風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

私の“隠された科学”

2015-06-23 07:37:50 | 隠された科学
私自身がこれから何をしようとしているかというと、
「科学を《おんなこどもの知性》によって補完する」ということを、
保育や幼児教育の領域から試みていきたい。

ルドルフ・シュタイナーは、「自然科学」に対して「精神科学」を対置させたが、それも「補完」の試みであったに違いない。
しかし、科学(サイエンス)は本来、「scire (知る)」というラテン語から派生していることからもわかるように、
およそ人間の「知の営み」すべてに関わるものだ。
幼い子どもが水や土に触れ、生き物に興味を持つところから「科学」は始まっている。
いや、そもそも生まれたばかりの赤ちゃんも、「知ろう」という欲求に支えられて発達していく。
科学は、人間の営みそのものなのだ。

けれども、今日の科学は専門家の領域に引き上げられ、一般の人々の思考からは切り離されているように見える。
多くの人が「難しいことはわからない」という。
そして、判断を専門家に任せようとする。
その結果、あまりにも悲惨な現実が地球上に広がったのではないだろうか。
原発も、武器開発も、薬害も、農業問題も、すべては「専門家」の研究から発生している。

私がシュタイナーから理解したのは、精神科学とは、
自然科学から切り離された、人間の素朴な感情、意欲、直観を「研究」に活かすということだ。
それは科学における“隠された”領域、すなわち「隠された科学」である。
「庶民の知恵」といってもよいのだが、
私はこれまでの科学/知のありように、男女の不平等や、
子どもという存在への軽視といった要素も働いていることに自覚的でありたいと思う。

私がかかわる保育や幼児教育の領域は、通常の“科学”からは遠いところにある。
けれど、文科省によって幼稚園が学校制度の基礎に据えられているように、
幼児教育は今日、大学などの研究機関で行われる研究のありように責任があると思う。

現代の科学から切り離された知性とは、
子どもたちが無心に世界と出会うときに働く「知覚の力」である。
おそらくは男性よりも女性のほうがその力を保持し、
男たちがつくりあげた社会の偏りや硬直性に疑問を投げかけてきた。
この“知性”はこれまで貶められて、「男たちの思考」から切り離されてきた。
だから、その部分をあえて「おんなこどもの知性」と呼んで復権を図りたいのだ。
そして、それを訴えていくのは、何よりも保育園や幼稚園にかかわる者たちの仕事なのではないか、と思う。

現在の学問には、当然のように「ヒエラルキー」がある。
《おんなこどもの知性》への軽視は、すでに教育制度を通して準備されていく。
今日の学校教育は、上に行くにつれて高度に、高尚になっていくとされる。
いわゆる学歴社会は、実は《おんなこどもの知性》を抑圧する社会である。

だから、教育制度の始まりに位置する幼児教育、保育の中から、
人間の知の変革への呼びかけがなされなければならない、と思う。
幼児教育のなかから、《おんなこどもの知性》を尊重する知のあり方を提案していきたいと思うのだ。

子どもたちには「目に見えないもの」への畏敬がある。
昔話をはじめ、さまざまな精霊たちの世界が広がっている。
私が先に述べた「死者との共同作業」は、
子どもたちの関わりのなかでこそ、もっとも実践的に行うことができると考えている。

私の“隠された科学”では、
一人ひとりの想像、交感、直観が、
具体的な「知の方法論」になる。

教養や経歴にかかわりなく、
それぞれの人生を生きているすべての個人が実践できるのが「隠された科学」だ。
そこに働く「おんなこどもの知性」が、今日の科学と対等に結びつくとき、
シュタイナーが目指した本来のアントロポゾフィー(人間の知恵)の姿も、
本来の全体としての人間知性として現れてくるのではないか、と思っている。

私は、自分なりにその道を探っていきたい。