風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

子ども時代ふたたび~安保法制と幼児教育~

2015-08-25 07:43:19 | 十字架に眠る幼子
たぶんこの夏ほど、地上が死者たちで混み合った時はなかった。
外を歩くと、空気がひどく濃いのだ、
ひしめく彼らがいて、
私はその重たい感情に押しつぶされる。

私は粘液のような空気のなかで手を動かし、
彼らの居場所を確かめる、
彼らの声を聞こうとする。

わかっていたはずだ。
アルブレヒトもこの声を聞いたのだ。
聞いて問いかけたのだ、
あの暗くて冷たい独房のなかで。
ただひとりの神と、
無数の私に向かって。

なぜこの地上では、
起こるべきではないことが起こり続けるのか。
なぜ不条理が条理を踏み潰すのか。
神よ、あなたはどこにいるのか。

私はここにいる、と言いたい。
でも、その私は神と呼ぶにはあまりにも情けない。
できれば、神はこんな私であってほしくない。

この世には無数の神がいる。
人の数だけ神がいる。
死んでしまえば神になる。
この世では、死者に発言権がないように、
あの世の神はこの世では無力だ。

神が無力だから、
道理が引っ込み、無理が押し通される。
今回の原発再稼働のように、
安倍政権のあからさまな横暴のように。

今、必要なのは、
この世の神に力を与えることだ、
死者たちの声をこの世で聞き届けることだ。

そうすれば見えてくるだろう、
子どもたちがそれでも生まれてくる理由が。
どれほど世界が悲惨でも、子どもたちはやってくる。
私はずっと知りたかった。
なぜ彼らはあきらめないのか、
彼らは何を地球に見てやってくるのか。

そして、私は胸を打たれる、
ずっとわかっていたことに驚愕する。
子どもとは死者のことだ。
かつて死んでこの世を去った人が、
ふたたび子どもとなって生まれてくる。

子どもたちが生まれてくるのは、
私たちがあきらめていないからだ、
この地球は素晴らしい場所だと、
この自分は決して捨てたものじゃないと思っているからだ。

死者たちは、
子どもたちのなかに生きている。
私もかつては子どもだった。
誰もがみな子どもだった。

死者と語らうことは、自分のなかの子どもに向き合うことだ。
この世の神に力を与えることは、
この世の子ども時代に最大限の重きをおくことだ。

子どもとは、
人間の人間に対する希望なのだ。
子どもたちはその希望を今生きている。

多くの人が子どもを愛するのは、
子どものなかに証を見るからだろう、
私たちはまだ人間を信じていい、
私はまだ自分を信じていい、という証を。

*******************************************

ぼくは今、自分がかかわる幼児教育という仕事を新しく捉え直したい。
幼児教育とは、死者の声を聞くことだ。
子どもたちの意志は、
かつてこの世を去った死者たちが地球の未来に託す願いだ。
私たちが教えるのではない。
子どもたちとの触れ合いのなかで、私たちが学ぶのだ。
人間とは何か、
人間にふさわしい生活とはどのようなものか、
私たちは何を目指して生きるのか。

だから、幼児教育は、幼児を教育することではない。
「教育とはすべて自己教育だ」とシュタイナーは言ったが、
だとすれば、幼児教育者とは、
幼い子どもたちとのかかわりのなかで自己教育に努める人のことだ。
そして、そういう大人たちとの生活のなかで、
子どもたちはそれぞれの自己教育を行うだろう。
それがきっとシュタイナーのいう「内的運命に即した自己教育」ということだろう。

そして、今、国会で議論されている「安全保障」は、
ほんとうは子育てや保育の問題だ。
「国民の生命と平和な暮らしを守る」というのなら、
第一に守られるべきは子どもたちだろう。

「保育」という語には、
「養護」と「教育」という意味が含まれるという。
子どもたちを養い、保護し、育てていく。
その生活環境の大前提を法的に保障する、安保法制。

でも、思うのだ。
すべての根底に安全、安心ということがある。
英語でいえば、セキュア、セキュリティ。
(安全保障も英語ではセキュリティという。)

保育者たちも、子どもたちの安全と安心のために努力する。

ところが、今の安保議論はすべて不安から発している。
「積極的平和主義」というけれど、
その本質は、きわめて消極的、否定的だ。
他国から攻められたらどうするか、
米国の協力なしに、自国を守れるのか、
米国の戦争に協力していかなければ見捨てられるのではないか,,,

今の日本は、自国のことも、隣国のことも信じられない。
ただ、昔、自分を開国させ、ひどい目にあわせた米国に依存するしかない。
アメリカと日本の関係を、男と女にたとえる人もいるが、
ぼくは、それ以上に「親子の関係」に似ていると思う。

本来の安全保障とは、
人々が安心して暮らせる基盤をつくることだろう。
あたりまえのことだが、
他の国々との信頼関係の構築こそが、一番の安全保障になる。

そのために必要なのは、日本が自立することだ。
虐待し、搾取する親を切り捨てることだ。
そうしなければ米国も、日本も、本当には自由にはならない。

米国は武器や力への依存から脱却し、
日本は米国による精神的支配から脱却しなければならない。

そのとき、「子ども時代」が新しい価値観になるのではないか。
米国も、欧州の国々も、イスラムの国々も、イスラエルも一神教が背景にある。

一神教と多神教、
そして日本のようにアニミズムを精神的背景にもつ国々は、
どのようにお互いに理解し合い、信頼し合うことができるのか?

ぼくは、憲法問題の根底にも、この「神の問題」があると思う。
先の文章でも書いたように、
欧米では「基本的人権」を最終的に与えるのは「創造主」である。
一神教の神なのだ。
そういった国々と、アジアの国々が共有できる価値観があるとすれば、
それは「子ども時代」なのではないか。

どんな文化の人でも、子どもたちを見れば、そこに「人間の希望」を見るだろう。
子どもが、子どもらしく、安全に、安心して暮らせること、
幸せな子ども時代を過ごすことに、人間にとってもっとも大切な価値を見るだろう。

そこから、子どもが子ども時代を過ごすのにふさわしい環境、社会のあり方、
さらには国際社会のあり方を考えていく。

それは「唯一絶対の神」に代わる、新しい価値観になるのではないか。

私たちは、だれもがかつては子どもだった。
だから、子ども時代はすべての人の精神的財産であり、生きる力の源泉である。
その価値は、宗教の違い、思想や文化の違いにかかわりなく、
すべての人に共有されるうるのではないか。

アメリカでは、大統領が神に祈りを捧げてから他国を侵略したりするが、
それも神への依存だし、不自由な態度だ。
これからの人間には、自分の行動を正当化するための神ではなく、
自分が自分を肯定し、自己決定するための価値観が必要だろう。

今、必要なのは、神に祈ることではなく、
自分自身が「大人になる」ことだ。
子ども時代の大切さを意識したとき、
私たちは自分が子どもに還るのではなく、
今、目の前にいる子どもたちを守る大人になる。

以前、「謝罪」について書いたが、
アメリカがもっとも謝罪すべきは、子どもたちに対してだと思う。
広島や長崎への原爆投下は、大人がやることじゃない。
武器開発も、原発推進も、対米追従も、自立した人間のすることではない。

いい大人なのに、研究に夢中になり、その責任を取りきれなかった科学者たち、
不安にかられ、自尊心や人種差別や辻褄合わせから行動した政治家たちは、
まずは子どもたちに謝るべきだ。
そして、かつて子どもとして大切な人生を始めたすべての人々に。

やっぱり問題は「神」にあると思うのだ。
ニーチェが「神は死んだ」といったその神は、いまもゾンビのように生きている。
国家、企業、共同体、家族、ありとあらゆる集団は、
個人を呑み込むかぎりにおいて「神モドキ」となる。
そこでは人間は、自分の名前ではなく、国家や企業の名のもとに行動する。
自分が決めたことだからではなく、
何かのため、誰かのためという理由で。
そのとき、人は責任の一端を「神」に委ねる。
その最たるものが戦争や死刑であって、
そこでは人はもはや個人の人格をもっていない。
国家の名のもとに人を殺すのだ。

謝罪は、相手のために行うものではなく、
自分自身が「変わりたい」という意志をもつこと、
そして、その意志をもつきっかけを与えてくれた相手にそれを伝えることだ。
謝罪とは、実は自立への意志なのだと思う。
それまで捉われていた状態を認識し、そこから脱却すること、
そのために日本もアメリカも、自分が虐げた相手に謝罪すべきだ。
本当の意味で独立するために。

真の謝罪は、大人が子どもに、
男性が女性に(あるいは男性性が女性性に)対してなされるのではないか。
それは一方が悪かったからお詫びをするというだけではなく、
真の自由を求める側が示す「認識の行為」であり、
その機会を与えてもらったことに対する深い感謝でもあると思う。

そのとき、たとえば未来の国際社会では、
神=創造主を根拠とするのではなく、
子ども時代に対する私たちの「認識」を根拠として、
子どもたちに生存、自由、幸福追求の権利を保証することができるだろう。
そして、子どもたちが安心して過ごすためには、
大人自身が安心して、自由に、幸せに生きている必要がある。

それがぼくのなかの「おんなこどもの知性」が行きついた、
「子ども時代」の価値観だ。

以上の考えを、
現在の不安きわまりない日本の状況のなかで、
自分自身の心に刻みたいと思う。

子ども時代ふたたび~天皇と個人~

2015-08-16 01:43:38 | 十字架に眠る幼子
子どもが幸せな社会って、どんな社会なのだろう?

そう自分に問いかけながら、
赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』を読んだ。
たぶん私とほぼ同じ世代の人だからかもしれないが、
私自身が自分に問いかけてきた日本のアイデンティティーについての問いが、
ほぼ共通の文脈のなかで問いかけられていた。

ほぼ共通の文脈というのは、「天皇」と「神」のことだ。
そして、日本語...。

私が特に印象深く感じたのは、「消えた空き地...」というところ。
私が子どもの頃も、まだ空き地は残っていた。
自転車に乗る練習をしたのも、凧をあげたのもその空き地だった。
子ども時代の原風景と言えば、言えるのかもしれない。

私が特に共感したのは、
赤坂さんが地域の公園の改修を検討する委員会に参加したくだりだ。
結局は、だれも責任をとりたくなくて、
だから無難な「管理」へと流れていくなかで、
彼女は「大人とは責任を引き受ける人のことだ」と考え、
「私は大人になりたい、と心から願った」という。
そこに私は本当に共感した。
「『何かあったら責任は私がとるから、君らは遊べ』
と言える大人がいなかったら、子どもは殺される」という赤坂さんの言葉に。

思うに、子どもが幸せな社会というのは、
責任を引き受ける大人たちのいる社会ではないのか。

私自身、自分の責任感のなさには自分でもいやになるが、
それでも何かあったときには、歯を食いしばってでも責任をとろうと思う。
そして、この一点が、私がシュタイナーを信頼しているところなのだと思う。

彼は「教育者のモットー」として、
「自分自身をファンタジーの能力で貫け」
「真実への勇気を持て」
「心のなかの責任への感情を研ぎ澄ませ」と言った。

ファンタジーというのは、柔軟な想像力ということだ。
そして、大勢が一方向に押し流されているときも、自分が真実と認識したことの側に立つ勇気。
そして、責任感。

その三つの特性を義務としてではなく、
自分の欲求として、また感覚や感情として身につけているのが教師だという。

私はこれまでの人生のなかで何度、この「真実への勇気」という言葉を自分に言い聞かせただろうか。
言い聞かせなければならないというのは、それだけ自分に勇気がないことの証でもあるが、
それでもシュタイナーのこの言葉があったから、私は発言しづらい空気のなかで発言したり、
白い目で見られそうな場所で問いを発したりした。

それがこれほどまでに困難なのは、
やはりこの国では、天皇が戦争の責任をとれなかったことが大きいと思う。
そして、そういうことがあるから、
私は、アントロポゾフィー運動の代表的な人たちが「自分には責任がない」というとき、
どうしてもそれを受け入れることができなかった。

アントロポゾフィーがこの日本で役立つことがあるとすれば、
それは赤坂さんのいう「責任を引き受ける大人」がひとりでも増えることにあると思うから。

原発の再稼働は、環境問題にとどまらない。
安保法案=戦争法案は、平和問題にとどまらない。
それは無責任な大人たちの姿をさらすことで、
子どもたちの未来への希望を奪うことだ。
そこに最大の罪があると、私は思っている。

そう思ったとき、
私は、シュタイナーが「心の中の責任への感情を研ぎ澄ませ」という表現をしたことに改めて注目する。
そして、気づいたのだ。
これは「心的責任性への感情」と訳すべきだったと。

彼が言っていたのは、曖昧な責任感のことではなかった。
おのれの心が、何に対して責任を感じるか、
自分は何に対して責任があるか、その感情を研ぎ澄ませというのだ。

そして、私は思う。
私は、沖縄に対しても、原発再稼働に対しても、安保法制をめぐる議論に対しても、
「責任」を感じている。
それは直接的な責任ではないかもしれない。
けれど、私の心は自分の「責任性」を感じている。
それがシュタイナーのいった「心的責任性の感情」ということではなかったか。

日本の敗戦から70年のこの夏、
私はこのように考える。

私は自分が以前から唱えていた「万人天皇説」を実践してみようと思う。

近代日本の特徴は、それがプロイセンの憲法に倣い、
即席で大日本帝國憲法をつくり、その中心に天皇を据えたことにある。
それはヨーロッパのキリスト教に代わる、精神的基軸となるべきものだった。

トマス・ジェファーソンが起草したアメリカの独立宣言においても、
基本的人権の根拠は神=創造主とされている。
「われわれは以下の真実を自明のものと見なす。すなわち、すべての人は平等に創られ、
創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられていること、
そしてそれらの権利のなかには、生命、自由、幸福を追求する権利が含まれていることである。」

それではそういった神を信じない人々は、何を基本的人権の根拠とすればよいのだろうか?

日本の場合は、それを天皇に求めた。
だから日本の憲法は、明治憲法も現行の憲法も、天皇をめぐる条項から始まっている。

日本の天皇は、明治において西洋の一神教的な神にされ、
その後の戦争は、この神の名において戦われた。
以前も書いたように、
私は、いわゆる「人間宣言」において天皇が、
「天皇を神とし、日本民族が他の民族より優秀であり、だから世界を支配すべき運命にあるという架空の観念」を否定したことは、
天皇自身にとっても、日本人一般にとっても、いわば擬似的な「キリスト体験」だったのではないかと考えている。

急ごしらえで一神教の神となった天皇は、
原爆投下を含む太平洋戦争を経て、こんどは人間として生きることになった。
そして、憲法では「日本国と日本国民の統合の象徴」とされる。
そして、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」のである。

私たちが天皇を、私たちの象徴として認めるのである。

だとすれば、いわばキリストが一人ひとりの人間の魂のなかに生きているように、
天皇もまた、私たちがそのように意識すれば、私たち一人ひとりのなかに生きることになるだろう。

天皇は、私たちの象徴なのだから、
実は、私たち一人ひとりが天皇だということになる。

そして、もし私たちが天皇であるなら、
天皇が引き受けられなかった戦争への責任を、
私たち一人ひとりが引き受けることができるだろう、もしそれを望むのであれば。

そうでなければ、私たち日本人は、いつまでも「戦争責任を引き受ける人が不在」のまま、過去に向かわざるをえない。

責任は自我の能力である。
天皇はいわば日本国民の自我であったが、戦争の責任を取ることが許されなかったために、
日本人全体がその自我の働きを抑圧することになった。
それが現在の日本の状況なのだと思う。

天皇は、今、精一杯「象徴」としての役割を引き受けていると思う。
そうであれば、天皇の象徴としての地位を認めている一人ひとりの私が、
戦争への責任を自覚することが可能だろう、
あるいは今の天皇と皇后が感じている「痛み」を私たちが共有することが可能だろう、
「日本人はすべて天皇なのだ」という自覚をもって。

皇居に住んでいない私たちがどうやって天皇になれるのかと言われるかもしれないが、
天皇が日本国と国民統合の象徴なのであれば、
天皇は、私たちのあり方を象徴しているのである。
それは、天皇は私たちとイコールだということだ。

戦争責任を引き受けるといっても、もちろん無意味に自分を責めたり、傷つけたりするということではない。
日本人としての自覚をもって、過去に目を向け、
そこで日本が引き起こした痛みを少しでも感じ取ろうとすることだ。
それは、自分を否定するためではなく、
日本人として誇りと尊厳をもって、大人として再出発するということである。

昭和天皇が戦争責任を引き受けられなかったことは、すでに過去の事実であり、それを変えることはできない。
けれども、日本人の自我、日本のアイデンティティーを回復するための道は、
私たち一人ひとりの内面にあるのではないか、と思う。

私はなんとか、日本人として、私のなかから新しい一歩を踏み出したいと思う。

なぜ日本はアメリカに謝罪を求めるか?

2015-08-15 18:12:07 | 十字架に眠る幼子
戦後70年目の8月15日は、何とも重い夏の日だ。

昨日のあまりにも空虚な首相談話を聞いた後、
今日の全国戦没者追悼式での天皇の言葉を聞くと、
「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」という表現に胸を打たれた。

もちろん、天皇の言葉のなかに「さきの大戦への深い反省」という表現が入ったことも大きかった。
けれど、それ以上に、「国民の意識」という言葉は痛切だった。
戦後の、我が国の平和と繁栄を支えたのは、
「国民のたゆみない努力」とともに、「平和の存続を切望する国民の意識」だった。
意識、意識、意識...。

すべての基本に意識がある。
私が私であること、私が日本人であること、
私が原発に反対であること、戦争法案に反対であること、
そのすべては意識なのだ。

天皇の言葉は、今の日本国民への願いのようにも聞こえた。
結局は、私たちの意識が現実をつくっていく。

今の日本の政治の核心に、「謝罪」という言葉がある。
安保法制をめぐる議論の背景にも、
アジアの国々への謝罪の問題がある。
要は、信頼が回復していないのだ。
だから、有事の際に、隣国ではなく、アメリカを当てにせざるをえない。
でも、日米同盟の基盤に「信頼」はあるのか?

実のところ、
日本は、広島と長崎に原爆を落としたアメリカを信頼しているのか?
おそらくは、中国と韓国が日本を信頼していない以上に、
日本はアメリカを恨み、拭い去り難い不信感を抱いているのではないか?
だから、ここまで極端な「対米従属」路線をひた走るのだろう。

改めて、こういうことを考えた。
日本は本気で、アメリカ合衆国に「謝罪」を求めるべきなのではないか?
広島、長崎への原爆投下に対する謝罪だ。
本当に「戦後処理」を考えるとき、
日本による中国、韓国、フィリピンなど、アジア諸国への謝罪、
そして沖縄の人々への謝罪とともに、
アメリカによる日本の一般市民への謝罪も合わせて求めていく必要があるのではないか?
戦後処理とは、関係者同士による信頼回復に他ならないのだから。

これに関して、すでにどのような運動があるのか、
またアメリカによる謝罪がどうすれば可能になるのか、今の私にはわからない。

ただ、今の日本政府がアメリカからの謝罪など求めていないことは確かだ。

ウィキリークスが2011年に公開した2009年当時のクリントン国務長官へのルース駐日大使の報告では、
オバマ大統領が広島を訪問し、戦争を終結させるために原爆を使用したことを謝罪するという意向に対して、
当時の藪中外務次官が、反核団体の期待が高まっているなかで、それは「得策ではない」(non-starter)と言って断ったらしい。

政治的な問題として、アメリカの謝罪を引き出すことは簡単ではないだろう。
けれど、私たちの「意識」の問題として、
日本はアメリカから謝罪を求めるということを考えていくのは、とても重要なのではないか。

私自身は、そのことを真剣に考えていきたいと思う。

なぜなら、謝罪というのは、相手のために行われるだけではなく、
自分自身が変わることだと思うからだ。
相手の受けた苦しみや悲しみを理解し、想像力を働かせることで、
それまでの自分の頑なさから解放されることでもあるだろう。

今、世界におけるアメリカの振る舞いを見ていると、
一番変わる必要があるのは、アメリカだと思う。

アメリカには極端な二面性がある。
一方では、その銃社会に象徴されるように、
果てしのない不安に裏打ちされた攻撃的、支配的な性格であって、
それは「世界の警察官」を自認する姿勢に現れている。
それは権力や富の集中にもつながる側面だ。

他方では、公民権運動やヒッピー文化を成立させ、
つねに時代の先端で、
表現の自由を通して新しい価値観を生み出していく創造性がある。
アメリカの理想主義ともいえるかもしれない。

現在の日本国憲法の草案をつくったGHQの人々のなかには、
まさしくそのような理想主義が生きていたと思う。
その理想主義が、日本の人々のなかに草の根的に育ちつつあった民主的精神と結びついて、
戦後日本の精神的基盤を用意したのだ。

私たちが、日本国憲法を守ることは、
我が国の民主主義を守るだけではなく、アメリカの理想主義を守ること、
アメリカにおいて押しつぶされそうになっている精神性を呼び覚ますことでもあるだろう。

そのためには、アメリカも、他国の人々の力を必要としている。
ちょうど日本も、中国や韓国から過去の問題を突きつけられることで、
たえず目覚めることを余儀なくされるように。

たとえば、私が思い描くのは、
日本の首相が国連で演説し、
アジア諸国に対して「われわれは必要であれば未来永劫にわたって謝罪し続ける用意がある」と明言し、
そのうえで、
「アメリカ合衆国には、広島、長崎への原爆投下について、それが一般市民に対する戦争犯罪だったことを認めて謝罪してほしい」
と発言するようなことだ。

ありえない、と思われるかもしれない。

でも、かつて旧西独のヴィリー・ブラント首相が、
ポーランドのワルシャワでユダヤ人ゲットー跡地に跪き、献花したようなことが、
アメリカ大統領によって広島や長崎でなされることはありうるだろう。
そこに意識的に道をつけていくことができるのではないか。

現在の韓国や中国との関係、また不条理な原発や米軍基地をめぐる状況が本質的に改善されるためには、
「アメリカからの謝罪」のような新しい要素が必要なのではないだろうか。
そもそも日本政府は、沖縄の人々に対しても深く謝罪しなければならないと思うが、
そういったことも「アメリカの謝罪」という要素によって本当に意識されるのではないか。

私は、韓国の日本文学者・朴裕河さんのツイッターで
「謝罪は新しい価値の創造」という言葉に接し、その後、著書『帝国の慰安婦』を読んでから、
「新しい価値はどのようにして創造されるのか?」を考えてきた。

今、その「新しい価値」は、まず私たち一人ひとりの「意識」のなかでつくられていくのだ、と思う。
だから、私は、まずはこの「日本はアメリカに謝罪を求める」という考えをここに記しておきたい。

今、川内原発は再稼働され、
国会で審議されている「安保法制」をめぐっても、
本当の「日本人の意志」は政治には一切反映されないように見える。

しかし、人々はー若い世代もーたしかに目覚めつつある。

要は、日本は変われるのか、ということであり、
それは、自分は変われるのか、ということに尽きるのだと思う。
そして、今、私自身を含め、現実にぶつかりながら目覚めようとしている人たち、
あえて古い自分を手放し、変わる勇気を奮い立たせている人たちが出てきていると思う。

多くの場合、問いを突きつけるのは、女性や子どもたちだ。
謝罪を求めるのは、つねに弱い側だ。
強い側が謝罪を求めるとすれば、それは支配と抑圧でしかない。
けれど、弱い側が謝罪を求めるとき、そこには自己の尊厳を守り抜こうとする貴い意志がある。
それこそが民主主義の基盤なのではないか?

そして、日本は、自分が支配した人々に対しては謝罪する側にあるが、
原爆を落とされたアメリカに対しては、謝罪を求める側にある。
政治的な問題というよりも、アメリカにとっての倫理的な課題として問いかけていくことはできないだろうか。
それを通して、日本の意識も変わるだろう。

結局、支配・被支配はたえざる連鎖だ。
けれど、謝罪を通して、自己を変容させる意志が目覚めたとき、
それは「進化」の力になると思う。         

原子炉の意志

2015-08-11 12:15:44 | 隠された科学
川内原発の1号機が再稼働された。
核分裂を抑えていた制御棒が引き抜かれた。
このまま核分裂反応が連続的に起こる臨界状態に至れば、
核分裂の熱がつくる蒸気でタービンが回り、発電する。

川内の原子炉よ、ぼくはあなたの悲しみを思う。
せっかく動き出そうとしているのに、多くの人が反対している。
おそらく誰も祝福はしていないだろう。
「創られしもの」であるあなたは、自分の本性に従って動こうとしている。
おそらくかつての技術者のなかには、
あなたが人類の未来に役立つと、本気で考えた人もいただろう。
あなたもそう信じて地上での一歩を踏み出したのかもしれない。
でも、今のあなたは知っている、
自分が本当には望まれていないこと、
自分の育ての親たち、親戚たちは、
みな利害だけで、自分にふたたび生命を与えようとしていることを。

あなたは悲しいだろうと思う。
孤独だろうと思う。
自分を呪っているかもしれない。
それでも制御が解かれれば、あなたは動き出す。
それがあなただから。

生まれてきたあなたに罪はない。
罪は、あなたを動かそうとしている人々に、
そしてあなたを創りだした科学者たちにあるのだ。

この世に意味のないものなどないが、
プルトニウムだけは存在する意味がない、とある人が言った。
それほど不幸なことがあるだろうか。
科学者のなかには、
神から授かった知恵を権力のために、
自分が神になるために使おうとする人たちがいる。

原爆は、そして核エネルギーは、
神と人間の対立から生じている。

神が創られたこの世界とは、物質の世界。
その物質を、神の計画よりも早くに崩壊させ、
人間の生産活動、ないし破壊活動のためのエネルギーを取り出す。
それは神に対する最大の冒涜だ。

思うに、かつて楽園で人間を誘惑し、
知恵の実を食べさせた蛇というのは、人間自身なんじゃないか?
神のもとに従順にとどまるのが嫌になって、
神と同じ力を身につけ、別の世界で神として振舞おうと考えた、
人間自身の心なんじゃないか?

人間は、その知恵を使って、
生き物を殺傷する道具を創った。
今、世界に存在するありとあらゆる武器、
軍需産業が開発するありとあらゆるハイテク兵器は、
みな人間の心がつくった。
原発や武器、兵器に罪はない。
それらをつくりだした人間の心こそが「悪魔」なのだ。

今、鹿児島で、
絶望のうちに己を奮い立たせ、
動き出そうとしている原子炉よ、
ぼくは、あなたを感じる。

ぼくは認めようと思う、
ぼくもあなたをつくった人間の一人だ。
ぼくが「悪魔」なのだ。
あなたが生み出すエネルギーを受け取り、
それで自分の人間性を紡ぎ出しておきながら、
一切の責任をとらなかった者のひとりだ。

ぼくは、あなたを「意味のないもの」にはしておかない。
人間の本来の使命は、
どんなものにも「意味」を創造することなんだと思うから。
ヒロシマやナガサキのように、
チェルノブイリやフクシマのように、
あってはいけない悲劇というものがある。
でも、その悲劇が起こったとき、
それをただ肯定したり、考えもなしに受け入れるんではなく、
その悲劇とともに、新しい価値、新しい思想を生み出す力が人間にはある。
それこそが、実はあの楽園の蛇が本当に願っていたことだと思うのだ。

神って何なんだろうね。
楽園を支配していた創造主も、
そこに忍び込んだ蛇も、
人間も、人間に創られたあなたも、
みんなが共有する本当の故郷があるんじゃないかな?
そこに、本当に信じられないほど優しい誰かがいるんじゃないかって思うんだ。
ぼくはそれを信じている。
そういう誰かがいるだろうと思っている。

だから、あなたも大丈夫だよ。
あなたの本当の悲しみ、あなたの本当の意志をわかっている誰かがいるんだ。
そして、ぼくも原発の再稼働は受け入れないけど、
あなたのことは感じようと思う。
あなたの意志を感じようと思う。
あなたの存在を通して、
人間が新しい知恵を生み出すことに、
ぼくも人間の一人として力を尽くしたいと思う。

だから、動かなくていいよ。
あなたの、本当の意志のままにあればいい。

“原発再稼働”に抗する意志

2015-08-10 01:59:51 | 隠された科学
鹿児島の川内原発が明日にも再稼働される見通しだ。
8月10日に制御棒の検査が行われ、翌日には運転を再開するという。
住民の避難対策の不備をはじめ、さまざまな問題が指摘されてきた。
9日には原発のある川内市の久見崎海岸で2000人規模の反対集会が開かれ、
毎日新聞などの世論調査でも、「反対」が「賛成」を上回ったというが、
それでも県と九州電力、そして政府の姿勢は変わらない。

私が問題にしたいのは、彼らの「意志」だ。
なぜそこまでして原発を推進したいのか?
もちろん、「経済優先」の発想だからと言われるかもしれない。
けれど、原発が本当は「経済的」ではないことは明らかにされている。
本来の経済ではなく、一部の人々の「利権」なのかもしれない。
けれど、いわゆる「原発村」の人々にも思考力があるだろう。
未来の子どもたちにどれほどの負の遺産を残すことになるかは、彼らだってわかっている。

今の安保法制への動きも、沖縄の米軍基地も、原発推進も、すべて一つにつながっている。
素朴な感覚でいえば、彼らは日本を滅ぼしたいのだとしか思えない。
けれど、そこに働く「意志」とは何なのか?
日本を属国にしておきたい米国の意志だろうか?
だとすれば、その意志は何を目指しているのか?

私は、そこには破壊衝動があると思う。
それも、「個人の意志」に対する破壊衝動である。
この世界には、一人ひとりの個人が自分で意思決定をし、
尊厳をもって生きることが我慢ならないと感じる勢力があるのだ。

そして、その勢力にとって、
たとえば日本政府が、本当に国民一人ひとりの生活のことを考え、
日本独自の政策を打ち出したりすることは、到底認められないだろう。

この勢力は、私たちのなかにも「衝動」として働いている。
子どもが反抗したり、
弱い立場の人が誇りをもって自己主張したりするとき、
それをまっすぐに受け止められず、苛立つのは、この衝動のゆえである。
この衝動が働くのは、自分がより強い立場にいるときだ。
生活に困窮している人、難民と呼ばれる人たち、
弱者の立場にある人たちが立ち上がろうとするとき、
自分の立場が脅かされたように感じ、怒りや苛立ちをもって反応する。
それは「権力」の作用である。

私が言いたいのは、
この「権力」は一種、霊的な作用である、ということだ。
そして、さらに注意を促したいのは、
この権力という霊的作用が攻撃するのは、
一人ひとりの個人の自立や自発性だということだ。

戦争への流れも、米軍基地や原発の問題も、
そこに共通しているのは、お金という力で現地の人々の意志を縛るという構造である。
あるいは、力で相手を圧倒したり、さらには生命を奪ったりする。
それでいて、責任者が不明なのだ。
戦争では(死刑でも)、殺す側も、殺される側も、個人性を奪われている。
戦争で人を殺しても罪に問われないのは、そのためだ。

自民党の憲法草案では、
13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を、
わざわざ「人として尊重される」として、
「個」という一語を外している。
そこに見られる「個」に対する拒絶感は、今の政府の動きの本質を示している。

私は、今の政治的・社会的な流れに抗するには、どうしても「霊的」な観点が必要だと思う。
核エネルギーの「霊的」本質とは何だろうか?
それは「原子核」の破壊である。
原子とは英語でアトムというが、「分割できない」という意味である。
個人を英語でインディヴィジュアルというが、これも「分割できない」という意味である。

20世紀になって、原子はもはや物質の最小単位ではなく、
電子やクオークからできていることがわかってきた。
分割不可能なはずの原子が、電子と原子核に、
さらにその原子核を構成する陽子と中性子、
さらにその陽子と中性子がクオークへと「分割」されていったのだ。

それは物理学の発展過程の出来事だが、
その過程で「原子爆弾」が、そして原子力発電所がつくられたことを忘れてはならない。
物質のもとであったはずの原子が分割され、
原子核が破壊されて、解き放たれた膨大なエネルギーが、
爆弾として人々を殺傷し、
放射線として私たちの生体を蝕むことになった。

分割不可能な原子の破壊によって、
分割不可能な個人が攻撃されている。
そこに私のいう「霊的」な意味がある。

シュタイナーは、
放射線とは「物質が霊化」されたものだと言ったが、
およそすべてのエネルギーは霊的である。
私たちの活動はすべてエネルギーによって可能になる。
私たちの存在そのものがエネルギーである。

さて、原子と個人(アトムとインディヴィジュアル)の違いは、
原子は物質の単位として、すでに生成されたものであり、
個人は一人ひとりの人生を通じて、未来に向かって生成されていくものだということだ。

私たちの個人もまた、無数の要素によって構成されている。
つまり遺伝子をはじめ、さまざまな環境要因がそこには働いている。
けれども、それらをつなぎ合わせて、私たちは個人を出現させていく。
それが「生命」ということだ。

原子力が危険だということは確かだ。
けれど、脱原発や核廃絶への動き、
そして脱戦争への動きは、一人ひとりの個人の生成によって裏打ちされなければならない。
なぜなら、原子力推進派が攻撃しようとしているもの、
あるいは米軍基地に固執し、戦争への道を着々とつけている人々が破壊しようとしているもの、
それは一人ひとりの個人の意志だからだ。

戦争でいちばん傷つくのはいつも女性や子どもたちだと言われる。
その人たちはみな個人なのだ。

私たちのなかにある「原発再稼働」に抗する意志、
安保法制や沖縄の米軍基地に抗する意志は、個人の意志である。

私たちは、なによりも自分が自分であるために、
この一連の時代の流れに対抗しようとしている。
そして、そこに唯一の被爆国としての日本の本来の使命があると思う。

言葉による国家形成

2015-08-05 11:48:09 | 隠された科学
「国家」はすでに古い概念で、これからは「社会」が問題なのだと言われるかもしれない。
けれど、国家という亡霊がこれほどまでに政治家たちの意識を支配している今、
あえて私たちの意識のなかで「国家」の意味を問い直していく必要を感じている。

国家の基盤は言語である。
血筋や民族ではない。共通の言語を理解する人たちの結びつきが国家なのだ。
その意味では、一人の人間が複数の言語を理解することで、複数の国家に属することはありうると思う。
しかし、多くの場合、私たちはひとつの母語を選ぶ。
いくら複数の言語を巧みに話せたとしても、
自分の自己の確立のためには、母語が必要なのだ。
それは子どもの成長のためには、親との関係、
あるいは血縁でなくても、信頼できる大人が一人いることが必要なのと似ている。

ある「国」に生まれ落ちることは、
ある言語圏に生まれ落ちるということだ。
私たちは、親を選んで生まれてくるように、
特定の言語を母語とすべく選んで生まれてくる。

国家の法律はすべて言葉で記される。
憲法もまた言葉で記され、
裁判所の判決も言葉で伝達される。

その言葉は、乳幼児期に、一人ひとりの子どもの内から発生する。
そこに保育/教育と国家形成が直結する点がある。

言葉は一人ひとりの自己から発せられ、
個人の自己形成があるからこそ、国家形成もなされうる。

なぜ子どものなかに自己が育ち、内発的に言葉が出てくるのか?
そこに人間の最大の謎がある。

しかし、確かなことは、私たちは子ども時代に自分の言葉を獲得したこと、
そしてその言葉は、同じ言語圏の他のすべての人々と共有していることである。

さらに重要なことは、
私たちがしゃべるこの言葉は、私たちの世代だけではなく、
ずっとずっと前の世代、今はもう死者となった人々が語り継いできたということだ。
私たちがこの言葉を創ったのではない。
私たちは、死者たちが遺していった言葉を語っている。

そして、私たちもいずれは、この言語を遺して去っていく。
私たちが今しゃべっているこの言葉を、いつかは後の世代の子どもたちが語ることになる。

今、国会で議論している政治家たちも、この言葉をしゃべっている。
死者たちが遺してくれた言葉を使って、
彼らは言い逃れ、詭弁を弄し、嘘をつく。

私たちはそれを聞いて怒り、また失望するが、
つねに意識していなければならないことがある。
それは、今、この瞬間も、政治家たちの言葉によって、
私たちの国家が創られ続けているということだ。

私たちの国は、今は、嘘で塗り固められた、空虚な塊でしかない。
それに対して、私たちは言語を取り戻さなければならない。
そして、それは何よりも子どもたちとの関わりのなかでなされる。
家庭のなかで、保育園や幼稚園、学校のなかでなされるのだ。

私たちが母語を語るときも、
あるいは外国語を語るときも、それは国家の基盤にかかわっているのだ。
言語には、個別性と普遍性がある。
ある言語に独特の表現や言い回し、あるいは独自の発音がある一方で、
地域や文化を超えて共有できる人間としての理想がある。
そうした理想は、英語でも日本語でも、すべての言語で表現できる。
たとえば日本国憲法に記された理念は、そのような人類共通の理想なのだと思う。

翻訳可能な理念と、
翻訳では伝えきれない地域的、文化的なニュアンスがある。
そのどちらが大事とか、優れているということはない。
大事なのは、どの言語にも、そのように個別性に向かう側面と、
普遍性に向かう側面があるということだ。

そして、万人を平等に受けとめるべき国家においては、
可能なかぎり普遍的な言語が語られるべきである。
そのときはじめて、すべての地域性、個別の文化が平等に扱われる。

国家とは言葉の家である。
それは言葉で書かれる法律の家であり、
その言葉は可能なかぎり普遍的でなければならない。

だから、日本国憲法が最初は英語で書かれ、占領軍のアメリカ人と共有されたとしても、
それは憲法に記された理念をまったく傷つけることはない。
むしろ、その理念が一人ひとりの個人、一つひとつの地域性を包括できるものであるかが問題なのだ。

政治は、「可能性の芸術」だといわれるが、
何よりも言葉の仕事だと思う。
国会でも、およそすべて政治の場では、
普遍的な言葉が、一人ひとりの責任において語られる。
その積み重ねが国家をつくるのだ。

もし大多数の政治家が嘘を重ね、国家がますます空虚になっていくとすれば、
それに気づいた私たちが真実の言葉を語り始めなければならない。
それがどこまで数少ない政治家の真実の言葉と共振するか、
どこまで死者たちの思いが、現在語られる言葉のなかに流れ込むか、
どれだけの真実が未来の子どもたちのもとに遺されるか、
そこにすべてがかかっていると思う。

そうでなければ、今の国会の審議によって、
私たちの国は決定的に、精神的に崩壊するだろう。

愛国心とは何か?

2015-08-05 07:59:07 | 隠された科学
愛国心とは、子どもの親への愛情に似ている。
シュタイナー教育では、「子どもは親を選んで生まれてくる」というが、
それはただの神秘思想ではない。
愛とは何か、ということである。

子どもは、どんな劣悪な環境にも生まれてくる。
虐待され、食べ物を与えられず、紛争に巻き込まれても、
子どもは大人に身を委ねることしかできない。
いや、そこに自分を受けとめてくれる大人が一人はいてくれることを信じて、
子どもは生まれてくる。
その思いは裏切られるかもしれない。
それでも、子どもたちは何かを信じて、誰かを信じて生まれてくる。
そのあり方が「愛」なのだと思う。

「親を選んで生まれてくる」というのは、甘くて美しい考えではない。
子どもが生まれたということは、
親が選ばれたということだ。自分が無条件の愛を、子どもから向けられていることを知ることだ。
自分はその愛に応えようと努力することもできるし、
その愛を深く裏切ることもできる。その震撼させられるべき責任の重さを伝えているのが、
「子どもは親を選んで生まれてくる」という言葉なのだ。

同様に、人は「国」を選んで生まれてくる。
そこは「国家」の体をなさない場所かもしれない。
それでも人は自分の「故郷」を選んで生まれてくる。
子どもたちを受けとめる社会は、
「故郷」として選ばれたことの責任の重さに震撼させられるべきだ。

私たちの実感は、
自分は親を選べないし、生まれ落ちる環境を選べないということだろう。
それはそうなのだ。
「あなたは実は親を選んで生まれてきた、この国を選んで生まれてきた、だから親孝行をしなさい、国に奉仕しなさい」
というのは、「選ばれた側」が発する最悪のメッセージである。

選ばれた以上、私たちには義務と責任がある。
それは少しでも子どもたちの愛に応えることだ。
少しでも愛されるに価する人間になろう、愛されるに価する国を形成していこうと努力することだ。
それが「教育」なのだと思う。

教育とは、立派な大人が、未完成な子どもの人格を完成させていくことなんかではない。
未熟な人間が、子どもの傍らで、少しでも自分を完成させていこうと努力することだ。
大人の自己形成への努力だけが、子どもの人格形成を支える。

そこにおいて、人間の自己形成は国家形成と一つにつながっている。
教育は国家の礎である。
けれど、その意味は従順な人間をつくりだして国を支えるということではない。
大人の問題なのだ。
自分たちのもとに生まれてきた子どもたちが育つ環境として、
私たちはどのような国をつくっていきたいかということだ。
その意味での国家は、決して完成されざるもの、
つねに人々の努力によって変化し、生成し続けるものである。

国家は、人々のなかでつねに発生し続ける。
私たちが国家なのだ。そして、私たちが子どもたちの傍らで、
絶えざる自己形成に向けて努力し続けることを初めて意識的に誓ったのが、70年前のことだ。
日本国憲法は、未来の子どもたちに向けて、大人の誓いを記した手紙である。

私は国旗掲揚に反対ではない。けれど、国旗掲揚や国歌斉唱を強制することには絶対に反対である。
なぜなら、それは国旗や国歌を冒涜することになるからだ。
本当に国旗を大切に思う人たちが集まったところでは、国旗を掲げればいいだろう。
けれど、その思いは真実でなければならない。

別の人たちは、自分の「愛国心」をもっと別のかたちで表現したいと思うかもしれない。
ドイツ語の「故郷」(ハイマート)には独特の響きがある。
自分がもといたところ、いずれ帰っていくところ。自分のアイデンティティーの原点。

今、日本という国は、安倍政権の自立の欠如した、対米追従の政策によって、
ますます誇ることのできない、愛することのできない国になりつつある。
それで傷つくのは、私たちの、子どもたちの愛国心である。

親への愛も、
国への愛も、
人間への、自分自身への希望であり、信頼である。

そう考えたとき、
親は子どもが反抗し、自立に向けてあがくのを喜びをもって見守るだろう。
政府もまた、市民が問題を指摘し、反対集会を催したときは、
その議論を歓迎することができるだろう。

個人の自立こそが、国家形成の最大の力なのだから。

安保法制とアントロポゾフィー協会

2015-08-04 22:20:08 | 隠された科学
今、参議院で審議されている安保法案の中心には、
「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という言葉がある。

この「個別」と「集団」という言葉について考えてみたい。
英語では個別的/集団的自衛権は、the right of individual / collective self-defenseという。
Individualは個人、個性を指すときに使われる言葉だ。

Collective は集団的、集合的という意味だが、
私などは、ユングの「集合的無意識」(collective unconscious)を連想したりする。
あるいは、旧西ドイツの故ヴァイツゼッカー大統領が、ナチスというドイツの過去に触れ、
今生きているドイツ国民に「罪」はないが、「集団としての責任」(kollektive Verantwortung)がある、と語ったことを思い出す。

象徴的に感じるのは、そこに「自衛権」(self-defense)のself(自己)という言葉が入っていることだ。
言葉遊びのように受け取られるかもしれないが、
私には、個別的/集団的自衛権の議論は、
国家レベルにおける「個的自己」と「集合的自己」の問題を内包しているように思えるのだ。

国家法人説という考え方があるが、
私は、国家とは一つの法人格だと思う。
国家は、会社や共同体のように、多数の個人から構成されるが、
そこにはある種の「人格」と「意志」が認められる。

個別的/集団的自衛権の議論は、
国家という法人格の「自己」に関わる問題なのだ。

会社や共同体、国家などの組織の「自己」とは何か?
それは、そこに集う一人ひとりの人間がもつ共通の願いや意志であろう。
たとえば平和に暮らすこと、人並みの生活をすること、
男女が平等に扱われること、生命が守られること、
一人ひとりが個人としての尊厳を保証されることなど。
そうした人々の共通の願いや意志を記したものが「憲法」といえるだろう。

憲法とは、国家のアイデンティティーである。
特に、現行の日本国憲法には、終戦時の国民の平和な国家建設への願いと決意が記されている。

個別的自衛権における「自衛」とは、
まず第一に、憲法に謳われたアイデンティティーを守り抜くことであるはずだ。

それでは集団的自衛権とは何か?
その本質は、集団で相互に防衛し合う二つ以上の国家がどのような意志を共有しているのか、ということだろう。
そこに「共通の自己」とさえ言えるような意志があるのか?

いや、もっとはっきりいえば、
集団的自衛権とは、ある国の意志が別の国の意志を呑み込み、
一つの国家意志が「自己」(Self)として働く状況を暗示している。
それがまさに戦争ということだろう。

今、日本における集団的自衛権をめぐる議論は、
ほとんど米国だけを想定している。
米国と日本が共有する意志や理想とは何かといえば、
必ず「民主主義」とか「自由」という言葉が返ってくるだろう。

その一方で、昨年夏に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、
安保法案を無理にでも成立させようとしている勢力は、
日本国憲法は、米国の押しつけだという。

けれど、米国と同盟を結び、米国の戦争に加担しようというのなら、
米国から押しつけられた理想をそのまま受け入れ続けてもよいのではないか?

ところが、今では、その米国自身が、日本の憲法を変えたがっている。
なぜなら、日本国憲法には、実は日本国民の強い意志が生きているからだ。
この憲法があるかぎり、米国の「自己」は、日本の自己を丸呑みにすることができないのだ。

さて、ここで翻ってルドルフ・シュタイナーという人が創ったアントロポゾフィー協会だが、
それは1923年、ドイツのワイマール共和政の時代のことだ。
その当時は、民主主義をめぐって、やはり「個」と「集団」の対立が議論されていた。
あまりにも「個」を主張することは、文化における高貴な精神性が阻害されるのではないか、と、
たとえば作家トーマス・マンをはじめとする知識人たちが警鐘を鳴らしていた。

その時代に、シュタイナーは、
「精神性」と「民主制」、あるいは「秘教性」と「公共性」を結合することを試みた。
それがアントロポゾフィー協会だった。

アントロポゾフィー協会は、やがて法人格をもった組織として、スイスの法律に基づいて社団法人として登録された。
そこに集う一人ひとりの個人を相互に結びつけるのは、
私はこの世界にアントロポゾフィーが存在することを願う、という意志だった。
その願いは、一人ひとりの個人におけるまったく個別的(individual)な意志である。
アントロポゾフィーとは何か、あるいはそれがどのように世界に働くべきか、その見解や願いのあり方は、人それぞれである。
共通しているのは、この世にアントロポゾフィーがあってほしいという一点である。

そのような意志をもつ人々が対等な立場で法的な組織を形成するとき、
そこにアントロポゾフィーという精神性が働くことができる。

私は、国家も同じだと思うのだ。
アントロポゾフィー協会とは、実は、シュタイナーによるまったく新しい「国家建設」の試みだったのだと思う。

シュタイナーは、アントロポゾフィー協会の「会則」は、
実は会則ではなく、人々が共通して抱いている信念を記述したものにすぎない、という。
本来の憲法とはそういうものだ、と思う。

シュタイナーがアントロポゾフィー協会のあり方について述べた講演や書簡がまとめられた本には、
『アントロポゾフィー協会の《憲法Konstitution》』というタイトルが付けられている。
KonstitutionとはConstitution、「体質」や「構成」、「あり方」を意味する言葉である。

ちょうど、1923年のクリスマス会議において、
ドルナッハに集まった800人余りの人々の「信念」を基盤として、
シュタイナーがアントロポゾフィー協会を築こうとしたように、

戦争の苦しみを通過した日本の人々は、新しい日本国憲法のなかに自分たちの理想と信念を見た。
それを受け入れたことが、彼らの決意だったのである。

故ヴァイツゼッカー大統領が「国民の集団的責任」について語ったように、
私たちには、日本国憲法への、先人たちの決意への集団的責任がある。

集団的自衛権の「集団」と、私たちの集団的責任における「集団」は、虚と実の関係にある。

集団的自衛権は、国家のアイデンティティーが他国の意志に呑み込まれることだ。
自国の憲法に対する集団的責任においては、一人ひとりの自己が個別の決意によって強められなければならない。

戦後、GHQのアメリカ人たちが書いた憲法草案のなかには、
本来のアメリカ合衆国の理想、アイデンティティーがあったといえるだろう。
それは当時の日本人の理想と願いに共鳴するものだった。

しかし、今、米国自身がその理想を否定し、負の遺産を世界に蔓延させようとしている。

その結果、一つひとつの国家の精神性が消滅しようとしている。
今、国会で議論されている安保法制は、日本という国家の自己否定である。

それに抗するためには、一人ひとりの個人が自己を強めなければならない。
自分は、日本という国にどうあってほしいのか、
その理想を日本国憲法のなかに見いだすことができるのか、真剣に検証しなければならない。

それによって、私たちは日本の精神性に生命を与えるのだ。
それがアントロポゾフィーということだ。
この努力において、私たちは90年前のシュタイナーの戦いを引き継ぐのである。