前回の文章に対してコメントをいただいた。「今の“シュタイナー”や“アントロポフィー”をめぐる状況のなかでは、一人ひとりの個人が自分自身の思想を生み出していく余地がない」と書いたことについて、もう少し説明を試みることにする。
もちろん、シュタイナーの時代も、今も、一人ひとりが主体的に考え、それぞれの「結論」を出していくことはできるだろう。
けれど、現状では、たとえばコメントをくださった水星さんと私が議論を重ねたとしても、それは彼と私のそれぞれの思想が触れ合い、相互に発展するというよりも、シュタイナーの思想について二人の人間が議論したということになるだろう。
あるいは、もし私が、アントロポゾフィーの指導的立場にある人と折り合いがつかず、袂を分かったとすれば、それが「シュタイナー業界でまた分裂が起こった」と見なされたりするだろう。
ところが、やはりコメントをくださった、いっしゅうさんが挙げられた鶴見俊輔さんや建築家のルイス・カーンのような人たちが、もし相互に論争をしたり、あるいは仲違いをしたとしても、それは個人と個人の議論やケンカであって、何らかの思想や運動が分裂することにはならない。むしろ、その衝突から新しい展開が見えてくるかもしれない。
私は、どんな人も否応なく何らかの「立場」を持たざるをえないと思う。身体を持つ以上、どこかに立たざるをえないのだから。ただ、それが「個人の立場」なのか、「集団の立場」なのかに違いがあるのだろうと思う。
今のアントロポゾフィーをめぐる状況は「集団の思想」に偏っていて、そこでは個人の立場を貫くことができない。個人の立場を貫こうとすれば、その人は「新しい一派」(グループ)をつくったとみなされる。それが「自分の思想を生み出すことができない」ということだ。
ところで、シュタイナーを含め、「霊性」(スピリチュアリティー)というものに真剣に取り組んだ人々にとって、この霊性とは、個人と集団(社会)、個と普遍という対極の原理を統合するものだった。たとえば、鈴木大拙の『日本的霊性』も、そのような観点から、日本人という「集団」の霊的な目覚めを論じている。
民族の霊性が目覚めるのは、個人が集団に身を捧げたり、集団の中に埋没するときではない。そうではなく、個人が目覚め、徹底して自己を生きるとき、その個人を通して、その人の「属性」(男、女、家族、民族、人類など)が新しい生命を帯びることになる。
それが、個人が集団を「代表」するということだろう。
日本人とは何か。それは予め決まっていることではなく、私自身の生き方によって、いくらでも変わりうることなのだ。個人が民族を規定し、個人が人類を規定する。
私の理解では、シュタイナーが晩年に設立した「アントロポゾフィー協会」は壮大な社会実験だった。革命の企てと言ってもいいかもしれない。一人ひとりの個を徹底させることによって、一つの集団、一つの社会(society)に生命を与えること。そこでは個人の精神活動が、社会の生命となる。
アントロポゾフィー協会には、どんな思想の持ち主でも入会できる。無神論者でも、唯物主義者でも構わない。条件はただ一つ、アントロポゾフィー協会の中心となる「自由大学」の存在に意味を見ているということだけだ。
それでは、その自由大学は何を目指しているのかといえば、それは一人ひとりの個人の中で、個と普遍、個人と集団という対極的な原理を一致させることによって「生きた社会」を創出することだった。
だからこそ、彼は「世界を前にアントロポゾフィーを代表する覚悟」を持つ人々によって自由大学を構成しようとしたのだ。
しかし、その意図が理解されたとは到底思えない。いっしゅうさんの言うように、アントロポゾフィーは「一神教」的な体系化された哲学のように受けとめられた。アントロポゾフィーに関わる人々は、どこか高級、高尚な集団であり、その中でもアントロポゾフィーを代表する決意を固めた自由大学会員は、さらに特別なグループになった。それによって、シュタイナーの当初の意図から遠く離れてしまったのだ。
自由大学会員に求められるのは、社会創造の意識である。個に徹底することによって、社会に生命をもたらすことだ。そして、それが「霊性」なのである。
現代において、霊性を語る意味があるとすれば、社会は「個と普遍の一致」によってしか変革されないからだ。それは一人ひとりの個人の意志に委ねられている。
本来、アントロポゾフィーという「立場」は存在しない。私自身、このブログでも、何度となく「アントロポゾフィーから見た」という表現を使ってきたが、それは突き詰めれば「私見では」という意味にしかならない。
アントロポゾフィーは一人ひとりの中で内面化され、一人ひとりの「私の思想」にならなければならない。
理解していただけるかわからないが、私は、アントロポゾフィーから離れることによって、「分裂」ではなく、新たなる「出会い」と「創造」を目指そうとあがいている。
もちろん、シュタイナーの時代も、今も、一人ひとりが主体的に考え、それぞれの「結論」を出していくことはできるだろう。
けれど、現状では、たとえばコメントをくださった水星さんと私が議論を重ねたとしても、それは彼と私のそれぞれの思想が触れ合い、相互に発展するというよりも、シュタイナーの思想について二人の人間が議論したということになるだろう。
あるいは、もし私が、アントロポゾフィーの指導的立場にある人と折り合いがつかず、袂を分かったとすれば、それが「シュタイナー業界でまた分裂が起こった」と見なされたりするだろう。
ところが、やはりコメントをくださった、いっしゅうさんが挙げられた鶴見俊輔さんや建築家のルイス・カーンのような人たちが、もし相互に論争をしたり、あるいは仲違いをしたとしても、それは個人と個人の議論やケンカであって、何らかの思想や運動が分裂することにはならない。むしろ、その衝突から新しい展開が見えてくるかもしれない。
私は、どんな人も否応なく何らかの「立場」を持たざるをえないと思う。身体を持つ以上、どこかに立たざるをえないのだから。ただ、それが「個人の立場」なのか、「集団の立場」なのかに違いがあるのだろうと思う。
今のアントロポゾフィーをめぐる状況は「集団の思想」に偏っていて、そこでは個人の立場を貫くことができない。個人の立場を貫こうとすれば、その人は「新しい一派」(グループ)をつくったとみなされる。それが「自分の思想を生み出すことができない」ということだ。
ところで、シュタイナーを含め、「霊性」(スピリチュアリティー)というものに真剣に取り組んだ人々にとって、この霊性とは、個人と集団(社会)、個と普遍という対極の原理を統合するものだった。たとえば、鈴木大拙の『日本的霊性』も、そのような観点から、日本人という「集団」の霊的な目覚めを論じている。
民族の霊性が目覚めるのは、個人が集団に身を捧げたり、集団の中に埋没するときではない。そうではなく、個人が目覚め、徹底して自己を生きるとき、その個人を通して、その人の「属性」(男、女、家族、民族、人類など)が新しい生命を帯びることになる。
それが、個人が集団を「代表」するということだろう。
日本人とは何か。それは予め決まっていることではなく、私自身の生き方によって、いくらでも変わりうることなのだ。個人が民族を規定し、個人が人類を規定する。
私の理解では、シュタイナーが晩年に設立した「アントロポゾフィー協会」は壮大な社会実験だった。革命の企てと言ってもいいかもしれない。一人ひとりの個を徹底させることによって、一つの集団、一つの社会(society)に生命を与えること。そこでは個人の精神活動が、社会の生命となる。
アントロポゾフィー協会には、どんな思想の持ち主でも入会できる。無神論者でも、唯物主義者でも構わない。条件はただ一つ、アントロポゾフィー協会の中心となる「自由大学」の存在に意味を見ているということだけだ。
それでは、その自由大学は何を目指しているのかといえば、それは一人ひとりの個人の中で、個と普遍、個人と集団という対極的な原理を一致させることによって「生きた社会」を創出することだった。
だからこそ、彼は「世界を前にアントロポゾフィーを代表する覚悟」を持つ人々によって自由大学を構成しようとしたのだ。
しかし、その意図が理解されたとは到底思えない。いっしゅうさんの言うように、アントロポゾフィーは「一神教」的な体系化された哲学のように受けとめられた。アントロポゾフィーに関わる人々は、どこか高級、高尚な集団であり、その中でもアントロポゾフィーを代表する決意を固めた自由大学会員は、さらに特別なグループになった。それによって、シュタイナーの当初の意図から遠く離れてしまったのだ。
自由大学会員に求められるのは、社会創造の意識である。個に徹底することによって、社会に生命をもたらすことだ。そして、それが「霊性」なのである。
現代において、霊性を語る意味があるとすれば、社会は「個と普遍の一致」によってしか変革されないからだ。それは一人ひとりの個人の意志に委ねられている。
本来、アントロポゾフィーという「立場」は存在しない。私自身、このブログでも、何度となく「アントロポゾフィーから見た」という表現を使ってきたが、それは突き詰めれば「私見では」という意味にしかならない。
アントロポゾフィーは一人ひとりの中で内面化され、一人ひとりの「私の思想」にならなければならない。
理解していただけるかわからないが、私は、アントロポゾフィーから離れることによって、「分裂」ではなく、新たなる「出会い」と「創造」を目指そうとあがいている。