込む!〟姿勢が必要ですよね。
 
 というわけですが、そこでやっと本題です!
 10月14日(水曜日)午後7時から、札幌エルプラザ(JR「札幌」駅北口から徒歩約3分)の2階環境研修室1で
〝民主主義〟と〝全体主義〟「いまどき日本を問い直す!」というテーマで全5回(10月14日~12月9日*一回だけの受講も可能です)にわたって 日本現代史(戦後史)にお話をします。
 内容は通史としてではなく、それぞれのテーマについて、「憲法のこと」「植民地だった朝鮮半島のこと」「60年安保のこと」「バブル経済崩壊前後のこと」、そしてアメリカに支配されている「日本の現在(いま)」についてお話しを展開します。
 この講座は、まずはみなさんとの活発な〝対話(やりとり)〟をしたいと思い企画されています。ですから、お話の途中でもお時間等を設けますので、活発に発言していただけるとうれしく存じます。

 歴史とは、事件としてはその時代に起きるものですが、そこに至るにはその底流に人びとの怒りや哀しみなどの感情や暮らしへの閉塞感などさまざまな事柄が潜んでいるものです。
 そんなことを少しずつ解き明かしながら、お話しを進めていきたいと思っています。ぜひ、札幌や札幌郊外の方、平日の水曜で、お仕事に疲れているかたも多いでしょうが、気分一新をはかる意味でもご参加ください。
 下記にフライヤーを貼っておきます。よろしくお願いいたします。
          


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