八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆「日本〝近代・現代〟のプロフィール」【第2部】のお知らせ!☆

2021-12-06 18:47:05 | 〝哲学〟茶論
    あっというまに12月!
 コロナコロナで明けて、コロナコロナでお開きの一年でした。
 じつに騒がしい一年だったと思います。
 そんななか、親しい知人友人と酒を酌み交わすことも少なくなり、マスク越しにごにょごにょ話すのは、なんとも面はゆいことではありました。

 講座や講演会も、あまり開かれず、とはいっても2021年秋学季には、ジョージ・オーウェルを読もうということで、「精読『1984』」の講座を行いましたが、これはデストピィア小説だとか「近未来」作品だとかといった、従来の捉え方を一枚一枚剥がすように、講座を進めていきました。言い換えれば、『1984』とは「戦争文学」と捉えるべきであり、戦争がいかなる状況でも〝全体主義〟を生み出すものであるのと同時に、現代社会にもそうした〝全体主義〟が体制化されていることを突きとめ、その意味できわめて現代文学であるという「読み」を求めて、オーウェルの思想を論考してみました。
 もうひとつの「日本〝近代・現代〟のプロフィール」【第1部】は、日本の近代の開幕から、ちょうど米騒動まで、さまざまな最新の学説などを勘案しながら、これまで囚われてきた歴史観を崩す作業、あるいは新たな歴史像についてお話しを進めました。

 そこで、今回のblogのテーマは2022年1月16日初講の「日本〝近代・現代〟のプロフィール」【第2部】のお知らせというわけですが、近ごろ、ふと唐の詩人・王維の「送 元二」の漢詩が思い起こされて、まずは、そのことを書きます。
 この詩は、王維が友人である元二とともに別離の酒を酌み交わしている情景を詠ったものです。
 元二は王の命で、匈奴と対峙するため長安から数千キロ離れた砂漠地帯の安西という地に赴任するのですが、西域に行く人との最後の別れは、長安の北西にある渭城とされていて、そこで作詩されたものです。

  渭城朝雨 浥輕塵 
 客舍青青 柳色新 
 勸君更盡 一杯酒 
 西出陽關 無故人

 この漢詩自体は、高校生のときの漢文の教科書にあったもので、何か忘れがたくて、いつも覚えていた漢詩でした。ちょうど中学時代の友人が、秋田の工業高校を卒業して、神奈川の工場に就職するとなって、彼の家で別れの酒を飲んだのですが、その記憶と重なって思い出される漢詩です。
 もっとも高校生が、酒を酌み交わすなどとはもってのほかだったのでしょうが、あの時代は、秋田という土地柄もあるでしょうが、寛容でした。

 内容というか、訳は、

 渭城の朝雨 軽塵を浥す 客舎青青 柳色新たなり
 君に勧む 更に尽くせ 一杯の酒
 西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん

 ここで言う「故人」とは友人ということで、渭城は雨で潤い、塵や埃も流され、家々も青々として、柳の色もみずみずしい。どうだ別れの酒を飲もうじゃないか。ここから西方、陽関を出れば、青青とした風景ともさらばだし、酒を勧める友人もいないだろうから・・・。まずは一献・・・。そんな感じの漢詩です。たわいもない別れの歌と言えば、それまでなのですが、なぜか浸みる漢詩です。

 いまの時代はFaceBookやTwitterにSNSなど、どこかで知人や友人の消息をとらえることはできます。だから別離という情感は、きわめてリアリティのない薄いものになってしまっているのかもしれません。
 わたしたちの時代は、そんなものはなく、別れはさまざまな想いや感情、相手との記憶が交差するものでした。
 その意味で、利便性が、人びとの情感や他者への想いや記憶を疎外してきているという危惧は、それほど外れていないものでしょう。
 そんなふうに思うと、別れの一献の肺腑にしみわたる感覚が蘇ってきて、王維の漢詩の抒情がことさら浸みてくるように思います。

 そんなことを思いながら、「日本〝近代・現代〟のプロフィール」【第2部】のお知らせです。
 できればこの講座も、どこかの会場を押さえて話し合いながら行いたいと思ったのですが、zoomでの質疑応答をできるだけ可能にするということで、今回もzoomとアーカイブで開講します。
 ただし、2022年2月26日(土)は、歴史学的フィールドワーク(遠足)を企画していまして、後ほどあげるフライヤーにその予定を記しています。やはり、いっしょに歩き学ぶということを大事にしなければ、面白くないし、ただ通りすぎていくだけでは残念だと思い企画しました。ぜひ、ご参加ください。

 でも、やはりそれでは物足りないと思い、2022年5月下旬からは、ソクラテスの言う〝場topos〟に習って、池袋のとしま区民センターか池ビズの会場をおさえ、講座を開講するつもりでいます。
 テーマは、これまで受講された方に、ぜひ「司馬遼太郎」の歴史観について講座を開いてほしいというお話しがあり、それはわたし自身も以前から考えてきたことなので、いわゆる「司馬史観」といったものを4回に分けてしっかりと論考していきたいと思っています。
 たしかに、司馬遼太郎の作品とその思想は、知識人層含め多くの方々に好まれていると言えますが、なぜそうなのか。司馬遼太郎の抒情と論理といったものをしっかり見据えながら、お話しを進めていきたいと思っています。
 詳細についてはもう少し先になりますが、もちろん、この講座もzoomとアーカイブでも受講できるようにいたします。

 というわけで、「日本〝近代・現代〟のプロフィール」【第2部】のお知らせをいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*NPO新人会・宏究学舎*
 2022年「近代・現代史」講座
 ◆現代日本を問う!◆
 
日本〝近代・現代〟のプロフィール!
 〝戦争とテロ、そして国民〟(第2部)
  War/Terrorism 
           and The Ordinary People
◇期間:<第2部・全5講>
  2022年1月16日~3月6日
◇日時:毎回日曜日<午前11時~12時>
*全講zoom(質疑応答可)orGIGAファイル便(アーカイブ受講)で受講可能です。
◇受講料:全講受講6000円<5回分>
*学生3000円、1講毎受講は1講1500円
◇附記:各講毎、事前にPDFでレジュメを送付。それに沿って講座は展開されます。

【講座内容】
 わたしたち日本人は、はたして「歴史」への〝敬意respect〟をもっているのでしょうか。
 根拠のない情報で過去を断定し、だからダメだと批判する。あるいは歴史上の〝オモシロ話〟を持ち出して歴史を貶める。でなければ、皇国史観、マルクス史観、実証主義、民衆史観などなど自らの都合のいいほうに歴史を動員し引き寄せる。
 歴史には、その時代に暮らした人びと、おそらくはわたしたちの現代と連なる人びとの暮らしがあり、辛苦、悲哀、困難、怒り、歓喜が存在しています。それぞれの時代精神がそこには流れています。この講座では、戦争やテロの時代に生きた、そうした人びとの〝歴史〟を考える、思いやってみるという講座として開講されています。前回【第1部】に続くこの【第2部】は、<「関東大震災」と民衆のテロリズム~「対米戦争」と〝玉砕〟の構図>までの五つの歴史のお話しです。
【日程とテーマ】
・第1講(1月16日)
 「関東大震災」と民衆のテロリズム
  ~吉野作造は何を見たのか?
・第2講(1月23日)
 『柳条湖事件』と「満洲事変」
  ~〝軍刀と謀略〟の現場を歩く!
・第3講(2月6日)
 「5・15事件」「2・26事件」の暗黒
  ~〝鬱屈した情念〟の奔流!
・第4講(2月20日)
 「日中戦争」と〝南京虐殺〟
  ~〝殺す〟論理と〝殺される〟心理
☆講外講:2月26日(土)*予定*
 「連合艦隊司令部日吉地下壕」を歩く!
・第5講(3月6日)
 「対米戦争」と〝玉砕〟の構図
  ~いま、〝死の意味〟とは何か?
*お問い合わせ・お申し込み
 E-mail:npo.shinjinkai1989@gmail.comまで*




  
 

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〝10月10日から「近代/現代史」講座がはじまります!〟のご案内!

2021-10-03 20:32:55 | 〝哲学〟茶論
 2021年NPO新人会講座
『日本「近代・現代」の
   プロフィール』
  講座開講します!

   <対英米戦末期・特攻攻撃>

 コロナ、総裁選、秋篠宮眞子・小室圭氏の結婚問題などなど、つぎからつぎに熱狂と騒擾が繰り返され、瞬く間に忘れ去られていきます。何もかもが落ち着きのない、浮かれごとのように過ぎていき、自分の生きている時間すら、自分で確認しえないまま、時だけが過ぎていく感じの毎日です。
 そんななか、いったい誰がこんな国にしたのか。日本の近代と現代を、もう一度最初から見詰めなおす必要があるように思います。
 そこで、日本の〝近代・現代〟の歴史を第1部・第2部・第3部(各5講ずつ)に分けて、とくに〝戦争・テロとふつうの人びと〟のかかわりやありようのお話しを中心に論考していきたいと思います。
 
 そこで10月10日はその第1部の第1講を開講日となります。

 講座は、すべてzoomかGIGAファイル便(アーカイブ版)の参加となります。わかりにくい歴史をわかりやすく、「サヨク」だの「ウヨク」だの、レッテル貼りに飽き飽きした昨今、最新の学説をふまえて、また今回は、よりわかりやすくお話しします。
 ぜひご参加ください!

 以下、申込先と第1部の講座の進め方、概要をお知らせします。

  <戊辰戦争・幕府陸軍>

        

日本〝近代・現代〟の
      プロフィール
〝戦争とテロ、そして国民〟
           (第1部)
  War/Terrorism
  and The Ordenay Poeple

◇期間:<第1部・全5講>
  2021年10月10日~11月21日
◇日時:毎回日曜日<午前11時~12時>
 10月3回、11月2回
  *全講zoom/GIGAファイル便で発信。
  各講毎、事前にレジュメ(PDF)を
  送付し、質疑応答はメール
           にて行います。
◇受講料:全講受講6000円<5回分>
*学生3000円、1講毎受講は1講1500円

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・第1講(10月10日):戊辰戦争の真実
  ~人びとは〝御一新〟を望んでいたのか?
・第2講(10月17日):征韓論と
           西南戦争の真実
  ~西郷隆盛は何と戦ったのか?
・第3講(10月31日):日清戦争の真実
  ~朝鮮戦争、台湾征服戦争であった現実!
・第4講(11月14日):日露戦争の真実
  ~歪な「一等国」は民衆の犠牲から
・第5講(11月21日):外での戦争、
           内なる戦争
  ~第一次世界大戦と米騒動の挟撃~

◆お申し込み◆
E:mail 
npo.shinjinkai1989@gmail.com
      講座担当・小峰まで
 cf)お申し込みは講座開始の2日前までお願いします。講義レジュメやzoom、GIGAファイル便のお知らせは、申し込みを受けてから送付いたします。
 講座料の振込等もそのときにお知らせします。



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10月からはじまる「精読『1984』」講座と「日本〝近代・現代〟のプロフィール」講座について

2021-09-26 17:58:17 | 〝哲学〟茶論
 いわば一政権政党の領袖選びの騒動に、なんでこんなにマスメディアは盛り上がるのか? それはむしろ禍々しいことのように思われてなりません。 
  Twitterだネットだと権威化されたコミュニケーション・テクノロジーが見境もなく肥満化していって、それに乗っかって捏造的なプロパガンダが飛び交う日々。それは同時に「人間性」(humanism)を基礎とした議論を、もはやほとんど無効にしてしまったのではないか。そんな恐れさえ抱きます。   
 そんな21世紀のただなかに、たしかにわたしたちはひどく追いつめられているのかもしれない。
 そんななか、とにかく「人間」の付き合いをしようということで、ここにふたつの講座を設定し、対話と教養の深まりを、秋の深まりとともに感じていこう思い立ちました。
 もちろん、それには講座を運営する人びとの助けと、講座に参加する人びとの力に負うところが大きいことは言うまでもありません。
 その意味を込めて、対話のためにも、みずからの教養を積むためにも、ぜひ多くのみなさんのご参加をと願います。

 なお講座の申し込みは、「精読『1984』」の講座は今月9月29日まで、「日本〝近代・現代〟のプロフィール」の講座は、来月10月7日を最後の期限とさせていただきます。よろしくお願いいたします。

「精読『1984』」の講座
*NPO新人会・宏究学舎2021年秋学季講座*
 ◆現代「世界」を問う!◆
 時代に杭を打つ! partⅥ 〝精読『1984』〟
  ~わたしたちが存在する〝世界〟と
   ジョージ・オーウェルが見た〝現実〟~
◇期間:2021年10月2日~11月20日<4講>

◇日時:毎回土曜日<午後15時~17時>
 ◇受講定員:30人程度
◇受講料:全講受講5000円
<一講毎1500円、ファイル便は6000円>
 *1講毎、zoom・ファイル便(レジュメ送付)
  の受講ができます!
◇会場:としま区民センター403会議室 
*JR各線池袋駅東口下車・ビッグカメラ裏
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第1講(10月2日):『1984』には
        何が書かれているのか?
第2講(10月16日):『1984』が描く管理社会
              と原理主義
第3講(11月6日):〝傲慢な無知と羨望と卑屈〟
                の社会
第4講(11月20日):対話としての『1984』
         ~困難に対峙する精神~
*テキストはハヤカワ文庫版を使用し、
 3部構成を各1部づつ読み進めます。


「日本〝近代・現代〟のプロフィール」
              講座
〝戦争とテロ、そして国民〟(第1部)
  War/Terrorism 
   and The Ordenay Poeple
◇期間:<第1部・全5講>
  2021年10月10日~11月21日
◇日時:毎回日曜日<午前11時~12時>
 10月3回、11月2回
  *全講zoom/GIGAファイル便で発信。
  各講毎、事前にレジュメ(PDF)を送付し、
  質疑応答はメールにて行います。
◇受講料:全講受講6000円<5回分>
*学生3000円、1講毎受講は1講1500円
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・第1講(10月10日):戊辰戦争の真実
  ~人びとは〝御一新〟を望んでいたのか?
・第2講(10月17日):征韓論と
           西南戦争の真実
  ~西郷隆盛は何と戦ったのか?
・第3講(10月31日):日清戦争の真実
  ~朝鮮戦争、台湾征服戦争であった現実!
・第4講(11月14日):日露戦争の真実
  ~歪な「一等国」は民衆の犠牲から
・第5講(11月21日):外での戦争、
           内なる戦争
  ~第一次世界大戦と米騒動の挟撃~















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☆☆10月10日から〝日本「近代/現代史」のプロフィール〟講座をzoomとGIGAファイルではじめます!☆☆

2021-09-12 23:11:58 | 〝哲学〟茶論

 政権党の党首を決める選挙に、マスメディアはのめり込むように、不確かな情報を垂れ流ししながら、はしゃぎまくっています。
 そもそも政治は「お祭りごと」ですから、外野の人間が大騒ぎするのは、当の党首候補に名を連ねている政治家にとっては、たまらないほどの愉悦でしょう。でも、そんなんでいいはずがないよね。

 コロナ禍、生活苦、学生のモチベーションの低下。反知性主義。学問や教養に対する侮蔑・・・。
 これは政治を執っていたりする連中が、そもそも学歴をつけるだけに執心し、言い換えるなら「読み書きそろばん」のご都合主義に乗っかって世の中を渡ろうとした連中ばっかりで、学びや教養によっての〝人格の陶冶〟を経てこなかったことでの悪弊が蔓延しているからなのですが、世の中のさまざまな困難が目に入らない。だから総裁選に大騒ぎする。

 しかも、気候変動というか、環境破壊というか、9月だっていうのに空模様はからっとせず、そもそも昨今めっきり短くなった秋ではあるものの、かつては時候の挨拶に〝美しい秋になりました〟と書いたことは、もはや遠い記憶に残るだけのものになったのかなと、思うしだいです。

 そんななか前回にご紹介した「時代に杭を打つ!〝精読『1984』!〟~わたしたちが存在する〝世界〟とジョージ・オーウェルが見た〝現実〟~」の講座に続いて、〝日本「近代/現代史」のプロフィール〟-戦争とテロ、そして国民-の講座を開始します。
  <戦争と戦争ごっこ>


 講座の詳細は下記をご覧いただければと思いますが、いろいろトンチンカンな近代/現代の日本史が垂れ流されるなか、ホントのところはどうなのかってことを、さまざまな学説や資料なんかをふまえて、ここが大事なんですが、わかりやすくお話ししようとするものです。
 ただし、話しがあちこち行くと訳がわからなくなりますので、いちおう、テーマを「戦争とテロ」として、そこに軸を立て、戦争に熱狂したり、悲嘆にくれたり、ひともうけしたり、死の淵に立ったりしたふつうの人びとの目線から、日本の近現代史を見ていこうと考えています。ちなみに「国民」というと誤解が混じるので、英語の「War/Terrorism and The ordinary People」のほうがわかりいいのかも知れませんね。

 講座は、
〝御一新から米騒動〟までの50年ほどを【第1部】として5回。つづいて〝関東大震災から満洲事変、アジア太平洋戦争〟までの22年ほどを【第2部】として5回。さらに〝敗戦後から朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、9・11テロと現在〟までの75年ほどを【第3部】として5回おこないます。

 いま立てている予定では、すべてを2022年3月いっぱいで終えるように計画しています。各講座は一時間ほどの講座になります。
 講座は、毎回PDFで講座のレジュメをみなさんへ送付して、それをもとに、テーマを絞りながら進めていきます。質問や疑問点などは、メールでできるだけやりとりしたいと思っています。

 受講料その他については、ご参加の連絡をいただいた段階で、あらためてご連絡させていただきます。ちなみに大学生や高校生は半額で受講できます。

 それとここは大事なのですが、今回は講座会場を借りていません。
 すべて自宅からzoomと、もしリアルタイムで受講できない場合を想定して開封して1週間有効なGIGAファイル便での講座になります。ですから、まとめて【第1部】【第2部】【第3部】という括りで、受講することも可能ですので、その旨についてはお知らせください。(その場合、視聴期間の延長は可能です)
 くわえて、これはお願いもかねてですが、講座映像を他の媒体に流出した場合は、ペナルティが課されます。ぜひご留意ください。

 お申し込みは、今月9月27日(月)までに、
 メール:
    npo.shinjinkai1989@gmail.comまで
                          お申し込みください。
 以下、概要をflyerとともに載せておきます。
 講座のへのご参加、なるべく多くの方にご参加いただければと思いますので、ご興味のある方、よろしくお願いいたします。
 以下【第1部】の概要です。

       

◆NPO新人会・宏究学舎
      2021年「近現代史」講座◆
 日本「近代・現代」のプロフィール
〝戦争とテロ、そして国民〟(第1部)
  War/Terrorism and 
                      The Ordenay Poeple
◇期間:<第1部・全5講>
    2021年10月10日~11月21日
◇日時:毎回日曜日<午前11時~12時>
                             10月3回、11月2回
*全講zoom/GIGAファイル便で発信。
 各講毎、事前にレジュメ(PDF)を送付します。
◇受講料:全講受講6000円<5回分>
                *学生3000円
           cf)1講毎受講は1講1500円
【講座概要】
 まずは〝歴史〟を知ることからです! いまのこの国では、知ったかぶりで薄っぺらな歴史が横行していると言わなければなりません。「サヨク」だとか「ウヨク」だとか、そんな自己顕示のためだけの自説や主義、偏見をもてあそび、史料や情報そのものの検討も不十分なまま、とんでもない事実をあげ、実証的だとうそぶく人のなんと多いことか・・・。〝 歴史〟とはさまざまな事実や要素が複合的に連結し、多様な視点からアプローチされるべきものです。また〝歴史〟への眼差しは、まさにいまのわたしたちの精神や態度そのものを示すものでもあります。
 この講座では、明治維新から現在日本までの歴史を、さまざまな読み解きを通じてわかりやすく考え、いまのわたしたちのよって立つ基盤を再検討してみようとする講座です。テーマは表題にあるとおり〝戦争とテロ、そして国民〟に置き、第1部から第3部まで日本の近代/現代史150年の素顔profileを15回にわたってお話しします。さしあたって今回は第1部として◆御一新から米騒動の顛末◆までの約50年間の歴史を5回にわたって考えていきます。
【講座内容と日程】
・第1講(10月10日):戊辰戦争の真実
 ~人びとは〝御一新〟を望んでいたのか?
・第2講(10月17日):征韓論と
                                          西南戦争の真実
 ~西郷隆盛は何と戦ったのか?
・第3講(10月31日):日清戦争の真実
 ~朝鮮戦争、台湾征服戦争
                                   であった現実!
・第4講(11月14日):日露戦争の真実
 ~歪な「一等国」は民衆の犠牲から
・第5講(11月21日):外での戦争、内なる戦争
 ~第一次世界大戦と米騒動の挟撃


 
 

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☆☆☆2021秋学季講座についてージョージ・オーウェル『1984』を読みます! それと歴史講座について!☆☆

2021-09-05 11:56:02 | 〝哲学〟茶論
 気がついてみれば、もう9月です。
 2021年の夏は、異常な気候変動と無理筋で開催された「オリンピック」の虚栄とその後の残骸、そしてコロナ禍の蔓延であたふたした夏でした。
 なんにも楽しめない、青空すら見上げる余裕もなく、たまに見上げてみるとゲリラ豪雨か意味のない戦闘機の空中ショーで染料が降ってくるような、気分の優れない日々でした。
 そんななか政治を姑息な闘争だと思い込んでいた秋田出身の宰相が、安倍・麻生といったもっと姑息な手練手管に翻弄され、辞任することになりました。事の善悪正邪は置くとして、わたしの秋田での旧い友人と同姓である「菅」くんには、これからゆっくりパンケーキでも食べて、自らの過ぎ来し方をゆっくりと顧みていただけるといいかなと思っています。

 そんなことを思いながら、わたしも自らの過ぎ来し方を振り返ってみていくと、高校生だったときに読んだジョージ・オーウェルのことが思い浮かんできました。
 たしか最初に読んだのは評論集だったのか、『アニマルファーム』だったのか。とにかくわたしが高校生だったとき、ジョージ・オーウェルの本は、〝反共〟つまり反共産主義の本だとして、そのころの進歩的(?)とされる評論家からはほとんどキワモノ本程度の評価しかなく、日本語訳も秋田の書店で容易に入手できないものでした。
 ところが、たまたま英語版はペーパーバックかなんかで書店には置かれていて、どうもそれは地元の大学で教材とされていたようですが、英語の受験勉強に役立つだろうなといった面白半分の軽い気持ちで買って、読み進めていきました。
 一言で、『Animal Farm』は面白かったし、評論集にあった「A Hanging絞首刑」「Shooting an Elephant象を撃つ」も、むずむずとした不快感の底から植民地主義、当時はそんな言葉はわかりもしなかったのですが、なにか深い矛盾が見えてきて、ほかの勉強には手がつかず、とにかく先へ先へと読んでいったのを覚えています。
 そして『1984』を買ったのは、ちょうど高校がおわるころだったでしょうか。
 主人公ウィンストンの脳裏にくり返しくり返したたき込まれる真理省のスローガン。
  戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり
 こんなふうにして人間は隷従と卑屈さのなかに沈んでいくんだという、驚きとひたひたと押しよせる怖さをぼんやりと思っていました。

 そんな思い出話はどうでもいいのですが、そのジョージ・オーウェルが注目を浴びはじめたのは、ちょうど日本が〝バブル〟期に突入しようとしていた、まさに〝1984年〟ころだったように思います。ただし、それは近未来小説のカテゴリーのなかで、オーウェルの予言は外れているよね、といった文脈でのものでした。
 しかし、バブルが崩壊し、オウム真理教のサリンテロや2001年の世界同時テロなどがおこると、世情がざわざわと音を立てて危機意識のなかに沈み、それと相伴するように日本を含め世界各地で〝ヘイトクライムhate crime〟や〝ショービニズムChauvinism〟が巻き起こってきます。
 またさらに、肥大化するネットNetのなか、フェイクfakeが横行し、教養が蔑ろにされ、反知性主義が跋扈するなか、2009年にタイトルだけをイメージのみで切り取った小説が登場した影響もあったのでしょうか、にわかに、わたしたちのいま存在する現実と『1984』の近似性が取り沙汰されるようになってきました。

 でも、はたしてそうした読み方は、ジョージ・オーウェルを本当に読んだことになるか。ただ現在のNIPPONのありようと似ているだけという浅い「読み」でいいのかなっていうのがわたしの疑念です。
 ジョージ・オーウェルはエリート校であるパブリックスールに進んだものの、その後、ケンブリッジやオックスフォードには進まず、植民地での警察官の仕事を選び、その後の放浪生活を経て、ナチス台頭のなかスペイン市民戦争の参戦の経験もし、まさに裸足で現場を歩くようにして世界大戦中に思想の鍛錬を積んできた小説家であり思想家でした。
 オーウェルのたどった足跡が、そのまま現代史であったとも言えるように思います。46歳で没したオーウェルの未来も含めて、まだまだその生きかたと思想は探究されてもいい。そんな印象です。

 そこで、この秋の講座では、まだお読みでない方、すでに読んでしまった方、それぞれのかたがたともに、〝精読!『1984』〟を試みてみたいと思い、講座を開設するしだいです。

 じつは本は一人で読んでもいいのですが、複数のかたがたとともに読み進めるのが大事であることを、これまでのさまざまなゼミでわたし自身が実感してきました。
 読書とは多様な「読み」と、自分が気づけなかった世界が交錯するところです。というわけで、下記に概要を掲載しますが、ぜひこの秋は、ジョージ・オーウェル『1984』を、わたしのお話しをひとつの起点として、みなさんとご一緒に読み進めていきたいと思っています。
 講座へのご参加をよろしくお願いいたします。

*ところでこの秋から、わかりやすい日本の「近代・現代史」の連続講座を、わたしの自宅から発信する(zoomとGIGAファイル便を通じて)予定でおります。
〝近代そして現代のNIPPONのプロフィール〟といった内容で、いったいNIPPONとはこの150年ばかりのあいだ、どんな相貌で世界に対してきたのか、人びとの高揚と悲惨、厄災と歓喜、その織りなす「歴史の地勢模様」をお伝えできればと思っています。
 なお詳細については、一週間後のblogでお伝えさせていただきます。
        
<NPO新人会・宏究学舎2021年秋学季講座> 
◆時代に杭を打つ! partⅥ 〝精読『1984』〟◆
  ~わたしたちが存在する〝世界〟と
   ジョージ・オーウェルが見た〝現実〟~
◇期間:2021年10月2日~11月20日<全4講>
◇日時:毎回土曜日<午後15時~17時>
◇受講定員:30人程度
◇受講料:全講受講5000円
 <一講毎1500円、ファイル便は6000円>
 *1講毎、zoom・ファイル便(レジュメ送付)の受講可能!
◇会場:としま区民センター403会議室 
 *JR各線池袋駅東口下車・ビッグカメラ裏

【講座内容】〝現代〟という世紀にあって、わたしたちの視野は以前よりずっと狭くなり、網の目のように張られたネットの監視と制約のなかで息を殺しているかのように見えます。
 一方、富を独占する権力者は、メディアを動員しフェイクニュースとゴシップで民衆を誘導し、民衆には〝パンとサーカス〟をあてがっておけと高をくくり、民衆もまた、金と享楽にしか価値を見いだせないままです。それはまさに1949年に発表されたジョージ・オーウェル最後の作品『1984』の世界そのものと言っていいでしょう。
 しかも現代の深刻さは、そうした管理社会が、権力といった外部の圧力だけからではなく、コロナ禍と未来への〝ぼんやり〟とした不安も含め、わたしたちの内部の腐食から生み出されていることにあります。本講座で は『1984』をみなさんと精読し、「人間の崩壊」といかに対峙するかを論考します。

第1講(10月2日):そこには何が描かれているのか?
          -『1984』を読み解く!
 ~[第一部]ジョージ・オーウェルが見つめた〝現代〟
第2講(10月16日):『1984』が描く管理社会と原理主義
 ~[第二部]〝恐怖と隷従、憎悪(ヘイト)〟が生む「鉄の檻」
 講外講:10月23日(土)〝月日は百代の過客〟ツアー!
第3講(11月6日):〝傲慢な無知と羨望と卑屈〟の社会
 ~[第三部]〝未来〟を想像できない国〝NIPPON〟
第4講(11月20日):対話としての『1984』
 ~[まとめ]〝困難に対峙する精神〟

*テキストはハヤカワ文庫版を使用し、3部構成を各1部づつ読み進めます。以下、Flyerです!(拡大してごらんください)




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いま懸念を示すこと。7月18日講座最終日に向けて!

2021-06-26 23:00:04 | 〝哲学〟茶論
 数日前に発表された、「今上」天皇が、コロナ禍の中でオリピック東京開催に懸念を示したニュースは、よく知られていると思います。

<1964年東京オリンピック
 左から2人目、当時皇太子、徳仁親王(現「今上」)、美智子妃>

 なぜ、この時期に、もう遅い。いや、よくぞ言ってくれた。
 そうだ、中止すべきだ。だが、オリパラ名誉総裁である天皇が、もしオリパラをさかいに感染者がまん延し、日本が立ちゆかなくなったら、天皇だって無傷にいられない。だから、このタイミングでの懸念であり、責任回避、政府と仕組んだ「出来レース」だ! それが証拠に、西村某宮内庁長官は、警察畑であり、安倍政権が送り込んだ人物じゃないか。
 政府の対応だって、長官の私見といった見方を一様にとり、もし政府と口裏を合わせてなかったら、長官は即刻更迭されたはずだ! まさに責任回避と陰謀なのじゃないか。
 いや「今上」は素直なご意思を示されたのだ。そこは疑いがない。ただ発表の時期に、どこぞの作為があったのではないか?
 なかには「今上」の意思の「拝察」の発表は、憲法で禁じている政治行為じゃないか。違憲だ・・・。
 そんなふうに、わたしのまわりでも、またマスメディアでも、さまざまな発言、批判、賛意等々が存在しているように思います。

 そんななか思うのですが、そもそも、このコロナ禍は、はたしてワクチン接種によって危機を脱することができるものなのか。
 現在のデルタ株といった変異株の拡大の兆しを見ても、またかなり多くの数で報告されている「副反応」(これはワクチンなどで起きる病症で治療などで使う薬から発症する副作用と分けられている呼び方)の問題をみても、じじつインフルエンザ・ワクチンよりもコロナ・ワクチン接種後の死亡例は数段多いこともふまえてみると、そう簡単な感染症ではないことは明らかなことのように思います。
 おそらく数年間にわたる、かなり長期の、そして苦しい圧迫の生活を強いられる可能性の高いもののように思えてなりません。
  それは事実として、ワクチン接種を確立し、コロナ禍を押さえ込んだかのような報道がなされていたイスラエルなどの再感染。また実際の問題として、このコロナ対応ワクチンの接種後、2年あるいは5年後以降の副反応の治験がまったくなされていない問題。免疫を体内につくるというmRNAの仕組みそのものにもよくわかっていないことが多いとされていること、さらにワクチン万能主義は、いつのまにかワクチン・ファシズムをつくりだしていることなど。
 「安心安全」という念仏の絶望的な空虚さが、わたしたちの足元にずっと絡みついているかのようです。 

 これは多くの科学者の見立てでもありますが、コロナ禍発症の要因は、おそらく人類がこれまで手も足もあるいはそのエリアや空気すら感知しようとすることのなかった領域に、ずかずかと入り込んでいったのがおおきな契機となったのだろうといわれています。
 大気汚染や海洋汚染はもとより、アマゾンでしばしばおこる火災や地下資源や水、レアメタルを求めてアフリカや中国奥地にその原料供給地を拡大しようとする〝人間の欲望〟・・・。森のバターと言われるアボガドだって、その需要の急増は、自然破壊をもたらすものでしかない。スマホもEV車も食も、空気だって何だって、人は地球を搾取し続けてきたという現実。
 すでに人間は、自然のなかで暮らすという「規矩」を超えて、地球への加害者でしかないのかもしれません。いま流行の「SDGs」にしても、持続可能などという言葉の奥底に自然を支配できるコントロールできるという思い上がりが占めている。
 コロナ禍はそれを象徴するもの、一口に言えば「市場原理主義的な人間のあくなき利潤追求」がもたらした厄災といってもいいかもしれません。

 そんななか、いったいわたしたち人間は、無力のまま立ちすくんでいいのか。あるいはなるようになると、でなくても巨大な超権力的な資本の歯車のなかでくるくる回っていくしかないのか。言い換えれば、あきらめ、退廃、ニヒリズム(虚無主義)の暗い底に沈殿してしまっていいのか。しかたないですますしかないのか。

 そんな虚無のなかで、ふと飛び出してきたのが、「今上」の意思というものでした。あと一ヶ月を切るオリパラ開催の時期に発表された「今上」天皇の意思の「拝察」発言とは何か。それはいったい何を意味しているものなのか。
 
 この「拝察」発言のなか、政府、担当大臣、オリパラ関係者、識者、電波芸人とも揶揄されるコメンテーター、インフルエンサー、キャスターなどが、とりわけ時流での自己の役割に目鼻が効く(それしかないのでしょうけど)橋下某といった人たちの芸風を見ていくと、あたかも一場の芝居を見るかのようにそれぞれが役割分担を担っていて、世論を焚きつけ、fakeの憶測の種をまき散らし、人びとを踊らせ、騒ぎだてさせ、あげくには泡となって、いつのまにか何もなかったかのようにしてしまおうとしている、そんな印象がします。
 それは、まいどくり返され見せられてきた風景でもあるような、どうにも底なし沼的な空虚に引きずり込まれている感覚でもあるようなものに思えてきます。

 そんなドタバタな虚無的な芝居が繰り広げられている状況で、そうはいうものの、いったい、なぜ「今上」はいまになって懸念を示すようなことになったのか。その言葉の発せられた核心とはどこにあり、なぜ発せられたのか。それについて想像して見たいと思ったというわけです。

 そもそも、古代から「天皇」は、「ケガレ」を払うという役目を負い、もっとも多きな「ケガレ」はイクサ=戦争であり、さらに疫病と飢饉であり、天変地異であり、それを歴代の「天皇」は、それぞれ凸凹はあるものの、なんとか「ケガレ」を払う役目を果たそうとしてきたという「歴史的経緯」があったとしてもいいと思います。
 後鳥羽や後醍醐、そして西欧皇帝制に範をおいた近代天皇制の中で括られる明治・大正・昭和天皇などは、むしろその意味で、〝異端〟であったとしてもいいでしょう。
 その流れで考えると、今回「今上」がもらした意思は、至極当たり前の彼自身の「役目」の流れから出てきた〝意思〟だったのではないかと思われるのです。
 それが、たとえさまざまなバイアスなりフィルターによって、変容を余儀なくされたものであっても、その〝意思〟は、わたしたちが会社や仕事がらみ、そして立ち位置からなかなか思いどおりに運ぶことのない〝意思〟と同じように、どこか底の部分から、染み出てきた〝意思〟ととっていいのではないか。
そんなふうに思われてくるのです。

 世の中を、底部から見上げてみると、人びとはずいぶん周囲に気を遣い、自身の身を守るため、忖度もし我慢もし、ときには流行や有力な勢力に身を挺したり預けたりして、生きているものです。
 こんな発言をしたらヤバい。これを言ったら受けるだろう。人気が出て金も入るかもしれない。そんな思惑と打算で日々暮らしている。
 しかし、一度そうしたせわしない生きかたから、自らのありようを見つめてみると、人は思いのほかピュアである自身に気づくように思われるのです。
 そんななかで、もしかしたら「今上」も、この時期に際して、どうしても純粋に懸念を示したいと思ったのではないか。タイミングや発し方には、さまざま困難があったとしても・・・。

 そんなふうに考えていって行き着いたのは、いまのこの国の人びとにもっとも不足しているものはなにかということでした。
 そして行き着いた先に見えてきたのは、もっとも不足しているのは〝内省〟ということではないのかなということでした。
 さまざまなバイアスやフィルターを除き、自らの原点をたどってみる。自分は果たして何者なのか。自分はいったいどうありたいのか。わたしの本当のありようとは何なのか。
 そうした精神の動きを、わたしたちはついぞ忘れてしまっているのではないか。
 もちろん、これまで「内省」など思ってもみなかった人に、そうした心の運動は、ずいぶん難しく映るかもしれません。しかし、自らを見つめる、自らを考える。それは必要なことではないかという理解は、それほど難しい理解ではないように思います。

 人は危機や困難に際して、いかなる行動をとるか。
 よく言われることは、一つに、どこかに危機を脱するヒントや指標があるとして、他国や他人といった「外」から得た知識や手段によって危機から脱しようとする。
 二つめに、限りなく自己や自国の過去にさかのぼり、その歴史的幻想や個人の麗しい物語に回帰して、いま現在を不当なものとして情念を集中させ、困難を破砕しようとする。
 一つめの思想は、「脱亜入欧」などの言葉で表され、二つめの思想は、「国粋主義」、昨今では「新しい歴史教科書」作成運動や「自由主義史観」だとか「嫌韓・嫌中」のヘイトスピーチ、そして日本礼賛のテレビ番組などの意識に、それは表れているといってもいいでしょう。
 しかし、一方で人は、危機や困難に対したとき、外部や幻想にたよるのではなく、深く自己を突き詰めて「内省」や「内観」に入り込むことで、自己自身のいかにあるべきかや態度を見出そうとするものでもあるのです。
 これまで人びとは、さまざまな戦争を経験し、飢饉、飢餓、絶望のなかで生を耐えなければならないことがいくつもありました。
 そんななかで、人びとはけっして自らを離れることなく、自らの内面を深く抉ることで、自らの力で光を見出そうとしました。そして、そうした事跡は、歴史のなかには何度も目にすることができます。
 震災ですべてを喪った人びと、水俣病で苦悶の淵に立った人びと、ハンセン病患者として差別と蔑視のなかで生かざるを得なかった人びと。そうした人びとのなかには、自らの痛苦や苦悩、絶望をまえに深く内省を繰り返すことで、一条の光を見出した人びとを、わたしたちは多く知っているように思います。

 はやくこのコロナ禍から脱出したい。ワクチンさえ打てば脱出できる。もちろん、医療系を含むエッセンシャルワーカーの人びとは、こうした〝脱出〟ある種の〝exodus〟的なありようには無縁でしょうが、なんでもかんでもワクチンさえ打てば、と焦るありようについても、まずは自身の内側をじっと見つめていくと、ちがう地平が見えてくるように思います。ただ恐怖に引きずられているだけではないのか。

 ならば、もしかして、自己を見つめること。その「内省」にこそ、この時代の困難を生き延びるヒントがあるのではないか。そうなふうにも思えないか。
 自暴自棄や退廃、虚無に埋没しない自己を考える。それはやはり、自らを見つめ直すことからはじめられていくような気がしてなりません。そしてそんなときの「今上」の懸念でした。

 と、ながなが話しを続けてきましたが、ところで2021年NPO新人会の夏学季講座〝時代に杭を打つ partⅤ〟も、6月20日に第三講を終え、あとは7月18日(日)の最終講だけになりました。
 じつはこの日、100人程度の大会場しか空きがなく、池ビズ(としま産業プラザ)の多目的ホールで講座は行われます。
 せっかくの大会場です。そこで、これまでこの講座に参加なさったことのないかたにも、もしよろしければご参加願えればと思い、ご案内しようと思ったわけです。
 お話しは、すでに2020年までの現代史をさまざま分析してきましたので、最終講は今後の時代展望についてのお話し、ちょうどこのblogで記したようなことをお話しの中心にすえて、できるだけみなさんのご意見を受けながら、「対話」をしていきたいと思っています。
 テーマは「post-SNS、post-資本主義の未来」という内容です。
 詳細は、下記にフライヤーを貼り付けておきます。
(7月18日午前10時開講、受講料1500円)
 最近はzoomでの受講の方も多いのですが、ぜひ会場に足を運んでいただければ幸いと思い、あえて案内申し上げます。
 よろしくお願いいたします。

<連絡先 E-mail npo.shinjinkai1989@gmail.com>
 
 以上。というわけで、混沌としたコロナ禍、東京オリンピックが迫る慌ただしい日々を思いながら記しました。



 

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講座『時代に杭を打つ!partⅤ』*5月16日会場変更のお知らせ

2021-05-08 16:28:22 | 〝哲学〟茶論
 オリンピック・パラリンピック開催を前にして、「安心、安全」をさかんに鸚鵡返しのように、どこぞの首相ならびに政府は、繰り返しています。
 なんでそんなにオリ・パラ開催に前のめりなんでしょうか?
 おそらく、開催すれば、〝神風〟が吹いて、すべてが解決し、自分たちの権力は保たれると思っているのでしょうか?

 ちなみに歴史を見ればすぐにわかるように、蒙古襲来で〝神風〟は吹いたとして、元寇後、鎌倉幕府の政権基盤の正当性は時を待たず失われて幕府は崩壊してしまいました。
 神風が吹こうと、吹くまいと、政治権力は交代を余儀なくされる。これが歴史の教訓にも思えます。
 むしろ、こうした未曾有の厄災に際しては、いかに地道にかつ綿密に事に当たるかが問われるわけで、その意味で安倍政権以降、現在の菅政権も、杜撰な対応に終始し、厳しい質問は逃げる、国会で野党議員の追及には「失礼じゃないでしょうか!」と恫喝をかける。
 ほんとに〝暗い時代〟になったものです。

 というわけなのですが、5月16日の『時代に杭を打つ!partⅤ』の第一講で、いきなりの緊急事態宣言の延長となり、「池ビズ」が使えなくなりました。
 そこですぐに池袋東口・池袋サンシャインそばに会場を確保いたしました。
 講座は行われます!
 感染防止対策を十分にとり、講座を実施していきたいと思っています。ぜひ、みなさんのいまの問題意識をお聞かせいただき、いろいろ語りあいましょう!

 それとぜひ、
    zoom参加をお願いいたします。
 いや、この日は都合がつかないという方もいらっしゃるでしょうが、講座は録画して、参加できなった方には後日、再視聴できるようにデータを送付できるように体制を整えております。

 講座の内容は、1990年~2020年の日本社会の本質を考える。さらに、これからのわたしたちのありようについて意見交換しながら、対話を軸に講座を進めさせていただこうと考えております。
 多様性のなかにいる意味を、いまこそわたしたちは感知して、コロナ禍での強圧的で全体主義的な動きを、しっかり見つめていく必要があるかなと、思うしだいです。
 危機と恐怖で、世の中はあっというまにジョージ・オーウェルの『1984』の世紀に迷い込んだかのようです。
 しかし、いまを生き延びるとともに、
    いまを学ぶ姿勢も大切にしていきたいと
    思っております。
 
 以下、会場の案内をさせていただきます。

■講座会場住所 東京都豊島区東池袋1-22-5
  サンケエビル8階
NATULUCK池袋サンシャイン前店 Room A
■当日連絡先 090-8512-1665 
  (受付担当:小峰修平)
■交通手段
・JR山手線 池袋駅(東口)徒歩5分
・東京メトロ有楽町線 池袋駅(35番出口)
  徒歩5分
・東京メトロ丸ノ内線 池袋駅(35番出口)
  徒歩5分
・西武池袋線 池袋駅(東口)徒歩5分
・東武東上線 池袋駅(東口)から徒歩7分
 お申し込みは、
E- mail npo.shinjinkai1989@gmail.com
 となります。

 zoom受講ご希望の方は、
5月14日までお申し込みをお願いいたします!

 よろしくお願いいたします!



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講座やります! 5月16日初講日の【〝時代に杭を打つ!〟partⅤ講座】のお知らせ!

2021-05-01 15:12:33 | 〝哲学〟茶論
  <はじめに>
 緊急事態宣言が出され、わたしにはこれが〝禁酒法〟にしか見えないのですが、いずれにしても世の中、日々、国家や行政による脅迫のもとに置かれているような気分だけしかせず、憂鬱といえば憂鬱な毎日です。
 いっそのこと、どっかの知事や市長が興奮気味で大発見だと言い立てた「イソジン」だとか、「雨ガッパ」をくださいと懇請気味に騒いでいたころ、あのヘンテコな「安倍ノマスク」で、かたくなにマスクをつけ続けたかつての首相の愚かしさといったものに、懐かしさすら覚えるほどです。
 まさに感染者の数に怯え、病床数にも手がつかず、ワクチンもいつまでもチンタラしていて、いつ来るのか。
 ちなみに高齢者には、「ワクチンクーポン券」なるものが来たのですが、どこでいつ接種できるかは何も書いていない。義母に来た「クーポン券」を見て思わず、いかりや長さんじゃないけど「ダメだ!こりゃ!」ともらしてしまうようなことしか起こってない。
 それにしても思うのは、当事者であるアスリートの誰一人も、オリンピックをやることに疑問も示さない反対もしない。自分が活躍することしか考えていない。そうすれば「元気を与えることが出来る?」(笑止)どれだけ自分しか見えてないのか。周囲をきょろきょろ見渡すしかできないのか。
 聖火ランナーの、周囲に関係者しかいないのに、あちこちに笑顔を振りまいて手を振って走る自分の姿に、どうして疑問をもたないのか。不思議といえば不思議です。
 まさにこの国の底なしの愚かさと熟議や多様性の欠落したさまは、もうどうしようもない〝闇〟なのでしょうか。そうとしか思えない毎日です。

 というわけですが、
 2021年NPO新人会<夏学季>講座は、こんな今だからこそ、しっかりやっていきたいと思います。ぜひ池袋の「としま産業振興プラザ」(池ビズ)まで足を運んでいただき、対話を基軸とする講座を展開したいと思っています。
(「池ビズ」は公共施設なので仮に使用できない場合は、すぐに池袋周辺で会場をセッティングします)

 講座の詳細および連絡先は、下記にフライヤーを貼っておきますが、見えにくいかとも思いますので、日時や連絡などは以下を参照してください。

 そのまえに、今回はとくに
 zoomによる中継も行いますので、
 さきにzoom受講についてご説明いたします。
 
 zoom参加の方には、初講日まえの5月14日までに、参加受講料のお振り込み(NPO新人会文化講座口座*下記に明記します)が確認された段階で、講座のレジュメおよびzoom使用マニュアル、IDとパスコードをメールで送らせていただきます。
 詳細はzoom使用マニュアルをご覧いただきたく存じますが、参加受講料につきましては、4講分とさせていただきます。ご都合でご覧いただけない場合は、zoomのレコーデング機能をお使いいただきご視聴いただければと存じます。
 それとお詫びですが、講座後半の講演者との質疑応答はご視聴できますが、機材その他の関係で、会場へのzoomからのご参加はできません。よろしくご了承いただければと存じます。

         
☆『時代に杭を打つ!』partⅤ☆
〝いま生きている世界〟
   と〝明日の世界〟の現実!
◇期間:2021年5月16日
     ~7月18日*全4講*
◇日時:毎回日曜日
    <午前10時~12時>
◇定員・受講料:30名
    全4講受講5000円
       <一回1500円>
 *zoom受講は全4講座4500円
 (zoom受講について
  1回毎の受講はございません) 
◇申込先:NPO新人会講座担当
 mail:npo.shinjinkai1989
       @gmail.com
   受講料振込先:みずほ銀行
         自由が丘支店
 店番号533 口座(普)2775768
 *振込人氏名を必ず印字いただけ
  ますようお願いします。  
◇会場:としま産業振興プラザ
       IKE・Biz
☆☆☆☆☆講座内容☆☆☆☆☆☆
第1講(5月16日):オウム真理教の狂気と
 酒鬼薔薇事件の暗部!(1990~2000年)
第2講(6月6日):小泉政権と市場原理主義!
         (2000~2010年)
第3講(6月20日):〝Fakeと
 Post-TruthPolitics〟の時代
         (2010~2020年) 
☆講外講☆7月10日(土)
 秩父と困民党を考えるフィールドワーク!
     (自由参加、参加費なし)
第4講(7月18日):
 postSNSとpost資本主義の未来?
           (2021年~)
 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


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すみません!緊急事態宣言のため4月25日講演会の会場が変更になりました。

2021-04-23 15:52:12 | 〝哲学〟茶論
 緊急のご案内です!
 緊急事態宣言によって、4月25日講演会の会場が閉鎖ということになりました。
 そこで急きょ、同じ池袋の東口徒歩5分の小林ビル2Fに会場を移すことになりました。
 お忙しいなか、またコロナ禍のなか、安心しておいでいただけるように、会場は池ビズと同程度以上の広さを確保したものとなっております。

 時間も内容も、以前お伝えしたものと
ほぼ変わりはありません。
 午前10時講演開始、12時終了です。

 ただし、終了時間が窮屈となっていますので、
9時50分ころには、すでに司会の挨拶等を行います。
zoomもこの時間からはスタートしております。

 よろしければ早めのご来場をお待ちしております。

以下、場所等の情報です。

NATULUCK池袋大橋東店 Room A
豊島区東池袋1-47-3小林ビル2F
【交通手段】
JR山手線 池袋駅(東口)から徒歩7分
東京メトロ丸ノ内線 池袋駅(29番出口)から徒歩5分
東京メトロ副都心線 池袋駅(29番出口)から徒歩5分
西武池袋線 池袋駅(東口)から徒歩3分 


わかりにくいかと存じますが、
地図の赤い矢印が会場です。

なにか不都合等ありましたら、
yagashiwa@hotmail.comまでご連絡ください。
よろしくお願いいたします。



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4月25日の講演会と5月開講の「新人会講座」のお知らせ。zoom参加できます!

2021-04-17 20:02:28 | 〝哲学〟茶論
 いまもなおオリンピック開催に執念を燃やし続けている人たちは、戦局の悪化に際しても、戦争を停めることのできなかった、あの時代の軍部や政府とよく似ている気がします。
 いったん動くと、惰性でどこまでも突き進んでしまう。疑いからの逃避、自省することがなく自己実現だけに固執する。そして責任を姑息にも回避しようとする脆弱さ、さらに時流につねに伴走しようという前のめりの性向。
 それはつねに欧米を手本にして、先行する文明国に「追いつけ追い越せ」を遮二無二に突き進んでいこうとする近代日本に顕著な宿痾と言ってもいいものなのでしょう。
 コロナ禍への対策も何もかもが杜撰で、スピード感をもってと公言しても、なにもなしえることのない国や地方自治体の冗談みたいな停滞、そして感染が広まると、ただわたしたちを威嚇する言葉を発し、それが危機管理だといわんばかりの拙速なありさま。
 いまこそまさに、既成の概念からの、ひとりひとりの離脱をはかるべき時のように思います。そんな時期に、あえて講演会、そして講座を開きたいと思います。

 4月25日(日)10時~12時の講演会は、以前もお知らせしましたように、政治学者の田中信一郎さんをお招きして行うものです。いま田中さんから送られてきたレジュメを拝見していますが、日本における「小国主義」の系譜を追いながら、お話しが展開されていく予感があり、とても興味をそそられます。
 わたしはもっぱらいまのわたしたちが抱える課題について、これから先の展望も含めて、お話ししたいと考えています。
 ぜひ、ご一報のうえ、ご参加ください。

 *ところでメルアドが変わりました。
      連絡は、
  npo.shinjinkai1989@gmail.com
       かyagashiwa@hotmail.com
    のいずれかにお願いします。

 それとともにzoomでの参加も
        可能になりました。
 講演会の2日前、4月23日までにメール等で連絡いただければ、IDおよびpassword、それにレジュメ(PDF)を添えて返信させていただきます。
 会場まで足を運べない方、ぜひぜひこの機会にご参加ください。参加費は無料です。よろしくお願いいたします。

<NPO新人会・宏究学舎
 2021年夏学季講座のお知らせ>
 それと5月16日を初講日とする講座『時代に杭を打つ!partⅤ』の概要も決定いたしました。池ビズでの質疑応答や対話を中心に講座を展開したいと考えていますが、こちらのほうは有料でzoomでの受講ができます。
 参加申し込みは、会場参加もzoomも
 npo.shinjinkai1989@gmail.com
 かyagashiwa@hotmail.com
  のほうにお願いいたします。
*ただし、zoom参加の場合、質疑応答や対話の参加はできません。ご了承いただければと存じます。

 まさに、コロナ禍の世界のなかで、いかにわたしたちのコミュニケーション力を絶やさないか。時流に乗るのではなく、いまこそ自分たちの足元を見つめ直して、生きる術を見出す。そのため、多くの対話を積み上げていく場をつくっていきたいと考えています。よろしくおご参加ください。
  


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4・25講演会をやります!

2021-03-22 12:15:03 | 〝哲学〟茶論
 2021年になってもう4ヶ月めに入ろうとしています。
blogを更新しないまま、月日だけが経っていきました。
 この間、いろいろ書きたいことはあって、何度も途中まで書き連ねて、しかし突如として虚無が身に立ち纏い、書いては断念するくり返しでした。

 じっさいコロナ禍にあって、さまざまな分野で多くのことが停滞を余儀なくされています。 
 市場原理主義という資本主義の終末期に、これまで介入してこなかった未知の領域に触手を伸ばしたがためおこったこのコロナウィルスの惨禍によって、これはわたしに限ることではなく、多くの人びとも生きるうえでひどく神経質になっている状況が見て取れます。
 とりわけ、人と人との会話やおしゃべり、対話が損なわれている。街を歩いている人が、それぞれまったく別の言語で会話しているかのような風景が、そこにはある。
 
 というわけで、まずはそこから身を起こすしかないと思い定め、いまどき流行ではないものの、一大イベントとして、講演会をやってみる。そこから始めようと思い立ちました。
 以下フライヤーです!
 テーマは
<対話:いまどき日本を
     アップデートする!> 
【コロナ禍であろうと、
 人と人との〝べしゃりや対話〟
                                  がなきゃ、
      面白くなくない?】です。
         
*講師としてmain-lectureを田中信一郎さんにお願いしています。
 田中さんは現在は千葉商科大の先生ですが、最近は東京新聞などで政治問題などのコメンテイターとして登場している方です。
 長野県の行政立案や政府の行政分野での企画立案などの実務をこなしてきました。そうしたお話しも含め、いまの政治状況についての生きたお話が聞けます。 
 ちなみにわたしは開講予定の2021年夏学季「時代に杭を打つ!」講座のpre講座の意味で、オウム真理教地下鉄サリン事件以降、post資本主義社会を展望するお話をします。
*日時は4月25日(日)
 時間は午前10時justスタート!
 cf)参加申し込みは4月24日18時までお願いいたします!
  宛先yagashiwa@hotmail.comまで。
*会場はとしま産業振興プラザ(池ビズ)第三会議室(定員50人)。
 JR池袋駅南口~徒歩4分。Hotelメトロポリタンを過ぎ池袋消防署隣です。
*参加費無料。でも、会場費その他の経費のカンパをいただければ幸いです。

 なお、今回はわたしの講演も含め講師の講演のみzoomで実況中継いたします。できれば会場まで足をお運びいただき、活発な質疑応答をしていきたいのですが、遠距離の方々などには、zoom参加が可能なように企画を進めています。
 レジメなどの送付もございますので(PDFで参加者のメールアドレスに送付)、zoom参加希望の方は4月12日18時までにはご連絡ください。(宛先yagashiwa@hotmail.com)返信の際、zoomのIDとpass-word等の接続方法をお伝えします。
 
 それとともに、この講演会で勢いをつけ、
5月16日を初講日(6月6日、20日、7月18日の全4講)とする2021年夏学季の「講座:時代に杭を打つ! partⅤ」も開講します。
 そのお知らせもこれからアップさせていただきます。よろしくお願いいたします。


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☆☆〝札幌「いまどき日本を考える!」講座〟のお知らせと「学問の自由」って何?☆☆

2020-10-12 11:55:17 | 〝哲学〟茶論
 今回のblogは、札幌で10月14日(水曜日)からおこなわれる講座についてのお知らせです。あと2日ですね。どん詰まりのなかでの再度の知らせとなってしまいました。
 そんなわけなのですが、どうにも最近、暗澹とした気分なっているので、講座の宣伝もかねて、すこしそのお話しを書いてみます。

    <ナチスの焚書>
 
 歴史をすこし眺めるなら、これまでひどい宗教弾圧や思想弾圧をしてきた暴君や政治権力者は、星の数ほどいると言っていいでしょう。
 星に喩えては、夜空に美しく輝く星に申し訳ないのですが、数え切れないほど、またスケールの大小とりまぜて数多くいることだけは事実なので、ついつい喩えてしまいすみません。
 古代ローマ帝国のカリギュラCaligula やネロNeroがおこなった知識人や哲学者への侮蔑と弾圧、秦の始皇帝からはじまった「焚書坑儒」の暴虐さ、それにヒトラーによるユダヤ人への虐殺、それに反ナチス的だとして思想や学問に対しての蔑視と焚書の実施。日本では、古くは一向衆への虐殺と弾圧があり、キリシタンへの殺戮と弾圧があり、近代では京大教授滝川幸辰の罷免、美濃部達吉の天皇機関説への弾圧、矢内原忠雄や河合栄治郎への禁書と地位剥奪など、歴史には「政治」が「学問」「思想」の領域に手を突っ込んで介入し、それを弾圧する。ことによったら学者や思想家の命まで奪う。そんなことは何度も繰り返されてきました。
 そもそも、学問思想や芸術といったものと政治は、向きがまったく違うものです。政治はどう強権を発動し、人びとを弾圧して苦しめても、長い歴史の一場面でしかなく、即物的で永続性に欠き、おおかたは後世の歴史の審判を受けるものです。
 ここで福澤諭吉を引っ張ってきても仕方がないのですけど、福澤曰く、「政治」は風邪を引いたとき、その病の治す処方をおこなうものでしかなく、それに対して「学問」は、いわば風邪を引かない身体を作るための平生の摂生法を授けるものとしています。
 だから、学問がそのときどきの政治権力に密着すれば、忽然としてその党派性に泥んで過激なイデオロギーに転じてしまうことを論じ、学問は「沈深にして静なるもの」であるべきだとしています。ここには幕末期の過激な尊攘運動で沸騰のあげく蒸発してしまった幾人もの知人への苦い経験というものが潜んでいるように思えるのですが、
 ・・・学問の本色において、社会の現事に拘泥することなくして、目的の永遠の利害に期するときは、その読書談論は、かえって傍観者の品格をもって、大いに他の事業者を警しむるの大功を奏する・・・。(『学問の独立』福澤諭吉教育論集 岩波文庫)
 つまり、「政治」と違い「学問」は〝永遠〟を追求するもので、傍観者たるが故の〝品格〟を備えているものだということです。

 そんなとき、菅義偉政権は、政治権力でなんでもできるととでも思ったのでしょうか、日本学術会議の人事に手を突っ込んできました。もちろん、今回の振る舞いは、橋本龍太郎政権から安倍晋三政権まで幾度と試みがなされてきたようなのですが、政府にとって都合の良くない発言をする学者は排除する。いわゆる排除の論理を振りかざしての圧力行使でした。
 そのくせ、その排除の論理が露骨すぎると思ったのか、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」とスーパーで何度も繰り返される宣伝音声のように、ただただ文言が繰り返されるだけで内容には一切触れず、6人の学者の学術会議への参加を有無を言わせず拒絶する。ここには国から金が出てるんだ。文句は言わせねぇといった、なんとまあ倨傲なという印象です。
 政府は、これを「学問の自由」の毀損にあたらないといってますが、ふつう法学部で学ぶ「憲法」の教科書の「学問の自由」では、そんなふうには書いていません。
 「学問の自由」は、ふつう学問研究の自由、研究発表の自由、教授の自由の3つ柱があり、それを保障するために、学問の自由が、国家権力に弾圧・禁止されないこと。それに、その実質的な裏付けとして教育研究機関、たとえば大学などの教育機関、この場合は日本学術会議も入るんですけど、そうした教育研究機関の従事者の職務上の独立を保障し侵犯しないとなっているものです。
 ですから、日本学術会議が6人の学者さんを学術会議に入れたいといって推薦するなら、それを政治権力が邪魔してはいけない。邪魔することそのものが「学問の自由」を侵犯することになるわけです。
 政府にも法律を知っている官僚はいるでしょうから、彼らは政権がやっていることの違法性はよくわかっているかと思うのですが、ダメなんでしょうね。
 思うのは、歴史なんかをやっていると、こうして小さなことがどんどんなし崩しにされ、政治権力の言う「法律に則って」という詭弁がなんとなく通ってくると、世の中はまちがいなくおかしくなってくるということです。
 会社でもそうですよね。出入りの業者との小さな接待やなれ合いが、いつしか積もり積もって不正となり、出張旅費の水増しや経費の小さな使い込みが、歯止めがきかなくなる。そんなときだいたいは、まわりを共犯関係に巻き込んで、うやむやにする。カラ出張問題などや最近のかんぽの不適正販売も、最初は小さなことがあとから肥大化組織化してくる。
 しかも、こんなときマスメディアの論説委員などからフェイクが飛び出す。日本学術会議などにはほぼ加入できない研究成果の低い学者もどきから悪意に満ちた発言が飛び出す。ネットでは、なかなか大学の職にありつけない不満からか学術会議への嫉妬が沸騰する。
 
 ほんとに嫌な渡世になっちまいました!
とは言うものの、そんなのどうでもいいと思いがちなふつうの人びとの無関心の囲いがとりわけキツくなってきている昨今では、やり過ごしていい問題ではけっしてありません。ここはやはり、強権勢力である菅政権に対して、パンケーキになんか欺されない、〝時代に杭を打ち込む!〟姿勢が必要ですよね。
 
 というわけですが、そこでやっと本題です!
 10月14日(水曜日)午後7時から、札幌エルプラザ(JR「札幌」駅北口から徒歩約3分)の2階環境研修室1で
〝民主主義〟と〝全体主義〟「いまどき日本を問い直す!」というテーマで全5回(10月14日~12月9日*一回だけの受講も可能です)にわたって 日本現代史(戦後史)にお話をします。
 内容は通史としてではなく、それぞれのテーマについて、「憲法のこと」「植民地だった朝鮮半島のこと」「60年安保のこと」「バブル経済崩壊前後のこと」、そしてアメリカに支配されている「日本の現在(いま)」についてお話しを展開します。
 この講座は、まずはみなさんとの活発な〝対話(やりとり)〟をしたいと思い企画されています。ですから、お話の途中でもお時間等を設けますので、活発に発言していただけるとうれしく存じます。

 歴史とは、事件としてはその時代に起きるものですが、そこに至るにはその底流に人びとの怒りや哀しみなどの感情や暮らしへの閉塞感などさまざまな事柄が潜んでいるものです。
 そんなことを少しずつ解き明かしながら、お話しを進めていきたいと思っています。ぜひ、札幌や札幌郊外の方、平日の水曜で、お仕事に疲れているかたも多いでしょうが、気分一新をはかる意味でもご参加ください。
 下記にフライヤーを貼っておきます。よろしくお願いいたします。
          


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〝阿Q〟の時代-秋季講座のお知らせ

2020-09-21 09:54:43 | 〝哲学〟茶論
 先の首相が〝病〟ということで、仰々しく車列をなして慶應義塾大学病院を行き来し、そして急きょ辞任する。するといつの間に保守政党のなかをうまく根回ししていた黒子と言うべき官房長官が、その首相の椅子を襲う。
 あたかも下克上のような舞台回しに面白がっていたのが、夏の猛烈な暑さがようやくおさまってきたここ数日のありさまでした。
 それにしてもペーパーメディアの世論調査だと、同情なのか、人びとが〝いい人〟ぶっているのか。対コロナ政策では失策続き、それにあれほど「森・加計・サクラ・河井・IR疑獄」で、支持率を落としていた先の首相が辞任するとしたとたん、支持率が〝バカ上がり〟する。いっぽうで新首相となった先の官房長官の人気も急上昇中・・・。
 先の官房長官とは「森・加計・サクラ・河井・IR」問題で、まさに木で鼻を括るような対応をした御仁なのに、それはなかった如くに、あたかも〝新しい顔〟でマントでも着てさわやかに出現した〝ヒーロー〟のように見える。
 それはまるで魯迅が描いた『阿Q正伝』の阿Qが、あちこちの権力に乗じて世渡りするような、そんなひどい冗談の主人公のように、人びとが踊っている。そんなふうにしか思えてなりません。
 右からの風が強いと思えば、ふらふらと右に依っていき、権力のあるものが左だというと、我先に左に駆け出す。そして、それを恥じたり、後ろめたく思ったり、深く考えたりしない。過ぎたことはいいじゃないか。きまったならきまったで、いいことなんだ。
 過去をふりかえったりしない。愚かさはもみ消して忘れる。世の中の空気は、どんどん澱んでいっても気にならない。

 そうしたなかで、最近ふと思ったのは、ネット社会になって、電車の中で本や新聞を読んでいる人びとが急速に消えていったように思えることです。たまに文庫本に目を落としている人がいると、何を読んでいるのかなと、興味がそそられるとともに、なにかとっても偉いことをしているようにも見えたりする。
 かつて電車の中で新聞をおおきく拡げている人は、迷惑この上なかったのですが、最近は戻りつつあるものの、「コロナ禍」で電車が空いているなか、スマホの限られた画面ではなく、ゆったりと新聞を見ている人などを見つけると、ほほうと頷いてしまったりする。
 以前懇意にしていた新聞人がよく言っていたのは、新聞は紙面でとらえるものだということでした。紙面にはいろいろ異なった記事が、いちおうの作為はあるものの、無秩序にならんでいるのと同じで、読み手は、そのなかでこれと思った記事を読み出すとともに、その近くにある記事も同時に目に入ってしまう。記事を選択して読むというより、いろんな記事をその一日の関連として読んでしまう。そこにペーパーメディアの特質があると・・・。
 しかし、ネットメディアは、ヘッドラインのなかから、自分が興味のあるものを検索して読む。そのほかの情報を共時的に目に入れることは少ない。すなわち自分好みの情報だけ入れて、入れたくない情報、嫌いな政治家や作家、芸能人の情報はカットできる。
 自分にとって興味があるという事は、自分にとって都合のいいこと、耳障りのいいこと、面白がって見れる情報であり、それ以外は自身には関係のないことになって疎外されていく。

 たしかに21世紀になって、わたしのまわりにいる若者や大人たちは、自分にとって興味の湧かないこと、考えさせられたりするのが重く感じる情報、いわば苦手なことや嫌いなことを見ないようにするようになってきたように見受けられます。
 個別の好ましい情報だけをいれてくることで、多くの〝プチオタク〟的な、具体的いえば、とある芸能人の情報にはめちゃめちゃ詳しい、真偽のほどはともかく、やたらに中国の陰謀情報に精通している。古い言葉を使えば、政治学者の丸山眞男の『日本の思想』にあった〝たこつぼ化〟した情報ばかりに人びとが惑溺している。
 その文脈で考えると、いまどきの人びとが嫌いなことには眼を向けない、自己の思慮のおよばない事柄を嫌悪するというのは、ネットの社会の現出がおおきく関わっているからかもしれません。
 右を向くのが大多数であるなら右を向き、流行っているから踊ってみせる。だからといって、失敗したり愚かだったこと、いわばマイナス面に後ろめたさや後悔を生まない。いつも勢いのあるほう、力のあるほう、みんなが向く方向に吸い寄せられて、そうじゃないと不安で怖くてならない。
 まるで〝阿Q社会〟とでもいって世の中が、いまわたしたちが見ている日本社会じゃないか。
 日に日に日が短くなっていく9月の夕空をふと窓から眺めながら、そんな重苦しさが知らないうちにわたしの胸裡を占拠してしまっている。

 とはいうものの、そこで憂鬱になってもはじまらないので、秋からの講座のお知らせをいたします。
 新人会・宏究学舎講座2020年秋学季は、下記のフライヤーにあります通り、10月18日(日曜)午前10時から4講にわたって開講されます。
 今回は、〝時代に杭を打つ!〟PartⅣとして、「昭和」から「平成」の世紀末にかけて日本社会に〝杭を打った!〟思想家や文学・映画作家を取り上げて、21世紀のいまのありようを検証しようという試みです。
 そのため、1960から70年代に若者に大きな影響を与えた寺山修司の今日的な意味をスプリングボードにし、『日本の夜と霧』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などヌーヴェルバーグの映画作家として問題性をつねに発していた大島渚。弱肉強食、自己責任、階層分化の拡大を当たり前とする新自由主義経済に敢然と立ち向かった世界的経済学者である宇沢弘文。そして南九州に土着し、歴史のなかに重く沈殿していく真実を、水俣病という現代性からあたかも巫女が語る言霊のように紡いでいった石牟礼道子の4人に導かれて、いまを考えてみようというわけです。
 詳しくは、下記にフライヤーをあげておきますが、見えにくいかもしれませんので、講座お申し込みは、
<唐澤俊介 E-mail:syunsuke797@gmail.com>か
<八柏龍紀 E-mail:yagashiwa@hotmail.com>にご連絡ください。
 全4講で、一講座でも受講可能です。会場では、前回同様、いろんな方々との〝対話〟を盛り込みながら、お話しを進めていきます。ぜひご参加ください。会場はいつものように池袋南口のとしま産業プラザ(池ビズ)です。

 なお、札幌での現代史講座は、すこし早く10月14日(水曜19時~)を初講日として、全5講(隔週毎)に開催します。こちらの方は、主催者側からの日程確認と会場の確定ができましたら、あらためて詳細を掲載します。
 現在のところ10月は14日と28日が開講予定となっております。
 テーマは日本現代史です。それぞれのテーマは以下の通りです。
第1講:慰霊と鎮魂~空から降ってきた「憲法」
第2講:「植民地」朝鮮と「日本人」の戦後責任
      ~〝戦後平和〟の真実
第3講:60年安保の残像〝二人の美智子〟
      ~「無国家時代」の日本人!
第4講:〝欲望列島〟日本 
      ~ジュリアナ東京からバブルの崩壊へ。
第5講:CIAと日本、USAの手のひらの日本
     ~〝冷戦〟は続く!
 札幌市とその近郊の方々のご参加をお持ちしております。
 近日中にまたblogを更新し、講座関係の情報をお知らせします。よろしくお願いいたします。 
    

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『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第二部>[再録]

2020-09-11 20:28:30 | 〝哲学〟茶論
<お知らせ> 前回の[第一部]とこの[第二部]は、過去に京都商工会議所主催「京都講座」での講演記録をre-writeしたものです。 
  流謫と流離
                  
 大宰府にむかう途中、菅原道真は播磨国の明石駅で、道真の流謫の事実に驚いて深く嘆く駅長をみて、つぎの詩を詠んだという。
  駅長莫驚時変改
    駅長驚くこと莫かれ
     時の変り改まること 
  一栄一落是春秋
          一たびは栄え一たびは落つる
     これ春秋
 「時変」と「栄枯盛衰」の習いは、これこそ「春秋」である。つまり、時代における栄枯盛衰は、これこそが年月の奥義であるということである。その言葉に、菅原道真のこのときのすべての感慨が簡潔に詰まっている。
 この詩文は院政期の歴史物である『大鏡』に載っている。しかし、道真が死の直前に盟友紀長谷雄に贈ったものとされる『菅家後集』には、これは僧侶の書き記したもので真偽ははっきりしないとしている。
『源氏物語』にもこの詩は引用されていて、そこでは「くし=口詩」いわば口頭で詠んだものをだれかが書き取ったと記されている。
 しかし、この漢詩はいかにも道真らしい、毅然とした無常感が現れたもののように読むことができる。そしてさらに道真は、配流の苦しみをつぎのような言葉で綴る。
  嘔吐胸猶逆
    嘔吐して胸もなほし逆ひぬ
  虚労脚且萎
    虚労して脚も且萎えにたり
  肥膚争刻鏤
    肥膚争(いか)でか刻(き)り
    鏤(ちりば)めむ
  精魄幾磨研 
     精魄幾ばくか磨研する
 おのれの肉体に刻み込まれた痛苦と疲弊。彫琢された言葉に内在する忿怒と憤り。しかし、それでも道真は主上(ミカド)への思いを重ねて詠ずる。
  去年今夜侍清涼
   去(い)にし年の今夜清涼に侍りき
  秋思詩篇独断腸 
   秋の思ひの詩篇独り
    腸(はらわた)を断つ
  恩賜御衣今在此
   恩賜の御衣は今此に在り
  捧持毎日拝餘香
   捧げ持ちて日毎に餘香を拝す
 清涼殿にあって、右大臣兼右大将として醍醐天皇に近侍していた自分。それから流謫へと転じたことの悲しみ。心を切り刻む痛切さと哀切さ。
 あわせて「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 此秋独作我身秋」という詩句。意訳するなら、我が無実を訴えたいというはげしい願望がある。風のすさまじい鋭さはまるで刀で突き刺すようであるが、それでも我が愁いを破ってはくれない。月の照らすのを見ても風のすさぶのを聞いても、我には身の毛がよだつように凄まじく感じられる。天下の秋の愁いは、我が身にことごとく集中して、我れのみ愁いが限りなく深い。
 道真には、政争で放逐される以上に、無実であること、自らの潔白がまったく無視される現実に狂おしいばかりの怒りと絶望があった。
 道真が左遷される際に詠んだといわれる和歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」はよく知られるが、こうした抒情的な情緒とは異質な、いわば漢詩文がもつ「現実との裂け目」、それらが肉体の深い根の底から絞り出されるように詠じられている。
 それとともに讃岐国司のとき詠んだ『寒早十首』のほか、配流後の道真には、都から遠く離れた文化とはほど遠い人びとのくらす姿をとらえている漢詩がいくつもある。
 塩を焼く苦労。その一方で不正の儲けをする輩。軽々しく人を殺傷し、群盗が肩を並べて横行している状況。漢詩という表現方法で道真はそうした世の矛盾を抉出する。
 しかも、そんななか凡俗にも官吏はそれらを無視し、無聊に釣り糸を垂れているばかりなのである。道真は、漢詩の対句・対比という表現でそうした「現実」の矛盾・苛烈さを浮き彫りにする。

 道真が流謫地大宰府で没したのは、延喜三年(903年)旧暦二月二十五日であった。享年五十九歳。梅のほころぶ季節と言いたいところだが、じっさいは現在の三月下旬であるため、桜咲く季節であった。先にも触れたが、貴人の多くはその死を憤死と受け取った。そしてそれが猛威を振るう〝祟り〟への恐れとなった。

 なぜ『古今和歌集』は編まれたのか?

 そこで気になるのは、道真の死とその直後に勅撰された『古今和歌集』の関係である。左大臣藤原時平は、道真没の知らせを受けると、ひそかに紀貫之らを呼び集め和歌集の編纂事業をはじめたと思われる。紀貫之の私家集である『新撰和歌』などによると、和歌の詞書に「延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る」とある。
 『古今和歌集』は、これによると延喜五年(905年)四月六日に完成したように思われるのだが、となると編集の準備は、少なくともその一年以上前にはじめられ、選者を集めて作業に取りかかっている必要がある。
 するとこの『古今和歌集』は、道真没後のかなり早い段階で企画されていたのはまちがいがない。プロデュースしたのは藤原時平とされているが、ではなぜこの時期に「和歌集」の編纂がなされたのか。文章博士である道真と和歌集の勅撰。その間に何があるのか。

 『寒早十首』に何が託されたのか?
 
 平安時代に入って日本の漢詩文にもっとも大きな影響を与えたのは、八世紀の盛唐時代に活躍した杜甫や李白ではなく、唐の衰退期に居合わせた白居易(白楽天)だったという。
 白居易は九世紀半ばまでに活躍した詩人だが、その『白氏文集』は日本の貴族社会の中で広く読まれ、鎌倉初期の歌人藤原定家の「紅旗征戎非吾事」という文言も『白氏文集』の一節から切り取ったものだった。それはともかく、時代は違うが、白居易が菅原道真に与えた影響もまた大きかった。
 白居易の漢詩は、士大夫の「左遷」をテーマのひとつとし、それとともに社会批評とも言うべき「諷諭詩」というスタイルが基本となっている。
 白居易の経歴を軽くなぞると、現在の河南省に生まれた白居易は、子どもの頃から頭脳明晰であり五歳のころから詩を作ることができ、九歳で声律を覚えたとされる。彼の家系は地方官として生涯を送る地元の名望家といったものであったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれ、彼は二十九歳で科挙の進士科に合格し、地方官の上席に累進し、その後は翰林学士、左拾遺などの高級官僚の仲間入りを果たしていく。しかし、四十四歳にして社会批判や政治批判が咎められ、官吏としての越権行為があったとして現在の江西省の司馬に左遷される。その後、再び中央での活躍を嘱望されるが、それを倦み、地方官を願い出て杭州・蘇州の刺史となり、最後は刑部尚書の官を七十一歳まで務めた。
 つまり白居易の生き方には、けっして権勢に媚びない。それが故の「左遷」があり、地方官としての生き方があり、それを発条(バネ)として天下国家に対しての「諷諭」があった。気高い倫理性と『長恨歌』に代表される滅びゆくものへの同情と哀惜、それを歴史的な叙事詩として雄渾に詠いあげる。それが日本の貴族たちに愛唱されてきた理由である。そしてしばしば道真はこの白居易と比較されうる詩人だとされていた。
 さきに触れた道真の讃岐国司時代の漢詩『寒早十首』をあげてみる。

 何人寒気早 寒早走還人
  何れの人にか 寒気早き寒は早し 
   走り還る人 案戸無新口 尋名占舊身
  戸(へ)を案じても 新口無し 
  名を尋ねては舊身(そうしん)を占ふ
 地毛郷土瘠 天骨去来貧
  地毛(ちぼう)郷土瘠せたり
     天骨去来貧し
 不以慈悲繋 浮逃定可頻
  慈悲を以て繋がざれば
     浮逃定めて頻りならむ
 何人寒気早 寒早浪来人 
  何れの人にか寒気早き
  寒は早し浪(うか)れ来(きた)れる人
   欲避逋租客 還為招責身
  客は 還りて責めを招く身となる
     避けまく欲(ほ)りして租を逋るる
   鹿裘三尺弊 蝸舎一間貧
     鹿の裘 三尺の弊(やぶ)れ
     蝸(かたつむり)の舎(いえ)
        一間の貧しさ
  負子兼提婦 行々乞與頻     
      子を負い 兼ねて婦を提(ひさ)ぐ
      行く行く乞與(きよ)頻りなり
    ・・・略・・・ 
  何人寒気早 寒早夙孤人
   何れの人にか 寒気早き寒は早し
      夙(つと)に孤(みなしご)なる人
  父母空聞耳 調庸未免身
   父母は空しく耳にのみ聞く
   調庸は身を免れず
 葛衣冬服薄 蔬食日資貧
  葛衣(かつい) 冬の服薄し
     蔬食 日の資(たす)け貧し
 毎被風霜苦 思親夜夢頻 
     風霜の苦しびを被る毎に
  親を思ひて夜の夢頻りなり
  (「寒早十首」『菅家文集』)
 
 十分な食糧もなく骨を削るように生き、凍えるような寒さと過酷な租税に苦しめられている貧者たち。その状況を克明に描写するなかで立ちのぼる抒情。まさに絶望や悲惨という叙事を悲痛に歌い上げる詩魂。詩は根本において「述志」であるとはある詩人の言葉だが、菅原道真の漢詩には寒さやひもじさからの黙しがたい訴え、救済への叫び、そして祈り、そうした情感があたかも出口をもとめてせめぎ合うように描かれている。
 もともと形象文字に源をもつ漢字には、文字の一つ一つにつねに現実がつきまとう。だから漢詩には、現実を内包し告発する叙事詩としての性質が生来的に内在していると言える。では、それにたいして和歌はどうなのか?
        
      <古今和歌集>

 『古今和歌集』について
   ~和歌に内在する「気配」とは?

 短詩のなかに恋情や抒情を含ませる。匂い立つ気配を表現する。和歌の特徴については、これまで多くの解説がなされてきた。それをここで解説してみてもあまり意味がない。ただ和歌という短詩系の文芸における「気配」についてだけは触れておかねばならない。
 『古今和歌集』の選者紀貫之を歌壇に推薦したのは、紀貫之よりも四十歳ほど年長だった「三十六歌仙」の一人で醍醐天皇時代に従四位上であった右兵衛督藤原敏行だとされている。その敏行の歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」という秀歌がある。目には見えない。であるが気配は濃厚である。そもそも情緒や抒情というのは、目には見えないものである。それを言葉で感じ、映像化する。
 『古今集仮名序』にも、
 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。・・・中略・・・さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎ、たのしみ心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂、住の江の松も、相生のやうにおぼえ、男山の昔を思ひ出でて、女郎花のひとときをくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。
 とあるように、歌に現れるのは〝実景〟ではなく、その気配である。そしてその気配は、目前にあるものではない。すでにこの世から喪われたもの、存在する事は認知されるが見た事のないもの。
 「美しいもの見たければ目をつぶれ」といった文学者がいたが、むしろじっさいの景物ではなく、情緒のなかにある景物。より踏み込んでいけば、死出の世界を思いおこすことにもつながる。貫之の歌を詠む(『古今和歌集』)。
 桜花散りぬる風のなごりには
   水無き空に波ぞたちける
 
桜花疾(と)く散りぬとも思ほえず
   人の心ぞ風に吹きあへぬ
 世の中はかくこそありけれ吹く風の
   目にも見ぬ人も恋しかりけり

 ここには投影の構図ともいうべき美意識がある。自然界の現象と人生一般の命題を節合させ、目の前の景物から連想を展開して見えない世界への〝幻想〟を詠うのである。
 それと和歌集が編まれた背景には、死者への鎮魂があると考えておかねばならぬ。和歌を詠むこと、みんなで唱和することは、黄泉の世界に住む人びとへの現世からの交信であった。
 さらに死者への鎮魂は、同時に死者に縁のある多くの人びとが「哀情」を重ね合わすことのできる交流板のようなものであった。集団で唱和することによって、より鎮魂の思いを深めることができる。ある意味それは仏教の「音声」に通じるものでもある。

 大伴家持の私家版とされる『万葉集』は、戦火に倒れた多くの兵士の鎮魂集として編まれたとする説がある。そもそも大伴氏は軍事氏族なのである。
多くの防人の歌が集められ、たとえそれが、さきの戦争の際の「特攻兵士」のように、死を覚悟させる意味で一カ所に集められて書かされたものであっても、白村江の戦いや壬申の乱で、どうしても避けられぬ死を前にした兵士の、その「死」そのものを悼むものとして編まれたという想像は、それほど間違ったものではない。
 『新古今和歌集』も、世に源平の争いとして知られる治承・寿永の大乱で多くの戦死者を出したことへの鎮魂。南北朝期の南朝の宗良親王が編んだ『新葉和歌集』も、南朝の正統性を誇示するといった性格はあるというものの、多くの悲歌が集められ、これも南北朝期に倒れた武士や兵士らの鎮魂を無視することは出来ない。
 その意味で慌ただしく編纂された『古今和歌集』も、その背景にあるものとして、菅原道真の死を無縁とはしがたい。もちろん『古今和歌集』の部立ては、春夏秋冬、賀、離別、羇旅、物名(もののな)、恋、哀傷、雑などになっていて、花鳥絵巻としての華やぎがあるのだが、それすらも、この時期、まだ名誉も回復されていない菅原道真の和歌が二首採られている意味を考えるなら、道真の鎮魂を想像してもあながち外れたものではないだろう。
  秋風の吹きあげに立てる白菊は
    花かあらぬか波の寄するか 
 詞書きには、道真と素性法師のそれぞれ一首、紀友則(病にあった友則は、延喜五年『古今和歌集』が世に送り出された秋に没している)の二首を括る言葉として、「おなじ御時(宇多天皇のころ)せられける菊合に、州浜をつくりて菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌」と述べられている。そしてもう一首。
 このたびは幣もとりあへず手向山
  もみぢの錦神のまにまに
 詞書きには、「朱雀院(宇多上皇のこと)の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる」とある。二首とも、宇多天皇とのかかわりの和歌である。宇多天皇と菅原道真。二首とも道真の死に手向ける意味があったと考えていい。

 結語:漢詩と和歌、
        そして〝祟り〟の発生

 そろそろ紙面が尽きた。最後に漢詩と和歌について考えてみたい。その違いはおおよそつぎのようなことになる。
 和歌には、花鳥絵巻として〝抒情〟を掻きたてる世界観がある。それは「気配」の美学であり、景物をまえにしての「小世界」に耽溺する風流韻事の世界に遊ぶ美学と言えよう。さらに唱和することで情緒的な〝親密圏〟を形成し、幻想のなかでの親和性や情緒を高め、それが鎮魂にもつながっていく。
 それに対して漢詩とは、情緒というよりは〝条理〟を説くものであろう。雰囲気を共有するというより主観的な視座を起点にする美意識である。そのなかで世相の不条理・不合理を告発し、格調高い音律と事実描写の的確さのなかでの悲痛や慟哭を表現する。また漢詩に映し出される事物や景物の多くは存在それ自体の現実性が表現され、あくまでも叙事詩的である。
 そこで菅原道真の敗北の意味するものを見ておきたい。
 道真の敗北には、彼が最も得意とする「漢詩」的合理主義があったのではないか。それは言葉を換えるなら、教養主義の敗北のようにも見える。
 道真は、つねに合理的道徳性を政治に求めた。しかしその一方で、道真を左遷し政治的に追放した側には、合理性に対する厭離が見て取れる。つまりは情の勝る「ミウチ」意識、「ウチワ」意識、物事への「忖度」が、政治の多くを占めていたのだ。
 ただし、そうした親密な意識には、一方で後ろめたさを生む要因にもなる。〝祟り〟という恐怖には、合理性が身に纏っている正しさを、非合理的なやり方で毀損した後ろめたさがあると言っていい。
 菅原道真の左遷からその死を通じて、歴史的な目で見ていくと、「平安」という時代が、中国文明の合理主義的な教養主義の正義性を喪失し、情緒的で親密的な閉域、もっと安逸な貴族社会における「ミウチ」主義や「ウチワ」意識に傾斜していった時代だった見ることができる。
 そもそも貴族政治とは、「ミカド」とその取り巻き親族らが権力と富を分かち合っていた時代であった。叙位と除目、一族内の調和と祭祀、そして荘園の分配以外、たいした政治力を必要としなかったこの時代は、地方の貧困やその現状を、無視しつづけた時代でもあった。たしかに、中央貴族や皇族の住む閉域世界では、柔和で保温が効いていて、美しい幻想に身をゆだねていればよかった。
 しかし一方で、現実に眼を向け、治世者として周囲を見渡してみると、それはあまりにも荒涼たる景色であったはずである。そうでありながら、現実を見るものは、貴族や皇族にとって破壊者であり、恐怖をもたらす者でしかない。
 しかし、いつしか恐怖は肥大する。これまでの安逸は、いつか巨大な跳ね返りになって、大きな厄災をもたらすかもしれない。安逸の世界の閉域にいればいるだけ、その怖れは募ってくる。菅原道真の怨霊への怖れは、じつにそのあたりに宿されたものであったのだろう。
 そして、それはそんなに遠くない時代に、大地震と飢饉、それに武力でのし上がってきた武士の台頭というかたちで現出した。
 
 漢詩がもたらした合理的教養主義は、日本社会に大きな影響を与えたものであったことはまちがいない。でありながら、その一方で、合理性と合理主義のもたらす正当性は、なかなか根付かなかったことも事実であるように思う。日本の歴史をたどっていくと、いつの時代もいつのまにか「気配」や「情緒」が勝り、「思想」や「精神」が厭われていった。もちろん、隠者や世捨て人の「思想」や「精神」は残ったと言えるかもしれないが・・・。
 非業の死を遂げた菅原道真の〝祟り〟とは、安逸に流れている社会への警鐘であったことはまちがいない。それとともに思うのは、いまの日本の社会にあっても、警鐘であり続けるものと考えていいのかもしれない。


          

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『漢詩の精神』~菅原道真左遷事件とは? <第一部>[再録]

2020-09-10 15:21:29 | 〝哲学〟茶論
菅原道真の〝祟り〟~清涼殿に神火落つ!~

   <『北野天神縁起絵巻』>     
 延長八(930年)の年は、春から夏にかけて京中で疫病がひどく流行した年であった。
 前年の大風洪水の被害は、これもまた目も当てられないくらい過酷なものであったが、この年は雨はほとんど降らず、激しい旱魃がうち続き、その被害は、田んぼが枯れるなどという程度ではなく、牛や馬がつぎつぎに痩せ衰え、人びとはその死にかかった牛馬の生き血にすら一時の渇きを満たすため群がるほど陰惨を極めていた。
 文字通りの天変地異の猛威が、ぱっくりと口を開いて人びとを不安の谷底に吸引する。
 六月二十六日午三刻(午後1時ころ)・・・俄に雷声大いに鳴り、清涼殿の坤(西南)第一柱の上に堕ち、霹雷の神火あり・・・(『日本紀略』)。
 公卿らが旱魃対策を協議していた最中、とてつもない雷火が突如とし清涼殿に落烈した。
・・・殿上に侍るの者、大納言正三位兼民部卿藤原朝臣清貫、衣焼け胸裂け夭亡す。(略)また従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼けて臥す・・・。紫宸殿に登る者、右兵衛佐美努忠包、髪焼け死亡す。紀蔭連、腹燔て悶乱す。安曇宗仁、膝焼けて臥す・・・。(前掲)
 神聖であるべき清涼殿が一挙に〝ケガレ〟の修羅場と化した。
 この突然の災厄に、もっとも畏れおののいたのは醍醐天皇その人にほかならなかった。恐怖と畏れの激しい衝撃のなかで醍醐天皇は、翌日から病の床に伏す。病はいっこうに回復する兆しはない。瘧りと震え、ミカドは日に日に衰弱していった。
 そして、霹雷三ヶ月後の九月二十二日、醍醐のミカドは、慌ただしく八歳の寛明親王に譲位(のちの朱雀天皇)するやいなか、意識混濁のまま、同二十九日に先を何者かにせかされるようにして没した。享年四十六歳。こうして世に聞こえた「延喜親政」は、あっけない幕切れを迎える。
 なぜこの惨事はおこったのか? 殿上人から地下人に至るまで、人びとはこれこそ「菅公」の〝祟り〟だと口々に噂をした。そして、そう語るつぎから、語る者の唇は青ざめていき、小刻みに体を震わせるや激しい恐怖に絡め取られた。

 菅原道真が突然に大宰権帥に左遷されたのは、昌泰四年(901年*7月に延喜改元)正月の二十五日であった。
  ・・・諸陣警固し、帝(醍醐天皇)南殿(紫宸殿)に御したまひ、右大臣従二位菅原朝臣を以て大宰権に任じ・・・又、権帥の子息(高視、景行、兼茂、淳茂)等、各々以て佐降・・・(前掲)。
 この処断はまさに異常であった。権帥とは、大宰府の長官ではなく、その職に擬する位であり、さらに従二位から従三位への降位は、いまどきの会社人事などによくある、不祥事の結果、各部署や管理職の「心得」、例をあげるなら「人事部付」といった閑職に追いやられた状態を意味する。
 では、なぜ道真は左遷されたのか? 
 道真左遷の理由について出された宣命には、「右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収り給へり。而るに止足の分を知らず、専権の心あり。佞謟(ねいてん)の情を以て前上皇(宇多上皇*このときは出家していて法皇)の御意を欺き惑はせり」とあり、そして「然るを、上皇の御情を恐れ慎まで奉行し、御情を敢て恕る(あえておもいやる)無くて、廃立を行なひ(道真女が妃となっている斉世親王のことを指すか?)、父子の志を離間し、兄弟の愛を淑破せんと欲す・・・」(『政事要略』)と述べられている。
 しかし、この宣命はなにひとつ具体的な過失については触れられてはいない。犯罪でいえば状況証拠でしかない。そもそも宣命にあるように、低い身分にあるものが出世したから、それ自体が「専権」だとする論理は、低身分の者を登用した側の責任を問っていない以上、あきらかに「言い掛かり」としか言いようがない内容である。
 後段に付け加えられた宇多上皇の〝御情〟を無視し、〝廃立〟を企てたというのも、ふつうはそのために呪いをかけるといった事実がくっつくものだが、それもない。この宣命は、忠義を尽くしてきた道真にとってとうてい受け入れがたいものだったにちがいない。
 左大臣藤原時平とその取り巻きによる陰謀。過日、歴史家がそう判断したのはおおよそ間違いではない。

〝祟り〟の猛威とは?~藤原時平と道真~

 道真左遷後、道真が擁立をはかったとされる道真女婿の斉世(ときよ)親王は、出家することになる。
 一方で、延喜三年(903年)二月に道真が流謫地大宰府で病歿すると、道真配流に荷担した藤原定国、菅根が相ついで亡くなる。さらに延喜九年四月には謀略の首謀者たる左大臣藤原時平が急逝する。世の人びとは、このあたりから菅公の〝祟り〟の存在をだれも疑わなくなっていった。
 鎌倉時代に描かれた『北野天神縁起絵巻』によれば、時平が瀕死のとき、道真の怨霊は蛇に化身し時平の耳坑から蛇体をくねらせて時平を苦しめたとある。                
 そして、延喜十三年(913年)三月には時平とともに謀議をはかった源光が、狩猟中に乗馬していた馬もろとも泥濘に足を取られて、あっという間に飲み込まれるという怪事件がおこる。光の死体は、その後沼をいくら浚っても、見つかることがなかった。
 さらにその10年後の延喜二十三年。かつて時平が強引に立太子させた保明親王(母は時平妹穏子)が二十一歳で早逝する。また保明親王と時平の女(むすめ)の間に生まれた慶頼王も延長三年(925年)に五歳で急死を遂げる。それからというもの、時平の子孫は二男顕忠のほか、つぎつぎにみな若死するという無残なありさまとなるのである。
 菅公の〝祟り〟の猛威は、廟議に座す公卿にとって、天変地異が招く災殃への恐れなどというものどころか、それ以上に、いつ己の命が消えてしまうか恐怖の絶望の縁まで追いつめていく。そのため菅原道真を左遷に追い込んだ藤原時平といかに自分が無関係であったかを、家に閉じこもり神仏にひたすら誓う日々をすごした公卿も多かった。
 院政期の歴史物である『大鏡』には、「(時平に連なる貴人は)皆三十余り、四十に過ぎたまはず。その故は、他の事にあらず。この北野の御歎きになむあるべき」と時平とそれに連なった公卿は、まさに道真の怨霊で長生きできなかったという運命を、一見簡潔に、だが、故になにかがあったことを強く暗示させるようにして記してある。
 道真左遷後、にわかの病に倒れた醍醐天皇は、病のなかにあって延喜二十三年、道真左遷の過誤を認め道真への復官贈位をはかり左遷宣命も焼き捨てた。しかし、怨霊の脅威の前では、そんなものは、まさに焼け石に水とでも言うべきか。道真の「宿忿」はおさまるべくもなく、先ほど述べたように、累々と死者の数だけ加えていく始末だった。
 そして、その怨霊の恐怖は、関東までにも飛び火することになる。
 承平・天慶年間の平将門反乱の猛威(935~40年)である。平将門は、鬼神のようにつぎつぎと国衙を侵し、国司を絡め取り追放し、関東に一大勢力を築いていった。
 その連戦連勝のさまは、菅原道真の憤怒の荒ぶる魂が将門に取り憑いたためだとされた。将門は「菅原朝臣霊位」の旗印を掲げ、「新皇」と称して関東での覇権を握った。
 なぜにかくまで、菅原道真の霊魂は祟ったのか。そして、菅原道真の経歴とは? すこし歴史をさかのぼる。

 菅原道真は承和十二年(845年)六月、参議菅原是善、母伴氏の三男に生まれた。幼いころから詩歌に才を見せ、十八歳ではやばやと文章生(もんじようせい)となる秀才であったという。
 もとより菅原氏は紀伝道を家学として、祖父菅原清公は大学頭兼文章博士に任ぜられ天子の侍読(じとう)も務めた大学者であったが、道真は一族のなかとりわけ優秀で、その五年後には文章生から二人しか選ばれない文章得業生に選ばれ、さらに難関とされる「方略試」(官吏登用試験)に合格、規定によれば三階位昇進のところを、あまりに早い昇進のため、一階位をさげ正六位上となり留め置かれた。その後、二十九歳にして藤原氏門閥以外では異例の従五位下に上り、元慶元年(877年)には三十三歳にして式部少輔兼文章博士へと累進していった。
 だが仁和二年(886年)正月、道真は四十二歳にして一転、讃岐守に任じられる。この人事は、当時の顕官であった太政大臣藤原基経と親交があり、基経のために五十算賀の屏風絵に詩を献進したばかりの道真にとってあきらかな左遷人事であった。原因はわかっていない。
 道真は「分憂は祖業にあらず」と、「分憂」とは国司職のことだが、それは学問を家学とする家には相応しくないと書き残している。しかしこの讃岐時代の道真は、のちほども触れるが、切々たる漢詩文「寒早十首」を百四十首余り詠むなど、彼の生涯でもっとも多くの詩を残している時期でもある。
 道真にとって、地方への左遷は、都邑ばかりしか目に映ることのない凡俗な貴族と一線を画す意味でも大きかった。
 これはある意味で、『万葉集』を編んだ大伴家持が、越中守時代にもっとも多くの和歌を詠んだことと同じく、この地方補任が道真に地方の風土の美しさ、その一方で農民をはじめとするそこで生活する人びとの厳しい現実などをいやがうえにも感得せしめることとなった。その一方で、都を離れ都を遠望せざるを得ないことで、激しく詩興を掻き立てさせることになったのも事実だろう。
 その道真讃岐在任中、藤原基経が差配する都では、大きな政治問題が発生していた。

 藤原氏の専横とは?
 
 ここですこし、この当時の政治状況をみておきたい。
 いうまでもなく菅原道真の時代とは、藤原北家の権力全盛期と重なる。そもそも藤原氏は藤原不比等の子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂四人によって南・北・式・京の四家に別立していた。そのなかで八世紀を通じて有力だったのは式家だったが、大同五年(810年)の「薬子の変」を契機に藤原北家が台頭する。
 「薬子の変」とは、平城太上天皇の重祚を狙う式家の仲成と薬子が嵯峨天皇の退位を謀ったという事件で、それを嵯峨天皇の側近であった北家の藤原冬嗣が防ぎ、その結果、薬子は毒をあおいで命を絶ち、仲成は東国に逃れて再起を期したが失敗し、捕縛後、射殺されたという事件である。
 事件後、事件解決の功労者、蔵人頭となった藤原冬嗣は、嵯峨天皇の下、廟堂で大きな位置を占めることになる。蔵人頭とは天皇の側近に近侍し、機密文書の取り扱いと上奏を一手に引き受ける、いわば側近中の側近、今風に喩えるなら官房長官といった役回りである。それを起点にして藤原北家はその後、強大な勢力を持つ。
 その冬嗣の息子が良房であった。良房は、嵯峨天皇没後すぐに権力者であり「檀林皇后」とも称された橘嘉智子に接近し、自流の権力を強化するため、まずときの仁明天皇に妹の順子を入内させた。
 そして順子の産んだ道康親王を得ると、このときすでに立太子していた恒貞親王(嵯峨天皇の弟淳和天皇の子)を廃太子し、その道康親王の立太子をはかった。
 良房は、恒貞側に陰謀があったことを捏造して橘嘉智子に密告。そこで恒貞親王側近である伴健岑や橘逸勢に嫌疑をかけ、隠岐や伊豆に配流するのである。これを承和の変(承和9年842年)と言う。
 この事件で配流された橘逸勢は、嵯峨天皇、空海と並ぶ「三筆」の一人であったが、良房の陰謀に激怒し配流途中の遠江で憤死した。
 これが一つの契機になった。以降、京で流行病が猖獗を極めたり、飢饉で餓死者が発生するなどすると、それら政治的敗者が魂魄となって疫病や天変地異をもたらすとの〝祟り〟の思想が人びとの心をとらえていく。そもそも盆地である京は狭い空間であり、人口が密になる。そのため、容易に感染病が蔓延した。しかし、それは〝ケガレ〟と見做され、〝ケガレ〟とは〝祟り〟によるとされたのである。
 とりわけ憤死をとげた〝怨霊〟の祟りを恐れる貴人らは、貞観五年(863年)、ほかに政治的に非業の死を遂げた早良親王(桓武天皇皇太弟*大伴家持らが桓武天皇の側近藤原種継を射殺して、早良親王を皇位に就けようとした事件。しかし、家持自身は事件の前に没していて、死後20日に大伴継人らが実行)や伊予親王(桓武天皇の子で藤原仲成の陰謀で自殺に追い込まれた皇子)らとともに六人の怨霊(人物は不定)を祀り、京都の神泉苑で御霊会を行った。これが後に祇園祭へと発展していくことになった。
 ただし、こうしたなかでも藤原北家の権力強化の手は緩むことがなかった。良房は道康親王を文徳天皇として即位させ、自ら太政大臣という極官に就く。そしてつぎに、この文徳天皇に女(むすめ)の明子を入内させ、明子の産んだ惟仁親王を生後八ヶ月で立太子させる。
 文徳天皇は紀名虎女静子との間の子である第一子惟喬親王の即位を望んでいたとされているが、良房はそれを無視して惟仁親王を九歳で即位させ、これが清和天皇となる。良房はこの清和擁立を機に人臣では初めての摂政に就任することになる。
 その後も応天門の火災を契機に、放火したとして伴善男や仲庸、それに清廉な良吏として知られる紀夏井などを配流せしめ(「応天門の変」貞観八年866年)、その権力を万全なものにした。

 その良房の養子となったのが基経である。基経は良房の兄の長良の子なのだが、良房に男子が無く、それで養子となったとされる。基経は、養父良房同様に天皇との外戚の形成をはかろうとする。妹の高子を清和天皇に入内させ、その間に貞明親王を得ると、貞明は九歳で即位し陽成天皇とされた。
 だがこの皇后の高子には、後世、数々の醜聞が残されている。基経にとって高子は大切な「后がね」だった。その高子を色好みの在原業平がさらおうとして、逆に基経らに奪い返された話(『伊勢物語』「芥川」)、それに五十歳過ぎても高子は若々しかったのか、善祐という東光寺の坊さんと密通したとして皇太后の地位を剥奪されたという話などがある。その醜聞が真実なのかどうかは定かではない。
 たとえ真実であろうとなかろうと、こうしたスキャンダルの発生は、当時の基経の権勢への不満が充満していた様相を知らせてくれるものだとも言える。
 いずれにせよ高子は、八歳も年下の清和天皇に入内し陽成天皇を生んだ。しかし、この息子である陽成天皇は数々の乱行を重ねた。片っ端から小動物を殺したり、乳母子の源益を格殺したり、手のつけられない状態であったらしい。そのときの基経は摂政であったが、太政官に直接かかわる太政大臣の補任は断っている。そして摂政も陽成が十五歳で元服したおりに返上し、陽成天皇がすべて親裁するようにと奏請して、自宅である堀河第にひきこもってしまう。
 結果として政務は滞る。ついに役人が基経の邸宅まで出向いていって庶務を行うという事態となったのだが、これは明らかに不行跡を重ねる陽成への威嚇であったろう。
 ところが、陽成が源益の殺害をおこなった時点で、基経は急遽参内する。そしてすぐさま陽成の廃嫡を断行し、そのうえで摂関家との血縁の濃い「ミウチ」からではなく、従兄にあたるとはいえ縁の薄い五十五歳になった時康親王を光孝天皇として擁立する。
 時康擁立の背景には、権勢をもつ基経に多くの皇族が綺羅に身を包み、基経に気に入られるようにふるまうなか、時康だけは地味で目立たず落ち着いた対応をしたという。それで基経の目にとまり擁立されたともされている。しかし、むしろここは陽成時代の政道の過ちを糺そうとするには、清廉な人柄が要請されたとみるべきで、基経は当初、承和の変で廃嫡になった恒貞親王を擁立しようともされていて、そこに政治権力者としての基経の政治勘があったのかもしれない。

「阿衡(あこう)事件」と菅原道真
 
 光孝天皇擁立後、基経は菅原道真ら八人の博士に太政大臣の職掌について勘奏させている。『三代実録』によると、その職掌は官庁に座して「万政を領(す)べ行い、入りては朕が躬(み)を輔(たす)け、出でては百官を総(す)ぶべし」とされ、関白という文言はないものの、太政官を統括し天皇に裁可を仰ぐ、天皇の輔弼の任として意識された職掌というイメージであろう。
 しかし、そうした職掌への意識は、光孝ののち即位した宇多天皇には無かったかもしれない。これが基経と宇多天皇の間におきる「阿衡の紛議」の原因の一つだった。
 宇多天皇は、光孝天皇の第七子であり、皇位継承からは遠く、源定省(さだみ)とされ臣籍降下(皇族ではない)されていた。当時二十一歳。定省擁立については、基経の妹で、尚侍(ないしのすけ)として宮中で実権をもつ藤原淑子の説得があったといわれるが、宇多擁立について基経の尽力は少なくなかった。
 しかし、事件はおこってしまう。宇多天皇は、基経に政治を後見してほしいということで太政大臣の就任を要請したのだが、その太政大臣の意味を「摂政」のそれとして要請した。基経はすでに成人である宇多にそれは必要ではないとして、むしろ自分の職掌は「関白」の別称でもある唐名の「博陸」と考えていた。そこに両者の食い違いがあった。
 加えて天皇の意を受けた起草者橘広相は唐の名誉の高い宰相の意味を加えようとして、その任に「阿衡」と記したことで事態は紛糾する。「阿衡」という言葉には、取りようによっては位は高いが実権が伴わないという意味も含まれていた。この両者の齟齬と「阿衡」という職称への不満、いやそれだけではなく宇多親政への不満もあったろう、基経はほぼ一年近く出仕しなくなる。
 この事態に菅原道真は動いた。ときに讃岐守だった道真は、任の途中にもかかわらず急遽上洛する。そして基経に「昭宣公に奉る書」(『政事要略』)を送った。
 内容は果断直截で「大府(基経)先づ施仁の命を出し、諸卿早く断罪の宣を停めよ」と文人官僚としての自らの信念を叙述し、小異にこだわって大局を見失うなうのは最高権力者の行いではないと、理詰めで強く諫める内容となっている。
 道真のとった行動はいかにも異例というべきものであった。基経という最高権力者に対し一地方の国司に過ぎない者が「もの申す」というわけで、いくら近侍していたとはいえ、ひとつ間違えば貴族社会からの完全追放もありえた行動だった。
 道真には思い込んだらそれを実行してしまわなければ気が済まないといった、学者特有の一徹な性格があったかもしれない。いくらそれが正しもの、正義であっても、相手によっては通用しない場合が多い。のちに道真が藤原氏の計略によって左遷される背景には、そうした正義を真っ直ぐに信じて止まない性格があったのかもしれない。だとすれば、左遷の背景は、すでにここに胚胎していたと見ていい。
 だが、このときは基経に裁量の広さがあった。基経自身も、どこが落とし処か探っていたのかもしれない。基経は道真の必死ともいうべき諫言に心を動かされた。それとともに宇多天皇側からも和解をはかる動きがあった。天皇自ら「勅書の非を詫び」、基経女温子が宇多天皇に入内することで決着がはかられようとした。
 道真の行動は、結果として宇多の窮地を救ったことになった。菅原道真への宇多天皇の信頼は、このときから急速に高まっていったのは言うまでもない。

 宇多天皇の嘉賞と菅原道真の配流

 菅原道真が四年あまりの讃岐守の任期を終えて帰洛したのは寛平二年(890年)の春であった。
 その翌年の正月に藤原基経は五十六歳で没する。宇多はすぐさま人事の刷新に着手した。基経という重石がとれた開放感が宇多天皇にはみなぎっていた。
 そもそも宇多は、父である光孝が傍流にもかかわらず皇位に就き、さらに彼自身も臣籍降下の身ながら皇位に登った事情があり、つねに傍流意識に鬱々としていた。権力を握った人物にとって、過去にあった負い目はなんとか消したい。宇多は、「帝」(ミカド)としての立ち位置を、自らの血統の正統性のなかに確定したい欲求が強くあった。
 そのためには長らく実施されていなかった遣唐使の派遣こそが、「ミカド」としての正統性を誇示するものだと判断した。
 言うまでもないが、遣唐使を送った天皇として名高いのは嵯峨天皇である。嵯峨は遣唐使のもたらした唐風文化によって、法制を整備し、紀伝道や漢詩文などの学問を奨励して「文章経国」(もんじょうけいこく)の国づくりを行った。宇多は嵯峨の政道の継承者であることを意識し、それとともに学問を重んじ「孝敬の道」を尽くした祖父の仁明天皇の「承和の故事」への回帰をはかろうとした。
 文芸と学問の復興、そのための遣唐使。そしてそのための人材登用。宇多天皇の眼には、漢学の学識、法制・文化の理解に優れ、善政施行にもっとも相応しい官僚として菅原道真が映ってくるのは、至極当然のことであった。
 道真は、基経没後二ヶ月、はやばやと宇多天皇によって蔵人頭に抜擢された。もちろん均衡を保つ意味で基経の子の藤原時平も参議として廟堂に加わっているが、ほんらい学問の家の出身では、せいぜい式部省の上級官僚が精一杯の家格である菅原氏、それにこの抜擢はかなり異例な人事だと、公卿のだれもが思ったにちがいない。
 一方でこの人事は、藤原氏に十分すぎるほど危機感を与えた。藤原氏の氏長者となった藤原時平は、まずはそつなく道真の長男である高視に高価な贈答品を贈りつける。さらに公卿に列し衣袍禁色(いほうきんじき)が許された道真には、きらびやかな玉帯を贈るなどして、台頭してきた道真の取り込みをはかった。 
 そうしたなかでの寛平九年(897年)七月、宇多天皇は退位を表明し、十二歳だった敦仁親王を醍醐天皇に即位させるとした。そしてその一ヶ月前、宇多は藤原時平を大納言とすると同時に菅原道真も権大納言に就任させる人事をおこなった。そして、そのうえで宇多太上天皇は、醍醐天皇に『寛平御遺誡(ごゆかい)』を送って、政道についてさまざまな注意を授ける。

 『寛平御遺誡』の落とし穴

 ただし、この『御遺誡』は他の公卿から猛烈な反発を招くことになった。というのも『御遺誡』には、時平と道真の二人に「一日万機の政、奏すべく請ふべき事」として政治を任せる旨が盛り込まれていたからである。この両者以外のあとの公卿は不要だということか? 
 このためこの文言に不満を抱いた公卿が出仕を拒む事態が発生した。それはすぐに政務停滞を招く。そこで事態を重く見た道真は、なんとか宇多太上天皇に奏請して、太政官制の重要さを説き、事態の収束をはかったのだが、この『御遺誡』はほかにも、物議をかもした。
 時平は功臣の子孫であり、政治に詳しい。先頃女のことで失敗があったが、朕はそれを心に留めずに務めさせた。だから、敦仁親王も顧問役として補導を仰ぐようにせよとあったり、その一方で道真については、事細かに書かれ、敦仁を皇太子に立てる際もただ道真と相談し、また譲位のときも道真に密々にはかった。しかし、道真は「直言を吐き、朕の言に順は」なかったが、この譲位の噂が流れてしまうと、一転して「時期を過たぬ」ようにと忠言をなし、事態を進めた。だから道真こそが「鴻儒」であり「深く政事を知る」者であり、「朕、選んで博士と為し、多く諫声を受け、仍て不次に登用し」てきたと述べ、むしろ「菅原朝臣は、朕の忠臣に非ず、新君の功臣」と称すべきだと醍醐天皇に諭している。
 これはミカドとしては控えるべき文言だった。
 たしかに、『御遺誡』は、宇多がどれほど道真を信頼しているかをこの醍醐に伝えるための書と言えるかもしれないが、道真と相比べるようにして、時平が女のことで失敗したなどと子に伝える必要はない。あきらかに無用な一言である。
 『御遺誡』に示された宇多太上天皇の道真への過剰な信頼は、むしろ道真自身の立場をかなり不安定な状況にしている。どう見ても贔屓の引き倒しにしか見えない。
 言い換えれば、たしかに道真は宇多との個人的な関係でのみ出世したのであって、公卿らの後押しがあったわけではない。宇多のみに依存する道真の地位。不安の極みである。
 したがって道真は出世する度に再三にわたって、辞表を奉った。とくに昌泰二年(899年)二月、当時十五歳の醍醐天皇は宇多太上天皇の意向をうけ、二十九歳の時平を左大臣に、五十五歳の道真を右大臣に任じたが、この昇進は学者出身としては破格のものであり、道真は「臣の地は貴種に非ず、家これ儒林」としてこの昇進を拒んでいる。
 さらに言葉をつなげて「人心すでに縦容せず、鬼瞰必ず睚眦(がいさい)を加へん」「臣自らその過差を知る、人孰(いずれ)れか彼の盈溢を恕(ゆる)さん」(『菅家文草』)と真情を吐露し、まさにこうした昇進は自らと道真の一門家族にも危険であることを鋭く予見している。
 ただし、道真はその危険をただ座視していたわけではない。それなりの手は尽くした。まず道真は長女の衍子を宇多天皇の女御に入内させ、さらに衍子妹の寧子は、醍醐天皇から宮廷では大きな権力をもつ典侍(そのあと尚侍)に任じられるようにはかった。さらに宇多太上天皇と橘広相女義子との間に生まれた斉世親王の室として女子(氏名不詳)を入れるなど閨閥の形成は藤原氏なみにはかっている。
 それ以上に道真にとって心強かったのは、大学寮などでの教授、のちには学塾として左京五条洞院に「菅家廊下」を創建し、そこで多くの有為な官僚を輩出していることだった。道真の五十歳の祝いの席には多数の門下生が駆けつけたし、当時官庁で実務をとっていた門下生は、だいたい百人くらいであったろう。これらは強い人脈として道真を支えた。
 しかし、危機はそれだけでは解消しなかった。ついに左遷という事態になる。左遷の呼び水となったのは、三善清行が道真左遷の二ヶ月前、つまり昌泰三年(900年)十月に道真に送った書簡、いや勧告文からであった。

 三善清行のコンプレックス?
  
 菅原道真と三善清行の角逐は、その根をたどるとなにやら因縁めく。
 ことは、道真が「方略試」の問答博士を務めた際に生じた。受験生の三善清行を推挙した巨勢文雄の推薦状に「清行の才名、時輩を超越す」とあったのを、道真は清行の人物の低さを懲して、「超越」の文字を「愚魯」の字に改めさせて嘲笑したという。
 これは院政期に大学者と称された大江匡房の『江談抄』にある話で、真偽のほどは定かではない。
 三善清行は道真の二歳年下あった。清行の父氏吉はかつての承和の変に連坐したため不遇を囲い、その父の死を目の当たりにしたことで、父の死後清行は奮起して二十七歳でようやく文章生、翌年に文章得業生となり、三十五歳でやっと「方略試」までたどりついたという苦労人でもあった。
 それがため清行は、そうした劣等感を発条(バネ)に上昇志向を募らせ、傍目でも息苦しいほど立身出世に執念を燃やしていた。それに対して菅原道真は秀才であり、順風満帆な学問の世界に住し、学者の地位を手に入れている。年齢的に二歳しか違わない二人。清行にとって道真は、「親の敵」「目の前の敵」以外の何者でもなかったろう。
 そんな清行の背景に道真はおそらく無頓着であった。道真は清行を「不第」、つまりは不合格にしてしまう。
 「方略試」で道真は清行に二題の「策問」を出している。一題目は「文を成し格を結ぶ」。いわば作文の格調を問うというものであった。二題目は天文や暦数・卜占などの方技は「民に施し政に用ゐる」際に長所短所があるが、それをどう考えるかである。いわば政治哲学の作問であった。残念ながら清行がどう答えたかの資料は現存していない。おそらく長い間受験勉強のため努力を重ねてきた清行にとって、これらの策問はお手のものだっただろう。
 受験勉強とは、結局は出題者が喜ぶ解答を導ければいい。内容は二の次である。形式と論理的段取りがしっかりしていればいい。
 余談になるが、戦時中の中学校受験では、口頭試問の際、「日本に生まれてきた幸せは何か?」と聞かれることが多かったらしい。いまに思えば解答には幾通りもあって、そのどれを答えたらいいか。自然が豊かである。日本人の人情が素晴らしい。列強に伍して強国である。どうにでも答えられる。
 しかし、答えはひとつしかない。それは「天皇陛下が居られる国」なのだ。個人の思いなどはどうでもいいし、理論的に考える必要などない。とりわけ受験エリートとされる受験生は、ひたすら模範解答を求める。自身の思想や感情などは忖度しない。
 受験勉強に明け暮れていた刻苦勉励型の三善清行の解答は、おそらくそうした内容に近いものではなかったか。それは二流の秀才のすることである。
 後年、清行は「菅右相府に奉る書」のなかで、それらは「掌を指すが如し」であったと自負しているが、おそらく道真はそういった清行を好まなかった。清行は二流の秀才にありがちな問題処理能力は高いものの、物事に対して自身の真摯さを傾ける精神性になにか欠けたところがあると道真は思ったにちがいない。道真には、清行のそれを〝濁り〟に見えた。
 落第の結果は、清行に不満と忿怒をもたらした。それはいつしか道真の耳にも入ってきた。
 道真は「博士難」に「今年(試験のあった元慶5年)、挙牒を修せしとき、取捨甚だ分明なるに、才無く先に捨る者、讒口して虚名を訴ふ。教授に我れ失無し、選挙に我れ平有り・・・」(『菅家文草』)と書き記し、きちんと講義もやっているし試験にも依怙贔屓などしていない。だけど悪口を言い募る者がいると記している。
 清行はその二年後、やっと「方略試」に合格して、そして待望の文章博士になる。しかし、いつまでも確執は消えなかった。その後も、清行の詩を評価しない道真に抗議を行ったり、この両者はしばしば対立する。結果、昌泰三年に清行は道真に攻撃の文を送りつける。コンプレックスから生じた執拗さは、もつれにもつれる。

 道真弾劾文とは?

 では、清行が送った勧告文の中味には何が書かれていたか。
 内容の一つ目は、明年の昌泰四年(901年*七月に延喜に改元)は辛酉の年であり変革がおこる年回りである。とくに二月の建卯には兵乱がおこるとみられ、その凶禍は誰を襲うかわからない。つぎに儒学者から右大臣まで登った者は奈良時代の吉備真備以外いない。だから道真にこそその凶禍が襲うかもしれないので、「止足、栄分」をわきまえ隠居してはどうかというものであった。
 これは言い掛かりといえば言い掛かりである。道真が清行に職を辞せと言われる筋合いはない。
 実際、道真はなんども右大臣を辞したいといっているわけだし、わざわざここで清行が引退勧告を促す必要はない。だがこの清行の文は、道真左遷の宣命ときわめて近い文言となっている。このとき清行は、藤原時平にも書簡を送り、道真を「悪逆の主」と断じ、さらに朝廷にも『革命勘文』を奉じている。このなかで清行は辛酉の年は革命の年であるので改元すべきだと主張するとともに、それは奈良時代に称徳天皇が「逆臣藤原仲麻呂」を誅伐して「天平神護」と改元したのと同様であると、あたかも菅原道真がいまの朝廷の「逆臣」であるかのように記している。
 しかし、この清行の弾劾文は大きな効果をもたらした。弾劾文が時平の手元につくや、瞬く間に審判は下り、道真は正月二十五日にいきなり大宰権帥に左遷となるのである。
 醍醐天皇は、道真が斉世親王を擁立するという謀叛を企てているとする時平らの使嗾に事を決断したとされる。
 そのとき宇多太上天皇は、高野山や竹生島で仏門に帰依して法皇となる準備をしていた最中であった。この間隙を時平や清行は狙った。
 あわてた宇多は、道真配流の報にとるものもとりあえず駆けつけたが、道真の盟友だったはずの紀長谷雄らにも行くへを阻まれ、道真の助命はあえなく頓挫する。宇多は翌日も陣外で夜通し抗議したとされているが、それもかなわず道真は配流されたのである。(つづく)

 <大宰府に流謫された道真 前掲>       
 

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