風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

女性は軍需産業で輝くのか?

2015-07-22 16:02:37 | おんなこどもの哲学
奇妙なインタビューを見た。NHKの「スターウーマン~輝くアメリカ女性の仕事物語~」という30分番組である。米国在住の日本人ジャーナリストの女性が、映画芸術科学アカデミー会長と軍事企業のCEOである二人の女性に「成功の秘訣」や「仕事と家庭の両立」などについて聞いていくという内容だ。

奇妙に思えたのは、なぜこの日本人ジャーナリストはこの二人に注目したのか、彼女の関心の在り処がまったくわからなかったからだ。
穿った見方をすれば、これは安倍首相の「輝く女性」政策のプロパガンダではないのかと思えてくる。
この番組で強調されるのは、この二人が「女性であること」「社会的に成功していること」「仕事と家庭を両立させている」ということでしかない。
インタビューする女性の独自の見方や関心は一切見えてこない。
ゾッとするのは、二人目の「輝く女性」が軍事企業のトップであることだ。そのことを番組では臆面もなく伝えている。

この番組は、女性の社会的成功と家庭との両立を際立たせることで、個人としての女性を「輝き」の中に埋没させる。
この女性は、殺人兵器を生産する企業の責任者なのだ。そのことは「母親」であることとどう「両立」するのか? そのほうが「家庭との両立」よりもはるかに人を震撼させる重大な問題ではないのか?

三枝和子さんが『女の哲学ことはじめ』という本の中で、男は他者を否定したり打ち負かしたりすることで「自己」を確認するが、女は他者との「つながり」の中で「自己」を確認する、というようなことを書かれていた。
だとすれば、戦争は「男性的思考」の最たるものだ。そして、武器製造の指揮を執るこの女性は、実は女性性も母親性も奪われているのではないのか?

もちろん、こんな単純な物言いをすれば、実際の女性たちの失笑を買うかもしれない。けれども、世の中から「人間性」がますます失われゆく現在、私には、本来の女性性や母親性の中にこそ、未来につながる可能性があると思えてならない。
そして、そこでの女性性や母親性とは、相手が子どもであれ、パートナーであれ、個人をあるがままに受けとめ、尊重する能力の中にある、と私は思っている。

しかし、安倍首相の「輝く女性」は、女性を応援する言葉ではなく、男性的思考のために利用することでしかない。
この番組のジャーナリストが、自分自身の視点を持たず、おそらくは与えられた「成功の秘訣」「家庭との両立」という関心からしか考えられていないように、そこでの女性は個人ではなく、「女性一般」でしかないのだ。

その先には軍需産業の肯定、戦争の肯定がある。

落とし穴は、「女性が輝く社会」という時の「輝き」という言葉にあると思う。
そこでの「輝き」は「社会で仕事をしている」ことだ。しかし、本来、すべての人が個人として輝いている。社会に求められるのは「輝かせる」ことではなく、一人ひとりの個人の輝きを認めて尊重することだろう。

外からスポットライトを当てるのではない。母親や保育者が一人ひとりの子どもの個性を受けとめるように、すべての個人のかけがえのなさを認め、その生命を保障することだ。それが日本国憲法の核心だろう。

戦争は個人を否定し、生命の火を破壊する。戦争に突き進む社会、軍需産業を肯定する社会が放つ「輝き」は、無数の個人の犠牲によって灯された妖艶なる光だ。そこには原子力の灯火につながる力が働いている。
そこに個人の自己を埋没させてはならない。個人の光を認め、内なる輝きを対置させていかなければならない。




Patti Smith & 自由の哲学

2013-01-25 15:31:38 | おんなこどもの哲学

前回、今井重孝さんの「自由の哲学入門」について書いたが、
この本を読みながら、久しぶりにシュタイナーの自由論に触れながら考えたことが、
その後に行ったパティ・スミスのコンサートで感じたことと不思議に重なった。

シュタイナーの『自由の哲学』は、ぼくにとっても、
最も大切な本の一冊である。
30代の半ばに、市立図書館に通い、
哲学辞典を引きながら、ドイツ語で少しずつ読み進めていた頃を思い出す。
シュタイナーを読むたびに、ぼくはその新しさに驚いていた。
自分の外に一切の外的規範を認めず、
ひたすら「個」としての自分のなかに行為への根拠を見出そうとしたシュタイナーは、
最終的に、善悪の判断でも、思想でも理念でもなく、
「行為への愛」だけがすべてだと語る。
「私が何かをなすのは、私がその行為を愛しているからにほかならない」と。
(初版では、「その行為に恋している verliebt sein」という表現だった。)

そして、きわめて過激なのは、
そうやってなされた自分の行為が「世界秩序」から見て善なのか、悪なのかは、
後になって初めてわかる、と言い切っていることだ。
行為をなす前に、それが善につながるのか、悪につながるのかといった判断でさえも退け、
自分がその行為を愛しているかどうかだけを唯一の基準とするシュタイナーの考え方は、
当時のぼくには、危険な香りがするほど反権威的で、
「アントロポゾフィーって、ロックだなあ」と心底、思ったものだ。

ただ、今回、今井さんの本を読みながら、改めて思ったのは、
それは、シュタイナー自身が自分の代表作とみなしていたこの「自由の哲学」という本は、
「西洋の『神』との対決のなかから、格闘するように獲得された思想」なのだ、ということだった。

先の「世界秩序」という言葉にしても、要するに、
唯一絶対なる神がもたらす秩序のことだ。
西洋には、この世界(宇宙)はそのように神の叡智によって秩序づけられている、
という感覚が息づいている。
しかし、その神の叡智による秩序も、人間の内面に取り込まれると、
善悪の判断基準として、あるいは、
「人として、どのように振る舞えば 、神の秩序を乱すことなく、世界進化に寄与できるのか?」
という問いとなり、
「理性」や「良心の声」となって、道徳的に人間を縛ることになる。

ニーチェの『善悪の彼岸』も、
その同時代を生きたシュタイナーの『自由の哲学』も、
理性や社会規範に姿を変えつつ人間を縛り続けようとする「神」への、
徹底抗戦のなかから紡ぎ出された思想なのだ。

だから、シュタイナーは、生命の進化のなかにさえ、
そのような「あらかじめの理念」を見ることを拒絶した。
進化が、あらかじめ定められた何らかの目標に向かって進んでいく、
という考え方も、「自由の哲学」とは合致しない。
たとえ、それが「自由」という目標であったとしても、である。

理念は、自分と一致した行為、すなわち自分が愛する行為がなされた後に、
その振り返りのなかで見出されるにすぎない。

この世界がどこへ向かって進んでいるのか、
自分は何のために生きているのか、
それを決めるのは、人間の「外」に想定された神ではなく、
人間自身、それも一人ひとりの私である。

シュタイナーの「自由」は、神からの自由と独立。
「神智学」から「人智学」へ、
神の叡智から、人間の叡智へ。

そこにある唯一絶対なる神との対峙は、
きわめて西洋的である。
そして、シュタイナーが「キリスト」という存在を重要視した最大の理由は、
イエス・キリストこそ、
神でありながら人間になり、
人間の側に身をおいて神と対峙した、「最初の人間」だったからだ、と思う。
いわばキリストは、
人間を神の縛りから解放したのだ。

そして、パティ・スミスのコンサート。
ぼくがこの人の歌に触れたのは、10代から20代にかけてで、
彼女の生き方や考え方もだが、
一番には純粋な言葉の美しさに魅かれていたと思う。

今回のコンサートには、素直に心を揺さぶられた。
大地震と津波で命を落とした人々に捧げられた、
彼女がグレート・マウンテンと表現する富士山に呼びかける歌。
仙台を訪れたときの思いを、言葉を探り当てるように歌った歌。
愛する家族を失った人々に捧げる歌。
バンド全体が一つのフレーズをたたみかけるように奏で、
その音が次第に高まっていくとき、
「ああ、この人たちは、本当に祈っているのだ」と感じた。

彼らはひたすら聞き入っているようにも見えて、
ぼくは、リルケが祈りを描写した言葉を思い出した。
「声、声。聞け、わが心よ、かつて聖者たちが聞き入ったように…。
聞け、静寂のなかから形づくられるものを…」

リルケの詩は、神との対話のなかから生まれていると、ぼくは思うのだが、
今回、ぼくはパティ・スミスの音楽のなかに、
あるいはその祈りのような精神性のなかに、
神との対話、もしくは対峙を感じた。
そして、それもまた、きわめて西洋的と思ったのである。

パティ・スミスは「Be free!」といって客を迎えた。
そして、アンコールで「Rock n roll Nigger」と「Gloria」という
代表曲が演奏されたとき、
彼女は「あなたたちが未来だ。あなたたちが明日を決めるのだ」と言った。
原子力や核問題に触れたその言葉、
いつもなら、ただ共感し励まされていたであろう
その言葉が、今回は、
シュタイナーの「自由の哲学」の言葉のように、
神の支配から身を振りほどき、戦ってきた人の言葉に聞こえた。

そして、ぼくの内面からは、改めてどうしようもなく、
深々とした問いが湧き起こってきた。
現在、この日本を生きるぼくたちにとって、
「自由」とは何か?
なぜぼくたちの意志は、時代を逆行するまでに希薄なのか?

この問い(the same old question…)とともに聞いた
アンコールの2曲は、これまでとは違う聞き方を与えてくれた。

「ロックンロール・ニガー」は、
パティ・スミスという詩人のキリスト理解を表現したものなのだ、
と改めて思った。
Baby was a black sheep, baby was a whore...
(彼女は黒い羊、彼女は娼婦…)という言葉から始まり、
Jesus Christ was a nigger...
(イエス・キリストはニガーだった…)
という言葉を含むこの詩は、
Outside of society, that's where I want to be...
(社会の外、そこに私はいたい…)
というフレーズを繰り返す。
ニガーというのは、黒人への蔑称であり、
黒い羊は、白い羊(善人)の群れのなかで、
やましさを抱えて孤立している人のことだが、
まさにキリストとは、そういう人のことだ。
本来のキリストは社会の外に、
虐げられた者たちの中にいる。
キリスト自身が虐げられた者なのだ。

そこまで考えて、ハッとした。
このbabyは女性ではないのか?
パティ・スミスはキリストを女性として捉えたのではないのか、と。

そして、アンコール曲は「グローリア」に移行し、
有名な、
Jesus died for somebody's sins but not mine....
My sins belong to me...
(イエスは誰かの罪のために死んだけど、私の罪のためじゃない…
私の罪は私のもの…)
という言葉が唱えられた。
これまでぼくは、この言葉は、
キリストによる贖罪(罪のあがない)への拒絶だと思っていた。

しかし、今のぼくには、
パティ・スミスが歌うこのグローリアが、
新しい神、女性の神のように思えたのである。

懺悔によって罪を洗い流すのではなく、
自らの罪を自らの「所有」として抱きつつ、
進化や救済を求めることもなく、
ひたすら地上を生きようとする神、もしくは人間。

そのとき、ぼくは自分が求めている
「おんなこども」という新しい神性が、
パティ・スミスを通して、西洋の側から反射されたように感じたのだ。

いちいち断る必要もないと思うのだが、
以上はあくまでもぼく個人の解釈、受け取り方であって、
それを誰かに押しつけるつもりはない。
およそ作品というものは、
それを受け取るすべての人の解釈に開かれていると思う。
それは、シュタイナーにしても、パティ・スミスにしても、
あるいは聖書にしても、変わらない。

おそらくすべての表現活動の意味は、
それが受け手の生命に何らかの刺激を与え、
さらなる創造活動を促すことにあるのではないか。
しかし、それが誤解され、批判や破壊、憎悪につながることもある。
そこに公表するということのリスクと可能性がある。
(ここでぼくは、シュタイナーの自由大学のテキストが公開されたことを想起しているのだが、
それについては、いつか別の機会に書きたいと思う。)

ぼくは、今、希望を求めている。
人間と世界、すなわち自分自身を信じる可能性を探っている。
この日本という国の可能性を見出したいと思っている。
どうすれば、この日本に生きる人々の内側から、
本当の、ぼくたちの、私たちの「共有」の意志が現れるのか?
果たしてそんなことがありうるのか?

これは危険な発想に思われるかもしれない。
しかし、ぼくが言っているのは、個人の意志を呑み込むような、
国家意志や、一般意志のことではない。
一人ひとりが自律した個であるからこそ、
それらの個を前提として浮かび上がる、共有の意志があると思うのだ。

(生命進化が、あらかじめ定められた理念を目指して進んできたのではなく、
個々の生命活動が展開した後、そこにさまざまな意味や理念が見えてくるように、
一人ひとりがひたすら個を生きるなかで、
そこに浮かび上がる理念、結果として皆が共有していた意志というものがあると思う。
それが働くなら、人類は戦争や原発のように、生命に逆行することを志向するはずがない、
とぼくは素朴に考えている。
そして、シュタイナーという人も、そのような社会のあり方を模索した。
最初は、戦後の社会三分節化運動を通して、
次には1923年のクリスマス会議における普遍アントロポゾフィー協会の設立を通して。)

シュタイナーがなし得なかったこと、
むしろナチスの台頭によって徹底的に破壊された彼の理想を、
今、この荒涼とした日本の精神生活のなかで、
あるいは文明そのものが危機に瀕している現代において、
今、ふたたび一人ひとりの個人の生活の中で取り上げ、
破壊と崩壊へと奔流のように突き進む時代の流れを転換すること。

日本においてこそ、それは可能だとぼくは思っているし、
そこにおいてこそ、アントロポゾフィーはその本来の力を発揮するだろうと思っているのだが、
そのためには、つまり日本の内側から共有の意志が目覚めるためには、
一人ひとりが、
つまり自分に引き寄せて考えれば、ぼく自身が、
アントロポゾフィーを「外」から受け取るのではなく、
自分自身の内部にそれを見出さなければならない、と思っている。
それがぼくが「おんなこども」を求める理由なのだ。

おんなこどもにおいてこそ、
一人ひとりの意志は発動する。
それが、今のぼくが見ている、
西洋とは異なる、東洋における「キリスト」への道。
一人ひとりの個における、
西と東の統合の可能性である。

希望…、信仰…、愛…。

おんなこどもの知性

2013-01-20 15:10:46 | おんなこどもの哲学
15歳か16歳の頃、「魔術入門書」というショートストーリーを書いた。
そのとき、自分が魔術という言葉をどのように理解していたのかは定かではない。
ただ、主人公が一連の体験をした後で、老人がこのように言う。
「お前は今、お前の第三を体験した。あとは悲しみだけだが、それは誰もが体験できる第三だ。」
当時のぼくは無意識のうちに、魔術は「誰もが体験できる悲しみ」と結びついていると感じていたようだ。

最近になって、「タロット&シュタイナー講座」などで、魔術という言葉をオープンに使うようになった背景には、十代の頃の直観が働いているのかもしれない。
意識の上では、ぼくは、アメリカの魔術研究家ロナルド・タイソンが「儀式魔術」という本の冒頭で、「魔術とは、権力をもたない民衆の力だ」と定義したことに影響を受けている。

公的権力からみれば、民衆が独自に考え、独自に研究を重ねて力を蓄えていくとき、それは「いかがわしい魔術」に映る。中世の魔女裁判の時代には、病気を治したい一心で薬草を研究し、その知恵を引き継いでいった人々が、魔女や魔法使いとして処刑された。彼らは教会の神ではなく、自分自身の意志に従った。それが「悪魔」と見なされたのだ。

今日でも、この「神」は姿を変えて生きている。
学校、病院、国家など、権力をもつ組織の中には、
一般の人々を見下し、
お前たちは愚かなのだから、自分で考えたりせず、
難しいことは、専門家に任せるのが賢明だ、というメッセージが生きている。

国家権力からみれば、
市民運動は現代の魔女の群れなのかもしれない。
さらに、たちが悪いことには、
そうした市民運動のなかにさえ、権力は入り込み、
力ある人、知恵のある人に、人々を傾かせる。

だから、誤解されないことを願いつつ書くのだが、
ぼくにとって、アントロポゾフィーは魔術であり、
魔術とはアントロポゾフィーのことなのだ。

そして、その核心をぼくは「おんなこども」と呼びたい。
今、必要なのは、おんなこどもの知性だ。
生活のなかで、自分のために、子どものために、
あるいは愛する人のために、情報を求め、考えて
決断していく知性。
生活のなかの知性とでもいうのだろうか。

それはすべての人に宿っている。
ふたたびそれに触れることができれば、
それを信じることができれば、と思う。

東洋と西洋の自我

2013-01-15 08:36:56 | おんなこどもの哲学
この3日間、久しぶりに通訳の仕事をした。
ドイツ語から日本語へ、あるいは英語から日本語へ通訳するたびに思うのは、
東と西の違いである。

言語の違う人々、
生まれ育った環境が違う人々が、ひとつのテーマについて考え、
理解を共有すること、
いましきりに言われる「つながり」が、
実のところいかに困難であるか、を思い知らされる。

もちろん、昔から語られ続けている、あまりにも大きく果てしのないテーマだ。
以前、今は亡きナム・ジュン・パイク氏が行った
「バイ・バイ・キップリング」というパフォーマンスを思い出す。

思い出して検索したら、
松岡正剛氏が、パイク氏が亡くなった2006年、
「千夜一冊」に彼とのことを書かれていた。
「バイ・バイ・キップリング」は本になっているらしい。
ぼくはこの本を読んでいないのだが、
松岡正剛氏のこの時の文章に触れて、改めて80年代の自分自身の問題意識がよみがえってきた。

「東は東、西は西、ふたつが出会うことは決してない」
というキップリングに「さよなら」を言ったこのパフォーマンスは、1986年だったらしいが、
それを中継したテレビ番組を見ていて、かなりのインパクトを受けたことは覚えている。

キップリングの詩を見ると、
先のことばに続いて
「しかし、東も西も、国境も、血統も、生まれも存在しないのだ、
地の果てから来た、ふたりの強者が面と向かって立つならば」
と語っている。
この詩人は決して「東と西は分かり合えない」と宣言したのではなく、
彼の意図は、
東と西が分裂していることの意味、
さらには、この分裂をもたらしている「神の審判」の意味を問うことだったのが明らかだ。

パイク氏は、この問題意識にさよならを言ったのだろうか。

いつか、「バイ・バイ・キップリング」という本を読む機会があったら、
そのあたりを確かめてみたい。

ぼくには、現在でもなお、
人々がおたがいに分かり合えないこと、
異なる文化、民族、そして個人を隔てているものの背後には、
この「神」の問題が依然として潜んでいると思うのだ。

西洋の自我と、
東洋の自我は、明らかに異なっている。

それは自分の外に「唯一絶対なる神」を感じてきた人間が、
その神を自己の内に取り込んで生み出した個人主義と、その孤独。

そこを通過せずに、現代を生きつつ、
べつの形で自我を形成してきた人々との違いにも見える。

ぼくにとって、「おんなこども」は、
東洋における、そして日本における「自我」の問題と直結している。












The show must go on...

2013-01-08 12:09:42 | おんなこどもの哲学
ぼくはこのタイトルのクイーンの歌が好きで、
今日もYouTubeに誰かが上げてくれたベジャールのBallet for Lifeのこの曲に触れてなぜか涙した。
ただ、一番好きなのは、最後に舞台に出てくるベジャールの表情かもしれないと思う。

フレディ・マーキュリーとジョルジュ・ドンに捧げてこの作品を創ったベジャールも、
今は境域の向こう側にいる。

ぼくたちはこの地球を無数の死者たちから受け継ぎ、次の世代に委ねて去っていく。
何のために私たちは生きているのか、という言葉でこの歌は始まるけれど、
実のところ、誰にもわからないのだ。
今は、その問いだけが日に日に重みを増して迫ってくる。

たしかなことは、
ぼくたちが生きている以上、そこには生きようとする意志があり、
その意志が、まるで地球そのものの意志のように、
人間の果てしない過ちと試みと悲しみと喜びを担って、どこかを目指していること。

最近、自分の意志を奮い立たせようとして、
ふたたびシュタイナーの「一般人間学」を読んでいる。
そして確信した。
シュタイナーにとって、教育は科学と芸術と宗教を統合し、
一人ひとりの子どものなかの「神的・霊的なもの」をまえに築かれる祭壇であったが、
それは現在の日本語でいえば「おんなこども」なのだと。

おんなこどもは、ぼくにとって新しい神の名だ。
一人ひとりの人間のなかで、地上を生きる神。
一昔前まで、「おんなこどもの出る幕じゃない」といって背後に退けられていた存在、
それが今、個人のなかで認められ、現れ出なければならない。

シュタイナーはそれを「新しいイシス・ソフィア」と呼んだり、
キリストと言ったり、「十字架のうえに眠る幼子」と言ったりした。

個人としてのぼくは、それを「おんなこども」と名づけ、
何度でもそのまえにひざまずき、呼びかけていきたい。

今、ぼくもまた、無数の生者と死者たちとともに、
一人ひとりの個人のなかの、
新しい神の目覚めを待つものである。



フランクフルト空港のラウンジにて

2012-09-13 15:26:43 | おんなこどもの哲学
ぼくはブログの更新が得意ではないようだ。
前回、しばらく更新を続けますと言ってから、すでに1年以上が過ぎている。
この間に、ぼくの人生のなかでも大きな変化があった。
自分のなかで変わりゆくもの、過ぎ去るもの、そして変わらぬもの。
そこに目を向けようとするとき、
今、ぼくのなかでは「おんなこどもの哲学」というのが、重要なキーワードになっている。
もう1つのキーワードは、「子ども時代の社会論」。

ちなみに、ぼくは今、フランクフルト空港のラウンジでこれを書いている。
これから飛行機を乗り継ぎ、バーゼル近郊のドルナッハという場所で行われる「ゲーテアヌム医学セクション年次会議」に向かう。そこに参加する日本の医師や医療関係者に通訳として同行している。

アントロポゾフィーの基本に「おんなこども」がある、と言っても、簡単には理解してもらえないだろう。
そのことをこれから書いていきたい。
ずっと以前、ぼくは「個別の私」と「普遍の私」ということを言っていた。
個と普遍の一致こそ、アントロポゾフィーの中心思想であると。

ぼくにとって、「おんなこども」は徹底して個の原理であり、ひたすら個人の基盤として働く。
そして、「子ども時代」は徹底して普遍の原理であり、ひらすら社会に開き、その基盤となる。
「おんなこども」と「子ども時代」。
それがぼくの言葉遣いにおけるアントロポゾフィー、
つまりは「風韻坊」のふたつの基本原理なのだ。

ぼくは残りの人生をかけて、
「おんなこども」と「子ども時代」に力を注ごうと思っている。