風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

ユニクロと子どもの主体性

2017-03-15 11:06:23 | 雑感
連れ合いから教えられて、ネットのある記事を見た。そこで受けた衝撃は近年まれなほど大きく、あえて較べるとすれば、一昨年の大晦日にたまたま入れた「紅白歌合戦」で椎名林檎さんの「NIPPON」を聞いたときの驚きを上回っていた。この歌は、賛否両論いろんな議論を呼んだようだが、ぼく自身は、椎名林檎さんが「自分は職人としてこの曲を書いた」というようなことを言っているのを見て、それなりに納得した。ただ、それでも「いざ出陣、我ら時代の風雲児」とか、「混じり気のない我らの炎」とか、「我ら」という言葉遣いには依然として強い抵抗がある。こういった感性はどこまでも個人のものであって、それが「我ら」で括られた途端に全体主義の罠に陥ると思うからだ。

今回、ぼくが読んだのは、衣料品の製造小売業者ユニクロが打ち出した子どもと家族向けの体験サービス「MY FIRST OUTFIT」に関する記事である。このサービスでは、「子どもが親と離れて服を探し、コーディネートを考えて、試着した姿を親にお披露目する」という。ユニクロではこれを「服育」の取り組みとして提案しているらしいが、ぼくが衝撃を受けたのは、そのプレス説明会に乳幼児教育の研究者として玉川大学の大豆生田啓友さんが登場していたことである。記事のその部分を引用しておく。

…乳幼児教育を研究されている大豆生田教授によれば、「自分で考えて、自分で決めてアクションを起こせることが、これからの子どもにはとても大切」なのだそう。アクティブラーニングの導入推進など教育の変革期にあるいま、子どもが自分の意思でものごとを決める体験をたくさんさせてあげることが、子どもの自信や自己肯定感につながり、ひいては社会を生き抜く力になる、と大豆生田教授は語ってくださいました。

また、最近の乳幼児研究では、子どもには早い段階から「自分で決める力」「自分で育つ力」がそなわっている、つまり「子どもは自立したがっている」ことがわかってきている、とも。子ども自らが成長しようとする力を伸ばしてあげるには、親がなんでも決めたり与えたりせず、ときには見守る姿勢にスイッチすることが必要だと教えていただきました…

先ほどの椎名林檎さんの「我ら」という言葉遣いに対するのと同様の違和感を、ぼくは大豆生田さんの「自分で考えて、自分で決めてアクションを起こせることが、これからの子どもにはとても大切」という言葉に対して抱かずにはいられない。「アクションを起こさせる」という使役動詞は、そこには暗に母親や大人の意思が働いていることを示している。本当の自発性や主体性は、大人の意思や予想を裏切るものではないのだろうか?

子どもが「自立したがっている」のは当然である。子どもの中の「自立への意志」を認めることが、教育や保育の、そして子育ての大前提だろう。けれどその大前提がなし崩しにされつつある現代にあって、大豆生田さんをはじめとする研究者たちがメディアに登場することには大きな意味があると思っていた。今回も、もしかすると彼はあえて企業の戦略の中に飛び込んだのかもしれない。
けれども、ユニクロのこのキャンペーンは、子どもの主体性を欺くものだ。企業が煽るのは消費者の購買意欲であり、それをもって子どもの自立への意志を育てることになるということを、乳幼児教育の研究者が言うことは間違っていると思う。それは科学が企業に加担することでしかない。

ちょうど連れ合いが同じ時に教えてくれたもう一つの記事があり、これはイギリスBBCのニュース番組における「放送事故」の動画である。釜山大学のロバート・ケリー教授が自宅の書斎からオンラインで韓国の大統領弾劾について解説しているところに、幼児と赤ちゃんが立て続けに侵入し、それを母親が慌てて引きずり出そうとする。BBCのサイトではケリー教授夫妻のその後のインタビューが掲載されていて、それも興味深いが、ぼくはこれこそが子どもの「主体性」だと思うのだ。
ユニクロの「はじめてのコーディネート体験」というサービスも、あるいはそもそも私たちが幼稚園や保育園で提供しようとする環境も、結局はケリー教授の整然とした書斎のようなものだ。そこでは大人の都合と考え方に基づいてお膳立てがなされている。子どもの意志はそこから抜け出そうとする。あるいは大人が予想もしないことを持ち込んだりする。

最近の乳幼児保育の流れの中で、「主体的な学び」や「自分で考えて、自分で決める」ということが強調されるとき、ぼくが非常に危惧するのは、でもそのすべてのお膳立てをしているのは大人なのだという事実が見落とされていることだ。
研究者たちは「見落としてなんかいない」というかもしれない。けれども、例えばユニクロの記事で取り上げられた5歳の男の子は、このサービスを体験して青いパーカーとドラえもんのTシャツを選んだという。母親はこのようにコメントする。
「じつは、半年前にもドラえもんのTシャツを欲しがったのですが、そのときは別のキャラのほうがいいんじゃない? と誘導してしまって…。でも、今回またドラえもんを選んだってことは、ずっと欲しかったんだなって」
そして、この記事は「あらためて我が子の意思に触れ、思うところがあったご様子でした」と締めくくるのである。

「ずっと欲しかった」ということが我が子の意思とされている。でも、それは欲望や購買意欲と呼ばれるものだ。
ここでの子どもの意志は、母親についていくこと、言われるままに「体験サービス」に参加し、大人たちが見ているところで服を選んで着るということだ。それはすべて極めて受動的であり、期待に沿った動きでしかない。

それを乳幼児教育の専門家が、企業と一緒になって「子どもの自信や自己肯定感につながり、ひいては社会を生き抜く力になる」と言ってしまうことに、ぼくは激しい危機感を覚えた。
国家も企業もお膳立てをし、人々がその上で期待通りの行動をすることを求める。多くの母親が今回のユニクロの企画に共感し、大豆生田さんのコメントにも納得することだろう。けれど、本当の創造性はそんなところからは生まれない。
子どもの主体性は甘くはない。予想や期待を裏切られることは、大人にとっては痛みである。でもギリギリのところで、新しい何かが生まれるのだ。

今、親たちに伝えることがあるとすれば、大事なのは良い親になったり、素敵なママやパパになることではなく、自分なりに考え抜いた精一杯の「お膳立て」(環境づくり)をして、その結果を引き受ける責任を持つことではないかと思う。そこにおいて、大人たちは何よりもお互いを励まし合うべきだ。企業や国家の提案に乗ることも、それを楽しむことも、支援を受けることもいくらあってもいいと思うけれど、その結果は親が引き受けざるを得ない。企業や国家も、保育園や幼稚園も、大人にできることはお膳立てだけである。そのお膳立てがどのような意図でなされ、どのような作用を持つものなのか、そこに意識を向けることが、研究者の責任ではないか。

こんなことを書くと、ユニクロの企画を素敵だと思ったお母さんたちから、自分がどんどん遠ざかってしまうようにも感じる。それでも、大豆生田さんという人はしっかり考えている人だろうと思っていただけに、どこかにぼくの考えを表現しておきたいと思ったのだ。
ぼくの考える教育の使命は、みんなが戦争に行かなければという雰囲気になったときに、一人でも「行かない」と言える人を育てることだ。

そこにぼくたちの未来がかかっているのだと思う。

アントロポゾフィーを改めて掲げる意味について

2017-03-14 13:33:02 | 雑感
「四大公害病」についての本を読んでいて、原田正純医師の名前が出てきたところで、心が激しく揺さぶられ、アントロポゾフィーのことを思った。ぼくは、2年ほど前に「一時期、アントロポゾフィーから距離を置くこと」を決めた。しかし、それには別の見方も可能なのではないかと思えてきた。

ぼくは、自分がアントロポゾフィーとして認識していることと、多くの人たちが「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」の名のもとに行なっていることとの間に乖離を感じている。

具体的に言えば、ぼくにとってのアントロポゾフィーから見れば、STAP細胞の発見は生命の本質に迫るものであり、それがあそこまでの騒動と嘲笑にまで発展した背景には、現代の科学が抱える問題が如実に現れていた。

日本国憲法が成立した事情は、日本民族の運命及びアイデンティティと深く関わっており、憲法9条はまさに日本民族が持つ使命と直結している。つまり、ぼくにとってアントロポゾフィーを真に理解した人は、「護憲派」にしかなりようがない。

原発問題は、一方では「物質の本質」及びシュタイナーの言う「キリスト問題」と深く関連しており、ヒロシマ・ナガサキを経てフクシマにいたる運命の中で、日本人が個人として、また民族として人類の中で見つめるべき課題を示している。そこを考え抜くならば、アントロポゾフィーが原発推進を容認することはありえない。

以上は、これまでブログや講演などで再三語ってきたことではあるが、そこには常に自分の発言が「素朴にアントロポゾフィー/シュタイナーに関心を持つ人々」に迷惑をかけるのではないかという不安があった。
要するに、ぼくの考えるアントロポゾフィーは政治的であり、今日の科学のありように対しても批判的な発言を行うものなのだ。
その一方で、シュタイナー幼稚園やシュタイナー学校、あるいはバイオダイナミック農業やアントロポゾフィー医学、その他の領域でアントロポゾフィーに熱心に取り組んでいる人たちがいる。彼らにとって社会から認知されることは重要なことであり、それはぼくも共感し、理解しているところだ。そこにぼくが政治的な発言を行えば、彼らの活動の迷惑になるのではないかという思いがあった。
彼らにしてみれば、自分たちが求めているのは純粋に良い教育や医療であり、政治問題に関与するつもりがないということもあるだろう。そこにぼくがアントロポゾフィーに関わる一人として、政権批判などをすれば、せっかく積み上げてきたものが覆されるかもしれない。それをぼく自身が恐れていたのである。

けれど、そこに蓋をして、あるいはほのめかすような言い方に留めてアントロポゾフィーを語ることは、ぼくにとっては自分が理解したアントロポゾフィーへの不義を意味する。中途半端にシュタイナーやアントロポゾフィーを掲げながら、本当の問題を指摘しないならば、それはアントロポゾフィーを利用することでしかないと思った。自分のあり方がアントロポゾフィーを弱めているように思えてならなかったし、そのことが自分自身をも弱めているように感じていた。だから、アントロポゾフィーから距離をおき、あくまでも一人の個人として発言したり仕事をしたりすることで、自分自身のあり方にも、アントロポゾフィーとの関わりにも、新しい展開が望めるのではないかと思った。

けれど、先ほど、このように思ったのだ。ぼくの考え方、感じ方はむしろアントロポゾフィーを狭めていたのではないか。アントロポゾフィーを科学そのもののように広く深いものとして捉えるならば、そこにいろいろな考え方があってよいし、個々人が自分の考えるアントロポゾフィーを主張し、そこで議論が起こってもよいはずだ。

例えば、科学の世界にもいわゆる「御用学者」がいる。
客観的とされる研究者や医師たちが、例えば水俣病や原発事故の際に、国家や企業の側に立ち、本来の科学性を否定するような発言や行為をすることがある。彼らは科学の名のもとに偏向した発表をし、それに対して被害者の側に立つ医師や研究者もまた、科学の名のもとに真実を明らかにしようとする。御用学者がいるからと言って、真実を求める科学者が「科学」を離れることはないだろう。むしろ、「これこそが科学だ」という論争を挑むはずである。だとすれば、ぼく自身もまた自分が真実と思うアントロポゾフィーを、アントロポゾフィーという名のもとに語ってよいのではないか、むしろ語るべきなのではないかと思った。それは、他の人々が彼らのアントロポゾフィーを語ることを妨げることにはならないだろう。

ぼくが思うのは、シュタイナーの「アントロポゾフィーは《閉じた心》を許容することはできません」という言葉である。
アントロポゾフィーはひたすら開かれた人間の知性であるけれども、それが許容できないものもあるのだ。それが「閉じた心」である。したがって、他の民族を否定したり、他者を踏みにじるような政策、あるいは偏った科学、すなわち真実に心を閉ざすような態度を許容できるはずもない。
シュタイナーは、「本来なら、アントロポゾフィーという名称でさえ、毎週のように変えたいくらいだ」と言っていた。
だから、ぼくも自分の立場を「おんなこどもの知性」と呼んで、アントロポゾフィーという呼称から離れてよいのではないかと思った。けれど、シュタイナーが「アントロポゾフィー」という名前を使い続けた理由があったはずだ。
彼自身は「名前を始終変えたりすれば混乱するから」と言ったのだが、今、ぼくが思うのは、同じ名前を一貫して使い続けることで、一つの思想の「責任」と「進化」が可能になるということだ。

アントロポゾフィーを名乗ることは、自分だけが正しいとか、絶対に間違えないということではない。個人であれば、自分が過去に行った行為に対して、それが間違いあったと気づいた時点で謝罪したり訂正したりして、認識を改め、先へ進むことができる。アントロポゾフィーの名のもとに発言したり、行為したりすることは、アントロポゾフィーに思いを向ける人々と運命を共有することを意味する。そのことをぼくはずっと自覚してきたつもりである。けれど、逆に、ぼくの発言や行為が、そのつもりのない人々を巻き込むことをぼくは恐れた。

やはり、恐れだったのだと思う。ぼくが乗り越えるべきはこの恐れなのだ。
ぼくはいま、自分の認識を次のように整理しておきたい。

・アントロポゾフィーとは、一人ひとりの「個」を基盤に、多様な人々が性、文化、人種、生育環境、思想的芸術的傾向など、あらゆる違いを突き抜けて対話を試みることで、徐々に形成されていく人類共通の知性の、暫定的な一つの名前である。
・その対話は、一人ひとりが自分の思考、感情、意志に対して責任を持ち、他者の思考、感情、意志を尊重する中で可能になり、その過程での相互の承認、謝罪と間違いの訂正、和解、絶えざる認識への努力によって、アントロポゾフィーは人類の知性として進化していくことができる。
・すべての個人は、生まれながらにして人類の知性の形成者の一人であり、そのことを自覚した人は自分で自分自身を「アントロポゾフィーの担い手」(アントロポゾーフ/アントロポゾフィスト/人智学徒など)と呼ぶことができる。

この意味において、ぼくはふたたび自分自身をアントロポゾフィーの担い手の一人と見なしたいと思う。