八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

〝阿Q〟の時代-秋季講座のお知らせ

2020-09-21 09:54:43 | 〝哲学〟茶論
 先の首相が〝病〟ということで、仰々しく車列をなして慶應義塾大学病院を行き来し、そして急きょ辞任する。するといつの間に保守政党のなかをうまく根回ししていた黒子と言うべき官房長官が、その首相の椅子を襲う。
 あたかも下克上のような舞台回しに面白がっていたのが、夏の猛烈な暑さがようやくおさまってきたここ数日のありさまでした。
 それにしてもペーパーメディアの世論調査だと、同情なのか、人びとが〝いい人〟ぶっているのか。対コロナ政策では失策続き、それにあれほど「森・加計・サクラ・河井・IR疑獄」で、支持率を落としていた先の首相が辞任するとしたとたん、支持率が〝バカ上がり〟する。いっぽうで新首相となった先の官房長官の人気も急上昇中・・・。
 先の官房長官とは「森・加計・サクラ・河井・IR」問題で、まさに木で鼻を括るような対応をした御仁なのに、それはなかった如くに、あたかも〝新しい顔〟でマントでも着てさわやかに出現した〝ヒーロー〟のように見える。
 それはまるで魯迅が描いた『阿Q正伝』の阿Qが、あちこちの権力に乗じて世渡りするような、そんなひどい冗談の主人公のように、人びとが踊っている。そんなふうにしか思えてなりません。
 右からの風が強いと思えば、ふらふらと右に依っていき、権力のあるものが左だというと、我先に左に駆け出す。そして、それを恥じたり、後ろめたく思ったり、深く考えたりしない。過ぎたことはいいじゃないか。きまったならきまったで、いいことなんだ。
 過去をふりかえったりしない。愚かさはもみ消して忘れる。世の中の空気は、どんどん澱んでいっても気にならない。

 そうしたなかで、最近ふと思ったのは、ネット社会になって、電車の中で本や新聞を読んでいる人びとが急速に消えていったように思えることです。たまに文庫本に目を落としている人がいると、何を読んでいるのかなと、興味がそそられるとともに、なにかとっても偉いことをしているようにも見えたりする。
 かつて電車の中で新聞をおおきく拡げている人は、迷惑この上なかったのですが、最近は戻りつつあるものの、「コロナ禍」で電車が空いているなか、スマホの限られた画面ではなく、ゆったりと新聞を見ている人などを見つけると、ほほうと頷いてしまったりする。
 以前懇意にしていた新聞人がよく言っていたのは、新聞は紙面でとらえるものだということでした。紙面にはいろいろ異なった記事が、いちおうの作為はあるものの、無秩序にならんでいるのと同じで、読み手は、そのなかでこれと思った記事を読み出すとともに、その近くにある記事も同時に目に入ってしまう。記事を選択して読むというより、いろんな記事をその一日の関連として読んでしまう。そこにペーパーメディアの特質があると・・・。
 しかし、ネットメディアは、ヘッドラインのなかから、自分が興味のあるものを検索して読む。そのほかの情報を共時的に目に入れることは少ない。すなわち自分好みの情報だけ入れて、入れたくない情報、嫌いな政治家や作家、芸能人の情報はカットできる。
 自分にとって興味があるという事は、自分にとって都合のいいこと、耳障りのいいこと、面白がって見れる情報であり、それ以外は自身には関係のないことになって疎外されていく。

 たしかに21世紀になって、わたしのまわりにいる若者や大人たちは、自分にとって興味の湧かないこと、考えさせられたりするのが重く感じる情報、いわば苦手なことや嫌いなことを見ないようにするようになってきたように見受けられます。
 個別の好ましい情報だけをいれてくることで、多くの〝プチオタク〟的な、具体的いえば、とある芸能人の情報にはめちゃめちゃ詳しい、真偽のほどはともかく、やたらに中国の陰謀情報に精通している。古い言葉を使えば、政治学者の丸山眞男の『日本の思想』にあった〝たこつぼ化〟した情報ばかりに人びとが惑溺している。
 その文脈で考えると、いまどきの人びとが嫌いなことには眼を向けない、自己の思慮のおよばない事柄を嫌悪するというのは、ネットの社会の現出がおおきく関わっているからかもしれません。
 右を向くのが大多数であるなら右を向き、流行っているから踊ってみせる。だからといって、失敗したり愚かだったこと、いわばマイナス面に後ろめたさや後悔を生まない。いつも勢いのあるほう、力のあるほう、みんなが向く方向に吸い寄せられて、そうじゃないと不安で怖くてならない。
 まるで〝阿Q社会〟とでもいって世の中が、いまわたしたちが見ている日本社会じゃないか。
 日に日に日が短くなっていく9月の夕空をふと窓から眺めながら、そんな重苦しさが知らないうちにわたしの胸裡を占拠してしまっている。

 とはいうものの、そこで憂鬱になってもはじまらないので、秋からの講座のお知らせをいたします。
 新人会・宏究学舎講座2020年秋学季は、下記のフライヤーにあります通り、10月18日(日曜)午前10時から4講にわたって開講されます。
 今回は、〝時代に杭を打つ!〟PartⅣとして、「昭和」から「平成」の世紀末にかけて日本社会に〝杭を打った!〟思想家や文学・映画作家を取り上げて、21世紀のいまのありようを検証しようという試みです。
 そのため、1960から70年代に若者に大きな影響を与えた寺山修司の今日的な意味をスプリングボードにし、『日本の夜と霧』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などヌーヴェルバーグの映画作家として問題性をつねに発していた大島渚。弱肉強食、自己責任、階層分化の拡大を当たり前とする新自由主義経済に敢然と立ち向かった世界的経済学者である宇沢弘文。そして南九州に土着し、歴史のなかに重く沈殿していく真実を、水俣病という現代性からあたかも巫女が語る言霊のように紡いでいった石牟礼道子の4人に導かれて、いまを考えてみようというわけです。
 詳しくは、下記にフライヤーをあげておきますが、見えにくいかもしれませんので、講座お申し込みは、
<唐澤俊介 E-mail:syunsuke797@gmail.com>か
<八柏龍紀 E-mail:yagashiwa@hotmail.com>にご連絡ください。
 全4講で、一講座でも受講可能です。会場では、前回同様、いろんな方々との〝対話〟を盛り込みながら、お話しを進めていきます。ぜひご参加ください。会場はいつものように池袋南口のとしま産業プラザ(池ビズ)です。

 なお、札幌での現代史講座は、すこし早く10月14日(水曜19時~)を初講日として、全5講(隔週毎)に開催します。こちらの方は、主催者側からの日程確認と会場の確定ができましたら、あらためて詳細を掲載します。
 現在のところ10月は14日と28日が開講予定となっております。
 テーマは日本現代史です。それぞれのテーマは以下の通りです。
第1講:慰霊と鎮魂~空から降ってきた「憲法」
第2講:「植民地」朝鮮と「日本人」の戦後責任
      ~〝戦後平和〟の真実
第3講:60年安保の残像〝二人の美智子〟
      ~「無国家時代」の日本人!
第4講:〝欲望列島〟日本 
      ~ジュリアナ東京からバブルの崩壊へ。
第5講:CIAと日本、USAの手のひらの日本
     ~〝冷戦〟は続く!
 札幌市とその近郊の方々のご参加をお持ちしております。
 近日中にまたblogを更新し、講座関係の情報をお知らせします。よろしくお願いいたします。 
    

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『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第二部>[再録]

2020-09-11 20:28:30 | 〝哲学〟茶論
<お知らせ> 前回の[第一部]とこの[第二部]は、過去に京都商工会議所主催「京都講座」での講演記録をre-writeしたものです。 
  流謫と流離
                  
 大宰府にむかう途中、菅原道真は播磨国の明石駅で、道真の流謫の事実に驚いて深く嘆く駅長をみて、つぎの詩を詠んだという。
  駅長莫驚時変改
    駅長驚くこと莫かれ
     時の変り改まること 
  一栄一落是春秋
          一たびは栄え一たびは落つる
     これ春秋
 「時変」と「栄枯盛衰」の習いは、これこそ「春秋」である。つまり、時代における栄枯盛衰は、これこそが年月の奥義であるということである。その言葉に、菅原道真のこのときのすべての感慨が簡潔に詰まっている。
 この詩文は院政期の歴史物である『大鏡』に載っている。しかし、道真が死の直前に盟友紀長谷雄に贈ったものとされる『菅家後集』には、これは僧侶の書き記したもので真偽ははっきりしないとしている。
『源氏物語』にもこの詩は引用されていて、そこでは「くし=口詩」いわば口頭で詠んだものをだれかが書き取ったと記されている。
 しかし、この漢詩はいかにも道真らしい、毅然とした無常感が現れたもののように読むことができる。そしてさらに道真は、配流の苦しみをつぎのような言葉で綴る。
  嘔吐胸猶逆
    嘔吐して胸もなほし逆ひぬ
  虚労脚且萎
    虚労して脚も且萎えにたり
  肥膚争刻鏤
    肥膚争(いか)でか刻(き)り
    鏤(ちりば)めむ
  精魄幾磨研 
     精魄幾ばくか磨研する
 おのれの肉体に刻み込まれた痛苦と疲弊。彫琢された言葉に内在する忿怒と憤り。しかし、それでも道真は主上(ミカド)への思いを重ねて詠ずる。
  去年今夜侍清涼
   去(い)にし年の今夜清涼に侍りき
  秋思詩篇独断腸 
   秋の思ひの詩篇独り
    腸(はらわた)を断つ
  恩賜御衣今在此
   恩賜の御衣は今此に在り
  捧持毎日拝餘香
   捧げ持ちて日毎に餘香を拝す
 清涼殿にあって、右大臣兼右大将として醍醐天皇に近侍していた自分。それから流謫へと転じたことの悲しみ。心を切り刻む痛切さと哀切さ。
 あわせて「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 此秋独作我身秋」という詩句。意訳するなら、我が無実を訴えたいというはげしい願望がある。風のすさまじい鋭さはまるで刀で突き刺すようであるが、それでも我が愁いを破ってはくれない。月の照らすのを見ても風のすさぶのを聞いても、我には身の毛がよだつように凄まじく感じられる。天下の秋の愁いは、我が身にことごとく集中して、我れのみ愁いが限りなく深い。
 道真には、政争で放逐される以上に、無実であること、自らの潔白がまったく無視される現実に狂おしいばかりの怒りと絶望があった。
 道真が左遷される際に詠んだといわれる和歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はよく知られるが、こうした抒情的な情緒とは異質な、いわば漢詩文がもつ「現実との裂け目」、それらが肉体の深い根の底から絞り出されるように詠じられている。
 それとともに讃岐国司のとき詠んだ『寒早十首』のほか、配流後の道真には、都から遠く離れた文化とはほど遠い人びとのくらす姿をとらえている漢詩がいくつもある。
 塩を焼く苦労。その一方で不正の儲けをする輩。軽々しく人を殺傷し、群盗が肩を並べて横行している状況。漢詩という表現方法で道真はそうした世の矛盾を抉出する。
 しかも、そんななか凡俗にも官吏はそれらを無視し、無聊に釣り糸を垂れているばかりなのである。道真は、漢詩の対句・対比という表現でそうした「現実」の矛盾・苛烈さを浮き彫りにする。

 道真が流謫地大宰府で没したのは、延喜三年(903年)旧暦二月二十五日であった。享年五十九歳。梅のほころぶ季節と言いたいところだが、じっさいは現在の三月下旬であるため、桜咲く季節であった。先にも触れたが、貴人の多くはその死を憤死と受け取った。そしてそれが猛威を振るう〝祟り〟への恐れとなった。

 なぜ『古今和歌集』は編まれたのか?

 そこで気になるのは、道真の死とその直後に勅撰された『古今和歌集』の関係である。左大臣藤原時平は、道真没の知らせを受けると、ひそかに紀貫之らを呼び集め和歌集の編纂事業をはじめたと思われる。紀貫之の私家集である『新撰和歌』などによると、和歌の詞書に「延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る」とある。
 『古今和歌集』は、これによると延喜五年(905年)四月六日に完成したように思われるのだが、となると編集の準備は、少なくともその一年以上前にはじめられ、選者を集めて作業に取りかかっている必要がある。
 するとこの『古今和歌集』は、道真没後のかなり早い段階で企画されていたのはまちがいがない。プロデュースしたのは藤原時平とされているが、ではなぜこの時期に「和歌集」の編纂がなされたのか。文章博士である道真と和歌集の勅撰。その間に何があるのか。

 『寒早十首』に何が託されたのか?
 
 平安時代に入って日本の漢詩文にもっとも大きな影響を与えたのは、八世紀の盛唐時代に活躍した杜甫や李白ではなく、唐の衰退期に居合わせた白居易(白楽天)だったという。
 白居易は九世紀半ばまでに活躍した詩人だが、その『白氏文集』は日本の貴族社会の中で広く読まれ、鎌倉初期の歌人藤原定家の「紅旗征戎非吾事」という文言も『白氏文集』の一節から切り取ったものだった。それはともかく、時代は違うが、白居易が菅原道真に与えた影響もまた大きかった。
 白居易の漢詩は、士大夫の「左遷」をテーマのひとつとし、それとともに社会批評とも言うべき「諷諭詩」というスタイルが基本となっている。
 白居易の経歴を軽くなぞると、現在の河南省に生まれた白居易は、子どもの頃から頭脳明晰であり五歳のころから詩を作ることができ、九歳で声律を覚えたとされる。彼の家系は地方官として生涯を送る地元の名望家といったものであったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれ、彼は二十九歳で科挙の進士科に合格し、地方官の上席に累進し、その後は翰林学士、左拾遺などの高級官僚の仲間入りを果たしていく。しかし、四十四歳にして社会批判や政治批判が咎められ、官吏としての越権行為があったとして現在の江西省の司馬に左遷される。その後、再び中央での活躍を嘱望されるが、それを倦み、地方官を願い出て杭州・蘇州の刺史となり、最後は刑部尚書の官を七十一歳まで務めた。
 つまり白居易の生き方には、けっして権勢に媚びない。それが故の「左遷」があり、地方官としての生き方があり、それを発条(バネ)として天下国家に対しての「諷諭」があった。気高い倫理性と『長恨歌』に代表される滅びゆくものへの同情と哀惜、それを歴史的な叙事詩として雄渾に詠いあげる。それが日本の貴族たちに愛唱されてきた理由である。そしてしばしば道真はこの白居易と比較されうる詩人だとされていた。
 さきに触れた道真の讃岐国司時代の漢詩『寒早十首』をあげてみる。

 何人寒気早 寒早走還人
  何れの人にか 寒気早き寒は早し 
   走り還る人 案戸無新口 尋名占舊身
  戸(へ)を案じても 新口無し 
  名を尋ねては舊身(そうしん)を占ふ
 地毛郷土瘠 天骨去来貧
  地毛(ちぼう)郷土瘠せたり
     天骨去来貧し
 不以慈悲繋 浮逃定可頻
  慈悲を以て繋がざれば
     浮逃定めて頻りならむ
 何人寒気早 寒早浪来人 
  何れの人にか寒気早き
  寒は早し浪(うか)れ来(きた)れる人
   欲避逋租客 還為招責身
  客は 還りて責めを招く身となる
     避けまく欲(ほ)りして租を逋るる
   鹿裘三尺弊 蝸舎一間貧
     鹿の裘 三尺の弊(やぶ)れ
     蝸(かたつむり)の舎(いえ)
        一間の貧しさ
  負子兼提婦 行々乞與頻     
      子を負い 兼ねて婦を提(ひさ)ぐ
      行く行く乞與(きよ)頻りなり
    ・・・略・・・ 
  何人寒気早 寒早夙孤人
   何れの人にか 寒気早き寒は早し
      夙(つと)に孤(みなしご)なる人
  父母空聞耳 調庸未免身
   父母は空しく耳にのみ聞く
   調庸は身を免れず
 葛衣冬服薄 蔬食日資貧
  葛衣(かつい) 冬の服薄し
     蔬食 日の資(たす)け貧し
 毎被風霜苦 思親夜夢頻 
     風霜の苦しびを被る毎に
  親を思ひて夜の夢頻りなり
  (「寒早十首」『菅家文集』)
 
 十分な食糧もなく骨を削るように生き、凍えるような寒さと過酷な租税に苦しめられている貧者たち。その状況を克明に描写するなかで立ちのぼる抒情。まさに絶望や悲惨という叙事を悲痛に歌い上げる詩魂。詩は根本において「述志」であるとはある詩人の言葉だが、菅原道真の漢詩には寒さやひもじさからの黙しがたい訴え、救済への叫び、そして祈り、そうした情感があたかも出口をもとめてせめぎ合うように描かれている。
 もともと形象文字に源をもつ漢字には、文字の一つ一つにつねに現実がつきまとう。だから漢詩には、現実を内包し告発する叙事詩としての性質が生来的に内在していると言える。では、それにたいして和歌はどうなのか?
        
      <古今和歌集>

 『古今和歌集』について
   ~和歌に内在する「気配」とは?

 短詩のなかに恋情や抒情を含ませる。匂い立つ気配を表現する。和歌の特徴については、これまで多くの解説がなされてきた。それをここで解説してみてもあまり意味がない。ただ和歌という短詩系の文芸における「気配」についてだけは触れておかねばならない。
 『古今和歌集』の選者紀貫之を歌壇に推薦したのは、紀貫之よりも四十歳ほど年長だった「三十六歌仙」の一人で醍醐天皇時代に従四位上であった右兵衛督藤原敏行だとされている。その敏行の歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」という秀歌がある。目には見えない。であるが気配は濃厚である。そもそも情緒や抒情というのは、目には見えないものである。それを言葉で感じ、映像化する。
 『古今集仮名序』にも、
 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。・・・中略・・・さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎ、たのしみ心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。
 とあるように、歌に現れるのは〝実景〟ではなく、その気配である。そしてその気配は、目前にあるものではない。すでにこの世から喪われたもの、存在する事は認知されるが見た事のないもの。
 「美しいもの見たければ目をつぶれ」といった文学者がいたが、むしろじっさいの景物ではなく、情緒のなかにある景物。より踏み込んでいけば、死出の世界を思いおこすことにもつながる。貫之の歌を詠む(『古今和歌集』)。
 桜花散りぬる風のなごりには
   水無き空に波ぞたちける
 
桜花疾(と)く散りぬとも思ほえず
   人の心ぞ風に吹きあへぬ
 世の中はかくこそありけれ吹く風の
   目にも見ぬ人も恋しかりけり

 ここには投影の構図ともいうべき美意識がある。自然界の現象と人生一般の命題を節合させ、目の前の景物から連想を展開して見えない世界への〝幻想〟を詠うのである。
 それと和歌集が編まれた背景には、死者への鎮魂があると考えておかねばならぬ。和歌を詠むこと、みんなで唱和することは、黄泉の世界に住む人びとへの現世からの交信であった。
 さらに死者への鎮魂は、同時に死者に縁のある多くの人びとが「哀情」を重ね合わすことのできる交流板のようなものであった。集団で唱和することによって、より鎮魂の思いを深めることができる。ある意味それは仏教の「音声」に通じるものでもある。

 大伴家持の私家版とされる『万葉集』は、戦火に倒れた多くの兵士の鎮魂集として編まれたとする説がある。そもそも大伴氏は軍事氏族なのである。
多くの防人の歌が集められ、たとえそれが、さきの戦争の際の「特攻兵士」のように、死を覚悟させる意味で一カ所に集められて書かされたものであっても、白村江の戦いや壬申の乱で、どうしても避けられぬ死を前にした兵士の、その「死」そのものを悼むものとして編まれたという想像は、それほど間違ったものではない。
 『新古今和歌集』も、世に源平の争いとして知られる治承・寿永の大乱で多くの戦死者を出したことへの鎮魂。南北朝期の南朝の宗良親王が編んだ『新葉和歌集』も、南朝の正統性を誇示するといった性格はあるというものの、多くの悲歌が集められ、これも南北朝期に倒れた武士や兵士らの鎮魂を無視することは出来ない。
 その意味で慌ただしく編纂された『古今和歌集』も、その背景にあるものとして、菅原道真の死を無縁とはしがたい。もちろん『古今和歌集』の部立ては、春夏秋冬、賀、離別、羇旅、物名(もののな)、恋、哀傷、雑などになっていて、花鳥絵巻としての華やぎがあるのだが、それすらも、この時期、まだ名誉も回復されていない菅原道真の和歌が二首採られている意味を考えるなら、道真の鎮魂を想像してもあながち外れたものではないだろう。
  秋風の吹きあげに立てる白菊は
    花かあらぬか波の寄するか 
 詞書きには、道真と素性法師のそれぞれ一首、紀友則(病にあった友則は、延喜五年『古今和歌集』が世に送り出された秋に没している)の二首を括る言葉として、「おなじ御時(宇多天皇のころ)せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌」と述べられている。そしてもう一首。
 このたびは幣もとりあへず手向山
  もみぢの錦神のまにまに
 詞書きには、「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる」とある。二首とも、宇多天皇とのかかわりの和歌である。宇多天皇と菅原道真。二首とも道真の死に手向ける意味があったと考えていい。

 結語:漢詩と和歌、
        そして〝祟り〟の発生

 そろそろ紙面が尽きた。最後に漢詩と和歌について考えてみたい。その違いはおおよそつぎのようなことになる。
 和歌には、花鳥絵巻として〝抒情〟を掻きたてる世界観がある。それは「気配」の美学であり、景物をまえにしての「小世界」に耽溺する風流韻事の世界に遊ぶ美学と言えよう。さらに唱和することで情緒的な〝親密圏〟を形成し、幻想のなかでの親和性や情緒を高め、それが鎮魂にもつながっていく。
 それに対して漢詩とは、情緒というよりは〝条理〟を説くものであろう。雰囲気を共有するというより主観的な視座を起点にする美意識である。そのなかで世相の不条理・不合理を告発し、格調高い音律と事実描写の的確さのなかでの悲痛や慟哭を表現する。また漢詩に映し出される事物や景物の多くは存在それ自体の現実性が表現され、あくまでも叙事詩的である。
 そこで菅原道真の敗北の意味するものを見ておきたい。
 道真の敗北には、彼が最も得意とする「漢詩」的合理主義があったのではないか。それは言葉を換えるなら、教養主義の敗北のようにも見える。
 道真は、つねに合理的道徳性を政治に求めた。しかしその一方で、道真を左遷し政治的に追放した側には、合理性に対する厭離が見て取れる。つまりは情の勝る「ミウチ」意識、「ウチワ」意識、物事への「忖度」が、政治の多くを占めていたのだ。
 ただし、そうした親密な意識には、一方で後ろめたさを生む要因にもなる。〝祟り〟という恐怖には、合理性が身に纏っている正しさを、非合理的なやり方で毀損した後ろめたさがあると言っていい。
 菅原道真の左遷からその死を通じて、歴史的な目で見ていくと、「平安」という時代が、中国文明の合理主義的な教養主義の正義性を喪失し、情緒的で親密的な閉域、もっと安逸な貴族社会における「ミウチ」主義や「ウチワ」意識に傾斜していった時代だった見ることができる。
 そもそも貴族政治とは、「ミカド」とその取り巻き親族らが権力と富を分かち合っていた時代であった。叙位と除目、一族内の調和と祭祀、そして荘園の分配以外、たいした政治力を必要としなかったこの時代は、地方の貧困やその現状を、無視しつづけた時代でもあった。たしかに、中央貴族や皇族の住む閉域世界では、柔和で保温が効いていて、美しい幻想に身をゆだねていればよかった。
 しかし一方で、現実に眼を向け、治世者として周囲を見渡してみると、それはあまりにも荒涼たる景色であったはずである。そうでありながら、現実を見るものは、貴族や皇族にとって破壊者であり、恐怖をもたらす者でしかない。
 しかし、いつしか恐怖は肥大する。これまでの安逸は、いつか巨大な跳ね返りになって、大きな厄災をもたらすかもしれない。安逸の世界の閉域にいればいるだけ、その怖れは募ってくる。菅原道真の怨霊への怖れは、じつにそのあたりに宿されたものであったのだろう。
 そして、それはそんなに遠くない時代に、大地震と飢饉、それに武力でのし上がってきた武士の台頭というかたちで現出した。
 
 漢詩がもたらした合理的教養主義は、日本社会に大きな影響を与えたものであったことはまちがいない。でありながら、その一方で、合理性と合理主義のもたらす正当性は、なかなか根付かなかったことも事実であるように思う。日本の歴史をたどっていくと、いつの時代もいつのまにか「気配」や「情緒」が勝り、「思想」や「精神」が厭われていった。もちろん、隠者や世捨て人の「思想」や「精神」は残ったと言えるかもしれないが・・・。
 非業の死を遂げた菅原道真の〝祟り〟とは、安逸に流れている社会への警鐘であったことはまちがいない。それとともに思うのは、いまの日本の社会にあっても、警鐘であり続けるものと考えていいのかもしれない。


          

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『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第一部>[再録]

2020-09-10 15:21:29 | 〝哲学〟茶論
菅原道真の〝祟り〟~清涼殿に神火落つ!~

   <『北野天神縁起絵巻』>     
 延長八(930年)の年は、春から夏にかけて京中で疫病がひどく流行した年であった。
 前年の大風洪水の被害は、これもまた目も当てられないくらい過酷なものであったが、この年は雨はほとんど降らず、激しい旱魃がうち続き、その被害は、田んぼが枯れるなどという程度ではなく、牛や馬がつぎつぎに痩せ衰え、人びとはその死にかかった牛馬の生き血にすら一時の渇きを満たすため群がるほど陰惨を極めていた。
 文字通りの天変地異の猛威が、ぱっくりと口を開いて人びとを不安の谷底に吸引する。
 六月二十六日午三刻(午後1時ころ)・・・俄に雷声大いに鳴り、清涼殿の坤(西南)第一柱の上に堕ち、霹雷の神火あり・・・(『日本紀略』)。
 公卿らが旱魃対策を協議していた最中、とてつもない雷火が突如とし清涼殿に落烈した。
・・・殿上に侍るの者、大納言正三位兼民部卿藤原朝臣清貫、衣焼け胸裂け夭亡す。(略)また従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼けて臥す・・・。紫宸殿に登る者、右兵衛佐美努忠包、髪焼け死亡す。紀蔭連、腹燔て悶乱す。安曇宗仁、膝焼けて臥す・・・。(前掲)
 神聖であるべき清涼殿が一挙に〝ケガレ〟の修羅場と化した。
 この突然の災厄に、もっとも畏れおののいたのは醍醐天皇その人にほかならなかった。恐怖と畏れの激しい衝撃のなかで醍醐天皇は、翌日から病の床に伏す。病はいっこうに回復する兆しはない。瘧りと震え、ミカドは日に日に衰弱していった。
 そして、霹雷三ヶ月後の九月二十二日、醍醐のミカドは、慌ただしく八歳の寛明親王に譲位(のちの朱雀天皇)するやいなか、意識混濁のまま、同二十九日に先を何者かにせかされるようにして没した。享年四十六歳。こうして世に聞こえた「延喜親政」は、あっけない幕切れを迎える。
 なぜこの惨事はおこったのか? 殿上人から地下人に至るまで、人びとはこれこそ「菅公」の〝祟り〟だと口々に噂をした。そして、そう語るつぎから、語る者の唇は青ざめていき、小刻みに体を震わせるや激しい恐怖に絡め取られた。

 菅原道真が突然に大宰権帥に左遷されたのは、昌泰四年(901年*7月に延喜改元)正月の二十五日であった。
  ・・・諸陣警固し、帝(醍醐天皇)南殿(紫宸殿)に御したまひ、右大臣従二位菅原朝臣を以て大宰権に任じ・・・又、権帥の子息(高視、景行、兼茂、淳茂)等、各々以て佐降・・・(前掲)。
 この処断はまさに異常であった。権帥とは、大宰府の長官ではなく、その職に擬する位であり、さらに従二位から従三位への降位は、いまどきの会社人事などによくある、不祥事の結果、各部署や管理職の「心得」、例をあげるなら「人事部付」といった閑職に追いやられた状態を意味する。
 では、なぜ道真は左遷されたのか? 
 道真左遷の理由について出された宣命には、「右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収り給へり。而るに止足の分を知らず、専権の心あり。佞謟(ねいてん)の情を以て前上皇(宇多上皇*このときは出家していて法皇)の御意を欺き惑はせり」とあり、そして「然るを、上皇の御情を恐れ慎まで奉行し、御情を敢て恕る(あえておもいやる)無くて、廃立を行なひ(道真女が妃となっている斉世親王のことを指すか?)、父子の志を離間し、兄弟の愛を淑破せんと欲す・・・」(『政事要略』)と述べられている。
 しかし、この宣命はなにひとつ具体的な過失については触れられてはいない。犯罪でいえば状況証拠でしかない。そもそも宣命にあるように、低い身分にあるものが出世したから、それ自体が「専権」だとする論理は、低身分の者を登用した側の責任を問っていない以上、あきらかに「言い掛かり」としか言いようがない内容である。
 後段に付け加えられた宇多上皇の〝御情〟を無視し、〝廃立〟を企てたというのも、ふつうはそのために呪いをかけるといった事実がくっつくものだが、それもない。この宣命は、忠義を尽くしてきた道真にとってとうてい受け入れがたいものだったにちがいない。
 左大臣藤原時平とその取り巻きによる陰謀。過日、歴史家がそう判断したのはおおよそ間違いではない。

〝祟り〟の猛威とは?~藤原時平と道真~

 道真左遷後、道真が擁立をはかったとされる道真女婿の斉世(ときよ)親王は、出家することになる。
 一方で、延喜三年(903年)二月に道真が流謫地大宰府で病歿すると、道真配流に荷担した藤原定国、菅根が相ついで亡くなる。さらに延喜九年四月には謀略の首謀者たる左大臣藤原時平が急逝する。世の人びとは、このあたりから菅公の〝祟り〟の存在をだれも疑わなくなっていった。
 鎌倉時代に描かれた『北野天神縁起絵巻』によれば、時平が瀕死のとき、道真の怨霊は蛇に化身し時平の耳坑から蛇体をくねらせて時平を苦しめたとある。                
 そして、延喜十三年(913年)三月には時平とともに謀議をはかった源光が、狩猟中に乗馬していた馬もろとも泥濘に足を取られて、あっという間に飲み込まれるという怪事件がおこる。光の死体は、その後沼をいくら浚っても、見つかることがなかった。
 さらにその10年後の延喜二十三年。かつて時平が強引に立太子させた保明親王(母は時平妹穏子)が二十一歳で早逝する。また保明親王と時平の女(むすめ)の間に生まれた慶頼王も延長三年(925年)に五歳で急死を遂げる。それからというもの、時平の子孫は二男顕忠のほか、つぎつぎにみな若死するという無残なありさまとなるのである。
 菅公の〝祟り〟の猛威は、廟議に座す公卿にとって、天変地異が招く災殃への恐れなどというものどころか、それ以上に、いつ己の命が消えてしまうか恐怖の絶望の縁まで追いつめていく。そのため菅原道真を左遷に追い込んだ藤原時平といかに自分が無関係であったかを、家に閉じこもり神仏にひたすら誓う日々をすごした公卿も多かった。
 院政期の歴史物である『大鏡』には、「(時平に連なる貴人は)皆三十余り、四十に過ぎたまはず。その故は、他の事にあらず。この北野の御歎きになむあるべき」と時平とそれに連なった公卿は、まさに道真の怨霊で長生きできなかったという運命を、一見簡潔に、だが、故になにかがあったことを強く暗示させるようにして記してある。
 道真左遷後、にわかの病に倒れた醍醐天皇は、病のなかにあって延喜二十三年、道真左遷の過誤を認め道真への復官贈位をはかり左遷宣命も焼き捨てた。しかし、怨霊の脅威の前では、そんなものは、まさに焼け石に水とでも言うべきか。道真の「宿忿」はおさまるべくもなく、先ほど述べたように、累々と死者の数だけ加えていく始末だった。
 そして、その怨霊の恐怖は、関東までにも飛び火することになる。
 承平・天慶年間の平将門反乱の猛威(935~40年)である。平将門は、鬼神のようにつぎつぎと国衙を侵し、国司を絡め取り追放し、関東に一大勢力を築いていった。
 その連戦連勝のさまは、菅原道真の憤怒の荒ぶる魂が将門に取り憑いたためだとされた。将門は「菅原朝臣霊位」の旗印を掲げ、「新皇」と称して関東での覇権を握った。
 なぜにかくまで、菅原道真の霊魂は祟ったのか。そして、菅原道真の経歴とは? すこし歴史をさかのぼる。

 菅原道真は承和十二年(845年)六月、参議菅原是善、母伴氏の三男に生まれた。幼いころから詩歌に才を見せ、十八歳ではやばやと文章生(もんじようせい)となる秀才であったという。
 もとより菅原氏は紀伝道を家学として、祖父菅原清公は大学頭兼文章博士に任ぜられ天子の侍読(じとう)も務めた大学者であったが、道真は一族のなかとりわけ優秀で、その五年後には文章生から二人しか選ばれない文章得業生に選ばれ、さらに難関とされる「方略試」(官吏登用試験)に合格、規定によれば三階位昇進のところを、あまりに早い昇進のため、一階位をさげ正六位上となり留め置かれた。その後、二十九歳にして藤原氏門閥以外では異例の従五位下に上り、元慶元年(877年)には三十三歳にして式部少輔兼文章博士へと累進していった。
 だが仁和二年(886年)正月、道真は四十二歳にして一転、讃岐守に任じられる。この人事は、当時の顕官であった太政大臣藤原基経と親交があり、基経のために五十算賀の屏風絵に詩を献進したばかりの道真にとってあきらかな左遷人事であった。原因はわかっていない。
 道真は「分憂は祖業にあらず」と、「分憂」とは国司職のことだが、それは学問を家学とする家には相応しくないと書き残している。しかしこの讃岐時代の道真は、のちほども触れるが、切々たる漢詩文「寒早十首」を百四十首余り詠むなど、彼の生涯でもっとも多くの詩を残している時期でもある。
 道真にとって、地方への左遷は、都邑ばかりしか目に映ることのない凡俗な貴族と一線を画す意味でも大きかった。
 これはある意味で、『万葉集』を編んだ大伴家持が、越中守時代にもっとも多くの和歌を詠んだことと同じく、この地方補任が道真に地方の風土の美しさ、その一方で農民をはじめとするそこで生活する人びとの厳しい現実などをいやがうえにも感得せしめることとなった。その一方で、都を離れ都を遠望せざるを得ないことで、激しく詩興を掻き立てさせることになったのも事実だろう。
 その道真讃岐在任中、藤原基経が差配する都では、大きな政治問題が発生していた。

 藤原氏の専横とは?
 
 ここですこし、この当時の政治状況をみておきたい。
 いうまでもなく菅原道真の時代とは、藤原北家の権力全盛期と重なる。そもそも藤原氏は藤原不比等の子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂四人によって南・北・式・京の四家に別立していた。そのなかで八世紀を通じて有力だったのは式家だったが、大同五年(810年)の「薬子の変」を契機に藤原北家が台頭する。
 「薬子の変」とは、平城太上天皇の重祚を狙う式家の仲成と薬子が嵯峨天皇の退位を謀ったという事件で、それを嵯峨天皇の側近であった北家の藤原冬嗣が防ぎ、その結果、薬子は毒をあおいで命を絶ち、仲成は東国に逃れて再起を期したが失敗し、捕縛後、射殺されたという事件である。
 事件後、事件解決の功労者、蔵人頭となった藤原冬嗣は、嵯峨天皇の下、廟堂で大きな位置を占めることになる。蔵人頭とは天皇の側近に近侍し、機密文書の取り扱いと上奏を一手に引き受ける、いわば側近中の側近、今風に喩えるなら官房長官といった役回りである。それを起点にして藤原北家はその後、強大な勢力を持つ。
 その冬嗣の息子が良房であった。良房は、嵯峨天皇没後すぐに権力者であり「檀林皇后」とも称された橘嘉智子に接近し、自流の権力を強化するため、まずときの仁明天皇に妹の順子を入内させた。
 そして順子の産んだ道康親王を得ると、このときすでに立太子していた恒貞親王(嵯峨天皇の弟淳和天皇の子)を廃太子し、その道康親王の立太子をはかった。
 良房は、恒貞側に陰謀があったことを捏造して橘嘉智子に密告。そこで恒貞親王側近である伴健岑や橘逸勢に嫌疑をかけ、隠岐や伊豆に配流するのである。これを承和の変(承和9年842年)と言う。
 この事件で配流された橘逸勢は、嵯峨天皇、空海と並ぶ「三筆」の一人であったが、良房の陰謀に激怒し配流途中の遠江で憤死した。
 これが一つの契機になった。以降、京で流行病が猖獗を極めたり、飢饉で餓死者が発生するなどすると、それら政治的敗者が魂魄となって疫病や天変地異をもたらすとの〝祟り〟の思想が人びとの心をとらえていく。そもそも盆地である京は狭い空間であり、人口が密になる。そのため、容易に感染病が蔓延した。しかし、それは〝ケガレ〟と見做され、〝ケガレ〟とは〝祟り〟によるとされたのである。
 とりわけ憤死をとげた〝怨霊〟の祟りを恐れる貴人らは、貞観五年(863年)、ほかに政治的に非業の死を遂げた早良親王(桓武天皇皇太弟*大伴家持らが桓武天皇の側近藤原種継を射殺して、早良親王を皇位に就けようとした事件。しかし、家持自身は事件の前に没していて、死後20日に大伴継人らが実行)や伊予親王(桓武天皇の子で藤原仲成の陰謀で自殺に追い込まれた皇子)らとともに六人の怨霊(人物は不定)を祀り、京都の神泉苑で御霊会を行った。これが後に祇園祭へと発展していくことになった。
 ただし、こうしたなかでも藤原北家の権力強化の手は緩むことがなかった。良房は道康親王を文徳天皇として即位させ、自ら太政大臣という極官に就く。そしてつぎに、この文徳天皇に女(むすめ)の明子を入内させ、明子の産んだ惟仁親王を生後八ヶ月で立太子させる。
 文徳天皇は紀名虎女静子との間の子である第一子惟喬親王の即位を望んでいたとされているが、良房はそれを無視して惟仁親王を九歳で即位させ、これが清和天皇となる。良房はこの清和擁立を機に人臣では初めての摂政に就任することになる。
 その後も応天門の火災を契機に、放火したとして伴善男や仲庸、それに清廉な良吏として知られる紀夏井などを配流せしめ(「応天門の変」貞観八年866年)、その権力を万全なものにした。

 その良房の養子となったのが基経である。基経は良房の兄の長良の子なのだが、良房に男子が無く、それで養子となったとされる。基経は、養父良房同様に天皇との外戚の形成をはかろうとする。妹の高子を清和天皇に入内させ、その間に貞明親王を得ると、貞明は九歳で即位し陽成天皇とされた。
 だがこの皇后の高子には、後世、数々の醜聞が残されている。基経にとって高子は大切な「后がね」だった。その高子を色好みの在原業平がさらおうとして、逆に基経らに奪い返された話(『伊勢物語』「芥川」)、それに五十歳過ぎても高子は若々しかったのか、善祐という東光寺の坊さんと密通したとして皇太后の地位を剥奪されたという話などがある。その醜聞が真実なのかどうかは定かではない。
 たとえ真実であろうとなかろうと、こうしたスキャンダルの発生は、当時の基経の権勢への不満が充満していた様相を知らせてくれるものだとも言える。
 いずれにせよ高子は、八歳も年下の清和天皇に入内し陽成天皇を生んだ。しかし、この息子である陽成天皇は数々の乱行を重ねた。片っ端から小動物を殺したり、乳母子の源益を格殺したり、手のつけられない状態であったらしい。そのときの基経は摂政であったが、太政官に直接かかわる太政大臣の補任は断っている。そして摂政も陽成が十五歳で元服したおりに返上し、陽成天皇がすべて親裁するようにと奏請して、自宅である堀河第にひきこもってしまう。
 結果として政務は滞る。ついに役人が基経の邸宅まで出向いていって庶務を行うという事態となったのだが、これは明らかに不行跡を重ねる陽成への威嚇であったろう。
 ところが、陽成が源益の殺害をおこなった時点で、基経は急遽参内する。そしてすぐさま陽成の廃嫡を断行し、そのうえで摂関家との血縁の濃い「ミウチ」からではなく、従兄にあたるとはいえ縁の薄い五十五歳になった時康親王を光孝天皇として擁立する。
 時康擁立の背景には、権勢をもつ基経に多くの皇族が綺羅に身を包み、基経に気に入られるようにふるまうなか、時康だけは地味で目立たず落ち着いた対応をしたという。それで基経の目にとまり擁立されたともされている。しかし、むしろここは陽成時代の政道の過ちを糺そうとするには、清廉な人柄が要請されたとみるべきで、基経は当初、承和の変で廃嫡になった恒貞親王を擁立しようともされていて、そこに政治権力者としての基経の政治勘があったのかもしれない。

「阿衡(あこう)事件」と菅原道真
 
 光孝天皇擁立後、基経は菅原道真ら八人の博士に太政大臣の職掌について勘奏させている。『三代実録』によると、その職掌は官庁に座して「万政を領(す)べ行い、入りては朕が躬(み)を輔(たす)け、出でては百官を総(す)ぶべし」とされ、関白という文言はないものの、太政官を統括し天皇に裁可を仰ぐ、天皇の輔弼の任として意識された職掌というイメージであろう。
 しかし、そうした職掌への意識は、光孝ののち即位した宇多天皇には無かったかもしれない。これが基経と宇多天皇の間におきる「阿衡の紛議」の原因の一つだった。
 宇多天皇は、光孝天皇の第七子であり、皇位継承からは遠く、源定省(さだみ)とされ臣籍降下(皇族ではない)されていた。当時二十一歳。定省擁立については、基経の妹で、尚侍(ないしのすけ)として宮中で実権をもつ藤原淑子の説得があったといわれるが、宇多擁立について基経の尽力は少なくなかった。
 しかし、事件はおこってしまう。宇多天皇は、基経に政治を後見してほしいということで太政大臣の就任を要請したのだが、その太政大臣の意味を「摂政」のそれとして要請した。基経はすでに成人である宇多にそれは必要ではないとして、むしろ自分の職掌は「関白」の別称でもある唐名の「博陸」と考えていた。そこに両者の食い違いがあった。
 加えて天皇の意を受けた起草者橘広相は唐の名誉の高い宰相の意味を加えようとして、その任に「阿衡」と記したことで事態は紛糾する。「阿衡」という言葉には、取りようによっては位は高いが実権が伴わないという意味も含まれていた。この両者の齟齬と「阿衡」という職称への不満、いやそれだけではなく宇多親政への不満もあったろう、基経はほぼ一年近く出仕しなくなる。
 この事態に菅原道真は動いた。ときに讃岐守だった道真は、任の途中にもかかわらず急遽上洛する。そして基経に「昭宣公に奉る書」(『政事要略』)を送った。
 内容は果断直截で「大府(基経)先づ施仁の命を出し、諸卿早く断罪の宣を停めよ」と文人官僚としての自らの信念を叙述し、小異にこだわって大局を見失うなうのは最高権力者の行いではないと、理詰めで強く諫める内容となっている。
 道真のとった行動はいかにも異例というべきものであった。基経という最高権力者に対し一地方の国司に過ぎない者が「もの申す」というわけで、いくら近侍していたとはいえ、ひとつ間違えば貴族社会からの完全追放もありえた行動だった。
 道真には思い込んだらそれを実行してしまわなければ気が済まないといった、学者特有の一徹な性格があったかもしれない。いくらそれが正しもの、正義であっても、相手によっては通用しない場合が多い。のちに道真が藤原氏の計略によって左遷される背景には、そうした正義を真っ直ぐに信じて止まない性格があったのかもしれない。だとすれば、左遷の背景は、すでにここに胚胎していたと見ていい。
 だが、このときは基経に裁量の広さがあった。基経自身も、どこが落とし処か探っていたのかもしれない。基経は道真の必死ともいうべき諫言に心を動かされた。それとともに宇多天皇側からも和解をはかる動きがあった。天皇自ら「勅書の非を詫び」、基経女温子が宇多天皇に入内することで決着がはかられようとした。
 道真の行動は、結果として宇多の窮地を救ったことになった。菅原道真への宇多天皇の信頼は、このときから急速に高まっていったのは言うまでもない。

 宇多天皇の嘉賞と菅原道真の配流

 菅原道真が四年あまりの讃岐守の任期を終えて帰洛したのは寛平二年(890年)の春であった。
 その翌年の正月に藤原基経は五十六歳で没する。宇多はすぐさま人事の刷新に着手した。基経という重石がとれた開放感が宇多天皇にはみなぎっていた。
 そもそも宇多は、父である光孝が傍流にもかかわらず皇位に就き、さらに彼自身も臣籍降下の身ながら皇位に登った事情があり、つねに傍流意識に鬱々としていた。権力を握った人物にとって、過去にあった負い目はなんとか消したい。宇多は、「帝」(ミカド)としての立ち位置を、自らの血統の正統性のなかに確定したい欲求が強くあった。
 そのためには長らく実施されていなかった遣唐使の派遣こそが、「ミカド」としての正統性を誇示するものだと判断した。
 言うまでもないが、遣唐使を送った天皇として名高いのは嵯峨天皇である。嵯峨は遣唐使のもたらした唐風文化によって、法制を整備し、紀伝道や漢詩文などの学問を奨励して「文章経国」(もんじょうけいこく)の国づくりを行った。宇多は嵯峨の政道の継承者であることを意識し、それとともに学問を重んじ「孝敬の道」を尽くした祖父の仁明天皇の「承和の故事」への回帰をはかろうとした。
 文芸と学問の復興、そのための遣唐使。そしてそのための人材登用。宇多天皇の眼には、漢学の学識、法制・文化の理解に優れ、善政施行にもっとも相応しい官僚として菅原道真が映ってくるのは、至極当然のことであった。
 道真は、基経没後二ヶ月、はやばやと宇多天皇によって蔵人頭に抜擢された。もちろん均衡を保つ意味で基経の子の藤原時平も参議として廟堂に加わっているが、ほんらい学問の家の出身では、せいぜい式部省の上級官僚が精一杯の家格である菅原氏、それにこの抜擢はかなり異例な人事だと、公卿のだれもが思ったにちがいない。
 一方でこの人事は、藤原氏に十分すぎるほど危機感を与えた。藤原氏の氏長者となった藤原時平は、まずはそつなく道真の長男である高視に高価な贈答品を贈りつける。さらに公卿に列し衣袍禁色(いほうきんじき)が許された道真には、きらびやかな玉帯を贈るなどして、台頭してきた道真の取り込みをはかった。 
 そうしたなかでの寛平九年(897年)七月、宇多天皇は退位を表明し、十二歳だった敦仁親王を醍醐天皇に即位させるとした。そしてその一ヶ月前、宇多は藤原時平を大納言とすると同時に菅原道真も権大納言に就任させる人事をおこなった。そして、そのうえで宇多太上天皇は、醍醐天皇に『寛平御遺誡(ごゆかい)』を送って、政道についてさまざまな注意を授ける。

 『寛平御遺誡』の落とし穴

 ただし、この『御遺誡』は他の公卿から猛烈な反発を招くことになった。というのも『御遺誡』には、時平と道真の二人に「一日万機の政、奏すべく請ふべき事」として政治を任せる旨が盛り込まれていたからである。この両者以外のあとの公卿は不要だということか? 
 このためこの文言に不満を抱いた公卿が出仕を拒む事態が発生した。それはすぐに政務停滞を招く。そこで事態を重く見た道真は、なんとか宇多太上天皇に奏請して、太政官制の重要さを説き、事態の収束をはかったのだが、この『御遺誡』はほかにも、物議をかもした。
 時平は功臣の子孫であり、政治に詳しい。先頃女のことで失敗があったが、朕はそれを心に留めずに務めさせた。だから、敦仁親王も顧問役として補導を仰ぐようにせよとあったり、その一方で道真については、事細かに書かれ、敦仁を皇太子に立てる際もただ道真と相談し、また譲位のときも道真に密々にはかった。しかし、道真は「直言を吐き、朕の言に順は」なかったが、この譲位の噂が流れてしまうと、一転して「時期を過たぬ」ようにと忠言をなし、事態を進めた。だから道真こそが「鴻儒」であり「深く政事を知る」者であり、「朕、選んで博士と為し、多く諫声を受け、仍て不次に登用し」てきたと述べ、むしろ「菅原朝臣は、朕の忠臣に非ず、新君の功臣」と称すべきだと醍醐天皇に諭している。
 これはミカドとしては控えるべき文言だった。
 たしかに、『御遺誡』は、宇多がどれほど道真を信頼しているかをこの醍醐に伝えるための書と言えるかもしれないが、道真と相比べるようにして、時平が女のことで失敗したなどと子に伝える必要はない。あきらかに無用な一言である。
 『御遺誡』に示された宇多太上天皇の道真への過剰な信頼は、むしろ道真自身の立場をかなり不安定な状況にしている。どう見ても贔屓の引き倒しにしか見えない。
 言い換えれば、たしかに道真は宇多との個人的な関係でのみ出世したのであって、公卿らの後押しがあったわけではない。宇多のみに依存する道真の地位。不安の極みである。
 したがって道真は出世する度に再三にわたって、辞表を奉った。とくに昌泰二年(899年)二月、当時十五歳の醍醐天皇は宇多太上天皇の意向をうけ、二十九歳の時平を左大臣に、五十五歳の道真を右大臣に任じたが、この昇進は学者出身としては破格のものであり、道真は「臣の地は貴種に非ず、家これ儒林」としてこの昇進を拒んでいる。
 さらに言葉をつなげて「人心すでに縦容せず、鬼瞰必ず睚眦(がいさい)を加へん」「臣自らその過差を知る、人孰(いずれ)れか彼の盈溢を恕(ゆる)さん」(『菅家文草』)と真情を吐露し、まさにこうした昇進は自らと道真の一門家族にも危険であることを鋭く予見している。
 ただし、道真はその危険をただ座視していたわけではない。それなりの手は尽くした。まず道真は長女の衍子を宇多天皇の女御に入内させ、さらに衍子妹の寧子は、醍醐天皇から宮廷では大きな権力をもつ典侍(そのあと尚侍)に任じられるようにはかった。さらに宇多太上天皇と橘広相女義子との間に生まれた斉世親王の室として女子(氏名不詳)を入れるなど閨閥の形成は藤原氏なみにはかっている。
 それ以上に道真にとって心強かったのは、大学寮などでの教授、のちには学塾として左京五条洞院に「菅家廊下」を創建し、そこで多くの有為な官僚を輩出していることだった。道真の五十歳の祝いの席には多数の門下生が駆けつけたし、当時官庁で実務をとっていた門下生は、だいたい百人くらいであったろう。これらは強い人脈として道真を支えた。
 しかし、危機はそれだけでは解消しなかった。ついに左遷という事態になる。左遷の呼び水となったのは、三善清行が道真左遷の二ヶ月前、つまり昌泰三年(900年)十月に道真に送った書簡、いや勧告文からであった。

 三善清行のコンプレックス?
  
 菅原道真と三善清行の角逐は、その根をたどるとなにやら因縁めく。
 ことは、道真が「方略試」の問答博士を務めた際に生じた。受験生の三善清行を推挙した巨勢文雄の推薦状に「清行の才名、時輩を超越す」とあったのを、道真は清行の人物の低さを懲して、「超越」の文字を「愚魯」の字に改めさせて嘲笑したという。
 これは院政期に大学者と称された大江匡房の『江談抄』にある話で、真偽のほどは定かではない。
 三善清行は道真の二歳年下あった。清行の父氏吉はかつての承和の変に連坐したため不遇を囲い、その父の死を目の当たりにしたことで、父の死後清行は奮起して二十七歳でようやく文章生、翌年に文章得業生となり、三十五歳でやっと「方略試」までたどりついたという苦労人でもあった。
 それがため清行は、そうした劣等感を発条(バネ)に上昇志向を募らせ、傍目でも息苦しいほど立身出世に執念を燃やしていた。それに対して菅原道真は秀才であり、順風満帆な学問の世界に住し、学者の地位を手に入れている。年齢的に二歳しか違わない二人。清行にとって道真は、「親の敵」「目の前の敵」以外の何者でもなかったろう。
 そんな清行の背景に道真はおそらく無頓着であった。道真は清行を「不第」、つまりは不合格にしてしまう。
 「方略試」で道真は清行に二題の「策問」を出している。一題目は「文を成し格を結ぶ」。いわば作文の格調を問うというものであった。二題目は天文や暦数・卜占などの方技は「民に施し政に用ゐる」際に長所短所があるが、それをどう考えるかである。いわば政治哲学の作問であった。残念ながら清行がどう答えたかの資料は現存していない。おそらく長い間受験勉強のため努力を重ねてきた清行にとって、これらの策問はお手のものだっただろう。
 受験勉強とは、結局は出題者が喜ぶ解答を導ければいい。内容は二の次である。形式と論理的段取りがしっかりしていればいい。
 余談になるが、戦時中の中学校受験では、口頭試問の際、「日本に生まれてきた幸せは何か?」と聞かれることが多かったらしい。いまに思えば解答には幾通りもあって、そのどれを答えたらいいか。自然が豊かである。日本人の人情が素晴らしい。列強に伍して強国である。どうにでも答えられる。
 しかし、答えはひとつしかない。それは「天皇陛下が居られる国」なのだ。個人の思いなどはどうでもいいし、理論的に考える必要などない。とりわけ受験エリートとされる受験生は、ひたすら模範解答を求める。自身の思想や感情などは忖度しない。
 受験勉強に明け暮れていた刻苦勉励型の三善清行の解答は、おそらくそうした内容に近いものではなかったか。それは二流の秀才のすることである。
 後年、清行は「菅右相府に奉る書」のなかで、それらは「掌を指すが如し」であったと自負しているが、おそらく道真はそういった清行を好まなかった。清行は二流の秀才にありがちな問題処理能力は高いものの、物事に対して自身の真摯さを傾ける精神性になにか欠けたところがあると道真は思ったにちがいない。道真には、清行のそれを〝濁り〟に見えた。
 落第の結果は、清行に不満と忿怒をもたらした。それはいつしか道真の耳にも入ってきた。
 道真は「博士難」に「今年(試験のあった元慶5年)、挙牒を修せしとき、取捨甚だ分明なるに、才無く先に捨る者、讒口して虚名を訴ふ。教授に我れ失無し、選挙に我れ平有り・・・」(『菅家文草』)と書き記し、きちんと講義もやっているし試験にも依怙贔屓などしていない。だけど悪口を言い募る者がいると記している。
 清行はその二年後、やっと「方略試」に合格して、そして待望の文章博士になる。しかし、いつまでも確執は消えなかった。その後も、清行の詩を評価しない道真に抗議を行ったり、この両者はしばしば対立する。結果、昌泰三年に清行は道真に攻撃の文を送りつける。コンプレックスから生じた執拗さは、もつれにもつれる。

 道真弾劾文とは?

 では、清行が送った勧告文の中味には何が書かれていたか。
 内容の一つ目は、明年の昌泰四年(901年*七月に延喜に改元)は辛酉の年であり変革がおこる年回りである。とくに二月の建卯には兵乱がおこるとみられ、その凶禍は誰を襲うかわからない。つぎに儒学者から右大臣まで登った者は奈良時代の吉備真備以外いない。だから道真にこそその凶禍が襲うかもしれないので、「止足、栄分」をわきまえ隠居してはどうかというものであった。
 これは言い掛かりといえば言い掛かりである。道真が清行に職を辞せと言われる筋合いはない。
 実際、道真はなんども右大臣を辞したいといっているわけだし、わざわざここで清行が引退勧告を促す必要はない。だがこの清行の文は、道真左遷の宣命ときわめて近い文言となっている。このとき清行は、藤原時平にも書簡を送り、道真を「悪逆の主」と断じ、さらに朝廷にも『革命勘文』を奉じている。このなかで清行は辛酉の年は革命の年であるので改元すべきだと主張するとともに、それは奈良時代に称徳天皇が「逆臣藤原仲麻呂」を誅伐して「天平神護」と改元したのと同様であると、あたかも菅原道真がいまの朝廷の「逆臣」であるかのように記している。
 しかし、この清行の弾劾文は大きな効果をもたらした。弾劾文が時平の手元につくや、瞬く間に審判は下り、道真は正月二十五日にいきなり大宰権帥に左遷となるのである。
 醍醐天皇は、道真が斉世親王を擁立するという謀叛を企てているとする時平らの使嗾に事を決断したとされる。
 そのとき宇多太上天皇は、高野山や竹生島で仏門に帰依して法皇となる準備をしていた最中であった。この間隙を時平や清行は狙った。
 あわてた宇多は、道真配流の報にとるものもとりあえず駆けつけたが、道真の盟友だったはずの紀長谷雄らにも行くへを阻まれ、道真の助命はあえなく頓挫する。宇多は翌日も陣外で夜通し抗議したとされているが、それもかなわず道真は配流されたのである。(つづく)

 <大宰府に流謫された道真 前掲>       
 

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そもそも政治とは? 『論語』には何が書かれているのか。中島敦『弟子』を読む!

2020-09-04 12:37:49 | 〝哲学〟茶論
 熱暑がいまだ続き、そしてまたまた大型台風の襲来。
 そんな騒ぎのあいまに、持病の悪化だという理由で、首相の突然の辞任があり、それに被さるように、〝かわいそう〟〝よくやってくれた〟といった、どこにも理性的な根拠など見いだせない、砂糖蜜がたっぷりかかった上っ調子の情緒という同情がネットでは飛び交うさまがあって、人はなぜ、こんなときはかったように〝いい人ぶる〟のかなと。いい人ぶる狡猾さは、無自覚ときているから始末におえないのだけども・・・。
 そして、辞任後の政界は、〝森・加計・サクラ〟に〝河井〟の腐臭を消すことに躍起で、「暗黒政治」のような隠蔽工作の勝った〝談合〟政治が〝粛々と〟おこなわれ、〝地味〟が売り物という、しんねりとした顔つきのした宰相が登場しそうな勢いです。
 いっぽう、コロナ感染接触アプリ「ココア」のひろがりもあるのか、「コロナウイルス禍」の波が、身近にも寄せてきている感じがしてならないここ数日、そしてコロナ禍の対策はもう尽きた感のある倦怠感のなか、そんなさまざまな灰色がかった騒動を横目で見ながら、わたしは、その間、思いかえしたようにずっと中島敦の小説を読み続けていました。                 
 なぜ中島敦か。
 よく知られているように中島敦は34歳で夭折した小説家。彼が小説を書き続けていた時代とは、ちょうどカツカツと鳴らす居丈高な軍靴の音が街中に響き渡っていた1930年代から対英米戦の戦時下の時代でした。
 いわば「暗い時代」。そして、1942年(昭和17年)12月、重い喘息のために、中島敦は短い生涯を遂げます。
 ですからその短い生涯を考えると、そんなに知られた作家であるはずはないのに、にもかかわらず、中島敦は比較的多くの人びとに膾炙した作家と言えるように思います。
 その理由は、おそらく戦後の多くの高校の国語教科書などに、彼の『山月記』や『李陵』といった作品が掲載されていて、それがおしなべて退屈である国語教科書のなかで、あたかも雪舟の『秋冬山水図』のように、凜とした風采を醸しだし、じつに厳しく周囲に屹立した印象を与えてくれているからだと思います。
 言葉を換えると、中島敦の小説は、定期試験だの受験勉強でいくら点数を取るかなどといったありきたりの〝狡知〟な俗っぽさを一瞬にして叩きのめすばかりか、その特異な小説世界は異次元に吸引されたような感覚を与え、それと同時に、漢文調の格調高い整った文体が、シャンと背筋が伸びるような「精神」の清冽さを、弥が上にも感じさせてくれるものであるからでしょう。
 それが、聖俗の狭間に揺れている青春期を迎えた多くの若者に、深くどこまでも、中島敦を記憶させている。
            
 そして、そのありようは、魯迅の小説を読むときにも感じさせてくれるものでもあるようです。
 ただし、それは両者に、中国を舞台にする小説があるといったことなどではなく、もっと深くも高くもある意味で、この二人の作家には、一本の「紐帯」があたかも存在しているかのようなのです。
     <魯迅>

 この文学者たちには、格調高い文体も含めて、凜とした「精神」への真摯な問いかけが鮮烈に屹立している印象があります。
 しかもそれが歴史のなかで、「超時代的な文学」として大河のように流れている。それがこの二人の文学者を貫く「紐帯」のように感じられる。あえていえば、孤高である美しさと言ってもいいのかもしれません。
 人はつねに日常の凡悪に囲まれているという憂いを抱いているように思います。その凡悪のケガレから逃れたい。青く澄明な世界に住みたい。
 ですから、世間の不正に倦んだとき、あるいは怠惰に流れるとき、そして意に染まぬことに嫌悪を感じるとき、どうしても高く澄んだ蒼穹を追い求める自分自身を見いだすことがあります。そんなとき、中島敦と魯迅のいずれかの一書を手にしている。
 わたし自身が、中島敦と魯迅を読みたいと思うのは、畢竟そんな心境のときのようです。

 ところで、中島敦の小説群には、まだまだ読まれていない多くの多様な作品があります。
 中島敦は、子ども時代から少年期を、植民地であった朝鮮半島や日露戦争後の租借地であった中国の大連で過ごしています。そして対英米戦争の戦時下に、当時日本の委任統治領だったパラオ南洋庁に赴任したこともあって、私小説の世界や社会主義リアリズムの閉じこもった世界から出ることのなかったこの時代の日本の小説家とは、まったく異質な文学世界を創生しえた土壌がありました。
 しかし、ただいわゆる「外地」経験があるからといって、それで小説を書いても、多くはエキゾチシズムに堕してしまいかねない。中島敦の「文学世界」の驚くべきこととは、この時代にあって、「日本」という箱庭的な次元を越えて、「他者」への眼差しや安易な理解を拒絶する「異者」の不可知性をいかに描き出せるかの問いがつねにあり、それとともにいく時代も貫く人間の意識や思考の〝共時性〟を見いだそうとする「文学思想」が深く内在していることにあるかと思われます。
 中島敦の作品には、一見、善意のような顔をしてのさばる差別の悪意とその愚昧な狡猾さ、あるいは優越感に浸る国家や民族が、いかに無辜な人びとに強圧的に「他者」を押し付けているかといった主題のものがいくつかあります。
 とくに南洋譚には、そうした作品が多いのですが、中島敦はそれをあからさまに告発するものとして描くのではなく、まずは、つねにそうした「他者」の前にあって、自己自身が「他者」であり「異者」としてあることを問うている姿勢が見られます。むしろ、自己に内在するより根深いところ、黒い闇にじっと息を潜めてあざ笑っている卑怯を見詰める視座から、「他者」である自己を問う。そして、その問いのなかから現れる痛みを痛みとする精神の清冽さを文学として表現する。
 とりわけ、日本の朝鮮植民地統治下における若い朝鮮人巡査の懊悩と恨を描いた『巡査の居る風景』は、民族とは何か、国家の意味とは何か。朝鮮半島における支配と差別の鋭い切り傷を描き出した、なかなか衝撃的な作品ですが、そこでも「他者」としての痛みが重く基底低音のように響いています。
 しかもなにより驚くべきことは、この作品が、中島敦がまだ20歳のときに書いた作品だということです。
 なんという感性なのか。そう思わずにはいられません。それはたしかに早熟といえば早熟なのですが、この小説はじつに落ち付いた筆致で描かれていて、じゅうぶんに練り上げられた構想の存在を感じさせます。そこで比較しても仕方がないことかもしれませんが、若さゆえの感性に居座り、才気走った筆致で風俗を描写することに長けた現代の日本の若手作家の内実の薄っぺらさが、この作品を読み込むと、むしろ浮き出てくる。
 言い換えるなら、若かりし中島敦は、つねに〝根柢〟に潜む何かに問いを発し、そこから「文学」を創生しようとしている。それに対して、生きづらさや自傷、性を描くのに熱心な「近ごろ」日本の若手作家には、どこか表層で、流行じみて、〝根柢〟を感知しようとしていないのではないか。そんな気がします。
<1919年三・一独立運動堤岩里事件の碑>

 中島敦には、ほかにも、ラテンアメリカの代表的な作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)のまさに迷宮に彷徨い込んだような怪奇で幻想的な作品にまがう『文字禍』や『憑狐』、『木乃伊』といった作品がありますし、自己への疑問と何故に自己が存在するのかを突き詰めようとする妖怪である沙悟浄(『西遊記』)の思惟の動き動揺を描いた『悟浄出世』と『悟浄歎異』など、怪奇や脅威、奇譚といった世界を、ほぼ同じような年齢で早世した芥川龍之介とは違った、世界的な作品や視覚や聴覚をも駆使したじつに「知性的」な作品が多くあります。
 思うに、戦時下で中島敦は、その感性をどのようにして身に纏ったのか。そのあたりについては、今後、読み込んでいくなかでわかることもあろうかと思いますが、いずれにしても、中島敦の小説はまだまだ読み込まれていくべき作品が数多くあるというわけです。

 そんな中島敦の小説を、ここ数日の灰色がかった憂鬱な日々に、一文一文に目を凝らして読んでいって、なかでもひときわ奥底深くまで入り込んできた作品のなかに『弟子』という小説がありました。
 この小説は、これまで何度も読んでいるはずでしたが、なぜか読んだあとに、さまざま思惟をめぐらすことになっていったというわけです。
 話しは、孔子の弟子である子路の目から見た師である孔子の「思想対話」という形を取った小説と言っていいでしょう。

 小説の話題に行く前に、すこしさかのぼっての話しをします。
 わたしが高校生だったころ、そのころ『論語』などの儒教思想は、固陋な王侯哲学であり、その内容は陳腐で、じつに取るに足りない道徳の強制だと、とりわけ早熟なマルクスボーイたちに大いに批判されたことを思い出します。
 当時のいわゆる中核派や革マル派、秋田には第四インターというセクトもあって、これがこのころ秋田大学自治会を握っていたらしいのですが、わたしたち高校生は、そんな秋田大学のマルクスボーイ学生から、彼らの属する「新左翼」思想の洗礼を受けさせられ、そんなとき『論語』などを持ち出すと、いっせいにその凡俗な封建思想を自己批判しろと大いに叱られ、罵倒されたりしたものでした。
 そんななか、1960から70年代に青春期を迎えていた方々には、覚えもあることかと存じますが、そうした未熟なマルクスボーイたちが憧憬し、おおいに信奉していた作家に高橋和巳がいました。
 高橋和巳はこのとき、京都大学の助教授で中国文学の専門家でしたが、高橋和巳は孔子について、こんなふうに語っていたわけです。
 孔子とは、・・・要するに日々の生活の知恵みたいなものを与えているだけで、大議論は一つも述べていないのです。世界の極楽を描いているわけでも、人類の救済を夢想しているわけでもない・・・。虎に素手で立ち向かったり、河を歩いて渡ったりして死んでもかまわないなどという男には組みすべきではない・・・そんなことが述べられている・・・(『ふたたび人間を問う』1968年)
 いわば当時の人びとの知恵の蓄積がそこにはあるわけであり、たとえば「中庸」という言葉も、左右のいずれではなく真ん中を採るといった浅薄なものではなくて、いかにそれぞれの主張や固執を解きほぐし、均衡を取るものという思想だとする。
<高橋和巳 京大闘争のなか>
                 
 たしかに『論語』は、その後の時代で政治権力によって権威化されていく過程で、その道徳律がきわめて狭隘なものに歪められていきますが、じっさいの『論語』をよく読むとわかると思うのですが、そこには権威も封建道徳もあるわけではなく、せいぜいで「神を媒介とせずに人間同士がうまくやっていこうとすれば、どうしても礼儀なしではしょうがない・・・」(前掲)といった「礼」についても常識的なことが、地中から掘り出したかのように説かれているだけなのです。
 それを思うと、秋田にいた性急なマルクスボーイたちは、おそらくハナからバカにして『論語』などは読んでなかったのでしょう。それで一方的に批判していただけだった。
 それはいまどきのインテリ崩れの小賢しさを誇る、匿名でしか悪意を示せない「ネットの住人」も同じことなのかもしれません。世の中、いつの時代も結局そんなもんなんだと、思わずあの当時を思い出してしまうというわけです。 

 中島敦の『弟子』という小説は、その意味でも、じつに『論語』を読み込んだ上で書かれた小説と言っていいでしょう。
 孔子や子路の生きた中国春秋戦国時代は、まさに裏切り、不信、憎悪、譎詭 、暴虐の乱世そのものの時代でした。
 そのなかで孔子は、為政者に道を諭し、常識に裏打ちされた知恵を語り、乱世の止むをはかるとともに、学の必要を説き、放恣な性情を矯める教えを説いて、しかし、その多くは王侯には受け入れられることなく、そのため不遇を託ち、弟子たちを率いて長い放浪のなかにいた人物でした。
 小説のなかで、子路は師である孔子について、つぎのように語っています。
 ・・・このような人間を・・・見たことがない。力千鈞の鼎を挙げる勇者を・・・見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及無く均衡のとれた豊かさは・・・初めて見る所のものであった・・・。(『弟子』 ちくま日本文学 2008年)

 その孔子の姿は、まさに『論語』に映し出された孔子そのものだと言えます。つねに激化することを避け、極端に傾かず、民衆の生活がそうであるように、貧困や悲哀のなかにあっても「共苦」「共悲」を頼りにしながら、他者とともに暮らしていく。その暮らしに生きる。
 中島敦は、作品のなかで、そうした精神の現れたものを孔子は「中庸」と述べているとし、孔子こそは、優れて「いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする見事な中庸の本能」を持つ人物だとしています。
 孔子が子路に説いた言葉。これも『論語』に述べられていることなのですが、「古の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬゆえんである。とかく小人は不遜をもって勇と見做し勝ちだが、君子の勇とは〝義〟を立つることの謂である」(前掲*〝〟は著者の註)
 ここで述べられている「義」とは、民族や人種、性別や国家に関わりなく、だれにでもどこでも通用する「通義」のことを意味しています。
 いわば理不尽な暴力や金力で相手を黙らせる。事実や真実を虚偽(フェイクfake)で糊塗する。あるいは「全く問題ない」「批判は当たらない」「指摘は当たらない」と問題の本質を隠蔽し不遜にも「通義」を貶める。そしてそれを「勇」と見做して平然としている。
 こうしたことは「小人」のありようであり、「君子」のとるべき姿ではないと孔子は述べているわけです。見事なまでの「常識」論というわけです。

 繰り返しになりますが、孔子の思想は、いわば人びとの知恵によって形作られてきた「常識」から生み出されたものであり、さまざまな事象のなかで、いかに均衡(balance)をとっていくかというものでした。
 中島敦はそれを孔子に備わっていた「超時代的使命」なのだと記して、この小説のラストシーンに話を進めていきます。
 このあとの展開は、ぜひこの作品をお読みいただければと思うのですが、たしかに孔子の思想をたどるなら、歴史のなかで、あるいは幾世代もの重なりのなかで、わたしたち人間が培い集積してきた知恵があるはずだ。それを見据えずして、快刀乱麻の力をあてにしていいものか! この作品を読み返してあらためて再認したのは、そのことであった感があります。

 さて、いまのこの時代は「コロナ禍」のなかにあって、分断と格差に傷つき、苛まれている時代だと言ってもいいように思います。
 いつしか権力者はとてつもなく強大なものとして聳え立ち、富裕者は貧困者を差別こそすれ、彼らの救済に手を差し伸べようとしない。
 「民主主義」という20世紀の政治規律は、結局選挙によって権力を握った多数派が少数者を追いやり、分断を生み出す装置でしかなかったと後世語られるのかもしれない。それだけ、いまの「民主主義」は疲弊している感があります。
 アメリカ大統領選挙にしても、半数近くの投票とその意思はドブに捨てられ、せいぜいで権力を握った側は、「じゃ取引しようぜ。ディールdealだ!」と圧力をかけてくる。わたしたちの国も、小選挙区制になって、半数近くが死票となり、それが分断と憎悪を倍加させている。結局、権力と利権のたらい回しが、いま現実に行われているわけです。
 
 そもそも政治とは何のためにあるのか? 〝経世済民〟とは、どんな政治道徳なのか。
 歴史の事柄を語ると、もはや古いと揶揄され、歴史に根をもたない新奇さばかりが喧伝されていくなかで、わたしたちは21世紀になって、とんでもない混沌にさしかかっているように見えます。
 もしかして、いまの分断と差別、格差は、「民主主義」という制度で克服できるのか。このありさまは、悪意に満ちてばかりの衆愚政治の言い直しではないのか。それもまた歴史のなかでいつか見てきた事柄であるかのような既視感がないでもない。
 そんななかで中島敦の『弟子』を読んだことは、大きかったように思います。
 
 さて、長々書いてしまったのですが、最後に「新人会講座」についてのお知らせです。
 2020年秋学季講座を10月18日(日)午前10時を初講日にして開講いたします。
 講座日は、現在のところ会場である「池ビズ」(としま産業プラザ)を、10月18日、11月15日、11月29日、そして12月13日(予定)のそれぞれ日曜日午前10時からほぼ確保しております。
 秋季講座も、「コロナ禍」のなか夏学季同様に4講座の予定です。
 講座内容は、現代の思想家として寺山修司(詩人)、宇沢弘文(経済学者)、石牟礼道子(思想家)、大島渚(映画監督)の人物とそれぞれの激動の時代について論考しようというものです。
 詳しくは、次回のblog(9月15日)でフライヤーを掲載いたします。それまでしばらくお待ちください。
 なお、11月8日には「講外講」として、よく知られた歴史上の人物に謂われのある寺院を探訪する予定でいます。夏学季は鎌倉の古刹を訪ねましたが、いわゆる江戸時代から明治にかけての寺院を訪ねます。ぜひご参加ください!

 というわけで、まずは今日はここまで。
 台風一過。もう秋です。ここ数年の秋は短いのですけど・・・。
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども
   風の音にぞ驚かれぬる 
    (藤原敏行『古今集』)
                    


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敗戦の記憶と野添憲治

2020-08-15 14:56:36 | 〝哲学〟茶論
 とても失礼な書き出しになるかもしれませんが、野添憲治という思想家を知っている人はそう多くはないのかもしれません。
 野添憲治は、秋田県の北部に位置する能代という町で、自らの少年時代の体験を捉え直して、その後の「この国」のありようを厳しく見詰め、それらを思想の原点としながら活動した思想家でした。
 ちょうど、水俣の風土に自らの思想を染め上げていった石牟礼道子のように、あるいは筑豊炭鉱の辛苦を自身の骨を軋ませるかのように描ききった上野英信といった思想家たちと同じように、野添憲治は1945年夏、国民学校生徒であった自らの眼で敗戦の現実を感知して、その子どもながらに感じた理不尽と卑怯さを、自らの問題として受け入れながら、多くの著作を書き記しました。
 野添憲治は、「土着の思想」として括って平気でいる中央のインテリの傲りを厳しく打ち据えながら、能代の町を離れず、つねに人びとの心の歪みに問いを発するかのようにものを書き、ひそやかに発言してきた思想家でした。
 派手に自らを売ろうという魂胆などなく、むしろそれとは対局にいて、思想の本来の意味を、純粋に追求する姿勢を崩さない人だったと言えます。
 もっとも知られる仕事は、『花岡事件の人たち 中国人強制連行の記録 』(評論社1975年)などの一連の日本とその国民によっての戦争犯罪を見据える仕事でした。

 アジア太平洋戦争末期、捕虜に仕立てられ過酷な労働者として日本に拉致された中国人が、秋田県大館市にあった花岡鉱山で強制労働の末、虐待され差別され、死に追い込まれた現実をまさに鑿で時代を穿つように記録し、しかし、それをあたかもなかったことにしようとした戦後の「この国」の傲慢と人びとの卑怯さを剔抉する仕事でした。
 野添憲治がはじめて世に問うた本は、『出稼ぎ 少年伐採夫の記録』(三省堂新書 1968年)でした。この本は、この時代の東北の山村に住む若者のつねとして、下層労働者として出稼ぎなどして生きて行かねばならなかった現実を記録したものであって、つねに最下層としておかれることの現実と、そのなかでも人間として生きようとする瑞々しさが人びとの心を拍つ一書と言っていいかと思います。

 その野添憲治は、一昨年の2018年4月に83歳で永眠しました。
 ここからは敬愛を表すために、「さん」づけでその名を記しますが、生前、わたしは野添憲治さんとささやかなつきあいがあり、野添さんの推薦もあって、鶴見俊輔や丸山眞男、武谷三男らが結成した「思想の科学」の会員となったいきさつがあります。
 その縁で、野添さんの追悼文を「思想の科学会報」に書くことになり、もう半年ほど経ちますので、このblogで、野添さんのことをご存じない方にもと思い、その追悼文をみなさんに読んでいただきたく、掲載することにしました。

 <生前の野添憲治さん>
 ちょうどこの日、わたしの故郷である秋田は「お盆」の時期に当たります。そして、15日は敗戦の日、昭和天皇の終戦の詔勅がなされた日でもあります。そんなことを思いながら、少し長めではあるのものの、追悼の一文をお読みいただければ幸いです。

野添憲治さんの〝微笑み〟
~野添さんとわたしが過ごした時代~
          八柏龍紀

 野添さんは、微笑みの人だった。人なつっこい話し方をする人だった。
 野添さんの話は、いつも微笑みに包まれるようにして現れた。ときとして、それが微笑みの向こう側に大きな暗い陰影を映し出すこともあったが、それでも柔らかで控えめな語り口からは、いつも微笑みが溢れていた。
 花岡事件などの苛烈な告発をともなう問題のときであっても、能代の町のボスたちのドタバタとした政治抗争の話であったとしても、戦中の自身の子ども時代の思い出を懐かしげに語るときも、それはあまり変わらなかった。いつも野添さんは肉厚の丸い顔のなかに細い眼を埋めるようにして、ニコニコしながら話しをした。
 ・・・戦争中、憲兵で政治犯などを激しく取り調べなんかやった人たちは、戦後になって村に帰ってくると、篤農家となった人たちが多いんだな・・・。なんでだべなぁ・・・。
 加えると、野添さんの話の結末は、〝どうしてだべな〟〝なんと、そうなってしまったもんなぁ・・・〟という終わり方をすることが多かった。つまり、結論といったことはいわない人だった。それは知識人がデレッタントにふるまう韜晦ではなかった。それでいて、こっちに考えさせるという話し方でもなかった。
 なにか自分自身に語りかけるように、人間が作り出す暗闇の底にじっと目を凝らすようにして自問自答している。野添さんはそんな感じの話し方をする人だった。それは、いま思うと野添さんの思想に根を張っていた野添さんの精神のありようそのものだったと思われてならない。
             *
 野添憲治さんと知り合ったのは、わたしが秋田県能代市にある女子高に転勤した翌年の1983年の秋過ぎのことだったと思う。もちろんそれ以前から、たまに読む『思想の科学』を通じて野添憲治という名は知っていたし、また『無名の日本人』を書き、サークル活動である「山脈の会」を主催している白鳥邦夫さんも知っていた。この当時、白鳥さんは能代工業高校の国語教師だったが、能代にはこんな人びとがいるんだという畏敬の念を持って、遠くから眺めているという感じだった。
 わたしが高校教師になるころは、ちょうど日本が1970年代の後半に入った時期であった。1970年代は、蔵相だった福田赳夫が命名した〝昭和元禄〟と丸々と肥え太った膨満期から、何となくすでに予兆はあったものの、日本経済はドル=ショックやオイル=ショックの経済的激動が起こり、その不況感を色濃く尾を引いていたころだった。
 ちなみに、わたしが北東北の小都市秋田の高校から東京の大学に進んだ時期は、学園闘争の残り火がちょろちょろと燃え残っていた時期であり、その後、浅間山荘立てこもり事件で象徴的な「連赤事件(連合赤軍事件)」の1972年を過ぎ、消費者物価上昇率が25%近くまでおよんだ〝狂乱物価〟、1974の経済成長率がマイナスに転じた「マイナス成長」を経て、完全失業率が100万人を超えた時期に大学を卒業した。
 自宅待機、内定取り消しが当たりまえの時代。1993年から2005年を区切りとされるのちの〝就職氷河期〟と比べると、時期は短かったのかも知れないが、わたしが大学を卒業するころは、言うまでもなく「就職難」の時代であった。
 東京三田にある大学の法学部を卒業したわたしは、その後、アルバイトを何件も掛け持ちして生活費を稼ぎ、同じ大学の文学部に学士入学した。さてそのあとを考えたとき、当時の学生を取り巻く環境を含めて俸給生活者になるしか仕方がない。それでもやっとなのだという自分自身の漠然とした〝無力〟さを抱え、「就職難」の時代に直面していた。
 そうした時代環境で、わたしより年長の〝団塊の世代〟の大量採用で、当時は狭き門となっていた高校教員だけが、なんとか自分を裏切らない方途だと勝手に思い詰めて、首都圏の高校教員の職を探すのと同時に、高校まで過ごした秋田県の教職員採用試験をうけた。
 そして1978年春、なんとか秋田県の高校教員に潜りこめた。いま思うと幸運なことだったのかも知れない。
 しかし、秋田に帰っての高校教師。哲学や文学の本を読みたくても、地元の書店にはそんな本はないし、都市生活者が受けるような刺激は希薄である環境はやはり気分的に堪(こた)えるものがあった。
 あるとき、東京から友人数人が田舎の学校を見たいと秋田に訪ねてきて、数日過ごすうちに、高校の職員室で教師らが煙草を吸いながら仕事をしているのを見て、お前もまだ煙草を吸っているのかと聞かれ、そうだと答えると、「都会のインテリは少なくとも仕事中は煙草は吸わない。いや、人前で煙草を吸うインテリを見たことがない」とシニカルに笑われた。
 その真偽はともかく、彼らと話をしていても、時代の流れから取り残されていくような焦り。都会がまぶしく見えてしかたなかった。インターネットなど想像もつかなかったこの時代。そんな隔てられた距離感が、自分の周囲に一日ごとに蓄積されていくような日常がそこにはあった。
 父親は、教員を目指すことに賛成ではなかったのだが、昔風にいうと長男が郷里に帰って就職する。それ自体は理にかなっているとして歓迎してくれた。
 表向きは、教員という仕事が合っているからと自分を言い聞かし、なぜ秋田に帰ったのかと聞かれるたびに、あたかもそれが唯一の重大事の如く、自分は長男だから、と答える自分がそこにはいた。
 思い返すに、そんな自身の羞恥と後悔を相手に気取られぬように、当時のわたしは教員の仕事に没頭した。校内教員研修会や教材研究会を開いたり、陸上部や放送部などの課外クラブで生徒たちの活躍をともに喜んだり、高等学校の教職員組合で執行役員を務めたりすることで、乖離する恐れを埋めていたのかも知れない。
 そして能代農業高校(現能代西高)を皮切りに、十和田高校定時制の教員、そして1982年春に能代市の女子校(能代北高、現能代松陽高校)に転勤し、教員生活六年目を迎えていた時期、わたしは野添憲治さんや白鳥邦夫さんと出逢うことになる。
           *
 親しくなったのは、白鳥さんが早かった。それは学校は違っていたが、同じ能代市内の高校教師同士だったからである。だが二人のことではじめに印象に残っているのは、白鳥さんと知り合いになってのちの教員組合の能代の地区研修会の会場でのことだった。その研修会の講師は野添さんであった。そのなかで白鳥さんは短い挨拶をした。
 もとより長野県生まれで、東大倫理学科を卒業された白鳥さんはいつも秋田の方言などに寄りかからない語り口で話をした。それはともすれば地元に迎合して地元化することで親密圏をつくって、それに阿ねることの多いありかたと異なるある一つの態度であると思った。そんな白鳥さんの言葉は、つねに知性的な響きを湛える言葉となってわたしのこころに落ちていった。
 「教師とは何か?」。白鳥さんは、たしかタゴールの言葉にある、「教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことなのだ」という一文を引いて教育の意味を語った。
 そのあとで野添憲治さんの講演があった。もしかするとその順番は逆だったかもしれないが、野添さんは、そこでも丸い顔に朴訥な微笑みを浮かべ、顔の中に眼を埋めるようにして、ニコニコと語りだした。秋田訛りの強い温かみのある言葉で、講演ははじまった。
 やわらかい知性。それは白鳥さんと対比的な意味ではない。白鳥さんの思想や知性は、教条主義的な過ちを乗り越えて、自由に闊達に、そして柔軟に思考を積み重ねていくという風情がある。
 それに対して、野添さんは、むしろ剛直な根というものが話しの端々に張られている。しかし、語り口は、田舎のじいさんばあさんにも、うんうんと思わせる、親しみのこもった柔らかさがある。
 「いやぁ、なんとしたらえしべな?」(どうしたらいいんでしょうね)。そうした言葉のなかに思想が詰まっている。
 野添さんの話は、いまどきの子どもを取り巻く家庭のあり方についてのものだった。家庭というものが、経済的に夫婦共稼ぎを余儀なくされている現実では、むしろ子どもを含め家族のなかで、各自がよく話をして、それぞれが自立するように持っていかないと、崩壊を余儀なくされるのではないかという話だったように思う。家族内で、家族だからといってもたれ合わずに、すこしでも話し合うってこと。「そうしたことが大事でねが、と思うわけだす」(そんなことが大事ではないかと思うわけです)。
 そのとき、共働きで忙しい家庭では手のかからないように、もはや料理は包丁で行うものではなく、レトルト食品だけでの食事は、はさみですべてが行われる。野菜も刻まない、魚も焼くことがない。肉もはさみで切る。いまとなっては、そんなに不思議ではない現実であるのだが、このときは会場のあちこちで乾いた笑いが起こった。
 講演会が終わって懇親会が開かれた。野添さんは、つぎの用事があるということで、不在だった。白鳥さんは、たしかその場にはいなかった。そのなかで、能代市にある能代高校、能代商業、能代工業、能代農業、能代北高(女子校)、二ツ井高校の各先生たちと話をしているうちに、教師たちは、今日の講演会の批評をはじめた。
 白鳥さんの話は「毒にも薬にもならねな・・・」、「あんたこと言っても、管理職(校長教頭ら)は、なんもこわぐ(怖く)ねもんな・・・」。「んだな。高尚すぎるものな・・・(笑)」。
 「野添のはなしだば、信用ならねな(信用できない)。包丁つかわね(使わない)家がどこにあるってが・・・」「家族で話しせたって、するはずもねねが(するはずもない)・・・」。
「浮世離れしてるもんだ・・・。教育の現場だばそんたもんでね(そんなものではない)・・・」。
 わたしは、そのときなにも愕然としたというわけではなかったように思う。教員組合の活動をしていて、いまどきの言葉を使えば、自分たち自身が「意識高い系」だと思っている教員が、白鳥さんの教育の未来へ向かう意味や野添さんの貧困が迫っている家族あり方をどうするかという提言に真摯に耳を貸そうとはしないで、自身の思考の領域を侵犯されたくないとだけ固まっていく現実は、なんとなくわかることであった。
 それは酒の勢いというものではなく、秋田に限らず、日本の地方というものが、この時代、そしてそれ以降の時代も固陋にも手放さないありようだったと思えるからである。
 知性への抜きがたいコンプレックス。でなければ、知性や社会批評を真っ正面から捉えようとしない、自分らの周り1メートル以内の親密圏での世間・・・。
 わたしも組合の執行役員だったこともあり、秋田で何回か講演して廻った。まだ若い教師は、それなりに話を聞いてくれた印象だった。しかし、ある一定の年齢を過ぎると、それは自己のなにがしかの痛点に触れるのか、批判がましい物言いを何度も受けた。
 一方でそうでありながら、東京、あるいは「中央」から何らかの肩書きをつけて講師が来て話しをすると、その内容の空疎さは関係なく、彼らは口々に賞賛する。それが、地方というものの抜きがたい痼疾であるように思う。
 そこには、自分らと同じ地盤にたっている者への貶めが平然と行われている。しかしその一方で、きらびやかな「中央」からの者への礼賛が野放図に行われ、それに連なっている自分を確認したがる。
 そのとき、そしてそれ以降も、わたしは何度も野添さん白鳥さんと付き合っていくうちに、野添さんや白鳥さんが、けっして少なくない冷笑と侮蔑の、目に見えない空気のなかに囲繞され、ときにタフに、ときにはかろうじて自身を矜恃している現実があることを知ることになる。
          *
 しかし、そんなときがあってから、わたしは野添さんをよく訪ねることになった。当時、野添さんは土蔵を借りて、そこを住居としてご家族とともに住んでいた。そんななかで、高校に進学した野添さんの娘さんに、わたしはいつしか日本史を教えることになっていったが、それはともかく、1984年の10月、「思想の科学研究会」が能代集会を開くということになったといって野添さんから連絡があり、「手伝ってけれ!」という声がかかってきた。
 野添さんは、この集会をどう運営するか腐心していた。問題は、いかに人を集めるかであった。そこでまず能代の人たちに声をかけた。当時の能代には、若手の商店主や企業をしている人たちがサークルといってもいい青年会的な集まりを作っていて、能代市の衰退を止めようと活動していた。
 能代市は、秋田県県北部の米代川の河口に位置し、上流から伐採された秋田杉の集散地として、かつては東洋一の材木の町として発展した町だった。しかし、東南アジアから輸入される安価な外材に押され、町の産業は長いあいだ停滞し、発展当時の豪勢な料亭や歓楽街も衰退する一方だった。
 ただし、1984年のころまでは、町に残り、家業を継ぐなり新規の事業を行おうとするような若い世代は残っていた。野添さんは、彼らの力と動員力のある教員、それに旧国鉄の職員の力を結集して、能代集会を成功させたいと思っていた。
 そのころわたしは、能代の若手の高校教師たち、高校の臨時採用である講師たちと「かだってけれ!(語り合おう!仲間に入ろう!の意味)」というサークルを作って、懇親会や勉強会を開いていた。それもあってか、高等学校教職員組合の県の青年部長もしていた。野添さんの「もくろみ」といっては失礼かもしれないが、わたしに実行委員長をしろという意味は、そのあたりにあったのだろう。
 まずはタイトル。「『いまを考えるシンポジウム』思想の科学研究会能代集会」とすることにした。そして、基調講演は鶴見俊輔さんがすることになった。
 当日は10月13日土曜日。したがって13時30分開演。そこまでは決まった。そのあとは分科会に分かれて討議する。第一分科会「いま教育は」、第二分科会「いまサークル活動は」、第三分科会「いま地域では」として、そのなかに思想の科学研究会側の鶴見さん、大野明男さん、加太こうじさん、渋谷定輔さん、今野聰さん、後藤宏行さんなどが入る。問題提起者と司会、記録には地元能代の人たち。白鳥さんには第二分科会の司会に入ってもらった。
 パンフレットの表紙は、わたしの勤めている高校の商業科の若い先生にお願いした。会場は、能代市文化会館中ホール(定員360人)を借りた。

 はたしてどれだけ集まるか。問題はそこにあった。教員はせいぜいで50から60人、わたしの教え子たちの能代北高の生徒たちが4~50人といったところ。あとは、能代の市民にどれだけ集まってもらえるか、あるいは全県から、どれだけの教師が関心を持って集まってくれるか。正直に言って、わたしにはまったく自信がなかった。
 能代の人に鶴見俊輔さんって知っている? 「思想の科学」って雑誌、あるけど知っている? と言っても返ってくる答えは、芳しいものではなかった。
 でも、当日会場は、満杯になった。「思想の科学」の地方集会で、これだけの人数が集まったのを、その後、わたしは「研究会」の会報の担当をした時期があるが、記憶にない。
 分科会も盛況だった。それぞれで良質な討議と情報交換がなされた。
 なんでこんなに人が集まったのか。能代であっても、人びとにこうした知的欲求は少なからずあることなのか。いまある「時代」を考えようという意識が、触発されたのか?
あるいは鶴見俊輔など「中央」から来た人たちへの信仰か? そのあたりはわからない。
 いずれにしても、その夜は懇親会となった。さて宴会場をどこにするか。
 シンポジウムの一ヶ月もまえ、その会場探しははじまっていた。わたしは、能代市に唯一、結婚式ができるホテルがあって、その小さいホールを借りればじゅうぶんだと思っていた。しかし野添さんは、「宴会場は金勇でねばダメだ!(金勇でなきゃダメだ)」と主張した。
 金勇は、かつて能代が東洋一の木材都市として発展していたころのもっとも格調の高い料亭であった。天上から床材までなにからなにまで秋田杉の柾目の良材を使い、とりわけ天井板は、秋田杉の一本材を惜しげもなく使った作りになっていた。その大宴会場で懇親会をする。
 じゃ、その宴会費をどう捻出するか。高額なはずであった。しかし野添さんは、なんとかなると言って、会場を押さえてしまった。
 たぶん能代で当時まだそれなりに商売ができていた企業や商店から、賛助金を集めたのだろうと思う。その会計の報告は、わたしにはなかった。おそらく野添さんは、能代の企業や商店主の家を一軒一軒廻っただろう。ニコニコと笑みを浮かべ、なんとか能代のためだといって出し渋る連中のところも廻った。わたしにはなにも気取らせないで、「金の心配ならいらねがら、シンポジウムが盛況になるかどうか、それだけ考えてけれ・・・」。そんな風に野添さんは、わたしには言っていた。
 いまも思うが、鶴見さんらを金勇の大広間に坐っていただき、宴会をしたのは、ほんとうによかったと思う。きっと能代という町の誇りが伝えられた。それは、いまになって大切なことだったと理解できる。
            *  
 その能代集会のあと、わたしはやはり教員の生活に限界を感じて職を辞して上京した。
 そして身過ぎ世過ぎのため、予備校講師に職を求め、評論の仕事に精力を傾けることにした。そのなかで、大学に進んだ教え子の勧めや援助もあり、なんとか大学で講座を持てるようになった時期もあり、その学生らと、ヴェトナム、韓国、中国、タイ、カンボジアなどの国々に研修旅行に出ることがあり、そのなかでやはり日本を、ということでわたしの生まれ育った秋田に行きたいという学生も多くなった。
 2000年の年だったと思う。わたしは野添さんに、花岡事件を学生たちに体験させたいから、講師をお願いできないかと連絡した。そして、八月の暑い盛りに、秋田の大館駅で野添さんを待ち、花岡事件の現場を案内してもらった。夜行列車で大館に到着した学生の総数は20名ぐらいだったと思う。
 花岡事件への野添さんの仕事は、なみなみならぬものであった。野添さんの話をするときに、この花岡事件における野添さんの役割を言い落とすわけにはいかない。しかし、それは後日「野添憲治論」といったものを書くときまで、多くをとっておく。
 野添さんは、朝から暑いなか、能代から大館まで来てくれた。そして早速、花岡事件のあらましを学生に説明してくれた。いちおう彼らは大学生であることもあって、花岡事件について初めて聞いたというわけではなかった。
 だがその事件の内容、中国からの強制連行の実態、奴隷の如く連行され死亡者が出た事実。さらにそれに関与した鹿島組の冷酷さ。じっさいの労働の悲惨さと過酷さ。中国人らの食糧はピンハネされ、満足に食事もあたえられず、粗末な衣服のまま厳寒の秋田で強制労働された現実。人の命が簡単に奪い取られ、極端な差別と偏見が横溢する労働。それらの話しは、学生たちに大きな衝撃となっていた。
 そのなかでも、もっとも緊張したのは、華人死没者追善供養塔のある信正寺に行ったときであった。野添さんのあと、学生たちはカメラを片手に信正寺の境内を過ぎ、慰霊塔に行く途中、寺の人に、「まだ、あんただな! よけいな人を連れて来ねでけれ。花岡事件ももういい加減してけれ!」と怒鳴りつけられたときだった。
 そのとき、東京から大学生の一行が来るということで、野添さんの連絡で、北羽新報や北鹿新聞など地元の新聞社の記者も同道していたが、野添さんは怒りもせず、いつものように笑顔を絶やさず、「そうだが・・・、でも大切な慰霊塔だものな・・・」と言葉を交わし、ひょうひょうと先頭を切って、わたしたちを先導してくれた。
 野添さんは、花岡事件の現実を告発するたびごとに、「寝た子を起こすようなまねはやめろ」「いまさら昔の事件を掘り起こして、金がほしくてやってるんだべ・・・」といった誹謗中傷をずいぶん受けてきたという。
 しかし、花岡事件を解明することは、戦犯逃れをはかった会社の無責任も、また直接、強制連行した中国人を死に追いつめ、または殺害した人間が、戦後ものうのうと生きているありようを根幹から突き詰める意味で、きわめて「人間」そのものを問う問題に違いなかった。
 野添さんは、そのときも学生たちに語ったが、著書にもつぎのように書いている。
 花岡で強制連行された中国人が、暴動を起こし日本人指導員を数名殺害し逃亡した昭和20(1945)年6月30日のとき、野添さんは国民学校(現在の小学校)の五年生だったという。
 そのとき野添さんは、中国人捕虜たちが、山菜採りに行った娘を炭焼き小屋で焼いて食ったとか、農家から牛や馬を盗んで食ったという流言飛語(デマ)をまともに信じ、四キロもの山路をこえて本村の小学校に行き、捕らえられた二人の中国人捕虜に向かって、「チャンコロ!」「人殺し!」と叫びながら、なんども周りを回った。
 ・・・子どもが先生に引率されての行動だったでは許されることではない、とわたしは自分に言い聞かせた。(『聞き書き 花岡事件』御茶の水書房 1990年)
 ここからも知れるように、野添さんの思想の根には一種の潔癖ともいうべき根が張っている。それはふだん静かなものであるのだが、ひとたび現実に触れると激しく波動するものになる。その話のとき、学生たちは、野添さんの微笑みつづける風貌からはあまり感じることのないその〝潔癖〟で〝ピュア〟な激しさに、思わず息を呑んで話を聞いていた。
 それとともに、その際、学生たちが講師料として準備した謝礼を、野添さんは、頑として受け取らなかった。そのことは学生を困らせた。そんなとき、野添さんは、大きなバックから、花岡事件の二十冊ほどの自著を出してきて、もし良かったらこの本を買ってもらいたい。それでいいと学生に助け船を出してくれた。
 花岡事件の衝撃と事実の重さ。本はすぐに完売した。野添さんは、「えがった、えがった、これで重い荷物を持って帰らなくすんだ」とニコニコ笑って、学生に応えてくれた。
 不躾な学生の一人は、野添さんのお酒で膨れ上がったと思われるおなかをなでなでして、お酒をどれだけ飲まれます? って聞いた者がいた。
 野添さんは、「そうだな、なんぼ呑んだべなぁ・・・」と大笑いをして、学生に別れを告げ、能代に帰っていった。
それから、もうすでに一九年もの時間が経っている。当時の若者たちも、もう四〇を越えるか越えないかの年回りになっている。もちろん、そのあともわたしは野添さんと何度かお会いしている。何回かは、東京での酒席でお付き合いもさせてもらった。すると、野添さんは、きまって満面の微笑みのなかから、こんな風に言った。
 「東京に出て行くとずいぶん都会風な顔になっていくもんだな・・・」
 それはおそらく褒めた言葉ではなかった。しかし、その言葉は不思議とわたしの背筋を伸ばしてくれる言葉だった。
         *
 野添さんは、ほんとうに微笑みの人だった。野添さんには、おそらく何冊か本を出したとき、東京で執筆活動をするチャンスがあったかと思う。でも野添さんは、能代を動かなかった。能代での野添さんは、東京で知られているような評価のなかにいたわけではなかった。むしろさまざまな根拠のない悪意に包まれていた時期も少なくなかったと思う。
 でも、野添さんは微笑みを消すことはなかった。あったかい抒情と潔癖な思い。そして少年のような純粋さと、ただし、それだけでは生きていくことのかなわない強靱さを、少なくともわたしは垣間見たように思う。
 わたしも秋田の地を離れて30数年が経つ。父も母も亡くなり、たまに両親の墓参りに秋田に訪れるだけになった。そもそも秋田県庁に勤めていて、ほぼ二年であちこち転勤して歩いた父親の関係で、わたしは秋田で生まれ、高校までと教員生活八年を過ごしたものの、地元の子ども会にも入ることなく、祭りの行事にも参加させてもらえず、そこで人間関係の濃密なつきあいも築けず、そのため根深い郷土への愛着も希薄なままに過ごした。
 でも、遠く離れてみると、異国へ渡った移民たちがもつ「遠隔地ナショナリズム」ではないが、郷土である秋田の風土を懐かしいと感じることはある。そして、それと同時に笑みを絶やさない野添憲治さんと、焼酎に大量のレモンを入れて呑んだときの柔らかな空気を、ふと思い出すことがある。
 野添さんは、わたしにとって風土に生きる意味を教えてくれた先生であった。それは必ずしも安楽で牧歌的なものではない。むしろ狭隘な世界が作り出す、数々の棘に満ちたなかでの暮らしであった。
 そして、そこから遁走したわたしに、野添憲治さんは、満面に微笑んで、「なんと東京に出ていくと都会的な顔になるもんだなぁ・・・」と笑いながら語りかけてくれた。そのことを深く感謝して、いったんはまずこの稿を閉じる。
 ご冥福を祈りたい。                合掌


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この〝憂鬱〟から、いかに考えていくか?―「コロナ禍の時代」―

2020-07-30 23:29:39 | 〝哲学〟茶論
   21世紀がちょうどその五分の一を過ぎようとしているこの時代、「コロナウイルス禍」による重い憂鬱さに、多くの人びとは暗く沈んでしまっているようです。

 いったい出口はどこにあるのか? こうした人びとの息遣いすら塞いでしまう、じっとり湿った暗鬱さは、おそらくこの数年は続いていくように思えてなりません。いったいそのあいだ、わたしたちは、どのように過ごしていけばいいのか。

 20世紀の二度の世界大戦を経て、その後の世界を二分する〝冷たい戦争〟を過ぎてきたものの、人びとは戦禍の反動から、あるいは苛烈な時代的悲劇からの逃避のためか、戦禍や悲劇のなかで学んだはずの生きる意味や倫理観など、人びとが持つべきだとした価値意識を、〝Post war〟のなかでしだいに忘失し、その代わりにこの半世紀あまりにわたって、あからさまな富貴と権力だけへの欲望をたぎらせてきたかのように見えます。
 搾取や収奪の現実が、「市場資本主義」という疑わしい富と権力の価値基準によってないがしろにされ、「資本」が「自然」を無視して肥大化する状況をいつしか呼び込んでしまいました。 
 その結果、あきれるほどの地球環境の破壊を重ねていって、有害な核物質・化学物質を大量に放出し、地球という〝青い水惑星〟に茶色の多くの焼傷をつけてきた。いまとなって、おぞましい気分に不安と相伴するように、だれもがはっきりそれを認識せざるを得なくなっているように思います。
 しかし、富貴や権力に居座る人びとは、その事態を不可視の閉域に追いやり、まだ大丈夫だろうといまの繁栄と冨を捨てることを嫌い続ける。と同時に、自分たちが滅した後の時代、いわば〝未来〟も見ないようにしている。
 他方で、多くの無辜とされる民衆は、繰り返し、〝家族〟〝子ども〟〝絆〟といった言葉を繰り返し、それはいまの安心をせいぜいで家族の安逸のなかに見いだすしかない恐怖の現れのようにも見えて、しかも、それもまた自覚されることもない・・・。

 もしかして、気候変動という言葉で表されている脅威に人びとは手垢にまみれたような慣れを感じているのかもしれません。あるいは、いつのまにか忍び寄っている恐怖の圧倒的な高さのまえで、人びとはあり合わせの根拠のない科学的と称する不可知論に逃走を決め込んでいるのかもしれない。
 見るところ、後ろめたい背中に張り付くような恐れ。いまの「ウイルス禍」とは、そうした恐怖の不気味に膨れ上がった象徴として現れ出てきているようにも感じられます。それも含めて、人類がこれまで経験したこともない〝ウィルス〟の出現は、自然環境と人類の関係の不均衡がもたらしたものだとする科学者の指摘は、大きく的を外したものではないように思います。
 それが21世紀を五分の一過ぎようとしているいまのありさまです。
  
  <異常なまでの降水量によって崩壊が危惧される中国三峡ダム>
           
 
 ふと身の回りに戻って考えてみると、ここ数週間の「コロナウイルス禍」の感染者の急増のなかで、とりわけ日本の政府は、まるでなすべきを喪っているのか。まさに〝No Idea〟の判断停止状態に追いつめられている印象です。
 ふりかえって、「コロナウイルス禍」が起きてから、これまでの安倍政権と政府の動きを順不同に列挙してみるだけでも、その悲惨さは、じつに目も当てられない状況というべきでした。
 まずは意味不明で唐突な学校閉鎖からはじまり、「東京オリンピック」の開催が頭に引っかかって身動き取れずにいたくせに、強制する法律がないからと逃げ回り、やっとIOCからオリンピックが延期とされたら、手のひら返しで「緊急事態」だと大騒ぎをし、それでも四の五の言い出してなんらの保障もなしに休業要請をする。
 人びとはその間に、さかんに〝自粛警察〟化して、それに都知事をはじめ自治体の長も冷静な判断を停止し、中国武漢、パチンコ屋、若者、夜の街関連を叩く。そしていまは東京を「トンキン」と名指してウィルスの恐怖を煽る。
 くわえて、安倍政権と政府は中抜きだらけの各種給付金を配る。この杜撰さは、思わずここまで非道いのかと思わざるをえないありさまで、それにつけても、この間に電通などの中抜き関連企業はウハウハだったようですが、さて最近では、感染者が異常に増えてるっていうのに、医療現場からの警戒や反論を無視して利権の絡みついた「Go To Travel=Go To Trouble」を東京抜きで実施してしまう。
 さすがに「アベノマスク」の再配布はやめたみたいですけど、それで思い出すのは、すでに遙か昔の感もあるのですが、やはり面白かったのは、小さな小さな「アベノマスク」の配布。これもまた業者による中抜きが公然となされ、これには「Stay Home」の安部氏の動画も加わって、まさに幼稚な醜態を曝してくれました。
 じつにこの政権と政府の、こうした笑いぐさの提供にはこと欠かなったのですが、感染者が急増したいまになってさらに、官房長官の会見はしばしばトンチンカンなことをいい出し、「ワーケーション」なんぞと言いだし、しかも首相の安部氏は記者会見にも応ぜず国会は閉会のまま、厚労大臣はどこに行ったものなのか。
 そうしたなかで、厚労関係の当事者でもある政務官と審議官、くわえて副大臣と女性議員の不適切な(?)関係がジャーナリズムによって暴露される。
 しまいには、なんかあると担当相の西村氏はじめ、なんとかの一つ覚えのように声をそろえて、「ただちになになにする状況ではない!」と根拠も示さず、脅しと見得を切る。その根拠を問うと官房長官の菅氏は、暗い眼としんねりと陰鬱な表情を浮かべだんまりを決め込む。

 それに歩調を同じくしたのか、給付金をもらってうれしがっている人びとのなんと多いことか。いささかうがったたとえをするなら、それはオレオレ詐欺で得た金で、犯人が自分の子どもに回転寿司を食べさせ、子どもがうれしがって甘えていることを、なんの問題もないと居直る風景と似ているのではないか。こうした給付金には、どこか問題の本質をはぐらかす、卑怯な風景が見えてくる印象です。

 言うならば、給付金とは小泉改革とその後継である安倍政権の経済政策の乱暴極まる切り捨て施策が、大量の〝非正規・就職氷河期〟世代を生み出し、その結果、社会の構造的な歪みをつくりだしたところに、この「コロナウイルス禍」でどうにもならないくらいに彼ら彼女らが困窮に陥った事実を隠し立てする施策のように思えてなりません。
 いわば全国一律全員に〝お上〟の思し召しともいうべき10万円を給付するとは、それで民衆に恩を売り、文句を言わせない口止め料だったのではないか。
 それはたしかに、育児の一方で仕事を失いかけたシングルマザーの救済にもなったことは認めるものの、それならば、上げたばかりの消費税の撤廃や軽減についてなぜ思考をめぐらせなかったのか。あるいは、「コロナウイルス禍」の影響の甚大な地域や人びとへの集中的な給付がなぜできなかったのか。はたして全国一律の給付に意味はあったのか。
 ドフトエフスキーは、施しは、施すものも施されるものも、ともに一つの退廃に沈むことになると述べていますが、「コロナウィルス禍」は人間相互の生の交流を阻害するだけではなく、金銭を媒介にして退廃を呼び込んでしまったようにも見えてきます。
 たしかに消費税をいじると政府の制度設計そのものへの錯誤が指摘されるのだろうと思います。その点、地域を区切らず10万円の給付金をすべてに配れば、政府の失策にはならないし、感謝もされうる。
 言い換えれば、政治とは、かくも計算高いものであることは、何度も歴史が教えてくれているところでもあると言っていい。

 こうしたいまの安倍政権とその幕僚・官僚の〝やった感〟だけを売りにする無策ぶりや〝ポンコツ感〟って、いったいどうすればいいのか。そこには、〝なるようになれ!〟といった薄ら寒々とした〝捨て鉢〟感すら漂っているようにも感じられます。
 かつての「旧民主党政権」を評した安倍晋三氏の言葉を借りれば、これこそ〝悪夢のような「安倍政権」〟とでもなるのでしょうか。じっさい、「コロナ禍」への一貫した制度も体制も取れていない。経済が経済がと騒ぎ立てている割に、消費や失業に有効な手を打てていない。

 昔からよく言われていることですが、「軍人はいつも過去の戦争しかできない」。
いわば過去の栄光やマニュアルに沿ったものの考えしかできないのが軍人の頭脳の限界だと言われます。
 <開戦の詔勅~帝国議会で演説する東条英機~>

 それは狂信的な超軍国主義時代を経験した20世紀初頭の日本のありようを見るだけでも明らかなのですが、歴史的に見ても、軍人は過去から未来を見通せる多様な思考性がなく、ひたすら見たままの現状しか目に入らない。軍の学校での秀才は、秀才であればあるほど、そうした教条主義的視野狭窄に陥りがちだといいます。たしかに先の戦争での軍人エリートはそうでした。
 だから、こうした軍人の暴走を防ぐために、シビリアンコントロールが必要という社会的経験をわれわれは歴史のなかで学んでいるわけです。
 それが、いまどき日本の官僚群を見ていくと、軍人の資質が伝染したのか、マニュアル取得の受験勉強が得意な小才と処理能力だけ身につけた官僚たちは、せいぜいで20世紀止まりの思考力と論理しか持ち合わせていない。過去からの惰性と踏襲に縛られ自由で闊達な発想や論理を生み出せないでいる。
 あえて言えば、わたしがこれまでの出会った官僚諸氏の多くは、一様に抜きがたいエリート意識が強く感じられる人に占められていたように見受けられます。その振る舞いはたとえば、彼ら彼女らが批判に対してはきわめて敏感でしかも猛烈に弱いこと。すぐ言い返す性癖があること。まさに小才の限界を露呈することがしばしばというわけです。

 それは、そもそも他者から抜きん出ること出し抜くことばかりしか考えていない、また勝つための学歴、出し抜くための海外留学だとかの箔をつけるといった発想しかできない政治家も同じなのかもしれません。
 いまの政治的な状況は、そんな空虚さだけが目につきます。

 でも、こうした状況をどうすればいいのか。おそらく、それには明確な答えなどはないのかも知れません。ですが、それでも過去の歴史を見ていくと、さまざまな知恵があったことがわかります。
 一般に、江戸時代の農民は地主の収奪がひどく、とんでもなく搾取されていたとわたしたちはよく歴史の授業などで教わります。しかし、最近の研究では、かならずしもそうでもなかったことがわかっています。
 たとえば能登における「時国家」の例などでは、時国家のもつ膨大な富にたいして、能登のその地域の農民はそれほどの富を蓄積はしていない。むしろ時国家の富だけが突出しているのです。
 ではなぜ「時国家」が図抜けて富を集中してるのかと言えば、それは飢饉が起こったり、天変地異が発生して農民が甚大な被害を受けたとき、「時国家」が自身の富を農民に広く分配し、困窮や餓死から農民を救済するという機能を持っていたからではないかとされているのです。
 つまり、農民はつねひごろの生活を維持するけど、時国家は海運や交易によって富を蓄積し、いざとなったら農民を救済する。そのための機能を富裕な時国家に負わせていた。それは、けっして幕府や藩主、いわば「お上」に頼るものではなく、自分たちでそうした慣習を常識のなかに内在させていたということです。
   <能登 時国家>
   
 
 そう考えると、いまの世界の富裕層がほとんど社会的役割を果たしていなことがわかります。世界的IT企業などの膨大な利益を、より広範になぜ分配しないのか。それを考えると、いかに世界の富裕層がエゴイステックであるのか、また公的な存在から乖離しているかがわかります。
 そもそも古代から王は富を集約するとともに、それを平等に分配する存在として歴史には多く記憶されています。それを、文化人類学では「互酬」的関係性として説明するのですが、たしかにそのようにして、人びとはお互いを守り合った。
 言い換えれば、手にした富は、多くの人びとの支えのなかから生み出されたものであって、どんなに才覚のある個人であっても、その個人が独占する性質にないということなのです。

 そして、以前もこのblogでお話ししたかと思いますが、仏教における天台の教えには、「苦」から逃れるには、「悔過」をはかるという考えがあります。
 「悔過」とは、平たく言えば、〝反省〟ということです。自らのこれまでの行いをよく見詰めて、傲りや不遜、他者への攻撃や差別、脅迫をはかったことがないのかを、それぞれ時系列で、または言説の空間をいくつかに分けて、たとえば、過去・現在のなかで、あるいは友人に接する場合、仕事場での振る舞いについて、家庭での配偶者や子どもに対して、それぞれカテゴライズして考えてみる。
 すると他者に対して自己がいかに閉じていたのか、どうしてそのとき開かれた態度を取らなかったのかが、記憶のなかで再現されていきます。
 そのなかで、自らがどのようにあるべきかの指針が、自然に浮き彫りにされる。
 
 いまは、世界中、自らへの「反省」に向かう力が希薄になった印象があります。それは倫理観と哲学を失っている「新自由主義」などの市場経済への偏倚に沿ったものと見ることができます。
 またそれは、世界の指導者が醜くも誹謗や恫喝を他国に繰り返すありようを見ればじゅうぶんに知れることなのかもしれません。ただし、そうした例をとるまでもなく、つい最近の〝自粛警察〟にしても、自らが恬として恥じず、他者を無自覚に傷つけて、その痛感を欠いていることを見ても、「反省」への薄さは、あきらかのように思います。
 他者に手を差し伸べることを躊躇する。あるいは拒絶する。他者の困難を見ないようにして、場合によっては、それ見たことかと快哉をあげる。
 そもそも、人間とは、ともに「苦」であり、「悲」の存在だと仏教では説かれます。もちろん、宗教とは、人間が「自らの死を納得できる」ように説く教えですので、「苦」や「悲」の意味を重視するものの、人間とは、そうした存在だと、人間の根幹を意識するならば、「悔過」というありようは、思想の大きな転換を導く思想として再提起されていいように思います。
 まずは、自らを「内観」する。「悔過」の第一歩はそこからはじまります。

 いずれにしても、今回は数週間ぶりにblogを更新したのですが、この間なぜ更新できなかったのかと言われると、やはり現在の「コロナウィルス禍」の憂鬱がわたし自身を深く覆っていたことにあるのかなと思わざるを得ません。
 
 言うまでもないことですが、政府や政権の杜撰さを歎いてばかりでは、なにも動けません。最近になって、そう思い付いて、どうにかblogを書こうと思い立ったわけです。
 ところで、今日で関東地方は梅雨明けだそうです。暑い夏がきます。この間に、しっかりと読書をはじめさまざまな刺戟を吸収して、まずは自らの思想と精神(=態度)の体幹を強めていくしかないなと、思っているしだいです。
 それにしても、海外のニュースを見ていると、日本の政治家や官僚はひ弱ですね。ドイツやイングランド、フランスなどヨーロッパの政治家や官僚がいかにタフか、その政治手法はさまざま問題はあるというものの、官僚も含めて、この「コロナウィルス禍」のなかにあってもひるんではいない。あきらかに体力が違う印象です。
 と同時に、この国のことばかりに目が点になっていてもしかたないことも道理です。世界を見ていく。その世界のなかに、わたしたち自身もいるわけですから・・・。

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☆☆☆〝不屈と根源〟-明日の講座は「むのたけじ」です!-☆☆

2020-06-27 13:42:10 | 〝哲学〟茶論
 梅雨というか、豪雨というか。中国の四川や雲南ではとんでもない雨が降り注いでいるようで、長江にかかる三峡ダムも決壊するのではないか。そんな恐ろしい話しが、現実味を帯びてきているようです。
 このたびの「コロナウイルス禍」もそうであるように、人間はやはり無力なのだと日々思う毎日です。であるなら、わたしたちは無力であることを自覚して、地球の恩恵を受けながら、謙虚に暮らしていくことを再認しなくてはいけない。
 取引だ、権力だ、支配だ、金儲けだと力ずくの政治をとるトランプや習近平、プーチン、そしてその尻馬にのっている権力者のつくる流れに、けっして沿ってはならない。そんなふうに思います。
              
 ところで、差し迫ってからのお知らせですが、明日(6月28日)、日曜日の宏究学舎・新人会講座は、むのたけじさんのお話をします。
 むのさんといえば、晩年になってからの反戦非戦活動家、ジャーナリストといった印象をお持ちの方もあろうかと思いますが、1915年生まれで、その間、報知新聞や朝日新聞の従軍特派員として、中国北部・内蒙古やインドネシアなどで、さまざまな戦争体験、つまり加害の立ち位置から日本のあり方を透視し、東京大空襲も経験し、被害の立場からも世のありさまを凝視した人です。そのありようは、まさに不屈であり根源に根ざしたものだったと言えると思います。
 むのさんは、戦争中、所属していた朝日新聞が連日、戦意高揚の記事を書き連ねている実態を見知って、戦後にデモクラシーの旗を掲げる無責任、無自覚なさまを見て、8月15日をもって退社し、郷里の秋田でタブロイド判の週刊新聞『たいまつ』を発行し続けます。
 「ペンは剣よりも強くなかったことを記憶し続けること!」
 それがむのさんの出発点だったと言われます。

 じつはむのさんは、わたしの高校二年のおわりころ、わたしの通っていた高校の社会研究会サークルの招きで、ささやかな講演をしていただいた記憶があります。
 講演会は、社研の部員も合わせて、30人ほどのものでしたが、小柄な体躯からは想像もつかない迫力ある低音で、周囲の空気をビリビリと響かせ、激しくまた深く根を張った話しの数々に、ただ圧倒されたのを、そのときの粉雪の舞う光景も含めて、鮮やかに記憶しています。
 ほんとにそれはすごかった。あれから半世紀ぐらい経ち、それはけっして大げさでもなく、その後もずっと、そしていまもなおその余韻が残っていることがわかります。

 むのさんは、人間とはなにかと問い続けた思想家だったと思います。
 「相手がどんな学者先生や哲学者であっても、人に何かを聞いても答えは出てこない。自分が自分に問わなきゃ答えなどは生まれてこない。人間の可能性というものは存在するものではない。買うものでも拾うものでもない。望む当人が開拓していくものなのだ」
 むのさんは、人間の弱さ狡さ倨傲さを透徹した眼差しで抉り出し、そうしたものが権力を握るといかに腐敗するかを厳しく糾弾した人でした。それを東北の小都市で地を掘るようにやってきた。
 いったん田舎に戻って高校教師をやり、またのこのこと都会に戻ってきたわたしとは、人間の質量ともに違っている。何度もそう思いつつ、でもむのさんの精神は見習いたい。それだけは思っています。

<週刊『たいまつ』を発行していたころのむのさん>

 「コロナウイルス禍」によって、世界のありようは、じつに不安定なものになってきているように思います。
 しかしマスメディアの論調は、またしても経済への影響しか関心がないかのように、またはどうでもいい芸能人のゴシップを追い回しています。
 いままさに問うべきは、自分自身の生き方であり、地球に生きるという意味の根源的な問いであり、これまでの歴史を見て、未来がどうあるべきかを考えることだと思います。
 戦争や貧困や差別が、いいはずはありません。自分は戦争はしていない、貧困ではない、差別はした覚えがない。でも、戦争の要因をつくる無関心を決め込んでいるのではないか? 貧困で苦しんでいる人びとへの〝共苦〟をお座なりにしているのではないか? そして、差別する人びとを見て見ぬふりをして、差別を助長しているのではないか?
 むのさんのビリビリと震わす声が聞こえそうです。

 ここで話は変わりますが、アメリカの巨大製薬会社が新薬を開発する手立てとして、いまさかんにおこなっているのは、南米アマゾン流域に住むインディオの知識を頼ることだそうです。
 インディオたちは、病原菌が多く生息するアマゾンで暮らす厳しさに、何世代もの長いあいだのさまざまな言い伝え、経験、そして症例をたくさん知悉していて、それによって数々の病魔に対処しているそうです。
 いかに病気にかからないか、罹ったとしたらどんなふうに治癒させるのか、そうした豊富な経験や知識、それは新薬開発には役に立つ。そこでアメリカの製薬会社の研究者はさかんに彼らの知識を得ようとしているわけで、アマゾン参りをしているようです。
 その際、製薬会社の研究者は、新薬の知識を得るわけですから、それなりのお礼。ハゲタカのような巨大資本がすることですから、たいした額ではないようですが、それをインディオにわたそうとすると、インディオたちは受け取りを拒否するそうです。なぜか。
 自分たちは、この自然から病にかからぬ方途や薬草、治癒法などの知識を得ている。いわば自然の恵みの中で、それとともに何代にもわたる祖先の言い伝えから、そうしたものを伝えられている。それは金銭に換算できるものではない。自然や祖先に感謝すべきものなのだ。
 インディオたちは、そう言って、金銭を受け取らない。
 
 現在の世界は、金銭を至上の神というが如くに、資本の歯車をフル回転させて、とんでもないスピードで人びとを巻き込んでいる状況です。
 でも、そうでありながら麻薬や媚薬のように、人びとはそこから一歩も出ようともせず、目の前になることばかりに躍起になって、自己を見詰めることをしません。

 「人がどう歩くかがその人の生き方に通じる」 むのさんはこんな言葉を残しています。いまどう歩くか。まずはいま散歩でもいい。歩きながら、近くの風景を見ながら、考えてみたらいい。そんなふうに語ってくれています。

 明日の講座は、いつもの池ビズで午前10時からです。もし、明日だけでも参加したいという方は、レジュメの都合もありますので、本日10時くらいまでメールをいただければ幸いです。
 メール:yagashiwa@hotmail.com


  


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高橋和巳と魯迅~〝時代に杭を打つ!〟第二講について

2020-06-19 21:56:00 | 〝歴史〟茶論
 先週からスタートした講座は、この21日(日)で第二講目を迎えます。第二講は文学者「高橋和巳」についてのお話しです。

 高橋和巳といっても、ある時代、ある世代の人びとにはよく知られている文学者だと思いますが、若い世代には、なじみが薄い人物のように思います。
 高橋和巳は、いわゆる1960年代後半から70年代にかけての「全共闘」世代には、絶大な感化力のあった小説家であり、学者であり、それらを統合して「文学者」でした。
 1968年から69年にかけての京都大学学園紛争のなか、政治権力の不正と強制に憤り、その縛りからの解放をはかろうとした学生の視座に沿いながら、高橋和巳は学問と文学の真実の意味をひたすら追い求め、わずか三十九歳で病魔に冒され夭折します。
 どのような「文学者」であったかは、21日の講座で具体的にまた現代的意味を交えてお話しすることになるかと思いますが、すくなくとも言えるのは、破滅的衝動につねに駆られながらも、身を賭してそこにある現実にひたむきに、また彼が好んだという「まっさらなシャツ」のように、清冽な抒情をたたえて表現をなそうとした「文学者」だったと思います。
 京大の学園紛争時に高橋和巳は京都大学助教授として中国文学を講じていました。専攻は3~4世紀の中国六朝文化でしたが、9世紀の詩人である李商隠という、ときに変節漢とされ不遇を託った詩人にも惹かれ、さらに近代人であった魯迅にも深くひきこまれていきます。
 李商隠については講座で触れるかと思いますが、いうまでもなく魯迅とは、近代中国の悲哀と悲惨を、まさに十字架を「血債」のように背負って生きた文学者でした。その魯迅について高橋は痛切かつ哀情をこめた一文を草していますが、その一部分を引きます。

 ・・・魯迅の作品は暗い。限りなく暗い。「阿Q正伝」のように風刺的な諧謔筆致によって一つの典型が描かれている場合も、「故郷」のように回顧的な発想に伴なう抒情によってうるおいをもって事件や人物が浮彫りにされる時も、その基調には常に癒しえぬ悲哀と寂寞が底流する。・・・中略・・・いったい魯迅は人間のうちに何を見、自己の内部から何を発掘しようとしたのだろうか。彼が属した中国民族(略)は、どういう運命にあるものとして映っていたのだろうか。(『民族の悲哀ー魯迅』)

 魯迅についてのこの冒頭の一文を読むだけで、高橋和巳にとって、文学とはいかなるものか、その姿勢が読み取れるように思います。
 少年時代に「超軍国主義」「国家主義」の洗礼を受け、大阪全域をなめ尽くした1945年3月の「大阪大空襲」を着の身着のままで逃げ出し、やっとの思いで死を免れたこと。その後、あわただしい教育制度改革で、旧制高校を一年経ただけで、新制大学に移ることになり、朝鮮戦争、共産党の分裂など大学ではさまざまな政治運動、文学運動を経て、戦後の軽薄で片々とした時代の変化に不器用にしか振る舞えない自分への自覚。そして、貧しさから安逸への堕落。
 そのなかにあって、批評家や社会運動家、政治家らは、自らを無垢な被害者として加害者を呪詛し、被害者の団結を促して政治変革を声高に叫ぼうとする。
 高橋和巳は、それに対峙するように魯迅の言葉を引きます。・・・魯迅はそうはしなかった。外なるものは内にあり、そこに一つの悲惨があるとき、自らもその悲惨を分有するとともに、また加害者の一員でもあると、魯迅は感じた。(前掲)
 世の中の矛盾、悲惨さ、狡猾で尊大な、そして卑劣なありよう。それらは、なにも自分以外のところにあるのではなく、自らのなかにも存在するのだ。だからこそ、自らの内面を抉り出すようにしてでなければ、真実の文学は生まれない。
                  

 いまどきの文学ならびに出版のありようは、そうした本来、切れば血の出るような自己内面性を追求せず、どこかで脱色し、緩く脱力してみせるところでのみ価値を見いだそうとしている。
 その意味で、高橋和巳はあまりにも重く、あまりにも硬質な問いかけをする作家でした。それがある時代の若者にはしたたかに響き渡り、その若者がその後、老いていくなかで高橋和巳はいつしか忘れ去られ、あるいはノスタルジーのなかに消化され、老いたかつての若者は消費社会の富裕を謳歌する。そして、その後の若者は、いつしか「net」社会の肥大化や人間関係のささくれ立つ希薄さに世の矛盾や悲惨は視野から遠ざけられ、生きていくという重さそのものに耐えられなくなっていった。
 
 今回の〝時代に杭を打つ!〟第二講は、そうした日本戦後の意識の変化を、高橋和巳という地表軸を中心に考えていきたいと思います。
 
 生きていれば今年でちょうど八十九歳になる高橋和巳ですが、もし生存していたなら、彼の眼にはたして現代はどのように映っているのだろうか。
 思うに彼の眼には、現代の人びとがいかに自分以外の他者に対して、忌み嫌うように差別し、分断によって不可視化してきている。そんな風に映っているのかもしれません。
 さもなければ、真摯な苦悩や葛藤から逃げ、糖衣で包もうとばかり、家族だの愛情だ絆などと、これ見よがしに披瀝して、自らの虚弱な安全と安心を得ようとしている。すでに、家族は空疎なものになっているのだし、愛情は慣れ合いに溶かされて心を通わすものになってはいない。絆は虚偽と欺瞞に満ちているのではないか。むしろ、その矛盾や悲惨さは肥大化し、そうした人びとが見えなくてはならない悲哀や懊悩を、誰一人として内面化しようとしない。

 ところで、前回の講座では、さまざまな悪条件のなか、思いがけず多くの方々の参加がありました。
 講座をやる意味は、講座を通じて、目には見えないけど、言葉で感知できる双方向の「対話」のネットワークができることにあります。それは一方通行的なやりとりに制限されるSNSといったネットワークとは違い、会場自体がおおきな「対話」空間になることを意味するのだと思っています。
 というわけで、お時間がありましたら、ご参加ください。いろんな方々との質疑に、なにか感じるところがあればとこころから思っているしだいです。

 まずは、今回はこれまで。

 

 


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〝権威〟を身に纏うな!~講座のお知らせも含めて~

2020-06-10 16:27:13 | 〝歴史〟茶論
 しばらく隠遁者のようにブログも更新せず、薄暗い穴蔵に迷い込んだように本ばかり読んでいました。
 それでも、本を読むのと並行して、住んで20年近くなり、汚れてきた自宅の一部を自力で塗装したりもしていましたが、外出が億劫になり、というのもマスクをしていないことで〝非国民〟あつかいされかねない厳しい他者の眼差しにどうも抵抗があり、ならば外出しない。
 思うに、よく起こっている子どもたちの〝ひきこもり〟とは、こんなふうに他律的なことから起こるのだろうなどと考えながら、そのためか〝不要不急〟ではない用件で久しぶりに電車に乗ったりすると、とにかく疲労困憊という情けない気分。やはり、本でも読んでいたほうがと思う。そこでますます引きこもってしまう。そんな日々でした。 <ささやかな空中庭に咲く花>
            
 でも、今週末の14日日曜日から、〝時代に杭を打つ!〟の講座が、「池ビズ」会場からの許可が出て、講座自体は縮小したものの、なんとか開講できることになりました。
 そんなわけで、このままでいいわけがないと思い定め、やっと動き出したところです。まずは14日からの講座について、遅ればせながら連絡させていただきます。
 <講座「時代に杭を打つ!」フライヤー>
 
 内容は以前お知らせしていたとおりです。
 6月14日(日)の初講日では、丸山眞男の現代的読み直しをはかっていきたいと思っています。
 丸山眞男は、戦後の進歩的知識人の旗手とされていますが、その一方で1960年代後半の全共闘運動の渦中、学生との団交では、丸山が醸し出す理知的で高踏的な態度からでしょうか、「へん、ベートーヴェンなんか聞きやがって!」などの罵詈を投げつけられ、丸山が保管していた日本思想史上の貴重な図書も学生らによって研究室が破られ、大部分が盗難に遭うという禍を被っています。それはそのあとに古本屋にそれらの書物が数多く出回っていたことでわかったことです。
 ではなぜ、丸山はかくも批判されたのか?
 それは一つに「知識人」という位置づけが、日本では〝権威〟に依存するということに起因するからではないかと思われます。
 日本における「インテリ」いわゆる知識人・文化人とは、本来的には大学や学問的派閥である「学会」に帰属しているかいないかにかかっていて、〝在野〟であることははじめからその範疇には入らない。〝在野〟とは、〝浪人〟とほぼ同じように胡散臭いもの、貶め軽んじられるもので、それは思想的に右翼であろうと、むしろ左翼のほうが顕著に現れてくるものなのですが、いずれにしても〝権威〟に結びつかない存在は、「インテリ」とは言わない。それは民衆にも隅から隅まで満ち満ちていることなんだと思います。
 丸山自身が小田実の話しを引用している文があります。それは小田実がアメリカで聞かれたことだそうですが、
 〝Is he just a university professor or an intellectual?〟
 これは「彼はたんなる大学教授なのか、それとも知識人なのか」と訳せます。つまり、制度としての「大学教授」と学問教養を持つ「インテリ」とは同じじゃない。それが大意です。言い換えれば、職業や制度としての「大学教授」の価値は「知識人」と等位ではない。「知識人」である意味は、「大学教授」の価値に優越するということです。
 その認識は、哲学や芸術・思想に長い歴史をもつ西欧ではあたりまえだと言えるでしょう。
 かつてわたしがスペインの南部の街グラナダで暮らしていた際、おまえはどこの大学で教えているのかなどと聞かれたことはなく、何を研究しているのかと聞かれ、わたしが〝Historia y filosofía japonesas contemporáneas現代日本の歴史と哲学〟と答えると、〝Moderno?〟なのか。そうなんだ。それとスペインの歴史や哲学は参考になるのか? と話は進みます。
 しかし、島国日本はどこまでも権威に縋る体質です。「大学教授=知識人」の枠を超えてくる問いはほとんどありません。
 丸山眞男は、東大教授であることで、その〝権威〟だけ切り取られて全共闘の学生らに罵倒されたのでしょう。〝東大教授〟という権威への嫌悪。けっして学生たちは、碩学な「政治学者」として丸山を見ようとしなかったのでしょうね。あるいは丸山のマルキシズムという〝権威〟の位置から離れた地点での思想の組み立てを、かれら学生が、理解できなかったとも言えるように思います。

 丸山眞男の業績は、岩波新書の『日本の思想』という、比較的わかりやすい本を読んでもわかるように、明治以降の「翻訳」権威に対しての戦いだったように思います。
 その権威は、徳川時代のものは丸ごと〝古くさい封建〟だとして何もかも否定し、たらいの水を捨てるとともに、行水していた赤ん坊も捨てちゃった明治政府によって強制的に打ち立てられ、そこに日本の思想の断絶(crevasse)が起こってくるのですが、丸山眞男の仕事は、その修復と見直しにあったように思います。
 日本近代の発達史観の権威から見れば、丸山の思想は、封建そのものに映ったのでしょう。当時学生は、自らの思索と思考でモノを考える術を放棄していたようにも見えます。そんな状況はいまもあんまり変わっていないだろうし、ますます肥大化しているのかも知れません。 
 いずれにしても、当時の学生たちのありようは、手っ取り早く普遍の〝権威〟を手に入れて、優位に立つ。そのためにはマルキシズムのような演繹的手法がなによりも手際のいいものに見えたのかも知れません。

 そんな流れでいうと、この「コロナ禍」の日本にあって、おおよそつかめたことは、政府と官僚のダメさぶりをまずはおくとして、〝権威〟とされていた「専門家会議」なるものが、薬一つにしても、わからないと言えばいいのに、あれだこれだと言い立て、あげくのはてには1983年に公開された森田芳光監督作品の『家族ゲーム』のように(わからない人も多いでしょうから、ぜひDVDなどでごらんください。松田優作が不気味な家庭教師をやっています)、横並びで食事しろといった「新しい生活様式」を言い出す始末になっていることです。
 先日、家のキッチンの検査に来た業者の人は、会社の方針だとして、自分の体温の2時間毎の検査表を見せ、家に入る前に手を消毒するようすを確認してもらうなど、ほんとに微に入り細に入りの状況。
 街を歩けば、防御シートにマスク。まるで宇宙人に囲まれている気分でもあります。やり過ぎ? でも、専門家会議の方々は、そうした生活がいいのだと宣うわけで、「コロナ禍」が起こってから数ヶ月。出てきた内容は、そんなものです。しかもそれが〝新しい生活様式〟の権威として揺るがない。
  <映画『家族ゲーム』1983年>

 しかし、それが「コロナ禍」にはたして有効なのか。〝オオカミ騒ぎ〟じゃないのか。そうでなくても、「新しい生活様式」なるものの科学的な証拠(evidence)が曖昧でしっかりとした説明抜き、もとよりこの「専門家会議」の議事録も取っていないという責任逃れいっぱいの杜撰さ、そう考えると「専門家会議」という〝権威〟も、科学的というより、しょぼい日常的なものに堕していないか。
 でも、自分で決められない日本人は、この〝権威〟なるものの前で跪くしかない。一方で、それをご威光として、水戸黄門の印籠よろしく、それに従わない者に対して、〝自粛正義〟を振りかざす。
 このありさまはいつか見てきた、〝竹槍で闘え!〟〝一億火の玉!〟を叫んだアジア太平洋戦争のときと、言い方は好きじゃないのですが、いま風にいうと一ミリも変わっていない。

 というわけで、初講日での講座は、丸山眞男の思想がいかに〝権威〟に傾斜した時代と切り結ぶ性質のものだったのかということと、丸山が没して四半世紀が経つなかで、この国がいかに変わり映えのしない〝権威〟主義のままでいるのかを、みなさんとの対話も含めて深めていきたいと思っているところです。
 いまもさかんに行われているnetでの出来事のように、自らを「正義」の立ち位置におき、匿名という卑怯で高い目線から、〝誹謗中傷〟と〝決めつけ〟〝レッテル貼り〟が繰り返されるのも、こうした〝権威〟への凭れかかりと見て取れます。
 だれでも、認められたい。それだけ見れば、承認欲求があまりにも強すぎると見えますが、それよりも、深い観察力や歴史的思索をないがしろにして、とにかく〝権威性〟を求める愚かさが、こうしたnetでの他者への誹謗中傷につながっている事実。それだけは、しっかりと確認しておきたいところです。

 講座の第二回は、文学者として清冽な生き方を貫こうとした高橋和巳について、第三回は、わたしも高校生のとき、その謦咳に触れたむのたけじについて、第四回は、わたしが東京に出てくる契機となった鶴見俊輔との出会いについて、鶴見俊輔のバネのような思想の在処について、それぞれお話し対話を積み上げていきたいものだと思います。

 いまからでも申し込みは大丈夫です。また一回だけの受講でもかまいません。東京・池袋に日曜日の朝お出かけできるかた、リモート出勤に息苦しさを感じている社会人の方、zoom授業に飽き飽きしている大学生諸君も、ぜひおいでください。
 とりあえずわたしのメール(yagashiwa@hotmail.com)に連絡をいただければ、返信させていただきます。

 じつは今回のブログは、もっと本格的なテーマを用意していたのですが、それはまた講座のときかまたの機会にお話ししていきたいと思います。
 お読みいただきありがとうございました。
 ついでに数日前、路上に捨てられていた「アベノマスク」を見つけました。 


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☆☆東日本大震災の記憶といま起こっていること。〝災殃〟は何をもたらすのか?☆☆

2020-05-23 23:15:37 | 〝歴史〟茶論
 東京は、もうすこしで「非常事態宣言」から解放されるとのことです。

 4月から約2ヶ月、いちばん心配しているのは、学校が開かれず、しかもその途中で大人や政治家たちの勝手な言葉に振り回されて、「9月入学論」まで喧伝され、戸惑わざるをえなかった子どもたちのいまの姿です。
 まさに、この数ヶ月におよぶ、「学び」からの疎外はなんのためだったのか?

 じっさい、子どもたちに感染するリスクはあまり高くないこと。感染しても重症化するケースがほとんど報告されていない。また、学校での感染の事例は、まったくなかった。むしろ家庭内での感染が、事実としてあったこと。
 これらの状況をふまえ、電車での通学を行う高等学校や私立などの学校生徒はおくとして、地元の小中の学校にあって、「学校封鎖」は必要だったのか。そして「学校封鎖」の効果は、どのように科学的に証明されていくというのか。そのことを含め、「9月入学論」の必要性は考えていくべきものではないかと思うわけです。

 
 それにしても思い起こしてほしいのは、2011年3月の東日本大震災のときのことです。
 この震災とそれにともなう原発事故、もはやこれは「原発犯罪」というべき問題であったかと思いますが、いずれにせよ東北地方の学校の多くが、校舎に甚大な被害をうけ、なかには津波で流されてしまった校舎があり、児童生徒が津波に呑み込まれて亡くなったり、またこうした子どもたちの多くの親や親族が、死亡したり行方不明になって、生活の術さえ失われていたにもかかわらず、そのとき「9月入学」などという話しは議論されたものだったのか。記憶にある限り、そうしたことはなかったように思います。
               
 震災と原発による困難で劣悪な状況のなか、親を亡くし兄弟姉妹を亡くし、また仲良しだった友達を喪った多くの子どもたち、そして未来への〝夢〟や〝希望〟を自身の可能性とまだ純白な時間のなかに描いていた中学生や高校生は、校舎を喪い、クラスメートにも会えず、長期にわたって授業も受けることもできず、楽しみだった部活もできず、多くの人びとに祝福される卒業式や入学式もできないまま、ほとんどが瓦礫の処理や生活のためにさまざまな労苦のなかに置かれていたはずです。
 ならば彼らの学業や生活のために、そのときいったいいかなる、また何らかの猶予がなされたのかというと、それはまったく顧みられないまま、彼ら彼女らは、目の前にある過酷な状況に、身を任せるしかなかったように思います。

 いや、あれは東北地方の一部の太平洋沿岸部の不幸なのだ。日本全体のものではないのだ。震災のときには、そんな〝切り捨て〟の論理が、まちがいなく大手を振ってのし歩いていたのではないのか。
 あのとき、子どもたちの、彼ら彼女らの「教育権」について、誰が、あるいはどの政治家が為政者が、思い遣ったのでしょうか。

 震災後、仙台のとある居酒屋で、その店の大将がわたしに、「ボランティアをやると東京の大学では単位くれるそうですね。それってどういうことなんだ?」「そんなボランティアって、いいんですかね? オレたちは単位のネタってことでしょうかね?」と真顔で聞いてきました。
 肉親を喪い、家も流され溢され、生きた心地もせずに日々を送っている人びとが多かったなか、ふつふつと吹き出すやりきれない思いで胸がいっぱいであったのだと思います。
             
 北東北の出であるわたしには、この大将の言葉が、抑えつけられた者の深部から飛び出してきた憤怒の声に聞こえました。
 「たしかに震災はひどかった。でも、哀れんでほしくない」「バカにするな!」 
 東北人は、おおくはにかみ屋であり、無口といっていいかと思います。ときには、じつにとっつきにくい印象を与えます。それは長い歴史のなかで培われてきた身の処し方とでも言ったらいいのか。人びとの感情の底部に、目立つこと、批判や怒りを表に出さない性格を良しとする「痼り」みたいなものを宿しています。そのなかで、絞り出すように口をついた疑問と悔しさ。
 子どもたちの学びの疎外と単位をもらえるボランティアの、麻痺している奇妙な差別のありよう。 

 そこで話を戻します。
 では、なぜ震災のときではなく、この「コロナ禍」の時期に「9月入学論」が出たのか。それは、勉強が遅れる。受験に間に合わない。そんな都市部の親と子どもたちの、自己中心的な、あるいは誰かが出し抜いて「有利」になっちゃ困るという、〝エゴイズム〟〝悪しき平等主義〟から出てきたものにすぎないと思います。受験そのものは、自分自身の問題に過ぎません。
 加えるに〝ポピュリスト〟政治家が、これは人気とりになるとして乗っかってきた。それ以外のなにがあるのか。

 もし「コロナ禍」が、東京や大阪などの大都会ではなく、北東北の一部や九州南部の一部での蔓延だったら、「9月入学論」は出たのか。それははなはだ疑わしいでしょう。
 もちろん、「9月入学論」を言い出した首長には、宮城県知事も含まれていますが、おおかたは安倍内閣の官邸官僚、彼らは「コロナ禍」で手詰まり感がぬぐえず、経済活動ともっとも関係の薄いところから手を着けて、なんか〝やった感〟を演出したかったように見えます。結構なことです!
 それに、時流に乗る「維新」といった党派の政治屋の口吻で高まっていったと見ていいでしょう。 

 それとともに思うのは、「コロナウイルス」の発生が、首都圏や関西圏の大都市での発生が膨張したことで、感染者が「インフルエンザ」ほどの流行もなかった地方でも、いっせいに「非常事態」の網にかけられ、大都市なみにする。地方でもパンデミックが起こるのだと、あたかも〝脅迫〟めいた状況におかれたのではということです。
 そのなかで一部を除いて多くの地方自治体は、状況や感染状況を精査して、予防や医療体制を整えるいとまもないまま、大都市の厄災は、地方でも起こるという「一元化」のもと、いっせい「非常事態」に呑み込まれた。わたしにはそのように見えます。
 たしかに、いまどきの日本において、地方は弱体化して、中央のもたらす恩恵にあずかろうとばかり、中央の指示命令には、ほとんど逆らう気概もないように見えさえします。しかも、地方官僚も、中央官庁の若手キャリアが出向してきて、その頭の回転について行けない。「グズグズできない。なあなあじゃ、どうしようもない。どうすりゃいいんだ?」
 そんなときズバッと切り込んで、中央の意向を実現する若手出向官僚に頭が上がらない。前回のブログで触れた「権威」と「権力」ではありませんが、首長が「権威」として「よきに計らえ」のポーズを取って、若手キャリアに「権力」を丸投げしている自治体もあったように思います。
 そして国家的な〝脅迫〟のまえで、人びとは過剰に怯え、少なくない自治体が、具体的な方針をそれぞれの地方・地方で組み立てる「勇気」と「態度」を喪ってしまっていた。そのようにも見えてきます。
 ただひたすら政府なり大都市の首長の、過剰でポピュリズム的なパフォーマンスに振り回された。そうとも見えてきます。

 ところで、「9月入学」の話に戻します。
 よく知られたことだと思いますが、近代日本においての「9月入学」という制度は、1886年に帝国大学令が発布されたときに定まった制度でした。当時の帝国大学は、ほんのひとにぎりのエリートが入学するものであって、その学生は、庶民にとって、まさに「雲の上」といった存在でした。
 ですから、帝大に入学する者たちも、それなりの矜恃を持って入学するわけで、むしろ入学したことよりも、その後の学業をまっとうすることが難しい。それは学問においてだけでなく、学問を保障する学費や生活費用、親の負担など、さまざまな困難の待ち受けるものでした。つまり、入学にさほどの意味はなく、むしろ卒業して、いかなる役割を果たすことができるのか。それが当時の大学生のありようでした。
 それがいまは逆転し、大学入学が、世の「勝ち組」になったような傲りとなり、入学後は、ろくに教養も積まず学問を放棄し、ただ「プライド」と「収入」を満足させる、いい就職先ばかりを探し求める。
 そうなると受験難関大学に入学したことだけが、内実のない空疎な〝愉悦〟となる。たとえばそれは、東大などに合格したとき、合格発表の掲示板の前で〝胴上げ〟されるような、バカげた騒ぎとなっていくわけです。大学生としての矜恃がなくなるに従い、入学したという倒錯した価値だけが重んじられていく。

 ちなみに、かつての帝国大学は、東京帝大法学部をのぞくと、原則、無試験で、そのまえに旧制の高等学校に入学する必要がありました。
 それが現在の大学の教養課程に相当するものですが、この高等学校は秋入学であり、旧制中学などを卒業してから、秋の入試に向けて夏をはさんで受験勉強を行うというふうになっていました。
 しかし、当時の高等学校、それに準じる高等師範学校の進学者にはすでに20歳となっているものが少なくなく、徴兵令では20歳以上の男子が4月に兵役に就くことになっていて、9月入学では、丈夫で優秀な人材を軍隊に取られてしまうなどの事情が生じました。
 そこで、学生の確保を優先させる私立の大学予科や専門部が4月入学に移行する事態となって、官立の高等学校、高等師範学校も4月入学に変更したというわけです(この時代の大学生など高等教育を受ける者には、徴兵猶予がなされていた)。

 言ってみれば、軍隊との絡み、それから4月から年度予算が施行されるということで、それにあわせての4月からの新学期であり、都市部での中間市民層が形成されることで、彼らの子弟の上級学校への進学者が増え、また高等教育の社会的要請の高まってきた時代。ちょうどその1921年から、ほぼいっせいに4月入学に統一されていきます。
 ということは、そこにはなにも教育的な意図があったのではない。
 いまになって、あたかも教育的配慮のように、諸外国の大学なり高等教育機関が9月から新学期だから、それに合わせる必要がある。それが、「グローバリズムglobalism」なのだ。
 いったいどこまで「グローバル」に付き合うのか?
 まずはそんな意見がありますが、それであっても、「グローバリズム」はどれほど初等教育や中等教育にとって影響があるのか。教育的な関連性はいかほどなのか。
 世界に合わせるのなら、いまの高校を卒業したあと、ゆっくり受験勉強をはじめ、大学だけが9月入学、卒業もそれに準じて行う。そうすればいい話で、その4月からの数ヶ月の猶予期間は、学費のためのアルバイトをするなり、勉強するなり、むしろ自由な時間として若者に持ってもらうのもありだと思います。
 となると、経団連や企業あたりが、4月から入社してほしいから、いっせいじゃないとダメだ、などと言い出すでしょうね。
 しかし、大卒予定者が4年生になるかならないかで、いっせいに「就活」をし、その期間も長い。これはまさにおかしな横並びで、しかもそれ自体、まったくもって学業を妨害しているとしかいいようがない。
 そもそも新卒者だけに就職機会を保障するのは、企業にとって、どれだけ意味があるのか。企業は、あたかも多様な「人材」を求めているのではなく、いっせいに働ける「人数」を求めているのだと見えてきます。そこもあわせて考えていくべきかと思うわけです。
 また、いまの高等学校も、3年生になっての2月・3月の大学受験シーズンは、部活や体育祭、文化祭などの活動を保障するには、あまりにも日程が詰まっていると言わざるをえません。だから、大学合格者を多く出したい進学校では、3年になったら部活引退だの、文化祭は実施しないなどという学校も出てくるわけです。なんのための高校生活なのか。
 
 思うに、わたしは、いまこの「コロナ禍」の時期に〝論議〟を必要とする「9月入学」などを問題化する必要はないと思っています。またその〝論議〟の本位も、大学などの状況から、考えていくべきことと思います。

 さて最後に一言。
 「非常事態宣言」が解除になっても、まだ「コロナ禍」は、終熄したわけではありません。
 そもそも、「コロナウイルス」の出現には、過去のエイズ、エボラ出血熱、SARSなどの伝染病の出現とともなって、人間がもたらした地球環境への警鐘ととらえる科学者が多くいます。その意味でも「コロナウイルス」の問題は、ワクチンができたからといってすますことのできない、より根本的な問題が存在しているように思います。
 それは、この3月4月、そして5月にかけて、中国やアメリカなど「公害国家」の大気が、産業活動の停止により、劇的に浄化されていったこととあわせて、ただに「ウイルス」の厄災として狭く見るのではなく、世界の成長経済の陥穽として見ていくべきことでもあるかと思います。
      

 その意味で考えなければならないのは、いったいどこまで、わたしたちは「富」と「財」を求めていけばいいのかということです。
 一部の富裕者が、自らの富と安心安全のため、風光明媚な場所を占有し、防犯と侵入を阻止すべくガードマンとポリスに防衛させる「Gated community」で快適な生活を独占的に占領する。そのなかで使い切れない財産をもって「地位」「権力」を維持する状況。そうしたいまの世界の〝富の偏在〟をわたしたちは、いかに考えたらいいのか。

 この「コロナ禍」のあと、まだ人びとは、そうした「富」と「財」に執着するのか。
 いやそうではなく、だれもが気持ちのいい風の吹く青空の下で背を伸ばし、生存の糧を得ながら、いい音楽を聴き、楽しい会話を重ね、いろいろな過ぎにしこと、そしてやってくることを想いながら暮らしていく。そうしたことを静かに受け入れていこうとするのか。

 この「コロナ禍」のなかで、富と覇権を競う中国とアメリカの為政者の相互の中傷合戦、WHOの無責任さや独裁的な政治家の失政がよく見えてきたように思います。
 これまでの「歴史」を見ていくと、どんな悲劇であろうと、災厄の前で、政治指導者や政治エリートが怖じ気づき、自己保身をはかり、ほとんど機能しなくても、社会の統制は、人びとによって苦難をともないつつ自然に創られていったように思います。
 そして、こうした災厄は、歴史の流れを変えるというよりも、むしろこれまで隠されていた矛盾や亀裂、欠落を明るみにさせて、それを経験することで、人びとをより賢くすると、「歴史」は教えてくれています。
 
 それらのことは具体的に、折々にこのブログでお伝えしたいと思っていますが、そうした「歴史」について思うにつけ、そろそろわたしたちは、いまの「コロナ禍」のあとの自分自身のことを考えていく時期を迎えているのかもしれません。
 と言うことで、まずは、今日はここまで。

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明るい方向とは何か?~2020年夏学季「講座」を緊急開講します!

2020-05-18 15:01:44 | 〝歴史〟茶論
 高校生のころ、「人はなぜ生きるんだろう?」などという厄介なことを考えて、人知れず悩んでいたことがあります。
 それは思春期特有の一過性の〝憂鬱〟ってやつだったかもしれません。
 そんなとき「哲学者」と陰で呼ばれていた友人から、サルトルJean-Paul Charlesでも読んでみろと言われ、入門書的な『実存主義とは何か』という本を借りて読んでみることになりました。            
                       

 読んでみるとそこには、たとえばハサミはものを切るという「本質」があるのだけど、人間にはそもそもそうしたものはない。あるのは人間としての「実存」だけであるとありました。
 つまり人間とは、ハサミのようになんらかの目的によって存在しているわけではなく、生きるなかでさまざまなハサミが持つような「本質」を身につけたり、選び取ったりする。まさに「実存が本質に優先する」。人間には、生きるなかで多様で予期できない可能性が内在している。その「実存」にこそ意味がある。
 フランス人であるサルトルは、第二次世界大戦中、巨大なナチスに対抗し苦難をともなったレジスタンス運動を行っていた哲学者で、そうした苦闘のなかから全体主義に対峙する人間の自由の意味を、「実存」という思想に昇華させた哲学を打ち立てました。
 そしてサルトルの哲学は、田舎の高校生にすぎなかったわたしに、未来性、いまの思いを込めた言葉で述べるなら、未来に〝投企される自己〟といった、あたかも一条の光がさしてくるような期待感を抱かせるものだったように思います。

 その後しばらくして、友人の「哲学者」は、デカルトRené Descartes について語りはじめました。
 いまは違う名称になっているでしょうが、わたしたちの世代の高校の教科には「倫理・社会」という教科がありました。とりわけ、わたしの通った高校には、哲学科出身の熱っぽい授業をする教師(いまも尊敬している)がいて、彼の授業で友人の「哲学者」もわたしもおおいに刺激を受けたものですが、それもあってデカルトの名前も〝我思う故に我あり〟という言葉も知っていました。
 でも デカルトが、スペイン帝国の支配から独立をはかろうと長い戦争を闘った「オランダ独立戦争」のなかにあって、この思想を確立したこと。
 〝我思う故に・・・cogito ergo sum 〟の意味は、これまで世界では、神の恩寵や摂理、または絶対的王権や権威のもとで人間の思考や方向性は制約を受け迷信に囲まれていたけれど、デカルトは、そうした神や権威に凭りかからず、また阿ることなく、人間とは自らが思考して行動することに意味があると説いたこと。
 そして、デカルトから以降の哲学では、人間はドグマ(教義や教条、宿命や運命)といった外的な桎梏(手枷足枷)から解放されるべきとされ、自ら自由にものを考え行動するところに存在の意味があるのだと確信されたということ。
 友人の「哲学者」はそんな風なことを、訥々とした秋田弁で話してくれました。この会話もわたしには思春期の憂鬱を晴らす意味で、大きなものでした。

 以上の事柄は、いまでは「存在論」といった哲学的なカテゴリーのなかに括られ、わけしり顔な人びとに、もはや過ぎ去ってしまった哲学論のように扱われるのが落ちだと思います。でも、高校生のころ、サルトルを知り、デカルトの語る真理を聞いたときの新鮮な感動は、はなかなか忘れられるものではありません。

 もちろん、ほかにもいま『ペスト』のときならぬ流行で脚光を浴びているアルベール・カミュAlbert Camus が『シシュポスの神話 Le Mythe de Sisyphe 』などで表現した人間における〝不条理absurde 〟の悲劇。またチョムスキーNoam Chomsky の説く「生成文法」、つまり人間は、天気のいいことを、「です、天気いい、今日は」とは言わない。「今日はいい天気です」と言う。そこには言語文法が人間の〝生得的a priori〟な能力として内在されている。いわゆる言語と人間の相補的な可能性など、さまざまな哲学や思想に出会うたび、人間存在の寄る辺のなさ、哀しみも含みながら、その一方での人間の明るい可能性の所在を感じ取ったりしたものでした。

 そんななか、ここ数日の「コロナ禍」のなかで、なにか大事なことが抜け落ちてしまっているのではないか。そんなことに気がつきました。いや思い出したといってもいい。
 というのは、先日、政府から10万円の「特別定額給付金」が出た人びとのインタビューを聞いていて、腑に落ちないことに遭遇したからです。
 インタビューされた地域は、さほど「コロナ禍」の影響を受けていない地方の町村でしたが、そこで給付金をもらった人びとの口から、「政府からお金をいただいて、ありがたい」「安倍首相には感謝しています」という言葉が出てきたのです。
 べつに首相からお金をもらっているわけじゃないのになぁ、とそのときは思いました。理屈では、この給付金は自分たちの納めた税金を、「コロナ禍」で行動の〝自粛〟を強いられ経済的にも困難な生活を強いられているため、取り戻したという性質のものです。
 でも、ありがたいと言う。お上から下賜されたかのようなお金の意識。しかも、なぜ首相に感謝しなきゃならないのか?
 それは、日本人の「大に事える」、「事大主義」の隷属根性からのものだ。そう言って了えば、ことは簡単です。でも、どうしてそう思うのか。その疑念は残りました。と同時に、なんでこうにも〝お上〟、いわば「権威」や「権力」に弱いのか。もう民主主義国家となって、ずいぶん経つのに、です。

 歴史学では、よく「権威」と「権力」の相互補完性について語られることがあります。かんたんにお話しすると、昭和前期の軍部の台頭の仕組みは、天皇という「権威」を隠れ蓑にして軍人たちが暴慢な「権力」を行使したわけで、天皇という「権威」と戦争遂行者である軍官僚の「権力」関係は、相互に補って、あの戦争を起こしたということになります。
 しかし、そうした〝しくみ〟は軍組織にも浸透していて、実権を握っていたのは参謀本部や軍令部に属していた少壮の軍官僚(だいたい中佐か少佐)で、かれらは大将や中将といった軍首脳部がその「権威」をひけらかすため、鷹揚に大物ぶって「よきに計らえ」と無責任な態度を取ることを補完するように、その「権力」を行使していきました。
 そして「権力」をもった軍官僚は、作戦遂行は自分たちで独占するものの、その失敗については、軍首脳部もしくは天皇の「権威」に隠れて、ないことにしてしまう。つまりは責任逃れをはかるという術を身につけていました。それはまさに「黒子」に隠れる狡猾さというやつです。
 そのありようが、戦後に露見した開戦および敗戦の「戦争責任」を誰も取ることのない体制、いわゆる〝無責任体制〟となり、ちょうど「天皇」を頂点に、責任追及のため、むいてもむいても皮ばかりで、タマネギのように芯が出てこない。そんな体制を作り上げました。
 これはいまも会社などで、社長の「権威」を借りて、側近である社長室長などが「権力」を行使する。あるいは社長夫人などが「権力」をふるう。体育会系の協会でも、名誉職である会長の「権威」を背景に専務理事などが好き勝手に「権力」をふるう。どれもよくある話しです。
 それは国家体制からはじまって、地元の商店会や政党、労働組合などにもよく見られるものでしょう。
 つまり、「権威」と「権力」は相互補完をし合いながら、支配体制および支配機構を強め、狡猾にまた永続化させるものだというわけです。

 こうした話しも、じつは高校生のとき、たしか歴史の教師から聞きました。この教師は、東大の学生だったとき学徒出陣の最後の年にあって、20歳で本土決戦の特攻隊として、身体に爆弾を結びつけて蛸壺のなかに潜み、九十九里浜に上陸する米軍の戦車に体当たりする訓練をしていたのですが、そのさなかに戦争が終わったと語ってくれた人でした。
 その後、中途で終わった大学に戻り、日本の中世史を学び直して田舎の高校教師として赴任し、戦争体験をふまえてか、校長や管理職の誘いに乗らず、ずっと一介の教師として、わたしたち高校生に学問のすごさを教えてくれた人でした。

 そこで、話しを戻します。すこし単純化した話しとなりましたが、わたしたちの周りには、たしかに「権威」と「権力」の相互補完的な体制があり、これが為政者の権力を強いものにしています。では、そうした「権威」と「権力」の関係は、すべて悪なのか。
 歴史が教えるところでは、近代民主国家のありようとは、どうしても起こってしまう「権威」と「権力」の補完関係を、反対に有効な制度に変える〝制度転換〟にあったと語っているのです。

 「権力」とは、政治を執行し、民衆の生活をサポートするためには、どうしても必要なものです。今回の「コロナ禍」にあっても、〝自粛〟ということではありましたが、公的機関の閉鎖を行い、一方で協力ということでホテルなどに要請して医療業務の拡張をはかる。また海外との入国出国のなどの禁止や制限といったことは、まさに「権力」の行使と考えられます。
 その意味で、「権力」はときに有用なものです。しかし、「権力」は、今回の「検察庁人事」の問題にしろ、すぐに暴慢になりやすく、その濫用は厳しく監視されていかなくてはなりません。
 その場合、そうした「権力」の監視や統制は、相互補完的な関係にある「権力」を超える「権威」に担保させる。そういう「仕組み」が近代になって生まれてきているのです。ならばその場合の「権威」とは何かということです。

 1789年7月、バスティーユ監獄の襲撃を契機にフランス革命が起こりました。そのときの人権宣言とその後の1791年の憲法では、「権力」を行使する政府に対して、それを監視統制するものとして、「国民」を「権威」として位置づけているのです。
 つまり、近代国民国家および現代の民主国家とは、「権力」である政府や為政者はあくまでも「権威」である国民のもとにおかれている。それによって、君主制でも王政でも、独裁体制でもない現在の民主制の正当性は担保される。言葉を重ねると、「国民」こそが「権威」であり、「至高」であるわけで、国民主権とは、政府を統制抑制する「権威」の役割を担うというわけです。

 でも、いつの間にかそうした理論や理屈は朽ち落ちている。それが給付金をもらった人びとのインタビューで、わたしが気づいたことなのです。
 どうも人びとは、いま自分たちが立っている世の中のありように、その根っこに何があるのか。これまで人間が築いてきた「歴史」を見落としてしまっている。あるいは知らないでいる。
 たしかにいま盛んにやりとりされているNETやSNSで放出される毀誉褒貶のあれこれを眺めていると、さまざまな言説があり、さまざまな意図やたくらみが溢れています。でも、子細に見ると、どうにもその言葉が軽いのは、物事の背景をふまえることなく、また「歴史」の意味を正面から問うことをしない。もしくは軽薄な知識に振り回されていることにある。まずは〝流行(はやり)〟に乗ってこう! 攻撃するには「いい気になるな」的な言辞をぶちかましておこう。
 それはまさに「歴史」への視座が欠けていることでもあるように思います。

 それと相まって、また違う視点で「歴史」を見ていくと、もう一つ浮かんでくるのは、多くの人びとが、いつもどこかで明るい方向を目指して生きてきたということです。
 それが自己自身だけのことであっても、またいろんな人びと、または恋人や家族などとともにでも、人びとは、猜疑や嫉妬、憤怒や悲哀に沈むより、できるだけ明るいところ、陽の当たるところに「こころ」の置き場を求めるように歴史を刻んできたように思います。
 もちろん、なかには明るいところの在処がどこにあって、陽の当たる場所の意味がわからず、失意に暮れ、曇った眼差しで世の中や他者を見てしまったり、暴虐な君主や独裁者に身を任せてしまったこともあるでしょう。
 この「コロナ禍」のなかでも、他者を差別したり、悪の在処を言挙げしたり、あたかも正義である〝自粛〟の執行人みたいに告発や密告にいそしんだ人びともいたかと思います。正しいことはかならずしも人びとを救うことにならないのですが・・・。
 
 そんなとき、かつて新鮮に感じたサルトルの説く「実存」がもたらす人間自身の可能性を思い出します。またはデカルトが述べた、どこにも頼らず縋らず、神や絶対者にひれ伏すのでもなく、いつも自分で考え行動する。〝我思う故に我あり〟という精神のひろがりを想います。
 加えるに、フランス絶対王政を終わらせたフランス革命で宣言された国民こそが「権威」「至高」であるという、自身が主人公であるという考え方。そうしたことが、現在のわたしたちの「歴史」に息づいている意味を思うわけです。やはり、そうした事柄は、「歴史」を通じて感知されるものなのです。

 とは言うものの、いつまでも若造じみたことを言っていて、恥ずかしくも思うのですが、しかし「歴史」を訪ねて知ることで、まるで眼に光が注がれるように視野が開かれていくってことも確かですし、「歴史」を知ることで、物事が遠くまで見通せたように思うことは気分のいいことなのです。
 給付金は、なにもありがたがってもらう筋合いではないのです。そういうふうにわたしたちは「歴史」を重ねてきたものなのです。

 さて、長い話しは、これくらいにして、最後に講座についてお知らせがありますので、お読みください。
 2020年夏学季の講座ですが、当初、二講座を準備していたものの、「コロナウイルス禍」によって会場の確保が困難になり、また自粛規制によって、二講座ともに開講は難しいと覚悟を決めていました。
 しかし、講座をこの秋、あるいはそれ以降にやろうとしても、この災厄は、またいつ第二波、第三波とやってくるかわからず、またいま現在、人との会話が切断され、相手の表情や言葉に含み込まれる情感などが脱色され、「対話」が喪失された状況になっていることに、わたし自身、強い危惧を持ちはじめてきたこともあり、やれるうちにやっておこうと決断しました。
 結果、実施できるのは会場の関係もあり、四講だけで、『時代に杭を打つ!』partⅢのみを縮小して開講することにいたしました。
 この講座は、以前もお知らせしましたが、質疑応答も含め、対話を考えた講座にしたいと思っています。

 日程については、下記にフライヤーを貼っておきますが、6月14日(日)午前10時から(質疑応答含めて約100分)を初講とし、6月21日(日)、6月28日(日)、そして7月12日(日*この日ばかりは13時~)に池袋にある「としま産業振興プラザ」(通称池ビズ)で行います。会場は大きな場所を確保していますので、お互いに間隔を置いて、お座りいただけます。
 もし、このブログをご覧になり、参加したい方がいらっしゃましたら、yagashiwa@hotmail.comにご連絡ください。

 というわけですが、日々、ざわざわと落ち着かないことかと思います。この先の不安、どうのように生きるべきか。さまざまな思いが交錯する毎日かとも思います。
 講座は、いちおう日本の戦後の思想家をテーマにしますが、それぞれの時代で語られた思想といまのわたしたちのありようを照射するお話になるかと思います。いまのわたしたち自身の足元を照らすものにしたいと考えています。
 まずはわたしたち自身、まだまだ〝未来に投企された存在〟であるべきですし、その意味で、自身で考え行動する大切さを共有できればと思います。

 

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厄災を前にしていかに生きるか!

2020-05-10 22:43:38 | 〝歴史〟茶論
 物議を醸した「アベノマスク」はいつになれば届くのか? 
 「アベノマスク」の配布率は日本全体で5%にもならないそうで、いまでは近くのコンビニやなぜか中華料理屋やタピオカミルティーのお店でも、ふつうにマスクは販売されていて、簡単に手に入るようになりました。そして一部では「値崩れ」しているともいわれています。
「アベノマスク」は必要なのか? いったいどうしたものでしょう。

 これはあきらかに〝失政〟なのでしょう。「見栄え」だけをよくする、小手先の民衆愚弄の政策とも言えます。これでわかったのは、東大出の頭がいいとされた「官邸官僚」が、いかに出来が悪く、人びとと乖離した存在なのかということです。かれらは処理能力には長けているけど、物事を深く考えられる質ではないし、空疎な口舌にこそ自分の出番だと思っている節があります。でも、これはわたしがこれまで東大に限らず、いわゆる一流大学に進学していった学生たちを見ていて、いつも危惧していたことです。
 そして、彼ら彼女らは、ぜったいに〝間違い〟を認めたり、〝謝る〟ことをしない。ケチな「学歴」といったプライドしか持ち合わせていない。

 そんな「アベノマスク」が届く前に、といってもわたしのところには届いているのですけど、もう5月です。「田植え」の季節になってしまいました。
              
 わたしは農業の盛んな北東北の地方都市の出身で、もちろん、わたしの両親はともに農家の生まれです。
 父は、神秘的な湖ということで知られる秋田県田沢湖から北に向かった寒村の生まれであり、母も県南の平野部のふつうの農家の出です。
 父の実家は岩手県境に近いこともあるのか、いわゆる「南部曲屋」の構えをしていた農家で、祖父は、ロシア製の銀色の猟銃で熊や鹿を仕留めてくる猟師でもありました。
 子どものころ、父の実家に行くと、熊を仕留めてきた祖父が、熊の皮の裏についている脂肪を石匙のようなへらでそぎ落とし、近くを流れる清浄な沢水に熊の毛皮を何度も浸して、ゆっくりゆっくりと丁寧に皮をなめしていた姿を思い出します。
 祖父は、当時としては背の高いがっしりとした偉丈夫であり、おおいに大酒する人でした。
 農家の仕事が終わって夕方ともなれば囲炉裏の前にどんと坐って、小さなわたしを祖父は股の間に坐らせて、大きな茶碗に酒をいっぱい入れて、ごくりごくりと、じつにうまそうに呑んでいる人でした。
  なにも語りもせず、ただにこにこしながらお酒を飲む人でした。

 その長男であったわたしの父は、理由はわかりませんが、農家を継ぐことなく、妹さんにお婿さんをとって家を継がせ、自身は農業技術者として県庁に勤める道を選びました。そこで農家の三番目の娘であった母と見合いして結婚したと聞いています。もし父親が農家を継いでいたら、わたしもきっと継いでいたことでしょう。
 ときに父の祖父は、わたしが八歳のとき、大酒が原因で、脳溢血であっけなく亡くなりました。ですから、わたしの父方の祖父の記憶は、物静かで大酒し、銀色につやつや光るまで猟銃の手入れをし、また根気強く熊の毛皮をなめしている姿です。

 母の実家。そこには子どものころよく行きました。夏休み、冬休みだけではなく、田植えや稲刈りの時期にも、母が手伝いに行くついでに、よく連れて行かれました。
 母の実家は、北東北でも大きな河川である雄物川流域にある広々とした平野のなかにあり、田んぼのほか、祖父は一山をすべてりんご畑にしていて、リンゴ農家として暮らしていました。
 母方の祖父は、若いころ競馬のジョッキーだったという話しでしたが、わたしが知っている祖父は、書をよくする人であり、リンゴ山の中に庵を結んで、そこでいつも墨を擦って難しい文字を書いていた印象があります。

 そうした祖父の朝は、ひどく早かったのを記憶しています。
 朝、子どもであるわたしが空想でいっぱいになった夢を見ている時間、まだ夜の空が明けきらないころに、祖父はすでに田んぼに出ていました。
 いちど眠い目をこすりこすりしながら、祖父といっしょに田んぼに行ったことがあるのですが、祖父は田んぼに出ると四方の水路を確認し、水に手を入れて田んぼの水温を確かめ、まだ暗い田んぼ全体を眺めながら、あるところでは水を抜き、また水入れをして、その上で稲を一つ一つ確認するように手を添えてその生育の状況を観察し、そしてそれが終わると稲たちに向かって、声かけをして、またつぎの田んぼに移って、同じことをしていました。
 そして、夏の陽射しが強く田んぼの水面を照らす時期、きつい照り返しのなか田んぼに群生した雑草取りをするのですが、そのときはまるで稲を励ますように「エイエイ」と声をもらしながら、雑草を取っていく。
 それは稲の生育を願い、あたかも稲とともに生きていこうとするように見えました。いま思うには、それは稲とまさに〝連帯〟しているような風情だったように感じられます。
 リンゴの撰定、袋がけ、その作業も祖父は、じつに丁寧に慈しむようにリンゴの木に語りかけながらやっていて、それは一つのきまりきった日常的所作であったのでしょうが、じつに手際がよいもので、そうした日々の所作が「無形の作品」のようにも見え、じっと眺めていた記憶があります。

 よく作家や学者などの文章や語りには、農作業の手際のよさや畑の畝の盛り上がり、あるいは整然ときれいに規則正しく稲穂がならんでいる田んぼを見て、これが「日本人の美意識」だとか、「日本精神」のあらわれだとか書いていたり記されていたりすることを目にします。
 でも、そんな言葉に出くわす度に、わたしにはなにか疑わしいものに触れた気持ちの悪さにとらわれます。
 じっさい、わたしが子どものころ見ていた祖父たちの仕事ぶりは、そんな浮ついたことではない。すくなくとも、祖父たちは「日本人の美意識」や「日本精神」を表現するために、農家の仕事をしていたのではなかったように思います。
 そんな高ぶった賞賛の言葉やおだてとは無縁な地味な所作があるだけだった。それのみが祖父たちにとって、なによりも大切なことであったように思います。
 土や水、空や雨、そして野生の熊や鹿、あるいは稲やリンゴとの長いつきあいのなかで、そうした自然に生きていることに対して謙虚であって、自然から一歩引いたなかで生きる。
 都市のなかで何ほどにもならない地位や富しか誇ることができない人びと。いわば、実体験や生活感の希薄な人びとが、みずからの〝不十分さ〟〝不安さ〟を覆い隠すために、上からの目線で「名付け」をする。「美意識」だの「精神」だのの仰々しさ、そうした言葉や解説などとは、見事なまでにも遠くにある実直な〝暮らし〟・・・。そうしたなかに祖父たちはいたのだと思います。

 そんなことをいまに思い出すと、たしかに実体験や生活感が希薄ななかで起こった、実効性が乏しく矮小なガーゼ仕立ての「マスク」騒動のドタバタ。
 もしかすれば、それはたんにいまの安倍政権の〝失策〟というだけではなく、わたしたちの生きている「現代」という現実とかけ離れた空疎な時代が生みだした〝瑕疵(かし)〟のようにも見えてきます。

 ところで、ここで歴史について、すこし書きます。
 前回は鎌倉幕府の飢饉への対応について、危機回避の最終手段としての〝奴隷〟のありように絡めて、すこしだけ触れましたが、奈良時代の正史というべき『続日本紀』には、いまは撲滅されたといわれる天然痘の猖獗(しょうけつ)に苦しんだ聖武天皇の治世についての記述があります。

 高校で日本史を学んだ経験があれば、藤原不比等の息子たち「藤四子」が、天平9年(737年)にあいついで天然痘で没したことを知っている方も多いかと思います。
 日本列島は「島嶼国」であるが故に、疫病はたいがい外から流入する傾向があり、このときも新羅で疫病が大流行であることを知らず、遣新羅使が派遣され、遣新羅使の一行百人余りのうち、この天平9年正月に帰国した時点で、大方は天然痘に倒れ、一行のうち帰国できたのは40人だったとされています。
 そうした状況にもかかわらず、天然痘への防御や臨床的知識がなかったことで、生き残った一行が復命のため参内することになり、そのため朝廷の役人の間でまずクラスターが起こり、不比等の子である房前、麻呂、武智麻呂、宇合が順番に没し、廟議を司る役人の大方も病に死すという事態となります。そして、それが瞬く間に庶民まで感染する惨憺たる状況になります。

 ところで、疫病とはおもに貧困層のなかで発生し、手当のないまま多くの死者を出すと思っている方も少なくないでしょうが、じっさいいまの「コロナ禍」もシンガポールやブラジルでは下層生活者の地域で感染拡大を起こしている傾向があるものの、皮肉なことに、そうした貧民を大量に搾取し、その上で富を重ねている富裕層も、一旦疫病がおこると、疫病はそこに留まりません。あっというまに富者にも襲いかかっていきます。
 歴史が教えるところでは、疫病が起こった際には、貧民はつねにこうした災厄のなかで最大の〝弱者〟とはなりますが、それだけではなく彼らを虐げ搾取して、不可視な存在として放置した者たちも、ある意味〝平等〟に災厄を浴びるということです。〝権力者〟もうかうかしてられないのです。
 
 話しを聖武天皇の奈良時代に戻します。聖武天皇は、この事態にどういった対応を取ったのか。まず天皇は、聖徳太子の施療事業を参考に、興福寺内に薬草を栽培・手配し、薬を施すための「施薬院」を置き、一方で飢えを取り除き、病を救済するための「悲田院」を建てます。
 さらに養老律令で定められていた「医疾令(いしつれい)」をもとに、医療職や内薬司(宮中)、典薬寮(宮外)の組織拡充をはかり、また医学教育を強化します。
 そして、医術習得に秀でた者を「国医師」とする制度を確立し、その医師らは薬嚢(やくのう)をもって都を回り、困窮した病人に薬を与え、重症な病人を悲田院に収容させ、病が拡大しないように隔離したと記されています。
 くわえて、光明皇后も都の東西に「悲田院」を置き、施療のため、いまのお風呂にあたる「湯室」を造作し、病人を不潔から解放したといいます。
 鎌倉時代に書かれた仏教史である『元亨釈書』には、そこで慈悲深い仏心を持つ皇后は、病人の身体に浮き出た醜悪な膿を自ら吸い取ったという話が記されているのですが、それは疑わしいものの、皇后自ら陣頭に立って、病者の世話をしたというのは事実のようです。
 さて、その際の財源です。まずは聖武天皇自ら各地の朝廷財政を投入していきます。そしてそれだけではなしに、光明皇后には父の不比等から相続した封戸(稲などの収穫)があるのですが、そのあわせて四千戸あまりを投入したといいます。それはちょうど、いまでいう東京を除く関東六県の年間予算のすべてを投入する規模だったようです。さらに貴族たちも俸禄や私財をも含めた財産をいっせいに放出し、これらに当てる。
 これは鎌倉時代に、執権の北条泰時が飢饉に際し、自分の知行国の収入の大部分を当てて救済に乗り出したのとよく似ています。まずは為政者が自らの財産を供出し、率先して財源確保をはかる。
 
 こんなふうに見ていくと、古代からの為政者は、疫病や災厄に際し、まず厄災と対峙するための病院をはじめ薬や医師などの医療制度を打ち立て、病人の隔離などを迅速に実行する政策を行う。
 その一方で、疫病で生活できなくなった貧民救済のための、悲田院設立などの社会政策を行う。
 さらにその財源については、朝廷財産の供出を率先して行うとともに、富者や貴族の出資を徹底し、とにかく早急に疫病や災厄の苦しみから人びとを救済するという施策を行っていることがわかります。
 その意味で、現在の「コロナウイルス禍」への対応のありようは、医療確立、社会政策の拡充、それにともなう財政政策の策定が柱となっているわけで、古代から大方は変わっていないということができます。
 しかし、聖武天皇や鎌倉幕府の対応で注目すべきは、疫病や災厄に対して時間を置かず、身分格差や差別を乗り越えて、つぎつぎに迅速かつ徹底して行っている状況が見えてきるということです。それも、医療の進んでいない時代にあってです。
 またそれ以上に注目すべきは、こうした為政者の疫病や災厄への態度に見られる姿勢です。
 紙量もあるので、一つだけ聖武天皇の例をあげれば、天皇は自ら「自分が君主になって数年経ったが、徳によって人民を教え導くことが十分でなかったために、人民を安らかに暮らさせることができない。そのため、わたしは日夜憂いている。・・・春以来の災厄によって、天下の人民が多数死亡している。まことにわたしの不徳によってこの災厄が生じたのである。いま天を仰いで慚愧(ざんき)にたえない。そこでみなが生活の安定を得るために努力させてほしい」と述べていることです。
 つまり言い換えれば、この疫病・災厄は天皇自身に〝徳〟がないから起こったのであり、申し訳なく思っているということなのです。
 ここにはもしかして、このあと平安初期に最澄によって伝来した「天台仏教」における「悔過(けか)」、いわば人は自らを省みることで自らの不足と不徳を悟り、そこからでないと新たな救いはないとする考え方が、影響を与えているのかもしれませんが、大切なのは、聖武天皇自らが自身の〝薄徳〟〝不徳〟を詫び、〝仁徳〟が為政者にとっていかに大切かを説いていることです。
 このときの聖武天皇は、疫病のなか、神道や仏教への祈りや願い、さらに身を清らかにして、仏道に励むといったことを再三行っていますが、まずは、自分の至らぬさが災殃を招いているという地点に自らを置き、そこから救いを模索しているというわけです。

 もう翻って考えるまでもないでしょう。
 もちろん、いまの時代の為政者に〝徳〟など求めるのは古すぎるのかもしれません。しかし、欧米の為政者や首長が、自身の言葉で、冷静かつ事態の深刻さを科学的・医学的知見を交え、プロンプターなど見ずに直接的に人びとに語りかけているようすを眺めるなら、〝徳〟とはなにか。〝仁徳〟は、ごく自然にその人の品格ないし言葉のなかに現れるものだと思わざるをえません。

 疫病や災厄は、だれの身にもふりかかるものです。そのなかで、いかに「言葉」のもつ意思と人びとに向かい合う「態度」が問われるのか。
 このたびの「コロナウイルス禍」が、このあとどんな展開になるのか、わたしにもよくはわかりません。そうしたなか、いまのこの〝自粛〟の風潮に、どうしようもなく急に怒りが吹き出てくるときもあります。
 でも、この事態に対して、寄せ集めた知識やSNSの恣意的な流言で、一喜一憂してもなにもはじまらない。それだけは確実です。いくら「名付け」てみても「解説」されてみても、この先行きはなかなか見通せません。
 ならば、わたしの祖父たちがそうだったように、日々のなかでそれぞれの時間に意味を見いだしながら、何事かの「仕事」に意識を傾注し、丁寧に過ごしていくしかない。わたしにとって、それは書くことかなと思うしだいです。

 とはいうものの、思い出すのは教師としての初任校であった農業高校での5月の晴天のことです。この学校では〝さなぶり(早苗饗)〟といって、全校で田植えをする行事がありました。
 今年は、もしかして休校となって、この行事はできないのかもしれませんが、いまになって、何十年ぶりかに田んぼに入って、泥のぬかるみのなかで「田植え」がしたくなってしかたがない。困ったものです。 


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〝コロナウイルス禍〟と〝特攻〟とは?~戦時下と現在の日本人~

2020-05-02 18:56:22 | エッセイ
 5月になりました。一年で一番いい季節と言っていいでしょう。

 ツツジにサツキにバラ、黄菖蒲に藤、芍薬に杜若、ライラックの紫もきれいだし、赤やローズピンクのカーネーションも咲き誇っています。
    
 そして鳥たちも活発です。
 近くに多摩川が流れ、森の多い地域であるので、わたしの家の近くまで、メジロやホオジロ、センダイムシクイにコゲラやウグイスがやって来て、運がよければカワセミの姿も見ることができます。
             
 そんないい季節でありながら、〝STAY HOME〟のかけ声と呪縛(?)に、誰もが従わざるを得ない。みんな「コロナウイルス禍」のせいだ。そうあきらめざるを得ない。

 テレビもネットも、マスメディアには連日、ネット著名人からコメディアン・芸能人、スポーツ選手が、入れ替わり立ち替わって〝STAY HOME〟を呼びかけています。
 それら著名人のなかには、もともと閉域であるネット世界のなかで自己実現を遂げた人もいて、その人にとっては〝STAY HOME〟がなにも苦にならないのでしょうし、呼びかけに賛同している芸能人もスポーツ選手も生活に困る人たちとは思えず、だからこそ「家に籠もろう!」と問題意識も持たず自信を持って呼びかけたりできるのでしょう。
 しかし、テレビやネットで呼びかけているこうした人たちに、はたしてそれを語る資格ってあるのか? もしかしてボランティア風に見えて、勘ぐると、これはいい儲け話ではないのか。そんなことへの自責とかはないの?

 じっさい「STAY HOME」と言われても、多くの人びとは、そんなことで済ませる状況の人ばかりではありません。自殺者と思わしき人びとも出てきました。失業率が1%増加すると、これまでの統計だと2400人程度の自殺者が出るとされています。もうかなりの失業状態に人びとは置かれているのではないか。
 最近では飲食店ばかりがテレビなどで取り上げられますが、スポーツクラブのインストラクター、学費を稼ぐために必死にバイトしている学生、派遣、パートの主婦、工場での非正規労働者、いろんな事情で風俗系の仕事をせざるをえなくなった女性、とにかく仕事を失った、補償はなにもない、やりがいを失った、そんな人の前で、こうした彼ら彼女ら著名人の訴えは、むしろ〝脅迫〟〝恫喝〟のようにも聞こえてくるのではないかと思います。

 ところで、そんな状況のなかで、これまで「歴史」を生業にして、さまざまなことを語ってきたわたしが、どうしても実感としてつかめなかったことがあったのですが、それが今回の「コロナウイルス禍」の世相を見ることで、酷薄なまでに見通すことができた感じがしています。
 それは1930年以降の「アジア太平洋戦争」のなかで、あれだけ無謀な戦争、あまりにも理不尽な戦いに、なぜ容易に日本人がのめり込んでいったのかということです。日本人が全体主義(=ファシズムfascism)に雪崩を打って突入した理由はなになのか。
 その理由については、言葉や理屈ではわかっていたつもりでしたが、実感では理解できませんでした。しかしそれが、今回の「コロナウイルス禍」のなかで、おおよそが肌感覚として実感できたように思います。
 一言で述べるなら、それは〝日本人の弱さ・脆さ〟に起因する何かということです。
 関東大震災で行われた自警団(民衆による自主警察)らによる朝鮮人虐殺の惨状をまのあたりにした詩人金子光晴は、「日本人の上っ面がひんめくられて、オラオラといった地金が出てきた」と述べているのですが、その言葉に沿うならば、その地金の根に、日本人の〝脆弱さ〟があるということ。そんなことが、今回の「コロナウイルス禍」のドタバタのなかで見えてきたように思います。
 言い換えるなら、〝困ったときはお互い様〟などという上っ調子な情緒がメリメリと剥がされて、弱さゆえの強情で傲慢、自分さえよければいい、人を傍若にも小馬鹿にして差別排除する下卑た品性が表通りを闊歩する。それが実感されたと言ってもいいのかもしれません。
 
 「コロナウイルス禍」は世界の人びと、もう少し狭く見て、日本人にとっても「全体的」な〝危機〟と言っていいでしょう。つまり、阪神大震災や東日本大震災のように、ある意味、地域的に限られた危機とは性質を異にして、戦後初めて、日本人は世界とともに「全体的」な〝危機〟に直面したと言えます。
 そのなかで、いかに日本人が〝危機〟にたいしてタフじゃないのか、耐性がないのか。
 たしかに21世紀に入ってからの、ここ数年の日本人の姿を見るならば、ことさらに「恐怖」に弱かったように思います。たとえば、すぐ〝絆〟などという情緒的な言葉を持ち出し、原発の被害に真っ正面から取り組もうとしなかった。日本の形骸化した社会体制や教育制度に変革のメスを入れるのに怖がって、そのまま何十年も放置してきた。言い換えれば、日本人は、いまどきの若者の姿を見るまでもなく、社会変革や自身が傷つく可能性のあることに、臆病でずっと〝怖がり〟だったふうにも見えます。
 そのなかで、今回の「コロナウイルス禍」の〝危機〟を前にして、そのツケが、とりわけ気持ちの弱い者、心の脆い人びとのなかから、情緒的にまた過激にも浮き上がっている。そう思えるのです。

 そのひとつが、昨日今日には〝自粛警察〟などともいわれるようになった、人びとの視野狭窄的で異常なほど悪意となって肥大化した〝攻撃性〟です。とにかく人を攻撃して安心したい。正義に身を寄せたい。
 他県ナンバーに目を光らせ、見つけるとその車に傷をつけていやがらせをする。高速道路での監視。余所者、とりわけ東京からなどというと、ほぼ〝ウイルス〟〝ばい菌〟のように扱う。
 さらにパチンコ屋やライブハウスを目の敵(かたき)にする。飲食店に〝自粛〟しろと張り紙や無言電話、恐喝するなどして圧力をかける。
 宅配便の人に、いきなりアルコール消毒液を噴射したり、マスクをしない子どもはコロナをまき散らす元凶だと騒ぐ。スーパーに人がいっぱいだという理由で〝三密〟だと騒ぎたてる。
 これには、政治的な〝ポピュリズム〟のなかで権力を得た小池東京都知事をはじめとする神奈川、大阪、千葉などの首長の、自身への〝強権的ヒロイズム〟に対する抑制の効かなくなったあざとい行動が、大きく影響していると考えてもいいでしょう。
 なんの科学的根拠もなく、〝ロックダウン〟などといった激しい言葉をさらりと言いのける。自身の立ち位置の高みを取るのがうまいとしか言いようのない振る舞い。
 そして、補償を不言にして営業しているパチンコ店を「悪」と決めつけ、名前を公表するとまでする。一見「正義」に見える「私権」への抑圧を強権が行う。どこまで事業者を説得したのか。
 結果として、そうした振る舞いが〝脆弱〟な人びとの心の皮膚に粟粒を浮き出させていく。
 事実、先日スーパーで、子どもを連れた母親が、店員に正論を振りかざすように、〝三密〟じゃないの、どうにかしてよとヒステリックに大声で叫んでいるのを見かけました。老人がマスクをしない子どもを、お前らが「コロナ」まき散らしているんだと騒いでいる姿も見ました。 
 状況はともあれ、「三密」を防ぐことが、何よりの正義だ。若い人が無症状でウイルスをまき散らしている。年寄りはそのウイルスで重篤になって死に追いやられる。だから、子どもを叱る。
 このように、あまりにも短絡的な言説がまき散らされ、脆弱な心性のなかで不安に膨れ上がった〝攻撃性〟がのさばっている状況がここにはあります。

 二つめに、危機に弱い人びとは、〝嫌中〟や〝嫌韓〟にうつつを抜かす人びと同様に、容易に「仮想敵」をつくって排斥し安心しようとする。中国が悪い! 武漢ウイルスだ! 忖度官僚が悪い! アベノマスクが悪い! 
 その情緒的な上っ調子さは、まさに何かの〝金科玉条〟的なお墨付きをえようとする卑しさが後ろに控えていて、悪いのは「WHO」のテドロスだ! まさにそれはトランプ米大統領のやり口ですけど、そんな「正義正論」に自身の身をおきたがる。それで安心したいという〝脆弱〟さが透けて見えてきます。
 はたして相手を「仮想敵」とする根拠はどこにあるのか。おそらくはネット記事や書き込みを故意に鵜呑みにする。あるいは流行っているもの時流に乗っているものに乗っかって、安易に溜飲を下げようとする。
 しかも、そうした「仮想敵」への批判や恨みを、濾過されていない猥雑で暴力的なネット空間のなか、矯激な言葉でSNSでまき散らす。それで安心しようとして、自己検証などは考えない。
 すくなくとも政治家が一方的なTwitterで発信することは止めるべきかと思います。政治家は自身の地の言葉で、相手に語るところに価値があってしかるべきではないのか。言葉への責任の厳格性をTwitterは削ぎ落としてしまうと言ってよく、またSNSの短文では、なにを根拠に、どう調べてその言論が担保されているのか。まるでつかめない。結局、物議を醸し出す派手な立ち回りと見せ方だけの、あるいはネット炎上での効果しかない。

 たしかにいまの安倍晋三政権の、マスクにしろ、10万円の補償にしろ、そうしたもたつきは、もともとは習近平の来日、オリンピックの実施、インバウンドなどという浮ついた小金儲けに目がくらんで、「コロナウイルス禍」の対策に腰が引け、さらに誰からも文句の出にくい「学校一律封鎖」に無理矢理突っ込み、「緊急事態宣言」を出しながら、自分らの金でもないのに、その補償を渋り、とにかく〝見栄え〟ばかりを意識した政策と運営そのものに原因があります。
 おまけに「アベノマスク」は怪しげなもので、「アサヒノマスク」への的外れの攻撃、すぐムキになるありよう。そしていまもまだその状況が続いていることに辟易とさせられていますし、もっと言えば、今すぐでいいから「政権交代」すべく、すべての組織が動き出すべきではないかと思いますが、しかし、まずそれはここではおくとして、いま必要なのは、勢いや時流に乗るのではなく、また絶対自分に跳ね返ってこない、安心できる「遠い敵」への攻撃に快哉を叫ぶのではなく、立ち止まって、自分自身のなかにこそ、ほんとうの「敵」が存在しているのではないかという内省だと思うわけです。 

 そして最後に、人びとの〝脆弱〟さが見て取れるのは、過剰な同情や無定見を計算高く隠蔽した〝寄り添う〟というありようです。
 よく言われるようになったのは、医療看護を担っている人を「リスペクト」しろ! 彼ら彼女らは、命がけでやっているんだ! 感謝しろ!
 医療現場の現実を聞きかじっただけで、すぐに「正義」の御旗に掲げる。とりあえず、そう言っておけば、だれからも批判されない。それを口にすることで、自分を「正義正論」の立ち位置に置けるという爽快な気分。
 よく周りを見渡してみると、わたしたちもそうした薄っぺらな情緒で、自分自身を安全なところに置いている可能性があります。ほんとうに現場を知っているのか。安易なより添いだけでなく、過酷な現実をどのように痛みとしてわかっているのか。もしかして、批判からの隠れ蓑と自己保身、それとまさに自分こそが、正義なのだという過剰な振る舞いをしてはいまいか。
 
 そうしたいま現在の様子と「アジア太平洋戦争」のなかで見えてくるのは、ひとつに「現下の情勢」だの「時局」だと言いつのり、国家の方針に不服従だったり、違背したとみなした人びとに、いまどきの「自粛警察」さながらに、「あいつはアカだ!」「敵性音楽を聴いている!」「非常時なのに高そうな服着てる!」「供出物を出さない!」「男、女と話している!」・・・。
 そうやって、「国家」のありようや自身の言説に疑いをまったく持たない。ただひたすらに「国家」の方針、時流に添って、他者の権利や自由、それぞれが、どんな事情だったのか、それを見ない考えない考慮しないで「正義正論」を振りかざす。じぶんの〝脆弱〟さを隠すためにも優位に立つこと狙う。
 そして、よく知りもしない「英米」を仮想敵国としてでっち上げ、アメリカ人はみんな享楽的で根性ができていないなどといった根拠の乏しい、いわば観察もせず不確かな理由をとってつけて、周囲を惑わし、自らの過ちや欠落を誤魔化し、嘘をつく人びとのありよう。
 さらに、若者が戦闘機に、あるいは魚雷に乗って、ほとんど効果のない「特攻」を仕掛けたとき、それを起案し実行した無謀で愚鈍でのさばり返っていた軍幕僚や政府官僚、権力を批判せず、〝裂帛の精神〟だの、〝滅私奉公の極み〟などと、権力に迎合し、それを恥じもせず、特攻隊の若者を指嗾し無駄死にさせた人びとの存在。
 そして戦後生き残ったののはいったい誰だったのか。それは一切責任をとらず、安全なところにいて、後ろ手を組んでいた日本人でなかったのか。

 
 脆弱な人びとは、なによりも自身が〝安全〟で、〝危機〟を逃れることを考えます。そのため国家権力の言うなりに、まさに〝自粛警察〟のような攻撃に血道を上げて、「仮想敵」をでっち上げて溜飲を下げ、過剰な同情や同調、鼓舞することで、「命がけ」などという言葉をまき散らし、自分の立ち位置を高めて、浅薄な「正義正論」に身を委ね、苦しさから逃れようとします。
 そして、物事が済んでしまうと、そうした自己をふりかえることなく、さっさと忘れてしまう。その意味で、この「コロナウイルス禍」のなかでいま見えてきている状況は、まさにさきの「アジア太平洋戦争」での〝地金が剥き出し〟になった日本人とじつによく似てきていると言えます。

 はたして歴史上、〝危機〟に対して日本人は、こんなにご都合主義的で脆弱だったのか? わたしが見るに、それはもしかして「近代」「現代」になってより顕著になってきたのではないかという気もします。
 それとともに、現在に生きるわたし自身も、もしかしてそも三つの〝脆弱〟のどれかに引っかかっているのじゃないか。考えなくてはなりません。
 
 今回のブログは、これで終わりにしますが、最後に長めの一言。

 さいきん時間に任せて、鎌倉時代の幕府の正史ともいうべき『吾妻鏡』をつらつら読んでいて、ふと気がついたことがあります。

 この鎌倉からの中世という時代は、飢饉に疫病、天変地異、戦乱が、それこそ頻繁かつ連年続いている時代でした。とりわけ、「コロナウイルス禍」と同様な疫病の流行で、多くの人びとは死に絶え、ニューヨークの「コロナウイルス患者」の死亡者の如く、疫病の拡大が怖れられ、それぞれの遺体は選別や区別されることなく、みんなまとめられて地中や荒野に投棄されるような状況でした。
 しかしながら、そのなかで人びとが生き延びることができるよう、ほんらい奴隷制は幕府の禁ずるところだったのですが、生きる手段として、裕福な者が飢餓に瀕した人びとを奴隷として買い取って、労役を課す一方で、生き延びさせ、食うための手立てをすることを幕府は「養育の功労」として許しているのです。
 そして飢饉が終わり、人びとが奴隷となった家族を取り戻したいときは、買い取られた金銭を幕府が援助することで、奴隷の身分から解放するといったことが記されているのです。
 詳しくは、つぎの機会にまたお話ししますが、そうした飢餓からいかに生き延びるかについて、ときの政治権力は、なにも傍観していたのではない。むしろ、その状況下やその時々の通念から、さまざまな手立てを生み出していたと言えます。

 長くなりました。まずは〝生き延びること〟が大事なことだと思います。この反省を、のちの時代に伝える意味でも、〝生き延びる〟ことが大切で、世界もまた、いまそれが急務になっているかと思います。
 人類は、これまでこうした〝危機〟をどのように生き延びたのか。そこには為政者によるさまざまなな施政や手立てもありましたが、それとともにその悲惨さを乗り切る民衆の〝覚悟〟もあったこと。現在もいずれ「歴史」となります。
 そう考えると、いまの日本人の〝脆弱〟なありよう、恐怖からの安易な出口探し、政治権力へのすり寄り、情緒的な正義の振りかざしは、困難から脱却する意味でも、また歴史的に考えてみても、けっして正しいありようではないと言わざるを得ません。
 とりあえず、もう一度、わたしたちは自らの〝脆弱〟さにきちんと向き合うことが必要なのかもしれません。それがのちの時代に歴史として伝わる意味のように思います。

 一年でもっともいい季節、美しい季節のなかで、ひたすら思うことは、なんとかわたしたち自身がこの〝危機〟の前で、無駄な攻撃性を排除し、苦しみを苦しみと感じつつ、他者に優しくなって、ともにこの困難に向き合おうという姿勢にあるかと思います。
 外出自粛のいま、せめて自身の家の周りの風景や町並みに、小さいながらも草花や鳥たち、そして自然や人びとのありように新たな発見があるといいな。そう思っているところです。

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☆☆☆〝脆弱な国と厄災〟~「アベノマスク」到着☆☆☆

2020-04-26 12:26:24 | 思うこと、考えること!
 いろいろ曰く付きの「アベノマスク」が、わたしにも届きました。
 見た瞬間、〝ちっちゃ!〟の一言でした。

 まさに安倍晋三氏の顔に、ちょこんと乗っている「給食マスク」さながらのもので、安倍氏も、かなりの大顔ですけど、大顔では引けをとらないわたしにとっても、どうにも情けないマスクでした。
 こんな「アベノマスク」に大金を投じた意味はあるのか?

 たしなめ顔、したり顔の某東京キー局の局アナは、せっかく作ってくれた人への感謝を持てとのご意見(Twitterかなんか)でしたが、このマスクはそもそもとある東南アジアの国で作られたそうで、その国でマスク作りの作業をしている労働者が、はたして日本へのものであるとかコロナ禍への援助の気持ちがあったかとなると、そのこと自体を慮るのは無理筋ではないのか。この「感謝云々」は、まさに「アベノマスク」批判封じの効果しか生まない。すこしでも考えてみれば、わかることのように思います。
 日本人が、よく陥りがちな〝杜撰〟〝不出来〟〝欠陥〟なことがあっても、「一生懸命」であれば許されるという無定見な情緒は、まさに欺罔です。それを押しつけられるウザさすら感じます。ましてやそれが現政府・政権が行ったことであるなら、政策の失敗だと厳然と批判されてしかるべきでしょう。

 ところで、マスク到着でさらに驚いたのが、マスクに添付されていた文章でした。
 わたしは長い間、身過ぎ世過ぎで、大学受験生の論述問題の添削を生業としているのですけど、こんな文章で、よく東大などの入学試験を通過できたもんだと、あきれるくらい不出来で、これほど拙い文章を見たことがありません。
 ランクわけしてもしようがありませんが、A/B/C/Dランクでは、DかよくてCレベルの文章です。わたしだったら落第点しかありません。ちなみに、わたしの論述の授業に出た者の少なくない数が、官僚になっているのですが、今回はなんか怖いと感じざるをえませんでした。

 いきなり冒頭で「現下の情勢を踏まえて・・・」という書き出しです。まるでうしろで軍歌でも流れているのかなと思わざるをえない書き出しに驚かされます。旧軍人が戦時中よくこの文言を多用していました。
 まずもって「現下の情勢」とやらに具体性がありません。わかっているだろう!といった威圧がここにあります。知らないのなら〝非国民〟だという声がすぐ近くにあります。
 ここは、すくなくとも「新型コロナウイルスの流行によって、多くのみなさんがお困りのことかと存じます」といった書き出しでしょう。
 そこで「政府としては、この新型コロナウイルス撲滅のため、緊急事態宣言を出して、みなさんとともにたたかっていきたいと思っています」とでも書けばいいのに、いきなり「不要不急の外出を避け」ろって文に移る。どこまでも〝指示伝達〟意識から抜けていない。
 そのつぎには、いきなり「他の地域でも感染が拡大する可能性」と述べているのですが、まずこの「マスク」の配布がどこになされ、「他の地域」とはどこなのか。こんな適当な文はないでしょう。
 ここは少なくとも「首都圏ならびに主要都市での感染のみならず、全国的な拡大を防止するため・・・」といった流れでしょう。
 それよっかひどいのは、そのあとで「人と人との接触を7割から8割削減することで、感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる・・・」の一文で、ここで「ピークアウト」という言葉が必要かってことです。
 なにも横文字を使う必要などない。ましてや「ピークアウト」という言葉自体、本来は「頭打ちになる」の意味ですが、それを感覚的につかめてもよくわからない人も多いと思います。
 体験的なお話しをすると、むかし定時制高校の教師をやっていたとき、「ワンパターン」という言葉が流行ったことがあります。〝意味は?〟と生徒に聞くと、〝繰り返し〟と答える。ちがうよ。ほんとの意味は、「ひとつの型」なんだ。それを言ってもピンときていない様子。
 「スリム」の意味はと聞くと、〝痩せる〟と答える。「細い」って意味だといっても、まぁいいじゃねーって感じ。
 英文で「・・・center in the ground」の訳の部分で、訳させると、生徒はグランドの〝うしろ〟でと訳す。〝いや違うだろ!〟というと、「だって先生、野球でセンターは、ライトとレフトの〝うしろ〟にいるじゃねーの?」
 それほど、横文字言語は意味をもたないものだと言えます。
 ですからその意味で、この「ピークアウト」も人びとの理解にそぐわない、意味のない、余計な言葉でしかないように思います。おそらく、この文章を書いた官僚くんは、いまどき流行っている横文字言葉を気取って入れ込んだとしか思えない。浅薄なヤツとしか言いようがありません。ここは「・・・感染者の増加を抑える」でいいわけでしょう。
 さらに最後には、このマスクは使い捨てでなく「洗剤を使って洗うことで、何度も再利用可能」とある。これまでの検証によれば、一回洗っただけで80%近くに縮小するそうで、「再利用可能」は事実に基づいていない。

 これが厚労省の添え書きの内容です。悪文というより、どう考えても、実態にそぐわない、強いて言えば、「官許のマスク」「恩賜のマスク」的な上から意識が透けて見える気がします。
 じっさい、この文章は、書き手とそれを確認する何人かの手を経てのものでしょう。だとすると、厚労省という組織の不出来さが、なんとなくわかるように思います。水俣病のとき、薬害エイズのとき、ハンセン病裁判のとき、それらの事件での厚労省のありようは、たしかに杜撰で非人道的でした。
(わたしの教え子にも厚労省官僚はいます。彼、彼女らでないことを祈ります!)

 ところで、戦後の日本について、ずいぶん前ですが、『戦後史を歩く』という本を書きました。
 その本の中でも、またその本を書いたあとも、日々の暮らしや人びととのつきあいのなかで持続的に思い考えてきたことは、わたし自身が生きた戦後の日本という国が、いかなる国だったのかということでした。
 そしてその問いのなかで、いつも〝痼り〟のように浮かんできたのは、一言で言い表すと、この国の〝拙さ〟という感慨でした。
 対中国、アジア、英米戦争の長い戦争の時代のことはまずおくとして、〝戦後史〟という時代の括りで日本の歴史を眺めてみると、それは見かけだけは美装されているものの、丘陵を切り崩し、海を埋め立て地盤の脆弱な場所に拙速に造られた安普請の欠陥住宅のイメージでした。そこには歴史性や精神性が疎外された〝根ざす〟もののない空虚さが浮き出たものでした。
 たしかに戦後「昭和」の時代は、疫病や飢饉、天災は局地的なものですみました。また戦後の「東西冷戦」の狭間のなかで、日本はアメリカの下請け工場として力をつけ、そのうちにその技術を取り込み、短期にめざましい経済的成長を遂げました。
 しかしそのため、経済的恩恵だけを追い求め、〝豊かさ〟に身を委ね、美食やブランドの獲得に優越的な価値しか認めず、その思想や精神の〝拙さ〟〝脆弱さ〟を真正面から捉えることを、わたしたちは長く怠ってきたと思わざるをえませんでした。
 それは、すぐ以前の歴史である超軍国主義国家だった時代。武力に頼り、「日本精神」だとか「神州皇国」だとか雲をつかむような言葉で自身を鼓舞し、驕りに狂奔しアジア諸地域に覇権を唱えた時代のことを、この国の「罪責」として受けとめることなく、戦後になって、いつしか免責されたとばかり深く考えることを忌避して忘れ去ってしまおうとした。そのことの〝合わせ鏡〟のように、日本の戦後史は過ぎてきました。

 そして、バブル崩壊、阪神大震災、オウム真理教事件、東日本大震災、福島第1原発事故、さらに熊本での地震と大水害、中国地方の壊滅的な水害、そして現在のコロナウイルスによる惨禍・・・。
 こうした事態に立ち入ったときの、エリート官僚の不出来さ、器量の乏しさ、政治家の無責任でいい加減なありよう、SNSで騒ぎ立てている識者という者たちのはしゃぎよう、加えていまどきで言えば、安倍晋三氏を中心とする政権の統治力の低さと後手に回った政策能力の欠落。それらがあまりにもくっきりと露骨に目立ってきています。
 星野源さんのu-tubeでの安倍晋三氏の姿は、まさに冗談かと思うほど、犬にしろコーヒーにしろ、テレビのリモコンにしろ、その扱いはまったく落ち着きのない稚拙なものでした。
 そのなかで、多くの罹患者が、ろくに検査も受けられないまま、死に追いつめられ、医療現場の人びとの疲弊はすでに頂点を超え、さらに飲食業や旅行業など、本来わたしたちに喜びと楽しみを与えて、さらに明日への活力を生みだしてくれるはずの多くの事業者が、危機に陥っています。
 そして、教えることとは知識を伝えるのではなく、その人の心の扉をたたくことであるというインドの詩人タゴールの言葉から乖離するオンライン授業の教育現場。
 そのなかでいま、わたしたちはなにをすべきか。

 わたしはここにまずもって、「戦後」のこの国のいい加減さ、拙さ、安普請さを感じざるをえません。いつかも述べましたが、歴史性を喪失した国、人びとは、どう華美に繕っても〝根無し草〟でしかありません。そのわずかに土塊にまとわりついている根は、もはや腐っているとしか言いようがないかもしれない。ですが、このままでいいわけはありません。

 いまわたしたちは、まずこの惨状をきちんと見据える眼を持ちたいものです。そして、自分だけではなく、他者への思いを作り直し、足下の不安に打ち勝ち、明日にはどう生きればいいのか考えぬくこと、そのために、まずは自身の精神を養うこと。そんなことをわたし自身に課したいと思っています。
 精神を養うこととは、ある意味で、売るための謀略史観や嫌韓・嫌中といった安易で杜撰な歴史書ではなく、通史を読み込むことでも得ることができます。いわば正面から歴史に対することでもあります。または、読書を通じて感動を得ることでもあると思います。または、ネットを通じて友人にメールを送って、交歓することでも得ることができるでしょう。
 
 というわけでつらつら書きつらねてきました。拙い雑感をお読みいただいてお礼を申し上げます。また、お時間を取らせてすみませんでした。
 いつか、どこかでこの経験を踏まえて、いろんなお話しができることを願っています。ともに生き延びましょう!


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☆☆コロナウイルス禍と「池ビズ」講座の変更のお知らせです!☆☆

2020-04-20 14:44:31 | 思うこと、考えること!
 歴史をふりかえると人類は何度も、疫病に苦しんできました。
 しかし科学が進んだはずの21世紀も20年が過ぎたこの時期のコロナウイルスのもたらした禍。いままさに、まさかと思う大惨事が人類を覆っているわけです。
 この厄災についての原因からそれへの対応、そして独裁体制がいいのか民主的体制がいいのかといったありようについては、のちのち検証されることだと思いますが、それまでわが身が安全であるのか。不安と恐怖に憤りを感じているのが現実だと思います。
 もしかして人類は、気候変動しかり、遺伝子組み換えしかり、クローンや人工頭脳に至るまで、すべてが利便性と富を生み出だけの「科学」の一側面に目がくらみ、途方もない錯誤や瑕疵を生んでしまったのではないか。あるいは、あまりにもわれわれは、無頓着で無邪気にも開発と破壊を重ね、自己と少しばかりの係累との閉域に閉じこもり、動植物や微生物が主人公である〝自然界〟を痛めつけてきたのではないのか。

 いずれにせよ、いまコロナ禍で苦しんでいる方々。病魔の前線で身を削って対応している医療関係の方々。さらに仕事や職を失い、やりがいを失い、わたしをも含めて収入が途絶えた人びと。医療が進まず、ウイルス禍が野放し状態となっているアフリカ諸国や南米諸国の人びと。都会で人知れず罹患して死を受け入れざる状況になっている人びと。いまを生き延びていくしかない寄る辺のない人びと。そうした人びとの前に立ち塞がる「格差」の現実、くわえて権威と見せかけだけの政治権力・・・。そうしたすべての現実の前で、いまなにをすべきか。
 まずはその悲哀と貧困、困難を心に刻み、ひたすら頭を垂れて、そうした人びとの苦痛と慟哭の声を聞くしかないのかもしれません。
 むろん、薄っぺらな政治家や著名人と自惚れている者たち、芸能人がするように、やたらとSNSで発信し、自己顕示欲を高め、怒号と批判、中傷と焦燥を爆発させることはしたくはない。そうした品性には与しない。
 まずは沈黙と落ち着きを、しっかりと身に纏うこと。
 いま求められているのは、そうした過剰に蔓延する空虚な言説に、不安を募らせたり快哉をあげたりすることではないでしょう。とにかく自分自身いまどうあるべきか、そしていま、そして生き延びたあとで、何を語り、何をすべきなのかを練っていくべきときかと思います。
 もちろん口先だけの言説を弄する政治権力やその周りを取り巻く子どもじみた官僚の姿は、しっかりと見詰め、記憶に留めるなかで、抗う怒りとともに未来に生かす「精神の種子」を、いまはできるかぎり育てていくしかない。わたし自身は、そんなふうに考えています。

 それはさておき、2020年の夏学季講座について、お知らせいたします。
 こんな時代だからこそ、なんとしても今年の講座は実施したいと努力を重ねています。ただし、会場である「池ビズ」(としま産業振興プラザ)が、5月6日まで閉鎖となり、その後の目処もはっきりせず、そのため講座日程をたてること自体が、厳しくなりました。
 そこで、夏学季は『時代に杭を打つ!partⅢ』だけを開講し、『哀しみの系譜』は、秋学季以降に設置すると決断をしました。

 『時代に杭を打つ!partⅢ』の講座日時については、下記にフライヤーを添付しておきますが、会場の関係もあり、先に延ばして、初講日は5月24日(日)午前10時からとし、たいへんタイトな日程となりますが、初講日のほか、5月が31日(日)、6月は14日(日)、21日(日)、28日(日)、ここまではすべて午前10時開講です。そして7月12日(日)を第六講・最終講として、この日だけは午後13時開講と変更させていただきました。
 7月分までの会場はすべて、池ビズ第三会議室で開講するよう押さえております。

 講座の内容については、できるだけ受講するみなさんとの対話を考え、テーマとしては戦後日本の〝困難〟を自覚した思想家・文学者6名の事跡を通じて、いかにわれわれの住むこの国が、危うげで拙いものであったのか。コロナ禍のなか、いまこそこの国の現実を見返すという内容にしたいと考えています。

 日本の近代をながめると、福澤諭吉の言葉で「一生を二世の如く」生きた時代が二回ありました。ひとつは明治維新を一期として、それ以前とそれ以降。もう一つは1945年の敗戦を一期として、それ以前とそれ以降でした。
 明治維新のことはいつか触れるとして、1945年の敗戦を期に、比喩としてカーキ色の国防服を身に纏っての超軍国主義体制の時代とお仕着せの体格に合わない背広を着だし、外からやって来た民主主義を享受した時代と、このころの日本人は、まさに「二世」を生きたと言えます。
 しかし、昭和天皇が象徴するように、戦前まで軍服姿で、膨大な人びとを死に追いやる戦争を、仮に〝傀儡〟だとしても行った人物が、戦後は平和の象徴の如く背広姿で現れ、戦前のありようを無かったかのようにした虚偽性は、戦前は参謀本部詰めのエリート軍人、戦後は戦略産業商社の取締役幹部。戦前は有無を言わせない軍国主義者であり強圧的だった教師、戦後は組合活動に奔走し民主主義を体現したかのような教師。戦前は軍国主義・天皇主義のイデオローグ、戦後は反体制・共産主義のイデオローグとなった思想家と変わることのない、まったく同じ質の〝罪責〟そのものだったのではないのか。
 そしてそれは、ほかの多くの「二世」を生きた人びとに、「戦前」をあたかも無かったものとして、その歴史性の否定を強要したことで「歴史という根」を失わせ、「戦後」そのもの自体の虚妄を生み、同時に歴史の事実や真実に対しての後ろめたさをおぼえさせることではなかったか。
 その結果、戦後を生きる人びとは、その後ろめたさを隠蔽あるいは粉飾、忘れ去るために、東西冷戦の奇禍を好景気に変換させ、経済、いわば金儲け奔走し、自ら「経済大国」だと嘯いて納得させるしかなかったのではないのか。そう考えていくなら、わたしたちのいまにつながる「戦後」は、いったい何だったのか。あたかも根の腐った土壌のうえの禍々しい花畑だったのではないか。それを踏まえ、本講座では、そういった課題性を中心において、考えていきたいと思っています。

 とはいうものの、コロナウイルス禍のなか、講座をはたして開講できるか。それ自体、おぼつかないのですが、かねてお知らせしたように、じゅうぶんな「ソーシャルデスタンスsocial distance」が取れる広い会場をご用意しています。まずは5月24日から無事に講座がはじめられますことを、願っているしだいです。
 また講座日程がタイトですので、一回での参加もできます。ぜひ、ご参加ください。「三密」を防ぎつつ、みなさんが講座に参加できますことを願っています。




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