風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

死者との連帯

2015-05-26 07:44:04 | 隠された科学
ようやく自分の活動の軸を確認できた。
それは死者との連帯、死者との共闘ということだ。
これまでも何度も口に出して言ってきたことだ。でも、本当にそれをこの世における私の活動の、絶対的な基盤にしようと思う。

今日、国会では「安保法制」の審議が始まる。一見、一般の人々がそこに影響を及ぼす余地はないように見える。でも、この審議を見守る私たちが死者とのつながりを強く意識するのとしないのとでは大きな違いがあると思う。

なぜなら、集団的自衛権の発想も、核エネルギーの追求も、徹底して「生者の論理」だからだ。
シュタイナーは、現代を覆う「唯物主義」に警鐘を鳴らしたが、この言葉だけでは問題の本質を捉えにくい。彼のいう唯物主義とは生者の論理のことだ。それは世界観であり、価値観である。

日本の政治家のなかには、神社に参拝したり、禅寺で修行したりする人たちもいる。米国の大統領には、戦争を始める前に牧師を呼んで神に祈る人もいる。一見「宗教的」に見えたとしても、今の政治や経済の中心にいる人々の多くは、その根底に「唯物主義」を抱えている。彼らは、自分の見えているところにしか価値を置かず、自分たちの「現世利益」のために先祖を利用し、負の遺産を子孫に押しつける。

他方で、たとえ「霊など信じない」という人でも、子孫が生きる地球のことを考えられるのであれば、唯物主義とはいえない。
そういう人は大抵、すでにこの世を去った人々のことも敬意をもって思い返したりする。

今、必要なのは、主義や世界観とはかかわりなく、子どもたちの未来を考え、死者たちの尊厳を感じられる人々が、精神において連帯することだと思う。
そのためには、自分が唯物主義ではないこと、実は「霊的なもの」に価値を置いていることを、自分自身に対して認めることが必要だ。

しかし、そこに大きな抵抗を感じる人が少なくない。霊的なものを認めてしまうと、何か怪しげなものに絡みとられるように感じるのだろう。自分の頭で考える自由を手放すように思うのかもしれない。

けれど、彼らが「武力行使」に反対するのは、国家の「自衛」の名のもとに傷つけられる人々、名もなき人々のことを想像できるからだろう。日本国憲法の改変に抵抗を感じるのは、今はすでにこの世を去った人々がどんな思いで戦争に駆り出され、無残に傷つき、生命を奪われ、その後どんな思いで平和な社会をつくろうと心に誓ったか、その思いを大切に受け止めることができるからだろう。

彼らをつなぐのは想像力だ。
それは見えないものを見る力であり、見えないものを大切にする価値観である。

そのことを自覚したなら、以下のような考えに到ることは難しくないはずだ。

私が想像できることは、私にとって現実である。だから、未来の子どもたちが苦しむと思えば、そうならないように「現在」の私が努力する。
同じように、「過去」の人々も、彼らにとっての「未来」の子どもたちのために平和を築こうと努力した。今、私たちは「現在」から彼らを振り返り、彼らの思いを受け止める。あるいは苦しみのなかで死んでいった人々の無念を受け止めようとする。
未来の子どもたちも、死者となった過去の人々も、現在の私たちの想像のなかで生きている。

彼らは、今はこの世に存在しないが、私の想像力が彼らを私のなかで現実にしている。

そして、今、現在、この地球上で、私から遠く隔たれたところに生きている人たちも、私の目に見えないという点では、過去や未来の人々と変わらない。報道が伝えてくれる彼らの状況を知ることで、私たちは彼らの生活や思いを想像する。

想像力は、時間と空間による隔たりを乗り越える力だ。想像力だけが、本当の意味で、人と人を結びつける。

そのように言えば、反論されるかもしれない。
今、空間を隔てて遠方に生きている人々は「客観的」に実在しているが、「死者」や「未来の子どもたち」は私たちの心の中に「主観的」に存在しているにすぎない、と。

それこそが乗り越えるべき唯物主義なのだと思う。たとえ客観的に実在していたとしても、もし私が遠方に生きる人々のことを知らず、関心も寄せなければ、彼らは私にとって存在しないも同然である。

少なくとも私にとっては、誰かが「実在」するかどうかを決定するのは、私自身である。私にとっては、死者の実在も、未来の子どもたちの実在も、現在に生きる誰かの実在も、私自身が認めることで成立するという点において、同じである。

私が想像力を働かせることができるのは、私が「私」として生きているからだ。死者たちもかつては彼らの人生の主人公として、一人ひとりの「私」として生きていた。未来の子どもたちも、それぞれがかけがえのない「私」として生きることだろう。そして、現在も、私に見えないところで、無数の人々がそれぞれの人生の主人公として生きている。

私は「私」だから、彼らの思いを想像できる。でも、そのためには彼らの存在を知らされなければならない。危険な地域の報道を「自分勝手」だといって規制しようとする人たちは、「人間が想像することの価値」を否定している。その根底には唯物主義があり、彼らが集団的自衛権や原発を推し進めようとしている人たちと同一なのは理にかなっている。

「霊的なもの」に価値を置くということは、一人ひとりが想像することの価値を認めるということだ。死んだ人も、今生きている人も、これから生まれてくる人も、みな「私」なのだ。

想像力のなかに本来の主体性がある。他者に対して想像力を働かせるとき、私は「私」を支え、力づける。想像力とは霊的な力である。

想像力において、私は死者たちと、まだ見ぬ人々と、まだこの地上に生まれてきていない存在たちと連帯し、力を合わせることができる。

今の日本の危険きわまりない状況において、私はこのことをストレートに訴えていきたい。私たちが政治を見守ることには意味がある。過去を生きた人々の努力を知り、未来に生きる子どもたちの状況を思い描きつつ、時間と空間を超えた人々とのつながりを意識しよう。

何よりも、この自分こそが、私にとって最も身近な「私」なのだから、
「私なんかが考えたって何も変わらない」と言うのではなく、
まずは私が知ること、私が想像することを大切にしよう。

そこから「死者との連帯」は始まる。

ただ、この「死者との連帯」は一人ひとりの心のなかで育んでいくのがいいだろう。宗教運動を目指すつもりはない。各自がそれぞれの仕方で霊的なものに向き合えばよいと思う。

それが今の私の「希望」である。いたるところに「私」がいる。国会の政治家たちも「私」である。一般の私たちが、それぞれの生活のなかで想像力を働かせることで、「私」というチャンネルを通して、死者たちの、そして未来の子どもたちの思いが現在に流れ込むこと。

今は、そこに賭けたいと思う。








日本人の霊性と心情

2015-05-22 08:12:34 | 隠された科学
昨日公表された「人質事件」に関する政府の検証委員会の報告ー
「政府の判断や措置に人質の救出の可能性を損ねるような誤りがあったとは言えない」
この結論は予想通りのものではあったけれど、やはりやりきれなさが募る。

外務省のホームページで、安倍首相が今年1月17日にカイロで行った演説の内容を、
日本語と英語で読んでみた。

「イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、
ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。
地道な人道開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、
総額で2億ドル程度、支援をお約束します。」

検証委員会の報告書では、
「スピーチの表現に問題はなかった」としているが、
どう見ても、ISIL(イスラム国)を名指しした安倍首相の言葉は、
日本が彼らと敵対関係に入ることを宣言しているとしか受け取れない。

しかし、今回、私の印象に残ったのは、
スピーチ全体のなかで、この2行が少し浮いているように感じられたことだ。

首相の演説は、日エジプト経済合同委員会で行われたものだ。
日本の新たな中東政策では、2年前から、
アラブ語で「タアーイシュ(共生と共栄)」、「タアーウヌ(協働)」、
「タサームフ(平和と寛容)」を主導理念としてきたという。
そして、今回は、「ハイルル・ウムーリ・アウサトハー(中庸が最善)」という理念に注目したい、と述べている。
「伝統を大切にし、中庸を重んじる点で、日本と中東には、生き方の根本に脈々と通じるものがあります」という。

中東への支援や経済協力をうたうこの演説のなかで、
上記の「ISILと闘う周辺各国への支援」という表現は、
全体を貫く「中庸が最善」という趣旨に合致しないように感じられる。

THE NEWCLASSICというニュースサイトで知ったのだが、
アメリカのVICEニュースは、2月6日の記事で、
日本の外務省高官の匿名の証言として、
・当初外務省が用意した原稿に、安倍首相が上記のISILに関わる内容を追加した、
と書いている。

それが事実かどうかはわからないが、
少なくともこのスピーチの思考過程からは、「ISILと闘う諸国への支援」という発想は逸脱している。

またこの記事では、警察庁関係者の匿名証言として、
・日本のテロ対策本部がトルコではなく、ヨルダンに置かれた背景に、トルコへの原発輸出が妨げられることへの懸念があった、
という可能性にも言及している。

検証委員会が本当に検証すべきだったのは、
人質事件への政府の対応のなかに働く「思考」ではなかったか。
日本の外交にも、それを貫く「思考」がある。
そして、日本の「精神」(霊性)はそうした思考のなかに現れる。

しかし、今、日本の思考は特定の人々の気分や感情に支配されているように見える。
安倍首相のカイロ演説に関していえば、
そこでは「平和と寛容」「中庸」という文脈のなかに、
「ISILとの闘い」という別の思惑が気まぐれのように挿入されている。

もし上記の警察庁関係者の証言が事実であるとすれば、
人質救出のための戦略(思考)のなかに、原発輸出という経済的利害が入り込んでいる。

首相のアメリカ議会での演説は、谷口智彦氏というスピーチライターが書いたらしいが、
このカイロ演説にもおそらく外務省のスピーチライターがいたのだろう。
そこには彼/彼らの思考が流れている。そこには一貫性があったはずだ。
おそらく今、人質事件の経緯に対して、
この演説を準備した人(々)はきわめて辛い思いをしているのではないだろうか。

思考は、事実に即して、論理的に展開しなければならない。
そのとき初めて、思考はすべての人が跡づけることができる普遍性をもつ。
他方で、感情や心情は、どこまでも個人のものだ。
愛国心や故郷への思いは、他人に押しつけるべきものではなく、
一人ひとりが自分の内面で育んでいけばいい。

日本国憲法は押し付けだというが、
そこに記述されているのは普遍的な理念や思考なのだから、
それが理解でき、納得できることであれば、誰でも受け入れられるだろう。
誰が書いたかは本質的な問題ではない。

問題は、本来は個人の領域に属する心情を、
普遍的な領域であるはずの法律や憲法のなかに持ち込むことである。
あるいは、冷徹に戦略を練るべき場面で、
特定の人々の利害や思惑が入り込むことである。
それでは、外交も、人質の救出も成功しないだろう。

今、日本の霊性は、特定の人々の趣味と偏りに侵食されている。
原発問題にしても、いわゆる御用学者の問題は、
科学者という思考のエキスパートであるべき人々が、思考以外の要素によって動かされていることだ。

現在の本当に危機的な状況のなかで、
一人ひとりにできることは、自分の内面において霊性と心情を見極めることだと思う。
霊性とはすべての人間にかかわることだ。
心情とはどこまでも個人の領域である。

その区別ができたとき、
心情に裏打ちされた思考、暖かい思考というものが可能になるだろう。
それは、思考に血液を通わせることだともいえる。

反対に、思考が心情に支配されれば、
それは「熱に浮かされた思考」となり、
他の人々の思考と心情を抑圧する。

それが行き着く先は戦争だ。
戦争で攻撃されるのは、何よりも自国民、民族の霊性なのである。