風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

シュタイナーがみた「クリスマスツリー」の意味

2017-12-04 17:08:31 | 隠された科学
プラントハンター西畠清順氏が企画した「世界一のクリスマスツリー」をめぐって議論が続いている。
ネット上ではさまざまな批判や分析が行われ、「中止を求めるキャンペーン」にも現時点で18,000人もの人々が署名しているらしい。

西畠さんは「議論になることが僕の願い」と言っていたらしいが、少なくともこのプロジェクトが多くの人々の感情を揺り動かしたことは確かだ。
ぼく自身もこの出来事にはどこか心をかき乱されるものがあった。
そこで、ぼくにできることとして、「そもそもクリスマスツリーとは何か?」という観点から、この出来事を自分に引きつけて考えてみたいと思う。

シュタイナーは、ヨーロッパで「クリスマスにもみの木を飾る」のは、せいぜいが200年程度の近代における新しい習慣だという。そこに彼は近代の人々の一種の「逃避願望」を見ている。
何からの逃避かというと、「キリスト体験」からの逃避なのだという。

いうまでもなく、クリスマスは「キリスト生誕」のお祭りである。
キリストが伝えたことは、一言でいえば、「一人ひとりの人間のかけがえのない価値」である。神であるキリスト自身がひとりの人間として生き、十字架にかけられ、父なる神に向かって「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言って息をひきとる。そこには信じていた父親に裏切られた息子の姿がある。その後の「復活」は、神の復活ではなく、あくまでもひとりの人間の復活である。キリストはいわば「人間の代表」として死を通過し、永遠の生命に至ったのである。シュタイナーは、キリストの復活を経て、すべての人間が輪廻転生を経ても失われない「永遠の個性」を持つに至ったのだと考えた。つまり、人間は生まれ変わりを通して「進化」することが可能になったのである。

そのような考え方を受け入れるかどうかはともかく、本来のクリスマスとは、キリストが成し遂げた仕事の始まりを祝うお祭りであり、その先には生の喜びだけではなく、悲しみや苦しみ、そして十字架の上の死が待っている。それは単なる象徴ではなく、誰もが体験する死であり、一生の中にも「死」の体験は何度となくあるだろう。人生の価値は、一人ひとりが孤独と闇の中で、自分だけの明かりを見出し、心の中に灯すことにある。そのような生と死が重なり合った体験が、「キリスト体験」なのである。
そのため、クリスマスは「冬至」という、一年の中で冬の寒さと闇がもっとも深まる時期に行われる。

けれども、そのような「個」の体験は楽なことではない。それはいわば「大人」になることであって、できればいつまでも子どものままでいたいし、守られた状態でいたい。それが個が確立されていく近代になって、「天国への憧れ」として人々の中に現れた。そのために、人々の意識はキリスト生誕の日である12月25日よりも、前日24日のアダムとイブの祭り、すなわち「クリスマスイブ」に向かうようになった。それが天国に生えている「生命の木」(クリスマスツリー)を飾る習慣にもつながっているというのである。

シュタイナーは、この「天国への回帰願望」を民族主義や国家主義の台頭の中に見ている。天国は「人類の起源」だが、「個」として立つことを恐れ、そこから逃げる人たちは民族や集団の起源を美化し、そこに回帰しようとする。そこに自分たちが個人として責任を問われない「集合体」をつくり、その中に隠れようとする。そして、その集合体の権力によって他者を抑圧したり、あるいは人々をその集合体の中に吞み込もうとする。それをシュタイナーは擬似的な「ヤーウェの原理」と呼んだ。

天国とは、キリストではなく、父なる神ヤーウェが働く領域である。そこは美しく調和に満ちているが、自由はなく、人間は神に従属している。
それに対して、キリストがもたらしたのは、神からも自由な人間の意識だった。彼は「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな」という。「平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである」と。そこでは個人は家族や民族を離れていったんは孤独になるが、そこから意識的に相互につながることができる。そこから民族や人種の違いを超えた、「個を基盤とする人類的な連帯」が可能になる。

しかし、その道を厭う人々は、家族や民族を強調し、一人ひとりの個人の自由を抑圧することによって集合体の統制を図ろうとする。多くの近代国家は、個人による連帯ではなく、民族による連帯に依拠しているために、そこに働くのはキリスト原理ではなく、擬似的なヤーウェの原理なのだとシュタイナーはいう。その背後には個人によるキリスト体験から逃避し、天国に回帰しようとする人々の衝動があるのだと。

そして、シュタイナーはクリスマスツリーをめぐる伝説を紹介する。
アダムとイブには、カインとアベルのほかに、セトという第三子がいた。アダムが死の病に瀕したとき、アダムはセトを天国に遣わせた。セトは天国の門の前に立ち、大天使ケルビムに許されて中に足を踏み入れる。そこで見たのは、生命の木と知恵の木が絡み合っている姿だった。大天使ミカエルはそこから三粒の種(話によっては一粒の種)をセトに与える。セトが地上に戻ると、アダムはすでに死んでいた。セトはアダムの口にその種を入れ、埋葬した。後に、アダムの墓から木が生え、その木がソロモン王の神殿の門になり、キリストが治癒の奇跡を起こした「ベデスダの池」にかかる橋となり、キリスト自身が磔になった十字架になったという。

ここで重要なのは、「生命の木と知恵の木が絡み合っている」というイメージである。
シュタイナー思想の中で最も重要な考え方の一つは、「生命力と思考力は同じ力の二つの現れである」ということだろう。物質に生命を与え、成長、増殖、生殖といった作用を可能にする力は、物質を離れると、今度は内面の思考力となって働く。仮に、その同一の「力」を精神と呼ぶとすれば、この精神は目に見える物質次元では「生命」として、目に見えない内面の次元では「思考」として働くということである。この発想が、シュタイナー教育にとっても、アントロポゾフィー医学にとっても、最も重要な出発点になっている。これは実は「生と死」の関係である。

「地上における死は、霊界における誕生である」という表現があるが、私たちは誕生と死を繰り返しながら、二つの世界を行き来しているといえる。けれど、「この世」と「あの世」は同じ一つの世界の裏と表にすぎない。私たちの意識は死後、いわば宇宙思考となって普遍的な広がりを持ち、この世に誕生すれば身体の神経系に自己を映して「個別」の自分を意識する。そこにあるのは同一の意識、または精神である。私たちの意識はいずれにせよ、常に宇宙に広がっているのだ。しかし、死後は普遍が意識され、誕生後は個別が意識される。地上における個別の人間の死は、霊界における普遍の人間の誕生であり、それはかつては個別意識の解消を意味していた。

けれども、キリストの復活によって、地上の個別意識は死後も解消されるのではなく、その時々の人格へと変容を遂げながら、一つの統一体を持つことが可能になった。「わたしの前世は誰某だ」ということができるようになったのである。それとともに、地上にありながら、死者と交流すること、いわゆる「死者との共同作業」も可能になった。キリストが成し遂げた仕事とは、「普遍と個」を一致させることであり、それが天国における「生命の木と知恵の木の絡み合い」によって表現されていると言える。

近代の人々がそこから逃避しようとしている「キリスト体験」とは、一人ひとりの「個」を徹底させることによって、再び普遍的な「知恵」にまで到達する可能性を見据えることだろうと思う。私たちの個別の意識は、神のような普遍的な叡智を持ち得ない。けれども、個に立脚することによって、家族、民族、人種といった「血脈によるつながり」に依存しない、「個を基盤とする人類的な連帯」の可能性が生じ、対等な関係の中で知識を共有し、共に考えることができるだろう。それがシュタイナーが見ていた「新しい人間の知恵」としての人智学、アントロポゾフィーなのだろうと思う。

しかし、そのような方向に逆行する流れが、シュタイナーが生きた当時から世界各地で強まっている。それに対して、シュタイナーは「クリスマスツリーを飾る習慣」に新しい意識で向き合うことを提案し、7つのシンボルを示した。

クリスマスツリーの一番下には地水火風、および人間の四つの構成要素(肉体、生命体、感覚体、自我)を示す「正方形」が置かれる。その上には、人間の高次の三つの体(霊我、生命霊、霊人)を示す「三角形」が置かれる。その上には、世界の始まりから終わりまでを解き明かす78枚のタロットカードのシンボルである「タロック」の記号がくる。その上には、始まりと終わりの記号であるアルファ(Α)とオメガ(Ω)が並ぶ。そして、その上にはいわゆる「エジプト十字架」が置かれるが、これは嵐や波の怒号、稲妻や雷鳴の中から人間に語りかける「自然の言語」としての「タオ」のシンボルである「T」の文字と、すべてを包括する父なる霊を表す「円」が合体したものである。最後に、「進化する人類」を表す五芒星が、私たちの道を照らす光としてツリーの頂点に置かれる。

この五芒星は、現在の一人ひとりの個別の人間の象徴であると同時に、宇宙の広がりを満たす普遍的な人間の象徴である。それはかつてキリストが歩んだ道、そして今この瞬間も歩き続けている道を表している。クリスマスに「生命の木」のシンボルであるクリスマスツリーを飾るとき、私たちはかつて自分もそこに安らかに身をおいていた天国の思い出に浸るだけではなく、そこから歩み出て、孤独に人生を生きながらも、個を基盤として他者と出会い、新しい社会を形成していこうと決意することができる。大人たちがそのような決意を持ってクリスマスを祝うとき、子どもたちは人生の峻厳さだけでなく、かけがえのないひとりの個人として生きることの祝福を感じることだろう。そのとき、私たちは、クリスマスツリーをこれらの七つの記号で飾りながら、生命の木と知恵の木を絡み合わせているのだ。

西畠清順氏の「クリスマスツリー」のプロジェクトは、確かに多くの人々の意識を揺さぶった。そこには仕掛けられた危うさもあるだろう。けれども、重要なのは、衝撃を受けた側がそこにどのような意味を見出し、どのように応答するかだろうと思う。
ぼくには、西畠清順氏が神戸港に運んだ巨木が生田神社の鳥居になることも、ソロモンの神殿の門のイメージと重なるのである。それがいわば民族的な「回帰」につながるのか、それとも一人ひとりの個人が自分の人生を生き、自分の十字架を担うことへの勇気づけにつながるのか。そのような問いかけとして受けとめたいと思う。そして、ぼく自身はクリスマスツリーに新しい意識で七つの記号を飾ることで、揺さぶられた無意識に、自分なりに応答したいと思う。