今、人間には、宗教や文化、思想の違いを超えて一致できる、
共通の価値観が必要なのだ、と思う。
新しい民主主義の基盤が必要なのだ。
自由と民主主義を掲げるアメリカ合衆国の原点、
1776年の「独立宣言」には、
「創造主が万人に自由と幸福追求の権利を与えた」とある。
創造主とは、神のことだ。
だったら、神を持たない人々、
無神論者や、万物の中に無数の神を見ているアニミズムの人たちには、民主主義の根拠がないことになる。
私たちには新しい「独立宣言」が必要だ。
一神教の神からの独立、
そして、一神教を信ずる支配者たちからの独立を宣言しよう。
神を否定しようというのではない。
私たちが成長し、親元を離れて独立するように、
神に対しても、
私たち自身が親であり、大人であり、
責任を持つべき子どもたちがいることを宣言するのだ。
古い民主主義の根拠が「神への信仰」であったとすれば、
新しい民主主義の基盤は、
私たち一人ひとりが、
子どもたちに対して持つ責任感だ。
人権は、神から私たちに与えられるのではなく、
私たちが子どもたちに認めるものだ。
子どもたちが等しく愛され、
一人ひとりの個性が尊ばれ、
幸せに、健康に生きて欲しい、
と私たちが願うから、
子どもたちには人権がある。
そして、私たちはみなかつて子どもだった。
だから、私たちには人権がある。
私たちがみな「子ども時代」を通って大人になる。
そこに新しい民主主義の基盤がある。
子どもたちは子ども時代を生きている。
そして、大人たちは子どもたちの「子ども時代」を守る責任がある。
その事実に、人種、民族、文化の違いはない。
これは頭で考え出した理屈ではなく、
人間の身体に根ざした衝動なのだ。
地球上、どこへ行っても、
大人たちは子どもたちの健やかな成長を願い、
新しい世代が古い世代を乗り越えていくことを喜んでいる。
それは人類進化の根本衝動に違いない。
新しい民主主義は、一人ひとりの内的な決意から始まる。
宗教や思想、民族や文化にはかかわりなく、
自分のなかの「子どもへの責任感」を、
「神への信仰」に代わる新しい民主主義の基盤に据えること。
自分はいかなる運命に対しても大人であり、
この自分こそが、子どもの人権を、そしてすべての人の人権を認める主体なのだと覚悟を決めること。
そこに多様な人間が共有する、
新しい価値観の発生を見届けたい。
共通の価値観が必要なのだ、と思う。
新しい民主主義の基盤が必要なのだ。
自由と民主主義を掲げるアメリカ合衆国の原点、
1776年の「独立宣言」には、
「創造主が万人に自由と幸福追求の権利を与えた」とある。
創造主とは、神のことだ。
だったら、神を持たない人々、
無神論者や、万物の中に無数の神を見ているアニミズムの人たちには、民主主義の根拠がないことになる。
私たちには新しい「独立宣言」が必要だ。
一神教の神からの独立、
そして、一神教を信ずる支配者たちからの独立を宣言しよう。
神を否定しようというのではない。
私たちが成長し、親元を離れて独立するように、
神に対しても、
私たち自身が親であり、大人であり、
責任を持つべき子どもたちがいることを宣言するのだ。
古い民主主義の根拠が「神への信仰」であったとすれば、
新しい民主主義の基盤は、
私たち一人ひとりが、
子どもたちに対して持つ責任感だ。
人権は、神から私たちに与えられるのではなく、
私たちが子どもたちに認めるものだ。
子どもたちが等しく愛され、
一人ひとりの個性が尊ばれ、
幸せに、健康に生きて欲しい、
と私たちが願うから、
子どもたちには人権がある。
そして、私たちはみなかつて子どもだった。
だから、私たちには人権がある。
私たちがみな「子ども時代」を通って大人になる。
そこに新しい民主主義の基盤がある。
子どもたちは子ども時代を生きている。
そして、大人たちは子どもたちの「子ども時代」を守る責任がある。
その事実に、人種、民族、文化の違いはない。
これは頭で考え出した理屈ではなく、
人間の身体に根ざした衝動なのだ。
地球上、どこへ行っても、
大人たちは子どもたちの健やかな成長を願い、
新しい世代が古い世代を乗り越えていくことを喜んでいる。
それは人類進化の根本衝動に違いない。
新しい民主主義は、一人ひとりの内的な決意から始まる。
宗教や思想、民族や文化にはかかわりなく、
自分のなかの「子どもへの責任感」を、
「神への信仰」に代わる新しい民主主義の基盤に据えること。
自分はいかなる運命に対しても大人であり、
この自分こそが、子どもの人権を、そしてすべての人の人権を認める主体なのだと覚悟を決めること。
そこに多様な人間が共有する、
新しい価値観の発生を見届けたい。