八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

厄災を前にしていかに生きるか!

2020-05-10 22:43:38 | 〝歴史〟茶論
 物議を醸した「アベノマスク」はいつになれば届くのか? 
 「アベノマスク」の配布率は日本全体で5%にもならないそうで、いまでは近くのコンビニやなぜか中華料理屋やタピオカミルティーのお店でも、ふつうにマスクは販売されていて、簡単に手に入るようになりました。そして一部では「値崩れ」しているともいわれています。
「アベノマスク」は必要なのか? いったいどうしたものでしょう。

 これはあきらかに〝失政〟なのでしょう。「見栄え」だけをよくする、小手先の民衆愚弄の政策とも言えます。これでわかったのは、東大出の頭がいいとされた「官邸官僚」が、いかに出来が悪く、人びとと乖離した存在なのかということです。かれらは処理能力には長けているけど、物事を深く考えられる質ではないし、空疎な口舌にこそ自分の出番だと思っている節があります。でも、これはわたしがこれまで東大に限らず、いわゆる一流大学に進学していった学生たちを見ていて、いつも危惧していたことです。
 そして、彼ら彼女らは、ぜったいに〝間違い〟を認めたり、〝謝る〟ことをしない。ケチな「学歴」といったプライドしか持ち合わせていない。

 そんな「アベノマスク」が届く前に、といってもわたしのところには届いているのですけど、もう5月です。「田植え」の季節になってしまいました。
              
 わたしは農業の盛んな北東北の地方都市の出身で、もちろん、わたしの両親はともに農家の生まれです。
 父は、神秘的な湖ということで知られる秋田県田沢湖から北に向かった寒村の生まれであり、母も県南の平野部のふつうの農家の出です。
 父の実家は岩手県境に近いこともあるのか、いわゆる「南部曲屋」の構えをしていた農家で、祖父は、ロシア製の銀色の猟銃で熊や鹿を仕留めてくる猟師でもありました。
 子どものころ、父の実家に行くと、熊を仕留めてきた祖父が、熊の皮の裏についている脂肪を石匙のようなへらでそぎ落とし、近くを流れる清浄な沢水に熊の毛皮を何度も浸して、ゆっくりゆっくりと丁寧に皮をなめしていた姿を思い出します。
 祖父は、当時としては背の高いがっしりとした偉丈夫であり、おおいに大酒する人でした。
 農家の仕事が終わって夕方ともなれば囲炉裏の前にどんと坐って、小さなわたしを祖父は股の間に坐らせて、大きな茶碗に酒をいっぱい入れて、ごくりごくりと、じつにうまそうに呑んでいる人でした。
  なにも語りもせず、ただにこにこしながらお酒を飲む人でした。

 その長男であったわたしの父は、理由はわかりませんが、農家を継ぐことなく、妹さんにお婿さんをとって家を継がせ、自身は農業技術者として県庁に勤める道を選びました。そこで農家の三番目の娘であった母と見合いして結婚したと聞いています。もし父親が農家を継いでいたら、わたしもきっと継いでいたことでしょう。
 ときに父の祖父は、わたしが八歳のとき、大酒が原因で、脳溢血であっけなく亡くなりました。ですから、わたしの父方の祖父の記憶は、物静かで大酒し、銀色につやつや光るまで猟銃の手入れをし、また根気強く熊の毛皮をなめしている姿です。

 母の実家。そこには子どものころよく行きました。夏休み、冬休みだけではなく、田植えや稲刈りの時期にも、母が手伝いに行くついでに、よく連れて行かれました。
 母の実家は、北東北でも大きな河川である雄物川流域にある広々とした平野のなかにあり、田んぼのほか、祖父は一山をすべてりんご畑にしていて、リンゴ農家として暮らしていました。
 母方の祖父は、若いころ競馬のジョッキーだったという話しでしたが、わたしが知っている祖父は、書をよくする人であり、リンゴ山の中に庵を結んで、そこでいつも墨を擦って難しい文字を書いていた印象があります。

 そうした祖父の朝は、ひどく早かったのを記憶しています。
 朝、子どもであるわたしが空想でいっぱいになった夢を見ている時間、まだ夜の空が明けきらないころに、祖父はすでに田んぼに出ていました。
 いちど眠い目をこすりこすりしながら、祖父といっしょに田んぼに行ったことがあるのですが、祖父は田んぼに出ると四方の水路を確認し、水に手を入れて田んぼの水温を確かめ、まだ暗い田んぼ全体を眺めながら、あるところでは水を抜き、また水入れをして、その上で稲を一つ一つ確認するように手を添えてその生育の状況を観察し、そしてそれが終わると稲たちに向かって、声かけをして、またつぎの田んぼに移って、同じことをしていました。
 そして、夏の陽射しが強く田んぼの水面を照らす時期、きつい照り返しのなか田んぼに群生した雑草取りをするのですが、そのときはまるで稲を励ますように「エイエイ」と声をもらしながら、雑草を取っていく。
 それは稲の生育を願い、あたかも稲とともに生きていこうとするように見えました。いま思うには、それは稲とまさに〝連帯〟しているような風情だったように感じられます。
 リンゴの撰定、袋がけ、その作業も祖父は、じつに丁寧に慈しむようにリンゴの木に語りかけながらやっていて、それは一つのきまりきった日常的所作であったのでしょうが、じつに手際がよいもので、そうした日々の所作が「無形の作品」のようにも見え、じっと眺めていた記憶があります。

 よく作家や学者などの文章や語りには、農作業の手際のよさや畑の畝の盛り上がり、あるいは整然ときれいに規則正しく稲穂がならんでいる田んぼを見て、これが「日本人の美意識」だとか、「日本精神」のあらわれだとか書いていたり記されていたりすることを目にします。
 でも、そんな言葉に出くわす度に、わたしにはなにか疑わしいものに触れた気持ちの悪さにとらわれます。
 じっさい、わたしが子どものころ見ていた祖父たちの仕事ぶりは、そんな浮ついたことではない。すくなくとも、祖父たちは「日本人の美意識」や「日本精神」を表現するために、農家の仕事をしていたのではなかったように思います。
 そんな高ぶった賞賛の言葉やおだてとは無縁な地味な所作があるだけだった。それのみが祖父たちにとって、なによりも大切なことであったように思います。
 土や水、空や雨、そして野生の熊や鹿、あるいは稲やリンゴとの長いつきあいのなかで、そうした自然に生きていることに対して謙虚であって、自然から一歩引いたなかで生きる。
 都市のなかで何ほどにもならない地位や富しか誇ることができない人びと。いわば、実体験や生活感の希薄な人びとが、みずからの〝不十分さ〟〝不安さ〟を覆い隠すために、上からの目線で「名付け」をする。「美意識」だの「精神」だのの仰々しさ、そうした言葉や解説などとは、見事なまでにも遠くにある実直な〝暮らし〟・・・。そうしたなかに祖父たちはいたのだと思います。

 そんなことをいまに思い出すと、たしかに実体験や生活感が希薄ななかで起こった、実効性が乏しく矮小なガーゼ仕立ての「マスク」騒動のドタバタ。
 もしかすれば、それはたんにいまの安倍政権の〝失策〟というだけではなく、わたしたちの生きている「現代」という現実とかけ離れた空疎な時代が生みだした〝瑕疵(かし)〟のようにも見えてきます。

 ところで、ここで歴史について、すこし書きます。
 前回は鎌倉幕府の飢饉への対応について、危機回避の最終手段としての〝奴隷〟のありように絡めて、すこしだけ触れましたが、奈良時代の正史というべき『続日本紀』には、いまは撲滅されたといわれる天然痘の猖獗(しょうけつ)に苦しんだ聖武天皇の治世についての記述があります。

 高校で日本史を学んだ経験があれば、藤原不比等の息子たち「藤四子」が、天平9年(737年)にあいついで天然痘で没したことを知っている方も多いかと思います。
 日本列島は「島嶼国」であるが故に、疫病はたいがい外から流入する傾向があり、このときも新羅で疫病が大流行であることを知らず、遣新羅使が派遣され、遣新羅使の一行百人余りのうち、この天平9年正月に帰国した時点で、大方は天然痘に倒れ、一行のうち帰国できたのは40人だったとされています。
 そうした状況にもかかわらず、天然痘への防御や臨床的知識がなかったことで、生き残った一行が復命のため参内することになり、そのため朝廷の役人の間でまずクラスターが起こり、不比等の子である房前、麻呂、武智麻呂、宇合が順番に没し、廟議を司る役人の大方も病に死すという事態となります。そして、それが瞬く間に庶民まで感染する惨憺たる状況になります。

 ところで、疫病とはおもに貧困層のなかで発生し、手当のないまま多くの死者を出すと思っている方も少なくないでしょうが、じっさいいまの「コロナ禍」もシンガポールやブラジルでは下層生活者の地域で感染拡大を起こしている傾向があるものの、皮肉なことに、そうした貧民を大量に搾取し、その上で富を重ねている富裕層も、一旦疫病がおこると、疫病はそこに留まりません。あっというまに富者にも襲いかかっていきます。
 歴史が教えるところでは、疫病が起こった際には、貧民はつねにこうした災厄のなかで最大の〝弱者〟とはなりますが、それだけではなく彼らを虐げ搾取して、不可視な存在として放置した者たちも、ある意味〝平等〟に災厄を浴びるということです。〝権力者〟もうかうかしてられないのです。
 
 話しを聖武天皇の奈良時代に戻します。聖武天皇は、この事態にどういった対応を取ったのか。まず天皇は、聖徳太子の施療事業を参考に、興福寺内に薬草を栽培・手配し、薬を施すための「施薬院」を置き、一方で飢えを取り除き、病を救済するための「悲田院」を建てます。
 さらに養老律令で定められていた「医疾令(いしつれい)」をもとに、医療職や内薬司(宮中)、典薬寮(宮外)の組織拡充をはかり、また医学教育を強化します。
 そして、医術習得に秀でた者を「国医師」とする制度を確立し、その医師らは薬嚢(やくのう)をもって都を回り、困窮した病人に薬を与え、重症な病人を悲田院に収容させ、病が拡大しないように隔離したと記されています。
 くわえて、光明皇后も都の東西に「悲田院」を置き、施療のため、いまのお風呂にあたる「湯室」を造作し、病人を不潔から解放したといいます。
 鎌倉時代に書かれた仏教史である『元亨釈書』には、そこで慈悲深い仏心を持つ皇后は、病人の身体に浮き出た醜悪な膿を自ら吸い取ったという話が記されているのですが、それは疑わしいものの、皇后自ら陣頭に立って、病者の世話をしたというのは事実のようです。
 さて、その際の財源です。まずは聖武天皇自ら各地の朝廷財政を投入していきます。そしてそれだけではなしに、光明皇后には父の不比等から相続した封戸(稲などの収穫)があるのですが、そのあわせて四千戸あまりを投入したといいます。それはちょうど、いまでいう東京を除く関東六県の年間予算のすべてを投入する規模だったようです。さらに貴族たちも俸禄や私財をも含めた財産をいっせいに放出し、これらに当てる。
 これは鎌倉時代に、執権の北条泰時が飢饉に際し、自分の知行国の収入の大部分を当てて救済に乗り出したのとよく似ています。まずは為政者が自らの財産を供出し、率先して財源確保をはかる。
 
 こんなふうに見ていくと、古代からの為政者は、疫病や災厄に際し、まず厄災と対峙するための病院をはじめ薬や医師などの医療制度を打ち立て、病人の隔離などを迅速に実行する政策を行う。
 その一方で、疫病で生活できなくなった貧民救済のための、悲田院設立などの社会政策を行う。
 さらにその財源については、朝廷財産の供出を率先して行うとともに、富者や貴族の出資を徹底し、とにかく早急に疫病や災厄の苦しみから人びとを救済するという施策を行っていることがわかります。
 その意味で、現在の「コロナウイルス禍」への対応のありようは、医療確立、社会政策の拡充、それにともなう財政政策の策定が柱となっているわけで、古代から大方は変わっていないということができます。
 しかし、聖武天皇や鎌倉幕府の対応で注目すべきは、疫病や災厄に対して時間を置かず、身分格差や差別を乗り越えて、つぎつぎに迅速かつ徹底して行っている状況が見えてきるということです。それも、医療の進んでいない時代にあってです。
 またそれ以上に注目すべきは、こうした為政者の疫病や災厄への態度に見られる姿勢です。
 紙量もあるので、一つだけ聖武天皇の例をあげれば、天皇は自ら「自分が君主になって数年経ったが、徳によって人民を教え導くことが十分でなかったために、人民を安らかに暮らさせることができない。そのため、わたしは日夜憂いている。・・・春以来の災厄によって、天下の人民が多数死亡している。まことにわたしの不徳によってこの災厄が生じたのである。いま天を仰いで慚愧(ざんき)にたえない。そこでみなが生活の安定を得るために努力させてほしい」と述べていることです。
 つまり言い換えれば、この疫病・災厄は天皇自身に〝徳〟がないから起こったのであり、申し訳なく思っているということなのです。
 ここにはもしかして、このあと平安初期に最澄によって伝来した「天台仏教」における「悔過(けか)」、いわば人は自らを省みることで自らの不足と不徳を悟り、そこからでないと新たな救いはないとする考え方が、影響を与えているのかもしれませんが、大切なのは、聖武天皇自らが自身の〝薄徳〟〝不徳〟を詫び、〝仁徳〟が為政者にとっていかに大切かを説いていることです。
 このときの聖武天皇は、疫病のなか、神道や仏教への祈りや願い、さらに身を清らかにして、仏道に励むといったことを再三行っていますが、まずは、自分の至らぬさが災殃を招いているという地点に自らを置き、そこから救いを模索しているというわけです。

 もう翻って考えるまでもないでしょう。
 もちろん、いまの時代の為政者に〝徳〟など求めるのは古すぎるのかもしれません。しかし、欧米の為政者や首長が、自身の言葉で、冷静かつ事態の深刻さを科学的・医学的知見を交え、プロンプターなど見ずに直接的に人びとに語りかけているようすを眺めるなら、〝徳〟とはなにか。〝仁徳〟は、ごく自然にその人の品格ないし言葉のなかに現れるものだと思わざるをえません。

 疫病や災厄は、だれの身にもふりかかるものです。そのなかで、いかに「言葉」のもつ意思と人びとに向かい合う「態度」が問われるのか。
 このたびの「コロナウイルス禍」が、このあとどんな展開になるのか、わたしにもよくはわかりません。そうしたなか、いまのこの〝自粛〟の風潮に、どうしようもなく急に怒りが吹き出てくるときもあります。
 でも、この事態に対して、寄せ集めた知識やSNSの恣意的な流言で、一喜一憂してもなにもはじまらない。それだけは確実です。いくら「名付け」てみても「解説」されてみても、この先行きはなかなか見通せません。
 ならば、わたしの祖父たちがそうだったように、日々のなかでそれぞれの時間に意味を見いだしながら、何事かの「仕事」に意識を傾注し、丁寧に過ごしていくしかない。わたしにとって、それは書くことかなと思うしだいです。

 とはいうものの、思い出すのは教師としての初任校であった農業高校での5月の晴天のことです。この学校では〝さなぶり(早苗饗)〟といって、全校で田植えをする行事がありました。
 今年は、もしかして休校となって、この行事はできないのかもしれませんが、いまになって、何十年ぶりかに田んぼに入って、泥のぬかるみのなかで「田植え」がしたくなってしかたがない。困ったものです。 

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