風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

死者との交感

2015-03-24 07:15:33 | 隠された科学
子どもたちは、死者と対をなしている。

私たちは、生まれる前の世界を知らないし、死んだ後の世界も知らない。

けれど、子どもたちは明らかに、生まれる前の世界の余韻に浸って生きている。

昔の人が、「七歳までは神のもと」と言ったのは、幼い子どもはいつ「あちら側」に引っ張られてしまうかわからなかったからだ。

特に、言葉を覚える前の子どもは、生まれる前のことを覚えているに違いない。

同様に、いわゆる臨死体験を経て、「こちら側」に戻ってくる人たちがいる。彼らが垣間見た世界は、子どもたちが生まれる前にいた「もといたところ」ではないのか?

もしそのままあちら側に留まれば、死者になる。生まれた後、神のもとに引っ張られることなく、こちら側に留まれば、子どもとして成長を続けることになる。だから、子どもと死者は対概念なのだ。

なぜこんなことを書くのかといえば、死者も、子どもと同様に大切だ、と言いたいからだ。

私たちは、子どもは宝だという。そして、大人のようには自己主張しない彼らの「意思」や「権利」を尊重することを学んできた。まだ到底、十分ではないけれど。

死者も、この世ではほとんど耳を傾けてはもらえない。けれど、私たちが生きるこの世界は、今は死者となった人々が造ったものだ。

本を開けば、そこには死者たちの言葉がある。街を歩けば、並び立つ建造物、道路、橋から、死者たちが呼びかけている。

私たちは彼らの声に耳を澄まし、「子どもの権利」と同じように、「死者の権利」をも認めるべきではないだろうか。

なぜか。
権利を認めるということは、
相手の存在を認めることだ。
考え、感じ、意志をもって生きていると認めることだ。
死者は生きていないと言われるかもしれない。
しかし、それは、この地上を生きている私たち次第なのだ。
私たちが、彼らの思考、感情、意志を認めるならば、
死者は生きている。

死者の存在を実感するには、
自分の感覚を働かせればいい。

雨がしとしと降ったり、
窓ガラスに叩きつけるように降ったりするとき、
私たちの内面には異なる感情が立ち上るだろう。
嵐の日に、荒れ狂う波を見たり、
真夜中、風が吹きすさぶのを聞くとき、
言葉にし難い感覚にとらわれることはないだろうか。

死者は自然現象の中に働いている。
私たちが、風や雨や雪に対して、
悲しさや懐かしさに似た感情を覚えるのは、
そこで死者たちが語りかけているからだ。

えもいわれぬ感情にとらわれたなら、
自分で解き明かすしかない。
誰が語りかけているのか。
何を伝えようとしているのか。

ヒントは身近なところにある。
本棚の本かもしれない。
アルバムの写真かもしれない。
引き出しの中の手紙かもしれない。

自分の感覚を働かせつつ探すしかない。
それが死者からのメッセージだと言っても、
本気で受けとめてくれる人はあまりいないだろう。
だけど、あなただけは、
自分の感覚に真剣に向き合うことができる。
そのとき、あなたは、同時に、
死者にも真剣に向き合っていることになる。

そのとき、死者は、この地上に、
自分の存在を認めてくれる人を見いだしたのだ。

死者との交感は、
信じ込んだり、思い込んだりすることではない。
繊細に感覚を働かせること、
そして、おそらくは誰にも言わずに、
そっと「友情」を育むことだ。

今、地球の自然は、
目に見える環境保護と並行して、
内面における死者との交感を必要としている。







人の子…

2015-03-19 13:13:42 | 隠された科学
私は思い立ったのだ。この際、ずっと疑問だったことを訊いてみようと。

あなたは平和ではなく、剣を投げ込むために来たと言った。子は親に背き、夫と妻、親しい者たちの間に諍いが生じるだろうと言った。
では、なぜあなたは父を否定しなかったのか? 父なる神の愛を説き続けたのか? 父に愛などないことは明白じゃないか。人間を試しては怒り、街を焼き払う。あなただって、最後は「父よ、なぜ私をこのような目に遭わせるのですか」と言って十字架のうえで死んでいったではないか?

彼の言葉は優しく響いた。
それは、父なる神は、私の父ではなく、友だちだからです。私は友を信ずることを選んだ。友が変わること、わずかでも愛を生み出すことに賭けたのです。そうしたら、彼は私にこの子を託したのです。

そのとき、彼の側に男の子の姿が見えた。4-5歳だろうか。

イサク…!
私の唇から、その名前がこぼれ出た。

そう、あなたは知っていますね。
最初の人間の父、アブラハムにはお手本がいなかった。父なる神以外には。だから、神に言われるままに子どもを犠牲に差し出そうとした。そのとき、私はもういい、と言って止めに入った。
その瞬間、神は思い出したのです。自分には子どもがいることを。そして、自分には一切の愛がないことも悟ったのです。

私はなぜその子を知っているのだろう?

それはあなたが子どもだからです。人間はみな、親に裏切られた子どもなのです。どんなに虐げられても、子どもは親を慕い続ける。人間も、どんなに自分と世界に絶望しても、それでもこの世界を創った神を信じようとする。

でも、神を信じない人は大勢いますよ。科学者とか。

ああ、彼らはもっとも信心深い人たちです。
神に裏切られたことを強く意識しているのです。

ここで、彼は私の目をのぞき込んだ。彼のやつれた屍のようなからだから、また不思議な暖かさが伝わってきた。

あなたは思い出さないといけない。あなたが置き去りにした子どものことを。誰も彼もが、私のもとに子どもを預けていく。自分には愛がないからと言って。
しかし、それは神に倣ってのことだ。神が最初に、私に子どもを預けて去ったのだ。自分には愛がない、自分のもとでは子どもが不幸になると言って。

以来、すべての人間は捨てられた子どもになった。そして、私は子どもたちのもとにとどまり続けた。
始まりは、たった一人の神の子だった。

でも、それが私に何の関わりがあるというのです?

あなたは「子どもたちはなぜ生まれてくるのか」を知りたいという。なぜそれが気になるのですか?

この悲惨な世界を私は変えられない。そこに子どもたちが生まれてくることに、どうしようもない罪悪感を覚えるのです。

何事も変わらないということはない。あなたが気づかなければならないのは、それが神の問題だということです。私は神に対して、親への愛からではなく、友への友情からここに残った。子どもたちも、たった一人の友だちへの友情から、この世に生まれることを選んだ。あなたは友情をどう思いますか?

・・・・・。

彼は、ー私がキリストと思っているその人は言った。この世界の根底に、友情という原理が働いている。物理法則も、生命法則も、神と人間の友情なしには成り立たない。
あなたが打ち立てようとしている隠された科学も、この友情を基盤としなければ、何の価値もありませんよ。

くだらない、と私は思った。
私は失望し、苛立ち、醜い怒りをその人に向けた。いつの間にか私の腕に触れていた彼の手を振り払い、その場を離れようとした。そのとき、彼の悲しげな表情が目に飛び込んできた。

目が覚めた瞬間、私は友の思いを踏みにじったのだと感じた。
友情とは、いったいどんな力なのか?
子どもたちは、友情ゆえに生まれてくるのか?

そのとき、彼が最後に私に投げかけた言葉が、急によみがえった。

「まずは死者たちと友情を築きなさい」

ここから、私はまた歩き始める。

キリストについて…

2015-03-16 17:30:44 | 隠された科学
自分が昔、見かけたあの人が、
本当にキリストだったと言い立てるつもりはない。

実際、私たちが日々すれ違う人々が、
本当にその人たちだという確証などないのだ。
それでも私たちは、あなたはあなただと信じて生きている。

私は、もう一度あの人に会いたくて、
地球の中心まで降りていった。
つい昨日のことだ。

地底が、あんなにも冷たいところだとは思わなかった。

彼は身を横たえ、荒く息をしていた。
私は近づいて、
なぜ子どもたちは今も生まれてくるのか、とたずねた。

彼は、「私が呼んでいるからだ」と答えた。

地球の真ん中で、彼は一人の子どもを養っているのだという。
その子には友だちが必要だ。だから、大勢の子どもたちに生まれてきてほしいのだ、と彼は言った。

でも、生まれてきた子どもたちは幸せになるとは限らない。紛争や飢餓、病気や虐待など、あまりにも辛い運命が待っていることもある。あなたは、なぜ、子どもたちに生まれてきてほしいなどと言えるのか、と私は問うた。

あの人は、それはそれは悲しそうに言った。
だから、私はここにいるのだ。子どもが辛い思いをするとき、私は必ず会いに行き、その苦しみを共にしている。

だから、どうしてそこまでして、地球にこだわるのですか? 子どもたちが悲しい思いをして、あなたもその苦しみを引き受けて、そこまでする意味は何なのですか?

彼は、私をじっと見つめた。
あなたが、私にそう頼んだからだ。この子をお願いしますと言ったのは、あなただ。地球は、あなたの子どもではないか。

私はうろたえた。いったい、この私は何者なのだろう? 私が人間なのであれば、地球は人間の子どもなのか? 地球は母なる大地というように、人間を抱擁する大いなる存在なのではないか?

彼は言った。私が預かったのは子どもだ、人の子だ。あなたにはわかっているはずだ。

そのとき、私は彼の暖かさを感じた。そして、あることを思い立った。

“STAP細胞”の意志

2015-03-04 05:38:37 | 隠された科学
子どもたちは、こんな悲惨な世の中にもかかわらず、なぜ生まれてくるのか?
それは「意志」に関わる問題だ。
産み落とされる、とか、
生まれ落ちる、とか、
好きで生まれたわけじゃない、と言うとき、
生まれることは受動的なことと捉えられている。
実際、飢餓や病気や紛争の絶えない地域に生まれたり、
望まない妊娠で生を享ける子どもたちに、
誰が「あなたたちは親を選んで生まれてきたのだ」なんて言えるだろう。
それでも受精が起こり、この世に新しい個体が誕生するとき、
そこには親の意志だけではなく、
子ども自身の生への意志が働いている。
だとすれば、その意志は、どこから来るのか?

もし人間が生命進化の先端にいるのだとすれば、
生命そのものが破綻しているのは明らかなのではないだろうか?
もちろん、奇跡のように美しい瞬間は無数にある。
けれど、そのすべてを葬り去り、否定しきって余りあるだけの、人間の愚かさ、残忍、卑劣、悲しさ…。
それが生命進化の行き着く先なのであれば、生命そのものが絶望し、途絶えることだってあるだろう。

私たちは、何度となく「人間」を信じようとして、その都度裏切られてきたのではないか?
あるいは、今度こそはと自分を信じ、その都度、自分自身に裏切られてきたのではないか?

それなのに、生命は、何度でも辛抱強く、繰り返す。
だから、子どもたちも生まれてくる。
何事もなかったかのように、
無心に親を信じ、世界を信じて生まれてくる。
もし彼らに前世があるなら、
それはすべての記憶を消し去り、“初期化"して初めて可能なことだ。

どうして、そこまでして試み続けるのだろうか。

昨年、世間を騒がせたSTAP細胞は、
私見では、まさにこの謎に迫る研究だった。
受精卵がもつあらゆる器官の細胞になる「多能性」は、
発生の段階が進み、それぞれの細胞の役割が固定されるにつれて、失われる。
iPS細胞は遺伝子操作によって多能性を取り戻すが、
STAP細胞は、弱酸性の溶液に浸したり、細いガラス管に通したりすることで、
すでに特定の役割を身につけている細胞の記憶が抹消され、初期化されて、多能性が回復するという。

結局、論文の不正疑惑と、
小保方さん自身による再現実験の失敗により、
今ではSTAP現象自体も否定されてしまった。
でも、そこではもっとも本質的な部分が見落とされているように思えてならない。

STAP現象とは、
生命の中に「何度でも初めからやり直そうとする意志」があることを示していたのではないか。

一連の騒ぎの中では、
小保方さん以外、STAP細胞をつくれない、ということが最大の疑問とされた。
科学にとって、実験は、条件さえ整えば、誰によっても再現可能でなければならない。
しかし、最終的には、小保方さん自身も監視下での実験に失敗し、STAP細胞は存在しないものと結論づけられた。

しかし、ここでは「生命の領域」に踏み込んでいるのだ。
生命とは、一つ一つの個体が一回限りのものであること、
同じ遺伝子の組み合わせは二度とないことに最大の特徴があるはずだ。
生命の研究に、再現性/反証可能性の原則をそのまま当てはめられるのだろうか。

自殺した笹井氏は、
最後まで小保方さんをかばい、
STAP現象を否定することはなかった。
最近出版された『捏造の科学者』(須田桃子著)には、
著者が笹井氏と交わしたメールの内容が紹介されている。
笹井氏は「自己組織化」というテーマに取り組み、
「生命の不思議さ」を追求していた。
その彼が、STAP現象について、
「私は、自分が研究者として見たものをないとは言えない」と記したことは重いと感じる。

著者の須田記者は、
「なぜここまで来てもなお、笹井氏はSTAP細胞を否定しないのか」と涙したというが、
私はむしろ、なぜ彼女は「笹井氏が研究者として見ていたもの」にもっと関心を向けられなかったのかと思うのだ。

笹井氏の言葉は、
詩人ゲーテが、彼の“発見”した「原植物」をめぐるシラーとの有名な会話の中で、
シラーが「あなたのいう原植物はただの理念だ」というのに対して、
「もしそれがただの理念だとすれば、私はその理念をこの目で見ているのです」と言ったことを思い出させる。

STAP細胞は「生命の不思議さ」に迫る研究ではなかったのか。
そして、そこには「子どもたちはなぜ生まれてくるのか?」という、私自身の問いにつながる何かに触れるものがあったのではないか、と思っている。