風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

現代に霊性を語る意味

2015-04-15 14:13:47 | 隠された科学
前回の文章に対してコメントをいただいた。「今の“シュタイナー”や“アントロポフィー”をめぐる状況のなかでは、一人ひとりの個人が自分自身の思想を生み出していく余地がない」と書いたことについて、もう少し説明を試みることにする。

もちろん、シュタイナーの時代も、今も、一人ひとりが主体的に考え、それぞれの「結論」を出していくことはできるだろう。
けれど、現状では、たとえばコメントをくださった水星さんと私が議論を重ねたとしても、それは彼と私のそれぞれの思想が触れ合い、相互に発展するというよりも、シュタイナーの思想について二人の人間が議論したということになるだろう。
あるいは、もし私が、アントロポゾフィーの指導的立場にある人と折り合いがつかず、袂を分かったとすれば、それが「シュタイナー業界でまた分裂が起こった」と見なされたりするだろう。

ところが、やはりコメントをくださった、いっしゅうさんが挙げられた鶴見俊輔さんや建築家のルイス・カーンのような人たちが、もし相互に論争をしたり、あるいは仲違いをしたとしても、それは個人と個人の議論やケンカであって、何らかの思想や運動が分裂することにはならない。むしろ、その衝突から新しい展開が見えてくるかもしれない。

私は、どんな人も否応なく何らかの「立場」を持たざるをえないと思う。身体を持つ以上、どこかに立たざるをえないのだから。ただ、それが「個人の立場」なのか、「集団の立場」なのかに違いがあるのだろうと思う。

今のアントロポゾフィーをめぐる状況は「集団の思想」に偏っていて、そこでは個人の立場を貫くことができない。個人の立場を貫こうとすれば、その人は「新しい一派」(グループ)をつくったとみなされる。それが「自分の思想を生み出すことができない」ということだ。

ところで、シュタイナーを含め、「霊性」(スピリチュアリティー)というものに真剣に取り組んだ人々にとって、この霊性とは、個人と集団(社会)、個と普遍という対極の原理を統合するものだった。たとえば、鈴木大拙の『日本的霊性』も、そのような観点から、日本人という「集団」の霊的な目覚めを論じている。

民族の霊性が目覚めるのは、個人が集団に身を捧げたり、集団の中に埋没するときではない。そうではなく、個人が目覚め、徹底して自己を生きるとき、その個人を通して、その人の「属性」(男、女、家族、民族、人類など)が新しい生命を帯びることになる。

それが、個人が集団を「代表」するということだろう。
日本人とは何か。それは予め決まっていることではなく、私自身の生き方によって、いくらでも変わりうることなのだ。個人が民族を規定し、個人が人類を規定する。

私の理解では、シュタイナーが晩年に設立した「アントロポゾフィー協会」は壮大な社会実験だった。革命の企てと言ってもいいかもしれない。一人ひとりの個を徹底させることによって、一つの集団、一つの社会(society)に生命を与えること。そこでは個人の精神活動が、社会の生命となる。

アントロポゾフィー協会には、どんな思想の持ち主でも入会できる。無神論者でも、唯物主義者でも構わない。条件はただ一つ、アントロポゾフィー協会の中心となる「自由大学」の存在に意味を見ているということだけだ。
それでは、その自由大学は何を目指しているのかといえば、それは一人ひとりの個人の中で、個と普遍、個人と集団という対極的な原理を一致させることによって「生きた社会」を創出することだった。

だからこそ、彼は「世界を前にアントロポゾフィーを代表する覚悟」を持つ人々によって自由大学を構成しようとしたのだ。

しかし、その意図が理解されたとは到底思えない。いっしゅうさんの言うように、アントロポゾフィーは「一神教」的な体系化された哲学のように受けとめられた。アントロポゾフィーに関わる人々は、どこか高級、高尚な集団であり、その中でもアントロポゾフィーを代表する決意を固めた自由大学会員は、さらに特別なグループになった。それによって、シュタイナーの当初の意図から遠く離れてしまったのだ。

自由大学会員に求められるのは、社会創造の意識である。個に徹底することによって、社会に生命をもたらすことだ。そして、それが「霊性」なのである。

現代において、霊性を語る意味があるとすれば、社会は「個と普遍の一致」によってしか変革されないからだ。それは一人ひとりの個人の意志に委ねられている。

本来、アントロポゾフィーという「立場」は存在しない。私自身、このブログでも、何度となく「アントロポゾフィーから見た」という表現を使ってきたが、それは突き詰めれば「私見では」という意味にしかならない。

アントロポゾフィーは一人ひとりの中で内面化され、一人ひとりの「私の思想」にならなければならない。

理解していただけるかわからないが、私は、アントロポゾフィーから離れることによって、「分裂」ではなく、新たなる「出会い」と「創造」を目指そうとあがいている。






“問い”と“答え”

2015-04-10 07:49:18 | 隠された科学
2月に「シュタイナーからの旅立ちーふたたび」という題で書いたとき、「シュタイナーが遺したアントロポゾフィーに自分が探している答えはない」と述べた。
少し誤解されたかもしれないので補足させていただきたい。

シュタイナーの遺したアントロポゾフィーに答えがないというのは、そこでは私の“問い”は問われていないということだ。
でも、それは当然のことでもある。
およそすべての思想は、問いを持つことから始まるのではないか。
そのとき、シュタイナーの思想も、他の誰かの思想も、対話の相手になる。
人は、対話しつつ、自分自身の思想を紡いでいくのだろう。

私は、もっと以前に、アントロポゾフィーに救いはない、と書いたこともある。

これも当然のことで、
およそどんな思想や宗教からも、救いは得られないと思っている。
もし救いがあるとすれば、それは思想や宗教に出会い、それと取り組むことで、一人ひとりがもつ体験の中にあるだろう。
そして本来、アントロポゾフィーとは、まさにそのようなものだ。つまり、知識体系でも、ましてや「シュタイナーの教え」などでもなく、あくまでも一人ひとりの精神活動、知的活動なのだ。
アントロポゾフィーは、人と人の間に働く。他者と出会い、触発されるときに働くのが、アントロポゾフィーだ。

シュタイナーの本を読み、時空を超えてシュタイナーの思想に触れるとき、そこにもアントロポゾフィーは働くだろう。
しかし、同様に、たとえば新聞に掲載された誰かの文章を読んで考え込んだり、あるいは職場の同僚と話し込んだりするときだって、アントロポゾフィーは働いている。
その意味でのアントロポゾフィーは、いわば人間性そのものだから離れようがない。

しかし、そのようなアントロポゾフィーは、無数の名前を持ちうるだろう。アントロポゾフィーや人智学という名称にこだわる理由はない。

私が離れようと思うのは、アントロポゾフィーという名称を固定化しようとする態度からである。(シュタイナーも「できることなら、アントロポゾフィーには毎週、新しい名前をつけたいくらいだ」と言っている。)

そして、「自分はシュタイナーのような秘儀参入者ではないので、本当にところはよくわからないが、シュタイナーによれば…」という言い方をする態度からも離れたい。

要するに、私は、今の「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」をめぐる状況のなかでは、
一人ひとりの個人が自分自身の思想を生み出していく余地がないと感じている。
誰かが何かを学び、考え、表現しても、それはアントロポゾフィー、シュタイナー、あるいはヴァルドルフという名前に吸収される。
本来の意味でのアントロポゾフィー(人間の知恵、人間性の意識)なら、それでも構わないだろう。

けれど、今使われているアントロポゾフィーという言葉は、そのような意味ではない。それはシュタイナーという人物に依拠した思想、「シュタイナーが創始した思想」ということになっている。

私は、今までは、この意味を変えられると思っていた。私自身の生き方、考え方を通して、アントロポゾフィーが本来の意味を取り戻すことに寄与できるのではないかと思っていた。
それはできない、と気づいたのだ。

言葉はそれを使う人間たちとともに生きている。

シュタイナーは、晩年、「精神科学自由大学」というものを構想し、そこに参加しようとする人々に、今までにない「真剣さ」と「自分自身が世界を前にアントロポゾフィーを代表する覚悟」を求めた。

そこでは、アントロポゾフィーに関心さえあれば無条件で入会できる「アントロポゾフィー協会」とは、本質的に違う何かが求められている。

私は、今、このように理解している。
アントロポゾフィーは、一人の人間ーたとえばシュタイナーーだけによって代表されるものではない。
その認識をシュタイナーは強く求めたのだ、と。

世界の前にアントロポゾフィーを代表する覚悟をもった人々によって、
アントロポゾフィーは、彼らが理解するものに変わっていく。

彼らがシュタイナーに依拠し続ければ、アントロポゾフィーは「シュタイナーの思想」になる。
今、世界に存在するアントロポゾフィーは、それを担って生きている人々自身なのだ。

そして、同様の覚悟をもって自由大学会員となった私自身も、そこに連なるひとりである。

私は、アントロポゾフィーを代表するひとりとして、自分に何ができるのかを考えた。
結論として、自分の中に長い間くすぶっていた衝動、既存のアントロポゾフィーへの違和感、自分自身の問いを真剣に取り上げることにした。

なぜこのようなことを、ブログとは言え、誰でも見られる場所に書くのか、と何人かの人に問われた。

それは、やはり私がアントロポゾフィーに対して強い思いをもっているからだと思う。
私が願っているのは、人と人の間に働くアントロポゾフィー(人間性)が発展、進化することだ。
私が考えることも、誰かにとって触発の材料になるかもしれない。
私自身が触発されることもあるだろう。

うまく伝わるかわからないが、
一人ひとりの歩む道は異なり、
よりいっそう真剣にアントロポゾフィーに取り組むという道もあれば、
私のように、いったんそこから離れるという選択もあるだろう。

子育てに専念する道もあれば、
子どもがいつか理解してくれることを祈りながら、仕事を続ける道もあるだろう。

しかし、今、日本という国で、
本当に必要とされているのは、
一人ひとりが自分をかけて選択することだと思う。それが何であれ。

そして、アントロポゾフィーは、本来、
一人ひとりがそのように自分を生きることに寄り添うものだ。

私たちは、否応なく世界を前に日本を代表している。
私たちの生き方が、日本を変えていく。
そこに私たちの大人としての責任がある。

それに加えて、わざわざアントロポゾフィーを代表する決意をした者は、さらに余計な責任が生じるのだ。
それはもちろん、結局は自分にしか見えないことなのだが。

私なりに、どのようにこの責任に向き合えるかとあがいているところだ。

現実的には、
私は一年くらいの時間をかけて、
自分がすでに着手しているアントロポゾフィー関連の仕事を整理するつもりでいる。
それと並行して、
アントロポゾフィーを「おんなこどもの知性」と捉え直して、仕切り直しをしたいと思っている。