風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィー指導原理 (61)

2008-11-10 23:50:01 | アントロポゾフィー指導原理
61.
意志をもつ存在としての人間は、自分の生体にではなく、外界に向かっている。自分が歩こうとするとき、「私の足に何が感じられるか?」と問うことはない。「外界において、私が到達しようと欲している目標はどこにあるのか?」と問うのである。何かを欲することによって、人間は自分の生体を忘れ去る。意志において、人間は自分自身の本性に属してはいない。そこでは、人間は第一ヒエラルキアの霊性領域に属している。(訳・入間カイ)

61. Als Willenswesen wendet sich der Mensch nicht an seinen Organismus, sondern an die Außenwelt. Er frägt nicht, wenn er gehen will, was empfinde ich in meinen Füßen, sondern, was ist dort draußen für ein Ziel, zu dem ich kommen will. Er vergißt seinen Organismus, indem er will. In seinem Willen gehört er seiner Natur nicht an. Er gehört da dem Geist-Reich der ersten Hierarchie an. (Rudolf Steiner)


59項では思考、60項では感性(感情・感覚)に触れてきましたが、
この61項では、
私たちの「意志」について述べています。

意志というのは、
「何かをしたい」という欲求や意欲のことです。
この意志は、
私たちの身体によって実現されるので、
一見、私たちの生体と結びついているように見えますが、
意志そのものを見つめると、
そこでは「からだ」は忘れ去られているというわけです。

この「からだ」を意識せずに、
外界の「目標」に向かうところに、
意志とはどういうものかが現われています。

人間は意志において、
自分自身からも離れ、
ある霊性領域につながっているというのです。
その霊性領域のことを「第一ヒエラルキア」と呼ぶわけですが、
この点については、
これから先の指導原理や
シュタイナー自身が記した文章のなかで説き明かされているので、
まずはそこから見ていくことにしましょう。

アントロポゾフィー指導原理 (60)

2008-11-09 23:16:29 | アントロポゾフィー指導原理
60.
この捉われのない態度による考察をさらに「感性(感じること)」に向けることができる。すると、感情や感覚は生体(からだ)のなかから立ち上ってくるように見えるが、生体によって生み出されるのではないことが分かる。なぜなら、感性の「生命」には、生体から独立した実質が備わっているからである。人間が生体と結びついた「自己」を感じようとすれば、その「自己」は自然界のなかにあるものとして感じられる。しかし、人間は自分自身を理解しつつ、感性界と結びついた「自己」を感じることができる。するとその自己は、感性界をともなって、ある霊性領域に存在するものとして感じられるであろう。この霊性領域が、第二ヒエラルキアの領域である。(訳・入間カイ)

60. Die Ausdehnng dieser unbefangenen Betrachtung auf das Fühlen zeigt, daß die Gefühle aus dem Organismus aufsteigen, daß sie aber nicht von diesem erzeugt sein können. Denn ihr Leben trägt ein vom Organismus unabhängiges Wesen in sich. Der Mensch kann sich mit seinem Organismus in der Naturwelt fühlen. Er wird aber gerade dann, wenn er dies, sich selbst verstehend tut, sich mit seiner Gefühlswelt in einem geistigen Reiche fühlen. Das ist dasjenige der zweiten Hierarchie. (Rudolf Steiner)


この60項はかなり難解ですが、
ボクとしては、
「感性の《生命》」ということばに注目したいと思います。
つまり、
私たちの感情や感覚には、独自の「生命」があるということです。

この「生命」ということばは、
前項でも、思考との関連で出てきました。
そこでは、
私が「考える」とき、
そこで「生きている」のは、思考ではなく、
私自身であるということでした。

しかし、「感性」(感情・感覚)との関連では、
私が「感じる」とき、
私の感性そのものが「生きている」というのです。

別の言い方をすれば、
思考に対しては、「私」が生命を与え、
「私」に対しては、感性が生命を与えるということです。

具体的に考えてみましょう。
私たちの感性は、身体に関しては
いわゆる「五感」(シュタイナーは12の感覚があると考えましたが)として
意識されます。
それが「生体と結びついた自己」ということです。

皮膚に針が刺されば「痛い」と感じるし、
まばゆい光をみれば「眩しい」と感じる。
その感覚とともに、私は「自分は物質の世界(自然界)にいる」と感じるわけです。

だから、一見、
感覚というものは、生体のなかから発生すると思われるのです。
しかし、自分自身を本当に理解したならば、
自分がその時々で感じる感覚や感情は、
それ自体が独立した「生命」をもっているというのです。

なぜなら、
感じるということは、
そこに「何かがある」ことを感じることだからです。

外から何らかの刺激があれば、
私たちはその刺激を受けた自分の身体を感じますし、
その刺激そのものを感じます。
つまり、何もないのに何かを感じることはないのです。
たとえ、それが錯覚であったとしても、
その錯覚を呼び起こした「何か」が存在しているわけです。

そして、私が何かを感じるということは、
つねに「私自身」(自己)を感じているということです。
私がないのに、
私が何かを感じることはありえないわけです。

思考の場合は、それとは逆です。
私が何かを考えているとき、
私は自己を忘れ、
その「何か」の考えのなかに没頭します。
それによって、その「何か」が生きてくるのです。
つまり、私がその何かに「生命」を与えているわけです。

感情や感覚は、反対に、
感じることによって、
私は自己を意識することになります。
肉体のなかの自分、
あるいは感情に浸った自分を意識します。
そこでは、感性が
「私」(自己)に生命を与えています。

つまり、感性には固有の生命があり、
その生命によって、
私は「自己」を意識できると考えられるのです。

そのような「理解」をもって、
「感性をもった私」というものを意識するとき、
私は、
「私に私を意識することを可能にしてくれた力」として
感性というものを捉え始めます。

そのとき、私は
霊的な領域に身をおく自分というものに気づくのです。

私はどこから「感じる力」を得ているのか?
それは身体そのものではありえない。
身体は「感性」を引き起こす誘因ではあっても、
感覚を感じている意識そのものではない。
感性は、身体に対しても、
外からの刺激に対しても「感じて」いる。
この「感じる意識」はどこから来るのか?

そのような問いが、
私たちのまなざしをある霊的な領域へ導くのです。
そして、その領域をシュタイナーは
「第二ヒエラルキア」の領域と呼んだのです。


アントロポゾフィー指導原理 (59)

2008-11-08 23:57:50 | アントロポゾフィー指導原理
59.
思考をあるがままに考察するなら、私たちの「通常の意識」における思考には、固有の実質がないことが分かる。思考は、ただ「鏡のように何かを映しだしている」(鏡像)にすぎない。しかし、人間は、思考のなかに自分自身が生きていると感じる。思考は生きていない。人間が思考のなかに生きているのである。この「生きていること」(生命)は、霊界のある領域に由来する。つまり、(私の著書『隠された科学』に書かれている)第三ヒエラルキアの霊性に由来するものなのである。(訳・入間カイ)

59. Eine unbefangene Betrachtung des Denkens zeigt, daß die Gedanken des gewöhnlichne Bewußtseins kein eigenes Dasein haben, daß sie nur wie Spiegelbilder von etwas auftreten. Aber der Mensch fühlt sich als lebendig in den Gedanken. Die Gedanken leben nicht; er aber lebt in den Gedanken. Dieses Leben urständet in Geist-Wesen, die man (im Sinne meiner «Geheimwissenschaft»)als die der dritten Hierarchie, als eines Geist-Reiches, ansprechen kann. (Rudolf Steiner)


この第59項でも、
きわめて身近な、日常的なところから発想しています。
思考というのは、
何かを思ったり、考えたりすることです。
「この人、何を言ってんだろう?」とか、
「これって、結局、男性(女性)特有の考え方じゃない?」とか、
「ここは黙っていたほうが利口だ」とか、
私たちは、いつも心のなかで何らかの考えを抱き、
何らかの判断を下しています。

ここでは、
そういう自分の内面の動きを、
まずはあるがままに見つめるように勧めているのです。
すると、
私たちの「考え」は、
その大部分が誰かからの受け売りであったり、
幼い頃から染みついた偏見や先入観であったり、
社会の「通念」であったりします。
私たちが「考え抜いた」ことでさえも、
すでにこれまでに誰かが考えたこと、
誰かがアドバイスしたこと、
本のなかに書かれていたことなどを組み合わせているだけです。

「これは木」で、「これはイヌ」で、
「これはネコ」であるといったことも、
眼のまえに木やイヌやネコの実物や画像が現れるから
私の内面にそうした判断が生じるのであって、
私の意識のなかの、何もないところから
急に「イヌ」とか「ネコ」という考えが発生するわけではありません。

だから、
私たちの「思い」や「考え」は、
必ず何かを写し出す「鏡像」のように現れてくるというわけです。
でも、そういう思いや考えを組み合わせ、
積み重ねていく作業、
つまり「考える」という作業は、
私自身の行為です。

誰かべつの人に、
私の代わりに「考えてもらう」わけにはいきません。
自分で徹底して考えたとき、
私はそこに自分自身の働きを実感します。
つまり、思考の「素材」は、
何かを写し出した「鏡像」もしくは「影」のようなものであっても、
その素材を使って考えているのは、私自身なのです。

そして、そのように自分が考えるということ、
自分自身の思考活動も、ひとつの「生命」であるといえます。
この思考という生命は、
地上の物質ではなく、霊界の特定の領域からやってくる、
とここでは述べているわけです。

その領域を
アントロポゾフィーでは「第三ヒエラルキア」と呼びます。
人間にもっとも近い霊性領域です。

ここでは、まさにこういう考え方を
ひとつの「考え方」として受けとめ、
どうしてこういう考え方が可能なのかを、
これから先の指導原理を通して見ていきたいと思います。

アントロポゾフィー指導原理 (58)

2008-11-07 11:36:26 | アントロポゾフィー指導原理
58.
鉱物界は、人間のいま、この瞬間の「かたち」のなかに認められる。植物界は、「生成」と「成長」の基盤としてのエーテル体として、人間のなかに存在している。動物界はアストラル体として、人間の感覚と意欲を展開するインパルス(衝動)となっている。この感覚と意欲が人間のなかで「意識化」され、頂点に到ったものが、「自己意識的」な精神活動である。この自己意識的な精神活動において、人間の霊界との結びつきが明らかになる。(訳・入間カイ)

58. Das mineralische Reich ist in der augenblichlichen Gestaltung des Menschen zu erkennen, das pflanzliche ist als Ätherleib die Grundlage seines Werdens un Wachsens, das tierische als Astralleib der Implus für Empfindungs- und Willensentfaltung. Die Krönung des bewußten Empfindungs- und Willenslebens im selbstbewußten Geistesleben macht den Zusammenhang des Menschen mit der Geisteswelt unmittelbar anschaulich. (Rudolf Steiner)


前項(57項)で、
「かたち」とは本来、霊的なものであると書きました。
シュタイナーのいう鉱物界は、
いま、この瞬間に、人間の「かたち」を満たしている物質のことです。
地球上のすべての存在は、
そのような霊的な「かたち」が
物質という素材に満たされることによって、
目にみえるものとして存在しているわけです。

しかし、それだけでは、
目にみえるものとなった物質は、
動きだすことも、発展(進化)することもありません。

動きや進化が生ずるためには、
生命の基礎としてのエーテル体(生命体)が必要です。
つまり、
進化したり、発展したりするすべての生物には、
エーテル体が備わっていることになります。
人間(そして動物)も、成長し、発達する存在なので、
植物と同じように、エーテル体を共有しています。

しかし、植物のあり方だけでは
何かに対して意欲を働かせて、そこに移動したり、
その時々で恐怖や喜び、不安や安堵の気持ちを感じることはありません。
そのためにはアストラル体(感覚体)が必要で、
それによって人間も、動物も、
「心の働き」(内面の動き)をもっているのです。

つまり、
エーテル体は、成長や発展、増殖といった、
いわば「外からみえる動き」をもたらし、
アストラル体は、感覚や感情という心の働き、
つまり「外からはみえない、内面の動き」をもたらすといえます。

そして、人間の場合、
ただ感じ、ただ意欲をもつだけではなく、
自分自身の心の動きを見つめることができます。
「こういう感じ方をしてはいけない」とか、
「この考え方は正しいのだろうか」などと自問自答するのは、
人間だけであろうと思います。
そして、そうした自問自答のすえに、
自分自身のあるがままを見つめ(つまり自己意識的に)、
自分が本当に目指しているところに向かって生きようとするとき、
そのあり方は、人間特有の「精神活動」を示しています。

そして、その精神活動は、明らかに
「霊界」とつながっているというのです。
なぜなら、
私たちが何かを本気で目指すとき、
その何かは、まだ目にはみえない「霊的」なものだからです。
しかし、人間はその霊的なものを自分の「目標」として捉え、
その実現に向けて努力することができます。

つまり、私たちが人生のなかで
「動機」とか、「目標」とか、「生きがい」として感じていることは、
すべて「霊的」なことなのです。
そして、私たちが何らかの目標を設定し、
実際に、この地上でその目標を達成したとき、
それは「目にみえないもの」を「目にみえるもの」にした、
つまり「霊的なもの」を「物質化」したことになるのです。

だから、人間が自己意識をもって精神活動を行うとき、
そこには明らかに「霊性」と「物質」との結びつき、
目に見えないものを目に見えるものとして表そうとする
人間の「霊界」との結びつきがはっきり現われているというわけです。

これからの指導原理では、さらに
そのような人間のあり方を詳しく見ていくことになります。

アントロポゾフィー指導原理 (57)

2008-11-06 23:39:47 | アントロポゾフィー指導原理
57.
霊学の研究成果が示しているのは、死から誕生にかけて、人間は三つの「霊性領域」に属しているということである。それは誕生から死に到るまでに、人間が三つの自然領域、すなわち鉱物界、植物界、動物界に属しているのと同様である。(訳・入間カイ)

57. Die Ergebnisse der Geistwissenschaft zeigen, daß der Mensch zwischen Tod und Geburt ebenso Geistesreichen angehört, wie er zwischen Geburt und Tod den drei Reichen der Natur, dem mineralischen, pflanzlichen und tierischen angehört. (Rudolf Steiner)


この57項では、
「死後の生」における三つの領域と、
「地上の生」における三つの領域(自然界)との関係が示されます。

地球には、大きく分けて
この三つの領域があるといえます。

鉱物界というのは、生命をもたない無機物の世界です。
純粋に物質からなる世界です。

植物界というのは、生命はもっているけれども、
「感覚」(神経)がまだ発達していない生物の領域です。

動物界というのは、生命をもち、
さらに神経系を発達させた生物の世界です。
つまり、そこには神経とともに「内面」が発達しています。

人間は、この地球を
そのような鉱物、植物、動物と共有しているわけです。

それと同じように、
死後、人間は、
三つの「霊性領域」にかかわることになります。
そして、それらの領域がそれぞれ、
地上の鉱物界、植物界、動物界に対応しているのです。

それでは、その三つの「霊性領域」とはどういうものなのか。
そこで人間は、
どんな存在たちとその三領域を「共有」しているのか。

次の項からは、
この「地上の生」と「死後の生」の
それぞれの三領域の関係を詳しく見ていくことになります。

そして、その理解を踏まえて、
人間の運命やカルマの問題に近づいていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (56)

2008-11-05 23:51:02 | アントロポゾフィー指導原理
56.
死から新たな誕生までの間に、人間のカルマの総体が形成される期間がある。この期間について記述するためには、霊性研究の結果を踏まえなければならない。ただし、つねに意識にとどめておく必要があるのは、その記述は理性にとって納得できるということである。理性は、感覚によって捉えられる「現実」をあるがままに考察するだけでよい。そうすれば、その「現実」が霊性を指し示していることに理性は気づくであろう。それは死体の形態が、そこに宿る生命を指し示しているのと同じことである。(訳・入間カイ)

56. Die Daseinsepoche zwischen Tod und neuer Geburt, in der das Karma des Menschen gestaltet wird, kann nur auf Grund der Ergebnisse geistiger Forschung dargestellt werden. Aber es ist immer im Bewußtsein zu halten, daß diese Darstellung der Vernunft einleuchtend ist. Diese braucht nur das Wesen der Sinneswirklichkeit unbefangen zu betrachten, dann wird sie gewahr, daß dieses ebenso auf ein Geistiges hinweist, wie die Form eines Leichnams auf das ihm einwohnende Leben. (Rudolf Steiner)


この56項で注目したいのは、
「形態」(フォルム)ということばです。

形態というのは「かたち」のことです。
「形あるものは壊れる」とも言いますが、
実は、かたちそのものは壊れようがありません。

たとえば、四角い物体があったとして、
その物体を破壊したとしても、
四角という「かたち」そのものを壊すことはできないのです。
べつに四角いものを造れば、
そこに四角という「かたち」は再び現れます。

実のところ、
三角とか四角という幾何学的な「かたち」そのものが、
そのまま地上の物質として現われることはありません。
私たちの脳が、もしくは精神が、
物体のなかに、四角とか、三角とか、円といった
「かたち」を読みとるのです。

だから、
「かたち」とは、実は霊的なものだといえます。

シュタイナーが
「死体の形態」というのは、
人間が死んで、生命が抜け落ちた後の「からだ」には、
いわば人体という物質のなかに、
人間の「かたち」が現われているからです。

死体のなかに、もはや生命はないけれど、
逆にいえば、
この「かたち」がなければ、
そこに生命が宿ることもできないのです。

人体という「かたち」は、霊的なものです。
ちょうど、
四角い物体や、三角の物体をあるがままにみることで、
「四角」や「三角」という概念を見出すことができるように、
そして四角や三角という幾何学的な概念そのものは、
目にはみえない「霊的」なものであるように、
人体をあるがままに見ることによって、
人間の「かたち」を見出すことができます。
そのかたちは、
幾何学の概念と同じように
本来は目にはみえない霊的なものです。

だから、古代より、
人間の身体は、大宇宙に対する「小宇宙」とか、
人間の霊性が宿る、「神殿」といわれてきたのです。
はっきりいえば、
人体のかたちは、
人間の霊性そのものなのです。

アントロポゾフィーの考察は、
つねに「目に見える次元」から出発します。
なぜなら、
目にみえる世界、あるいは
「感覚によって捉えられる現実」のなかに
目にみえない、霊的な現実が映し出されているからです。

だから、霊学を語るときは、
「人間は生まれ変わります」とか、
「カルマというものがありまして」というふうに、
唐突に、目にみえない理論から始めるわけにはいかないのです。
それでは「理性」は納得できないし、
実のところ、本当の「現実」を見ていることにもならないからです。

目にみえる、あるいは聞いたり、触ったりできる
「感覚によって捉えられる現実」をあるがままに見つめること。
そこから、ちょうど三角形の物体のなかに、三角という「かたち」を見出すように、
「目に見える現実」が指し示す「目にみえない現実」を見出していくこと、
それがアントロポゾフィー霊学の考察方法なのです。

だからこそ、
アントロポゾフィーにとって
理性が納得できるということ、
考えて理解できるということが、
非常に重要な前提になるのです。

ちなみに、
ドイツ語の理性(Vernunft)は、
Vernehmen(感じとる)ということばから派生しています。
理性は、ただ冷たいだけの、頭のなかで完結するだけの能力ではなく、
現実をあるがままに感じとる力です。
そして、思考というものも、
実は、目に見えない概念や理念を「感じとる」知覚能力なのです。

霊学はけっして、
勝手な思いつきを膨らませたり、
現実から切り離された想像を積み上げていくことではなく、
つねに「あるがままの現実」から出発するということ。

そのことが、
カルマという目にはみえない、
しかし、人間にとって非常に重要な事柄を考えるときに、
必ず確認しておかなければならない、大前提なのです。

アントロポゾフィー指導原理 (55)

2008-11-04 14:07:59 | アントロポゾフィー指導原理
55.
次に、純粋に霊的な存在期間が長きにわたって続くことになる。ここで人間の心性は、自分とカルマによって結ばれている他の人々の心性とともに、そして高次の位階(ヒエラルキア)の本性たちとともに、来るべき地上の人生の総体をカルマにもとづいて形成する。(訳・入間カイ)

55. Eine langdauernde, rein geistige Daseinsepoche folgt, in der die Menschenseele mit andern mit ihr karmisch verbundenen Menschenseelen und mit Wesenheiten der höheren Hierarchien das kommende Erdenleben im Sinne des Karma gestaltet. (Rudolf Steiner)


死後の第3段階に到って、
「純粋に霊的」な期間が始まります。
「霊的」というのは、
個人の心性を超えた、普遍的・客観的な次元を指しています。

死後、私たちの心は、
個人的な好き嫌いや共感・反感の次元から
普遍的な次元に到ったとき、
自分だけではなく、
自分と縁のある(カルマによって結ばれた)人びとの心性と
つながることができます。

そして、
「高次の位階(ヒエラルキア)」の本性たちとつながります。
ここで「本性」というのは、
「神々」とか「存在たち」と言い換えることもできます。
ただ、本性ということばを使うのは、
ちょうど神話のなかの「神々」が一人ひとり独特の個性をもっているように、
それぞれが固有の性格や働きをもっていることを示すためです。
しかし、その個性や性格は、
永遠なる個性であり、
「普遍的・客観的」な次元につながっているのです。

これから先の指導原理では、
この「ヒエラルキア」(高次の位階)の本性たちへの言及が多くなります。

あらかじめ注意していただきたいのは、
本来、アントロポゾフィーは一元論なので、
すべての存在は一つの「私」でもあるということです。

シュタイナーが「高次の霊的存在」として述べていることは、
私の「高次の自己」と言い換えることもできるわけです。

しかし、私という存在には、果てしない深みと広がりがあります。
自分自身の内面を見るだけでも、
そこにはさまざまな考えや感情、気分が渦巻いています。
そのなかから、自分でも意識していなかったような
意志や衝動が立ち上ってくることもあります。

アントロポゾフィーにおける「神々」や「霊的存在」は、
さまざまな「力の作用」や「働き」、
もしくは「エネルギー」とも言いかえられるものです。
ただ、それらのエネルギーには無数の異なった「性質」があり、
その性質は永遠なる個性に貫かれているので、
それをイメージでとらえると、
天使や大天使、あるいは神々といった
固有の個性をもった「本性」として見えてくるのです。

そして、私もあなたも、
ひとつの大いなる「私」につらなるエネルギーでもあります。
しかし、地上に生きる私たち一人ひとりは、同時に
神々と同じように
永遠なる個性、かけがえのない個性をもった本性でもあるのです。
この私のなかに
「普遍」と「個」が同時に存在することが
アントロポゾフィーの核心であり、
霊学の考察は、つねにこの核心から始まります。

そして、死後、
普遍的・客観的な次元に到ったとき、
人間として地上を生きてきた他の人々の心性、
そして、地上に生まれることはなくても
普遍的・客観的な次元で生き続けている神々、
もしくは「本性」たちとつながって、
次に地上に生まれるときの人生の
全体としての「かたち」を用意することになるのです。

ここでのポイントは、
一人ひとりの人生は、
自分ひとりだけが準備したものではなく、
他の人々、そして神々とともに
共同でデザインしたものである、ということだと思います。

それが「カルマ」を視野に入れた、
人生の見方ということになるわけです。

アントロポゾフィー指導原理 (54)

2008-11-03 22:03:21 | アントロポゾフィー指導原理
54.次の期間は、過ぎ去った地上の人生の約3分の1の時間を要する。そこで人間の心性はさまざまな「霊性の体験」をもつことになるが、それによってこの期間に一つの作用が生じることになる。これは、倫理的に公正なる宇宙秩序に照らして、過ぎ去った地上の人生が受けなければならない作用である。この体験の最中に、次の地上の人生全体を、この体験に照応するかたちで、これまでの人生を補うために形成しようという意図が生ずる。(訳・入間カイ)

54. In einer Zeit, die ungefähr ein Drittel des eben vollendeten Erdenlebens umfaßt, wird in Geisteserlebnissen, welche die Seele hat, die Wirkung erfahren, welche im Sinne einer ethisch gerechten Weltordnung das vorangegangene Erdenleben haben muß. Es wird während dieses Erlebens die Absicht erzeugt, das nächste Erdenleben zum Ausgleich der vorangegangenen so zu gestalten, wie es diesem Erleben entspricht. (Rudolf Steiner)


前項(53項)は、
死後、生命体が剥がれおちていく時期のことでしたが、
この54項は、人間の心性にかかわる時期について述べています。

心性(魂)というのは、
一人ひとりの思いや感情の次元、個人的なところです。
その個人的なところに、
霊性の体験、つまり普遍的・客観的作用が働きかけるのです。

「倫理的に公正なる宇宙秩序」というのは、
いかにも大げさな言葉に聞こえますが、
実際、霊性というのは、
一切の好き嫌いや共感・反感を超えた、
普遍的で、公正な次元なのです。

これまで地上で生きてきて、
その時々の自分勝手な思いや考えで行動してきたことが、
普遍的な観点から照らし出されるわけです。

すると、
過ぎ去った地上の人生のなかで、
自分が抱いた感情や考え、
自分が行った行為が
新しい光のもとに見えてきます。

そして、
次に地上で生きるときには、
どのようにしてこれまでの偏りや過ちを補うことができるかという、
ひとつの意図が生じるということです。



アントロポゾフィー指導原理 (53)

2008-11-02 07:47:30 | アントロポゾフィー指導原理
53.
死と新たな誕生の間の人間の「生」は、いくつかの段階を通って展開される。死の門をくぐり抜けた直後の数日間で、それまでの地上の人生が「形象」(イメージ)のなかで展望される。この展望は、同時に、この人生(生命)の担い手が、人間の「心性」と「霊性」としての本性から剥がれ去る過程を示している。(訳・入間カイ)

53. Die Entfaltung des Menschenlebens zwischen Tod und neuer Geburt geschieht in aufeinanderfolgenden Stufen. Während weniger Tage unmittelbar nach dem Durchgang durch die Todespforte wird in Bildern das vorangegangene Erdenleben überschaut. Dieses Überschauen zeigt zugleich die Ablösung des Trägers dieses Lebens von der menschlichen Seelen-Geist-Wesenheit. (Rudolf Steiner)


ここから、
これまでの指導原理で見てきた「死後の生」を
新たに「カルマ」との関連で見ていくことになります。

よくいわゆる「臨死体験」に関して、
自分の人生のさまざまな場面が「走馬灯」のように見えた、
という報告があります。
これは、アントロポゾフィーの言葉でいえば、
それまでの人生が「形象」(イメージ)として見えたということです。

形象(イメージ)をつくりだすのは、
生命体(エーテル体)の働きです。
生命体は、生命の形態を生みだすとともに、
意識の「形象」も生み出し、「記憶」の担い手となります。
死後、人間の本性から生命体が剥がれおちるとき、
その過程が、人生の記憶像の連続(走馬灯)として体験されるわけです。

つまり、死後の「生」の最初の段階は、
「生命体が剥がれ去る時期」であり、数日間続きます。

ここでは、
人間の「本性」を心性、霊性のつながりとして捉えている。
そのことに注目したいと思います。
死後の最初の段階では、
その「本性」から、生命体が離れていくのです。

アントロポゾフィー指導原理 (52)

2008-11-01 03:45:10 | アントロポゾフィー指導原理
52.
死から新たな誕生までの「生」は、いくつかの期間に区分される。それらの期間を、カルマ形成との関わりとともに扱う必要がある。 
このカルマ形成を《どのように》扱うかが、これから先の指導原理の内容となるだろう。(訳・入間カイ)

52. Es sollen die Epochen im Leben zwischen Tod und neuer Geburt mit Beziehung auf die Karmabildung behandelt werden.
Das «Wie» dieser Behandlung der Karmabildung soll den Inhalt der weiteren Leitsätze bilden. (Rudolf Steiner)


ここでシュタイナーは、
意識的に「カルマ」という言葉を使っています。

これまでの指導原理では、
死から新たな誕生までの「生」において、
「運命」が形成されるという言い方がなされてきました。
ここでは、「カルマ」との関連で、
死後の生を見ていくというのです。

哲学事典などで「カルマ」という語を引くと、
サンスクリット語で「行為」を意味する言葉であることが分かります。
カルマとは、何よりも私たちの行為なのです。

運命の形成のなかにも、
自分自身の意志が霊的にかかわっています。
しかし、運命はいわば「外」から、私たちに向かってきます。
だから私たちは運命に「立ち向かう」という感じをもつのです。

もしカルマが私たちの「行為」であるなら、
それはもともと私たちが
「内」から「外」に向かって行ったものです。

そのことを念頭において、
これからの指導原理を読んでいきたいと思います。