風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

シュタイナーがみた「クリスマスツリー」の意味

2017-12-04 17:08:31 | 隠された科学
プラントハンター西畠清順氏が企画した「世界一のクリスマスツリー」をめぐって議論が続いている。
ネット上ではさまざまな批判や分析が行われ、「中止を求めるキャンペーン」にも現時点で18,000人もの人々が署名しているらしい。

西畠さんは「議論になることが僕の願い」と言っていたらしいが、少なくともこのプロジェクトが多くの人々の感情を揺り動かしたことは確かだ。
ぼく自身もこの出来事にはどこか心をかき乱されるものがあった。
そこで、ぼくにできることとして、「そもそもクリスマスツリーとは何か?」という観点から、この出来事を自分に引きつけて考えてみたいと思う。

シュタイナーは、ヨーロッパで「クリスマスにもみの木を飾る」のは、せいぜいが200年程度の近代における新しい習慣だという。そこに彼は近代の人々の一種の「逃避願望」を見ている。
何からの逃避かというと、「キリスト体験」からの逃避なのだという。

いうまでもなく、クリスマスは「キリスト生誕」のお祭りである。
キリストが伝えたことは、一言でいえば、「一人ひとりの人間のかけがえのない価値」である。神であるキリスト自身がひとりの人間として生き、十字架にかけられ、父なる神に向かって「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言って息をひきとる。そこには信じていた父親に裏切られた息子の姿がある。その後の「復活」は、神の復活ではなく、あくまでもひとりの人間の復活である。キリストはいわば「人間の代表」として死を通過し、永遠の生命に至ったのである。シュタイナーは、キリストの復活を経て、すべての人間が輪廻転生を経ても失われない「永遠の個性」を持つに至ったのだと考えた。つまり、人間は生まれ変わりを通して「進化」することが可能になったのである。

そのような考え方を受け入れるかどうかはともかく、本来のクリスマスとは、キリストが成し遂げた仕事の始まりを祝うお祭りであり、その先には生の喜びだけではなく、悲しみや苦しみ、そして十字架の上の死が待っている。それは単なる象徴ではなく、誰もが体験する死であり、一生の中にも「死」の体験は何度となくあるだろう。人生の価値は、一人ひとりが孤独と闇の中で、自分だけの明かりを見出し、心の中に灯すことにある。そのような生と死が重なり合った体験が、「キリスト体験」なのである。
そのため、クリスマスは「冬至」という、一年の中で冬の寒さと闇がもっとも深まる時期に行われる。

けれども、そのような「個」の体験は楽なことではない。それはいわば「大人」になることであって、できればいつまでも子どものままでいたいし、守られた状態でいたい。それが個が確立されていく近代になって、「天国への憧れ」として人々の中に現れた。そのために、人々の意識はキリスト生誕の日である12月25日よりも、前日24日のアダムとイブの祭り、すなわち「クリスマスイブ」に向かうようになった。それが天国に生えている「生命の木」(クリスマスツリー)を飾る習慣にもつながっているというのである。

シュタイナーは、この「天国への回帰願望」を民族主義や国家主義の台頭の中に見ている。天国は「人類の起源」だが、「個」として立つことを恐れ、そこから逃げる人たちは民族や集団の起源を美化し、そこに回帰しようとする。そこに自分たちが個人として責任を問われない「集合体」をつくり、その中に隠れようとする。そして、その集合体の権力によって他者を抑圧したり、あるいは人々をその集合体の中に吞み込もうとする。それをシュタイナーは擬似的な「ヤーウェの原理」と呼んだ。

天国とは、キリストではなく、父なる神ヤーウェが働く領域である。そこは美しく調和に満ちているが、自由はなく、人間は神に従属している。
それに対して、キリストがもたらしたのは、神からも自由な人間の意識だった。彼は「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな」という。「平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである」と。そこでは個人は家族や民族を離れていったんは孤独になるが、そこから意識的に相互につながることができる。そこから民族や人種の違いを超えた、「個を基盤とする人類的な連帯」が可能になる。

しかし、その道を厭う人々は、家族や民族を強調し、一人ひとりの個人の自由を抑圧することによって集合体の統制を図ろうとする。多くの近代国家は、個人による連帯ではなく、民族による連帯に依拠しているために、そこに働くのはキリスト原理ではなく、擬似的なヤーウェの原理なのだとシュタイナーはいう。その背後には個人によるキリスト体験から逃避し、天国に回帰しようとする人々の衝動があるのだと。

そして、シュタイナーはクリスマスツリーをめぐる伝説を紹介する。
アダムとイブには、カインとアベルのほかに、セトという第三子がいた。アダムが死の病に瀕したとき、アダムはセトを天国に遣わせた。セトは天国の門の前に立ち、大天使ケルビムに許されて中に足を踏み入れる。そこで見たのは、生命の木と知恵の木が絡み合っている姿だった。大天使ミカエルはそこから三粒の種(話によっては一粒の種)をセトに与える。セトが地上に戻ると、アダムはすでに死んでいた。セトはアダムの口にその種を入れ、埋葬した。後に、アダムの墓から木が生え、その木がソロモン王の神殿の門になり、キリストが治癒の奇跡を起こした「ベデスダの池」にかかる橋となり、キリスト自身が磔になった十字架になったという。

ここで重要なのは、「生命の木と知恵の木が絡み合っている」というイメージである。
シュタイナー思想の中で最も重要な考え方の一つは、「生命力と思考力は同じ力の二つの現れである」ということだろう。物質に生命を与え、成長、増殖、生殖といった作用を可能にする力は、物質を離れると、今度は内面の思考力となって働く。仮に、その同一の「力」を精神と呼ぶとすれば、この精神は目に見える物質次元では「生命」として、目に見えない内面の次元では「思考」として働くということである。この発想が、シュタイナー教育にとっても、アントロポゾフィー医学にとっても、最も重要な出発点になっている。これは実は「生と死」の関係である。

「地上における死は、霊界における誕生である」という表現があるが、私たちは誕生と死を繰り返しながら、二つの世界を行き来しているといえる。けれど、「この世」と「あの世」は同じ一つの世界の裏と表にすぎない。私たちの意識は死後、いわば宇宙思考となって普遍的な広がりを持ち、この世に誕生すれば身体の神経系に自己を映して「個別」の自分を意識する。そこにあるのは同一の意識、または精神である。私たちの意識はいずれにせよ、常に宇宙に広がっているのだ。しかし、死後は普遍が意識され、誕生後は個別が意識される。地上における個別の人間の死は、霊界における普遍の人間の誕生であり、それはかつては個別意識の解消を意味していた。

けれども、キリストの復活によって、地上の個別意識は死後も解消されるのではなく、その時々の人格へと変容を遂げながら、一つの統一体を持つことが可能になった。「わたしの前世は誰某だ」ということができるようになったのである。それとともに、地上にありながら、死者と交流すること、いわゆる「死者との共同作業」も可能になった。キリストが成し遂げた仕事とは、「普遍と個」を一致させることであり、それが天国における「生命の木と知恵の木の絡み合い」によって表現されていると言える。

近代の人々がそこから逃避しようとしている「キリスト体験」とは、一人ひとりの「個」を徹底させることによって、再び普遍的な「知恵」にまで到達する可能性を見据えることだろうと思う。私たちの個別の意識は、神のような普遍的な叡智を持ち得ない。けれども、個に立脚することによって、家族、民族、人種といった「血脈によるつながり」に依存しない、「個を基盤とする人類的な連帯」の可能性が生じ、対等な関係の中で知識を共有し、共に考えることができるだろう。それがシュタイナーが見ていた「新しい人間の知恵」としての人智学、アントロポゾフィーなのだろうと思う。

しかし、そのような方向に逆行する流れが、シュタイナーが生きた当時から世界各地で強まっている。それに対して、シュタイナーは「クリスマスツリーを飾る習慣」に新しい意識で向き合うことを提案し、7つのシンボルを示した。

クリスマスツリーの一番下には地水火風、および人間の四つの構成要素(肉体、生命体、感覚体、自我)を示す「正方形」が置かれる。その上には、人間の高次の三つの体(霊我、生命霊、霊人)を示す「三角形」が置かれる。その上には、世界の始まりから終わりまでを解き明かす78枚のタロットカードのシンボルである「タロック」の記号がくる。その上には、始まりと終わりの記号であるアルファ(Α)とオメガ(Ω)が並ぶ。そして、その上にはいわゆる「エジプト十字架」が置かれるが、これは嵐や波の怒号、稲妻や雷鳴の中から人間に語りかける「自然の言語」としての「タオ」のシンボルである「T」の文字と、すべてを包括する父なる霊を表す「円」が合体したものである。最後に、「進化する人類」を表す五芒星が、私たちの道を照らす光としてツリーの頂点に置かれる。

この五芒星は、現在の一人ひとりの個別の人間の象徴であると同時に、宇宙の広がりを満たす普遍的な人間の象徴である。それはかつてキリストが歩んだ道、そして今この瞬間も歩き続けている道を表している。クリスマスに「生命の木」のシンボルであるクリスマスツリーを飾るとき、私たちはかつて自分もそこに安らかに身をおいていた天国の思い出に浸るだけではなく、そこから歩み出て、孤独に人生を生きながらも、個を基盤として他者と出会い、新しい社会を形成していこうと決意することができる。大人たちがそのような決意を持ってクリスマスを祝うとき、子どもたちは人生の峻厳さだけでなく、かけがえのないひとりの個人として生きることの祝福を感じることだろう。そのとき、私たちは、クリスマスツリーをこれらの七つの記号で飾りながら、生命の木と知恵の木を絡み合わせているのだ。

西畠清順氏の「クリスマスツリー」のプロジェクトは、確かに多くの人々の意識を揺さぶった。そこには仕掛けられた危うさもあるだろう。けれども、重要なのは、衝撃を受けた側がそこにどのような意味を見出し、どのように応答するかだろうと思う。
ぼくには、西畠清順氏が神戸港に運んだ巨木が生田神社の鳥居になることも、ソロモンの神殿の門のイメージと重なるのである。それがいわば民族的な「回帰」につながるのか、それとも一人ひとりの個人が自分の人生を生き、自分の十字架を担うことへの勇気づけにつながるのか。そのような問いかけとして受けとめたいと思う。そして、ぼく自身はクリスマスツリーに新しい意識で七つの記号を飾ることで、揺さぶられた無意識に、自分なりに応答したいと思う。

村本大輔氏と東浩紀氏の「棄権」について

2017-11-13 03:22:05 | 隠された科学
2017年10月の衆院選では、いろいろなことを考えはしたけれど、選挙の前に何か自分の考えを書き留めておこうとは思わなかった。
ただ、それが過ぎたときに、何かを書き始めようと思っていた。

最初に記しておきたいのは、「棄権」についての考えである。
東浩紀氏が「積極的棄権」を唱えて賛同者の署名を募ったときも、
ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が「自分は選挙に行かなかった」とツイートしたときも、
ぼくも最初は御多分に洩れずショックを受け、憤慨した。
しばらくして、村本さんに関してはその体を張った覚悟を感じて、
おそらく彼は選挙に行かない人たちの側にあえて身を置こうとしたのだろうと思った。
そして、最近ハフィントンポストに掲載されたインタビューを読んだ。
そこで彼が述べている「やっぱり内側から変えないとダメなんですよ」という言葉に、
彼が眼差しを向けている先を感じたように思った。
なかでもぼくが共感したのは、次の部分である。

「どうやったらモヤモヤが消えて、『愛ある一票』を入れられますか?」という問いかけに、村本さんはこのように答えている。

「僕らが、『自分は馬鹿だ』と言うことを自覚することから始まると思います。
『俺は知っている』という奴らがいるから、自分の無知を言いにくくなっているところがある。お父さんが子どもに、『俺もわからないし、お前もわからないと思うから、政治の話、国の話を一緒にしてみないか』『みんなわからないから、みんな一緒に考えていこうよ』みたいなことを言わないと。政治を知ってるってウソをついてもダメです。」

これは村本さんなりの、現在の状況に対する具体的な解答なのではないかとさえ思う。
重要なのは、関心をもってもらうことだ。
そのためには「俺は知っている」という振る舞いをまずやめて、いっしょに考えようという。
村本さんは、投票に行くという「正しい行動」を取って「俺にはわかっている」という側に立つより、迷う側、ときには考えることさえしない側に身をおき続けることを選んだ。
そこから「内側からの変化を起こそう」と試みている。

それに対して、東浩紀氏の「積極的棄権」はなかなかその真意が理解できないところがあった。
というのも、彼が書いている「『ルール』そのものへの懐疑の意識を広めたい」という言葉からは、単純に考えれば、そもそも「憲法」もルールなのだから、むしろ自民党と同じように、彼は憲法という枠組みに対してもそれを疑う立場なのだろうかとも思えたからだ。
もう少しその意図を理解したいと思って、彼の最初の著作である『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』にも当たってみた。

デリダが展開した脱構築という知的営為と、後年の政治的なラディカルな行動との関係、または「目と耳のあいだの空間」に注目したこの本は、今読んでもいろんな意味で興味深かった。
(たとえば「再来するもの」としての「幽霊」、また「亡霊」「幻霊」「憑霊」という四語の訳し分けなどは秀逸だと思った)。
ただ、ぼくが東浩紀氏の「積極的棄権」との関連を感じたのは次の箇所である。

この90年代の末に書かれた本について、東氏は「あとがき」のなかで自分は「自己言及的な罠」に捉えられてしまったと述べている。
この本が扱う「なぜデリダは奇妙なテクストを書いたのか」という問いは、「なぜ僕はその奇妙なテクストに惹かれるのか」という「自己言及的な問い」でもあったのだと。
彼はもう自分は二度とこのような本を書くことはできないだろうし、書くべきでもないと締め括っている。

自己言及的であることは若者の特権であり、東氏はそこから離れたのかもしれない。
ぼくはこの箇所を読んで、シュタイナーが『ゲーテの世界観』の中で述べていることを思い出した。
ゲーテは「自己の探求」に懐疑的だった。
「自分とは何かなどという問いを探求すれば、人は霧の中に迷い込んでしまう。大事なのは、世界の中に出て行って行為することだ。そのなかで自分とは何者なのかも見えてくる」というようなことを述べている。
この姿勢について、シュタイナーはそこにゲーテの限界があったと書いた。
もしゲーテがその観察の眼を植物だけではなく、自分自身にも向けていれば、「生命のメタモルフォーゼ(変容)」の認識から、「魂のメタモルフォーゼ」の認識にも到ることができただろうと。

まったく文脈が違うように思われるかもしれないが、ぼくはここに村本大輔氏と東浩紀氏の姿勢の違いを見ている。
村本氏はどこまでも「自己言及的」であろうとし、そこから「投票に行かない人々の内面」に寄り添おうとしている。
彼が求めるのは「愛のある一票」なのだ。
それに対して、東浩紀氏の眼差しは「ルール」に向かう。そして立憲民主党をはじめ、今努力している人々に対しても冷ややかである。

少なくとも、東浩紀氏は「俺は知っている」という人々のひとりである。

その彼が眼差しを自分自身に向けたとき、何が見えてくるのだろうか。
もちろん、文学者であるゲーテに自分が見えていなかったなどというのは極論だし、『詩と真実』のような自叙伝的文学はゲーテから始まったとさえ言われる。
シュタイナーがいうのは、ゲーテがあえて見ようとしなかった一点があるということだろう。
同様に、東氏だって自分のことはよくわかっているに違いない。
それでも彼が自分に関してあえて触れることを避けている一点があるのではないか、というのがぼくの感想である。

ちなみに、シュタイナーのいう「魂のメタモルフォーゼ」とは輪廻転生のことだ。
ぼくなりの解釈で言えば、「自己言及の罠」は「神秘主義やオカルトの罠」にもつながるものだろう。
でも、それをただ回避するだけでは、本当に人々の内面に生きているものから離れることになる。
自分自身からも。
国家や憲法をめぐる問いは、私たちが「そこに生まれた」という事実を前提にしている。
選挙権は先人が努力のすえに獲得した権利だから無駄にするなという言い方もあるが、本当はその「先人」と「私」はひとつにつながっている。
本来、すべての人のなかに、社会形成に参加したいという欲求があるはずなのだ。
なぜなら、この社会は私たちが輪廻転生を通じて共につくってきたものだからだ。

村本氏は、政治家に向かって「選挙に関心を持てるようにしろ」という。
けれど、その要求は教師たちに向けられるべきだ。
子どもたちの中に政治への関心を呼び覚すことができるのは、教育現場にいる人たちのはずである。
でも、彼らが授業でリアルな政治を取り上げることはますます困難になりつつある。
そこが一番の問題なのではないか。

ぼくは今、日本の文脈のなかで「教育の自由」を扱う可能性を考えている。
日本国憲法の条文がアメリカ人によって作成されたことは明らかだけれど、まさに東氏やデリダをはじめとする人々が考えてきたように、すべての言葉はパロール(声)であると同時にエクリチュール(文字)である。
そしてエクリチュールである限りにおいて、それは作成者のもとを離れ、いくらでも新たに解釈され、意味づけされる可能性を持っている。
重要なのは、憲法を誰が作成したのかではなく、
その言葉に自分がどう向き合い、どう解釈するかなのだと思う。
ちょうど東氏が引用しているガダマーの言葉にあるように、「伝承の運動と解釈者の運動が相互に働きあう」ことによって「私たちを伝承と結びつける共同性」が立ち上がるとすれば、それが日本国憲法というテクストをめぐって起こることをぼくは願うものである。

そして、その可能性は保育園、幼稚園から学校にいたるまで、保育者や教師たちの言葉に向かう姿勢にかかっていると思う。
日本人の真の自立は、アメリカ人が作成した憲法を忌避することによってではなく、目の前の言葉をどのように受け止め、それを自分自身の主体性によって解釈し、そこに生命を吹きこんでいくか。それによって実現するのだと思う。

今回、東浩紀氏や村本大輔氏が提起した「棄権」をめぐる問いは、結局は「言葉」をめぐる問いなのだと思う。
ドイツ語の一票Stimmeは「声」という意味である。英語のvoteは誓いや願いを意味する。
一票を投じることのなかに国民の声と願い、意志がある。
だれもが発するべき声を持っている。
けれど、その声が聞こえない、発せられない状況の背後に何があるのか。
そこを村本氏は揺さぶろうとしている。
東氏はそれよりもルールそのものが無効ではないのかと訴えた。

このふたりの問題提起を受けて、ぼくは日本に生きるひとりとして、人間の言葉は輪廻転生を基盤にしていることを自分なりに明らかにしていきたいと思った。
社会形成の原動力は、個々人のなかの輪廻転生を通じて活動するスピリチュアリティである。
これまでは避けてきたことだけれど、そこにはっきり目を向けることから、権利でも義務でもなく、個々人の欲求としての投票を含めた社会参加の可能性が見えてくるのではないか。
そのように今は思っている。


共謀罪と魂のこよみ

2017-05-19 09:27:45 | 隠された科学
5月19日~25日
強大な世界の光に引きつけられ、
私の自己が逃げ出そうとしている。
だから私の予感よ、
お前の権利を力強く掲げよ。
感覚のまぼろしのなかに
自己を見失おうとする
私の思考の力を補うがいい。
ルドルフ・シュタイナー

先週から、副園長が提案してくれて、シュタイナーの魂のこよみを幼稚園の玄関に置くことにした。
せっかくなので自分で新しく訳しているのだが、今週のこの言葉は、
共謀罪の法案が衆院の法務委員会で強行採決されようとしている今日の雰囲気に見事に合致しているように思えた。

ドイツ語の原文では、Macht(権力)、Kraft(力)、権利(Recht)という言葉が意識的に配置されている。
世界の光とは、感覚に訴える世俗の作用であり、それは権力のように力強く(mächtig)人間の自己を引き寄せる。
人間の自己は、権力に引きつけられると同時に、自分自身から逃げ出そうとする。
すると、人間の自立を支える思考の力も、感覚に映ずる現象だけを現実と思い込み、思考本来の働きを失ってしまう。
そういうときは、内面の仄暗い「予感」の働きだけが頼りだ。

ここでの「権利」(Rechte)という言葉は、日本語としては「本分」とでも表現した方がよいのだろうが、
あえて「予感がその権利を力強く掲げる」という意味合いを強調してみた。

共謀罪については、多くの人が反対する一方で、
国際犯罪の防止には不可欠だという人々もいる。

人々の行動を監視し、情報を収集することは「思考」の領分である。
本来、思考=知性は個人の自立を支える最も重要な心の働きだが、
強大な権力に対して、知性で立ち向かおうとするとき、
実は、知性そのものが権力と親和性を持っていることに気づく必要がある。

人間の心の働きの中で、知性は特権を持ち、
仄暗い感情や衝動を抑え込む傾向がある。

外界の権力に目がくらみ、思考が停止してしまうときは、
「予感」のような感情にも、思考と同等の権利があることを意識すべきなのだ。

人間の自立は、知性だけではなく、
感情や意欲を含む心の働きが一緒になって支えている。

共謀罪に対して、なんとなく嫌な感じがするのであれば、
その感覚を認めることから、
本来の思考が再び働き始めるだろう。

治安維持法の再来と言われる共謀罪の法案が成立してしまえば、
この国はいよいよ戦前への道を突き進むことになるだろう。
秘密保護法のときも、安保関連法のときも、
多くの人が絶望の淵に立たされたのではないか。

この危機を乗り越えることができるとすれば、
人間の知性を本当に働かせること、
そのためには正当にその権利を認められていない、
自分の中の「予感」に耳を傾けることが、実はものすごく重要なのではないかと思っている。





 

原子炉の意志

2015-08-11 12:15:44 | 隠された科学
川内原発の1号機が再稼働された。
核分裂を抑えていた制御棒が引き抜かれた。
このまま核分裂反応が連続的に起こる臨界状態に至れば、
核分裂の熱がつくる蒸気でタービンが回り、発電する。

川内の原子炉よ、ぼくはあなたの悲しみを思う。
せっかく動き出そうとしているのに、多くの人が反対している。
おそらく誰も祝福はしていないだろう。
「創られしもの」であるあなたは、自分の本性に従って動こうとしている。
おそらくかつての技術者のなかには、
あなたが人類の未来に役立つと、本気で考えた人もいただろう。
あなたもそう信じて地上での一歩を踏み出したのかもしれない。
でも、今のあなたは知っている、
自分が本当には望まれていないこと、
自分の育ての親たち、親戚たちは、
みな利害だけで、自分にふたたび生命を与えようとしていることを。

あなたは悲しいだろうと思う。
孤独だろうと思う。
自分を呪っているかもしれない。
それでも制御が解かれれば、あなたは動き出す。
それがあなただから。

生まれてきたあなたに罪はない。
罪は、あなたを動かそうとしている人々に、
そしてあなたを創りだした科学者たちにあるのだ。

この世に意味のないものなどないが、
プルトニウムだけは存在する意味がない、とある人が言った。
それほど不幸なことがあるだろうか。
科学者のなかには、
神から授かった知恵を権力のために、
自分が神になるために使おうとする人たちがいる。

原爆は、そして核エネルギーは、
神と人間の対立から生じている。

神が創られたこの世界とは、物質の世界。
その物質を、神の計画よりも早くに崩壊させ、
人間の生産活動、ないし破壊活動のためのエネルギーを取り出す。
それは神に対する最大の冒涜だ。

思うに、かつて楽園で人間を誘惑し、
知恵の実を食べさせた蛇というのは、人間自身なんじゃないか?
神のもとに従順にとどまるのが嫌になって、
神と同じ力を身につけ、別の世界で神として振舞おうと考えた、
人間自身の心なんじゃないか?

人間は、その知恵を使って、
生き物を殺傷する道具を創った。
今、世界に存在するありとあらゆる武器、
軍需産業が開発するありとあらゆるハイテク兵器は、
みな人間の心がつくった。
原発や武器、兵器に罪はない。
それらをつくりだした人間の心こそが「悪魔」なのだ。

今、鹿児島で、
絶望のうちに己を奮い立たせ、
動き出そうとしている原子炉よ、
ぼくは、あなたを感じる。

ぼくは認めようと思う、
ぼくもあなたをつくった人間の一人だ。
ぼくが「悪魔」なのだ。
あなたが生み出すエネルギーを受け取り、
それで自分の人間性を紡ぎ出しておきながら、
一切の責任をとらなかった者のひとりだ。

ぼくは、あなたを「意味のないもの」にはしておかない。
人間の本来の使命は、
どんなものにも「意味」を創造することなんだと思うから。
ヒロシマやナガサキのように、
チェルノブイリやフクシマのように、
あってはいけない悲劇というものがある。
でも、その悲劇が起こったとき、
それをただ肯定したり、考えもなしに受け入れるんではなく、
その悲劇とともに、新しい価値、新しい思想を生み出す力が人間にはある。
それこそが、実はあの楽園の蛇が本当に願っていたことだと思うのだ。

神って何なんだろうね。
楽園を支配していた創造主も、
そこに忍び込んだ蛇も、
人間も、人間に創られたあなたも、
みんなが共有する本当の故郷があるんじゃないかな?
そこに、本当に信じられないほど優しい誰かがいるんじゃないかって思うんだ。
ぼくはそれを信じている。
そういう誰かがいるだろうと思っている。

だから、あなたも大丈夫だよ。
あなたの本当の悲しみ、あなたの本当の意志をわかっている誰かがいるんだ。
そして、ぼくも原発の再稼働は受け入れないけど、
あなたのことは感じようと思う。
あなたの意志を感じようと思う。
あなたの存在を通して、
人間が新しい知恵を生み出すことに、
ぼくも人間の一人として力を尽くしたいと思う。

だから、動かなくていいよ。
あなたの、本当の意志のままにあればいい。

“原発再稼働”に抗する意志

2015-08-10 01:59:51 | 隠された科学
鹿児島の川内原発が明日にも再稼働される見通しだ。
8月10日に制御棒の検査が行われ、翌日には運転を再開するという。
住民の避難対策の不備をはじめ、さまざまな問題が指摘されてきた。
9日には原発のある川内市の久見崎海岸で2000人規模の反対集会が開かれ、
毎日新聞などの世論調査でも、「反対」が「賛成」を上回ったというが、
それでも県と九州電力、そして政府の姿勢は変わらない。

私が問題にしたいのは、彼らの「意志」だ。
なぜそこまでして原発を推進したいのか?
もちろん、「経済優先」の発想だからと言われるかもしれない。
けれど、原発が本当は「経済的」ではないことは明らかにされている。
本来の経済ではなく、一部の人々の「利権」なのかもしれない。
けれど、いわゆる「原発村」の人々にも思考力があるだろう。
未来の子どもたちにどれほどの負の遺産を残すことになるかは、彼らだってわかっている。

今の安保法制への動きも、沖縄の米軍基地も、原発推進も、すべて一つにつながっている。
素朴な感覚でいえば、彼らは日本を滅ぼしたいのだとしか思えない。
けれど、そこに働く「意志」とは何なのか?
日本を属国にしておきたい米国の意志だろうか?
だとすれば、その意志は何を目指しているのか?

私は、そこには破壊衝動があると思う。
それも、「個人の意志」に対する破壊衝動である。
この世界には、一人ひとりの個人が自分で意思決定をし、
尊厳をもって生きることが我慢ならないと感じる勢力があるのだ。

そして、その勢力にとって、
たとえば日本政府が、本当に国民一人ひとりの生活のことを考え、
日本独自の政策を打ち出したりすることは、到底認められないだろう。

この勢力は、私たちのなかにも「衝動」として働いている。
子どもが反抗したり、
弱い立場の人が誇りをもって自己主張したりするとき、
それをまっすぐに受け止められず、苛立つのは、この衝動のゆえである。
この衝動が働くのは、自分がより強い立場にいるときだ。
生活に困窮している人、難民と呼ばれる人たち、
弱者の立場にある人たちが立ち上がろうとするとき、
自分の立場が脅かされたように感じ、怒りや苛立ちをもって反応する。
それは「権力」の作用である。

私が言いたいのは、
この「権力」は一種、霊的な作用である、ということだ。
そして、さらに注意を促したいのは、
この権力という霊的作用が攻撃するのは、
一人ひとりの個人の自立や自発性だということだ。

戦争への流れも、米軍基地や原発の問題も、
そこに共通しているのは、お金という力で現地の人々の意志を縛るという構造である。
あるいは、力で相手を圧倒したり、さらには生命を奪ったりする。
それでいて、責任者が不明なのだ。
戦争では(死刑でも)、殺す側も、殺される側も、個人性を奪われている。
戦争で人を殺しても罪に問われないのは、そのためだ。

自民党の憲法草案では、
13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を、
わざわざ「人として尊重される」として、
「個」という一語を外している。
そこに見られる「個」に対する拒絶感は、今の政府の動きの本質を示している。

私は、今の政治的・社会的な流れに抗するには、どうしても「霊的」な観点が必要だと思う。
核エネルギーの「霊的」本質とは何だろうか?
それは「原子核」の破壊である。
原子とは英語でアトムというが、「分割できない」という意味である。
個人を英語でインディヴィジュアルというが、これも「分割できない」という意味である。

20世紀になって、原子はもはや物質の最小単位ではなく、
電子やクオークからできていることがわかってきた。
分割不可能なはずの原子が、電子と原子核に、
さらにその原子核を構成する陽子と中性子、
さらにその陽子と中性子がクオークへと「分割」されていったのだ。

それは物理学の発展過程の出来事だが、
その過程で「原子爆弾」が、そして原子力発電所がつくられたことを忘れてはならない。
物質のもとであったはずの原子が分割され、
原子核が破壊されて、解き放たれた膨大なエネルギーが、
爆弾として人々を殺傷し、
放射線として私たちの生体を蝕むことになった。

分割不可能な原子の破壊によって、
分割不可能な個人が攻撃されている。
そこに私のいう「霊的」な意味がある。

シュタイナーは、
放射線とは「物質が霊化」されたものだと言ったが、
およそすべてのエネルギーは霊的である。
私たちの活動はすべてエネルギーによって可能になる。
私たちの存在そのものがエネルギーである。

さて、原子と個人(アトムとインディヴィジュアル)の違いは、
原子は物質の単位として、すでに生成されたものであり、
個人は一人ひとりの人生を通じて、未来に向かって生成されていくものだということだ。

私たちの個人もまた、無数の要素によって構成されている。
つまり遺伝子をはじめ、さまざまな環境要因がそこには働いている。
けれども、それらをつなぎ合わせて、私たちは個人を出現させていく。
それが「生命」ということだ。

原子力が危険だということは確かだ。
けれど、脱原発や核廃絶への動き、
そして脱戦争への動きは、一人ひとりの個人の生成によって裏打ちされなければならない。
なぜなら、原子力推進派が攻撃しようとしているもの、
あるいは米軍基地に固執し、戦争への道を着々とつけている人々が破壊しようとしているもの、
それは一人ひとりの個人の意志だからだ。

戦争でいちばん傷つくのはいつも女性や子どもたちだと言われる。
その人たちはみな個人なのだ。

私たちのなかにある「原発再稼働」に抗する意志、
安保法制や沖縄の米軍基地に抗する意志は、個人の意志である。

私たちは、なによりも自分が自分であるために、
この一連の時代の流れに対抗しようとしている。
そして、そこに唯一の被爆国としての日本の本来の使命があると思う。

言葉による国家形成

2015-08-05 11:48:09 | 隠された科学
「国家」はすでに古い概念で、これからは「社会」が問題なのだと言われるかもしれない。
けれど、国家という亡霊がこれほどまでに政治家たちの意識を支配している今、
あえて私たちの意識のなかで「国家」の意味を問い直していく必要を感じている。

国家の基盤は言語である。
血筋や民族ではない。共通の言語を理解する人たちの結びつきが国家なのだ。
その意味では、一人の人間が複数の言語を理解することで、複数の国家に属することはありうると思う。
しかし、多くの場合、私たちはひとつの母語を選ぶ。
いくら複数の言語を巧みに話せたとしても、
自分の自己の確立のためには、母語が必要なのだ。
それは子どもの成長のためには、親との関係、
あるいは血縁でなくても、信頼できる大人が一人いることが必要なのと似ている。

ある「国」に生まれ落ちることは、
ある言語圏に生まれ落ちるということだ。
私たちは、親を選んで生まれてくるように、
特定の言語を母語とすべく選んで生まれてくる。

国家の法律はすべて言葉で記される。
憲法もまた言葉で記され、
裁判所の判決も言葉で伝達される。

その言葉は、乳幼児期に、一人ひとりの子どもの内から発生する。
そこに保育/教育と国家形成が直結する点がある。

言葉は一人ひとりの自己から発せられ、
個人の自己形成があるからこそ、国家形成もなされうる。

なぜ子どものなかに自己が育ち、内発的に言葉が出てくるのか?
そこに人間の最大の謎がある。

しかし、確かなことは、私たちは子ども時代に自分の言葉を獲得したこと、
そしてその言葉は、同じ言語圏の他のすべての人々と共有していることである。

さらに重要なことは、
私たちがしゃべるこの言葉は、私たちの世代だけではなく、
ずっとずっと前の世代、今はもう死者となった人々が語り継いできたということだ。
私たちがこの言葉を創ったのではない。
私たちは、死者たちが遺していった言葉を語っている。

そして、私たちもいずれは、この言語を遺して去っていく。
私たちが今しゃべっているこの言葉を、いつかは後の世代の子どもたちが語ることになる。

今、国会で議論している政治家たちも、この言葉をしゃべっている。
死者たちが遺してくれた言葉を使って、
彼らは言い逃れ、詭弁を弄し、嘘をつく。

私たちはそれを聞いて怒り、また失望するが、
つねに意識していなければならないことがある。
それは、今、この瞬間も、政治家たちの言葉によって、
私たちの国家が創られ続けているということだ。

私たちの国は、今は、嘘で塗り固められた、空虚な塊でしかない。
それに対して、私たちは言語を取り戻さなければならない。
そして、それは何よりも子どもたちとの関わりのなかでなされる。
家庭のなかで、保育園や幼稚園、学校のなかでなされるのだ。

私たちが母語を語るときも、
あるいは外国語を語るときも、それは国家の基盤にかかわっているのだ。
言語には、個別性と普遍性がある。
ある言語に独特の表現や言い回し、あるいは独自の発音がある一方で、
地域や文化を超えて共有できる人間としての理想がある。
そうした理想は、英語でも日本語でも、すべての言語で表現できる。
たとえば日本国憲法に記された理念は、そのような人類共通の理想なのだと思う。

翻訳可能な理念と、
翻訳では伝えきれない地域的、文化的なニュアンスがある。
そのどちらが大事とか、優れているということはない。
大事なのは、どの言語にも、そのように個別性に向かう側面と、
普遍性に向かう側面があるということだ。

そして、万人を平等に受けとめるべき国家においては、
可能なかぎり普遍的な言語が語られるべきである。
そのときはじめて、すべての地域性、個別の文化が平等に扱われる。

国家とは言葉の家である。
それは言葉で書かれる法律の家であり、
その言葉は可能なかぎり普遍的でなければならない。

だから、日本国憲法が最初は英語で書かれ、占領軍のアメリカ人と共有されたとしても、
それは憲法に記された理念をまったく傷つけることはない。
むしろ、その理念が一人ひとりの個人、一つひとつの地域性を包括できるものであるかが問題なのだ。

政治は、「可能性の芸術」だといわれるが、
何よりも言葉の仕事だと思う。
国会でも、およそすべて政治の場では、
普遍的な言葉が、一人ひとりの責任において語られる。
その積み重ねが国家をつくるのだ。

もし大多数の政治家が嘘を重ね、国家がますます空虚になっていくとすれば、
それに気づいた私たちが真実の言葉を語り始めなければならない。
それがどこまで数少ない政治家の真実の言葉と共振するか、
どこまで死者たちの思いが、現在語られる言葉のなかに流れ込むか、
どれだけの真実が未来の子どもたちのもとに遺されるか、
そこにすべてがかかっていると思う。

そうでなければ、今の国会の審議によって、
私たちの国は決定的に、精神的に崩壊するだろう。

愛国心とは何か?

2015-08-05 07:59:07 | 隠された科学
愛国心とは、子どもの親への愛情に似ている。
シュタイナー教育では、「子どもは親を選んで生まれてくる」というが、
それはただの神秘思想ではない。
愛とは何か、ということである。

子どもは、どんな劣悪な環境にも生まれてくる。
虐待され、食べ物を与えられず、紛争に巻き込まれても、
子どもは大人に身を委ねることしかできない。
いや、そこに自分を受けとめてくれる大人が一人はいてくれることを信じて、
子どもは生まれてくる。
その思いは裏切られるかもしれない。
それでも、子どもたちは何かを信じて、誰かを信じて生まれてくる。
そのあり方が「愛」なのだと思う。

「親を選んで生まれてくる」というのは、甘くて美しい考えではない。
子どもが生まれたということは、
親が選ばれたということだ。自分が無条件の愛を、子どもから向けられていることを知ることだ。
自分はその愛に応えようと努力することもできるし、
その愛を深く裏切ることもできる。その震撼させられるべき責任の重さを伝えているのが、
「子どもは親を選んで生まれてくる」という言葉なのだ。

同様に、人は「国」を選んで生まれてくる。
そこは「国家」の体をなさない場所かもしれない。
それでも人は自分の「故郷」を選んで生まれてくる。
子どもたちを受けとめる社会は、
「故郷」として選ばれたことの責任の重さに震撼させられるべきだ。

私たちの実感は、
自分は親を選べないし、生まれ落ちる環境を選べないということだろう。
それはそうなのだ。
「あなたは実は親を選んで生まれてきた、この国を選んで生まれてきた、だから親孝行をしなさい、国に奉仕しなさい」
というのは、「選ばれた側」が発する最悪のメッセージである。

選ばれた以上、私たちには義務と責任がある。
それは少しでも子どもたちの愛に応えることだ。
少しでも愛されるに価する人間になろう、愛されるに価する国を形成していこうと努力することだ。
それが「教育」なのだと思う。

教育とは、立派な大人が、未完成な子どもの人格を完成させていくことなんかではない。
未熟な人間が、子どもの傍らで、少しでも自分を完成させていこうと努力することだ。
大人の自己形成への努力だけが、子どもの人格形成を支える。

そこにおいて、人間の自己形成は国家形成と一つにつながっている。
教育は国家の礎である。
けれど、その意味は従順な人間をつくりだして国を支えるということではない。
大人の問題なのだ。
自分たちのもとに生まれてきた子どもたちが育つ環境として、
私たちはどのような国をつくっていきたいかということだ。
その意味での国家は、決して完成されざるもの、
つねに人々の努力によって変化し、生成し続けるものである。

国家は、人々のなかでつねに発生し続ける。
私たちが国家なのだ。そして、私たちが子どもたちの傍らで、
絶えざる自己形成に向けて努力し続けることを初めて意識的に誓ったのが、70年前のことだ。
日本国憲法は、未来の子どもたちに向けて、大人の誓いを記した手紙である。

私は国旗掲揚に反対ではない。けれど、国旗掲揚や国歌斉唱を強制することには絶対に反対である。
なぜなら、それは国旗や国歌を冒涜することになるからだ。
本当に国旗を大切に思う人たちが集まったところでは、国旗を掲げればいいだろう。
けれど、その思いは真実でなければならない。

別の人たちは、自分の「愛国心」をもっと別のかたちで表現したいと思うかもしれない。
ドイツ語の「故郷」(ハイマート)には独特の響きがある。
自分がもといたところ、いずれ帰っていくところ。自分のアイデンティティーの原点。

今、日本という国は、安倍政権の自立の欠如した、対米追従の政策によって、
ますます誇ることのできない、愛することのできない国になりつつある。
それで傷つくのは、私たちの、子どもたちの愛国心である。

親への愛も、
国への愛も、
人間への、自分自身への希望であり、信頼である。

そう考えたとき、
親は子どもが反抗し、自立に向けてあがくのを喜びをもって見守るだろう。
政府もまた、市民が問題を指摘し、反対集会を催したときは、
その議論を歓迎することができるだろう。

個人の自立こそが、国家形成の最大の力なのだから。

安保法制とアントロポゾフィー協会

2015-08-04 22:20:08 | 隠された科学
今、参議院で審議されている安保法案の中心には、
「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という言葉がある。

この「個別」と「集団」という言葉について考えてみたい。
英語では個別的/集団的自衛権は、the right of individual / collective self-defenseという。
Individualは個人、個性を指すときに使われる言葉だ。

Collective は集団的、集合的という意味だが、
私などは、ユングの「集合的無意識」(collective unconscious)を連想したりする。
あるいは、旧西ドイツの故ヴァイツゼッカー大統領が、ナチスというドイツの過去に触れ、
今生きているドイツ国民に「罪」はないが、「集団としての責任」(kollektive Verantwortung)がある、と語ったことを思い出す。

象徴的に感じるのは、そこに「自衛権」(self-defense)のself(自己)という言葉が入っていることだ。
言葉遊びのように受け取られるかもしれないが、
私には、個別的/集団的自衛権の議論は、
国家レベルにおける「個的自己」と「集合的自己」の問題を内包しているように思えるのだ。

国家法人説という考え方があるが、
私は、国家とは一つの法人格だと思う。
国家は、会社や共同体のように、多数の個人から構成されるが、
そこにはある種の「人格」と「意志」が認められる。

個別的/集団的自衛権の議論は、
国家という法人格の「自己」に関わる問題なのだ。

会社や共同体、国家などの組織の「自己」とは何か?
それは、そこに集う一人ひとりの人間がもつ共通の願いや意志であろう。
たとえば平和に暮らすこと、人並みの生活をすること、
男女が平等に扱われること、生命が守られること、
一人ひとりが個人としての尊厳を保証されることなど。
そうした人々の共通の願いや意志を記したものが「憲法」といえるだろう。

憲法とは、国家のアイデンティティーである。
特に、現行の日本国憲法には、終戦時の国民の平和な国家建設への願いと決意が記されている。

個別的自衛権における「自衛」とは、
まず第一に、憲法に謳われたアイデンティティーを守り抜くことであるはずだ。

それでは集団的自衛権とは何か?
その本質は、集団で相互に防衛し合う二つ以上の国家がどのような意志を共有しているのか、ということだろう。
そこに「共通の自己」とさえ言えるような意志があるのか?

いや、もっとはっきりいえば、
集団的自衛権とは、ある国の意志が別の国の意志を呑み込み、
一つの国家意志が「自己」(Self)として働く状況を暗示している。
それがまさに戦争ということだろう。

今、日本における集団的自衛権をめぐる議論は、
ほとんど米国だけを想定している。
米国と日本が共有する意志や理想とは何かといえば、
必ず「民主主義」とか「自由」という言葉が返ってくるだろう。

その一方で、昨年夏に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、
安保法案を無理にでも成立させようとしている勢力は、
日本国憲法は、米国の押しつけだという。

けれど、米国と同盟を結び、米国の戦争に加担しようというのなら、
米国から押しつけられた理想をそのまま受け入れ続けてもよいのではないか?

ところが、今では、その米国自身が、日本の憲法を変えたがっている。
なぜなら、日本国憲法には、実は日本国民の強い意志が生きているからだ。
この憲法があるかぎり、米国の「自己」は、日本の自己を丸呑みにすることができないのだ。

さて、ここで翻ってルドルフ・シュタイナーという人が創ったアントロポゾフィー協会だが、
それは1923年、ドイツのワイマール共和政の時代のことだ。
その当時は、民主主義をめぐって、やはり「個」と「集団」の対立が議論されていた。
あまりにも「個」を主張することは、文化における高貴な精神性が阻害されるのではないか、と、
たとえば作家トーマス・マンをはじめとする知識人たちが警鐘を鳴らしていた。

その時代に、シュタイナーは、
「精神性」と「民主制」、あるいは「秘教性」と「公共性」を結合することを試みた。
それがアントロポゾフィー協会だった。

アントロポゾフィー協会は、やがて法人格をもった組織として、スイスの法律に基づいて社団法人として登録された。
そこに集う一人ひとりの個人を相互に結びつけるのは、
私はこの世界にアントロポゾフィーが存在することを願う、という意志だった。
その願いは、一人ひとりの個人におけるまったく個別的(individual)な意志である。
アントロポゾフィーとは何か、あるいはそれがどのように世界に働くべきか、その見解や願いのあり方は、人それぞれである。
共通しているのは、この世にアントロポゾフィーがあってほしいという一点である。

そのような意志をもつ人々が対等な立場で法的な組織を形成するとき、
そこにアントロポゾフィーという精神性が働くことができる。

私は、国家も同じだと思うのだ。
アントロポゾフィー協会とは、実は、シュタイナーによるまったく新しい「国家建設」の試みだったのだと思う。

シュタイナーは、アントロポゾフィー協会の「会則」は、
実は会則ではなく、人々が共通して抱いている信念を記述したものにすぎない、という。
本来の憲法とはそういうものだ、と思う。

シュタイナーがアントロポゾフィー協会のあり方について述べた講演や書簡がまとめられた本には、
『アントロポゾフィー協会の《憲法Konstitution》』というタイトルが付けられている。
KonstitutionとはConstitution、「体質」や「構成」、「あり方」を意味する言葉である。

ちょうど、1923年のクリスマス会議において、
ドルナッハに集まった800人余りの人々の「信念」を基盤として、
シュタイナーがアントロポゾフィー協会を築こうとしたように、

戦争の苦しみを通過した日本の人々は、新しい日本国憲法のなかに自分たちの理想と信念を見た。
それを受け入れたことが、彼らの決意だったのである。

故ヴァイツゼッカー大統領が「国民の集団的責任」について語ったように、
私たちには、日本国憲法への、先人たちの決意への集団的責任がある。

集団的自衛権の「集団」と、私たちの集団的責任における「集団」は、虚と実の関係にある。

集団的自衛権は、国家のアイデンティティーが他国の意志に呑み込まれることだ。
自国の憲法に対する集団的責任においては、一人ひとりの自己が個別の決意によって強められなければならない。

戦後、GHQのアメリカ人たちが書いた憲法草案のなかには、
本来のアメリカ合衆国の理想、アイデンティティーがあったといえるだろう。
それは当時の日本人の理想と願いに共鳴するものだった。

しかし、今、米国自身がその理想を否定し、負の遺産を世界に蔓延させようとしている。

その結果、一つひとつの国家の精神性が消滅しようとしている。
今、国会で議論されている安保法制は、日本という国家の自己否定である。

それに抗するためには、一人ひとりの個人が自己を強めなければならない。
自分は、日本という国にどうあってほしいのか、
その理想を日本国憲法のなかに見いだすことができるのか、真剣に検証しなければならない。

それによって、私たちは日本の精神性に生命を与えるのだ。
それがアントロポゾフィーということだ。
この努力において、私たちは90年前のシュタイナーの戦いを引き継ぐのである。

未来からの意志

2015-07-29 19:06:20 | 隠された科学
人間に「自由意志」はあるのか?
シュタイナーを含め、数多くの哲学者や科学者が取り組んてきたこのテーマも、
今日の日常生活のなかでは、熱心に自分の問題として考える人はあまり多くないだろう。

でも、今、この自由意志の問題は、
参議院で審議されている「戦争法案」をめぐっても、
きわめて重要な意味をもっていると思う。

そもそも、この問題は「私は自分の本来の人生を生きているのか?」ということにほかならない。
親が決めた人生、
あるいは誰かに決められるということはなくても、
生まれ落ちたその状況のなかで、流されるように生きているのではないか?
自分は、その時々で自分で選択し、自分で決断して生きてきたのか?

そもそも人間には、自分で生き方を決めることなどできるのか?
所詮は、現実を受け入れ、抵抗や自己主張などせずに従順に生きるべきではないのか?
本来、人間に「自由意志」があるかどうかは、すべての人にとって大問題なのだ。
ところが、そのことに多くの人が気づいていない。
それは「われわれの時代の悲しい特徴のひとつだ」と、すでにシュタイナーは百年以上も前に書いていた(『自由の哲学』)。

世の人々の生き方を見れば、
「自分の生き方は自分で決められるかどうか」をめぐって二つの陣営に分かれているようにも見える。
たとえば昨日の朝日新聞に広告が載っていた曽野綾子氏の『人間の分際』という本には、
次のような謳い文句が添えられている。
「『やればできる』というのは、とんでもない思い上がり。
努力でなしうることには限度があり、
人間はその分際(身の程)を心得ない限り、
決して幸せには暮らせないのだ。」

実際にこの本を読んだわけではないが、
おそらく曽野綾子氏は「自由意志」を否定する側の人だろう。
そして、「身の程を知れ」と言われて、素直に受け入れてしまう人たちもいるのだ。

実のところ、
人間に「自由意志」があると考えるか否かは、
その人の生き方だけではなく、政治的な考え方にもつながっていく。
以前、まだいわゆる「自虐史観」を批判する人々に連なっていた頃の、
漫画家小林よしのり氏が書いた『戦争論』を読んだとき、
その最後が「自由意志」の否定で終わっているのに衝撃を受けたことがあった。
後で、その考えは西尾幹二氏などにも見られることを知った。

個人が「全体」の犠牲になってもよい、
あるいはそこに美徳があると考える人たちは、自由意志を否定する。
そして、ここが微妙な線なのだが、
「ひきこもり」や「不登校」などの問題の捉え方も、自由意志をめぐって分かれることになる。
たとえば、精神科医の斉藤環氏による「ひきこもり」についての著作には、
ひきこもりに到る人々は「去勢」されていないという表現がある。
これは根底で「身の程を知る」という発想につながっている。

大雑把な言い方をすれば、
個人の自由意志を重んじることで、
個人は神経を病み、社会は混乱する。
一人ひとりが身の程を知り、現状に満足することで、社会は安定するという考え方だ。

実際、今の社会で、個人の意志を尊重することは困難だ。
自分の人生を自分で決めようとすれば、壁にぶつかり、
神経を病むこともあるだろう。
けれど、一人ひとりが自分の生き方をめぐって、
現状に抵抗し、自己主張を行わないかぎり、社会は変わらないのだ。

自由意志の否定は、社会変革の否定である。

今、ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』という本を感銘を受けながら読んでいる。
神経科学の立場から、脳と意識の関係を実証的に記述した本である。
その中心テーマが「自由意志」なのだ。

リベットの実験によれば、
人間が何かをしようと決意する前に、脳の活動が始まっている。
たとえば手首を曲げるとき、
心のなかではその運動を始める約200ミリ秒前に、その意図が意識される。
ところが、脳内の「準備電位」を計測すると、
実際の行為の550ミリ秒も先立って生じている。
つまり、「運動を生み出す脳内事象は、当人が意思決定を意識するよりも約350ミリ秒前に起こっている。」

ここから、「人間の意思決定の意識は、行為の原因ではなく、脳過程の結果である」とみなされる。
それは、一見、「自由意志」の否定につながるようだが、
リベットはあえて「自由意志」の可能性を論じるのである。
「もし仮に運動が無意識の力によって起動されているとしても、
ひとたび人が自らの意図に気づくやそれを拒否するのに十分な時間がある」というのである。
(以上は、S.M.コズリンの序文より)

私は、むしろ「意志」について新しい考え方が必要だと思う。
リベットは、人間の「意識(気づき=アウェアネス)」を研究した。
そして、そこに「時間」の要素を取り入れたことが重要だと思う。

意識はつねに「現在」において起こる。
だとすれば、
シュタイナーが「思考は過去から」「意志は未来から」と言ったように、
意志とはつねに未来に起こり、
それが現在において意識されることが「意思決定」だと考えられるのではないか?

リベットの実験結果はむしろそのことを示しているように思える。

人間のなかには実現されるべき無数の可能性が眠っている。
それらは人間のなかの「未来」だ。
一人ひとりの個人のなかに、
未来から、無数の可能性が「意志」として流れ込む。
その一つひとつに気づく(become aware)ことが決意なのだ。

個人の自由意志の問題、
つまり、私やあなたがどう生きるかは「気づき」の問題だ。
高望みしたり、「身の程」を知るということではない。
未来から流れ込む、自分の意志に気づくかどうか、ということだ。

そして、自由意志を否定すること、
あるいは個人の意志を抑圧することは、
この地上に、よりよい社会を実現しようとする人類の意志を抑圧することだ。
人間の可能性を否定することだ。

自由意志の否定の最たるものが戦争である。

今、審議されている戦争法案は、
国家に、個人の人生を決定させてよいのか、という問題だ。
それが自衛隊であれ、民間人であれ、われわれはすべて「個人」なのだ。

原発にせよ、「戦争法案」にせよ、
本来の人々の意志を押しつぶそうとする「別の意志」が働いている。
それは一人ひとりの個人に「身の程を知れ」と言って、現状を受け入れるように迫る。

そうではない。
私たちに必要なのは、個人としての自分の意志に気づくことだ。
今、本当の戦いは、そこにあると思う。

男性的思考と「慰安婦」問題

2015-07-27 08:20:05 | 隠された科学
先日の『報道特集』(2015.07.25)で、インドネシアにおける「慰安所」の開設に当時主計長だった中曽根康弘氏が関わっていた事実が取り上げられたのを受け、この問題を最初に報道したというLITERAの記事を読んだ。

防衛省の資料から「軍の関与」が裏づけられ、それがテレビの報道番組の現地取材によって検証された意義は極めて大きいと思うが、ここでは私自身が考える「慰安婦問題の本質」について記しておきたい。

結論から言えば、私はすべての戦争は男たちが始めるのだと思っている。より正確に言えば、人間の中の「男性的思考」が戦争を起こすのだ。女性の中にも、一部の政治家や官僚のように、男性的思考を完全に身につけた人たちがいる。

男は寄る辺ない存在だ。そして、自分の自我を成り立たせるために「権力」を必要とする。権力とは、自分の外にある力、外から支えてくれる力だ。それは国家であり、企業であり、ありとあらゆる職業である。私は私だというのではなく、さまざまな述語で自分を飾り立てる。

国家は究極の権力だ。寄る辺ない人間にとって、民族主義はもっとも身近な支えになる。国家が「家」なのは興味深い。人は家族にすがり、民族にすがり、国家にすがる。そして、自分の拠り所を脅かすすべてのものを排除する。
その根底には、自分の存在への不安がある。

戦争という極限状況で、男たちは追い詰められ、自分自身を見失っていく。その時、男が求める「女性」は、一人の個人ではなく、自分を優しく包み、支えてくれるもの。あるいは、自分が侮蔑し支配することで、何かの上にある自分を確認させてくれるものだ。
「慰安婦」は、あるいはあらゆる性暴力は、男たちの自立の欠如から発している。

そして、今、「違憲安保法制」に突き進む安倍政権は、日本の徹底した自立の欠如を露呈している。米国との不平等な関係にしがみつき、「家庭内」(ドメスティック)の国民を支配することでアイデンティティーを保とうとしている。

しかし、それは誰のアイデンティティーなのか? この政権が守ろうとしているのは誰の名誉なのか?

それは日本人の名誉でも、天皇の名誉でもなんでもない。あの戦争を始めた、そして無数の国民を見殺しにしたごく一握りの男たちの「メンツ」ではないのか?
そして、彼らを支えている力、特に米国に由来する力がある。

この「慰安婦」問題について、私たちが見つめるべきは、「親離れ」と「自立」を拒み続ける男性的思考ではないのか、と思う。