風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

《魔》と民族

2013-05-31 10:34:47 | アントロポゾフィー
最近、「デモーニッシュなもの」について改めて考えている。
日本語にすれば、《魔》とでもいうのだろうか。
原発事故を起こした国が、原発を輸出するという思考回路。
憲法改変、中国や韓国との緊張、徴兵制への流れ。
そこにはすでにある種の「動き」が発生している感がある。
その動きはある時点で自律的な生命をもち、
人々を呑み込み、政治家の感情を高ぶらせ、「失言」を誘い、
いつのまにか、国全体の運命を決めてしまう。
このままでは、戦争は起こるかもしれない、と本当に思う。

以前、歴史家マイネッケの『国家理性の理念』という本を読んだとき、
ぼくは、国家における「デモーニッシュなもの」という表現に触れて、
国家という目にみえないシステムが意志をもち、
個人を呑み込んでいく恐怖を感じた。
国家をつくりあげているのは国民のはずなのに、
なぜその国家が独自の意志をもち、
国民を抑圧したり、戦争を始めたりできるのか?
国家とは、一握りの政治家や役人のことなのか?
それとも、実際に神や悪魔のような、
目に見えない意志が国家には宿っているのか?

その当時、1999年、ちょうど日本で周辺事態法が成立した頃、
ぼくは「個の不在」という言葉を考えた。
《魔》というのは、実は、人間の意志ではなく、
個人が自己を放棄してしまったとき、
その自己の《不在》そのものが、
魔的な《力》として働き始めるのではないか?

よくダムや人工島建設など、公共事業が動き出すと、
どんなに理性的な批判をしたり、署名を集めたりしても、
もはやそれを止めることができなくなる、という。
その最たるものが戦争だろう。
そこには利権がからみ、特定の企業や集団の思惑が働いている。
しかし、そこに与する政治家たちを選んだのは国民なのだ。
かつてヒトラーが正当な選挙によって権力の座についたように。

個人が無関心やあきらめから、自分の意志を放棄したとき、
その《不在》が《デモーニッシュな力》として働き始める。
そうだとすれば、《個の不在》に対して戦うためには、
《個の実在》を強めていくしかない。

第一次世界大戦の当時、
シュタイナーは《民族魂としての自己認識》を人々に求めた。
民族意識を高めようとしたわけではない。
むしろ民族主義に陥ることを避けるために、
そういうことを言ったのだ。
そこでいう《魂》とは、感情や感覚の働きをいう。
人々が民族への帰属意識を持つとき、それはもっぱら感情である。
自分には、民族に対するさしたる感情はない、という人もいるだろう。
民族に対する強い思いを持っている人もいるだろう。
けれど、同じ歴史を共有し、同じ言語を語るなかで、
人々は意識的、無意識的にかかわらず、
民族的な感情に浸って生きている。
そのことに自覚的でないかぎり、
ふとした弾みで、民族的感情が噴出し、
個人の感情を呑み込み、押し流すことがある。
そのことを認識することから、
民族を思考し、民族の意志を問う作業が始まる。
そのとき初めて、民族としての責任が自覚される。

感情に浸っているかぎりは、
本当に民族の運命を考えることはできない。
現在、日本や韓国や中国をめぐって、感情だけが渦巻いている。
自分のなかの、民族としての感情に気づくところから、
個人としての思考、感情、意志を、
全体的な感情の渦から切り離すことができる。
それは《個の実在》を強める前提条件である。

民族には関心がない、と言うこともまた、
実は、個人性の放棄につながる。
デモーニッシュなものが民族の感情を支配し、
あたかも「国家意志」であるかのような顔をして
自律的に動き出すことを許しているのだ。