風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

“問い”と“答え”

2015-04-10 07:49:18 | 隠された科学
2月に「シュタイナーからの旅立ちーふたたび」という題で書いたとき、「シュタイナーが遺したアントロポゾフィーに自分が探している答えはない」と述べた。
少し誤解されたかもしれないので補足させていただきたい。

シュタイナーの遺したアントロポゾフィーに答えがないというのは、そこでは私の“問い”は問われていないということだ。
でも、それは当然のことでもある。
およそすべての思想は、問いを持つことから始まるのではないか。
そのとき、シュタイナーの思想も、他の誰かの思想も、対話の相手になる。
人は、対話しつつ、自分自身の思想を紡いでいくのだろう。

私は、もっと以前に、アントロポゾフィーに救いはない、と書いたこともある。

これも当然のことで、
およそどんな思想や宗教からも、救いは得られないと思っている。
もし救いがあるとすれば、それは思想や宗教に出会い、それと取り組むことで、一人ひとりがもつ体験の中にあるだろう。
そして本来、アントロポゾフィーとは、まさにそのようなものだ。つまり、知識体系でも、ましてや「シュタイナーの教え」などでもなく、あくまでも一人ひとりの精神活動、知的活動なのだ。
アントロポゾフィーは、人と人の間に働く。他者と出会い、触発されるときに働くのが、アントロポゾフィーだ。

シュタイナーの本を読み、時空を超えてシュタイナーの思想に触れるとき、そこにもアントロポゾフィーは働くだろう。
しかし、同様に、たとえば新聞に掲載された誰かの文章を読んで考え込んだり、あるいは職場の同僚と話し込んだりするときだって、アントロポゾフィーは働いている。
その意味でのアントロポゾフィーは、いわば人間性そのものだから離れようがない。

しかし、そのようなアントロポゾフィーは、無数の名前を持ちうるだろう。アントロポゾフィーや人智学という名称にこだわる理由はない。

私が離れようと思うのは、アントロポゾフィーという名称を固定化しようとする態度からである。(シュタイナーも「できることなら、アントロポゾフィーには毎週、新しい名前をつけたいくらいだ」と言っている。)

そして、「自分はシュタイナーのような秘儀参入者ではないので、本当にところはよくわからないが、シュタイナーによれば…」という言い方をする態度からも離れたい。

要するに、私は、今の「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」をめぐる状況のなかでは、
一人ひとりの個人が自分自身の思想を生み出していく余地がないと感じている。
誰かが何かを学び、考え、表現しても、それはアントロポゾフィー、シュタイナー、あるいはヴァルドルフという名前に吸収される。
本来の意味でのアントロポゾフィー(人間の知恵、人間性の意識)なら、それでも構わないだろう。

けれど、今使われているアントロポゾフィーという言葉は、そのような意味ではない。それはシュタイナーという人物に依拠した思想、「シュタイナーが創始した思想」ということになっている。

私は、今までは、この意味を変えられると思っていた。私自身の生き方、考え方を通して、アントロポゾフィーが本来の意味を取り戻すことに寄与できるのではないかと思っていた。
それはできない、と気づいたのだ。

言葉はそれを使う人間たちとともに生きている。

シュタイナーは、晩年、「精神科学自由大学」というものを構想し、そこに参加しようとする人々に、今までにない「真剣さ」と「自分自身が世界を前にアントロポゾフィーを代表する覚悟」を求めた。

そこでは、アントロポゾフィーに関心さえあれば無条件で入会できる「アントロポゾフィー協会」とは、本質的に違う何かが求められている。

私は、今、このように理解している。
アントロポゾフィーは、一人の人間ーたとえばシュタイナーーだけによって代表されるものではない。
その認識をシュタイナーは強く求めたのだ、と。

世界の前にアントロポゾフィーを代表する覚悟をもった人々によって、
アントロポゾフィーは、彼らが理解するものに変わっていく。

彼らがシュタイナーに依拠し続ければ、アントロポゾフィーは「シュタイナーの思想」になる。
今、世界に存在するアントロポゾフィーは、それを担って生きている人々自身なのだ。

そして、同様の覚悟をもって自由大学会員となった私自身も、そこに連なるひとりである。

私は、アントロポゾフィーを代表するひとりとして、自分に何ができるのかを考えた。
結論として、自分の中に長い間くすぶっていた衝動、既存のアントロポゾフィーへの違和感、自分自身の問いを真剣に取り上げることにした。

なぜこのようなことを、ブログとは言え、誰でも見られる場所に書くのか、と何人かの人に問われた。

それは、やはり私がアントロポゾフィーに対して強い思いをもっているからだと思う。
私が願っているのは、人と人の間に働くアントロポゾフィー(人間性)が発展、進化することだ。
私が考えることも、誰かにとって触発の材料になるかもしれない。
私自身が触発されることもあるだろう。

うまく伝わるかわからないが、
一人ひとりの歩む道は異なり、
よりいっそう真剣にアントロポゾフィーに取り組むという道もあれば、
私のように、いったんそこから離れるという選択もあるだろう。

子育てに専念する道もあれば、
子どもがいつか理解してくれることを祈りながら、仕事を続ける道もあるだろう。

しかし、今、日本という国で、
本当に必要とされているのは、
一人ひとりが自分をかけて選択することだと思う。それが何であれ。

そして、アントロポゾフィーは、本来、
一人ひとりがそのように自分を生きることに寄り添うものだ。

私たちは、否応なく世界を前に日本を代表している。
私たちの生き方が、日本を変えていく。
そこに私たちの大人としての責任がある。

それに加えて、わざわざアントロポゾフィーを代表する決意をした者は、さらに余計な責任が生じるのだ。
それはもちろん、結局は自分にしか見えないことなのだが。

私なりに、どのようにこの責任に向き合えるかとあがいているところだ。

現実的には、
私は一年くらいの時間をかけて、
自分がすでに着手しているアントロポゾフィー関連の仕事を整理するつもりでいる。
それと並行して、
アントロポゾフィーを「おんなこどもの知性」と捉え直して、仕切り直しをしたいと思っている。










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2 コメント

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「事実」と「結論」 (水星)
2015-04-11 22:14:58
ここしばらくの風韻坊さんの考えをかなりまとめてくださいましたね。
でも、わたしは、いまのアントロポゾフィーをめぐる状況が、「一人ひとりの個人が自分自身の思想を生み出していく余地がない」とはあまり思えません。
シュタイナーは、「アントロポゾフィーの共同体形成」の第2講で、アントロポゾフィーの「事実」と「結論」を分けて話していたと思います。つまり、シュタイナー自身が講演で語っているのは、アントロポゾフィーの「事実」の部分であり、もしその事実が間違ってとらえられていたならば、シュタイナーは訂正したり反駁したりしました。一方で、シュタイナーは、事実に耳を傾けて一人ひとりが判断し、それぞれ個として異なる結論を引き出して行くことの大切さも語りました。
風韻坊さんは、倫理的個体主義の立場から後者の立場を強調されます。それは理解できますが、シュタイナーが精神科学で探究した「事実」を(批判的に検討しながらも)意識していくことが大切だと思います。なぜなら、「倫理的個体主義」を強調する方々のなかには、「事実」を無視し(あるいは意図的にゆがめて)言いたい放題、やりたい放題されている方もいらっしゃるからです(それは倫理の欠落したただのわがままですね)。
長年、アントロポゾフィー(人智学)に取り組んできたカリスマ的な方はいらっしゃいます。しかし、その方が提供しているのが、「事実」なのか、「判断」や「結論」なのかによっても違ってくると思います。カリスマの「判断」や「結論」を固定化して「アントロポゾフィー(人智学)」であるとしてしまうと確かに問題ですが、「事実」を正確に伝えようとされる姿勢自体は大切ではないでしょうか。
ところで、たまたまきょう、風韻坊さんの昔の著作『三月うさぎのティータイム』をようやく手にしました。風韻坊さんはこの時期から一貫しておられますね。今後のブログやお仕事に期待しています。
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アントロポゾフィー? (いっしゅう)
2015-04-13 22:41:05
はじめて、記させていただきます。
アントロポゾフィーは、哲学、思想、あるいは宗教の1つ(一種として)の体系化を目指したものなのでしょうか?
それとも、人が人として生きる「理想」を探求する〈姿〉を事実化するものでしょうか?
また、一神教に似た、世界を統一して俯瞰する「科学」を目指すものでしょうか?
ところで、小説家・大江健三郎氏は小説家の生業を通しつつ、また哲学者・鶴見俊輔氏は哲学者の生業を通しつつ、建築家・カーンは建築家の生業を通しつつ、ほかにもたくさんの有名無名の方々がそれぞれに〈生業を通しつつ〉、人がより善く生きる模索を言葉にされてます。なりわい(生業)を別の言葉で表せば、「立場」と言えるかと思いますが、 上述した方々はその立場に立つことなく、立場から見えた、「いとなみ(くらし、生活)」への眼差しを言葉に託しているように思います。
入間さんは、アントロポゾフィーから見えた「いとなみ」への眼差しを《おんなこども》と表しているように思うのですが。
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