一昨日の16日、札幌コンベンションセンターで卒業設計の発表会が行われた。毎年思うのだが、たった2年や3年で皆よくここまで設計力を付けられるものだと本当に関心する。自分などは23歳から建築を学び始めたのだが、こんなに意識を高く持っていたかというと、はなはだ疑問である。
伝え方を見てもそうだ。自分は卒業論文であったが、学部生の卒論は、院生の論文の基礎的役割のことが多い。農学部時代は助手の教官にマンツーマンで御指導頂き、家禽学会誌に掲載もされた。建築学生時代の卒論は、自分でもまったく印象に残っていないのだから困ったものである。そんな卒論を聞いたところで聴取側にも何も残らないだろう。
今回発表した皆の発表は、よく分かって聞いているこちらも嬉しくなった。プレゼンの基本であろう。一般性の獲得は、専門性の先に存在する。考えて考えて、考え抜いた作品のプレゼンは、聞いていて気持ちが良いものだ。
建築を学んでまだ2、3年というのも良い影響があると思う。すれていない、プリミティブな輝きを放っていた。今の心を忘れないでほしいと切に願う。
伝え方を見てもそうだ。自分は卒業論文であったが、学部生の卒論は、院生の論文の基礎的役割のことが多い。農学部時代は助手の教官にマンツーマンで御指導頂き、家禽学会誌に掲載もされた。建築学生時代の卒論は、自分でもまったく印象に残っていないのだから困ったものである。そんな卒論を聞いたところで聴取側にも何も残らないだろう。
今回発表した皆の発表は、よく分かって聞いているこちらも嬉しくなった。プレゼンの基本であろう。一般性の獲得は、専門性の先に存在する。考えて考えて、考え抜いた作品のプレゼンは、聞いていて気持ちが良いものだ。
建築を学んでまだ2、3年というのも良い影響があると思う。すれていない、プリミティブな輝きを放っていた。今の心を忘れないでほしいと切に願う。
それがどうしたことか、今独立して仕事をして何故か生計を立てています。若者の無限の未来の可能性を期待します。指導者としてのmoroさんの様な気持ちは嬉しさ半分寂しさ半分といったところでしょうか。
雪の降った卒業設計発表・講評会を思い出しています。
講評者から厳しい指摘がありましたが、教室での講義・講評で学生さんと仲良くなった僕は、はらはらしながら聞いていて学生を励ましたくなりました。さらさらした雪と、僕が時間が来て席を立つそのときの学生の笑顔が何年経っても忘れません。
上遠野邸での記念写真もありますしね!
MOROさんの掲載したこの写真でもわかるのですが、皆きちんとスーツを着て緊張して発表する、同級生の代表として!そこがいいですね。
選ばれなかった学生もなんとなく晴れ晴れとしていたと・・若者はいいなあと思いますね!
学生は一生このときの様子を忘れないでしょう。
“その手の会話”は私も大の苦手で、そんな場に居たくもないのです。会話の中身ではなく、そういう人達と相容れないものを感じます。
若い皆には、真っ直ぐに成長してもらいたいと思います。
>penkou師匠
時間の経つのは、本当に早いですね。最初に見て頂いた学生から数えてもう4代目です。
さて、今年はどんな提案(プレゼン)が飛び出すやら。