きょうは、幼稚園で役員会と
ライアーコンサートがあり、その後、移動して
夜、鹿児島に帰ってきた。
つくばから来てくれた人たちのライアーの音色が、
久々に幼稚園のホールに響いたことで、
何となく温かい、うれしい気持ちにはなったのだが、
今日はそれとはべつに、なぜかひどく虚しい気持ちがつきまとっている。
このところ、毎日向き合うようにしている
「アントロポゾフィー指導原理」も、
新幹線のなかや、空港のラウンジで訳そうとしてみても、
なぜか心に伝わってこない。
というか、晩年のシュタイナーの寂しさや孤独感のようなものだけが
感じられてしまって、
ボク自身がそこから力づけを得ることはなかった。
最近、ボクは
アントロポゾフィーは、
それによって救われるものではないと思っている。
ボク自身が、アントロポゾフィーに力を注ぎ込み、
それを生きたものにしていかなければならない。
そんなふうに思うのだ。
そして、鹿児島の家に戻って、この番組を見た。
11月7日に亡くなった筑紫さん。
彼の生前の優れた仕事ぶりや、
戦後への思い、人間的な素晴らしさも改めて感じたけれど、
「またひとり、逝ってしまった」と思う。
なんでこの世界が必要としている人たちが
次々にあちら側に行ってしまうのだろうか。
筑紫さんは最後の多事争論で、
「この国はガンにかかっている」と言った。
地上に取り残されたボクたちは、
どうやってこの病んだ社会に向き合っていけばいいのだろうか。
アントロポゾフィー医学では、
ガンは「冷たい病気」だという。
感覚的にいえば、
「社会のガン」に対して戦うには、
一人ひとりの「熱」が重要なのではないかと思う。
ボクの無気力も虚しさも、
心の冷えにつながっていく。
筑紫さんは「負けちゃいけないんだ」と言っていたという。
勝ち負けじゃないということもできるが、
やはり「勝ち負け」はあると思う。
ボクたちは誰に対して、何に対して戦っているのか。
たぶん、それは均質化とか、個性を無化するような作用、
ボクは以前「個の不在」といったこともあるが、
そういう作用に対してだと思う。
一人ひとりの心の熱を冷やし、
人間の力を果てしなく無力に感じさせて、
生きる意味を見失わせるような作用。
それが今、世界中を覆いつつある。
心が冷えきったとき、
個に根ざしていない集団の感情、
集団の熱情が憑依したりする。
でもそれもまた一種の「熱」だから、
臆した心や、無気力な心は
次々にのみ込まれていく。
そうやって戦争のような極端な状態が引き起こされる。
「個の不在」の行き着く先は戦争なのだ、
とボクは思っている。
そして、シュタイナーは虚しくも
「個の不在」に対して戦いつづけたのだと。
「アントロポゾフィー指導原理」は、
本当に、シュタイナーが最後の一年間につづった
遺言なのだと思う。
シュタイナーは、
ボクたち一人ひとりの「個の参加」を呼びかけた。
アントロポゾフィーは、
ボクたちがそこに熱を注ぎ込んだとき、
シュタイナーとの、そして人類との共同作業として、
具体的な力を帯びてくる。
でも自分のなかに何の熱も感じられなくなったとき、
どこから力を汲みだせばよいのか?
アントロポゾフィーは救いにはならない。
アントロポゾフィーはただ、
力の源泉は自分のなかにしかないことを告げるだけだ。
自分のなかにわずかにでも残っている感情や感覚、
悔しさとか切なさとか、見果てぬ夢とか、
そういったものを何とか探し出して、
そこからわずかにでも「熱」を取り出してくるしかない。
でも、そんなふうにもがきながら、
アントロポゾフィーに向き合うと、
自分自身が語り始める。
思いもかけないことが見えてきたりする。
要は、自分を信じるしかないのだ。
ライアーコンサートがあり、その後、移動して
夜、鹿児島に帰ってきた。
つくばから来てくれた人たちのライアーの音色が、
久々に幼稚園のホールに響いたことで、
何となく温かい、うれしい気持ちにはなったのだが、
今日はそれとはべつに、なぜかひどく虚しい気持ちがつきまとっている。
このところ、毎日向き合うようにしている
「アントロポゾフィー指導原理」も、
新幹線のなかや、空港のラウンジで訳そうとしてみても、
なぜか心に伝わってこない。
というか、晩年のシュタイナーの寂しさや孤独感のようなものだけが
感じられてしまって、
ボク自身がそこから力づけを得ることはなかった。
最近、ボクは
アントロポゾフィーは、
それによって救われるものではないと思っている。
ボク自身が、アントロポゾフィーに力を注ぎ込み、
それを生きたものにしていかなければならない。
そんなふうに思うのだ。
そして、鹿児島の家に戻って、この番組を見た。
11月7日に亡くなった筑紫さん。
彼の生前の優れた仕事ぶりや、
戦後への思い、人間的な素晴らしさも改めて感じたけれど、
「またひとり、逝ってしまった」と思う。
なんでこの世界が必要としている人たちが
次々にあちら側に行ってしまうのだろうか。
筑紫さんは最後の多事争論で、
「この国はガンにかかっている」と言った。
地上に取り残されたボクたちは、
どうやってこの病んだ社会に向き合っていけばいいのだろうか。
アントロポゾフィー医学では、
ガンは「冷たい病気」だという。
感覚的にいえば、
「社会のガン」に対して戦うには、
一人ひとりの「熱」が重要なのではないかと思う。
ボクの無気力も虚しさも、
心の冷えにつながっていく。
筑紫さんは「負けちゃいけないんだ」と言っていたという。
勝ち負けじゃないということもできるが、
やはり「勝ち負け」はあると思う。
ボクたちは誰に対して、何に対して戦っているのか。
たぶん、それは均質化とか、個性を無化するような作用、
ボクは以前「個の不在」といったこともあるが、
そういう作用に対してだと思う。
一人ひとりの心の熱を冷やし、
人間の力を果てしなく無力に感じさせて、
生きる意味を見失わせるような作用。
それが今、世界中を覆いつつある。
心が冷えきったとき、
個に根ざしていない集団の感情、
集団の熱情が憑依したりする。
でもそれもまた一種の「熱」だから、
臆した心や、無気力な心は
次々にのみ込まれていく。
そうやって戦争のような極端な状態が引き起こされる。
「個の不在」の行き着く先は戦争なのだ、
とボクは思っている。
そして、シュタイナーは虚しくも
「個の不在」に対して戦いつづけたのだと。
「アントロポゾフィー指導原理」は、
本当に、シュタイナーが最後の一年間につづった
遺言なのだと思う。
シュタイナーは、
ボクたち一人ひとりの「個の参加」を呼びかけた。
アントロポゾフィーは、
ボクたちがそこに熱を注ぎ込んだとき、
シュタイナーとの、そして人類との共同作業として、
具体的な力を帯びてくる。
でも自分のなかに何の熱も感じられなくなったとき、
どこから力を汲みだせばよいのか?
アントロポゾフィーは救いにはならない。
アントロポゾフィーはただ、
力の源泉は自分のなかにしかないことを告げるだけだ。
自分のなかにわずかにでも残っている感情や感覚、
悔しさとか切なさとか、見果てぬ夢とか、
そういったものを何とか探し出して、
そこからわずかにでも「熱」を取り出してくるしかない。
でも、そんなふうにもがきながら、
アントロポゾフィーに向き合うと、
自分自身が語り始める。
思いもかけないことが見えてきたりする。
要は、自分を信じるしかないのだ。