八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆☆〝不屈と根源〟-明日の講座は「むのたけじ」です!-☆☆

2020-06-27 13:42:10 | 〝哲学〟茶論
 梅雨というか、豪雨というか。中国の四川や雲南ではとんでもない雨が降り注いでいるようで、長江にかかる三峡ダムも決壊するのではないか。そんな恐ろしい話しが、現実味を帯びてきているようです。
 このたびの「コロナウイルス禍」もそうであるように、人間はやはり無力なのだと日々思う毎日です。であるなら、わたしたちは無力であることを自覚して、地球の恩恵を受けながら、謙虚に暮らしていくことを再認しなくてはいけない。
 取引だ、権力だ、支配だ、金儲けだと力ずくの政治をとるトランプや習近平、プーチン、そしてその尻馬にのっている権力者のつくる流れに、けっして沿ってはならない。そんなふうに思います。
              
 ところで、差し迫ってからのお知らせですが、明日(6月28日)、日曜日の宏究学舎・新人会講座は、むのたけじさんのお話をします。
 むのさんといえば、晩年になってからの反戦非戦活動家、ジャーナリストといった印象をお持ちの方もあろうかと思いますが、1915年生まれで、その間、報知新聞や朝日新聞の従軍特派員として、中国北部・内蒙古やインドネシアなどで、さまざまな戦争体験、つまり加害の立ち位置から日本のあり方を透視し、東京大空襲も経験し、被害の立場からも世のありさまを凝視した人です。そのありようは、まさに不屈であり根源に根ざしたものだったと言えると思います。
 むのさんは、戦争中、所属していた朝日新聞が連日、戦意高揚の記事を書き連ねている実態を見知って、戦後にデモクラシーの旗を掲げる無責任、無自覚なさまを見て、8月15日をもって退社し、郷里の秋田でタブロイド判の週刊新聞『たいまつ』を発行し続けます。
 「ペンは剣よりも強くなかったことを記憶し続けること!」
 それがむのさんの出発点だったと言われます。

 じつはむのさんは、わたしの高校二年のおわりころ、わたしの通っていた高校の社会研究会サークルの招きで、ささやかな講演をしていただいた記憶があります。
 講演会は、社研の部員も合わせて、30人ほどのものでしたが、小柄な体躯からは想像もつかない迫力ある低音で、周囲の空気をビリビリと響かせ、激しくまた深く根を張った話しの数々に、ただ圧倒されたのを、そのときの粉雪の舞う光景も含めて、鮮やかに記憶しています。
 ほんとにそれはすごかった。あれから半世紀ぐらい経ち、それはけっして大げさでもなく、その後もずっと、そしていまもなおその余韻が残っていることがわかります。

 むのさんは、人間とはなにかと問い続けた思想家だったと思います。
 「相手がどんな学者先生や哲学者であっても、人に何かを聞いても答えは出てこない。自分が自分に問わなきゃ答えなどは生まれてこない。人間の可能性というものは存在するものではない。買うものでも拾うものでもない。望む当人が開拓していくものなのだ」
 むのさんは、人間の弱さ狡さ倨傲さを透徹した眼差しで抉り出し、そうしたものが権力を握るといかに腐敗するかを厳しく糾弾した人でした。それを東北の小都市で地を掘るようにやってきた。
 いったん田舎に戻って高校教師をやり、またのこのこと都会に戻ってきたわたしとは、人間の質量ともに違っている。何度もそう思いつつ、でもむのさんの精神は見習いたい。それだけは思っています。

<週刊『たいまつ』を発行していたころのむのさん>

 「コロナウイルス禍」によって、世界のありようは、じつに不安定なものになってきているように思います。
 しかしマスメディアの論調は、またしても経済への影響しか関心がないかのように、またはどうでもいい芸能人のゴシップを追い回しています。
 いままさに問うべきは、自分自身の生き方であり、地球に生きるという意味の根源的な問いであり、これまでの歴史を見て、未来がどうあるべきかを考えることだと思います。
 戦争や貧困や差別が、いいはずはありません。自分は戦争はしていない、貧困ではない、差別はした覚えがない。でも、戦争の要因をつくる無関心を決め込んでいるのではないか? 貧困で苦しんでいる人びとへの〝共苦〟をお座なりにしているのではないか? そして、差別する人びとを見て見ぬふりをして、差別を助長しているのではないか?
 むのさんのビリビリと震わす声が聞こえそうです。

 ここで話は変わりますが、アメリカの巨大製薬会社が新薬を開発する手立てとして、いまさかんにおこなっているのは、南米アマゾン流域に住むインディオの知識を頼ることだそうです。
 インディオたちは、病原菌が多く生息するアマゾンで暮らす厳しさに、何世代もの長いあいだのさまざまな言い伝え、経験、そして症例をたくさん知悉していて、それによって数々の病魔に対処しているそうです。
 いかに病気にかからないか、罹ったとしたらどんなふうに治癒させるのか、そうした豊富な経験や知識、それは新薬開発には役に立つ。そこでアメリカの製薬会社の研究者はさかんに彼らの知識を得ようとしているわけで、アマゾン参りをしているようです。
 その際、製薬会社の研究者は、新薬の知識を得るわけですから、それなりのお礼。ハゲタカのような巨大資本がすることですから、たいした額ではないようですが、それをインディオにわたそうとすると、インディオたちは受け取りを拒否するそうです。なぜか。
 自分たちは、この自然から病にかからぬ方途や薬草、治癒法などの知識を得ている。いわば自然の恵みの中で、それとともに何代にもわたる祖先の言い伝えから、そうしたものを伝えられている。それは金銭に換算できるものではない。自然や祖先に感謝すべきものなのだ。
 インディオたちは、そう言って、金銭を受け取らない。
 
 現在の世界は、金銭を至上の神というが如くに、資本の歯車をフル回転させて、とんでもないスピードで人びとを巻き込んでいる状況です。
 でも、そうでありながら麻薬や媚薬のように、人びとはそこから一歩も出ようともせず、目の前になることばかりに躍起になって、自己を見詰めることをしません。

 「人がどう歩くかがその人の生き方に通じる」 むのさんはこんな言葉を残しています。いまどう歩くか。まずはいま散歩でもいい。歩きながら、近くの風景を見ながら、考えてみたらいい。そんなふうに語ってくれています。

 明日の講座は、いつもの池ビズで午前10時からです。もし、明日だけでも参加したいという方は、レジュメの都合もありますので、本日10時くらいまでメールをいただければ幸いです。
 メール:yagashiwa@hotmail.com


  

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