ようやく自分の活動の軸を確認できた。
それは死者との連帯、死者との共闘ということだ。
これまでも何度も口に出して言ってきたことだ。でも、本当にそれをこの世における私の活動の、絶対的な基盤にしようと思う。
今日、国会では「安保法制」の審議が始まる。一見、一般の人々がそこに影響を及ぼす余地はないように見える。でも、この審議を見守る私たちが死者とのつながりを強く意識するのとしないのとでは大きな違いがあると思う。
なぜなら、集団的自衛権の発想も、核エネルギーの追求も、徹底して「生者の論理」だからだ。
シュタイナーは、現代を覆う「唯物主義」に警鐘を鳴らしたが、この言葉だけでは問題の本質を捉えにくい。彼のいう唯物主義とは生者の論理のことだ。それは世界観であり、価値観である。
日本の政治家のなかには、神社に参拝したり、禅寺で修行したりする人たちもいる。米国の大統領には、戦争を始める前に牧師を呼んで神に祈る人もいる。一見「宗教的」に見えたとしても、今の政治や経済の中心にいる人々の多くは、その根底に「唯物主義」を抱えている。彼らは、自分の見えているところにしか価値を置かず、自分たちの「現世利益」のために先祖を利用し、負の遺産を子孫に押しつける。
他方で、たとえ「霊など信じない」という人でも、子孫が生きる地球のことを考えられるのであれば、唯物主義とはいえない。
そういう人は大抵、すでにこの世を去った人々のことも敬意をもって思い返したりする。
今、必要なのは、主義や世界観とはかかわりなく、子どもたちの未来を考え、死者たちの尊厳を感じられる人々が、精神において連帯することだと思う。
そのためには、自分が唯物主義ではないこと、実は「霊的なもの」に価値を置いていることを、自分自身に対して認めることが必要だ。
しかし、そこに大きな抵抗を感じる人が少なくない。霊的なものを認めてしまうと、何か怪しげなものに絡みとられるように感じるのだろう。自分の頭で考える自由を手放すように思うのかもしれない。
けれど、彼らが「武力行使」に反対するのは、国家の「自衛」の名のもとに傷つけられる人々、名もなき人々のことを想像できるからだろう。日本国憲法の改変に抵抗を感じるのは、今はすでにこの世を去った人々がどんな思いで戦争に駆り出され、無残に傷つき、生命を奪われ、その後どんな思いで平和な社会をつくろうと心に誓ったか、その思いを大切に受け止めることができるからだろう。
彼らをつなぐのは想像力だ。
それは見えないものを見る力であり、見えないものを大切にする価値観である。
そのことを自覚したなら、以下のような考えに到ることは難しくないはずだ。
私が想像できることは、私にとって現実である。だから、未来の子どもたちが苦しむと思えば、そうならないように「現在」の私が努力する。
同じように、「過去」の人々も、彼らにとっての「未来」の子どもたちのために平和を築こうと努力した。今、私たちは「現在」から彼らを振り返り、彼らの思いを受け止める。あるいは苦しみのなかで死んでいった人々の無念を受け止めようとする。
未来の子どもたちも、死者となった過去の人々も、現在の私たちの想像のなかで生きている。
彼らは、今はこの世に存在しないが、私の想像力が彼らを私のなかで現実にしている。
そして、今、現在、この地球上で、私から遠く隔たれたところに生きている人たちも、私の目に見えないという点では、過去や未来の人々と変わらない。報道が伝えてくれる彼らの状況を知ることで、私たちは彼らの生活や思いを想像する。
想像力は、時間と空間による隔たりを乗り越える力だ。想像力だけが、本当の意味で、人と人を結びつける。
そのように言えば、反論されるかもしれない。
今、空間を隔てて遠方に生きている人々は「客観的」に実在しているが、「死者」や「未来の子どもたち」は私たちの心の中に「主観的」に存在しているにすぎない、と。
それこそが乗り越えるべき唯物主義なのだと思う。たとえ客観的に実在していたとしても、もし私が遠方に生きる人々のことを知らず、関心も寄せなければ、彼らは私にとって存在しないも同然である。
少なくとも私にとっては、誰かが「実在」するかどうかを決定するのは、私自身である。私にとっては、死者の実在も、未来の子どもたちの実在も、現在に生きる誰かの実在も、私自身が認めることで成立するという点において、同じである。
私が想像力を働かせることができるのは、私が「私」として生きているからだ。死者たちもかつては彼らの人生の主人公として、一人ひとりの「私」として生きていた。未来の子どもたちも、それぞれがかけがえのない「私」として生きることだろう。そして、現在も、私に見えないところで、無数の人々がそれぞれの人生の主人公として生きている。
私は「私」だから、彼らの思いを想像できる。でも、そのためには彼らの存在を知らされなければならない。危険な地域の報道を「自分勝手」だといって規制しようとする人たちは、「人間が想像することの価値」を否定している。その根底には唯物主義があり、彼らが集団的自衛権や原発を推し進めようとしている人たちと同一なのは理にかなっている。
「霊的なもの」に価値を置くということは、一人ひとりが想像することの価値を認めるということだ。死んだ人も、今生きている人も、これから生まれてくる人も、みな「私」なのだ。
想像力のなかに本来の主体性がある。他者に対して想像力を働かせるとき、私は「私」を支え、力づける。想像力とは霊的な力である。
想像力において、私は死者たちと、まだ見ぬ人々と、まだこの地上に生まれてきていない存在たちと連帯し、力を合わせることができる。
今の日本の危険きわまりない状況において、私はこのことをストレートに訴えていきたい。私たちが政治を見守ることには意味がある。過去を生きた人々の努力を知り、未来に生きる子どもたちの状況を思い描きつつ、時間と空間を超えた人々とのつながりを意識しよう。
何よりも、この自分こそが、私にとって最も身近な「私」なのだから、
「私なんかが考えたって何も変わらない」と言うのではなく、
まずは私が知ること、私が想像することを大切にしよう。
そこから「死者との連帯」は始まる。
ただ、この「死者との連帯」は一人ひとりの心のなかで育んでいくのがいいだろう。宗教運動を目指すつもりはない。各自がそれぞれの仕方で霊的なものに向き合えばよいと思う。
それが今の私の「希望」である。いたるところに「私」がいる。国会の政治家たちも「私」である。一般の私たちが、それぞれの生活のなかで想像力を働かせることで、「私」というチャンネルを通して、死者たちの、そして未来の子どもたちの思いが現在に流れ込むこと。
今は、そこに賭けたいと思う。
それは死者との連帯、死者との共闘ということだ。
これまでも何度も口に出して言ってきたことだ。でも、本当にそれをこの世における私の活動の、絶対的な基盤にしようと思う。
今日、国会では「安保法制」の審議が始まる。一見、一般の人々がそこに影響を及ぼす余地はないように見える。でも、この審議を見守る私たちが死者とのつながりを強く意識するのとしないのとでは大きな違いがあると思う。
なぜなら、集団的自衛権の発想も、核エネルギーの追求も、徹底して「生者の論理」だからだ。
シュタイナーは、現代を覆う「唯物主義」に警鐘を鳴らしたが、この言葉だけでは問題の本質を捉えにくい。彼のいう唯物主義とは生者の論理のことだ。それは世界観であり、価値観である。
日本の政治家のなかには、神社に参拝したり、禅寺で修行したりする人たちもいる。米国の大統領には、戦争を始める前に牧師を呼んで神に祈る人もいる。一見「宗教的」に見えたとしても、今の政治や経済の中心にいる人々の多くは、その根底に「唯物主義」を抱えている。彼らは、自分の見えているところにしか価値を置かず、自分たちの「現世利益」のために先祖を利用し、負の遺産を子孫に押しつける。
他方で、たとえ「霊など信じない」という人でも、子孫が生きる地球のことを考えられるのであれば、唯物主義とはいえない。
そういう人は大抵、すでにこの世を去った人々のことも敬意をもって思い返したりする。
今、必要なのは、主義や世界観とはかかわりなく、子どもたちの未来を考え、死者たちの尊厳を感じられる人々が、精神において連帯することだと思う。
そのためには、自分が唯物主義ではないこと、実は「霊的なもの」に価値を置いていることを、自分自身に対して認めることが必要だ。
しかし、そこに大きな抵抗を感じる人が少なくない。霊的なものを認めてしまうと、何か怪しげなものに絡みとられるように感じるのだろう。自分の頭で考える自由を手放すように思うのかもしれない。
けれど、彼らが「武力行使」に反対するのは、国家の「自衛」の名のもとに傷つけられる人々、名もなき人々のことを想像できるからだろう。日本国憲法の改変に抵抗を感じるのは、今はすでにこの世を去った人々がどんな思いで戦争に駆り出され、無残に傷つき、生命を奪われ、その後どんな思いで平和な社会をつくろうと心に誓ったか、その思いを大切に受け止めることができるからだろう。
彼らをつなぐのは想像力だ。
それは見えないものを見る力であり、見えないものを大切にする価値観である。
そのことを自覚したなら、以下のような考えに到ることは難しくないはずだ。
私が想像できることは、私にとって現実である。だから、未来の子どもたちが苦しむと思えば、そうならないように「現在」の私が努力する。
同じように、「過去」の人々も、彼らにとっての「未来」の子どもたちのために平和を築こうと努力した。今、私たちは「現在」から彼らを振り返り、彼らの思いを受け止める。あるいは苦しみのなかで死んでいった人々の無念を受け止めようとする。
未来の子どもたちも、死者となった過去の人々も、現在の私たちの想像のなかで生きている。
彼らは、今はこの世に存在しないが、私の想像力が彼らを私のなかで現実にしている。
そして、今、現在、この地球上で、私から遠く隔たれたところに生きている人たちも、私の目に見えないという点では、過去や未来の人々と変わらない。報道が伝えてくれる彼らの状況を知ることで、私たちは彼らの生活や思いを想像する。
想像力は、時間と空間による隔たりを乗り越える力だ。想像力だけが、本当の意味で、人と人を結びつける。
そのように言えば、反論されるかもしれない。
今、空間を隔てて遠方に生きている人々は「客観的」に実在しているが、「死者」や「未来の子どもたち」は私たちの心の中に「主観的」に存在しているにすぎない、と。
それこそが乗り越えるべき唯物主義なのだと思う。たとえ客観的に実在していたとしても、もし私が遠方に生きる人々のことを知らず、関心も寄せなければ、彼らは私にとって存在しないも同然である。
少なくとも私にとっては、誰かが「実在」するかどうかを決定するのは、私自身である。私にとっては、死者の実在も、未来の子どもたちの実在も、現在に生きる誰かの実在も、私自身が認めることで成立するという点において、同じである。
私が想像力を働かせることができるのは、私が「私」として生きているからだ。死者たちもかつては彼らの人生の主人公として、一人ひとりの「私」として生きていた。未来の子どもたちも、それぞれがかけがえのない「私」として生きることだろう。そして、現在も、私に見えないところで、無数の人々がそれぞれの人生の主人公として生きている。
私は「私」だから、彼らの思いを想像できる。でも、そのためには彼らの存在を知らされなければならない。危険な地域の報道を「自分勝手」だといって規制しようとする人たちは、「人間が想像することの価値」を否定している。その根底には唯物主義があり、彼らが集団的自衛権や原発を推し進めようとしている人たちと同一なのは理にかなっている。
「霊的なもの」に価値を置くということは、一人ひとりが想像することの価値を認めるということだ。死んだ人も、今生きている人も、これから生まれてくる人も、みな「私」なのだ。
想像力のなかに本来の主体性がある。他者に対して想像力を働かせるとき、私は「私」を支え、力づける。想像力とは霊的な力である。
想像力において、私は死者たちと、まだ見ぬ人々と、まだこの地上に生まれてきていない存在たちと連帯し、力を合わせることができる。
今の日本の危険きわまりない状況において、私はこのことをストレートに訴えていきたい。私たちが政治を見守ることには意味がある。過去を生きた人々の努力を知り、未来に生きる子どもたちの状況を思い描きつつ、時間と空間を超えた人々とのつながりを意識しよう。
何よりも、この自分こそが、私にとって最も身近な「私」なのだから、
「私なんかが考えたって何も変わらない」と言うのではなく、
まずは私が知ること、私が想像することを大切にしよう。
そこから「死者との連帯」は始まる。
ただ、この「死者との連帯」は一人ひとりの心のなかで育んでいくのがいいだろう。宗教運動を目指すつもりはない。各自がそれぞれの仕方で霊的なものに向き合えばよいと思う。
それが今の私の「希望」である。いたるところに「私」がいる。国会の政治家たちも「私」である。一般の私たちが、それぞれの生活のなかで想像力を働かせることで、「私」というチャンネルを通して、死者たちの、そして未来の子どもたちの思いが現在に流れ込むこと。
今は、そこに賭けたいと思う。