八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

菅原道真左遷事件(その2)です!

2016-08-10 23:35:10 | 〝歴史〟茶論

京都学講座 『動乱と文芸復興の京都』 

 <その2> 菅原道真の左遷事件~「漢詩」と『古今和歌集』~
[表現としての「漢詩」と「和歌」、そして菅原道真の敗北]
<流謫、流離、死霊>
 大宰府にむかう途中、菅原道真は播磨国の明石駅で、道真の流謫の事実に驚き、それを嘆く駅長をみて、つぎの詩を詠んだという。

   駅長莫驚時変改     駅長驚くこと莫かれ 時の変り改まること 
    一栄一落是春秋              一たびは栄え一たびは落つる これ春秋

 「時変」と「栄枯盛衰」の習い。「是春秋」(これこそが時代であり、年月の奥義である)という言葉にすべての感慨がじつに簡潔に詰め込まれている。
 この詩文は院政期の歴史物である『大鏡』に載っているものだが、道真が死の直前に盟友紀長谷雄に贈ったものとされる『菅家後集』には、これは僧侶の書き記したもので真偽ははっきりしないとしている。『源氏物語』にもこの詩は引用されていて、そこでは「くし=口詩」いわば口頭で詠んだものをだれかが書き取ったと記されている。しかし、この漢詩はいかにも道真らしい、毅然とした無常感が現れたもののように読むことができる。そしてさらに道真は、配流の苦しみをつぎのような言葉で綴る。
   嘔吐胸猶逆     嘔吐して胸もなほし逆ひぬ
   虚労脚且萎     虚労して脚も且萎えにたり
   肥膚争刻鏤     肥膚争(いか)でか刻(き)り鏤(ちりば)めむ
   精魄幾磨研     精魄幾ばくか磨研する
 おのれの肉体に刻み込まれた痛苦と疲弊。彫琢された言葉に内在する忿怒と憤り。しかし、それでも道真は主上(ミカド)への思いを重ねて詠ずる。
   去年今夜侍清涼   去(い)にし年の今夜 清涼に侍りき
   秋思詩篇独断腸     秋の思ひの詩篇 独り腸(はらわた)を断つ
   恩賜御衣今在此        恩賜の御衣は今此に在り
   捧持毎日拝餘香      捧げ持ちて日毎に餘香(よきよう)を拝す
 清涼殿にあって、右大臣兼右大将として醍醐天皇に近侍していた自分。それから流謫へと転じたことの悲しみ。心を切り刻む痛切さと哀切さ。
 あわせて「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 此秋独作我身秋」という詩句。意訳するなら、我が無実を訴えたいというはげしい願望がある。風のすさまじい鋭さはまるで刀で突き刺すようであるが、それでも我が愁いを破ってはくれない。月の照らすのを見ても風のすさぶのを聞いても、我には身の毛がよだつように凄まじく感じられる。天下の秋の愁いは、我が身にことごとく集中して、我れのみ愁いが限りなく深い。
 道真には、政争で放逐される以上に、無実であること、自らの潔白がまったく無視される現実に、狂おしいばかりの怒りと絶望があった。道真が左遷される際に詠んだといわれる和歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はよく知られるが、こうした抒情的な情緒とは異質な、いわば漢詩文がもつ〝現実の裂け目〟。それらが肉体の深い根の底から絞り出されるように詠じられている。
 それとともに配流後、道真には、都から遠く離れた文化とはほど遠い人びとのくらす姿をとらえている漢詩がいくつもある。塩を焼く苦労。その一方で不正の儲けをする輩。軽々しく人を殺傷し、群盗が肩を並べて横行している状況。漢詩という表現で描き出される「現実」。しかし、官吏はそれを無視して無聊に釣り糸を垂れているばかりである。道真は、漢詩の対句・対比という表現でそうした「現実」の苛烈さを浮き彫りにする。
 道真が流謫地大宰府で没したのは、延喜三年(903年)旧暦二月二十五日であった。享年五十九歳。梅のほころぶ季節と言いたいところだが、じっさいは現在の三月下旬であるため、桜咲く季節であった。貴人の多くはその死を憤死と受け取った。そしてそれが猛威を振るう〝祟り〟への恐れとなった。
 そこで気になるのは、道真の死とその直後に勅撰された『古今和歌集』の関係である。左大臣藤原時平は、道真没の知らせを受けると、ひそかに紀貫之らを呼び集め和歌集の編纂事業をはじめたと思われる。紀貫之の私家集である『新撰和歌』などによると、和歌の詞書に「延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る」とある。これによると『和歌集』は延喜五年四月六日に完成したように思われるのだが、となると編集の準備は、少なくともその一年以上前にははじめられ、選者を集めて作業に取りかかっている必要があろう。
 するとこの『古今和歌集』は、道真没後のかなり早い段階で企画されたのはまちがいがない。プロデュースしたのは藤原時平とされているが、ではなぜこの時期に「和歌集」の編纂がなされたのか。文章博士である道真と和歌集の勅撰。その間に何があるのか。

<「寒早十首」の詩興>
 平安時代に入って日本の漢詩文にもっとも大きな影響を与えたのは、八世紀の盛唐時代活躍した杜甫や李白ではなく、唐の衰退期に居合わせた白居易(白楽天)だった。白居易は九世紀半ばまでに活躍した詩人だが、その『白氏文集』は日本の貴族社会の中で広く読まれ、鎌倉初期の歌人藤原定家の「紅旗征戎非吾事」という文言も、『白氏文集』の一節から切り取ったものだった。それはともかく、時代は違うが、白居易が菅原道真に与えた影響もまた大きかった。
 白居易の漢詩は、士大夫の「左遷」をテーマのひとつとし、それとともに社会批評とも言うべき「諷諭詩」というスタイルが基本となっている。白居易の経歴を軽くなぞると、現在の河南省に生まれた白居易は、子どもの頃から頭脳明晰であり五歳のころから詩を作ることができ、九歳で声律を覚えたとされる。彼の家系は地方官として生涯を送る地元の名望家といったものであったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれ、彼は二十九歳で科挙の進士科に合格し、地方官の上席に累進し、その後は翰林学士、左拾遺などの高級官僚の仲間入りを果たしていく。しかし、四十四歳にして社会批判や政治批判が咎められ、官吏としての越権行為があったとして現在の江西省の司馬に左遷される。その後、再び中央での活躍を嘱望されるが、それを倦み、地方官を願い出て杭州・蘇州の刺史となり、最後は刑部尚書の官を七十一歳まで務めた。
 つまり白居易の生き方には、けっして権勢に媚びない、それが故の「左遷」があり、地方官としての生き方があり、それを発条として天下国家に対しての「諷諭」があった。気高い倫理性と「長恨歌」に代表される滅びゆくものへの同情と哀惜、それを歴史的な叙事詩として雄渾に詠いあげる。それが日本の貴族たちに愛唱されてきた理由である。そしてしばしば道真はこの白居易と比較されうる詩人だとされていた。
 道真の漢詩として、讃岐の国司時代の漢詩に「寒早十首」がある。

     何人寒気早 寒早走還人    何れの人にか 寒気早き 寒は早し 
                                                 走り還る人
  案戸無新口 尋名占舊身    戸(へ)を案じても 新口無し 名を
                                                   尋ねては舊身(そうしん)を占ふ
  地毛郷土瘠 天骨去来貧    地毛(ちぼう) 郷土瘠せたり 天骨
                                                 去来貧し
  不以慈悲繋 浮逃定可頻    慈悲を以て繋がざれば 浮逃 定め
                                                   て頻りならむ
  何人寒気早 寒早浪来人           何れの人にか 寒気早き 寒は早し
                                                 浪(うか)れ来(きた)れる人
      欲避逋租客 還為招責身    避けまく欲(ほ)りして租を逋(のが)るる
                                                   客は 還りて責めを招く身となる
  鹿裘三尺弊 蝸舎一間貧    鹿の裘(かわごろも) 三尺の弊(やぶ)れ
                 蝸(かたつむり)の舎(いえ) 一間の貧しさ
    負子兼提婦 行々乞與頻     子を負い 兼ねて婦(つま)を提(ひさ)ぐ
                   行く行く乞與(きよ)頻りなり
      ・・・・略・・・
  何人寒気早 寒早夙孤人        何れの人にか 寒気早き 寒は早し
                                                    夙(つと)に孤(みなしご)なる人
     父母空聞耳 調庸未免身   父母は空しく耳にのみ聞く 調庸は身を免れず
   葛衣冬服薄 蔬食日資貧   葛衣(かつい) 冬の服薄(きものうす)し 
                  蔬食 日の資(たす)け貧し
   毎被風霜苦 思親夜夢頻         風霜の苦しびを被る毎に 親を思ひて
                                                   夜(よわ)の夢頻りなり
                                                    (「寒早十首」1・2・4首 前掲『菅家文集』)

 ここに描かれる十分な食糧もなく骨を削るように生き、凍えるような寒さと過酷な租税に苦しめられている貧者たち。その状況を克明に描写するなかで立ちのぼる抒情。まさに絶望や悲惨という事を伝える詩魂。詩は根本において「述志」であるとはある詩人の言葉だが、菅原道真の漢詩には寒さやひもじさからの黙しがたい訴え、救済への叫び、そして祈り、そうした情感があたかも出口をもとめてせめぎ合うように描かれている。
 もともと形象文字に源をもつ漢字には、文字の一つ一つにつねに現実がつきまとう。だから漢詩には、現実を内包し告発する叙事詩としての性質が内在しているのかも知れない。では、それにたいして和歌はどうか。

<『古今和歌集』について~和歌に内在する「気配」とは?>
 短詩のなかに恋情や抒情を含ませる。匂い立つ気配を表現する。和歌の特徴については、これまで多くの解説がなされてきた。それをここで解説してみてもあまり意味がない。ただ和歌という短詩系の文芸における「気配」についてだけは触れておかねばならない。
 『古今和歌集』の選者紀貫之を歌壇に推薦したのは、紀貫之よりも四十歳ほど年長だった「三十六歌仙」の一人で醍醐天皇時代に従四位上・右兵衛督藤原敏行だとされている。その敏行の歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」がある。目には見えない。であるが気配は濃厚である。そもそも情緒や抒情というのは、目には見えないものである。それを言葉で感じ、映像化する。
 『古今集仮名序』にも、
  やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。・・・中略・・・さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎ、たのしみ心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。また、春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き、あるは、年ごとに鏡の影に見ゆる雪と波とをなげき・・・。
 とあるように、歌に現れるのは〝実景〟ではなく、その気配である。そしてその気配は、目前にあるものではない。すでにこの世から喪われたもの、存在する事は認知されるが見た事のないもの。「美しいもの見たければ目をつぶれ」といった文学者がいたが、むしろじっさいの景物ではなく、情緒のなかにある景物、より踏み込んでいけば、死出の世界を思いおこすことにもつながる。貫之の歌を詠む。

   桜花散りぬる風のなごりには 水無き空に波ぞたちける
   人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける  
   桜花疾(と)く散りぬとも思ほえず 人の心ぞ風に吹きあへぬ
   世の中はかくこそありけれ吹く風の 目にも見ぬ人も恋しかりけり

 ここには投影の構図ともいうべき美意識がある。自然界の現象と人生一般の命題を節合させ、目の前の景物から連想を展開して見えない世界への〝幻想〟を詠うのである。

<『古今和歌集』について~死者の「鎮魂」の意味> 
 それと和歌集が編まれた背景には、死者への鎮魂があるということをわれわれは考えておかねばならない。さらに死者への鎮魂には多くの人びとの哀情を重ね合わすことが出来る。そしてそれを和すことで、より鎮魂の思いを深める。
 大伴家持の私家版とされる『万葉集』は、軍事氏族である大伴氏が戦火に倒れた多くの兵士の鎮魂集ではなかったか。多くの防人の歌が集められ、たとえそれが、さきの戦争の際の「特攻兵士」のように、死を覚悟させる意味で一カ所に集められて書かされたものであっても、白村江の戦いや壬申の乱での兵士の死を悼むものとして編まれたという想像は、それほど間違ったものではない。『新古今和歌集』も、世に源平の争いとして知られる治承・寿永の大乱で多くの戦死者を出したことへの鎮魂。南北朝期の南朝の宗良親王が編んだ『新葉和歌集』も、南朝の正統性を誇示するといった性格はあるというものの、多くの悲歌が集められ、これも南北朝期に倒れた武士や兵士らの鎮魂を無視することは出来ない。
 その意味で慌ただしく編纂された『古今和歌集』も、その背景にあるものとして、菅原道真の死を無縁とはしがたい。もちろん『古今和歌集』の部立ては、春夏秋冬、賀、離別、羇旅、物名(もののな)、恋、哀傷、雑などになっていて、花鳥絵巻としての賑わいがある。だがこの時期、まだ名誉も回復されていない菅原道真の和歌が二首採られている意味を考えたい。
   秋風の吹きあげに立てる白菊は 花かあらぬか波の寄するか
 詞書きには、道真と素性法師のそれぞれ一首、紀友則(病にあった友則は延喜五年、『古今和歌集』が世に送り出された秋に没している)の二首を括る言葉として、「おなじ御時(宇多天皇のころ)せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌」と述べられている。そしてもう一首。
   このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに
 詞書きには、「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる」とある。二首とも、宇多天皇とのかかわりの和歌である。宇多天皇と菅原道真。二首とも道真の死に手向ける意味があったと考えていい。
 漢詩と和歌について、その違いはおおよそつぎのようなことになるだろう。和歌とは、花鳥絵巻として〝情緒〟を掻きたてる世界観がある。景物をまえにしての「小世界」に耽溺する風流韻事と言える。そしてたがいに和すことで「予定調和」の世界を意図するという性格をもつ。だから鎮魂という役割が古くから意識されていたのだと思う。
 それに対して漢詩とは、情緒というよりは〝条理〟を説き、そのなかで世相の不条理を告発する働きをなす。合理への希求がまずあり、非合理なものへの憤りが表現される。景物は現実に見える景色であり、〝幻想〟を詠い込むことは少ない。

<結語:漢詩と和歌、そして〝祟り〟の発生>  結局、菅原道真の敗北とは「漢詩」的合理性にあったのではないか。しかし、その合理性はそれを否定するものにとって、正しさを否定したという後ろめたさをともなうものではなかったか。〝祟り〟という恐怖は、口には出せね後ろめたさという情感を深く宿したものである。
 このように菅原道真の左遷から死を見ていくなら、この時代が唐から流入した合理的な教養主義の時代を終えて、ミウチやウチワでの情緒的な、そして景物までもが幻想的な見立てのなかに置かれる緩やかさの時代へと転換していった過渡期であることを思わずにはいられない。   

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