人間に「自由意志」はあるのか?
シュタイナーを含め、数多くの哲学者や科学者が取り組んてきたこのテーマも、
今日の日常生活のなかでは、熱心に自分の問題として考える人はあまり多くないだろう。
でも、今、この自由意志の問題は、
参議院で審議されている「戦争法案」をめぐっても、
きわめて重要な意味をもっていると思う。
そもそも、この問題は「私は自分の本来の人生を生きているのか?」ということにほかならない。
親が決めた人生、
あるいは誰かに決められるということはなくても、
生まれ落ちたその状況のなかで、流されるように生きているのではないか?
自分は、その時々で自分で選択し、自分で決断して生きてきたのか?
そもそも人間には、自分で生き方を決めることなどできるのか?
所詮は、現実を受け入れ、抵抗や自己主張などせずに従順に生きるべきではないのか?
本来、人間に「自由意志」があるかどうかは、すべての人にとって大問題なのだ。
ところが、そのことに多くの人が気づいていない。
それは「われわれの時代の悲しい特徴のひとつだ」と、すでにシュタイナーは百年以上も前に書いていた(『自由の哲学』)。
世の人々の生き方を見れば、
「自分の生き方は自分で決められるかどうか」をめぐって二つの陣営に分かれているようにも見える。
たとえば昨日の朝日新聞に広告が載っていた曽野綾子氏の『人間の分際』という本には、
次のような謳い文句が添えられている。
「『やればできる』というのは、とんでもない思い上がり。
努力でなしうることには限度があり、
人間はその分際(身の程)を心得ない限り、
決して幸せには暮らせないのだ。」
実際にこの本を読んだわけではないが、
おそらく曽野綾子氏は「自由意志」を否定する側の人だろう。
そして、「身の程を知れ」と言われて、素直に受け入れてしまう人たちもいるのだ。
実のところ、
人間に「自由意志」があると考えるか否かは、
その人の生き方だけではなく、政治的な考え方にもつながっていく。
以前、まだいわゆる「自虐史観」を批判する人々に連なっていた頃の、
漫画家小林よしのり氏が書いた『戦争論』を読んだとき、
その最後が「自由意志」の否定で終わっているのに衝撃を受けたことがあった。
後で、その考えは西尾幹二氏などにも見られることを知った。
個人が「全体」の犠牲になってもよい、
あるいはそこに美徳があると考える人たちは、自由意志を否定する。
そして、ここが微妙な線なのだが、
「ひきこもり」や「不登校」などの問題の捉え方も、自由意志をめぐって分かれることになる。
たとえば、精神科医の斉藤環氏による「ひきこもり」についての著作には、
ひきこもりに到る人々は「去勢」されていないという表現がある。
これは根底で「身の程を知る」という発想につながっている。
大雑把な言い方をすれば、
個人の自由意志を重んじることで、
個人は神経を病み、社会は混乱する。
一人ひとりが身の程を知り、現状に満足することで、社会は安定するという考え方だ。
実際、今の社会で、個人の意志を尊重することは困難だ。
自分の人生を自分で決めようとすれば、壁にぶつかり、
神経を病むこともあるだろう。
けれど、一人ひとりが自分の生き方をめぐって、
現状に抵抗し、自己主張を行わないかぎり、社会は変わらないのだ。
自由意志の否定は、社会変革の否定である。
今、ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』という本を感銘を受けながら読んでいる。
神経科学の立場から、脳と意識の関係を実証的に記述した本である。
その中心テーマが「自由意志」なのだ。
リベットの実験によれば、
人間が何かをしようと決意する前に、脳の活動が始まっている。
たとえば手首を曲げるとき、
心のなかではその運動を始める約200ミリ秒前に、その意図が意識される。
ところが、脳内の「準備電位」を計測すると、
実際の行為の550ミリ秒も先立って生じている。
つまり、「運動を生み出す脳内事象は、当人が意思決定を意識するよりも約350ミリ秒前に起こっている。」
ここから、「人間の意思決定の意識は、行為の原因ではなく、脳過程の結果である」とみなされる。
それは、一見、「自由意志」の否定につながるようだが、
リベットはあえて「自由意志」の可能性を論じるのである。
「もし仮に運動が無意識の力によって起動されているとしても、
ひとたび人が自らの意図に気づくやそれを拒否するのに十分な時間がある」というのである。
(以上は、S.M.コズリンの序文より)
私は、むしろ「意志」について新しい考え方が必要だと思う。
リベットは、人間の「意識(気づき=アウェアネス)」を研究した。
そして、そこに「時間」の要素を取り入れたことが重要だと思う。
意識はつねに「現在」において起こる。
だとすれば、
シュタイナーが「思考は過去から」「意志は未来から」と言ったように、
意志とはつねに未来に起こり、
それが現在において意識されることが「意思決定」だと考えられるのではないか?
リベットの実験結果はむしろそのことを示しているように思える。
人間のなかには実現されるべき無数の可能性が眠っている。
それらは人間のなかの「未来」だ。
一人ひとりの個人のなかに、
未来から、無数の可能性が「意志」として流れ込む。
その一つひとつに気づく(become aware)ことが決意なのだ。
個人の自由意志の問題、
つまり、私やあなたがどう生きるかは「気づき」の問題だ。
高望みしたり、「身の程」を知るということではない。
未来から流れ込む、自分の意志に気づくかどうか、ということだ。
そして、自由意志を否定すること、
あるいは個人の意志を抑圧することは、
この地上に、よりよい社会を実現しようとする人類の意志を抑圧することだ。
人間の可能性を否定することだ。
自由意志の否定の最たるものが戦争である。
今、審議されている戦争法案は、
国家に、個人の人生を決定させてよいのか、という問題だ。
それが自衛隊であれ、民間人であれ、われわれはすべて「個人」なのだ。
原発にせよ、「戦争法案」にせよ、
本来の人々の意志を押しつぶそうとする「別の意志」が働いている。
それは一人ひとりの個人に「身の程を知れ」と言って、現状を受け入れるように迫る。
そうではない。
私たちに必要なのは、個人としての自分の意志に気づくことだ。
今、本当の戦いは、そこにあると思う。
シュタイナーを含め、数多くの哲学者や科学者が取り組んてきたこのテーマも、
今日の日常生活のなかでは、熱心に自分の問題として考える人はあまり多くないだろう。
でも、今、この自由意志の問題は、
参議院で審議されている「戦争法案」をめぐっても、
きわめて重要な意味をもっていると思う。
そもそも、この問題は「私は自分の本来の人生を生きているのか?」ということにほかならない。
親が決めた人生、
あるいは誰かに決められるということはなくても、
生まれ落ちたその状況のなかで、流されるように生きているのではないか?
自分は、その時々で自分で選択し、自分で決断して生きてきたのか?
そもそも人間には、自分で生き方を決めることなどできるのか?
所詮は、現実を受け入れ、抵抗や自己主張などせずに従順に生きるべきではないのか?
本来、人間に「自由意志」があるかどうかは、すべての人にとって大問題なのだ。
ところが、そのことに多くの人が気づいていない。
それは「われわれの時代の悲しい特徴のひとつだ」と、すでにシュタイナーは百年以上も前に書いていた(『自由の哲学』)。
世の人々の生き方を見れば、
「自分の生き方は自分で決められるかどうか」をめぐって二つの陣営に分かれているようにも見える。
たとえば昨日の朝日新聞に広告が載っていた曽野綾子氏の『人間の分際』という本には、
次のような謳い文句が添えられている。
「『やればできる』というのは、とんでもない思い上がり。
努力でなしうることには限度があり、
人間はその分際(身の程)を心得ない限り、
決して幸せには暮らせないのだ。」
実際にこの本を読んだわけではないが、
おそらく曽野綾子氏は「自由意志」を否定する側の人だろう。
そして、「身の程を知れ」と言われて、素直に受け入れてしまう人たちもいるのだ。
実のところ、
人間に「自由意志」があると考えるか否かは、
その人の生き方だけではなく、政治的な考え方にもつながっていく。
以前、まだいわゆる「自虐史観」を批判する人々に連なっていた頃の、
漫画家小林よしのり氏が書いた『戦争論』を読んだとき、
その最後が「自由意志」の否定で終わっているのに衝撃を受けたことがあった。
後で、その考えは西尾幹二氏などにも見られることを知った。
個人が「全体」の犠牲になってもよい、
あるいはそこに美徳があると考える人たちは、自由意志を否定する。
そして、ここが微妙な線なのだが、
「ひきこもり」や「不登校」などの問題の捉え方も、自由意志をめぐって分かれることになる。
たとえば、精神科医の斉藤環氏による「ひきこもり」についての著作には、
ひきこもりに到る人々は「去勢」されていないという表現がある。
これは根底で「身の程を知る」という発想につながっている。
大雑把な言い方をすれば、
個人の自由意志を重んじることで、
個人は神経を病み、社会は混乱する。
一人ひとりが身の程を知り、現状に満足することで、社会は安定するという考え方だ。
実際、今の社会で、個人の意志を尊重することは困難だ。
自分の人生を自分で決めようとすれば、壁にぶつかり、
神経を病むこともあるだろう。
けれど、一人ひとりが自分の生き方をめぐって、
現状に抵抗し、自己主張を行わないかぎり、社会は変わらないのだ。
自由意志の否定は、社会変革の否定である。
今、ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』という本を感銘を受けながら読んでいる。
神経科学の立場から、脳と意識の関係を実証的に記述した本である。
その中心テーマが「自由意志」なのだ。
リベットの実験によれば、
人間が何かをしようと決意する前に、脳の活動が始まっている。
たとえば手首を曲げるとき、
心のなかではその運動を始める約200ミリ秒前に、その意図が意識される。
ところが、脳内の「準備電位」を計測すると、
実際の行為の550ミリ秒も先立って生じている。
つまり、「運動を生み出す脳内事象は、当人が意思決定を意識するよりも約350ミリ秒前に起こっている。」
ここから、「人間の意思決定の意識は、行為の原因ではなく、脳過程の結果である」とみなされる。
それは、一見、「自由意志」の否定につながるようだが、
リベットはあえて「自由意志」の可能性を論じるのである。
「もし仮に運動が無意識の力によって起動されているとしても、
ひとたび人が自らの意図に気づくやそれを拒否するのに十分な時間がある」というのである。
(以上は、S.M.コズリンの序文より)
私は、むしろ「意志」について新しい考え方が必要だと思う。
リベットは、人間の「意識(気づき=アウェアネス)」を研究した。
そして、そこに「時間」の要素を取り入れたことが重要だと思う。
意識はつねに「現在」において起こる。
だとすれば、
シュタイナーが「思考は過去から」「意志は未来から」と言ったように、
意志とはつねに未来に起こり、
それが現在において意識されることが「意思決定」だと考えられるのではないか?
リベットの実験結果はむしろそのことを示しているように思える。
人間のなかには実現されるべき無数の可能性が眠っている。
それらは人間のなかの「未来」だ。
一人ひとりの個人のなかに、
未来から、無数の可能性が「意志」として流れ込む。
その一つひとつに気づく(become aware)ことが決意なのだ。
個人の自由意志の問題、
つまり、私やあなたがどう生きるかは「気づき」の問題だ。
高望みしたり、「身の程」を知るということではない。
未来から流れ込む、自分の意志に気づくかどうか、ということだ。
そして、自由意志を否定すること、
あるいは個人の意志を抑圧することは、
この地上に、よりよい社会を実現しようとする人類の意志を抑圧することだ。
人間の可能性を否定することだ。
自由意志の否定の最たるものが戦争である。
今、審議されている戦争法案は、
国家に、個人の人生を決定させてよいのか、という問題だ。
それが自衛隊であれ、民間人であれ、われわれはすべて「個人」なのだ。
原発にせよ、「戦争法案」にせよ、
本来の人々の意志を押しつぶそうとする「別の意志」が働いている。
それは一人ひとりの個人に「身の程を知れ」と言って、現状を受け入れるように迫る。
そうではない。
私たちに必要なのは、個人としての自分の意志に気づくことだ。
今、本当の戦いは、そこにあると思う。