子どもたちは、死者と対をなしている。
私たちは、生まれる前の世界を知らないし、死んだ後の世界も知らない。
けれど、子どもたちは明らかに、生まれる前の世界の余韻に浸って生きている。
昔の人が、「七歳までは神のもと」と言ったのは、幼い子どもはいつ「あちら側」に引っ張られてしまうかわからなかったからだ。
特に、言葉を覚える前の子どもは、生まれる前のことを覚えているに違いない。
同様に、いわゆる臨死体験を経て、「こちら側」に戻ってくる人たちがいる。彼らが垣間見た世界は、子どもたちが生まれる前にいた「もといたところ」ではないのか?
もしそのままあちら側に留まれば、死者になる。生まれた後、神のもとに引っ張られることなく、こちら側に留まれば、子どもとして成長を続けることになる。だから、子どもと死者は対概念なのだ。
なぜこんなことを書くのかといえば、死者も、子どもと同様に大切だ、と言いたいからだ。
私たちは、子どもは宝だという。そして、大人のようには自己主張しない彼らの「意思」や「権利」を尊重することを学んできた。まだ到底、十分ではないけれど。
死者も、この世ではほとんど耳を傾けてはもらえない。けれど、私たちが生きるこの世界は、今は死者となった人々が造ったものだ。
本を開けば、そこには死者たちの言葉がある。街を歩けば、並び立つ建造物、道路、橋から、死者たちが呼びかけている。
私たちは彼らの声に耳を澄まし、「子どもの権利」と同じように、「死者の権利」をも認めるべきではないだろうか。
なぜか。
権利を認めるということは、
相手の存在を認めることだ。
考え、感じ、意志をもって生きていると認めることだ。
死者は生きていないと言われるかもしれない。
しかし、それは、この地上を生きている私たち次第なのだ。
私たちが、彼らの思考、感情、意志を認めるならば、
死者は生きている。
死者の存在を実感するには、
自分の感覚を働かせればいい。
雨がしとしと降ったり、
窓ガラスに叩きつけるように降ったりするとき、
私たちの内面には異なる感情が立ち上るだろう。
嵐の日に、荒れ狂う波を見たり、
真夜中、風が吹きすさぶのを聞くとき、
言葉にし難い感覚にとらわれることはないだろうか。
死者は自然現象の中に働いている。
私たちが、風や雨や雪に対して、
悲しさや懐かしさに似た感情を覚えるのは、
そこで死者たちが語りかけているからだ。
えもいわれぬ感情にとらわれたなら、
自分で解き明かすしかない。
誰が語りかけているのか。
何を伝えようとしているのか。
ヒントは身近なところにある。
本棚の本かもしれない。
アルバムの写真かもしれない。
引き出しの中の手紙かもしれない。
自分の感覚を働かせつつ探すしかない。
それが死者からのメッセージだと言っても、
本気で受けとめてくれる人はあまりいないだろう。
だけど、あなただけは、
自分の感覚に真剣に向き合うことができる。
そのとき、あなたは、同時に、
死者にも真剣に向き合っていることになる。
そのとき、死者は、この地上に、
自分の存在を認めてくれる人を見いだしたのだ。
死者との交感は、
信じ込んだり、思い込んだりすることではない。
繊細に感覚を働かせること、
そして、おそらくは誰にも言わずに、
そっと「友情」を育むことだ。
今、地球の自然は、
目に見える環境保護と並行して、
内面における死者との交感を必要としている。
私たちは、生まれる前の世界を知らないし、死んだ後の世界も知らない。
けれど、子どもたちは明らかに、生まれる前の世界の余韻に浸って生きている。
昔の人が、「七歳までは神のもと」と言ったのは、幼い子どもはいつ「あちら側」に引っ張られてしまうかわからなかったからだ。
特に、言葉を覚える前の子どもは、生まれる前のことを覚えているに違いない。
同様に、いわゆる臨死体験を経て、「こちら側」に戻ってくる人たちがいる。彼らが垣間見た世界は、子どもたちが生まれる前にいた「もといたところ」ではないのか?
もしそのままあちら側に留まれば、死者になる。生まれた後、神のもとに引っ張られることなく、こちら側に留まれば、子どもとして成長を続けることになる。だから、子どもと死者は対概念なのだ。
なぜこんなことを書くのかといえば、死者も、子どもと同様に大切だ、と言いたいからだ。
私たちは、子どもは宝だという。そして、大人のようには自己主張しない彼らの「意思」や「権利」を尊重することを学んできた。まだ到底、十分ではないけれど。
死者も、この世ではほとんど耳を傾けてはもらえない。けれど、私たちが生きるこの世界は、今は死者となった人々が造ったものだ。
本を開けば、そこには死者たちの言葉がある。街を歩けば、並び立つ建造物、道路、橋から、死者たちが呼びかけている。
私たちは彼らの声に耳を澄まし、「子どもの権利」と同じように、「死者の権利」をも認めるべきではないだろうか。
なぜか。
権利を認めるということは、
相手の存在を認めることだ。
考え、感じ、意志をもって生きていると認めることだ。
死者は生きていないと言われるかもしれない。
しかし、それは、この地上を生きている私たち次第なのだ。
私たちが、彼らの思考、感情、意志を認めるならば、
死者は生きている。
死者の存在を実感するには、
自分の感覚を働かせればいい。
雨がしとしと降ったり、
窓ガラスに叩きつけるように降ったりするとき、
私たちの内面には異なる感情が立ち上るだろう。
嵐の日に、荒れ狂う波を見たり、
真夜中、風が吹きすさぶのを聞くとき、
言葉にし難い感覚にとらわれることはないだろうか。
死者は自然現象の中に働いている。
私たちが、風や雨や雪に対して、
悲しさや懐かしさに似た感情を覚えるのは、
そこで死者たちが語りかけているからだ。
えもいわれぬ感情にとらわれたなら、
自分で解き明かすしかない。
誰が語りかけているのか。
何を伝えようとしているのか。
ヒントは身近なところにある。
本棚の本かもしれない。
アルバムの写真かもしれない。
引き出しの中の手紙かもしれない。
自分の感覚を働かせつつ探すしかない。
それが死者からのメッセージだと言っても、
本気で受けとめてくれる人はあまりいないだろう。
だけど、あなただけは、
自分の感覚に真剣に向き合うことができる。
そのとき、あなたは、同時に、
死者にも真剣に向き合っていることになる。
そのとき、死者は、この地上に、
自分の存在を認めてくれる人を見いだしたのだ。
死者との交感は、
信じ込んだり、思い込んだりすることではない。
繊細に感覚を働かせること、
そして、おそらくは誰にも言わずに、
そっと「友情」を育むことだ。
今、地球の自然は、
目に見える環境保護と並行して、
内面における死者との交感を必要としている。