風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

未来からの意志

2015-07-29 19:06:20 | 隠された科学
人間に「自由意志」はあるのか?
シュタイナーを含め、数多くの哲学者や科学者が取り組んてきたこのテーマも、
今日の日常生活のなかでは、熱心に自分の問題として考える人はあまり多くないだろう。

でも、今、この自由意志の問題は、
参議院で審議されている「戦争法案」をめぐっても、
きわめて重要な意味をもっていると思う。

そもそも、この問題は「私は自分の本来の人生を生きているのか?」ということにほかならない。
親が決めた人生、
あるいは誰かに決められるということはなくても、
生まれ落ちたその状況のなかで、流されるように生きているのではないか?
自分は、その時々で自分で選択し、自分で決断して生きてきたのか?

そもそも人間には、自分で生き方を決めることなどできるのか?
所詮は、現実を受け入れ、抵抗や自己主張などせずに従順に生きるべきではないのか?
本来、人間に「自由意志」があるかどうかは、すべての人にとって大問題なのだ。
ところが、そのことに多くの人が気づいていない。
それは「われわれの時代の悲しい特徴のひとつだ」と、すでにシュタイナーは百年以上も前に書いていた(『自由の哲学』)。

世の人々の生き方を見れば、
「自分の生き方は自分で決められるかどうか」をめぐって二つの陣営に分かれているようにも見える。
たとえば昨日の朝日新聞に広告が載っていた曽野綾子氏の『人間の分際』という本には、
次のような謳い文句が添えられている。
「『やればできる』というのは、とんでもない思い上がり。
努力でなしうることには限度があり、
人間はその分際(身の程)を心得ない限り、
決して幸せには暮らせないのだ。」

実際にこの本を読んだわけではないが、
おそらく曽野綾子氏は「自由意志」を否定する側の人だろう。
そして、「身の程を知れ」と言われて、素直に受け入れてしまう人たちもいるのだ。

実のところ、
人間に「自由意志」があると考えるか否かは、
その人の生き方だけではなく、政治的な考え方にもつながっていく。
以前、まだいわゆる「自虐史観」を批判する人々に連なっていた頃の、
漫画家小林よしのり氏が書いた『戦争論』を読んだとき、
その最後が「自由意志」の否定で終わっているのに衝撃を受けたことがあった。
後で、その考えは西尾幹二氏などにも見られることを知った。

個人が「全体」の犠牲になってもよい、
あるいはそこに美徳があると考える人たちは、自由意志を否定する。
そして、ここが微妙な線なのだが、
「ひきこもり」や「不登校」などの問題の捉え方も、自由意志をめぐって分かれることになる。
たとえば、精神科医の斉藤環氏による「ひきこもり」についての著作には、
ひきこもりに到る人々は「去勢」されていないという表現がある。
これは根底で「身の程を知る」という発想につながっている。

大雑把な言い方をすれば、
個人の自由意志を重んじることで、
個人は神経を病み、社会は混乱する。
一人ひとりが身の程を知り、現状に満足することで、社会は安定するという考え方だ。

実際、今の社会で、個人の意志を尊重することは困難だ。
自分の人生を自分で決めようとすれば、壁にぶつかり、
神経を病むこともあるだろう。
けれど、一人ひとりが自分の生き方をめぐって、
現状に抵抗し、自己主張を行わないかぎり、社会は変わらないのだ。

自由意志の否定は、社会変革の否定である。

今、ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』という本を感銘を受けながら読んでいる。
神経科学の立場から、脳と意識の関係を実証的に記述した本である。
その中心テーマが「自由意志」なのだ。

リベットの実験によれば、
人間が何かをしようと決意する前に、脳の活動が始まっている。
たとえば手首を曲げるとき、
心のなかではその運動を始める約200ミリ秒前に、その意図が意識される。
ところが、脳内の「準備電位」を計測すると、
実際の行為の550ミリ秒も先立って生じている。
つまり、「運動を生み出す脳内事象は、当人が意思決定を意識するよりも約350ミリ秒前に起こっている。」

ここから、「人間の意思決定の意識は、行為の原因ではなく、脳過程の結果である」とみなされる。
それは、一見、「自由意志」の否定につながるようだが、
リベットはあえて「自由意志」の可能性を論じるのである。
「もし仮に運動が無意識の力によって起動されているとしても、
ひとたび人が自らの意図に気づくやそれを拒否するのに十分な時間がある」というのである。
(以上は、S.M.コズリンの序文より)

私は、むしろ「意志」について新しい考え方が必要だと思う。
リベットは、人間の「意識(気づき=アウェアネス)」を研究した。
そして、そこに「時間」の要素を取り入れたことが重要だと思う。

意識はつねに「現在」において起こる。
だとすれば、
シュタイナーが「思考は過去から」「意志は未来から」と言ったように、
意志とはつねに未来に起こり、
それが現在において意識されることが「意思決定」だと考えられるのではないか?

リベットの実験結果はむしろそのことを示しているように思える。

人間のなかには実現されるべき無数の可能性が眠っている。
それらは人間のなかの「未来」だ。
一人ひとりの個人のなかに、
未来から、無数の可能性が「意志」として流れ込む。
その一つひとつに気づく(become aware)ことが決意なのだ。

個人の自由意志の問題、
つまり、私やあなたがどう生きるかは「気づき」の問題だ。
高望みしたり、「身の程」を知るということではない。
未来から流れ込む、自分の意志に気づくかどうか、ということだ。

そして、自由意志を否定すること、
あるいは個人の意志を抑圧することは、
この地上に、よりよい社会を実現しようとする人類の意志を抑圧することだ。
人間の可能性を否定することだ。

自由意志の否定の最たるものが戦争である。

今、審議されている戦争法案は、
国家に、個人の人生を決定させてよいのか、という問題だ。
それが自衛隊であれ、民間人であれ、われわれはすべて「個人」なのだ。

原発にせよ、「戦争法案」にせよ、
本来の人々の意志を押しつぶそうとする「別の意志」が働いている。
それは一人ひとりの個人に「身の程を知れ」と言って、現状を受け入れるように迫る。

そうではない。
私たちに必要なのは、個人としての自分の意志に気づくことだ。
今、本当の戦いは、そこにあると思う。

大学会員の義務と責任について

2015-07-28 12:31:47 | アントロポゾフィー
このブログにいただいた「水星」さんのコメントに、
「風韻坊さまは精神科学自由大学会員とのことですが、自由大学についてかなり独自の見方をされていると思いました」
と書かれていた。

「水星」さんのように、アントロポゾフィー協会や自由大学のあり方について真剣に考えている人がいることを本当に貴重に思う。
だから、自分にとってはやや過去に属することなのだが、彼が述べている「大学会員の義務」について私の理解を記しておきたい。

私はところどころで「独自の見方」を打ち出しているが、協会や自由大学のあり方についてはきわめてシュタイナーの意図を忠実に汲み取っているつもりだ。むしろ、シュタイナーの意図を直接に理解していただきたくて、「水星」さんが言及された『シュタイナーが協会と自由大学に託したこと』という本を出版した次第である。

「大学会員の義務」に関しては、私は「水星」さんが指摘された同書162ページに加えて、その数ページ後(p.169)の次の言葉が重要であると考えている。
「自由大学に所属するということは、アントロポゾフィー協会そのものにおけると同様に、意味を持つことを基盤としなければなりません。つまり、自由大学においては、他の人々とともにアントロポゾフィーを育成する意志を持つということです。だからこそ、精神科学自由大学は、その会員たちにますます厳しい義務を課していくことになるでしょう。」

シュタイナーの意図において、自由大学の「意味」は、「アントロポゾフィーの育成」にあった。
そして、その「育成」は「他の人々とともに」行われることだからこそ、「信頼」という基盤が必要なのだ。

しかし、シュタイナーにとって、このアントロポゾフィーの育成はきわめて「真剣」な事柄だった。
その真剣さを理解できない人、あるいはまだ「アントロポゾフィーの育成」に関わる準備のできていない人には、彼は「まだしばらく待っていてほしい」と伝えた。

アントロポゾフィーは「生きもの」である。
シュタイナーのいう「育成」はドイツ語ではpflegen。「手入れ」や「世話」とも訳される。
生命体としてのアントロポゾフィーのケア(育成)をすることが、自由大学の「意味」である。
なぜなら、幼い子どもの成長を支え、保護する人がいて初めて、その子どものもっている可能性は発展するように、
アントロポゾフィーが世界の現実のなかで有効に働くためには、
そこから何かを得ようとする人だけではなく、アントロポゾフィーの世話をする側に回る人たちが必要だからである。

大学会員の「義務」は、ゲーテアヌムを信頼することではなく、アントロポゾフィーの育成である。
そして、その義務を全うするためには、ゲーテアヌムの人々を含め、他の同じ志をもった人々との「信頼」が必要なのである。

この信頼の根拠になっているのが、「世界の前にアントロポゾフィーを代表する」という信念である。
「水星」さんが挙げた162ページの最後で、シュタイナーは「信頼」との関連で、このように述べている。
「...クラスに所属しようとする人はすべて、自分自身に対して、自分は本当にアントロポゾフィーの事柄を世界の前で支持(vertreten、代表)するだけではなく、あらゆる勇気をもって、あらゆるしかたでそれを代表する(repräsentieren)人物になる意志があるのか、と問いかける必要があるのです。」

通常、組織や立場を「代表」するという言い方をするときは、
ドイツ語ではvertretenという言葉を使う。
他の人々に代わって発言したり、何らかの意見を支持したりするときに使う言葉だ。

Repräsentierenも同様の使い方ができるが、
これはvertreten以上に、組織や立場がその人のなかに体現されていること、
あるいはその人がそうした立場や組織の「典型」であることを示唆する言葉である。

私は、シュタイナーがこの言葉を使った背景には、明らかに「人類の代表」(Menschheitsrepräsentant)との関連があったと思う。
シュタイナーは、晩年に制作したキリストを思わせる彫像にこのタイトルを付けたのである。

キリストがいわば、人類の運命とみずからを結びつけ、そのすべての破壊的、否定的行為を引き受けつつ、
人類の創造に寄り添ったように、

シュタイナーもまた、クリスマス会議において、自分の意図をまったく理解しない会員たちとともに新しいアントロポゾフィー協会を設立し、
その「代表」となった。かつてプロコフィエフ氏が切実に強調したように、「シュタイナーは、協会のカルマを引き受けた」のである。

シュタイナーが協会と自由大学について語った言葉を読むと、
彼のその真剣な覚悟が伝わってくる。
そして、自由大学に入る条件として「アントロポゾフィーを代表する意志」を求めたとき、
それはシュタイナー自身とともに、アントロポゾフィーを育成する仲間を求めていたことがわかる。
それゆえに、彼は自由大学に関して徹底して厳しかった。

そこにはシュタイナーの次の確信があった。
「今日、私たちが生きている時代においては、基本的に、アントロポゾフィーは地球上の無数の人々にとって焦眉の問題になるはずなのです。」(同書p.139)

しかし、そうなっているだろうか?
一人ひとりの大学会員は、自分が身をおくその場でアントロポゾフィーを生きるのだ。
私たち一人ひとりがアントロポゾフィーそのものなのだ。
自由大学において、私たちはシュタイナーと対等である。
たとえ、どんなに見苦しく愚かであったとしても、
私たちはシュタイナーが目指していたことを、共に目指そうとするから、自由大学に集っている。

私はこの意味での「自由大学」に所属しているつもりだ。
ただし、その会員はゲーテアヌムに登録しているよりもはるかに多く、世界各地に生きていると思っている。
また、自由大学会員のなかには、数多くの「死者」がいるし、この世に生まれることのない霊的存在たちもいる。

私は思うのだ。
これまでのアントロポゾフィー運動はやはり、シュタイナーが警告した「徒党欲求」(同書p.165)に陥っていたのではないか、と。
日本は今、戦争に向かって突き進んでいる。
米国に代表される作用は全世界に広がっている。

そこでアントロポゾフィーが有効に働くかどうか、
シュタイナーのいうように「地球上の無数の人々にとって焦眉の問題」になるかどうか、
それは結局は、一人ひとりの個人において見ていくしかない。

それはきわめて孤独な作業になる場合もあるだろう。
けれど、シュタイナーが示した「信頼」とは、地上において徒党を組まなくても、
意識の深みにおいて、自分と同じ信念をもって努力している人々と連帯することができる、ということだ。

私たち一人ひとりの努力を通して、
いつか、アントロポゾフィー協会は果てしなく開かれて、一般社会のなかに解消されるだろう。
そして、アントロポゾフィーは新しい人間の知恵として、多くの人々の生活のなかに生きることになるだろう。
そこに見えてくるのは、一人ひとりの個人の無限の価値を認め、
個人の創造性によってつねに生まれ変わる社会のありようだ。

そのような理想を共有できる人々は、世界に無数にいると思う。
その人たちを「アントロポゾフィー」という名称で括る必要はない。

要は、それを単なる理想や夢物語として片付けるのではなく、
きわめて真剣に、けれど自分だけを「高尚」にすることなく、
やや滑稽な姿をさらしつつ、自分の目指すところとして努力し続けること、

それが自由大学会員の「義務」であり、
それを自らの意志として引き受けられる人が、自分で自分に課すものなのだと思う。

そのとき、アントロポゾフィーを育成すること、
アントロポゾフィーの源泉からつねに「新しいもの」を生み出していくことは、
自由大学会員の「責任」として自ずと意識されることだろう。

以上は、私自身の表現だけれど、
この理解は、けっして私の「独自の見方」ではない、
シュタイナーの言葉を正確に読み解いていけば、きっとそのような理解にいたるだろうと思っている。
















男性的思考と「慰安婦」問題

2015-07-27 08:20:05 | 隠された科学
先日の『報道特集』(2015.07.25)で、インドネシアにおける「慰安所」の開設に当時主計長だった中曽根康弘氏が関わっていた事実が取り上げられたのを受け、この問題を最初に報道したというLITERAの記事を読んだ。

防衛省の資料から「軍の関与」が裏づけられ、それがテレビの報道番組の現地取材によって検証された意義は極めて大きいと思うが、ここでは私自身が考える「慰安婦問題の本質」について記しておきたい。

結論から言えば、私はすべての戦争は男たちが始めるのだと思っている。より正確に言えば、人間の中の「男性的思考」が戦争を起こすのだ。女性の中にも、一部の政治家や官僚のように、男性的思考を完全に身につけた人たちがいる。

男は寄る辺ない存在だ。そして、自分の自我を成り立たせるために「権力」を必要とする。権力とは、自分の外にある力、外から支えてくれる力だ。それは国家であり、企業であり、ありとあらゆる職業である。私は私だというのではなく、さまざまな述語で自分を飾り立てる。

国家は究極の権力だ。寄る辺ない人間にとって、民族主義はもっとも身近な支えになる。国家が「家」なのは興味深い。人は家族にすがり、民族にすがり、国家にすがる。そして、自分の拠り所を脅かすすべてのものを排除する。
その根底には、自分の存在への不安がある。

戦争という極限状況で、男たちは追い詰められ、自分自身を見失っていく。その時、男が求める「女性」は、一人の個人ではなく、自分を優しく包み、支えてくれるもの。あるいは、自分が侮蔑し支配することで、何かの上にある自分を確認させてくれるものだ。
「慰安婦」は、あるいはあらゆる性暴力は、男たちの自立の欠如から発している。

そして、今、「違憲安保法制」に突き進む安倍政権は、日本の徹底した自立の欠如を露呈している。米国との不平等な関係にしがみつき、「家庭内」(ドメスティック)の国民を支配することでアイデンティティーを保とうとしている。

しかし、それは誰のアイデンティティーなのか? この政権が守ろうとしているのは誰の名誉なのか?

それは日本人の名誉でも、天皇の名誉でもなんでもない。あの戦争を始めた、そして無数の国民を見殺しにしたごく一握りの男たちの「メンツ」ではないのか?
そして、彼らを支えている力、特に米国に由来する力がある。

この「慰安婦」問題について、私たちが見つめるべきは、「親離れ」と「自立」を拒み続ける男性的思考ではないのか、と思う。

女性は軍需産業で輝くのか?

2015-07-22 16:02:37 | おんなこどもの哲学
奇妙なインタビューを見た。NHKの「スターウーマン~輝くアメリカ女性の仕事物語~」という30分番組である。米国在住の日本人ジャーナリストの女性が、映画芸術科学アカデミー会長と軍事企業のCEOである二人の女性に「成功の秘訣」や「仕事と家庭の両立」などについて聞いていくという内容だ。

奇妙に思えたのは、なぜこの日本人ジャーナリストはこの二人に注目したのか、彼女の関心の在り処がまったくわからなかったからだ。
穿った見方をすれば、これは安倍首相の「輝く女性」政策のプロパガンダではないのかと思えてくる。
この番組で強調されるのは、この二人が「女性であること」「社会的に成功していること」「仕事と家庭を両立させている」ということでしかない。
インタビューする女性の独自の見方や関心は一切見えてこない。
ゾッとするのは、二人目の「輝く女性」が軍事企業のトップであることだ。そのことを番組では臆面もなく伝えている。

この番組は、女性の社会的成功と家庭との両立を際立たせることで、個人としての女性を「輝き」の中に埋没させる。
この女性は、殺人兵器を生産する企業の責任者なのだ。そのことは「母親」であることとどう「両立」するのか? そのほうが「家庭との両立」よりもはるかに人を震撼させる重大な問題ではないのか?

三枝和子さんが『女の哲学ことはじめ』という本の中で、男は他者を否定したり打ち負かしたりすることで「自己」を確認するが、女は他者との「つながり」の中で「自己」を確認する、というようなことを書かれていた。
だとすれば、戦争は「男性的思考」の最たるものだ。そして、武器製造の指揮を執るこの女性は、実は女性性も母親性も奪われているのではないのか?

もちろん、こんな単純な物言いをすれば、実際の女性たちの失笑を買うかもしれない。けれども、世の中から「人間性」がますます失われゆく現在、私には、本来の女性性や母親性の中にこそ、未来につながる可能性があると思えてならない。
そして、そこでの女性性や母親性とは、相手が子どもであれ、パートナーであれ、個人をあるがままに受けとめ、尊重する能力の中にある、と私は思っている。

しかし、安倍首相の「輝く女性」は、女性を応援する言葉ではなく、男性的思考のために利用することでしかない。
この番組のジャーナリストが、自分自身の視点を持たず、おそらくは与えられた「成功の秘訣」「家庭との両立」という関心からしか考えられていないように、そこでの女性は個人ではなく、「女性一般」でしかないのだ。

その先には軍需産業の肯定、戦争の肯定がある。

落とし穴は、「女性が輝く社会」という時の「輝き」という言葉にあると思う。
そこでの「輝き」は「社会で仕事をしている」ことだ。しかし、本来、すべての人が個人として輝いている。社会に求められるのは「輝かせる」ことではなく、一人ひとりの個人の輝きを認めて尊重することだろう。

外からスポットライトを当てるのではない。母親や保育者が一人ひとりの子どもの個性を受けとめるように、すべての個人のかけがえのなさを認め、その生命を保障することだ。それが日本国憲法の核心だろう。

戦争は個人を否定し、生命の火を破壊する。戦争に突き進む社会、軍需産業を肯定する社会が放つ「輝き」は、無数の個人の犠牲によって灯された妖艶なる光だ。そこには原子力の灯火につながる力が働いている。
そこに個人の自己を埋没させてはならない。個人の光を認め、内なる輝きを対置させていかなければならない。