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続・旅するデジカメ 我が人生

デジカメ片手に 美しい自然を求めて今日も

日野江城から島原城へ in 長崎・南島原市 島原市

2016年12月13日 00時00分00秒 | 

日野江城から島原城へ
長崎・南島原市 島原市

1616年(元和2年)
有馬直純が日向国延岡藩に転封になり、
代わって松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城に入城する。





この階段を上がった先に城はあった










元和4年(1618年)
日野江城は手狭であったので
島原城の築城を開始する。

1624年(寛永元年)
島原城完成。





















1637年~1638年(寛永14~15年)
初代重政、2代勝家の圧政により
島原の乱が起こる。
勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首。
松倉氏は改易となる。


原城(跡) in 長崎・南島原市

2016年12月10日 00時00分00秒 | 

原城(跡)
長崎・南島原市


過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより
農民一揆を引き起こした。
この一揆は
島原半島のみならず天草にも飛び火し、
島原城・富岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、
やがて
一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し
約3万7千人が
廃城となっていた原城に立て籠もった。
小西行長の家臣の子孫といわれる
天草四郎を総大将とし、
組織立った籠城戦を展開して
幕府軍と戦闘を繰り広げた。

一揆側は
3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、
弾薬・兵糧が尽き果ててきた。
対する幕府軍も
1千人の戦死者を出しながらも
新手を投入し、
ついに1638年4月11日から12日
(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で
一揆軍を壊滅させた。
幕府軍の記録によると、
一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)
老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。
Wikipediaを参照しました


























幕府軍は乱の終結後、
原城が再び一揆の拠点として
使用されることのないよう
徹底的に破壊した



























佐賀城本丸歴史館 in 佐賀市

2016年11月02日 00時00分00秒 | 

佐賀城本丸歴史館
佐賀・佐賀市


佐賀藩は
外様各藩の中で8番目の石高
35万7千石を誇り、
260年もの長きにわたり
鍋島家が治めました
佐賀城本丸歴史館は
10代藩主 鍋島直正が
天保9年(1838)に再建した本丸御殿を
忠実に復元した日本最大級の木造建築です

天守閣が欲しいですね

旅先よりスマホにてUPしています

虎ノ門










御玄関
本丸御殿の正面玄関で
藩主や身分の高い特別の人が利用


外御書院
1~4之間 合わせて320畳の大広間






前撮りをされていました
おめでとうございます




佐賀の7賢人
佐賀藩10代藩主 鍋島直正
博愛社(日本赤十字社)設立 佐野常民
早稲田大学 大隅重信も居る







彼岸花咲く鹿野城下で山中鹿之助の墓参り in 鳥取・鳥取市鹿野町

2016年10月13日 00時00分00秒 | 

彼岸花咲く

鹿野城下で山中鹿之助の墓参り

鳥取・鳥取市鹿野町

 

鹿野城址や城下町の街並みが残る歴史の街

鹿野城下町にやってきました。

鷲峰山(じゅうほうざん)の峰に広がるこの町は

かって川が運んだ砂や礫たまってできた『台地』の上に位置しています

天小9年(1581)鹿野城主となった亀井茲矩(かめいこれのり)が

この街を城下町として整備しました。

駐車場は

廃校になった鹿野小学校の運動場

その前に堀があり、鹿野城の面影を今に残していました。

今回は

お堀の内側に咲いていた彼岸花を写しただけで

時間の都合で山城には上らなかった。

案内板の説明だけでご勘弁ください

撮影は9月25日

1578年羽柴秀吉が亀井茲矩を先駆として

毛利の支城となっていた鹿野城を攻め落とし・・・

 

 

 

彼岸花が満開

 

 

 

 

 

山中鹿之助のお墓はどうしても見たかったので

一番にお参りしてきました。

戦国時代、下剋上の世にあって

一貫して主君尼子氏のために命を掛けて戦った武将が山中鹿之介です。

  鹿之介は、

中国地方の有力者毛利氏との争いに敗れた尼子氏を再興するため、

近畿、中国地方の各地で転戦しますが、

ついには播磨の国の上月城に追い詰められ、捕われの身となり、

備中高梁川の渡し場で斬殺されました

(斬殺の場面は大河ドラマ 黒田官兵衛でも行われました)

 


 通説によれば、
天文14年8月15日(1545)に
出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたとされる
山中鹿之助に関する以前のブログ

富田城(島根県)と
高梁川暗殺された位置に建つお墓(岡山・高梁市)

http://blog.goo.ne.jp/wingtom/e/5dc64af2016eb7e80a7fcc7f891e92ab


 

 

鹿野城主となった茲矩は、

家臣団を備中高梁川に派遣し、鹿之介の遺骨を鹿野に持ち帰らせ、

霊を慰めるため寺と墓を建てました。

寺の名は鹿介の別名・幸盛(ゆきもり)から

「幸盛寺(こうせいじ)」と名づけられました。

 

幸 盛 寺

 

 

山中鹿之介の(別名 幸盛)の墓

逆光を補正したので画像が悪い

 

 

 

 

山中鹿之助も
尼子十勇士の一人

 

幸盛寺 本堂

 

 

 

山中鹿之助の首塚
広島県福山市の鞆の浦にあります

山中鹿之助は尼子十勇士の1人で、毛利の家臣に誘殺され、
その首は鞆に持ち込まれたと伝えられています。
首塚は静観寺にある

 

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

明日も皆様のお越しをお待ちしております。


田辺城(舞鶴城)in 京都・舞鶴市

2016年10月10日 00時00分00秒 | 

田辺城(舞鶴城)

-田辺城資料館-

京都・舞鶴市

 

1578年(天正6年)

織田信長の命によって守護大名の一色義道を滅ぼし、

丹後を制圧した長岡藤孝(幽斎)は、はじめは宮津城を居城としたが、

京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、

地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、経営の中心とした。

隠居後は、子の忠興を入城させた。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが勃発すると、

当主になっていた細川忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、

徳川家康率いる東軍に加勢した。

 

城門は平成4年に完成。

展示室になっているようだ。

私がお邪魔したときは閉まっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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