風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィーへの手紙

2015-11-10 14:10:58 | アントロポゾフィー
アントロポゾフィーへの手紙

シュタイナーからの旅立ちとか、アントロポゾフィーから距離をおくなどと言いながら、ぼくはずっと後ろめたさを感じていました。アントロポゾフィーには救いはないとか、答えはないなどという自分があまりにも傲慢で、かえって卑小にも思えました。ここまで来てそういう言い方をすることが卑怯にも感じられました。でも、自分にはそうするしかないことが直感的ですが、確信のようにしてあったのです。

今、ようやく自分の本心を言葉にできるような気がします。

ぼくにとって、あなたはひとりの女性なのだと思います。シュタイナーは、アントロポゾフィーは生きた本質であると言ったり、私たちの間を歩き回る青白い人間として思い描きなさいと言ったりしましたが、今、ぼくは改めてあなたは女性なのだと思います。もちろん、ぼくにとって、ではありますが。

ぼくはあなたに抱かれるようにして生まれ、あなたがいたからここまで生きてくることができました。空気のように、当たり前のことのように存在していたあなたを初めて「思想」として意識したときは、反発して離れたり、侮蔑したり、拒絶したりしましたが、その都度、心の内側から愛情のようなものが湧き起こってきて、あなたのもとに帰っていきました。ぼくは、シュタイナーという人の言葉を通してあなたを知り、よりよく理解しようと努めるようになりました。そして、あなたを知れば知るほど、シュタイナーという人を介してではなく、自分自身であなたと出会いたいと思うようになりました。そして、たぶん、一度だけ、ぼくはあなたを見かけました。

それは夢のなかのことでしたが、朝方、遠い海の彼方に、あなたがいくつもの色の光となって輝いているのが見えました。とても懐かしく、ぼくはそこを目指して生きるのだと思いました。

次第に、ぼくはあなたを「おんなこどもの知性」という名前で呼ぶようになりました。それがアントロポゾフィーという片仮名よりも、また人智学というどこか高邁な漢字よりも、ぼくが見かけたあなたの姿に近いと思ったからです。それでも、片方で、ぼくはあなたをアントロポゾフィーと呼び続け、シュタイナー思想を紹介したり解説したりする仕事を続けてきました。それが自分に求められていることだと思っていたのですが、あるとき、自分はあなたを利用していることに気づいたのです。あなたが「生きた本質」であるなら、ぼくはあなたの生命力を奪っている。あなたの生命力で、自分の中途半端な生き方を存続させていると自覚しました。

これからあなたと出会う人、今、あなたを知りつつある人、本当にあなたを必要とする人たちはまだ大勢います。あなたの限りある生命力はその人たちのために使われるべきです。ぼくが、今、あなたから離れるのは、けっしてあなたを否定するためではありません。子どもがいずれ親元を離れ、いつかふたたび人間同士として再会することを期待するように、あるいは配偶者を利用していただけの男が離婚を受け入れ、いつか対等な友人として再会できることに希望をつなぐように、ぼくはあなたとふたたび出会うこと、新しい出会いを目指して、いったん離れようと思うのです。今のぼくは、あなたの力を奪うことはできても、あなたに力を注ぐことはできない。今もあなたに依存しているからです。

そして、2年かかるか3年かかるか、あるいはもっとかわからないけれど、きっとふたたびあなたのもとに戻りたいと思います。そのとき、あなたのことをどういう名前で呼ぶかはわかりません。けれど、自分があなたの力になれると感じたとき、もう一度戻ってきます。

そのような思いをもって、今の自分が代表を務める協会の任期が終了する来年6月まで、いわば離婚の準備期間か、あるいは旅行の準備か、そのための時間を与えられたと考えて、今の自分にできることを精一杯やろうと思います。そのときまで、そしてそれから先も、ぼくは「おんなこどもの知性」と名づけたあなたへの思いを胸に抱いて生きていきます。

もう一つ、心に決めていることがあります。それは、もしあなたが、そしてあなたのアントロポゾフィーという名前、あるいはシュタイナーという名前に連なる動きが社会から批判されたり、非難されたりしたとき、ぼくは「自分には関係ない」という態度はとらない、ということです。それは、来年6月までも、それから先も変わりません。ぼくが書いたこと、語ったことを通してシュタイナーと出会い、あなたを知った人もいることでしょう。今の世界で、アントロポゾフィーとして知られていることに対しては、ぼくも責任を共有しています。だから、必要があれば、出ていきます。けれど、ぼくのほうから、あなたの名前を使って、自分の利益につながる活動はしないということです。少なくとも来年6月を過ぎたら、そして自分があなたの名前を出すことで、本当にあなたの力になれると感じられるその日までは。

以上は、ぼくが内面においてあなたに語りかけたことです。これを自分の風韻坊ブログの最後の記事にすることで、ぼくとあなたとの関係に関心を寄せてくれている一握りの人たちにも共有してもらおうと考えています。

最後に。ぼくは『隠された科学』というテーマで全19回のストーリーを週に一回語ることを始めました。これも直感的に始めたもので、最初は漠然と「巡礼」のようなものだと思っていました。でも、それは実はあなたとの別れの儀式なのだと気づきました。あなたとの本当の出会いを求めての別れの儀式です。次の3回目からは、その意識をもって一回一回に臨みたいと思います。









大学会員の義務と責任について

2015-07-28 12:31:47 | アントロポゾフィー
このブログにいただいた「水星」さんのコメントに、
「風韻坊さまは精神科学自由大学会員とのことですが、自由大学についてかなり独自の見方をされていると思いました」
と書かれていた。

「水星」さんのように、アントロポゾフィー協会や自由大学のあり方について真剣に考えている人がいることを本当に貴重に思う。
だから、自分にとってはやや過去に属することなのだが、彼が述べている「大学会員の義務」について私の理解を記しておきたい。

私はところどころで「独自の見方」を打ち出しているが、協会や自由大学のあり方についてはきわめてシュタイナーの意図を忠実に汲み取っているつもりだ。むしろ、シュタイナーの意図を直接に理解していただきたくて、「水星」さんが言及された『シュタイナーが協会と自由大学に託したこと』という本を出版した次第である。

「大学会員の義務」に関しては、私は「水星」さんが指摘された同書162ページに加えて、その数ページ後(p.169)の次の言葉が重要であると考えている。
「自由大学に所属するということは、アントロポゾフィー協会そのものにおけると同様に、意味を持つことを基盤としなければなりません。つまり、自由大学においては、他の人々とともにアントロポゾフィーを育成する意志を持つということです。だからこそ、精神科学自由大学は、その会員たちにますます厳しい義務を課していくことになるでしょう。」

シュタイナーの意図において、自由大学の「意味」は、「アントロポゾフィーの育成」にあった。
そして、その「育成」は「他の人々とともに」行われることだからこそ、「信頼」という基盤が必要なのだ。

しかし、シュタイナーにとって、このアントロポゾフィーの育成はきわめて「真剣」な事柄だった。
その真剣さを理解できない人、あるいはまだ「アントロポゾフィーの育成」に関わる準備のできていない人には、彼は「まだしばらく待っていてほしい」と伝えた。

アントロポゾフィーは「生きもの」である。
シュタイナーのいう「育成」はドイツ語ではpflegen。「手入れ」や「世話」とも訳される。
生命体としてのアントロポゾフィーのケア(育成)をすることが、自由大学の「意味」である。
なぜなら、幼い子どもの成長を支え、保護する人がいて初めて、その子どものもっている可能性は発展するように、
アントロポゾフィーが世界の現実のなかで有効に働くためには、
そこから何かを得ようとする人だけではなく、アントロポゾフィーの世話をする側に回る人たちが必要だからである。

大学会員の「義務」は、ゲーテアヌムを信頼することではなく、アントロポゾフィーの育成である。
そして、その義務を全うするためには、ゲーテアヌムの人々を含め、他の同じ志をもった人々との「信頼」が必要なのである。

この信頼の根拠になっているのが、「世界の前にアントロポゾフィーを代表する」という信念である。
「水星」さんが挙げた162ページの最後で、シュタイナーは「信頼」との関連で、このように述べている。
「...クラスに所属しようとする人はすべて、自分自身に対して、自分は本当にアントロポゾフィーの事柄を世界の前で支持(vertreten、代表)するだけではなく、あらゆる勇気をもって、あらゆるしかたでそれを代表する(repräsentieren)人物になる意志があるのか、と問いかける必要があるのです。」

通常、組織や立場を「代表」するという言い方をするときは、
ドイツ語ではvertretenという言葉を使う。
他の人々に代わって発言したり、何らかの意見を支持したりするときに使う言葉だ。

Repräsentierenも同様の使い方ができるが、
これはvertreten以上に、組織や立場がその人のなかに体現されていること、
あるいはその人がそうした立場や組織の「典型」であることを示唆する言葉である。

私は、シュタイナーがこの言葉を使った背景には、明らかに「人類の代表」(Menschheitsrepräsentant)との関連があったと思う。
シュタイナーは、晩年に制作したキリストを思わせる彫像にこのタイトルを付けたのである。

キリストがいわば、人類の運命とみずからを結びつけ、そのすべての破壊的、否定的行為を引き受けつつ、
人類の創造に寄り添ったように、

シュタイナーもまた、クリスマス会議において、自分の意図をまったく理解しない会員たちとともに新しいアントロポゾフィー協会を設立し、
その「代表」となった。かつてプロコフィエフ氏が切実に強調したように、「シュタイナーは、協会のカルマを引き受けた」のである。

シュタイナーが協会と自由大学について語った言葉を読むと、
彼のその真剣な覚悟が伝わってくる。
そして、自由大学に入る条件として「アントロポゾフィーを代表する意志」を求めたとき、
それはシュタイナー自身とともに、アントロポゾフィーを育成する仲間を求めていたことがわかる。
それゆえに、彼は自由大学に関して徹底して厳しかった。

そこにはシュタイナーの次の確信があった。
「今日、私たちが生きている時代においては、基本的に、アントロポゾフィーは地球上の無数の人々にとって焦眉の問題になるはずなのです。」(同書p.139)

しかし、そうなっているだろうか?
一人ひとりの大学会員は、自分が身をおくその場でアントロポゾフィーを生きるのだ。
私たち一人ひとりがアントロポゾフィーそのものなのだ。
自由大学において、私たちはシュタイナーと対等である。
たとえ、どんなに見苦しく愚かであったとしても、
私たちはシュタイナーが目指していたことを、共に目指そうとするから、自由大学に集っている。

私はこの意味での「自由大学」に所属しているつもりだ。
ただし、その会員はゲーテアヌムに登録しているよりもはるかに多く、世界各地に生きていると思っている。
また、自由大学会員のなかには、数多くの「死者」がいるし、この世に生まれることのない霊的存在たちもいる。

私は思うのだ。
これまでのアントロポゾフィー運動はやはり、シュタイナーが警告した「徒党欲求」(同書p.165)に陥っていたのではないか、と。
日本は今、戦争に向かって突き進んでいる。
米国に代表される作用は全世界に広がっている。

そこでアントロポゾフィーが有効に働くかどうか、
シュタイナーのいうように「地球上の無数の人々にとって焦眉の問題」になるかどうか、
それは結局は、一人ひとりの個人において見ていくしかない。

それはきわめて孤独な作業になる場合もあるだろう。
けれど、シュタイナーが示した「信頼」とは、地上において徒党を組まなくても、
意識の深みにおいて、自分と同じ信念をもって努力している人々と連帯することができる、ということだ。

私たち一人ひとりの努力を通して、
いつか、アントロポゾフィー協会は果てしなく開かれて、一般社会のなかに解消されるだろう。
そして、アントロポゾフィーは新しい人間の知恵として、多くの人々の生活のなかに生きることになるだろう。
そこに見えてくるのは、一人ひとりの個人の無限の価値を認め、
個人の創造性によってつねに生まれ変わる社会のありようだ。

そのような理想を共有できる人々は、世界に無数にいると思う。
その人たちを「アントロポゾフィー」という名称で括る必要はない。

要は、それを単なる理想や夢物語として片付けるのではなく、
きわめて真剣に、けれど自分だけを「高尚」にすることなく、
やや滑稽な姿をさらしつつ、自分の目指すところとして努力し続けること、

それが自由大学会員の「義務」であり、
それを自らの意志として引き受けられる人が、自分で自分に課すものなのだと思う。

そのとき、アントロポゾフィーを育成すること、
アントロポゾフィーの源泉からつねに「新しいもの」を生み出していくことは、
自由大学会員の「責任」として自ずと意識されることだろう。

以上は、私自身の表現だけれど、
この理解は、けっして私の「独自の見方」ではない、
シュタイナーの言葉を正確に読み解いていけば、きっとそのような理解にいたるだろうと思っている。
















アントロポゾフィーからみた総選挙08~教育という希望

2014-12-13 23:57:15 | アントロポゾフィー
手元にある「日本国憲法」を取り出してみると、
まだ“改正”される前の「教育基本法」が載っている。
なんと素晴らしい遺産を私たちはすでに手放してしまったことだろう。

「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」

この戦後の国家建設への決意につらなる言葉は、すでに消されている。
さらに次の言葉もー。

「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」

私が感動するのは、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」という言葉である。

これはアントロポゾフィーの理想でもある。
シュタイナーは、第一次世界大戦が終わって間もない1919年、ヴァルドルフ学校を設立する際に、ある「文化衝動」について語った。
一人ひとりの子どものなかの神性に仕えることこそ教育であり、それによって時代のなかに絶えざる「革新」を起こしていくこと。
文化は、この地上に生まれてくる一人ひとりの人間によって、つねに変容していく。教育は、一人ひとりの人間のなかの「意志」を神性として捉え、その発現のために仕えることだ。
それによって、文化そのものが生命を帯び、それは人類全体の生命に合流する。
このイメージは、かつて私たちが抱いていた「教育基本法」の理念そのものだったと思う。

明日の総選挙を前に、私は思うのだ。
今は、私たち一人ひとりのなかの神性を信じよう。
そして、どのような結果になろうとも、人間のなかの意志とともに歩んでいこう。

アントロポゾフィーからみた総選挙07~言葉と民族

2014-12-12 23:49:22 | アントロポゾフィー
選挙では、当然、言葉が飛び交う。
政治家たちは公約を掲げるが、
本当に大事なことは触れなかったり、ぼやかしたりする。
けれど、そういう言葉の使い方が、人間を弱らせる。
民族を弱らせる。

シュタイナーがもっとも警戒したのが、「空虚な言葉」(Phrasen)だった。
本当の意図を隠した発言、責任を伴わない言葉の連なり…
収束からほど遠い原発事故の状況を「コントロールされている」と言ったり、
原発問題に触れずに被災地の復興を語ったり、
憲法の精神を捻じ曲げて集団的自衛権を押し通す。
それらはすべて言葉への裏切りだ。
日本語という言語への裏切りだ。

言葉は人間そのものであり、
社会は言葉のうえに築かれる。
空虚な言葉は、人間と社会の空洞化を意味する。

シュタイナーは、第一次世界大戦の最中、
これからの民族概念は、
「血縁共同体」から「カルマ(運命)共同体」に変わる必要があると言った。

私自身は、これからの民族は言語共同体として捉え直されるべきだと思う。
そのとき、民族はただ生まれ落ちるところの、受動的な絆ではなく、
意識的に言語を使用することによって、意識的に形成される関係性となる。

人間の赤ちゃんは、最初はいかなる言語にも開かれている。
しかし、周囲の人々の語りかけや関係性によって、
一つの言語を母語として選択し、身につけていく。
民族性は、出生後の人間関係によって形成されるのだ。

そのような意味での民族性であれば、
大人になってから意識的に選び直すこともできるだろう。
あるいは、T.S.エリオットは、母語の他に、少なくとも一つの言語を習得することは、
新しい人格を体験することであり、人間性を豊かにすると言ったが、
複数の民族性の間を行き来することもあるだろう。

たとえば、日本文学への関心から日本語を見事に習得した外国の人たちに出会うと、
この人たちこそ、日本語を守り育ててくれているのではないかと感じる。
または、アンソニー・バージェスは、
英語は「大いなる不純性の言語」だと言ったらしいが、
そのように雑多な人々にいわば勝手な使われ方をすることで、
いわゆる世界共通語として強靭に育つ言語もある。

英語のもつ民族性は、もはや米国や英国を超えている…

しかし、一つの国家は、一つの言語を共通語として形成される。
それは法律が一つの言語で書かれるからだ。
その中心をなすのが憲法である。

政治家とは、本来、法律という言葉を通して、
国家を守り形成していく人々のことだ。
それが立法ということではないのか?

国会の議論も、外交も、およそ政治は言葉によってなされる。
国家は「言葉の家」なのだと思う。
そして、政治家は、国家の言葉に責任がある。

今の政権は、愛国と言いながら、
国家の言葉を骨抜きにしている。
真の国家形成は、
沖縄に対しても、原発に対しても、安全保障に対しても、
政治家が嘘のない、責任ある言葉を持つことによってなされるはずだ。

よく「言葉だけじゃダメだ」と言われるが、
それでも言葉は人間の中心なのだと思う。
言葉から思考が生まれ、
言葉から行為が生まれる。
言葉が空虚ということは、人間が空虚ということだ。

今、政治家たちによって、
「日本国の言葉の背骨」である憲法が骨抜きにされようとしている。
私たちに国民としてできることは、
一人ひとりが自分の責任ある真実の言葉を発することしかない。

選挙における投票は、言葉を発することだ。
私たちは自分で候補者や政党の名前を書く。
名前は、もっとも根源的な言葉だ。
幼い子どもがが最初に覚える、もっとも重要な言葉が名詞である。

投票によって、私たちは日本語を語るのだ。
それは、日本国の背骨を、私たちの手で正す行為となるはずだ。












アントロポゾフィーからみた総選挙06~日本人の意志

2014-12-11 23:53:00 | アントロポゾフィー
朴裕河さんの『帝国の慰安婦』を夢中になって読んだ。
今回の衆院選の直前に、この本を読めてよかったと思う。
私は一人の日本人としてこの本を読み、
過去から現在、そして未来へ続く日本の精神状況について思いをめぐらせた。

これまで私は、朴裕河さんは、慰安婦問題をめぐる日韓の対立のなかで、
懸命に双方の和解に向けて努力されている人だと思っていた。
それは確かにそうなのだが、
この本を読んで、
彼女が目指しているのは「治癒」と「新しい価値の創造」なのだと思った。

治癒は一つひとつの事実、一人ひとりの個人を丁寧に見ていくことでもたらされる。
これまで「慰安婦」として一括りにされ、
強制連行された性奴隷なのか、自発的な売春婦なのかという二項対立で見られていたところに、
一人ひとりの異なる運命を見ていく。
貧しさゆえに故郷に残れなかった人、
兵士に恋愛感情をもった人、
戦線で過酷な性労働を強いられた人、
それぞれが異なる運命を必死で生きた。
そのなかには自分の辛い運命に意味を見出し、
誇りをもって生きようとした人たちもいた。
そうした個々の記憶をそのままに受けとめる姿勢は、
それが治癒につながることを感じさせた。

慰安婦にされた人たちには大概、民間の業者が介在していた。
甘言でだましたり、暴力で支配したのは彼らだった。
また慰安婦の仕事は、兵士の性欲を受けとめるだけでなく、
洗濯をしたり、傷の手当てをしたり、話を聞くこともあった。
慰安所も、駐屯地に簡易につくられたものから、
料理屋や遊郭のようなところまでさまざまだった。
日本という国家の責任は当然あるのだが、
さらにその背後には共通して、
植民地、帝国主義、男性による女性差別や民族差別の構造があった。

この本を読んで、私は、以前朴裕河さんがツイッターで、
「謝罪は新しい価値を生み出す」と書かれていた意味を理解できたと思った。
真の謝罪は、他者の思いに想像力を働かせ、
自分自身が囚われている社会構造を認識するところから可能になる。
それは実は、自分自身が解放されること、自由になることでもある。
それが「新しい価値」を創造するということなのではないか。

私なりの捉え方でいえば、
治癒は、一人ひとりの個人、一つひとつの個別性を見ることからもたらされ、
新しい価値は、普遍的な社会構造を認識することによって生み出されるのではないだろうか。

この本は、日本と韓国、双方への投げかけとして受け止められる。
慰安婦問題を植民地の問題、帝国主義の問題として捉え直すことによって、
西洋からもたらされた帝国主義を乗り越え、
アジアの独自の新しい価値観を生み出すことはできないのか、と。

1990年代に、元従軍慰安婦の人たちの問題が公に取り上げられるようになってから、
日本でも河野談話があり、村山談話があり、
そして今の右傾化した頑なな状況がある。

しかし、今、日本はみずから新しい価値観を創造すべき段階に来ている。
そう思えたことは、私にとって大きな収穫だった。
今度の総選挙も、その文脈のなかで捉えることができる。

もう一度、「日本人の意志」に意識を向けてみようと思う。

アントロポゾフィーからみた総選挙05~TPPと景気回復

2014-12-11 06:02:51 | アントロポゾフィー
ついに特定秘密保護法が施行された。

このことに精神活動を縛られる実感のある人がどれだけいるだろう。
それでも、今日から、日本の精神性と知性は大変な枷をはめられるのだ。

これからは一人ひとりが、今まで以上にきわめて意識的に、
自分の精神活動を展開しなければならないと思う。
不安に制御され、無意識に自粛するという事態が増えてくるだろうから。

景気回復というのは、人々の「意欲」に深くかかわっている。
ある社会が元気で、創造性に富むためには、
一人ひとりが生産的でなければならない。
人間の生産性のためには「自由な精神活動」が必要である。
ところが秘密保護法はその精神活動を縛るものだ。
本質的に「景気回復」に逆行する法律である。

アベノミクスと言われる論理は、
経済活動の源泉を個人のなかにではなく、企業の中に見ている。
それはある意味、自民党の憲法改正案と一貫した論理であり、
徹底して「個」を排除しようとする意図にもとづいている。

この意図は、日本の政権に限ったことではなく、
むしろ世界中の政治と経済のなかに働いている。
それを端的に表しているのがTPP(環太平洋連携協定)である。

日本は昨年3月にTPP交渉への参加を正式決定しているが、
今回の総選挙の争点としては、
それぞれの政党の見解は、日本の参加継続か撤退かに分かれている。

けれど、投票する側にとって重要なことは、
候補者や政党が「経済」をどう見ているかだと思う。

TPPは2006年にブルネイ、チリ、ニュージーランド、シンガポールの4国で始まったが、
その協定の序文(Preamble)を読むと、その最初に
「参加国の友情と協力の特別の関係を強める」と謳われている。

当然のことだが、経済の本質は関係性である。
シュタイナーという人は、経済の原理を「友愛」と表現した。
これはしばしば「慈善事業」のように誤解されるが、
シュタイナーは経済の動き方をそのように捉えたのだ。

つまり、人間の身体に例えるなら、
経済は神経=感覚活動であって、
どこで誰が、何を生産しているかを知覚し、
その製品を欲しいとか、要らないというように共感や反感が働く。
ネットショッピングはまさに「友愛」の原理で動いている。
自分の製品を提供する側は、そこで認められたと感じ、さらに生産意欲が増していく。
仕事をしても報われない、認められないと感じていれば、
やがて生産性や創造性は衰退していくだろう。

これは個人を中心にした経済活動の捉え方である。
本来の「景気」は、この友愛の原理によってしか回復しないと思う。

しかし、現代世界では、
経済活動はますます個人から切り離されていく。
原発推進も、沖縄の基地も、それを正当化する人々の理由は「経済」である。
けれど、それは個人の精神活動から生み出される経済ではない。

よく経済は国家を超えるという言い方がされるが、
私は、国家は今までになく強固に働いていると感じる。
ただ、それは国境に隔てられた国家というよりも、
多国籍企業である場合が多い。
多国籍企業が帝国化している。
しかし、そこに働いているのは依然として「国家の論理」である。

私自身は、TPPの問題点は「秘密」と「文化」にあると思っている。
TPPの交渉の中身は4年間は公開されないという。秘密なのだ。
だからウィキリークスが「知的財産」をめぐる条文草案をリークしたりする。

また、先に挙げた協定の序文には「文化」という言葉は一切出てこない。
たとえばこの序文には、「経済的発展、社会的発展、環境保護は相互に依存するものであり、持続可能な発展の共通の要素であり、より緊密な経済的パートナーシップは持続可能な発展の推進において重要な役割を果たすことができるということに留意する」とある。
この「留意する」という言葉には、おそらく意識的にマインドフル(mindful)が当てられている。

つまり最近の認知療法や禅などを想起させる「マインドフル(気づき)」という言葉を使い、経済におけるスピリチュアルな観点を踏まえていることを示唆しているが、
そこでは個人や文化というものが度外視されている。

今、世界経済を動かす主要な力は、
一人ひとりの個人の内面から出てくる意欲ではなく、
あらかじめ存在している企業の利益の自己増殖への意欲である。
それは第二次世界大戦までの国家の領土拡張への意欲が変容したものだ。

そしてTPPについては、
農業や食の安全、医療の質や医療費への影響などから、
日本の経済は発展するのか、私たちの暮らしは脅かされるのかといったことが議論される。
けれど、農業も食も、医療も、その本質は「文化」である。
一人ひとりの人間によって営まれる創造活動(精神活動)なのだ。
だから、農業や食事には、国や地域の文化の違いがはっきり現れる。
そして医療にも、西洋医学から東洋医学、漢方やアーユルヴェーダなど、
やはり文化の違いがある。

TPPに関して重要なのは、
経済効果の試算よりも、
交渉に参加する政治家の「経済」と「文化」の捉え方である。

徹底した情報公開と、
経済の基本は個人であるという確信があれば、
そこから環太平洋の経済圏を構築していく努力は、もちろん意義があるだろう。

シュタイナーの時代から、
文明の中心は「太平洋」に移っていくのではないか、という見方をする人は多かった。
何より、「太平洋」(パシフィック)という言葉は「平和」を意味する。
けれど、そのヴィジョンを打ち砕いたのが太平洋戦争だった。

今、環太平洋を見つめるなら、
その視座は徹底して個人に根ざしていなければならない。

アントロポゾフィーでは、社会を「生きもの」と捉え、
経済、政治、文化を社会の生命を支える三領域と考える。

たとえば、人間の身体のなかには、
頭部の神経=感覚系、
胸部の呼吸=循環(リズム)系、
手足と内臓の四肢=代謝系が、
それぞれ独立した領域として働きつつ、
生体全体を支えているように、

社会のなかでも
文化は自由という原理で、
政治は平等という原理で、
経済は友愛という原理で働くことによって、
社会有機体を支えているという見方だ。

そのとき、もっとも重要なのは、
自由、平等、友愛は、一人ひとりの個人が、
自分のなかで実現していこうとする理想であるということだ。

個人の意識的な関与がなければ、
経済は単独で暴走し、ちょうど神経が形成する回路網のように、
世界に張り巡らされた関係性をつかって増殖することだろう。
それは金融の世界にみられるような、個人や文化の破壊にもつながるだろう。

個人の意識的な関与がなければ、
政治は暴走し、国家の名のもとに個人を抑圧し、
結果として、自国の文化の破壊にもつながるだろう。

個人の意識的な関与がなければ、
文化は暴走し、他者を認めることなく、自己の内部で動き回り、
結果として、自己と他者の破壊にもつながるだろう。

今、どうしても必要なのは、
一人ひとりの「私」が社会そのものをつくっているという自覚である。

平和が可能であるとすれば、
それは個人のなかから生まれるはずである。

その観点からは、
今、総選挙で掲げられている「この道しかない」というその道は、
平和の真逆を行く道である。

そこからは民族の和解も、文化の発展も、そして個人に支えられた本当の経済の発展も生まれない。

この選挙は、個人にとっても、環太平洋の諸民族にとっても、決定的な意味を持っている。

アントロポゾフィーからみた総選挙04~秘密保護法

2014-12-09 09:15:43 | アントロポゾフィー
明日、特定秘密保護法が施行される。
その後、14日に総選挙が行われるという恐怖。

今、心ある人たちは恐怖と戦っていると思う。
なぜ私たちは、原発を推進する人たちを選んでしまったのか、
なぜ私たちは、戦争への道を着々と敷いている人たちを選んでしまったのか、
そして2014年12月14日には、
原発、秘密保護法、集団的自衛権をめぐって見せた彼らの言動を知ったうえで、
私たちはなおも彼らを私たちは選びつづけるのか?

昨日(14.12.08)の朝日新聞の歌壇俳壇のコラムに、
関悦史さんという俳人が、戦前の渡辺白泉の二つの句を紹介していた。
一つは、太平洋戦争が始まる3年前に発表されたー
「銃後という不思議な町を丘で見た」

関さんは、この「不思議な町」が奇妙に静かなのは、
「人々が戦時に適応して顔を失っているから」と書いている。
迫害を恐れて黙ったり、あるいは戦争を歓迎したり、
あるいはどうとも思わず事態をやり過ごしていく人々。

私が恐怖を感じたのは、その翌年に書かれたという次の句だー
「戦争が廊下の奥に立っていた」

関さんはこのように書く。
「気づいたときには戦争は、暮らしにも内面にも立ち混じっている。
いや、国民の側が招き入れている。」
その翌年には、京大俳句事件が起こり、
白泉を含め、ただ俳句をつくっていた人々が
治安維持法違反の嫌疑で検挙されたという。
そして、その翌年、太平洋戦争が始まる。

そのように戦争の近づく気配を感じとっていた人たちが、
あの当時も、そして今もいるのだ。
けれど、その恐怖のなかで、自分たちの無力も感じている。
これだけ恐れ、嫌がり、抗っているのに、
なぜ自分もその一部であるはずの国民は破滅の方向に進んでしまうのか?

シュタイナーという人も、同じ恐怖を感じていたと思う。
ドイツでは、やはり「国民に選ばれて」ナチス政権が誕生したが、
それに先駆けて、彼は第一次世界大戦の直後に社会運動を展開した。
そのなかから、ヴァルドルフ(シュタイナー学校)も生まれたのである。

ナチスが政権をとった1933年には、シュタイナーはもう他界していたが、
生前、彼はヒットラーについて、
「この男が政権をとったら、私たちの活動は無に帰するだろう」と言ったとされる。

ただ、シュタイナーが選んだ道は、ナチスに警鐘を鳴らすことよりも、
人々の精神の自律を促すことだった。
その基本は知ること、考えることである。
そこから、彼のなかで教育が社会形成の中心の柱であったことがうかがえる。

そして、この危機感は、シュタイナーだけではなく、
当時の多くの文化人にも共有されていた。
トーマス・マンやヘルマン・ヘッセがシュタイナーの社会運動に共鳴したことは知られているが、
私はとくにトーマス・マンが当初、激しく民主主義に敵対したことを思うのである。

『非政治的人間の考察』という本のなかで、
マンは、民主主義によって、人間のなかの無秩序で低次の衝動が、
そのまま社会に蔓延することを恐れた。
そして、そのように感じるドイツの人々にとって、
第一次世界大戦における敗北は、
アメリカ、フランス、イギリス流の民主主義が、
中部ヨーロッパに流れ込むことを意味した。

しかし、マンは、ちょうどシュタイナー学校が設立された1919年頃だったと思うが、
ワイマール共和国について、自分の政治姿勢の変化を表明する。
彼は、ドイツの詩人ノヴァーリスの「人間性」という言葉を引きつつ、
ドイツの役割は、民主主義を否定することではなく、
民主主義に「内面性」を付与することだと気づいた、というのである。

シュタイナーは、1923年、長い逡巡の末に「アントロポゾフィー協会」を新しく設立し、
自分自身がその代表に就いた。
それまでは、彼は、自分の役割は精神運動を導くことであり、
組織に関わることは、精神運動を損なうことになるという姿勢を貫いていた。
なぜなら、精神運動は個人の内面にかかわることであり、
組織は公共社会にかかわることであり、それぞれまったく別の原理だからだ。

けれど(日本では関東大震災が起こった3ヶ月後)、
1923年クリスマスに、彼はあえて自分の精神活動を地上の組織と結びつける決意をするのである。
そして、このように宣言した。
「私たちの課題は、もっとも深い秘教性と、最大の公共性を結びつけることです。」

これは、トーマス・マンが見ていた時代の要請、
つまり内面性と民主主義をつなぐことにほかならない。

それは別の言い方をすれば、
いかに「多数決の論理」のなかに「個人の意志」を働かせるかということだ。

シュタイナーの社会運動のエッセンスは、このことに尽きると思う。
(このテーマはたとえば『歴史徴候学』などの連続講演のなかで、具体的に論じられている。)

多数決を思うとき、
個人の意志はいかにも無力に感じられる。
しかし、それでも多数の意志は、個人の意志から成っている。

私は、言い方を改めようと思う。
私たちが選び続けているのは、政権ではない。
私たちは今もなお、民主主義という理想を選び続けているのだ。

そして、アントロポゾフィーにできるのは、
民主主義を否定することではなく、
ひたすらに個人を尊重し、その意志を支えることだ。
それは個人にしかできない。

シュタイナーは、現代においては、もはや社会的組織には一切の秘密はあってはならない、と言い切った。
それが「最大の公共性」ということだ。
もはや秘密結社は現代人の意識にはふさわしくない。
自分はすべてを公開する、これまで秘密の教えとされてきたこともすべて公開する。
しかし、それと並行して、個人の秘密は尊重されねばならない。そして、一人ひとりの個人が自分の内面を深める作業を強めていかなければならない。
それが、もっとも深い秘教性を最大の公共性に結びつけるということだ。

今日においては、
あなたは修行していて優れているから、特別にあなただけにこの秘密の教えを授けましょう、ということはありえないのだ。
だれでも、望むなら、個人情報を除き、社会に関わるどんな情報にもアクセスできる。
しかし、その情報をどのように扱うかは、個々人の内面に委ねられる。

教育の課題は、
人々の考え方を特定の方向へ導いたり、形成したりすることではなく、
子どものなかに、個人と社会、人間と世界とのつながりの感覚を育てることだ。
社会への責任感を育てることだ。
一人ひとりが、自分の情報の扱いかたが、そのまま社会形成に直結しているということを感じられなければならない。

国民が、あるいは大衆が、一つの方向へ操られてしまうとすれば、
それは一人ひとりの個人が個人たりえていないからだ。
それが「顔を失う」ということだろう。

個人が個人であるためには、知ることが、情報が必要である。
情報にもとづいて考えることが必要だ。

秘密保護法の精神は、
国家の名のもとに
個人の「知ること」を制限することであり、
それはシュタイナーの言葉でいえば、「精神生活の自由」を損なうことだ。

しかし、それは実は、
民主主義から「内面性」を奪うことなのだ。

内面性を奪われた国民は、個人の抑圧へと向かう。
なぜなら、個人こそが内面性の源だから。

私たちの共通の敵は「個人の不在」である。
私たちの戦い方は、いたるところに「個」を目覚めさせていくことでしかない。
それが日本国憲法にあるように、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」ということだろう。

自民党の憲法改正案の精神は、
現行の第13条「すべて国民は、個人として尊重される」を
「すべて国民は、人として尊重される」として、
わざわざ「個」という言葉を外したところに端的に現れている。

この精神、すなわち「個」を抹消しようとする精神は、
そのまま特定秘密保護法につながっている。
それが行き着く先は、戦争である。

なぜなら、「個人の不在」の究極は、
個人が国家の名において個人を殺すことだから。
だから、戦争と死刑は一つの同じ本質の二つの現れである。

戦争においても、死刑においても、
国家の名において、生命が奪われ、
殺す側も、殺される側も、個人であることを否定される。

それはあえて宗教的な言い方をすれば、
カルマ(運命)を否定することでもある。
個人が個人に殺される限り、どんなに悲惨な運命であっても、
その当事者たちは「人間」であり続けることができる。
来世を信ずるなら、個人として来世で贖罪や和解に向けて努力することができる。

けれど、国家の名のもとになされた犯罪は、
個人から責任能力を奪うのだ。自分が殺したのに、その責任は国家にある。
あるいは、自分に対して行われた犯罪を国家に対して訴えても、
国家には顔がない。

そのようにして死んでいった無数の人々に対して、
地上を生きる私たちにできることは、
ひたすら個人であること、
そして群衆にみえたもの、一塊の「兵隊」や「慰安婦」や「難民」といった言葉で括られるもののなかに、
一人ひとりの個人の名前、個人の顔を見ていくことである。
そして、その作業を通して、「人間の顔をもった社会」を実現していくことだろう。

アントロポゾフィーとは、
自分に向かって「私は私だ」と言い、
出会った人に向かって「あなたはあなたですよね」と言い、
そして、「あなたも私も、どちらもかけがえのない私ですよね」と言っていくことだ。
たったそれだけのこと、当たり前のことだ。
だから、アントロポゾフィーなんて言わなくてもいい。
(シュタイナーも、自分は「アントロポゾフィー」という名称を毎日でも変えたいくらいだと言っていた。それでも、当時の彼にとっては「神の叡智」から「人間の叡智」への移行が重要だったから、人智を意味するアントロポゾフィーという言葉を使っていただけのことである。)

だから、私にとって、
日本国憲法はアントロポゾフィー(人智)の結晶であり、
「国民の不断の努力」はアントロポゾフィーの活動そのものである。

私には、渡辺白泉が「戦争が廊下の奥に立っていた」と言ったとき、
彼は「個の不在」が直に見えたのではないかと思えるのだ。

それに対して、シュタイナーという人は、
「個の実在」というものをアントロポゾフィーという名前で呼んだのだと思う。

個の不在ではなく、
個の実在による民主主義であれば、
国民を守る国家という家を建設できるのかもしれない。

私は今は、選挙までの数日間、
自分のなかで、また自分が接する人々とのかかわりのなかで、
自分にできるかぎり「個の実在」を呼び覚ます作業を続けたいと思う。
それが「国民の不断の努力」に連なることを願いつつ。

アントロポゾフィーからみた総選挙03~子育て支援

2014-12-08 07:31:37 | アントロポゾフィー
アントロポゾフィーからみた総選挙03~子育て支援

今回も、選挙演説では「教育」や「子育て」が強調される。
「子育てにがんばっている女性」「仕事にがんばっている女性」を支援するという。
保育の受け皿を20万人分、40万人分つくるという。
私が指摘したいのは、どの議論も、
女性や子どもを既存の社会に組み込むことしか考えていない、
社会の側が変わろうとはしていない、ということだ。

フリースクールを支援する、
不登校の子どもたちを支援する、
そこに期待する人たちは多いけれど、
私たちが見極めなければならないのは、
子どもに即して社会を変える意志があるのかということ、
大人の側が変わるつもりなのかということだ。

シュタイナー教育は、
第一次世界大戦後の混乱した社会のなかで始まった。
シュタイナーは当時の政府の役人と話し合い、
たくさんの妥協をしたけれど、ひとつ絶対に譲らない点があった。
それは「教育は社会変革だ」ということだ。
子どもを社会に合わせるのではない、
新しく生まれてくる子どもたちに合わせて、
社会を新しく形成しなければならない。

社会のため、国家のために教育があるのではない、
子どもたちが育つために社会があるのだ、
人々の生活を守るために、国家があるのだ。
私たち大人は、そのことを絶対に忘れてはならないと思う。

これまでの政権が次々に打ち出したのは、
人々の暮らしよりも、国家を優先する政策ばかりだ。

私たちは「子どもたちは宝だ、未来だ」という。
けれど、実は子どもたちは、大人にとって「挑戦」である。
大人たちに、社会に、変革を迫るのが子どもたちだ。
未来は、まだ何も見えないから、大人たちを不安にする。
そしてすでに分かっていること、安全と思われることで道を固めようとする。
それを根底から覆すのが子どもたちなのだ。

もし政府が、フリースクールに手を差し伸べ、
「教育の多様性」に理解を示すなら、
行政と手を携えることはつねに必要なのだけれど、
私たちは一貫して言い続けなければならない。
「私たちの立場は、子どもたちではなく、大人が変わらなければならない、ということです。
少しずつでもいい、社会のどこが変わりうるのか、一緒に考えていただけますか?」

けれど、秘密保護法、集団的自衛権、そして原発への執着は、
今の政権に「変わる意志」などないことを示している。
そして「この道しかない」と言う。
ちょうど、長崎の被爆者の方が「集団的自衛権に納得できない」と訴えたとき、
「見解の相違です」と言い切ったように。

もちろん、現在、子どもをもつ親にとって、
待機児童や子育て支援は、緊急の課題である。
そこへの対応は当然求めていかなければならないが、
親としての責任、社会の大人としての責任は、
子どもたちが生きる未来に目を向けることだ。
短期的ヴィジョンだけではなく、
長期的なヴィジョンが必要だ。
そして、未来へのヴィジョンはつねに修正を迫られるのである。
なぜなら、未来は子どもたちのなかに隠されているからだ。

今、子育て中の保護者には、
秘密保護法も、集団的自衛権も、そしてエネルギー政策も、
すべて深く「教育」にかかわる問題だと伝えたい。
そこから社会が変わる。

しかし、この社会は絶対に変えない、
そのためには憲法さえ変えてしまおうというのが、今の政権なのだ。

それに対して、私たちが今度の総選挙で示す結果は、
現在、私たちのもとにいる子どもたちに対する、
私たち大人の答えでもある。

アントロポゾフィーからみた総選挙02 ~憲法と死者たち

2014-12-07 07:21:30 | アントロポゾフィー
昨日、ある人の訃報に接した。
あまりのショックで今も打ちのめされている。
那須の幼稚園を引き受けてから知り合い、このブログにもコメントをくださったりした。
この一年間、気になりながら連絡もしないでいた。
今はその事実を噛み締めるしかない。

その人に勇気づけられるようにして、
私は自分の考えをもっとストレートに綴ることにする。

今度の総選挙の争点のひとつに「憲法改正」がある。
今回、本当に問われていること、
隠された本当の争点は、「主権在民」である。

私たちの主権者としての自覚。
そんなものはないだろうと、為政者たちは高を括っている。

原発が最大の争点といえるのは、
ヒロシマ、ナガサキ以来、核は日本人の運命と密接に結びついているからだ。
そのうえさらにフクシマの原発事故を経験した私たちは、
原子力の悪夢から脱却し、
新しいエネルギー政策を世界に提唱できる立場にある。
唯一の被爆国だからこそ、
憲法9条のような、きわめて理想的な平和原理を固持することができる。
そこに日本に生まれた私たちの使命がある。

その日本が原発に回帰し、原発を輸出したり、
集団的自衛権によって米国の軍事行動に加担したり、
さらには沖縄への基地集中を放置し続けることは、
何よりも私たち自身の使命への裏切りである。

私は、この使命に対する自覚は、
すべての日本人のなかに(あるいはすべての日本語を話す人たちのなかに)生きていると思う。
しかし、何かが私たちを骨抜きにしている。
それは「天皇」をめぐる問題に向き合うことなく、ここまで来たからだ。

憲法9条を守ろうとする人たちのなかには、
第1条(日本国の象徴としての天皇)は改正すべきだという人が多い。
以前、平和運動の集会に参加したとき、
皇室の人たちの名前をわざわざ呼び捨てにする人がいて驚いたことがある。

現行の日本国憲法を開いてみると、
まず最初に、
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび…」
という言葉が目に飛び込んでくる。
これは天皇の言葉だ。
当たり前のことだが、
日本国憲法は、まず天皇自身によって裁可され、公布せしめられたものだ。

この憲法の第一条は、
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。
私自身の見解では、
今、もっとも重要なのは、
・私たち国民に主権者としての自覚があるのか、
・私たちは主権者として、天皇に国民統合の象徴としての地位を認めるのか、
ということだと思う。

もし認めるとすれば、それは私たちから天皇に対する「委託」(お願い)になる。
いったい、誰が好き好んで、現在の天皇家の人たちのような「公務」を引き受けるだろうか。
ほとんど個人性を否定され、政治的な発言を抑制される一方で、
ありとあらゆる誹謗中傷を浴びせられる。
それなのに、今の天皇皇后ほど、徹底して戦後日本の民主主義のために働いている人たちはいないだろう。
彼らはたぶん、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」という仕事を真剣に引き受けているのだ。

象徴ということは、
今の天皇をみれば、日本人のありようが見えるということだ。
日本国民が統合している様子が見えるということだ。

私は、今の天皇や皇后のあり方や発言は、
日本人の見識を世界に伝えるうえでも、きわめて有効な作用をしていると思う。
その意味で、彼らは「日本国の象徴」は体現している。

問題は、「日本国民統合の象徴」のほうである。
これは天皇にはどうしようもなく、国民のほうが努力するしかない。
主権が存するのは国民なので、
天皇が束ねるわけにはいかない。

では何が主権者である国民を統合するのかといえば、
それが「憲法」なのだと思う。
憲法とは、日本国民が、自分たちが目指す国家のあり方を示した理念である。
自分たちを代表する為政者に対して、
国家をこのように運営してくださいという「信託」なのだ。

その憲法を「改正」するということは、
主権者である私たちが、国家に対する「信託」の中身を変えるということだ。

そうであるなら、本来、
その動きは「国民の信託」を受ける側の政治家たちからではなく、
信託する側の私たち国民のなかから出てこなければならない。

ところが、今、
私たちはまるで自分たちが主権者であることを忘れたかのように振舞っている。
今、この選挙で追認されようとしているのは、
原発も、集団的自衛権も、秘密保護法も、
すべて国民の生命の尊重、思想、表現、学問、通信の秘密の自由など、
憲法が定める理念を踏みにじるものだ。

しかし、憲法第12条にあるように、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

今、問われているのは、私たちの、いや私自身の「不断の努力」だ。

日本国民は、憲法に関してだけは、
本当の一致にいたるために「不断の努力」を続けなければならない。

そして、そこでは「天皇をめぐる問題」を避けて通ることはできないだろう。
いわば個人の人生のなかで、過去のなんらかの問題に蓋をし続けるかぎり、
本当に自発的、創造的な人生を始めることはできないように。

以下は、私自身が日本人として、
自分のなかに自発性と創造性を獲得しようとして、自分なりに考えてきたことだ。
いわば日本国憲法に対する、私個人の信条告白である。

私は、近代日本はきわめて特異な運命をたどったと考えている。

丸山真男氏が『日本の思想』という本のなかでこんなことを書いていた。
明治憲法を起草する際、ドイツに赴いた伊藤博文が、
ヨーロッパには国家の軸として「キリスト教」があることに気づき、
日本でそれに代わる国家の支柱として、天皇制に着目したというのである。

それによって、日本は東洋の国でありながら、
福沢諭吉の「脱亜入欧」という言葉のように、
西洋の一神教の精神を柱に近代国家を建設したのだと思う。
そして、実際に、西洋の帝国主義国家のように振る舞い始めた。

天皇は、一神教の神になったのだ。

湾岸戦争のとき、当時のブッシュ大統領が、
開戦前に牧師をホワイトハウスに招き、神に祈ったというニュースを印象深く覚えているのだが、
米国という国は、今でも「神の名のもとに」戦争をする。

日本は、天皇の名のもとに戦争をして、国民と他国の人々に多大な被害を与えて敗北した。

そのとき、天皇の「玉音放送」で人々がその声を聞き、
その後のいわゆる「人間宣言」によって「現人神」であることが否定されたことは、
日本人にとって、霊的に非常に大きな意味があったと思う。

天皇が一神教の神となり、その後、人間となる。
それは擬似的な「キリスト体験」とさえ言えるのではないか。

しかし、人間としての天皇は、戦争の責任を取ることを許されなかった。
私は、米国の日本支配への意図がもっとも強力に働いたのは、
むしろ天皇に責任をとらせなかったところにある、と思っている。

国家元首である以上、たとえその人に落ち度がなかったとしても、
その立場での責任は免れない。
しかし、天皇に責任をとらせなかったことで、
米国は、天皇が本当に人間になること、あるいはキリストになることを阻んだのだ。

もし天皇が責任をとることができれば、
日本人は今よりもはるかに自発性と創造性を発揮できていたと思う。

責任は「自我」の能力である。
責任を逃れていれば、一見、楽なようでいて、実は自我が弱められる。

日本の歴史のなかで、天皇は明らかに重要な位置を占めている。
それをどう定義しようが、日本の民族性は天皇抜きには語れないだろう。
その意味で、天皇は日本民族の「自我」だといえるかもしれない。
しかし、その天皇から、米国は主体性を奪ったのである。
そのことに一番苦しんだのは、おそらく天皇自身だったろう。

私は、「万人天皇説」ということを考える。
もし天皇が国民統合の象徴であるなら、私たち一人ひとりが天皇なのだ。
そのあり方を天皇が代表して、象徴している。

現実には、私たち一人ひとりが日本人を代表している。
私たちの振る舞いを見て、外国の人たちは「日本」の印象をもつ。

天皇から奪われた主体性は、
国民の側から取り戻していくしかない。
そのとき、現実の天皇も、より自由になるのではないか。

現行憲法が「押しつけ」だという人、
そして憲法の冒頭の天皇の言葉も、仕方なく書かされものだと見る人もいるかもしれない。

けれども、私は「深くよろこび」という言葉に真実を感じるのである。
もし強制されたとしたら、「深くよろこぶ」(rejoice)という言葉は使わなかったのではないか。

今の日本国憲法の内容は、天皇が国民の総意と受け止め、
深く喜んだものだった。

誰が書いたとか、押しつけられたという先入観を排して、
改めて無心に、憲法の序文を読んでみると、、
そこには当時の人々の「決意」と「誓い」がある。

現実に親しい人々を戦争で失い、
戦争を起こしてしまった、戦争を止められなかった人々の後悔と、
それでも未来に向かって、ふたたび日本を建設しようと誓った人々の決意が伝わってくる。

その人たちも、今はいない。
戦争で命を落とした人たちも、
この憲法を起草した人たちも、
昭和天皇も、みなこの世を去った。

けれど、この憲法は、彼らの言葉だ。
彼らの内面を通過し、彼らが認め、国家建設の理念とした言葉なのだ。

ルドルフ・シュタイナーという人に、
「すべて決意はひとつの力である」という言葉がある。
一度、決意したことは、私たちが間違いだと認識しないかぎり、
いつまでも力として生き続ける。
だから、決意した以上は、その成就に向けて努力し続けなければならないと。

私たちは、この憲法に書かれていることを間違いだと認識するだろうか。

憲法に書かれていることが、誰が言ったことなのか、
日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかは、実はどうでもいいことだ。
問題は、私自身がその内容に共感し、私自身の生き方の支えにできるかどうかだ。

私にとって、日本国憲法は、
自分がこの国に生まれてきた理由といえるほどに重要な理想である。

私には、この憲法の言葉から、
日本人だけではない、戦争に苦しみ、国家に抑圧された人々、
新しい国家建設に身を投じた人々の思いが、
地上を生きるものたちへの、死者からの委託として聞こえてくるのだ。

彼らのメッセージは、
主権は国家にあるのではなく、一人ひとりの個人にある、ということだ。
だからこそ、「国権の発動たる戦争」を永久に放棄したのだ。

今の政権が推し進めようとしている、集団自衛権も秘密保護法も原発も、
すべて国民が主権者であることを否定している。

そして、アントロポゾフィーにとっては、
一人ひとりの個人の意志のなかにこそ、人類の未来がある。

だから、私にとって今度の選挙は、
日本の未来だけでなく、人類の未来が問われているに等しい。

最後に、
どの候補に投票することが有利かという議論がよくあるが、
今の時点では、一人ひとりが自分の意志で投票することがもっとも効果的だと思う。
票を食い合うということは確かにあるだろう。
しかし、何より重要なのは、国民の意志が存在することを示すことだ。
最大の敗北は、私たちに意志がないと示すことだ。
私たちこそが主権者であることを示すことができれば、
未来につながると、私は考えている。

アントロポゾフィーからみた総選挙01

2014-12-06 07:03:04 | アントロポゾフィー
今回の衆議院選挙は、おそらく日本の現代史のなかでもっとも深刻な意味をもつだろう。

そこで投票日まで、アントロポゾフィーの観点から考え、その思考をここに書き連ねることにした。
こういう事態なので、自分の頭のなかをあからさまに書くが、丁寧な説明も省くので、
やや常軌を逸した奇妙な考え方が散見されることになるだろう。
その正しさを主張するつもりはない。誰か一人でも私の思考に触れて、一緒に考えてくれればそれでいい。
ただ、この選挙を無意識にやり過ごすことだけはあってはいけないと思う。

まずは最大の争点である「原発」。
アントロポゾフィーの観点から、もっとも重要に思えるのは、
エネルギーの起源である。
エネルギーとは生きることにほかならない。
考えるためにも、感じるためにも、体をつかって行為するためにも、エネルギーは必要だ。
原子力というと、その放射能という危険や、放射性廃棄物の問題が思い浮かぶが、
問題の本質は、私たちは何によって生きようとしているのか、ということだと思う。

アントロポゾフィーでは、古来からの人間の本能的直観を意識的に取り上げ、
世界を四大元素(地、水、風、火)で捉え直す。
それは、科学を否定して古代に戻るためではなく、
私たちの身体的直観をもって世界と向き合うためだ。

子どもが砂場で遊んだり、水で遊んだり、
凧を飛ばして風に触れたり、あるいは花火を楽しんだりするように、
根源的な遊びは、四大元素を結びついている。
人間は世界を地、水、火、風で体験する。

この四大元素は、エネルギーとも関連している。
水力発電があり、火力発電があり、風力発電がある。
そして、原子力は地(物質)による発電である。
しかし、きわめて特殊なのは、物質を人為的に破壊してエネルギーを取り出すことだ。

自然界には放射線が行き交っている。
物質のなかには自然に崩壊して、放射線を出しているものがある。
けれど、人間は意図的に中性子をぶつけて、原子核を分裂させるのだ。

古来、地球という物質の塊は次第に「霊化」していくこという考え方がある。
霊/精神というのはエネルギーのことだ。
エネルギーは物質へと凝縮し、役目を果たすとふたたびエネルギーへ還っていく。

物質とは、実はもっとも霊的な、「無私」の存在であり、
すべての生命を支えている。
ビッグバンと呼ばれる宇宙の始まりを、「意志」の爆発と見ることもできるだろう。
いわば「存在への意志」。
物質が存在を意志したからこそ、生命が発生し、今の私たちがいる。
物質のなかには「意志」が宿っている。

核分裂によって放出される放射線は、
きわめて神聖なエネルギーだ。
物質として存在する「意志」を否定されたエネルギーだ。
アントロポゾフィーから見れば、精神の力は死の力である。
私たちの体のなかでは、つねに精神=意識の力が生命を蝕んでいる。
あるいは、身体のなかで絶えず分解と死が生じることによって、
私たちの意識は成り立っている。

私たちは電力をつかって調理もするし、工具も使うが、
電力が一番似つかわしいのは、私たちの思考である。
夜、煌々と照明をつけ、パソコンに向かって作業する。
そのエネルギーを火力から得るのか、風力から得るのか、太陽から得るのか…

いずれにしても、それらはすべて自然から与えられるものだ。
けれど、原子力だけは、地を破壊してエネルギーを取り出す。

それは「地霊」を冒涜する行為だ。
そして、私たちの身体は物質でできているから、
物質を破壊して得たエネルギーによって傷つくことになる。

地球と身体はひとつにつながっている。
地球を傷つければ、私たちの身体が傷つく。

本当に霊的なものを感じる人は、
原子力に対して、物質の悲しみを感じることだろう。

本当の民族主義者は、自分たちの郷土で原子力を追求したりはしない。
本当に神を崇めるものは、物質を安易に破壊したりしない。
なぜなら、物質の中にこそ神が宿っているからだ。

原子力の危険はいうまでもないが、
霊的な意味でも、
個人に対しても、
民族に対しても、
地球そのものに対しても、
エネルギー政策の中心に原子力を据えようとする人たちは、
神聖なるものを踏みにじっているのだ。